第三部 手 紙 )
 その日を境にしてぼくと友人との間に、目に見えないバリアのようなものが張られた。ぼくの気持ちのなかに嫌悪感が生まれていた。おのれの馬鹿さ加減を見せつけられるようで、友人の顔を見ることができなくなった。そしてそれは友人にとっても同じことのように感じられた。廊下の先で見かける友人は、すぐに曲がってしまう。別棟の校舎に向かうこともあれば、他のクラスに入り込むこともあった。二人の間に流れたぎくしゃくとした空気は、卒業するまで消えることはなかった。
 二十歳になったばかりの時だった。突然に友人の母親から電話が入った。
「実はね、聡が他界しました。一度目の折には蘇生してくれたのに、今回はだめでした。もう大丈夫だと思っていたのですけどね。病状の悪化で入院して……」
 最後は涙声になって、聞き取れないまま電話が切れた。すこし前に友人の母親に懇願されて見舞いに行った折には、たしかに現実と夢の区別がつかないようではあった。どうにもとんちんかんな会話になってしまった。自分の都合の良いように話を作ってしまっていた。
「僕の作った『クラスの歌』を、みんなで歌って楽しかったね」
「へび女、覚えてるかい? いまどうしてるだろう。元気に暮らしているだろうかね」
 結局、友人との和解はできずじまいだった。最初でさいごの友人だった。生来の引っ込み思案と、会話下手があいまって、どうにもうち解けた話ができない。いや、そうじゃない。自分の意見をもたないから……。でも、だけど、彼との会話が成り立たなくても、ぼくは彼との時間が好きだった。ただだまって、彼の声をきいているだけで、ぼくは満足していた、はずだ。
 ぼくは釈然としない思いをいだきながら、いまもいる。もっとしっかりと話を聞いてあげればよかった……。そしてしっかりとぼくの思いを伝えればよかった。
「たのしかったね、あの祭りの夜は」
「あのときから、ぼくたちはマブダチになったんだよね」
 告別式からしばらくして友人の手紙がとどいた。お母さんが、机の中から見つけてくれたものだ。どうやら、入院する前日に書いていたらしい。
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 新一くん、元気ですか。
 突然にこんな手紙が届いて、さぞかしびっくりしただろうね。考えに考えたあげくのことなんだ。きみにだけは、ぼくの気持ちを分かっていて欲しくて。母さんに話しても、たぶん泣くだけだろうと思うんだ。いや、本音を言えば、母さんには知られずにいたいと思う。こんな弱いぼくだなんて、絶対に知られたくない。お願いだ、新一くん。母さんには内緒にしていて欲しい。

 覚えているかい? もちろん覚えているよね、あのへび女のこと。あの件で、唯一の親友だったきみを失ってしまったんだ。きみのひと言はこたえたよ。そんな風に考えていたなんて、ぼくにはほんとに思いもかけぬことだったから。いちじはね、きみを憎んだりしたんだ。きみ、なんて言ったか、覚えてる? 案外、覚えていないかもね。
「ぼく、帰る。こんなの、やっぱり変だよ」って、怒ったように言ったんだ。そしてさっさとひとりで帰ってしまったんだぜ。分かる? そのときのぼくの気持ち。自分の馬鹿さかげんに腹を立てていたんだ。冷静に考えれば、へび女なんて存在しないことぐらい、すぐに分かりそうなものなのに。いや分かっていたのかも、案外に。きみと別れる淋しさが、あんな行動を起こさせたのかもしれない。

(ぼくが先に帰ったのではない。友人がさっさと帰った。「こんなことありえない」。そうなん度も呟きながら、友人はひとりで帰った。友人は右のこぶしで左の手のひらを何度もなんども叩いていた。そのときひとり取りのこ残されたぼくは、ただ呆然と立ちつくすだけだった。そのときのこころ細さは、強風のさ中に断崖絶壁に立たされたような恐怖心にも似ていた。ときおり見せていた友人の冷酷さを、あのときほど思いしらさられたことはない)

 中学時代、虚無感におそわれていたぼくでした。父親の浮気問題で家庭がこわれちゃっててね。なぜ父親が家をでるほどのことになってしまったのかは、ぼくには分からない。たしかに口論をしている場面にであったことはあるけれど、ボクが居ることに気がつくと、両親はすぐに互いにそっぽをむいてしまっていた。
 それなのにだよ。食卓にね、何日も帰ってこない父さんの分まで用意する母さんなんだ。そして毎晩、ぼくに「お父さんはね、あなたを捨てたの」って、言うんだ。「あなたが悪い子だから、帰って来ないのよ」って言うんだ。毎晩毎晩、言われつづけたんだ。
 でね、ベッドに入るとね、ぼくにね、もうひとりのぼくが言うんだ。
「お前は父さんだけじゃなくて、母さんにも捨てられたんだ。悪い子は、みんなに捨てられるんだ」
 何もかもが灰色に見えて、信じられるものがなくて…。いやそうじゃない。灰色とか何色とか、そんな色すら感じていなかった。そんなぼくだった。

 新一くん、覚えているかい。二年生のときだったね。クラス替えで一緒になったぼくたちだったね。ぼくが前できみが後ろだった。いや、ちがうか。となり合わせだったね。何列目だったっけ? 真ん中あたりだったと記憶しているんだけど。まだ卒業して五年だというのに、もう記憶があやふやになっている。情けないね。
 体調をくずして給食を吐いてしまったぼくのことを、席がとなり合わせたというだけで、きみは助けてくれた。嬉しかった、ほんとに。君だけは信じられる、そう思ったんだ。他人との交わりをわずらわしいものとして敬遠してきたぼくだけど、きみだけは唯一こころを許せると思ったんだ。それで、きみとの友情を揺るぎないものにするために、へび女救出大作戦を考えたんだ。

 じつを言うと、あの見世物小屋には以前にいちど行っているんだ。そしてその時にもう考えていたんだ。だけど信じてほしい。最初は、ほんとうに純粋にへび女の存在を信じていたんだ。狼少年の話、覚えているだろう? あり得ることだなんて、あんな子どもだましのことを信じちゃっていたんだ。
インドだったっけ? 先生のはなしで、どこかの駅で見つかったとかなんとか。だからね、本当に助け出さなきゃ、と思ったんだよ。けどね、2日3日と経つうちに、嘘だと思えた。下見をしたんだよ、じつは。あの小屋での車座の光景も見ているんだ。だまして悪かったよ。

(思いもかけぬ告白だった。信じられない思いだった。と同時に、彼ならばやりかねないとも思った。ぼくをだまして笑いものにするといった悪意のあるものではなく、彼が言うように親友としてゆるぎない友情をはぐくむための事件作り、冒険談にしようとしたのだと、しっかりと受け止められた。うれしかった。ちびで太っちょの体型のせいで、いつもみんなから一歩遅れの動作しかできないぼくを、彼は「急がなくていいから」と待っていてくれた。嫌いだった体育の時間も、彼のおかげで好きとまでは行かないかけれども、嫌いではなくなった。そんなぼくが、いまでは背丈も伸びて太っちょの体型から脱出できたんだ。高校の担任に勧められて入ったバスケットのおかげだ。そして彼のおかげもあると思う。
「なにかの運動クラブに入ってみたら?」
 たしかに、彼に声をかける者はすくなかった。女子生徒からの声かけが、少なからずあったように思える。でついでに、ぼくに対しても「元気?」という声かけを女子生徒がしてくれた。案外そんなところから、男子からの声かけがなかったのかもしれない。男子生徒たちの、やきもち? ただ、上級生からは一目をおかれていた。成績優秀な彼のことだ、当たり前のことかもしれない)

 ごめん、ごめん。
 きみが聞きたがっていること、そしてぼくが一番話したいことを、これから書くよ。ぼくね、いちど死んでるんだ。でも生き返ったんだ。ぼくは暗い井戸に落ちたんだ。どんどん沈んでいくんだ、水の中に。でもね、ちっとも苦しくないんだよ。「もう少しだよ、もうすこしだよ」って、声が聞こえるんだ。ううん、声じゃない。違うな、聞こえたんじゃないかもしれない。感じたっていった方が良いかもしれない。
 で、つぎには足を引っ張られるような気がした。ぐんぐん速度が増していく感じだった。そうだな、井戸の大きさは……直径は 1m ぐらいだったかな。両手を広げれば十分に壁につくと思うよ。だから力を入れれば、そこで止まれたかもね。でも、しなかった。でもね、怖くはなかったんだ、不思議と。死ぬという感覚がなかったんだ。

 でそのとき、声が聞こえたんだ。はっきりと、声が。「聡、聡。戻ってこい」って。たしかお父さんじゃなかったかな。返事をしなかった。ぼくのことが嫌いで、ぼくのことなんかどうでもよくて、それで家を出て行ったお父さんのことは、もうなんとも思っていなかったから。だから、どんどん沈んでいった。
「さとしちゃーん、さとしちゃーん! もどってらっしゃーい!」
 こんどは、お母さんの声だった。ぼく、つい「はーい」って、こたえちゃった。そしたら、体がふわーって、浮きはじめたんだ。足にからんでいたものも、すっと取れた。で、どんどん浮いていくんだ。沈んでいったときより、もっとはやい速度でさ。新幹線よりはやかった。どんどんはやくなって、息もできないくらいなんだ。でも、ちっとも苦しくなかった。でね、とつぜんに、ずんと体がおもくなって、ふーって息をして目を開けたら、お母さんがいた。わーわー泣いて、ぼくを何度もなんども叩くお母さんがいた。でもいたくなかった、うれしかった。

 きのうね、また声が聞こえたんだ。
「もういいのよ、さとしくん。もうがんばらなくても、いいんですよ。まってますからね」
 あれ、天使の声だよ。きっとそうだ。だって、すごくやさしくてあたたかかい声だったもん。でね、そのあとにね、べつのこえがきこえてきた。
「つらかったろう、こころがいたかったろう。もういい。もうおわりにしていいんだからね」
 そんな声が聞こえてきたんだ。きっとあの声は、神さまだよ。やっぱりいらっしゃったんだ、神さまは。ぼくはきっと神さまのお許しをいただいたんだ。だからね、休ませてもらうことにした。大丈夫。今度目が覚めたら、きっと違うぼくになっているから。元気な強い子になっているから。
 そしたらまた、ぼくの親友になってくれるかい? いままでいろいろとありがとう。そして、ごめんよ…
                                                       松田 聡
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 お母さんの話では、病気を苦にしていたとのことだ。
「一生を病人で過ごしてわたしに迷惑をかけるくらいなら、と自殺をはかったんです。この子は、あなたもご存じのとおりに、とても気のやさしい性格ですから」
 そしてまた、こんな話も。
「元気でいてほしい、健康であってほしい、そう思いますよ。でもね、いざこうなってみると、親としてはどんな形にせよ、生きててほしいんです。たとえずっとベッドの中にいることになっても、やっぱり生きててほしいんです。それがあの子にはつたわらなかったのでしょうか…。それとも、これがあの子の復讐だったんでしょうか。母親であるわたしに対する復讐だったんでしょうか」
「のぞまれない子どもだったんだ」と、苦しげに告白した友人。真夜中に両親のそんな会話を聞いたという友人。そのことを告げると、目にいっぱい涙をためて悲しげに
「あれは叔父夫婦のことなのに。聡も納得してくれたのに。あたしが信じられなかったのでしょうか」と話された。
 両親に愛されなかったことが、いやそう思ってしまったことが、友人を苦しめたんだ。そしてぼくに救いを求めてくれたのに…。そのぼくが離れてしまい、絶望の淵に立たされたのだろうか。
 友人は、生きていくことに疲れてしまったのだろう。いちどならず二度も、自殺をこころみるなんて。神さまのお許しをえたから、もういちどだなんて…。でも、また生き返るつもりだったのだろうか。一度リセットするつもりだったのかい?
「こんど目が覚めたら、きっと違うぼくになっているから。元気な強い子になっているから」
 あるいは、お母さんのことばが正しいのかもしれない。多分そうなのだろう。病気が彼を苦しめ、精神的重圧となったのだろう。
 ごめんね、ごめんね、聡くん。きみの気持ちに気づかずにいて。ぼくも、聡くんとの友情を、ほんとは取りもどしたかった
以前のように、バカ話をしたかったよ。そして、やっとできた彼女を、静子を紹介したかったよ。
 だけど、そのきみは、もう、この世にいないんだね。 いないんだね、もう…。ごめんね…ごめんね…