第四部 えそらごと )
 午前八時二十分、始業時間十分前だ。
 三階建てほどの高さのある倉庫の前で、二十人近い人間が整列している。のりの効いた作業着を着た社長の甥である部長が「始めえ!」と号令をかけた。
 ラジカセから流れてくるラジオ体操の声に合わせて、皆が体を動かし始める。(ご苦労なこった)と思いつつ、二十歳の誕生日をつい先日に迎えた彼も、いかにもだるそうに小さく体を動かし始めた。(ああ、かったるい)。体を反らしたときに見えた空が、今朝は快晴だ。ジリジリと焼け付く日差しが、もう届いてくる。(今日もきつい一日になりそうだ)。そんな思いを抱えながら、彼の一日が始まった。
 五十坪はあるだろう倉庫前での定例行事になっている体操に、(どうして大人はこんなにも従順なのかねえ。勤務時間に繰り入れられない十分間だぜ。これは、資本家による搾取そのものじゃないか)という思いが彼の中に膨らんでいる。
「なんで倉庫の中でやらない? 夏は暑いし冬は寒いし、最悪だぜ。『昔は乾布摩擦をしたもんだ』って言うけどさ、時代が違うでしょ。軍隊じゃあるまいし。戦争が終わってもう三十年以上経っているんだぜ、まったく」と、同僚にこぼしたことがある。
 当然に、「そうだよね」という言葉が返ってくると思っていた彼に、「体を動かしておかなきゃ、すぐに機敏に動けないだろ。そんなの、当たり前だよ」と模範解答が返ってきた。(あいつのマジメさには、馬鹿がつくぜ)。そんなやりとりを思い出した。次第にラジカセから流れる声とにズレが生じ始めて、隣の社員が大きく広げた手に、飛び跳ねた足がもつれてしまった彼の体が当たってしまった。見咎めた部長から「おい、そこ。キビキビとやりなさい!」と、声が飛んできた。みな一斉に振り向いて彼を見た。
(何でだよ、おれ以外にもかったるそうにやってる奴、いっぱい居るだろうが。というより、ほとんどみんな、そうだろうが。マジメにやってるのは、あんたとあいつだけだろうに。ジョーダンじゃねえぞ。くそ、もう辞めてやる!どうせ仕事に嫌気がさしているんだから。何でかって? そんなもん…)。すぐには思い浮かばない彼で、少しの間を置いてから、どす黒く留まっていた澱(おり)を吐き出した。
(仕事で使う車が軽自動車だということだよ。出足・加速・クッション、全部最悪なんだよ。まったく腹が立つ。何だそんなことかなんて言われたくないね。一日中車に乗ってる身にもなってみろよ。へたすると昼飯だって、パンをかじりながらとかおにぎりをほおばって走らせてるんだから。その上に、車の乗り方で上司にねちねちと小言を言われているし)
彼にも言い分はある。荷物のさばき量は彼が一番だ。しかしそれを口にしては経費がかかりすぎだし、事故らないかと気をもませられると、更にお小言を頂戴してしまう。確かに交差点での発進でゼロヨンスタートまがいにアクセルを噴かすことはある。角を曲がる折りにもタイヤを軋ませながら速度を出来るだけ落とさずに曲がろうとする。けれども事故の経験はないと胸を張る。そんな時に必ず引き合いに出されるのが、彼がマジメ人間だと称する岩田のことだ。丁寧な仕事ぶりが主任に評価されているが、若者らしさがないと彼は思っている。
昨日のことだ。珍しく岩田との車談義になった。性能云々ということではなく、無謀運転だと岩田には映っている走り方についてだ。
「罰金に、下手をすれば免停だよ。大損じゃないか」と諭すように言った。噛み合わない会話だと知りつつも、なんとかへこましてやろうと、ムキになって反論する彼だ。
「あんたのような模範生じゃダメだ。この気持ちが分かるはずがない。追い越しなんかで意地悪されるだろ」
「そんなことはないさ。ちゃんと、交通法規通りに走っているんだ、大丈夫だよ」
「分かってないな、法規なんて破るためにあるんだぜ。ポリスという職業がある以上、誰かが違反しなきゃ。そうでなかったら、ポリスさんたちの存在意義がないだろうが。我々青年はだ…やめた。あんたにこんなこと言っても始まらない」
 いつもこの調子で口論となる。朝などにこれをやると一日が重苦しい気分になってしまう。ただ単に朝の声かけだけで済ませてしまえば、口論などになることはないはずなのだ。なのにどういうわけか……。
 同世代は、この岩田という青年のみだ。殆どが三十代以上の社員たちだ。なので必然彼と岩田が近づいてしまう。しかし彼は岩田が嫌いではない。口論にはなるが会話自体は楽しいものだと思っている。石部金吉と称される岩田が、彼は気に入っている。

 伝票が出来たぞ! と声がかかり、二人して倉庫の二階にある事務室に入った。中二階の造りで事務をする人間には不評な一室だ。広さも八畳ほどで、そこには女子事務員が三人と課長が陣取っている。そして社長夫人が経理担当としてにらみをきかせている。主任の席もあるにはあるのだが、一階の入り口近くに机を置いて差配している。現場での仕事が多いからというのが理由なのだが、社長夫人が苦手だからさと噂されている。
 カウンター代わりの事務棚の上に小箱が置いてあり、担当者別に伝票が仕分けされている。それぞれに伝票を受け取り、部屋を出たとたんに岩田が「増田商店の本田さんが寂しがっていたよ」と、彼に耳打ちした。昨日急な注文が入り彼の代わりに岩田が届けた言う。にやついた表情でも見せれば冗談かと受け止められるのだが、能面のように無表情では本当なのかと思える。彼はといえばふんと鼻を鳴らして無視する態度を見せているが、眉を八の字にしながらも口元が緩んでいる。内心の嬉しさを隠し切れていない。
 
 益田商店に着くと「まいど!」と、大声で怒鳴るように叫んだ。間口は七、八メートルほどで奥行きがしっかりある店内で、入り口近くには誰も居ないのが常だ。いつもは事務室でふんぞり返っている部長が、今日は陳列してある商品の確認をしていた。彼の声に気付くといつもの仏頂面で、あごをしゃくり上げて二階へとの指示が出た。その二階には岩田が耳打ちした、あの本田という女性がいる。「失礼しまーす」と声をかけて、事務室横の階段を上がる。階段途中で少し耳たぶを赤くした彼が、また「まいど!」と声を張り上げた。
 二度も同じ言葉を発して何をくだらぬことをと思いつつも、いつもそうだ。要するに、まいど以外の気の利いた言葉が出てこないのだ。主任からは、お世辞の一つも言ってこいと言われてはいるが、どうにも思い付かない。まいどと言う言葉すら、先輩社員の助言で覚えた言葉なのだ。当初は蚊の泣くような声で「こんにちわ」と入った。それはそれで初々しいと当初は好感を持たれていたけれども、ふた月も経つと、営業に「まだ慣れないみたいだな」と笑われてしまった。
 先日のこと「配達の折に注文の一つも貰って来い」と言われた。(ジョーダンじゃない! その分の給料はもらってないぞ)と心内で毒付きながらも「はあ…」と生返事を返してしまった。(情けない)と己を責めるが、先々月に買ったコンポーネントステレオの月賦支払いがあり、今は辞められない。今朝の勢いは、すぐに溶けてしまうアイスキャンディーのようなものだ。

 いつもならば「ごくろうさま!」と返ってくるはずが、今日に限って何もない。鎌首をもたげて覗き込んだ。一望できる仕切りのない作業場には、誰も居ない。誰かしらが必ず居るのだが、どうしたことか今日は無人だった。部屋はだだっ広い空間で、壁には諸々の治具が掛けられている。ステンレス製の定規が長短あわせて五種類があり、ハサミも大きな裁ち鋏から小鋏まで七種類がある。製図用の横幅のある平机には三種類のアイロンが置いてあり、使い道の分からぬ小物治具が何種類かある。そして階段を上がりきった角に、彼の天敵であるパターンやらハトロン紙が置いてある。それらを車に積み込む折に、無造作に放り込んだところを主任に見咎められた。破れやすい紙類の扱いについては、特に扱いを注意するようにと、常々言われていた。それを怠ったと叱られたのだ。
 部長の受領サインを貰えば済むのだけれども、やはり待つことにした。岩田の言が頭から離れず、といって信じられないという気持ちもまた消えずにいた。昨日も一昨日も顔を合わせているけれども、岩田の言う素振りは一度として見たことがない。好意を持たれていると感じたこともない。だけど…と思ってしまう自分が情けなくもあり可愛くも感じる。
 仕方なく、窓から外の景色を眺めた。相も変わらず激しく渋滞しながら、車が行き交いしている。車の保有台数は、全国的にも多いと聞かされている。家内工業が多いせいだろうと、教えられた。だから運転には気を付けるようにと、毎日の朝礼で訓示される。(車が半分に減ったら、確実に事故が増えるぞ。減ることはないって。岩田は減ると言うけど、絶対に増える。、車が多いからこそスピードが出せないんだから)。そんなことを考えていると「ホント、車が多いわね。半分くらいに減ったら、事故も減るでしょうに」と、本田が近付いてきた。背筋に水が流れた直後のように背筋を伸ばして「そ、そうですね」と答えてしまった。
 何と言うことだ。実に情けない。裏腹のことを答えてしまったと、自分に腹が立った。しかも、卑屈にもうろたえてだ。昨日までは何も意識していなかった彼女の存在が、今はドギマギさせる。伝票にサインをもらうと、それ以上の言葉を交わすでもなく、そそくさと店を出た。
 本田は、美人でもなければ不美人というわけでもない。彼の好みかといえば、そうでもない。というより、彼には好みそのものがない。年齢は不確かだけれども、彼よりは上だ。といって年上はいやだ、という気持ちはない。彼にとっての異性は漠然としたものであり、実体がないのだ。
 生まれてこの方、女と名の付く人種との会話といえば母親ぐらいの彼だった。
 幼児期は「人見知りの激しい子でして」。
 小学生時代には「恥ずかしがり屋さんで困りますわ」。
 中学に入ると「愛想のない子でして」。
 そして高校時代に、唯一訪れた機会を失ってしまった。通学時にバスが同じになる女子生徒が声をかけてきた。ただ単に「おはよう!」という声かけだった。「おはよう」なり「ああ…」と返すだけでも良かったのだが、突然のことに頭が真っ白になり、返事をすることもなく横を向いてしまった。彼としては悪口雑言を浴びせたわけでもなく、少しの邪険な態度をとっただけじゃないかと思っていた。しかし女子生徒にとっては、衆人環視の中で受けた屈辱でありいたたまれないものだった。わっと泣き出してその場にうずくまってしまった。以来、彼に声をかける女子生徒はいなくなった。
 
 外に出ると、空はカラリと晴れ渡っている。ジリジリと刺すように日差しが届いている。突然に、車に乗ることに嫌悪感を感じた。(仕事なんかやってられるか)という思いが湧いてきた。これまでにも仕事を投げ出してしまおうかと思ったことはあった。しかしそれをすれば会社をクビになることは自明の理であるし、それ以上に社会からの脱落を意味すると分かっていた。それより何より、なぜ今、そのような気持ちに襲われたのか、言いようのない不安に胸が押しつぶされそうになっているのはなぜなのか、そのことの方が彼を苦しめた。
 中学時代に愛読というより狂気に近い思いで読み漁った芥川龍之介が思い出された。その作品群ではなく、その死に様が彼に遅いかかってきた。ぼんやりとした不安に坑することができなかったと書かれた遺書の文言が頭をかけ巡った。両親の離婚という不遇に遭ったとしても、母親に「父親に捨てられた子」と夜ごとに詰られたとしても、彼の将来がすべて崩れ去るわけではない。(ぼくはぼくだ)との思いを常に持った彼だったし、(神さまはぼくの味方だ)と言い聞かせてきた彼だった。
 自殺の真似ごとをして母親に彼の孤独感を訴えた折も、神さまは彼の味方をしてくれた―と彼は思っている。母親が不眠を訴えて、かかりつけの医院から受け取っていた睡眠薬をすべて飲んだ彼だったが、母親の自殺を懸念した医師によって、万が一に処方した全量を一どきに服用したとしても最悪の事態は避けられるだけの量に調節されていた。己だけが苦しんでいるのではないと気付いた母親は自責の念を抱き、号泣しながら彼を抱きしめた。とそのときに、彼の中のなにかが弾けた。母親に抱かれた彼はただの肉塊となり、透明な彼が空(くう)に出現した。「ごめんね、ごめんね」との声にも透明な彼は何の感慨も持たない。ただ見下ろすだけだった。冷徹な視線を投げかけるだけだった。(今さら…)そんな思いだけが彼の中に残っていた。
 
 店に戻ってダメ元だと思いつつ、「いつもに比べてエンジン音が違っているし、アヒルの鳴き声みたいなんです。それに、ブレーキの効きが悪くなってますし…」と主任に車の異常を報告した。
「音だって? お前さんの運転ではうるさいわな。ブレーキ? そんなことは自分の自慢の腕でどうにかしろ。急ブレーキをかけなきゃいいことだし、サイドにしたってギアをローに入れておけば問題ない」と、予想通り相手にしてもらえなかった。
(ケッ、何とまあ調子のいいことを。自分の腕でカバーしろだって。いつも『人間の勘とか腕だとか、そんなものに頼ってはいかん。おかしいと思ったらすぐに報告するように』なんて、いつも言ってるじゃないか)。心内で愚痴りながら、後ろ向きの姿勢で思いっきり舌を出した。
 苦笑しながら話を聞いていた事務員の一人が「また叱られたわネ」と声をかけてきた。口を尖らせながら「別に」と答えて「明日の休み、車でスカッとしようかな」と、(借りられるよう、頼んでくれるかな)と目で合図した。元来女性との会話が苦手な彼なのだが、不思議に五歳年上の女性事務員の貴子とは苦にならない。いつも軽口をたたき合っている。「社長令嬢だよ、仮にも。少しは言葉遣いを考えたら」と岩田が忠告するが、「関係ねえよ、そんなの」と受け合わない彼だ。
「いいわよ。但し、私も連れてってよ。そんな怪訝そうにしなくていいの。私だけじゃなく、もう一人いるの。新入りの真理子ちゃんもよ。一人では恥ずかしいから、三人でのデートをしたいんですって。この、色男が!」
 突然のことに何と返事をしていいのかわからず、ただドギマギして口ごもってしまった。
「じゃあ、明日十時に会社の駐車場ね。そういうことで、キマリ!」
 一方的に取り仕切られて終わった。自分の行動を他人に仕切られることを極端に嫌う彼だが、今回は違った。自分の決断ではなくても腹が立たない。すでに頭の中では、明日の走るコースを色々と思いめぐらせていた。真理子という娘は、一週間ほど前に入って定時制高校に通っている。定時よりも早い五時に退社し、自転車を駆って通学している。入社初日に自転車の都合が付かず、手の空いていた彼が車で送ることになった。
 むっつりとした表情を見せながらの、十分間ほどのデートになった。真理子は「すみません」と少し掠れた声を出し、申し訳なさそうな顔付きを見せた。彼はといえば「仕事の内だから」と不機嫌な声を出しつつも、口元が緩んでいる。目がくりくりとしていて少し団子鼻のところが彼には可愛く見える。おちょぼ口なところも愛らしく感じる彼だ。親元を離れての集団就職で、今年十六歳になっている。初めの職場では人間関係がうまくいかず、学校の斡旋でこの会社に入ってきた。社長令嬢でもある貴子がお姉さん代わりに何やかやと世話を焼いている。
 日曜日、天気はカラリと晴れ渡った。普段ならば昼近くまで白河夜舟のくせに、少し開けておいたカーテンの隙間から差し込んだ太陽の光で、平日よりも早い七時に目が覚めた。足下の壁に貼ってあるカレンダー写真の大きな鉄砲百合がニッコリと微笑みかけている。「良かったね、楽しんでね」と呼びかけられた気がして、浮き浮きとした気分でベッドから飛び起きた。
 朝食もそこそこに、約束の十時より一時間も早く会社の駐車場に着いた。毎日使っているからと、週末には必ず洗車をしワックスがけもしている車から「早いね」という声が彼に聞こえてきた。苦笑いを見せる彼で「二度塗りすると色が沈みこんできれいですよ」とガソリンスタンドでアドバイスされたことを思いだし、もう一度ワックスがけをすることにした。その後エンジンオイルの確認をして、車内の掃除も念入りにした。少し離れた場所から改めて車を眺めると、確かにグレーの色が沈み込んだ状態になっている。思わず「渋いぜ」と口にする彼だった。
 十時少し前を、最新型の腕時計が指している。彼の自慢の腕時計だ。どうせ買うならやはり良いものをと、セイコー社の高級品を購入した。「どうだい」と見せびらかす彼に対して、眼鏡店で買ったことに対し「どうしてそんなところで」と、会社で散々に馬鹿にされた。
(俺だって○兵が安いということは知っている。だけど……)
「俺が安く買うという事で、小売りに問屋そしてメーカーの全てで利潤を圧迫することになる。そしてそのことで社会全体の利潤が少なくなり、巡り巡ってうちの会社の利益低下を招く。そしてそれは、俺の給料に影響してくる。だから○兵はやめた」と、岩田に言い張った。実のところは、その眼鏡店に美人の店員が居ると噂に聞いたことからなのだが。しかし、噂はやはり噂だ。
「お待たせえ!」という声に、体中を緊張感が走った。すぐにもふり返りたい思いを抑えて、「思ったより早かったね」と、ゆっくりと体を回した。貴子が一人だけで手をふっている。話が違うじゃないかと落胆の色を見せる彼に対して
「心配しないの、真理子ちゃんはお買い物中。お弁当は作ったけど、デザートの果物が欲しいんですって。あそこのスーパーで待っている筈よ、心配ないって」
 と、苦笑いしながら車に乗り込んだ。
「別にそんなこと……」
 と、不機嫌に口を尖らせた。大きな音を立ててドアを閉めて車に乗り込むと、力まかせにギアを入れて発進させた。暖機運転はしっかりとしている筈なのに、今朝のエンジンは機嫌が悪い。ヨタヨタとした走りで少しもスピードが上がらない。不本意ながら、チョークを一杯に引いた。エンジンが急激に元気になり、スピードが乗った。ところが少し走ってすぐにエンストしてしまった。駐車場から公道に出る直前だったことが不幸中の幸いだった。平日ほどではないにしても、車の行き交いはあるのだ。今も一台の車が通り過ぎた。
「なに、どうしたの? 下手ねえ。もっとスムーズに運転してよ。点数、下がるわよ」
 眉間にしわを寄せて、貴子が注文を付ける。(あんたの体重のせいだよ)と、心の中で悪態を吐きながらも「はいはい、お言葉通りにしますよ」と、答えてしまった。
 何度かセルモーターを回してみるが、一向に機嫌が直らない。キュルキュルという音が、空しく車内に響く。吸い込みの状態になってしまったと気付いた彼は、アクセルを二、三度踏み込んだ後に、改めてセルモーターを回した。
 ようやく走らせることができたと思った瞬間に、またしてもエンストしてしまった。暗澹たる気分のまま視線を落とすと、ギアがサードに入っている。(これじゃ、エンジンが怒って当然だ)。舞い上がっている自分に対して「落ち着け、落ち着け」と小さく呟きながら、深呼吸を二度ほど繰り返した。
 ラジオから、♪恍惚のブルースよ♪と、流行りの歌が流れてきた。ルームミラーの中には、まだ眉間にしわを寄せた貴子がいる。(外国の歌が好きだった)と思い出してボリウムを落とすと、ようやく険が消えた。普段ならば貴子から話しかけてくるのだが、彼が激しいドアの閉め方や乱暴なギア操作をしたことで(怒った顔に見えたかもな)と悔やむ気持ちになった。

 昨夜のことだ。ひと月以上も前に別れを切り出された相手から「やり直そうか」と、貴子に電話が入った。なによ今さらと答えつつも、未練の気持ちがある貴子に異はない。「あの娘(こ)は連れてくるなよな」と詰問調に言われると、心内ではそうよねと納得しているのに「わたしの妹なのよ」と反発してしまう。キスもできないじゃないかと反駁されると、黙らざるを得なかった。激しい口論の末に、悲しみとも怒りともつかぬ思いが貴子の中に充満した。その思いが彼に向けられたものなのか己に向けられたものか、それすら分からぬままの朝を迎えた貴子だった。
 とにかく少し考えてみるからと電話を切ったものの、真理子を一人にするわけにはいかないと考えてしまう。前の職場で受けた傷がまだ癒えていないのだ。二十代後半ばかりの女性社員の中にただ一人、十五歳の地方出身者の、初々しさいっぱいの少女が入った。男どもにちやほやされていい気なものよねと、妬(ねた)みの対象になってしまった。小さなミスを針小棒大にあげつらわれてトイレに駆け込む真理子だったが、甘えるんじゃないわよとしつこく追いかける女子社員すらいた。鬱状態寸前まで追い込まれた真理子が助けを求めたのが定時制高校の女性担任であり、今は貴子となった。そんな真理子をこのまま突き放すわけにはいかない。といって貴子の私生活すべてを犠牲にすることはできない。そして思いついたのが、真理子に男友だちを作ることだった。
 内気で奥手だとは分かっているが、仕事中に時折見せる笑顔は、本来の真理子は明るい子なのだと感じさせるものだった。今はやはり、前の職場でのいじめから抜け出せていないと感じずにはいられなかった。なんとしても環境を整えてやらねばと、強く思う貴子だった
 会社への出勤は貴子の車に同乗してのことであり、異性と出会うことはない。助手席にチョコンと座り、さながらお人形さんのようにただじっと前を向いている。借りてきた猫状態ならば、持ち主の手許に返れば甘え出すこともあるだろうと思う。今の真理子がそうなのかどうなのか、貴子には判断できない。
 高校の担任に学校での真理子を確認すると「以前にくられば、格段に元気になりました。男子との会話は、昔からありませんね。女子にしても、特定の生徒だけですね」との答えが返ってきて、同級生の線も消えた。なにかきっかけがあれば、と思案するがどうにも思いつかない。

 いっそ会社内でと見渡すと、格好の二人がいた。ではどちらが……と考えたときに、岩田が真っ先に候補に挙がったが、真面目すぎるのよねと打ち消す気持ちが湧いた。次に彼では? と考えてみたが、あまりに違いすぎる性格に思えてしまった。考えあぐねた末に、真理子自身の気持ちを確かめることにした。
「もしもよ。もし真理子ちゃんが誰かとデートするとしたら、どんな子がいいかな」
 特定の人物を指すのではなく、理想の男性像として聞いてみることにした。
 しかし真理子の口からは「あたしなんか、だめです。そんなこと、考えられません」と、真理子の策略に気づいているのか? と疑いたくなる言葉が返るだけだった。
 しつこく問いただしては貴子に対する警戒心が生まれてしまうと考えて、しばらくは話題に上らせなかった。そんな折に、もう一人の事務員が平日に休ませて欲しいと願い出た。理由を聞いても即答はせずに言葉を濁したため「デート?」と聞き返すと、顔を赤くして頷いた。すると真理子が「あたしもしてみたいなあ」と漏らした。その言葉を聞き逃さずにいた貴子の説得によって、やっと真理子から「それじゃあ……」と、前向きな気持ちを引き出した。
 あの二人の初デートなのよと己に言い聞かせるが、どうしても胸に溜まったどす黒い澱が消えない。こんな気持ちのままでは久しぶりのお出かけを楽しむことは出来ない。派手な色の服でも着込めば明るい気持ちになるかもしれないと思う。しかしそれでは真理子がかすんでしまう。たぶんあの娘(こ)のことだから白いブラウスと薄いベージュのスカートだろうと思えた。
(わたしがコーディネートしようかしら)。そう思いもしたが(出しゃばりすぎるのもよくないわね)と、真理子に任せることにした。でなければ、デートの度に真理子の世話を焼かなくてはならなくなる気がしたのだ。(それにわたしの趣味と真理子ちゃんのそれでは、違いすぎるだろうし)とも思えた。
 突然に、昨年のとんでもない勘違い女に出くわした結婚披露宴が思い出された。新郎側の親戚だとかで、行き遅れてしまった三十代半ばなのよと聞かされた。冗談交じりの「披露宴で相手を探したら」という新郎の言葉で、大きく肩を出したフリル付きのドレス姿で出席した。新婦がかすむほどの深紅色に、出席者全員が眉をひそめた。そんな愚行を犯すわけにはいかない。(引きずっちゃいけないのよ。あたしのことなんだから、二人には関係のないことなのよ)。ドレッサーに映る己に言い聞かせて、唇に赤い線を引いた。

 交差点での信号待ちで、話に興じながら歩く三人グループの十代のファッションに、突然貴子が噛みついた。胴長短足の日本女性にはミニスカートは似合わないという持論を滔(とう)滔(とう)と話し始めた。西洋の女性が似合うのは長い足と細さを持っているからよと、ため息混じりにことばを吐いた。現在(いま)のわたしたちでは哀しすぎるわ。憤懣やる方ないといった貴子の口ぶりに、思わず彼は肩をすぼめた。(自分が着ないからって、そんなに怒らなくても。それとも、本音では着てみたいのか?)。
 未来の日本女性なら似合うかもしれないけれどね。諦めの色が入った言葉が口を出たことが普段の貴子には似つかわしくないと、信じられぬ思いだった。(なんだか変だぞ)。そんな疑念に囚われていた彼に、女神が微笑みかけてきた。
「ごめんなさい、お待たせしました」
 大きな黒縁メガネをかけた、来月に十六歳になる真理子が横断歩道で車の窓を叩いてくる。ドアを開けてくれと、今にも車に乗り込みそうな気配を見せている。スーパーの駐車場はすぐそこだ。まさか交差点での乗り込みとは考えていなかった彼は、慌てて「駐車場に入るから」と、声をかけた。(せっかちなんだ)と、会社では見せない真理子とは違う一面を知り、得をした気分を味わい嬉しくなる彼だった。
 それにしても、と誰もが思っている。もっと可愛いらしいメガネがあるでしょうに、先輩の事務員が声をかけたことがある。視力が落ちた中学二年生のときに初めて購入したメガネは、小ぶりのものだった。薄いピンク色がよく似合っていますよと店員に勧められた。「でも……」と涙目で貴子に打ち明けた。複数の男子に「目ん玉がとびだしてるぞ」とからかわれて、さらにはその中に初恋の男子がいたことから、メガネを外してしまったという。以来メガネは掛けていなかったのだが、就職を機に黒縁のめがねを掛けることにしたと打ち明けた。
 貴子の誘導で真理子は後部座席に座った。助手席に貴子が座ることに対して残念な思いがするが、内心ホッとする気持ちもある。そんな彼の気持ちを察してか、「あとで席を交代するから、今は我慢しなさい」と、貴子から思わぬ言葉がでた。「そ、そんなこと。べ、別に……」と、しどろもどろに返す彼だったが、真理子もまた耳たぶまで真っ赤になっている。
 開店して間もないというのに、スーパーの駐車場には多くの車が入り込んできた。駐車スペースを探す車に気づいた彼は「よーし、行くぞ!」と、グンとアクセルを踏み込んだ。今度は順調に滑り出した。期待通りにスピードが乗ってきた――と彼は思ったのだが、貴子から冷たい言葉が放たれた。
「遅いわね、もっと出ないの!」
「そんなご無体な! これ以上エンジンを回したら、壊れちゃうよ。それとも貴子お姉さまが降りてくれますか? そうしたら軽くなって早く走れるかも」と、悪態をついた。
「言ったわね、このナルシストが」
(こんな風に掛け合えたらなあ、打ち解けられるんだよな)そんな思いが彼を襲う。信号待ちに入ったところで、意を決して真理子に声をかけてみた。
「真理子ちゃん、どこか行きたい所ある?」
 突然の振りに驚いた真理子からは言葉が出ない。まだ意思疎通がうまくいっていない二人だったんだと、唐突過ぎた声かけを悔やんだが、今さらどうにもできない。自らの失策で暗闇に放り込まれた彼だった。真理子にしても己の無言が、ひまわりの咲き乱れていた野原から一転して空っ風が吹きすさぶ荒廃した地へと変えてしまったことで暗(あん)澹(たん)たる気持ちを抱えていた。しかし急に声をかけてくるから……と逃げ場を求めた。
 息苦しさを感じ始めた彼に「どうしたの、声が裏返ってたわよ。そうそう、ドライブウェイに乗って。わたし、プラネタリウムに行ってみたいから」と、貴子の声が明るく車中に響いた。(どうしてかしら、こんなにポンポンと言葉が出るなんて。啓治さんの前だと、どうしても身構えちゃうのよね。だからかしら、真理子ちゃんを連れ出すのは。一人にさせておけないからなんて言い訳してたけど)。
「お姉さまには聞いてません。そちらのお嬢さまにお聞きしたのですが」
掛け合い漫才みたいだと思いながら、咳払いをした後に声を整えてから、謙譲語を使いながらも声はぞんざいに答えた。
「アラ、失礼しました。どうせわたしは、刺身のつまでございます。お邪魔虫でございますわ」
 軽く受け流す貴子の言葉に、車中に笑い声が起こった。(ありがとう、貴子さん)。声にはしない彼だったが、改めて貴子の機転の早さに舌を巻いた。
「真理子お嬢さま、そこでよろしいですか?」
「はい。まだ行ったことがないですから」
 真理子の蚊の鳴くような声が、身震いしてしまいたいような可愛い声が、彼を包んだ。(もういい。これで帰ることになっても文句は言わない)。
「OK!」と答えるや否や、町の外れにある、さほど高くはない山に作られた金華山ドライブウェイ――金華山の南に瑞龍寺山(通称水道山)があり、西麓の岐阜公園と南麓の岩戸公園を結ぶ山道――に向かって車を走らせた。その山頂を造成し、プラネタリウムが作られている。このドライブウェイは、以前に二、三度走ったことはあるが、プラネタリウムには入ってはいない。山頂の駐車場で一休みしてすぐに下りるだけだった。
                   
 小さな店舗の並ぶ忠節橋通りに入った。道路に庇を延長した形状の片側式アーケードになっている。原型は江戸時代に出現したという。町並みの景観を整備するために、町屋の前面に設けられた半私半公の空間で、幕末には商業空間としても利用されるようになった。
 買い物客には好評で、多くの人が行き交っている。しかし時として、その買い物帰りを迎えに来た車が駐車することがある。中央を市内電車が通るために、駐車中の車の後方で通り過ぎるのを待たされることがある。
 路面電車のレールの上を走ると、車の振動が激しく二人の会話を邪魔してしまう。やむなくのろのろと走る車の後ろに付かざるを得ない。彼のイライラする気持ちがクラクションに手を伸ばさせた。
「やめなさいって、それは。お年寄りじゃないの、前の車は。ほんとに短気な子ねえ、あんたは」
 貴子のたしなめる言葉に、「だってさっき、遅いって文句を言うから」と反論した彼に、「さっきと今では状況が違うでしょ。お年寄りを急かせてどうするのよ」と、コツンと頭を軽くこずかれた。
「いてえ! 運転してる人間にそういうことをしちゃダメなんだからな」
「分からず屋のあんたにはいいの!」
 ルームミラーに映る真理子が貴子に同調するがごとくに頷くのを見て「わかりましたよ」と速度を緩めた。
 忠節橋手前の通りで右に折れ、北税務署を左に見ながら少し走ると美江寺観音の交差点に出る。その斜め前には、忌(いま)々(いま)しい裁判所が現れる。つい先日に速度違反の切符を切られ、反則金を支払う羽目になっていた。
(隠れてるんじゃねえぞ、汚えぞ)。取り締まりの警察官に猛烈な怒りを感じたものの、そこで逆らえば青切符が赤切符に変わってしまう。赤切符に変われば、簡易裁判所に呼び出されベルトコンベア式に判決を言い渡される。
 違反回数が多くなった一時期に保護観察処分となり、保護司を務める住職の寺に月一回の訪問をさせられた。(あんなことはもうごめんだ)。以来、速度違反だけは犯すまいと決心したー筈だった。それが、高速道路を出てすぐの一般道で、通称ネズミ捕りの速度取り締まりに御用となってしまった。
 一応「オーバーしてましたか?」と確認してみるが、若い警察官の事務的な言葉が冷たく耳に入る。
「73キロだよ、ここは50キロだからね」
「けど……100キロから落としている最中だったから、もう少し待ってもらえれば、キチンと法定速度……」
「おいおい。料金所を過ぎたら、ゼロからスタートだろ? それは通らないよ」
 彼から見るとお爺ちゃんに見える警察官があきれ顔を見せながら窘めた。そうなのだ、一旦は停止しているのだ。料金を払うために停止しているのだ。言い訳になっていないな、と彼も思った。思ったが、それでも「車のメーターがおかしいのかなあ」と呟いてみた。
「23キロオーバーだから。はい、ここに署名をして」
 彼の言葉に耳を貸す風も見せずに、切符を差し出してきた。グズグズと署名をためらう彼に対して「後がつかえているんだ、早くして」と、若い警察官の荒い声が飛んだ。渋々の彼に対して
「運が悪かったなんて思わないように。事故らずにすんだかもしれないんだからね」
 と、老警察官の柔らかい声で観念させられた。

(今日は堤防を行けばよかった)と後悔しつつ、長良橋通りに入りドライブウェイ入り口の麓にたどり着いた。二人のいぶかる視線を背にしながら彼は車を降りた。念のために冷却水の確認をしたかったのだ。今朝確認をしているので心配はないのだが、クネクネとした山道を登るのだ、しかも三人乗車の状態で。馬力の小さい軽自動車なのだ、万が一にもエンジントラブルに見舞われてはならない。特に真理子の前で恥をかくわけにはいかない。
 彼には冷却水の確認で苦い想い出がある。免許を取って間もない頃だったが、水温が異常に上がりオーバーヒート寸前になったことがある。ラジエターの蓋を開けた時、熱湯というよりも火に近いものが彼の顔面を襲ってきた。その時もし、サングラスをしていなかったら……背筋が寒くなる思いをした。鼻(び)尖(せん)とそして上下の唇とに火傷をした。勿論、サングラスは使い物にならなくなった。
 トラブルの原因は半分切れかけ状態のファンベルトだった。たるみができてしまい、うまく回っていなかった。そのためにラジエター内の冷却水がうまく循環せずに、水温が異常に上がってしまった。で今回は少し時間をおいてから、ファンベルトのたるみの確認と冷却水の量の確認をした。(よし、OK)と声に出しながらボンネットを閉めた。
 山肌では四月の上旬には桜が満開となり、ドライブウエイに桜のトンネルを作り出すが、今は終わりを告げている。緑の濃くなった中で、カリフラワー状のモコモコした樹木――岐阜市の木として指定されている金色の花を咲かせたツブラジイの木が郡立している。古代においてはツブラジイの果実であるどんぐりが、そのアクの少なさから貴重な食料とされていた。縄文遺跡からも出土しているという。
「うわあ! プードルみたい」と貴子が言えば「マシュマロですよ、食べたあい」と、口数の少なかった真理子が応じた。ルームミラーから見える真理子の目がキラキラと輝いて見える。窓から身を乗り出しそうな勢いでガラス面におでこを付けている。2ドアの商用車であることが残念といった表情もまた見せていた。助手席の貴子も気づいているようで、ご機嫌みたいよと彼に目配せをした。
 山の中腹を過ぎて樹木の間から市街地が見え始めると、そろそろ山頂に着く。
「あまり飛ばさないでね、ヒヤヒヤしたわ。さっき、カーブに差し掛かった時なんか、もう少しでガードレールに当たるところだったわよ。ホント、生きた心地がしなかったわ。ねえ、真理子ちゃん」
 身振り手振りで後ろの真理子に話しかけ、同意を求めていた。真理子は、さ程に感じていないようだったが「ええ、そうですね」と、短く答えていた。確かに、助手席では恐怖心が倍加されるだろう。そう言えば、途中から貴子のおしゃべりが止まっていた。
「ハイハイ、分かりました。どうせ、上り坂ではスピードは出ません。ご安心下さい」
 三人乗りの状態では、速度を上げたくとも上がらない。ギアはセカンドのままでアクセルを目一杯に踏み込んでいる。エンジンの苦しむ声を聞きながら、(がんばってくれ)と祈るだけだ。車はそんな彼の思いになんとか応えようと、坂を駆け上がっていく。
 突然に前を走る普通車が減速した。ブレーキランプが点いたわけではなく、ただ速度が落ちただけだ。さほどに車間距離をとることなく走っていたために、急ブレーキをかける事態になってしまった。その車の前方にまで気を配って運転している彼には減速する理由が分からない。
 その普通車にしてみれば、彼に煽られていると感じたのかもしれない。軽自動車ごときにという思いから、ブレーキを踏むことなく減速したのかもしれない。それともアクセルを踏み込む力が、単に弱まっただけかもしれない。慌てた彼を後目に、その車は力強く坂道を駆け上がっていった。
 岩田との間で口論になったことがある。二台前の車に意識を持つことに対して、彼は防衛運転だと言い張った。突然のトラブルを少しでも早く察知するためだと言い張った。しかし岩田に言わせれば、車間距離をしっかりとっていれば何の問題もないということになる。岩田にしてみれば「危ないからやめようよ」ということなるのだが、彼は納得しないでいた。
「目先だけに気を取られるのはだめだ。将(さ)来(き)を見据えるように」
 部長がいつも言ってるじゃないかと、強弁した。
「でもそれはちょっと違う話じゃないのかな。なんて言うか、ビジネスというか、大きく言えば人生に関してのことじゃないのかな」
 言い負かされかけた彼は、「防衛運転なんだよ、とにかく」と話を打ち切った。

 ホッとため息を吐く彼に、容赦ない罵声が浴びせられた。
「こらあ! お嫁に行けなくする気か。それとも、婿養子に来るか?」
「ごめんなさい。それだけは、ご勘弁を」
「それだけは、って、どういう意味なの」と、後ろをふり返り「あなた一途ですって」と、真理子に声をかけた。顔を赤らめてうつむく真理子をバックミラーで確認した彼もまた(絶妙のお言葉。姉御肌の貴子さん、ほんとにありがとうございます)と、顔を赤くした。貴子の思いとしては、彼への応援というよりは真理子に彼を印象づけることが切実なことだった。なんとか、二人でのデートを楽しむ関係にまで発展させたかった。
 休日の駐車場は、ほぼ満杯状態になっている。その殆どが家族連れと若いカップルだ。単独で登ってくる者はまずいない。というより、彼ぐらいのものだ。なので、胡散臭い目でいつも見られた。(分かってるよ、中には入らねえよ)と、車から降りることなく下っていく。しかし今日は違う。カップルではないけれども、二人の女性同伴だ。
 今日の駐車場も満杯の状態だったが、幸いにも一台の車が目の前で発進した。幸運に感謝しながら、「日頃の行いがいいからすぐに止められたよーん」と、軽口を叩いて止めた。
「何を言ってるの、二人の乙女のおかげよ」と貴子が言うと、思いも掛けずに「そうですよ」と、真理子の声が彼の耳に聞こえた。ミラーを見ると、俯いた真理子が居る。そして貴子が手を叩いて「山の神さまも美女には甘いのね」とはしゃぎ回った。
 プラネタリウムの中では、投影機を中心にして、その周りに椅子が設置されている。背もたれを大きく倒して、ドーム型の天井に投影される季節ごとの星々を観ることになる。貴子が気を利かせて真理子を中央にして、彼を隣り合わせに座らせた。気恥ずかしさが少し残ってはいたが意を決して話しかけた。
「俺の運転、恐かった?」
 真理子は何も答えない。薄暗い灯りの下で、じっと俯いている。少し間を置いてから、ようやく重い口を開いた。
「わたし、こんなことを、ご本人に向かって言っていいのかどうか分かりませんけど。でも、やっぱり言います。でも、気を悪くしないでくださいね。わたし、自分が不良のように思えるんです。無茶な運転の車に乗っていたり、暗いプラネタリウムに入ってみたり、で」
(不良だって、俺が?)しかしつらつらと考えてみるに、そう思われるのが当たり前のような気がしてきた。ポマードをしっかり使って、エルビス・プレスリーばりのリーゼントスタイルに髪を整えている。普段は不良っぽさを意識した言葉遣いで話しているし、口ずさむ歌と言えばロックンロール系が多かった。
「日ごろの行いって大事なんだよね」
そうつぶやく岩田の顔が突如浮かんだ。「年寄りみたいなこと言うなよ」と反論したものの、確かに損をしていると感じる彼だった。同じようなミスをしても、岩田なら仕方ないさとかばわれ、彼のミスには「集中心が足りない」と、小言になる。
(不良だと思っているんだ、やっぱり。仕方ないか。不良まがいの日ごろの態度では)と、忸(じく)怩(じ)たる思いが湧いてきた。写真で見た断崖絶壁の縁に立たされたような思いに囚われている彼に、貴子が助け船を出した。
「そうね、不良よね。でも、そこらの不良とは違うわよ。真面目な不良ってとこかしら。スネてるのよ、この子は。根は真面目なの、私が少し悪のりさせたみたい。だってね、パチンコはやらないし、成人向け映画のエッチな物も見ないし…」と、慌てて彼を弁護した。
「ストップ! そこらでいいよ。何ザンスか、真面目な不良とは」
 彼はわざと大げさにおどけてみせた。貴子は失笑したが、真理子は笑わない。なにか言わなければと思う彼だったが、バッテリー上がりの車のように、ただ小さなうなり声が出るだけだった。貴子にしてもそれ以上の言葉が見つからずに、まだ少女である真理子には岩田の方が良かったかと思えていた。しかし生真面目な岩田では二人の仲が発展するとは思えなかった。それよりなにより、真理子が彼を指名したのだ。
 やがて照明が落ちて暗くなり映像が天井に映り始めた。まず北極星の位置説明から始まった。
「北東に高く見える北斗七星の杖のカーブをそのままのばすと、東の空にオレンジ色の星が見つかります。これが、アークトゥルスで、うしかい座の星です。そのカーブをさらにのばしていくと、おとめ座の白い星のスピカまでたどれます。この曲線を「春の大曲線」といいます。うしかい座のアークトゥルスと、しし座のデネボラ、おとめ座のスピカを結んでできる大きな三角が「春の大三角」です」 春の星座のナレーションが流れた。しかし真理子の横顔を盗み見する彼の耳には、殆ど入っていない。(ひょっとしてこちらを見てくれるかも)という期待を持つが、いつしかため息だけが漏れた。
 天体ショーが終わり、二人はすぐに立ち上がったが、彼は立てなかった。眩しさに目がまだ慣れない。星の瞬きではなく真理子の横顔に目が行っていたために、目を開けられないのだ。
「立たせてて上げて」という貴子の声に促されるように、真理子の手が彼の肩に触れた。一瞬、電気が走った。鼓動が高鳴り、耳に強烈な圧迫が加わった。「だいじょうぶですか」という声さえ、彼の耳には鋭い槍先で突かれたように感じる。大丈夫という声の代わりに手をふって見せて、背もたれをしっかりとつかみながら立ち上がった。
 貴子は彼に頻繁に声をかけてくれるが、真理子は貴子だけに話しかけている。外国人に取り囲まれてしまった彼、群衆の中でひとり毛色の違う彼、飛び交う言葉がまるで理解できない彼。そんな心持ちだった。しかし不快さはなかった。ころころと転がるような二人の声が、彼の耳に心地よさを与えていた。
 五月の日差しは肌に悪いからという貴子の言葉で、山肌の木陰で食事を摂ることになった。
「三角おにぎりのつもりなんですけど……」と、真理子が初めて握ったというおにぎりが出された。「形が悪くてごめんなさい」というそれは、丸っこい形をしていた。
「お味はどう?」と問いかけられ、「うまい!」と何度も叫ぶように言いながらぱくついた。
 満足げに頷く彼にうながされて、二人も頬張った。とたん「塩辛い!」と、目を白黒させながら声をそろえて言った。「ちょうど良いって」という彼の必死の言葉に、真理子の警戒心がとれてきた。会社ではぶっきらぼうな態度をとる彼だが、それが照れ隠しによるものなのだと知り、そんな彼に親近感を覚えた。
(やっぱり、九州男児なのよね)
 再確認する真理子だった。そして彼を、故郷に居る兄にダブらせた。融通の利かない性格で、なにかといっては父親と衝突していた。炭鉱夫として家族を養い続けた父親に対して「これからは石油の時代だ」と公言していたにも関わらず、自らも炭鉱夫としてその終焉を見届けたいと言い出したのは、中学を卒業する前年のことだった。
 父親の猛反対と母親の懇願にも関わらず、自らが父親の所属する炭鉱会社への入社をしてしまった。真っ黒な顔から覗かせる白い歯が、真理子の脳裏に鮮やかに浮かび上がってきた。兄ほどではないにしろ、彼もまた日に焼けている。人当たりが良く常に優しい態度で接してくれる岩田は、彼とは違い白い肌が眩しくさえ感じられる。 貴子が「デートしてみる?」と問いかけたときに激しく頭(かぶり)を振ったのは、中学生時に受けた眼鏡に対するいじめのごときはやし立てをした男子が色白だったことからだ。ピンク色の可愛らしいフレームを「色気づいてる」と揶揄された。すぐに黒縁のフレームに変えた後にも「乳がでかくなった」などと容姿に関することなどで止むことはなかった。依頼、異性に対する警戒心が生まれてしまった。
 彼に対する先入観が誤りだと気づいたときに、そして兄がダブったことにより異性に対する恐怖心も和らいできた。必要以上に身構えてきた己が情けなくなり、そして恥ずかしさがこみ上げてきた。
「合格! 男らしいわよ」と、貴子が彼の手を取り真理子の手にかぶせた。突然のことに驚く二人だったが、互いの暖かさが伝わり合って笑顔が生まれた。
「これは自信があるんですよ」というたまご焼きはふわふわとした食感が見事で、うんうんとうなずきながら食べた。
 時計の針は、二時半を指している。貴子の希望で、南麓の岩戸公園口に下りることになった。こちらの道は彼にも初めてだった。こちら側の眼下にはビル群は少なく、二階建ての個人宅が多く見受けられた。国道沿いに車のディーラーやら銀行、そして飲食店がチラホラとあるだけだった。 少し行くと、小ぢんまりとした台地があった。貴子の提案で、時間も早いし腹ごなしも兼ねて散歩でもと言うことになった。彼に異はなく、真理子もまたすぐに賛成した。外に出た貴子が大きく深呼吸すると、真理子も並んで、大きく空気を吸い込んだ。とその時、強い風が吹き、二人の体が大きく揺らいだ。
 咄嗟に真理子の背を抱くようにし、片方の手で貴子の腕をしっかりと掴んだ。悲鳴にも近い声を出した真理子だったが、強風に驚いた声だったのか、彼の対応に驚いての声だったのか、彼に分かるはずもなく真理子にもどちらだったのか判然としなかった。
 帰りの車中では、ラジオから流れるメロディーに合わせて、二人がハモっている。貴子の一人舞台だった当初とは打って変わって、和やかな雰囲気が漂っている。緊張感を持って運転していた彼の心も、凪状態の海のように穏やかだった。心地よい疲れを感じつつ、彼は車のスピードを上げることなく走った。
 河渡橋が見えてきた。あの橋を渡ればお別れだ。このまま時間が止まってくれれば、と思わずにはいられない。ふと気付いた。いつも車の出足の遅さに苛立ち隣の車と競争していた彼が、今は全くと言っていいほど気にならない。ゆったりとした気分で走っている。勿論別れの時間を少しでも遅くしたいという気持ちはある。が、それだけではない。
 なにに追われていたのか、信じていた者が離れていく、いや信じていた者に、ある日を境に嫌悪感を抱いてしまった。(どうしてぼくを信じてくれないんだ)。そんな思いが頭から離れない。 
 虚無感という言葉が、突如浮かんだ。孤独感と言い換えてもいい。そして、スピードという危険と隣り合わせの中に自分を置いていたことに気付いた。一瞬の気の緩みも許されない環境に、自分を追い込む。そうすることで、充実感を得ていたのかもしれない。しかし今は、充分に充足感に浸っている。
 
 突然に体が軽くなるのを感じた。なにかが抜けていった感覚に襲われた。足の踏ん張りがきかなくなり、危うく崩れ落ちそうになった。それでも中腰状態で両足に力を入れて、なんとか体勢を立て直した。とその時、頭上からの声を聞いた。
「シンイチクン、アリガトウ」
 そしてその声にかぶさるように
「新一さん、きょうはありがとうございました」という声が……。
 車から降りた真理子が満面に笑顔を称えて、手を振っている。
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 彼からの新一への、懐かしみ溢れる手紙――新一にとっても忘れられない夏休みの冒険談が、嬉々として綴られていた。読みながら、頬を伝う涙と自然にほころぶ笑みとが混じり合った。
 最後に書かれてあった「休ませてもらうことにした」ということばが、新一のこころに突き刺さった。(ぼくのせいじゃない)。こころの中で何度も繰り返した。
 新一にとって、ただひとりの友であった彼の死は、簡単に受け入れられるものではなかった。友を失った、彼を死なせてしまったという後悔の念が、重くのしかかっている。
(あの日、あの時に追いかければ良かった。「ぼく帰る」と捨てゼリフを残して歩き出した君を追いかければ良かった。そうすれば、君は今でもぼくの隣にいてくれたはずなのに)。
 ごめんね、ごめんね……。