噴水のある公園で

 わたしは、さびしいきもちでカラリとはれわたったそらをとんでいました。
 しかし、はねはおもたくおもうとおりにはうごきません。なぜかこきゅうもくるしく、ちょうじかんのそらはくつうです。
 わたしのこきょうでは、いちにちぢゅうそらにいても今ほどのくつうはかんじません。
このちのくうきのよごれのせいもあるでしょう。
しかしそれいじょうに、さきのあのことがわたしのはねをおもたくしているのだとおもいます。

 のぞんではならないことをのぞんだわたしがまちがっていたのかもしれません。
でもそんなとき、ほんとうにかみさまはよいおかたです。
そんなくるしみのなかのわたしに、またあたらしいよろこびをあたえてくださいました。

 たかくふきあがるみずが、四ほうこうにわれています。
 そしてそのまわりには、ひくくふきあがるみずが八ほうこうにわれています。
ふきあがってはやすみ、そしてまたふきあがります。
まわりでは、ちいさいお子たちが「キャッキャッ」と、はしゃぎまわっています。

 そのふんすいからすこしはなれたばしょに、おおきな木がありました。
その木のえだでつかれたはねをやすめていると、よにもうつくしくきよらかなこいのささやきをききました。ベンチのはしにこしかけて、ひとりのせいねんがほんをよんでいます。
そしてまたひとりのしょうじょが、おなじようにそのベンチのはんたいのはじっこで、ほんをよんでいます。

 ふんすいのみずは、まばゆいほどのおひさまのひかりをはんしゃしています。
ふんすいのみずは、ちからいっぱいせのびしています。
ふたりのまわりでは、もうつめたいかぜはありません。
でも、ふたりはひとこともくちをききません。ただただ、ほんをよんでいます。

 うれいをひめた目がかなしげです。
またときには、きらきらと目がかがやきます。
ひあたりのよいえんがわにおじいさんとふたりすわり、にわにさいたおはなをみているおばあさん――そんなうつくしいこうけいをみたように、うれしげです。
でもふたりは、けっしておたがいの目をみようとはしません。

 でも、わたしにはよーくわかっているのです。
どんなにふたりがあいてのことをきにしているのか。
ときおり、チラリチラリとぬすみ見をしては、またあんしんしてよみふけっている、わかっているのです。
そうなんです、いろいろとあいてのことをそうぞうしているのでしょう。
ああ、なんとうつくしいことか。

 むかしには、ふるきよきじだいにはうたをよみあってじぶんのこころをつたえあったとききます。
そのもどかしさ、じれったさ、すばらしきかな。
いま、かたおもいいなのだとおもいこんでいるふたり。
あわいきたいをいだいたり、ぜつぼうのふちにおいやられたり、あいてのかおいろをうかがいつつも、しせんをあわせようとしないふたり。
 
 たにぞこで大きなくちをあけてまっている、おそろしいあくまにもさぞかしじれったいことでしょう。
さあ、てをとるのですよ、さあ、こえをかけてください。
それですべてうまくいく。さあ、はやく。

 ところが、そんなわたしのこえにきがつかず、せいねんはほんをとじてたちあがると、ふんすいのまわりをあるきはじめました。
そのうしろすがたはいかにもさむそうです。
そこのむすめさん、さあはやくいっておやりなさい。
あのせいねんはあなたをまっています。
あなただってさむいでしょうに。

 せいねんがふんすいをはんしゅうしたとき、ようやくしょうじょはこしをあげました。
そお、とうとうけっしんしたのでしょう。
おや、あのせいねんもこちらをみました。
せいねんもけっしんしたのでしょう。

はやあしであるいてきます。しょうじょもあるいていきます。
おたがいに、まんめんのえみをうかべています。
あと、10・8メートル・・・3・2・1メートル、さあ、そのてをとって。

 あっ、ふたりはすれちがいました。
どうしたの? いったい。 かみさまのなんといじわるなことか。
いまになってせいねんのあそびなかまをこさせ、そしてしょうじょのどうきゅうせいたちを、およびになったのです。
ふたりは、それぞれおたがいのわにとけこみました。

 しかしわたしはしっています。
 あのときふたりは、おたがいのてをなぎるつもりだったのです。
きっとそうです。さようなら、さようなら、でもたのしかった。
きもちのよいじかんでした。
 わたしははればれとしたきもちで、また、さむいかぜのふくそらへととびたちました。