(歴史異聞 宮本武蔵) 「我が名は、ムサシなり!」と叫ぶ、赤ら顔の大男。 吉岡英二先生が創り上げた武蔵像を、根底から覆した新しい発想の、ムサシ像です。 ![]() |
[一] |
(ムサシなり!) 中山道にて。 「我が名は、ムサシなり!」 「わがなはむさしなり」 「日本一の、武芸者なり!」 「ひのもといちのぶげいしゃなり」 野太い声につづいて甲高い声が響きわたる。なにごとかと足を止める旅人の前に、身の丈六尺はあろうかという大男があらわれた。赤茶色の髪の毛を乱雑に細めの荒縄でしばり、太い眉の端は上向いている。大きな目の瞳は青く輝き、鷲鼻と相まって、ひと目で南蛮人とわかる顔立ちをしている。いかり肩を揺らしながら歩く様は、あきらかに街道を行きかう者やら田畑で農作業にいそしむ農民たちをいかくしていた。 その後ろに連れ立つ子どもたちもまた、同じように肩をいからせて歩いている。子どもたちに離れるようにと大仰な手振りを示す大人たちに対して、子どもたちは素知らぬ顔で腕を天に突き上げたりぐるぐると回したりとはしゃぎつづけた。 街道を大股で歩く大男に後れをとるまいと走りつづける子どもたちだが、一里を超えた頃から一人そしてまた一人と遅れはじめた。 子どもたちの大将であるほっそりとして背の高い男子(おのこ)が、最後尾に回って「がんばれ、がんばれ」と声を掛けつづけている。 大男が疎ましさを感じて拳を振り上げながら子どもたちを追い払う。sgに大声を上げる大男に、子どもたちもその都度くもの子を散らすように逃げ出すが、大男が前を向いたとたんに、また後ろに行列をつくっていた。 「どうしてついてくる!」 大男の怒声に恐れをなして、子供たちが一斉に大将の後ろに隠れた。腰に手を当てた大将がゆっくりと大男に答えた。 「なんでそんなにでかいんだ」 小さな目をかっと見開いて、おまえなんかこわくないぞとばかりに一歩前へでた。ぐっと歯をくいしばり、あごを前に突きだして大男をにらみつける。両手の拳はしっかりと握りしめられてはいるが、少し震えている。体が前のめりになってはいるが、いつでも後ろに逃げられる態勢でもある。右手が後ろにまわり、いつでも逃げられる態勢を取れと合図をしていた。 「つよくなりたい」 大男を見上げる目には強い光が宿っていて、ぷっくりと膨らんだ鼻や一文字に結ばれた口から意志の強さが感じられた。 「はまべのれんちゅうにおいかけられるおはなをまもってやりたい」 つづけて絞りだされた声に大男がゆっくりと頷いた。 街道筋の田畑の右手には、山々が連なっている。たなびく雲の下、視線を下げると瓦葺き屋根の庄屋の家が見え、少し離れた場所に藁葺き屋根の小さな家が点在している。 「偉そうに大きな構えをしているのが庄屋の家か。どこも同じだな」 突然に大男が走り出した。大木の下に着くと、袴をたくし上げて大きく足を広げた。後を追いかけてきた大将の耳に「ジュボボボ」と、大きく響く水音が聞こえた。放尿していることに気づき「よくもそんなにでるもんだな」と感嘆の声を上げた。 「ここのところ、水ばっかりだったからな。小童(こわつぱ)! 教えてやる代わりに食い物を持ってこい」 「こわっぱじゃねえ。げんただ、おれは」 「げんたと言うのか、そりゃ、悪かった。それじゃ、げんた。人に教えを請うときにはお礼をするものだ。だから食い物を持ってこい」 用を足し終えた大男が振り向いた。にやついていた大男の眼光が鋭く光り、げんたをにらみつけた。げんたの足がガクガクと震えはじめ、見る見る目に涙があふれ出した。すぐにも逃げ出したい思いが湧くが、離れた場所で事の成り行きを見守っている子どもたちの前で無様なことはできない。なにより、強くならなければならないのだ。 「くいもんなんかねえ! あったら、まずチビどもにくわせてる。あいつらはまべのもんは、さかなをくってるからからだがでかい。おれなんか、なっぱだからおおきくなれねえ。ちからも……」 しぼり出す声が涙とともに流れ出ていき、大男の前に崩れ落ちた。 「強くなりたいか、げんた。ならば、体を大きくしろ。なんでも良いから、腹一杯に食べることだ。親が貧乏で食べ物がないだと? なければ、自分で作れ。自分だけの畑を見つけろ。川で魚を捕まえろ。山に入って食べられる物を探せ。人に頼ってどうする」 大きく頷きながら、げんたが大男の目をじっとにらみつけた。離れていたいた子どもたちが近寄ってきて、口々に「そんなのできっこねえ」「すきがねえし、くわだってねえ」「おやにみつかったらとりあげられてしまう」と、大男に叫んだ。にやりと笑みを浮かべながら大男の言葉がつづいた。 「お前たちも手伝ってやれ。田畑を耕せ。山の中でもどこでもいい。お天道さまが見えるところなら、なんとかなるもんだ。道具だと? 手があるだろうが」 俺の手を見ろとばかりに突き出された大男の節くれだった手に、げんたがそっと触った。 「かてえ! すっげえかてえぞ。いしみたいだぞ」 憎悪に近い光を帯びていた目が、みるみる憧れの色に変わった。 「おめえら、みんなではたをたがやすぞ。どうぐはおらがつくる。で、それからどうするんだ。からだがでかくなったらつよいのか」 「走れ、毎日二里を走れ。それから、丸太を頭の上から振り下ろせ」 大男が棍棒のような太い腕を頭上から振り下ろすたびに、ブンブンと音がする。げんたも真似て腕を振り下ろすが、なんの音もしない。大男が振り下ろすたびに子どもたちの顔に風が吹き付けるが、枯れ枝のようなげんたの腕ではそよともない。 「一年だ。一年経てば、お前は強くなっている」。その言葉をのこして、大男は立ち去った。 街道の中央に陣取る子どもたちに、行き交う旅人たちが迷惑千万だと怒りの視線を注いでいる。中には舌打ちをして横をすり抜ける者もいた。しかしげんたを中心にして大男を取り囲んだ子どもたちには、げんたのことばだけが聞こえていた。 (ごんすけじゃ!) 漁村にて。 「かえったか、ごんた。どうじゃ、こんどのえものは。おまえのすきななんたらとかいう、あかいさけはみつかったかの? ふおっ、ふおっ」 しわくちゃの顔をした老婆のおうめが、五尺ほどの背丈でがっしりとした体つきのごんたに話しかけた。昨年の春に父親を亡くして身寄りのひとりもいない若者だった。 「うんにゃ、なにもねえ。これからおきにでてみるさ。まえのときも、おきのほうでみつかったからよ」 銀の皿を並べたようにキラキラと光る沖を眩しげに手をかざして見やりながら、ごんたが答えた。 「そうじゃのお、そうじゃったわ。まあ、あすにでもだしてみいや」 「いやだめじゃ、おうめばば。あすじゃだめじゃて。ながされてしまうかもしれん。きょうじゃ、これからじゃ」 じっと沖を見つめながら、力強くごんたが答えた。水平線から昇りきった太陽の光が、赤銅色の肌に噴き出ている汗をキラキラと輝かせている。毎朝櫓を漕ぐ両の手はゴツゴツとして肩は瘤のように膨らんでいる。この村一番の力持ちで、腕相撲では近隣の村のなかでも一番を誇っている。 「ふねをとってくる」と、歩きはじめたごんたの耳に弱々しい赤子の泣き声が入ってきた。 「おうめばば。あかごじゃ、あかんぼうがないとる」 「バカいうでね。おまえのそらみみじゃ、そらみみじ……うん? たしかにきこえるの。はてはて、なんばんせんにのっておったのか」 少し離れた岩場の陰に小舟が一艘打ち上げられていた。その小舟から泣き声が聞こえていた。ごんたが抱きかかえると赤子の泣き声が止まり、じっと青い瞳で見つめてきた。「よしよし」と声をかけると、また弱々しい泣き声をあげた。 「おうめばば。いたぞ、いたぞ! なんとまあ、おおきいあかごじゃ。ほんに、なんばんじんのこはおおきいのお! よおし、きょうからはわしのこじゃ。ごんすけじゃ!」 ごんすけが七歳のときだった。頭から血を流して戻ったごんすけが、ごんたに詰め寄った。 「おら、もうがまんできねえ。あいつらにしかえしする」 聞き流そうとしたごんただったが、囲炉裏の灯りで浮かび上がるごんすけのぎらぎらとした目を見て「しんぼうだ、しんぼうしろ。そんなことをしたらこのむらにおられんようになる。なあに、そのうちにあいつらもやめるさ。おとうからもいってやる。それより、あすはりょうにでねえか。うみでおもいっきりさけべば、みいんなわすれちまうぞ」と、慰めにならないと知りつつ、声をかけた。 水瓶からすくい上げた水を一気に飲み干したあと、ごんすけが吠えた。 「こんやのめしはなんだ。さかなか、なっぱじるか? はらいっぱいくってみてえもんだ」 囲炉裏端で網の修理に精を出すごんたに噛みついた。 「ぜいたくいうでねえ! まいにちたべられるだけでもありがてえとおもえ」 ごんた自身が満腹感を知らずに生きてきた。当たり前のことと思っていた。 翌日、ごんすけの姿が消えた。そして浜の岩陰で泣き叫ぶ子どもたちが見つかった。 「ぶっといまるたでなぐったそうじゃねえか。むかしのおんをわすれるなんぞ、ひとじゃねえ!」 ごんたを取り囲んだ村人から口々にののしられて、とうとうごんたが切れた。 「おおぜいでいじめるのはかまわんのか! なんばんじんのこじゃといしをなげつけるのはかまわんのか! おん? おんじゃと。よういうてくれたの。ちちのかわりにさかなをよこせいうたんはだれじゃ。あめのひどいひにもりょうをさせたのはだれじゃ」 「いいか。とにかく、ごんすけをつれてこい。ふなぬしさんにきいてもらうから」 捨て台詞を残して村人が去ると、「つれてなんぞいけるか。ごんすけはもうもどってこんわ」と、土間に下りて水瓶から水をひしゃくですくった。その水瓶の水面に映ったごんたの目から大粒の涙がしたたり落ちた。 「ゆるしてくれよ。おとうがいくじなしなばっかりに、おまえにはつらいめばっかりあわせちまった」 (僧侶) 山中にて。 その日は風のひどい日で波も高く、西の方から黒い雲が近づいてきている。浜から見る山は雨になっているのか、煙った状態になっていた。 「やまにはぜったいにはいるな。とてつもないけものがいっぱいおる、おとなだってはいらんぞ」 口酸っぱく言い聞かされたごんすけには、山中に逃げ込むのが助かる唯一の道だと思えて、うっそうと茂った樹木の間を、けもの道を走った。ときおり木の根やら草に足を取られそうになりながらも、走りつづけた。 ガサガサと音がする度に、生きた心地がしない。地面に伏してじっと辺りを伺い、風のいたずらだと分かるまで、じっと伏せた。そんなことを幾度か繰り返す内に、辺りが次第に暮れてきた。どこをどう歩けば隣村のある麓にたどり着けるのか、さっぱり見当が付かない。来た道を戻ろうにも、それすら分からなくなっていた。 今さらながら山の中に逃げ込んだことを後悔した。あのまま浜辺沿いに進み、大きな川を渡りきってしまえば諦めてくれたのではないのか、そんな思いが消えなかった。ひくひくとしゃくり上げる自分を、泣いても誰も助けてくれるもんかと叱りつけるが、涙は止まらない。山を下りればいつか麓に着くんだと己に言い聞かせながら、ただただ歩きつづけた。 「こっちゃに来い」。「ほれほれ、水がほしくないか」。「お腹空いたろ、お食べ」。そんな声が、風に乗って聞こえる気がする。右から左からと、あちこちから聞こえてくる気がする。そのたびに声のする方向を見るが、木々が風に揺れているだけだ。うっすらとした月明かりの下、目をこらしてみるが、木々の間に見えるのは、同じような木々だけだ。まっすぐに伸びたそれは、見上げるごんすけを拒絶するがごとくに、多くの葉っぱで隠している。その隙間から見える星空は、近くにも見えるし遠くにも見える。 「おとお……」。思わずこぼした声は、暗闇の中に消えていく。 「おとおー!」。思い切り叫んだときに、ごんすけの背を叩くものがあった。心の臓がとまるほどの驚きを感じ、思わず頭を抱えてしゃがみ込んだ。 「あたまだけはまもれ。てやあしをけがしてもしぬことはない」。そんなごんたの声が、ごんすけの頭を過(よぎ)った。 「ごんすけ、こんなところに居たか。よしよし、よく頑張った。さあ、一緒に来い」 昨夜ごんたの家を訪れた僧侶が声をかけた。年に一度は立ち寄る僧侶だが、先月に来たばかりなのに、その折のごんたの沈みきった目の中に尋常ならぬ怒りの炎を見てとった。いつもなら本山での所用を終えた後に北へ東へと足を伸ばすのだが、今回ばかりはごんすけが気になりそのまま戻ってきた。 「おねがいです。にしのほうに、なんばんじんたちがやってくるみなとがあるとか。ごんすけをなんばんのちにもどしてやりてえ」 ごんたの、苦渋の決断だった。 「ごんすけはおらのこじゃねえ。なんばんじんのこだ。かえしてやるのが、ほんとうだ。ここにいちゃ、いつまでもいじめられつづけるだけだ」 「おうめ婆が死んで、もう二年の余か。よう頑張った。よくぞここまで育てたものじゃ。わしに任せい。ごんすけの行く末は、拙僧が見とど届けてやろう。心配はいらんぞ」 背を丸めて大粒の涙を流すごんたに、やさしく声をかけてやった。 「もしも、もしも…。ごんすけがかえりたいというたら、おらはもうこのむらにはおらんというてください。たたきだされてどこかにいってしもうたと。いやそんなことをいうたらしかえしじゃというかもしれん。とにかくおらもでていったというてください」 ごんたの低くくぐもった声に、再度聞き返した。 「二度と会わぬということか」 「ああ、そうですに。おうてしもうたら、にどとてばなせなくなるきがする」 今度ははっきりとした口調で、吹っ切れたように言った。 「よし。その覚悟や良し、だ」 |