我が名は、ムサシなり!
(歴史異聞 宮本武蔵) 

「我が名は、ムサシなり!」と叫ぶ、赤ら顔の大男。
吉岡英二先生が創り上げた武蔵像を、根底から覆した新しい発想の、ムサシ像です。
 (六)
 (舟島 一)

 そして、舟島にて。

 小倉の地からはさ程に離れていない小島だが、隣接している岩礁は難所として恐れられており、漁師ですら立ち寄らない。「見世物にしてはならぬ」という藩主の命により、見物人を立ち入らせぬためとして、この島が決められた。
 約束の刻限を過ぎても、ムサシの姿は見えなかった。照りつける日の下で、小次郎はかれこれ半刻近くを過ごしていた。
「どうしたことだ、ムサシは。一向に現れぬではないか」
 扇子を激しく振りながら愚痴る武士たちだったが、小次郎は自他共に許す天才剣士の名の下に、泰然自若と臨んでいた。
「小次郎殿、ムサシはまだ現れぬようじゃ。暫時、木陰で休まれるがよろしかろう」
 立会人の小谷新左衛門の二度目の声がかかり、ようやく小次郎は松の下に体を休めた。物見遊山で集まった武士たちの喧噪を他所に、小次郎はほくそえんでいた。小次郎の心中には、ムサシとの勝負はなかった。ムサシ如きを相手にすること自体、小次郎には腹立たしいことだった。

 豊前小倉藩主細川忠興より下賜された、背に燕の姿が金糸の刺繍で施されている陣羽織を身に付けている。本来なら楽な動きが出来る木綿地の装束で臨みたい小次郎であった。しかし、試合後すぐに藩主への目通りがあると告げられ「試合当日の装束で参れ」とのお達しを受けている。
 忠興にしてみればその試合に立ち会いたいところではあるのだが、御前試合とすることをムサシが頑なに拒否している。たかが武芸者同士の私闘ともいえる試合に臨席することなど、藩主である忠興には到底許されるものではなかった。故にせめても装束だけでもとなった。
「よくお似合いですぞ、小次郎殿。殿より拝領の陣羽織に、その朱色の鉢巻きはよう似合うておる。朱美殿の誂えとか、結構結構」
 小谷新左衛門のことばが、小次郎に朱美を思い起こさせた。
 昨夜のことだ。はじめて朱美が小次郎のために涙した。
「あのムサシという男、鬼神とのうわさが。いかな小次郎さまにてもかなわぬと、巷間ではささやかれておりまする」
 頬を伝う涙を拭こうともせずに、朱美はひたすら小次郎にすがった。
「ムサシという男、情け容赦のなき者とか。試合った相手は、ことごとくにこの世を去られていると聞き及びました。おねがいでございます、小次郎さま。この試合、おやめください。もしも小次郎さまがお敗れになられでもしたら…。朱美の一生のおねがいでございます。こたびだけは、どうぞ、朱美のねがいを、おききとどけくださいまし」
 ムサシとの試合は藩主細川忠興の知るところであり、小倉藩はもちろん隣藩でも大きな話題となっている。今さら取りやめることなど到底出来ぬ相談だった。「埒もないことを」。せめてもと、腰を落として朱美を抱き寄せた。
「身共が負けると申すか。ムサシ如きに負けると? 笑止千万! 朱美、血迷うたか。この小次郎に勝てる者など、この日ノ本におるものか。くく、案ずるな。そうじゃ。此度の試合が終われば、大層なご加増があるとのこと。朱美、なにが所望じゃ。帰るまでに考えておけい!」
 庭に飛び出した小次郎、手にした長剣でもって、朱美の丹精込めた椿の枝を、秘剣燕返しで斬り落とした。試合前日において、これほどに高ぶる小次郎を知らぬ朱美だった。何やら危うさを感じて落ち着かぬ朱美だった。当代随一と称される尾形光琳による、小次郎の秘剣燕返しの技を描いた襖絵の前で泣き崩れる朱美だった。

 ときおり前髪を揺らす風を、小次郎は心地よく受け止めていた。いら立っていた気持ちも、少しずつ穏やかさを取り戻した。ギラギラと輝く太陽の下、海は凪いでいる。ときおり立つ白波の中に、一艘の小舟が見えた。船頭がゆっくりと櫓を漕いでいる。「大方、漁師であろう」と囁き合う武士たちに対して「この島を絵師に描いてもらうも一興よ。あの岩礁を背にして立つ我も良しか」と、声をかけた。
 さすがに小次郎殿だとうなずき合う武士たちに、薄ら笑いを見せる小次郎だった。今の小次郎には、ムサシとの試合が遠い異国での話のように感じられる。これからはじまる死闘が、まるで他人事のように感じられた。
 焦点の合わぬ小次郎の目に、死の床に伏せった恩師鐘巻自齋が浮かび上がった。師である自齋を、大勢の門弟の前で、完膚なきまでに倒した小次郎だった。それが因で床に伏した自齋、ひと月を経た後に「お前は、お前を作り上げたものによって滅ぼされるのだ」とのことばを遺して息絶えた。
 前髪が目に入り我に返った小次郎の口から「ふっ、笑止な。こののちわたしは、天上天下一の剣神になるのだ」
と、誰に言うでもなくこぼれた。
 浜辺に小舟が乗り上げると、むしろの下からムサシが飛び出した。
「 ムサシが来たぞお!」
 どっとざわめく武士たちが、「おおーっ!」と、歓声をあげた。小次郎は、その声を聞くや否や、弾かれたように立ち上がった。太陽を背にしたムサシの姿は、頑強だった。誰からともなく、声が飛んだ。
「 鬼神だあ!」

 小次郎は、舟から砂地に飛び降りたムサシに向かって、叫んだ。
「待ちかねたぞ、ムサシ! 吾は、巌流佐々木小次郎なり! ムサシ殿に…」
「いざいざ、いざあ!」
 小次郎の声を遮って、ムサシの声が浜辺一帯に響いた。およそ人の声とは思えぬ野太い声に、一瞬間小次郎はたじろいだ。名乗り口上途中においての罵声など思いもかけぬことだった。互いに名乗り合い、剣を構え、そして「始め!」の声でもって試合が始まる。
小次郎の仕儀は、様式に則るものだった。


 (舟島 二)

 そんな小次郎をせせら笑うかの如くに小舟から飛び降りたのムサシの目に、島の外れにある神社が入った。寺を出て十年の余、神仏に対する畏敬の念を捨て去り、一度たりとも神仏に手を合わせることのなかったムサシが―いまさら神仏に加護を願うことなどできぬと煩悶してきたムサシが、「此度ばかりはご加護を。南無八幡大菩薩、吾に力を貸した給え」と、深々と一礼をした。
 気勢をそがれた小次郎だったが、これが噂に聞くムサシの戦法かと怪訝に思いつつも、神仏に対して無碍な態度をとるわけにもいかない。不意打ちを考えているのかとムサシの一挙手一投足に気を配りつつ、同様に深々と一礼をした。
 小次郎がムサシに目を移したとき、櫂を削って作った木刀を振りかざしながら、ムサシが波打ち際を走りはじめた。木刀をブンブン振り回しながら小次郎に間合いを計らせない。宍戸梅軒との闘いにおいて会得した戦法を見せた。いきなりの激しい動きに苛立ちを感じつつも、小次郎もまた走りつづけた。
「臆したか、小次郎!」
 ムサシから半歩遅れる小次郎に、ムサシの怒声がふりかかる。思わぬ事だった。恥辱だった。未だかつて一度たりとも相手に臆したことのない小次郎だ。否、相手方の逃げ腰を非難する小次郎だった。これまでの試合前において人々の口の端に上ることばは、みな一様だった。小次郎への賞賛だけだった。
「此(こ)度(たび)も小次郎殿の勝ちよ。はてさて、一体どれ程の時がかかるものか…。いやいや、相手が臆することなく挑めるかどうか…」
 なのに今、その言葉がムサシによって、小次郎に放たれた。この決闘において町の辻々で交わされた言葉は、小次郎の負けばかりが囁かれていた。
「此度ばかりは、小次郎さまとてかなうまいて。何せ相手は、あのムサシだ」
「阿修羅の生まれ変わりと聞き申した」
 しかし小次郎には、それでも確固たる自信があった。
燕返しから逃れられる者など、この世におらぬわ。彼(か)の摩利支天でさえも、じゃ

「約束の刻限に遅れるとは、何ごとぞお!」
 愛用する長剣を右手に持ち、鞘を投げ捨てて、小次郎は走り寄った。波打ち際を走りつづけるばかりのムサシは、その場に止まって決しようとする気配をまるで見せない。小次郎に罵声を浴びせながら、ただただ走る。次第に小次郎の体力が奪われていく、胆力が失われていく。野生児のムサシ、策士なり!
「敗れたりい! 小次郎。何ゆえに、納めるべき鞘を投げ捨てる。勝負を捨てたかあ!」
 とつぜんの、思いもかけぬムサシのことばに、激しく小次郎は動揺した。荒ぶるムサシのことばに、翻弄された。三尺にも及ぶ長剣の鞘、邪魔になりこそすれ、打ち捨ててもなんの問題もない。どころか、走るためには邪魔にしかならない。しかし様式美にこだわりを持つ小次郎の心底に響いた。
 思えば、道場での立ち会いは礼に始まり礼に終わる。御前試合もまた、然り。御城内での御前試合に首を縦に振らなかったムサシ、まさに老練なり!
 喉のひりつきが、一瞬間小次郎の足をもつれさせた。と、ムサシの体が、一瞬間小次郎の視界から消えた。
「敗れたりい、小次郎!」
 再び放たれたムサシのことばに、小次郎は金縛りにあった。 小次郎の天分の象徴とも言うべき長剣は、忌まわしいムサシのひと言で、秘剣燕返しを失った。そして小次郎の目に映ったものは、ムサシではなく数百数千の民衆と朱美、それらが一体となった巨像だった。
 街の辻々で交わされているムサシ像だが、どこまでが真実の話なのか、実のところ誰も知らなかった。
「あのムサシってのは、人間じゃねえんだってよ。なんでも、からてんじく(唐天竺)から追いだされた、まりしてん(摩利支天)だって話だ」
「とにかく、すごいのなんの。吉岡兄弟といい、おさない又七郎といい。まるであしゅら(阿修羅)だそうだ。二本の刀を自由自在にふりまわして、バッタバッタと斬りまくったそうな」
「それにしても、むごいことじゃないのさ。まだとしはもいかない子どもまでもねえ」
 目をぎょろつかせた男たちが噂をし、幼子を抱いた女が涙を流す。
「そういや、あのムサシってお方は、米や麦の飯はくわずに鳥やけものをくらうそうじゃねえか。草や木の根っこもかじっているそうな。まったく、おそろしいこった」
「とに角大男だってさ。髪の毛もまゆ毛も赤くって、目は青いそうだよ。鼻なんか上くちびるにくっつくかってことらしいしね。そんでもって口も、仁王さまみたいに大っきいと言うし。店に来たお侍が言ってた。ああ、おそろしやおそろしや」
 飯屋の主人と女の話に、集まった者たちが頷き合う。


 (舟島 三)

―ヒューン!―
 秘剣ツバメ返し――跳ね上げられた剣にツバメが翻弄され、羽ばたきが一瞬止まる。そして振り下ろされた剣先が羽を斬り落とす。
 一歩踏み出しての小次郎の剣先がムサシの眼前を走る。そしてムサシの視界から剣先が外れ、上から降りてきた剣がムサシのハチマキを真っ二つにする。そしてそれで勝負がつく――はずだった。
 しかし小次郎は違和感を感じた。なに物かが、いや小次郎には分かっていた。藩主忠興より拝領の金糸で刺繍された陣羽織が、小次郎の動きにわずかのずれをもたらせた。
 小次郎の長剣は空を切った。それは、風のごとくに軽やかだった。なんの手応えもなく、空を切った。
―ブォーン!―
 ムサシは小次郎が剣を跳ね上げると同時に、後ろに飛び上がった。ムサシの素足の間を剣が走った。そしてムサシの木刀が、小次郎の長剣に遅れて振り下ろされた。小次郎の脳天に、真正天から振り下ろされた。
 小次郎の剣の鋭さに比べムサシの木刀には重さがあり、明らかに一撃必殺を意図していた。それが小次郎の体の一部にさえ触れさえすれば、撲殺できると踏んでの一撃であることは明白であった。
 正に戦国時代における、肉弾戦であった。様式美などは、微塵もなかった。小次郎の剣捌きとは異質のものであった。小次郎が追い求めた『能』に通ずる様式美とは、相容れないものであった。
 栄誉栄達を求める武芸者たちに対し、ムサシは己が生きんが為の闘いだった。そこに勝負への執念の差が生まれた。
「命を賭けても…」。皆がみな、一様に口にはする。しかしその実はと言えば、一歩も二歩も引いた覚悟の武芸者たちだ。道場を訪れての試合においては「一手、ご教示願いたい」と口上し、野外においても命のやり取りにまでは至らない。剣を交えて一、二合だけで勝負を決することもある。他者と同様に、小次郎もまた然りだった。相手の腕そして胸に、切り傷のひと筋を付けて終わりとしていた。
 しかしムサシにとっての闘いは生きるか死ぬかのことだった。相手を倒し懐中を探り、金目の物を奪う。生きんが為の所業だった。


 勝負は一瞬にして決まった。誰もが、己の目を疑った。血のりの渇かぬ木刀を持ったまま傲然と小次郎を見下ろすムサシに対して、「卑怯なり! ムサシ。約束の時刻を違えるとは、武士にあらざる行為なり」
「卑怯なり! ムサシ。小次郎殿の口上途中においての、あの言動は」
「不作法なり! 真剣を望みしが、何ゆえにそのような棒きれなどを!」
 と、ムサシへの罵声が浴びせられた。定められた場に腰を下ろしたままに、声を枯らしつづけた。誰ひとりとして小次郎の元に駆け寄る武士はいなかった。仁王立ちするムサシの姿に、みなが気圧された。恐れをなした。
「鬼神だ、あの者は…」
 誰かが小さく呟いたことばが、武士たちの足を射すくめていた。そして城代家老沼田延元のことばが、居並ぶ武士たちを納得させた。
「ムサシなる者、兵法者なり。而して小次郎殿は、剣客よ。互いに、相容れぬ闘いであった。これは試合ではない。ただの殺し合いであった。残念な事よ、誠に残念な事よ」
 そのことばは、小次郎をして剣の天才としての誇りを捨てさせず、ムサシを一人の時代遅れの兵法者として感じさせた。小次郎が事切れた時、ムサシは、大きく息を吐いた。一度、二度、そして三度。息を吐く度に体中の力が抜けていく。
終わった……、ようやく。これで安住の地を得られるというものだ