我が名は、ムサシなり!
(歴史異聞 宮本武蔵) 

「我が名は、ムサシなり!」と叫ぶ、赤ら顔の大男。
吉岡英二先生が創り上げた武蔵像を、根底から覆した新しい発想の、ムサシ像です。

 (七)
 (闘い終えて 一)

 闘い終えて。
 佐々木小次郎との闘いにおいて勝利したムサシは、今度こその思いで小倉屋に戻った。賞賛の声で迎えられるものと信じていたムサシに対し、主の出迎えはなかった。表から入ろうとするムサシに対し、慌てて手代の一人が小声で「裏手にお回り下さい」と告げた。
 怪訝な面持ちのムサシを待っていたのは、あれこれと世話を焼いた番頭だった。破顔一笑で近寄るムサシに対し、
「ムサシさま。誠に残念ではございますが、御指南役のお話は流れてしまいました」と、苦渋の表情を見せつつ告げた。
「話が違うではないか。佐々木小次郎を倒せば、今度こそ間違いなく剣術指南の道が…」
 呻くようなムサシの声を、番頭が冷たくさえぎった。
「ムサシさま。あなたさまのお姿を、この川にお写しごらんください。そして手前と見くらべて下さりませ」
「姿形が、どうしたという……」
 生まれてこの方、髪結いなどとはまったくに縁のなかったムサシである。育ての親のごんた同様に、後ろで縛っているだけだった。長く伸びた折には、小刀でもってざっくりと切り落とすだけだった。
 赤ら顔で太い眉に青い目、そして鷲鼻の先は酒焼けでもって赤くなっている。どれを取っても番頭とは似つかわぬ顔立ちだ。
「しかし、だからといって…」
 口ごもりながらも納得のいかぬムサシに対し、
「ムサシさま。あなたさまの剣技は、ムサシさまならではのものでございます。並みのお侍ではご無理でございましょう。さらに申し上げますれば、宍戸梅軒さまとの試合においては、お刀を投げ捨てられたとか。武士の魂であるお刀をです。これ一つ取りましても、『武士たる者の所行か』となりまする。そして吉岡一門との決闘における二刀流然り、さらにはこのたびの櫂を削られての木剣然りでございます。戦国の世ならばいざ知らず、太平の世に向かいつつあるこのご時世でごさいます。どうぞお察しを」
 と、番頭が深々と頭を下げた。
「いやしかし、佐々木小次郎を倒せば良いのではなかったのか。ならば、どうすれば……。まともに闘って勝てる相手でもなし」
 絞り出すような小声のムサシに、番頭は頭を下げるだけだった。
「あの浜に戻れというのか! ごんすけに戻れと言うのか。またしても『南蛮人! 南蛮人!』と後ろ指を差されねばならぬのか…。それとも長崎とかいう地にて、言葉も分からぬ南蛮人を頼れとでも言うのか……」
 呆然と立ち尽くすムサシに対して憐憫の表情を見せつつも、ムサシがガックリと肩を落とし首をうなだれた時には、鼻を鳴らす番頭だった。
「それでは、」と体を曲げて木戸内に入る番頭に対し、恨み辛みをどれほど並べようとも致し方なきことと、諦めざるを得ないムサシだった。しかし木戸口が閉じられてもすぐには立ち去る気力が湧かず、暫くの間立ちすくんでいた。と、信じられぬ会話が聞こえた。

「旦那さま、終わりましてございます。それにしても、哀れな男でございますな。当初から士官の道など有りませぬのに。ただただ小次郎さまを…。怪我でもさせられればということが、まさかのことに」
「これこれ、番頭さん。滅多なことは口にせぬように」
 わなわなと拳が震え怒り心頭に走るムサシだったが、袖に入れられた小判の重みがムサシの心を重くした。 (了)