(歴史異聞 宮本武蔵) ![]() 「我が名は、ムサシなり!」と叫ぶ、赤ら顔の大男。 吉岡英二先生が創り上げた武蔵像を、根底から覆した新しい発想の、ムサシ像です。 |
(五) |
(佐々木小次郎 一) 小倉の地にて。 佐々木小次郎の妻女然としてふるまう朱美だが、周囲の誰もが当然のこととして受けいれている。五尺七寸の長身小次郎に対して、朱美は並の男たちと変わらぬほどの五尺二寸ほどの背丈を持っている。しかもすらりとした体型は、小次郎の隣に立たせてもなんの遜色も感じさせない。 実のところ小次郎の口からはひと言もない。朱美にしても、小次郎に対して恋いしたう素振りを見せてはいない。育ての親であるお婆に小次郎の世話を命じられて、渋々といった観の朱美なのだ。 そして平素の朱美は、次々と悪態を吐いてくる。しかし朱美の辛辣な言葉は、小次郎には賞賛のことばとして響いている。 「こたびの御前試合では、つばめ返しをご披露なさるとか。あのような小物相手に大人げないことで……」 また時には、小次郎の忌み嫌うムサシを口の端にのせた。 「あのムサシさまのように、諸国を巡っての武者修行でもなさればよろしいのに。そうでござりますね、お着物が汚れてしまいまするか。まあ、井の中の蛙、とならぬようにお気を付けなされ」 鼻であしらう風を見せる小次郎に、再度朱美が悪態を吐いた。 「ほれごらんなされませ。京の名門と称されまする吉岡一門が、ムサシさまに倒されたようで。小次郎さまが『殿の参勤交代の折に』などと悠長に構えられているからでございましょうて。それとも、本当のところは、ご自信がなかったとか。ほほほ」 これには、いつも聞き流すだけの小次郎も怒った。初めて朱美に、手を上げた。 たかが小娘に、どれ程のことがあろうか。このわたしに心服せぬからと言ってなにほどのことよ。いやいや、それも一興。みておれ、いつかはこの小次郎にひれ伏すことになろうというものよ そこで、よよよとでも泣き崩れれば、小次郎としても「わしがやりすぎた」と謝らぬでもないのだが、当の朱美はキッと小次郎をにらみつけ、「おなごに手を上げるとは……。そこまでのお方でしたか」と、その場から離れてしまった。朱美がほほに受けた痛みが、小次郎の手にも残った。いや、「手の痛みなど何ほどのこともない」と、小次郎は言うだろう。そうではなく、小次郎のこころに、予期しなかった痛みが走った。 小次郎元服の前年、道場内における門弟どうしの試合がおこなわれた。一度たりと負けたことのない相手と対した小次郎だったが、思いもよらぬ不覚をとってしまった。 「まだまだ! まだまだ!」。声を張り上げて臨む小次郎に対し、「それまで!」と、師の声がかかった。 「慢心じゃ、小次郎! 毎日の鍛錬をおこたったがゆえのこと。いくど手合わせをしても、もう勝てぬ。未熟者めが!」 師よりのきびしい叱責をききおよんだ父親によって、ひと月のあいだ、道場内に軟禁された。御前・午後の鍛錬のあとも、ひとり小次郎だけが厳しい修練を課せられた。 秀吉による九州平定がなり、やっと天下統一が成された。太平の世にうつりつつある昨今において、「勝てば良し!」とする剣技ではなく、美しく流れるような剣さばきが求められるようになってきた。美しさとそして物語り性が求められていた。 いちばん鶏が鳴くやいなや飛び起きる小次郎を、道場の下女たちは哀れみの目でみていた。通ってくる門人たちに下女たちが挨拶のことばをかけても「ふんっ」とばかりに無視をするなか、小次郎だけがことばは発せずともかるく頭をさげてくれていた。井戸から桶に水をためるついでにと、下女たちの持つ桶に水を移しかえてくれることが日課にもなった。 「お手伝いします」。床掃除にいそしむ小次郎に声をかける下女がいても、それでは修行にならぬからと辞退した。なにごとにも謙虚な姿勢をとるようになり、師からの叱責もおさまった。 小次郎の必死の修練は五年のあいだつづき、ついには小次郎の剣さばきの速さについてこれる者は誰ひとり居なくなった。守破離(*)を見事に体現して、師のもとから去った。その時、師をも凌駕する天才剣士佐々木小次郎が誕生した。そして「小倉一」から「西海道一」へ、果ては「日の本一」と称されはじめた。しかしこのころから傲慢さがあらわれはじめ、苦言を呈する者たちがいなくなった。 *守破離 (物事を学ぶ時の状態を三段階で表したもの) 「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。 「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。 「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。(コトバンク 参照) ムサシがこの小倉に来てからというもの、佐々木小次郎という名を一日とて聞かぬ日はなかった。 「あのすばやいツバメを斬り落としたそうな」 「三尺もあろうかという長剣で、目にもとまらぬ早さでだ」 「細川さまのごしなん役になられてからというもの、ただの一度も負けを知らずだ」 「大きな声では言えねえが、さるご大藩がぢだんだをふんでいなさるそうな」 「柳生家ですら、にげごしだと言うからねえ」 どこを歩いても、小次郎の話で持ちきりだった。日の本一と自負するムサシには、なんとも面白くない。吉岡一門を、と進言した相模屋の番頭も 「あのお方とだけは避けられませ。決して相まみえてはなりませぬ。天下一の剣士でございます」と、たしなめた。ムサシとしても、ためらいの気持ちが湧かないでもなかった。「君子危うきに近寄らずだ」と、念仏のように己に言い聞かせていた。しかしこのままではムサシの中のモヤモヤ感が収まらない。「吉岡一門を倒したのだ、俺は」という自負がある。とにかくこのままでは埒があかない。とにかく相手を知らぬことには、と小倉の地を踏んだのだ。 長崎に向かうと告げたムサシに、相模屋から小倉の地でひと休みされてはと、同じく呉服商をいとなむ小倉屋あての紹介状と路銀を手渡された。相模屋の中に、はたして佐々木小次郎とこのムサシ、一体どちらが上なのか? 確かめてみたい気はする。ツバメ返しという秘技を持つ小次郎に対し、ムサシには二刀流という剣技がある。なにより豪腕だ、そして強靱な肉体がある。もしも小次郎の一撃をかわすなり受け止めることができたなら、と想像するだにわくわくする。 小次郎は試合をと言い、ひと太刀が入れば勝負ありとするだろう。ムサシは決闘を所望し、どちらかが大地に倒れるまでは、と譲らぬだろう。立会人がどちらを選ぶのか、すでに戦国の世は終わった。稀代の策士でもあった豊臣秀吉の出現により、とりあえず太平の世が訪れた。 しかし、と相模屋は考えた。こののちいつまで、この太平が保たれるか……。太閤検地で、各地の大名たちを支配下においた。刀狩りによって、農民と僧侶たちが武器を持つことを禁じられた。武力を伴った僧侶・百姓による一揆も起きなくなるはずだ、と相模屋は考えた。 しかし、相模屋にはまだ懸念があった。このまま徳川家康が後見役として豊臣秀頼による治世がつづくのかどうか疑念があった。絶大な権力と力を誇った織田信長も、本能寺の変において没した。まだまだひと山もふた山もあるのではないか、そう考えていた。 小倉屋では歓待を受けられるものと思っていたムサシに対して、また喰いつぶれ武芸者かとばかりの態度をとられた。 吉岡一門を倒したという自負のあるムサシに対し、 「この地には佐々木小次郎さまがおいでになりましてな」と、横柄なたいどを見せつける当主だった。 「相模屋さんのご紹介もあることですし、しばらくは当家にて旅のつかれをとりなされ」。相模屋の顔を立てての、当主からの声かけだった。 京に天主さまがおられるからといって、いつまでも大きな顔をされるのもいかがなものか≠ニいう反発心が、小倉屋当主の中にある。家康の台頭によって、大阪の地から江戸へと移り住む者も商家も増えたと聞いている。朝鮮出兵時には大いに賑わったこの地も、なんの成果も得ぬまま撤退した今では、一気に底が抜けたようにさびれはじめた。その恨みもありはした。 (佐々木小次郎 二) 小倉屋に逗留のあいだも、毎朝に夜明け前から鍛錬にはげむムサシだった。庭にはおおきな池があり、悠然とおよぐ錦鯉が数十匹はいた。紅白の模様がそれぞれにおもむきがあり、当主ご自慢の錦鯉も数匹いると手代からきかされた。 「おほめになられると、夕げにはひと品がふえますですよ」と耳打ちをしていく。しかしそれができるムサシならば、もうすでにどこかの藩に召し抱えられているはずだった。 大声を発しながらの素振りは、重さが三貫はあろうかという太い木剣が上段から振りおろされるたびに「ブォン、ブォン」と空気を切りさくにぶい音がする。 桜がいいというお内儀だったが「桜ははかない。商家にはむかない。長寿と繁栄をあらわす松の木にしましょう」と、当初は相手にしない。そして今、おおきく枝がはった松の木が育ってている。ともするとムサシの振りかざす木刀が松の枝に当たりそうになる。 「木を傷めませぬように」と釘をさす番頭には、剣術における日々の鍛錬の大切さはわからぬものよと、内心でこぼしながらも、相分かったと答えるしかないムサシだった。 逗留して三日目に、番頭が声をかけてきた。 「いかがですかな? 佐々木小次郎さまを倒せば、ムサシさまを剣術指南役として迎え入れる藩がございます。その藩名は申し上げられませんが、小倉藩とは犬猿の仲でございまして。毎年の秋口に指南役同士の試合がございますが、小次郎さまが御指南役になられて以降、一度として勝てぬのでございます。そこで小次郎さまを倒せるお方をお探しなのですが」 ムサシの中に逡巡する気持ちがあった。もう少し歩を進めれば長崎に辿り着く。和尚に言われた南蛮人が多数いる地に着く。 ――小次郎との闘いは諦めるか。このまま長崎の地に……。しかし南蛮の言葉など、とんと分からぬ。村と同じように馬鹿にされるのではないだろうか。しかしここで逃げては、日の本一だと宣することができなくなる。 ――女々しいぞ、ムサシ。無念の死をとげられたあの方の名をいただいたからには、その思いに応えねばならぬ。 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、と勝負にでた。これで死すとも已むなし、と腹を固めた。とはいえ、小次郎の力がどれほどのものか分からぬままでは勝負にならない。負けを覚悟の闘いなどありえないことだ。力を尽くして、知略をつくしての負けならば良いが、なんの手も打たぬ、考えぬままでは、いかにも口惜(くちお)しい。 伝聞によれば、下段に構えて上に振り上げツバメの動きを緩やかにした後に、素早く長剣を振り下ろして斬り落とすという。それほどに素早い剣捌きだということだった。小次郎の身姿は、ムサシが忌み嫌う痩身だという。後ろ姿ならば女子(おなご)と見まごうというのだ。 背は五尺五寸ほどで腕は細く、さらには柳腰だと聞かされては、ますますムサシは嫌悪する。「身体の芯は強いのですが、腕がしなるように見えまする」と、小倉屋はまるで見てきたかのごとくに表現した。大げさなことと思いはするが、剣捌きにおいてはムサシが 刃長が長いということは、細身の太刀ということ。万が一に一撃をくらっても、深手にはならぬと考えた。ならばこちらは、ぶっ太い丸太を削り落とした木刀にすればいい。吉岡清十郎を倒したおりの木刀よりも長いものにすればいい。そして小次郎の二の太刀を受ける前、もしくはその後でも、小次郎に一撃を加えれば良い、そう考えた。そしてさらには飛び上がり後に、その木刀を上段から振り下ろせば、案外に小次郎の剣捌きの早さに勝てる屋もしれぬ……。すこしの光明を感じるムサシだった。 |