我が名は、ムサシなり!
(歴史異聞 宮本武蔵) 

「我が名は、ムサシなり!」と叫ぶ、赤ら顔の大男。
吉岡英二先生が創り上げた武蔵像を、根底から覆した新しい発想の、ムサシ像です。
 
[三]

(京の地・一)

 京の地にて。
 野宿には慣れているムサシだが、京の地勢特有の底冷えのする夜はこたえる。夜露をしのげる良い場所はないかとうろつくムサシの耳に、
「だれぞ、お助けくださいましい!」と、悲鳴まじりの声が聞こえた。普段ならば気にも留めずに立ち去るムサシだが、今夜の宿にありつけるかもしれぬと、その声の方向に大声を張り上げながら駆けだした。その声に驚いた追いはぎは、一目散に逃げ出した。
「おおきに。おかげさまで、助かりましてございます」
 主らしき男が頭を下げるも、月明かりの下で見るムサシのあまりの異形さに――ぼさぼさ頭で顔は赤黒く、深くぼんだ眼の色は青い。わし鼻が険しげな顔に見せ、ひげも伸び放題だ。更には薄黒い中に赤やら藍やらの点模様がこびりつく羽織らし衣の下は、茶色っぽい着物と膝下ほどまでしかない袴姿だった。そんな身なりで目だけがぎょろついている――供の者が後ずさりをした。
「わたくし、室町通りにて呉服問屋を営んでおります相模屋庄左衛門と申します。如何でございましょう。当家にお泊まり願えませんか。昨今は太閤さまがお亡くなりになったことで、世情が落ち着きません。この後にまた襲われぬともかぎりませぬし。是非にも」
 さすがに豪商と呼ばれるだけあって、肝が据わっている。そんな相模屋の言葉に、ムサシが飛びついた。渡りに舟とばかりに
「相分かった。こちらもねぐらを探していたことだし、ご厄介にならせていただこう」と、すぐに応じた。
「お名前をお聞かせ願いませぬかな。失礼ですがその身なりを見ますと、諸国を巡っての修行途中と思われますが、これまでどちらをお回りで?」
「拙者、ムサシと申す」。道々問いかける相模屋にたいして、素直に答えるムサシだった。警戒心がわかないわけでもなかったが、相模屋の温和な口調に気持ちが凪いでいった。
 難破した船から助け出されて漁師に育てられたことやら、その地の大人たちに南蛮人だと疎まれてその子供たちとの諍いが絶えなかったことやらを語った。そしてその村を飛び出して寺の小坊主として生きる羽目になったものの、そこで先輩小坊主たちの陰湿な嫌がらせに遭い飛び出してしまったと。
 宍戸梅軒との死闘、そして名も知らぬ武芸者たちとの闘いを語ったものの、伊賀の地で見送った宮本武蔵については語ることがなかった。そして南蛮人たちの街があると聞いた長崎の地に向かう途次だと告げた。といってそのまま南蛮の国に渡るかどうかは、まだ決めかねているとも話した。
「本音を言えば……」と前置きをした上で、「武士として身を立てることを考えている」と漏らした。そして南蛮人の街があると聞いた長崎の地に向かう途次だと告げた。といってこの日の本を去って南蛮に渡るつもりではないとも、付け足した。ただ、己が何者であるかを知るために赴くのだとも。
 
 翌朝、番頭が庄左衛門に呼び出された。表屋の一室にひとり居する番頭だった。「通いでもよいが」という主人のことばに「独り身ですので…」と固辞する番頭だった。十年ほど前に「妻女にしては」という声がけがありはしたが、諍いの絶えなかった両親の暮らしぶりを見て、ひとりがいいと受け付けなかった。しかし四十を超えた現在(いま)、病にかかったおりのことを考えはじめた。今さら嫁取りの話をすることもできず、また改めてどこぞから声がかからぬかという思いもあって、他の使用人とともに御店(おたな)に留まっていた。
「それで、客人はどうしてなさる?」
 これまでの用心棒たちは使用人と同じく表屋の一室に居していて、まさかの押し込み強盗対策としていた。幸いなことにこの呉服問屋である相模屋ではなんの騒動も起きてはいなかった。しかし近隣の商家に押し込み強盗が入ったという話が、ちらほらと聞こえはじめている。先月まで居していた用心棒ふたりが、突如として「国元に戻らねばならぬ」と、辞してしまった。「頼りにならぬことで」と詰られたが、いつの間にか姿を消していた。そんな折の、ムサシだった。
「なんぞ不都合なことがありますかな?」。ムサシの豪の者ぶりに感服している庄左衛門が(ただ))した。
 ムサシの居する部屋は奥屋にあり、普段は主人と客の面談の場に使用している部屋だった。表屋から廊下伝いに左に折れて、庭先の正面に当たる場所だった。植えられた樹木の間から朝の光が差し込む明るい部屋でもあった。
 床の間に「始末を旨とすべし」という家訓の掛け軸が掛かっており、その下に素焼きの花器がある。華美な花ではなく、一輪の野菊が差し込んである。そして調度品として普段は置かない二本掛けの刀置きが、ムサシのために用意されていた。
 身幅の厚い同田貫の刀と毎日の鍛錬用に使っている直径が一寸半ほどの丸木との二本を、そこにかけた。そしてもうひとつのムサシの携行品――平たい円盤状の菅笠である一文字笠を、文机の上にのせた。
「なんの不平がありましょうぞ。奥屋部屋をご用意していただのでございますから」と、ムサシへの厚遇に納得のいかぬ番頭だった。
「余所の御店では表屋が多いと申しますに。表屋に近い部屋ならばまだしも、お客様をお迎えする庭先のお部屋ですとは……」
 不平不満ごとなど、ついぞ口にしない、ひと言たりとも漏らさなかった番頭が、ことムサシについては口さがない。南蛮人の顔つきが、どうにも鼻についた。女中たちの間でもてはやされていることもしゃくの種の一つだ。早朝に上半身裸のムサシが、庄左衛門自慢の庭にての日課の木刀振りををしていた。「ブオン、ブオン」という、近くにいればお腹に響きそうな音におどろいた女中たちの間で大騒ぎとなった。手代や丁稚たちも遠巻きに見ている。広い肩幅にりゅうりゅうとした筋肉、木刀を振り下ろすたびに飛び散る汗にも、圧倒された。
「それでムサシさまは、どうされています?」
「まったくもって無愛想でございます。女中たちのもてなしに対して、ただうなずかれるだけで。口があるのでございますから、ひと言ぐらいあっても……」
 憤懣やるかたないといった番頭に対して
「まあまあ。知らぬ商家にお泊まりなされたのだ。しかも南蛮人らしきお方、なのです。それも仕方ないことですよ。それに大口をたたかれぬところは、案外に拾いものかもれませんよ」と、前の用心棒を揶揄した。
 口まわりにたくわえたひげ面から、相当の豪傑だと賞した番頭だったが、まったくの見かけ倒しだった。庄左衛門の供で出かけたおりに、野良犬のうなり声に臆してしまい、よりにもよって主人の後ろに隠れてしまった。「幼少にかまれたことがあって……」と、いいわけにもならぬことを言い出しては、面目丸潰れの番頭だった。
 しかし用心棒として逗留するつもりならば相応のことをと考えていた。食い詰めた浪人とは言っても、命の恩人であることに違いはない。まして凄腕の武芸者が逗留していると噂になっている、盗賊に狙われる心配はない。枕を高くして寝られるのだ。

(京の地・二)

 ひと月を超えた後のこと。
 毎日を無為に過ごしているムサシに対して
「ムサシさま。吉岡清十郎さまを倒せば、京随一の剣士となります。さすれば武芸を奨励している藩より、お声がかかるやもしれませぬぞ」と、番頭が耳打ちしてきた。庄左衛門の意を受けて、ムサシの力量をはかるために申し出たのだ。
 ムサシにしても、そろそろ腹を決めねばと考えていた。長崎の地に赴くか、それともこの京の地に留まるか。どこぞの藩の剣術指南役に就ければと思うが、その術が皆目わからない。しかしその答えが、いま、番頭の口から出たのだ。
 ムサシの中に、寺での修行時に立ち寄ってくれた武芸者のことが思い出された。「勝てる相手かどうかを見極めてから勝負をせよ」と、口酸っぱく諭された。そしてそれを実践してきたムサシだった。「日ノ本一の武芸者」という(のぼり)を持っての道中では、唐突に試合を挑まれた。相手の力量がわからぬはじめの頃は、恐る恐るの立ち会いだったが、次第に相手の力量を測ることができるようになり、相手が格上だと感じた折には、地に頭をつけて避けたこともあった。しかし梅軒相手に勝利を得てからは、ムサシの中に大きな自信が芽生えて、そしてまた闘い方そのものが「勝つための方策」をとれるようになってきた。
「ならば早速にも見て参ろうか。相手の力量の分からぬままでは、方策も立てられぬ」
「では、丁稚に案内させましょう」
 番頭の素早い返事に、ムサシ自身の力量をはかるためかと感じて腹も立ちはしたが、さもあろうかと思い直した。
 碁盤の目状に作られた道が、ムサシには奇異なものに映った。街道もまたまっすぐの道が多くはあるが、これほどに整理された街並みは初めてのことだ。しかも間口は狭いが奥に深いという[ウナギの寝床]と称される町家が多い。物珍しさからなかなか歩の進まないムサシに、丁稚が
「ムサシさま。そのように気後(きおく)れされるならば、いっそ用心棒にでもなられては」と声をかけた。
「馬鹿な! 気後(きおく)れなどとは、笑止千万。初めての地ゆえ……」
「ああ、そうでございますか。このような所は初めてで……」
 田舎者と嘲笑されていることは知っていたが、面と向かっての言葉にムサシが声を荒げた。
「グズグズするな! 昼餉(ひるげ)までには戻るぞ」
 京都御所ちかくにさしかかった折には「天子さまがおられます」と、深々に一礼をする丁稚に倣いムサシも一礼をした。それを見ていた周囲から失笑がもれて、丁稚の底意地の悪さに「おまえは帰れ!」と追い返した。
 御所を離れたムサシは、店舗を持たずに立ち売りをする商人たちに「堀川一条の、吉岡道場は……」と声をかけつつ向かった。怪訝そうな顔つきで答えるのだが、ほとんどの者が最後に「かかわらぬほうが……」と、付け足した。教えられたとおりにまっすぐに進み、堀川の手前で折れて川沿いに進んでいった。
 
 吉岡道場をのぞいた折に、そのあまりになよなよとした動きに呆れ果てた。これなら勝てる!≠サう踏んだムサシ、すぐさま京の町道場破りを繰り返した。そして
「吉岡道場なるもの、公家衆御用達の棒振り剣法なり。日ノ本一武芸者 宮本武蔵」という立て札を、五条大橋、加茂大橋、そして上加茂神社近くに立てた。この立て札に激怒した清十郎が、返答と題した立て札を京の至るところに立てさせた。どこの馬の骨とも分からぬ男を、日ノ本一などと称することはできぬとばかりに、わざとひのもといちと書き込んだ。
「ひのもといちなる武芸者に告ぐ。我が道場を、是非にも訪ねられたし。尺八にておもてなしいたそうほどに」
 度量の狭い男よと苦笑いを番頭に見せながら、尺八とはすなわち小太刀を意味するのであろうと、逆手を取って一尺八寸ほどの棒きれを用意させた。
「ご指南いただきたい」と乗り込んだムサシだったが、当の清十郎は留守にしていた。
「生憎と、師範代もおられぬ。出直していただきたい」
 古参の門人が告げるが、ムサシは大声で「大方、奥座敷で震えているのであろう」と、暴言を吐いた。怒り狂ったひとりが「所望!」と叫び、ムサシに打ってかかった。待っていたかの如くにひょいと体を交わすと、手にしていた棒きれで木刀を叩き落とした。
「参った!」と叫んだにも関わらず
「参ったは、死を意味することぞ!」と、激しく打ち据えた。ムサシの言動に激怒した門人たちだったが、冷静さを欠いたままでは、ムサシの術中に陥るだけだった。三人の門人がつづけざまに打ち倒されて、こんどは怒りにまかせた三人が同時に挑みかかった。
 途端にムサシは、「卑怯、卑怯!」と叫びながら門人たちを道場内から往来におびき出した。なにごとかと足を止める町人に向かって
「ひとりの我に、多数なり。逃げるが勝ちなり!」と声を張り上げて、走り去った。