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(桜が満開の時期となった) (施設の事務室でのことだ) 施設の事務室でのことだ。 「怖い思いをさせたわね。しばらくお休みしなさい。特別休暇をあげるから、自宅に戻りなさい。これからのことも含めて、じっくり考えなさい」 主任介護士に声をかけられるほのかだが、恐怖心が消えぬいま、無性に道子に会いたかった。道子の胸で泣きたかった。 「お兄さんね、お母さんに言われて様子を見に来たんだって。大丈夫よ、事件にはならないから。いま、施設長が警察でお願いしているから」 「にあんちゃん、大丈夫なんですね。ほんとに、大丈夫なんですね」 「でね、鈴木さん。言いにくいんだけど、坂本さんのこと、許してくれないかしら」 思いも寄らぬことばが発せられた。事を騒ぎ立てるつもりは、ほのかにはなかった。恐ろしい思いはしたものの、実害があったわけでもないしと思っていた。しかし、相手側からの謝罪もない今のいまに話題にするべきではないはずだ、と思えた。 「お兄さんのことはね、不問に付してもらうから。事情が事情とはいえ、暴力を振るってしまったわけだし。警官の方が止めに入られたことで、現行犯ということになって…。でも大丈夫。施設長がうまく話を進めて下さってるから。公になれば、園にもまずいことになりますからね」 理不尽なことだと思いつつも、施設長の指示では話さざるを得ない。 「いいですか、あなたにも監督責任があります。聞けば、以前からセクハラを受けていたというじゃないですか。担当替えも視野に入れるべきだったですね」と、詰問された。たしかにほのかから相談は受けた。そして他の介護士からその状況確認もした。しかし「よくあることじゃないですか」と、軽くいなすことばが返ってきた。〝そんな軽いことかしら?〟と疑念を持ちはしたが、「一所懸命すぎるところが、ほのかさんにはありますからね」とこどばを足されては、なるほどと思えなくもなかった。ちょうど勤務シフトを組み上げ終えたところでもあり、おざなりにしてしまった。 「鈴木さん。とにかく早く立ち直って下さい」 そう言い残したあとに、寸志と書かれた封筒をほのかの手に持たせた。〝これで納得してちょうだい〟と、目が告げていた。そのとき職員たちが、事務室にいるほのかに聞こえよがしに話しながら歩いて行った。 「隙があったんでしょ、きっと」 「媚びすぎなのよ、あの娘(こ)は。なんでもかんでも『はいはい』だったもの」 主任と入れ替わりに入ってきたベテラン看護師の奥村が、 「大変だったわね。でも隙を見せたあなたにも、責任の一端はあるのよ。そこのところは、キチッと自分の中で消化しなくちゃね。あの坂本さんって、入所当時はキッチリしたお方だったんだけどね…」と、暗にほのかを非難した。 「まあ、若いあなたには荷が重すぎたかも。誰かに相談でもしていたら、また違った展開もあったでしょうけどね。そうか…主任には話したんだったわよね。どうせ『ベテランを見習いなさい』とでも言われたんでしょ?」 どう答えて良いのか分からぬほのかは、俯いたまま「ええ、まあ」とことばを濁すしかなかった。 「坂本さんてね。入所当時はただ、ほんとにキッチリした人だったのよ。礼儀正しくてね。大きな会社の部長さんだったせいでしょうね、少し尊大なところはあったけどね。信じられないでしょうね、あなたには。今はもう、ただのスケベ親父だものね。応接室に行こうか。ここじゃ、ちょっとね」 ほのかにしても人の目が気になっていただけに、「はい」と素直に従った。 「入所されてから、一年ぐらいだったかしら。息子さんと大喧嘩されてね。自宅の建て直しをしたいって、息子さんが言われたのよ。『もう戻ることもないんだから、俺たちが入るよ』って」 缶コーヒーで喉を潤しながら、奥村の話がつづいた。 「そのことはね、坂本さん自身も覚悟はされていたの。でもね、面と向かって言われるとね、さすがに腹が立つわよね。お義理だけでも、『一緒に暮らさないか』って、言って欲しかったのじゃないかしら」 大きくため息を吐いて、奥村がまた話しはじめた。 「もともと、親子関係は良くなかったみたい。退職後に奥さんと離婚されてね、息子さんは奥さんの味方をされたみたいだから。坂本さんにすれば、裏切られたという思いなんでしょうね。自分の城を、別れた奥さんにとられてしまうというか…。そんなこんなで、誰ひとりとして来られないのよ。それからなの、今みたいにやんちゃなことをし始めたのは」 窓に目を移したほのかの目に、チラホラと落ちる雪が見えた。 「あら、雪ね。今年は早いわねえ。だけどね、息子さんの言い方もきついのよ。『親父の介護なんて、無理なんだよ!』って、他の入所者にも聞こえるような大声で。立つ瀬ないわよね、坂本さんも。自暴自棄というのかしら、それとも地が出てきたというかしら。会社内ならいざしらず、もう重役さんでも何でもないのに、人をあごで使うようになっちゃって。セクハラとも受け取れるけどね、いえ今回のことはセクハラなのよ。でもね、それ以前のことはね、違うような気がするの」 以前のことが違うというのはどういうことなのか、この人はいったいなにを言いたいのだろうか。思いもかけぬ言葉に、耳を疑うほのかだった。 「あなたをね、自分の娘さんのように感じたのじゃないかしら。はいはいって、いつも素直なあなたがね、身内だったら…って思ったのよ、きっと。親愛の情を示したつもりだったのよ。けどそれが、あなたには伝わらなかったのね。いえいえ、あなたが悪いんじゃないのよ。誰だって、傍から見ててあれはセクハラとしか見えなかったわよ。あなたはあなたなりに一生懸命対応してたわ。それを勘違いしちゃったのね、坂本さん。ちょっと度が過ぎてるかな、と思いつつのことが、あなたの怖がる態度に弾けちゃったのね。怒りに変わっちゃったのね」 奥村の身振り手振りを交えた話を聞いている内に、ほのかの目から涙があふれ出た。そう言えば…と、思い出した。仕事を終えて寮に戻る途中だった。普段は静かな坂本の部屋から、ボソボソとした声が聞こえてきた。 「何だねえ、お前は。なにかい、このあたしが他の女に色目を使っているとでも言うのかい? どうせ、口さがない雀たちにでも聞かされたんだろうて。あたしとお前を仲(なか)違(たが)いさせようという魂胆に相違ないわ。ほれほれ、こっちにおいで。あたしが、寒がりのお前を暖めてやろうじゃないか…」 薄いベージュ色の壁際にベッドが置いてあり、反対側の壁には幅が九十cmの四段ローチェストだけがある、殺風景な部屋だった。入居費用を抑えるために廉価な個室に入ることになり、トイレや洗面台は用意されていなかった。それなりの退職金を手にしてはいたものの、先々において子どもたちに金銭面で世話になるわけにもいかぬからと、渋々承知した部屋だった。万が一に身体が不自由になった際には、より設備の整った部屋への移動を確約してのことではあったけれども。 日も落ちて暗くなりはじめた部屋で、ベッドの上に正座している坂本が、落語のつもりなのかひとり語りをしていた。そしてその前で、神妙な顔つきの田上が居た。身振り手振りを交えて熱演する坂本の額には、うっすらと汗が滲んでいた。しばし足を止めて聞き入っていたが、話が終わると同時に思わず拍手をしてしまった。 「お上手ですね、坂本さん」。飛びっきりの笑顔でもって褒めた。 「なによ、あんた! 盗み聞きかい。いやらしいわね」 ふたりだけの時間を壊された田上が、鬼のような形相で怒鳴りつけた。満面に笑みを湛えてうなづく坂本とは対照的に、口紅の毒々しい赤が薄暗い部屋で禍々しさを漂わせていた。 「まあまあいいじゃないか。平社員だったころのお座敷芸でねえ。これのおかげで、いろんな場に随行させてもらえたよ。おかげで部長にまでのぼりつめられたんだ。定年後にそのことを思いだしてね、またいちから勉強のし直しです。そうかい、そんなに良かったかい。子どもたちにも聞かせてやりたかったなあ。そうすればこんなことには……」 はじめて聞く坂本のなみだ声だった。そしてこの翌日から坂本のセクハラまがいの行為がはじまり、田上の敵視する態度が見られるようになったことを思いだした。年老いた坂本が家族からみはなされてひとり淋しい生活を余儀なくされたことを知り、ほのかのこころの中に憐憫の情がめばえはじめた。年老いた者にとって家族の存在がどれほどに大きいものか、ほのかにもよくわかる。 ほのかがシゲ子の元に通うと、「よく来てくれたねえ」と、大喜びしてくれる。道子が敬遠していることを感じるほのかは、がっこう帰りには必ず立ちよっている。なにかの用事で立ちよれなかった翌日には、「どうしたんだい? 体の具合でも悪かったのかい?」と、涙目で心配してくれる。そしてかならずに「待ってたんだよ」と言ってくれた。 「にあんちゃんは?」。次男が立ちよっているはずだ、そしてほのかが来られないことの理由を話してくれているはずだ、そう思ったほのかだった。 「ああ、ツグオが来てくれたよ。ほのかはお友だちと一緒にお出かけしたんだよね、聞いているよ」と、孝道が教えてくれた。しかしシゲ子には、そんなふたりのことばは耳に入っていない。孝男と同様に、ほのか以外は孫ととらえていない節があるのだ。「認知症が疑われているんだよ。どうやらまだら呆けというらしい」と、孝道から孝男と道子は聞かされている。 しかしシゲ子が逝く前のこと、孝道がとつぜんにほのかをそばに寄せ付けようとしなくなった。 「いまごはんのとちゅうだから」、「これから風呂なんだよ」と、哀しげな目をみせながら、ほのかを追い返してしまう。 シゲ子がほのかには会いたくないという、ほのかだけではない。長男にも次男にも会いたくないという。次第しだいにやせ細っていくおのれの姿を見られたくないという。元気だったころのおのれを、それだけを覚えていてほしいと、弱々しい声でいう。ほのかはほのかで、道子に「見舞いにいってらっしゃい」と言われている。 しかしほのかは、現(い)在(ま)の老婆となったシゲ子には会いたくない。妖怪のように感じる、その姿は見たくない。恐怖感にとらわれている。ほっとした気持ちで家路につくのだが、「はやかったわねえ」と、道子の詰るような目と声がいやで、学校帰りにいつも寄る公園に、ふたたび入るのだった。 孝道はあれほど熱心だった町内会へのご奉公もぴたりとやめた。四六時中、シゲ子の枕元に座るようになった。「いやですよ、そんなには。見張られているようで、息苦しいですよ」というシゲ子の冗談まがいの声も、本音とも思える。そして〝お前さんの浮気癖がおきないか、見張っているのさ〟と、若かりし頃の浮ついたシゲ子を責められているようにも感じるのだ。 恋という熱病に冒されて燃え上がったものの、ドンファンだった男のなぐさみものにすぎないことに気づき、深いやけどを負った。そんなシゲ子を周辺からの突き刺すような視線から守ってくれた孝道だった。口下手な孝道で、風采もあがらない。ホワイトカラー職が持てはやされた頃で、労務仕事の大工職ではかなわない。傷心が癒えたわけではないのだが、両親の強い勧め――というよりも脅しにも近い説教、長い叱咤によって、孝道の元へ嫁ぐことを決めたのだ。 静かな家庭生活がはじまり、安穏な一日が過ぎていった。毎朝早くに出る孝道のために弁当をつくり、掃除洗濯をすませ、夕食用の食材を買いに出かける。難の刺激もない、しかし穏やかな日々がつづいていく。休みを取らぬのか取れないのか、雨の日以外はすべて仕事に出かけていく。室内作業に入ってしまうと、家の完成をみるまでは休みがない。 なので、晴れた日のふたりしてのお出かけはまるでなかった。といって、シゲ子を気遣わぬわけではない。仕事の終えた夜には、「いつもありがとうなあ。施主さんからいただいたよ」と、珍しい菓子等を持ち帰る。あるとき頭領にそのことでお礼を言ったところ、棟上げ式やら完成時ぐらいのものだと聞かされた。現場からの行き帰りに気になった菓子やら、仲間内で話題になったものを、孝道が買い求めていたことを知ったときには、〝このひとに一生ついていこう〟と決めた。 しかし同じことが繰りかえされるあまりに平凡すぎる毎日は、やはりシゲ子には耐えられないものだった。お稽古ごとを嫌ってきたシゲ子には、夢中になれるものがなにもない。しばらくして授かった孝男の育児が、新しい生活をはじめさせてくれた。すぐにも次男がほしいと考える孝道だったが、シゲ子は「ひとりでも大変なのに」と、受け入れなかった。 そして孝男の反抗期がはじまってから、定男を産んだ。孝男をかまうことをやめたシゲ子に対して、より反発するようになってしまった。高齢での出産となってしまったことも相まって、定男への溺愛ぶりが激しかった。孝道もまた、それを許した。 ときおり母親の道子が台所からはいっていく姿があった。玄関から入ることを躊躇したのは、シゲ子の雑言が病床からでもまだつづくからだった。 「ほのかたちが寄らないのは、あんたの差し金だろうが!」と、シゲ子自身が追い返しているにもかかわらず、毒づいていた。孝道が応じて、 「悪いねえ、道子さん。分かっているから、分かっているんだよ、シゲ子も」と、家に上がらせることはなかった。 「シゲ子。お前の好きな筑前煮と、カレイの煮付けだよ」 普段ならひとくち食べてから、「薄味だね、あいかわらず」と、すこしの悪態を吐くのだが、今日にかぎっては目を開けない。 「お料理はね、口で食べるだけじゃなくて目でも食べるんだよ」と、食器類にこだわるシゲ子が、まるで目を開かない。まさかと思いシゲ子の鼻先に指を近づけると、弱々しくはあるものの、呼吸はつづいている。 「なんですねえ、お父さん。まだあたしは大丈夫ですよ」と、反応した。そして、「ひと口だけでも食べましょうかね。道子の腕が落ちていないかどうか、調べましょうかね」 添えられていたレンゲですくうと、横たわるシゲ子の口に流し込んだ。ほんの数滴分だったが、それでもむせるシゲ子だった。 「すまん、すまん。多かったね」と謝りつつも、孝道の目からひと筋のなみだが流れた。そしてシゲ子の目尻にも、一本の筋ができていた。 「薄いですね、あいかわらず」と悪態を吐きつつも、口元がゆるんだ。 「そうか、薄いかい。いつもどおりだね」 まだ味覚を感じられていることがうれしい孝道だったが、口角の上がったことがなによりうれしかった。そしてこれが、ふたりの最後の会話だった。 ほのかがシゲ子の母校に入学したとどうじに、孝道が病に伏せるようになった。そして介護職に就いてからというもの、「まかせて」と、休みになるたびに実家に戻り孝道の世話をした。 「おまえもつかれているだろうから、お母さんにまかせなさい」という道子のことばにも、 「お母さんだって。すこしだけでも家に帰ってやすんで」とゆずらない。シゲ子をおろそかにしてしまったことへの贖罪の思いが強いほのかだった。 道子に看病をされる孝道を見て、ほのかのこころのなかに深く刻みこまれていた。 孝道が病で床についたおりの、道子の看病すがたが思いだされた。 「道子さんに迷惑はかけられん。そのときがきたら、老人ホームにでもはいるから」。それが、孝道の口癖だった。 しかしとつぜんに入院という事態になってしまった。かるい風邪だからとたかをくくり、病院に行くことをおっくうがったがために肺炎をわずらってしまった。入院当初は、道子がとまりこみで世話をした。やせほそった手で道子の手をしっかりと握り、なんどもありがとうのことばを発する孝道を見るにつけ、ほのかはおのれが責められているようで辛かった。 孝道を見舞った夜には、かならずシゲ子の夢を見た。ひと言も発することなくじっとほのかを見つめるシゲ子で、枕元にすわりかなしげな目を見せるだけだった。ごめんなさいと謝ろうとするほのかだが、声をしぼりだそうとするほのかだが、閉じた口が開けなかった。孝男に話しても笑いとばすだけで、看病づかれの道子には話すことができなった。長男は卒業を控えピリピリしている。首席での卒業があたりまえとばかりの孝男からのプレッシャーに、潰されないようにと必死にたたかっている。 「ばあちゃんは、ほのかを心配しているんだよ。だから悲しげな顔をしているんだよ」 次男だけがほのかを慰めるが、いまのほのかの胸にはとどかなかった。どころか、シゲ子の顔がうらめしげな表情をしていたように思えてきてしまった。 |