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大みそかのことだ。年越し準備で忙しくたちまわる職員のなかに、次男のすがたがあった。施設にたいする強引な孝男のはたらきかけで、ほのかの復職とともに次男の就職がきまった。 「次男の面倒をみていただければ、今後のことはわたしが責任を持って…」 暗に施設への融資による援助を申しでる孝男に、施設側としては拒否する理由はない。そしてまた慢性的な人手不足になやむ介護業界で、とくに若い男性はのどから手がでるほどにほしい人材だ。しかし事情が事情とはいえ、坂本は別として職員にまで暴力をふるった次男だ。おいそれとは話にのれない。 「はあ…。あの息子さんですか」としぶる施設長にたいし 「素行が心配でしょうが、なあに、ほのかが居ますから。ツグオも、ほのかの言うことは素直に聞くやつですよ」と、薄ら笑いとも思える表情で告げた。職員と入居者の坂本を殴打したことがネックになると考えた孝男の、切り札ともいうことばだった。 次男の殴打事件は聞いた孝男だが、その理由までは聞かされていない。施設側の嘆願と、ほのかの「事件化しないでほしい」ということから、双方おとがめなしということで決着がついている。職員たちにしても施設長からの言いふくめがあったにせよ、「ほのかさんに免じて」という声があったのも事実だ。また、警察署から解放された次男が、まっ先に施設をおとずれて当該職員ふたりに謝罪したことも大きかった。 入居者たちの反応が心配されたが、 「あらまあ、かわいい男の子ねえ」 「ほのかちゃんのお兄ちゃんなの、そうなの」 「世話をかけるけど、よろしくたのむよ」と、好意的な声がつづいた。その中で、ひとり田上だけは敵意をこめた視線をあびせた。前夜に施設長直々に、次男のことを知らされた。 猛反対をしたものの、「決定したことですから」と、にべもない。そしてまた、当の坂本がなんの反応も見せない。当日の記憶がすっぽりとぬけおちていては、田上も黙るしかなかった。 裏方仕事に就く予定の次男だったが、入居者たちのたっての希望から、急きょ介護士の資格をとることになった。いまさら勉強なんかとしぶる次男を、ほのかが説得した。 「にあんちゃん、あたしが応援するから。みんな、にあんちゃんに世話をしてほしいって」 孝男の言のごとくに、ほのかには反抗心どころか服従にちかい姿勢をみせることに、施設長がいちばんの安心感をえた。 中庭での日光浴の時間のときだ。ぽかぽか陽気のもと、十人ほどが集まっていた。そして口々に次男をと、職員たちにねだっている。 「あの子はまだ介護士じゃないから、だめなのよ」。なんど言ってもおさまらない。どころか「じゃあ行かない」。日光浴を拒否する者すら出てきた。 「気持ちいいのよ、お日さまに当たると。それに…」 “夜をしっかりと眠ることができるのよね”。口にはできない本音があった。夜中に奇声を上げられたり、バタバタと走りまわられることは、できるだけ避けたかった。ひとりが騒ぎだすと、あっというまに必ず伝播してしまう。 やむなく遊び相手ならということで次男が中庭によばれて、ボール遊びに興じるのが常だった。 「ほら、中島のばあちゃん。しっかりと取れよ」 「森のばあちゃんも、ちゃんとボールを見ろよ」 「こら。伊藤のじいちゃんは、よそ見してちゃだめだろうが」 熱中してくると、次男の声がしだいにぞんざいになってくる。しかし入居者たちは嬉々として、次男に叱られることを受けいれている。しかしそれを目撃した家族にはそうは見えない。 「あの若い、茶髪の男性はどうなんですか」 「ヘルパーでも、介護士さんでもないというじゃないですか」 ちらほらと苦情の声があがりはじめた。主任がため息をつきながらも、しかし目は笑っていた。 「にあんちゃんにも困ったものね。でも良い子なのよねえ」 「すみません。にあんちゃん、なにかミスをしましたか。あたしから注意しておきます」 「ぞんざいな口の利き方がね、すこし気になるんだけど。でもねえ、そこがにあんちゃんの長所でもあることだし。わかるかしら、ほのかさん」 自分だけが使うはずのにあんちゃんという呼称を、いまではだれもが使っている。次男にたいする警戒心がとれたことは、ほのかにも嬉しいことではあった。しかしほのかだけの兄である次男が、施設での人気者になっていくことに嫉妬心がないとはいえなかった。 「ほのかさん。あなたには、ちょっときつい言い方になるかもしれないけど」と前置きをして、かしこまっているほのかを椅子に座らせた。 「あなたの場合は熱心すぎるの。あなたの介護はね、一生懸命すぎるの。良いことなのよ、それは。でもね、力が入りすぎているの。みなさんの要望に応えようと頑張りすぎているの」 主任のことばが理解できなかった。首をかしげるほのかにたいし 「にあんちゃんに聞いたわ。おばあさんがお亡くなりになったときのことを。まだ小学生のあなたには、さぞショックだたことでしょう。はじめてなんでしょ、ご臨終にたちあったのは」 優しく語りかけながらほのかの手をとり、やわらかくなでた。 「贖罪の気持ちがあるんじゃない? キチンと見送れなかったことが、おばあさんに申し訳ないという思いが、こころのなかに残っているんじゃないの。だから、どんなことにも『逃げちゃだめ!』と思っているでしょ。入居者さまからの要望には、すべて応えなくちゃという気持ちが強すぎるのよ」 「でも、あたし…。どう断ればいいのか、わからないんです」。上目づかいで、小さく声をだした。 「嫌われることを怖がっちゃだめ。にあんちゃんを見なさい。なにか頼まれても、必ず、まず『自分でやれよ』と言ってるでしょ。それでも頼まれたら『仕方ねえな』でしょ? 大丈夫、高橋さんなら」 とんとんと軽く肩をたたきながら、なんども「大丈夫」とくりかえした。 「ほのか、おわったか? いっしょに帰ろうや」 ドアから顔だけをだして、次男が声をかけてきた。 「にあんちゃん、ご苦労さま。高橋さん、もういいわ。よく考えてね」 次男と連れだってのほのかだが、暗い表情をみせている。 「どうした、ほのか。叱られたのか。ドンマイ、ドンマイだ。ドンマイって、わかるか? 田中のじいさんに教えてもらったけど、英語でDon,t mindって言うらしいんだ。心配するな、気にするなってことらしいぞ。気楽にいこうや、なあ」 次男の笑顔がまぶしい。夏まっさかりの太陽のひかりに似て、痛い。 「うん、そうだね。ドンマイか、良いことばだね。でさ、にあんちゃんは、入居者さまのこと、どう思っているの? 家族だって思ってる?」 「おれ? おれは…。そうだな。近所のじいちゃんばあちゃんだ。ほのかは、家族だって思ってるのか、すごいな。けどさ、家族に『さま』をつけるのか。変だぞ、それは。他人ぎょうぎじゃないか、それじや」 ほのかの顔をのぞき込みながら、心配げな顔を次男がみせた。 「にあんちゃん、お帰りかい。ほのかちゃん、にあんちゃんと一緒でいいねえ」 「にあんちゃん、あしたにはお願いだよ」 「わかってるって。ばあちゃん、少ししつこいぞ」 次々に、次男に声がかかる。そして次男と言えば、身構えることもなく自然体で応じている。 「高橋さんの笑顔は、作りものね。でも、にあんちゃんは心底からの笑顔なのよ。喜怒哀楽を、しっかりと出してるわね。それが介護士としてどうかと言えば、十人が十人、だめだと答えるでしょうね。でもね入居者さまたちの立場からみると、どうかしらねえ。これも宿題よ」 帰り際にだされた課題のこたえは、すぐには出ない気がしていた。しかしいま、次男との声のかけあいをする老人たちを見ると、皆がみな活きいきとした表情を見せている。 ほのかには見せてくれない笑顔ばかりだった。「すまないねえ、いつも」。感謝のことばを聞くことはあっても、次男に見せた底抜けの笑顔はなかった。 同じ宇宙という空間に在りながら、同じ神という文字を使われながら、真逆の極に位置にするふたつだった。荒ぶれる太陽の太陽神に対し、冷徹さでもって対処する女神である月、家族から隔離された高齢者たちにとっては、ある者には超えられぬ断崖絶壁に感じる谷がさえぎり、ある者には、ゆらりゆらりと揺れる植物の蔓による吊り橋だ。そしてまたある者には、鋼製のメインケーブルを使った吊り橋に感じている。他の職員たちはどう思っているのか、聞いてみたい気もするほのかだが、聞くことがこわい気もする。新人でもあるまいし、と笑われるのが落ちのような気がしてならない。 そんなとき介護専門学校の友人と会う機会ができた。 「久しぶりに会わない? 同窓会でもしない?」と、声がかかった。戸惑うことばかりの毎日のなか、その友人たちに疑問をぶつけてみた。しかし彼女たちからは、「なんで?」ということばが返ってきた。 「教えてもらえないの? 先ぱいたちから」 「考えすぎじゃないの?」 「ほのかって、まじめだもんね」」 「つぶれちゃうわよ、そんなことじゃ」。そんなことばが飛び交った。 銀行の応接室で融資の相談を受けていた孝男の元に、「急を要します」と連絡が入った。 「なんだ。どうした、道子」 不機嫌にでた孝男の耳に「あなた、あなた! お義父さんが、おとうさんが…」 と、あわてふためく道子の声がはいった。 同じく介護にいそしんでいたほのかにも、「ほのか、じいちゃんが危篤らしい。すぐに行くぞ」と、次男がせかせた。 門扉を開けるのももどかしく、ガチャガチャと音を立てて中に入った。玄関よりは庭先のほうがはやいと回りこんだ。道子の世話を受けて咲きほこっていた鉢植えのほとんどが枯れかかっている。黄色のガザニア、赤いコスモス、ピンクのヒナ菊、そして白いマーガレットらが、家のあるじとともに枯れかかっている。生け垣のサザンカもてんでに枝がのび、刺々しく見える。このところの高橋家を暗示しているかのこどくに、まるで調和がとれていない。 「じいちゃん、じいちゃん」。まずほのかが飛びこんだ。枕元には道子とそして孝男がすわっていた。 「父さん。ほのかが来たよ」。孝男が声をかけると、閉じられていた目がうっすらと開いた。おだややかな表情だった。シゲ子に感じた嫌悪感も、いま目の当たりにする孝道には感じない。やさしい気持ちで接することができた。節くれ立ってゴツゴツとしている孝道の手を、愛おしくさすりつづけた。 「じいちゃん、痛かったらお医者さんに言ってね。がまんなんかしちゃだめだよ」 「ありがとな、ほのか。分かったよ、わかったよ」 弱々しい声がもれ、ゆっくりと目が閉じられた。痛みをこらえる仕草を孝道が見せると 「じいちゃん、がまんしちゃダメだよ。痛み止めがあるから、いまあげるね。それですこしねむってね」 「いいんだ、いいんだよ、ほのか。それより、ばあさんがな。ほのかに伝えてほしいと言うんだよ」 一気に話すことができず、ひと呼吸置いてからになった。 「ほのかを責めちゃいないよ。それどころか、ほのかには感謝しているよと言ってた。だから、なにも気にすることはないんだから」 「あたしね、あたしね、ばあちゃんをね、をね‥‥」 孝道がちいさく首をふって、分かってるよ、と目で告げた。 「じいちゃん、じいちゃん!」。大声で叫びながら、長男が駆けこんできた。めったに感情をあらわさない長男が、大粒のなみだをこぼしながら枕元に座った。 「そんな大きな声でなくても、聞こえてる。どうだい、卒業論文とかいうのは」 目を閉じたままの孝道の手をしっかりと握りながら 「大丈夫、だいじょうぶだよ。じいちゃんにもらったお守りがあるんだから。天神さまのお守りなんだ、効果絶大さ」と、こたえた。 じっと聞き入っていた孝男が 「父さん。なにか欲しいものはあるかい。食べたいものを言ってよ、用意するから」と、声をかけた。 「孝男。おまえは良い嫁さんをもらったな。いいか、道子さんを大事にするんだぞ。いつまでも、昔のことにこだわっちゃいかん」 暗に初恋の女性を思いつづける孝男に苦言を呈した。 「な、なんだよ。やぶから棒に、父さん、なにを言い出すんだよ」。あきらかに不満げな声となった。 「道子さん。もうここまでだよ、わたしも。定男の不始末では、ほんとうに迷惑をかけた。良くやってくれたね、ありがとう。どうやら、ばあさんが迎えにきたようだ。いままでありがとう。みんな、ありがとうな」 そのことばが最後だった。 これまでの人生を思い起こさせるような、じつに穏やかな表情だった。大工生活に六十年の余をついやした。関与した建築物件は、百軒を優に超える。そのどれもが、多少の地震にはびくともしなかったといのうが、自慢の種だ。かわりに、シゲ子に苦労をかけてしまったと悔いている。息子の孝男のように、毎日を仕事に明け暮れて家庭をかえりみることがほぼなかった。 その後ろ姿が、いまの孝男をつくってしまったと思えるのだ。その孝男も道子という良き伴侶を得たことで、大きな波ものりこえてきた。長男、次男、そしてほのかという3人の孫にとりかこまれて幸せだと心底感じている。そして孝男もまたなんとか己のように、穏やかな最後をむかえてくれれば、と願わずにはいられない。 孝道の葬儀には、しっかりと見送ることができたほのかがいた。弔問に訪れた人すべてに、深々と頭を下げるほのかがいた。そして出棺前のさいごのお別れもしっかりと済ませることができた。斎場の煙突からたちあがる煙を目で追いながら、次男の袖口をひっぱった。 「にあんちゃん。あたし、学校に行ってみたい。ばあちゃんとほのかの母校に」 そしてせわしなく動きまわっている道子に 「ばあちゃんに会ってくる。学校の、あの木の下に行って来る」と、声をかけた。 「そうだね。おばあちゃんとしっかりお別れしておいで」 とつぜんに涙があふれてきた。夕焼けの映える校庭のあの木のしたで、ほのかの目から大粒のなみだがこぼれた。なん年ぶりかで立ちよったばあちゃんとほのかの母校の校庭で、やっとやっと、祖母のシゲ子に 「ありがとう、ばあちゃん。さよなら、ばあちゃん」と、告げた。 「にあんちゃん、にあんちゃん。あたし、あたし‥‥。ばあちゃんに、さよならが言えたよ」 (了) |