にあんちゃん


(桜が満開の時期となった)

 桜が満開の時期となった。
 老人介護施設での介護士として一歩を踏み出したほのかだが、己の甘い考えを打ちのめされる事態に早くも追い込まれてしまった。ロックのかかったドアの前でじっと佇む老婆を、ほのかが見つけた。
「どうしたの、松木さん」
「ようじがあるから外にだして」
 手を合わせて懇願してきた。そういえば先ほど他の職員にもそう言ってたわねと、思い出した。
「だめだめ! 外には出られないの」と、邪険に手を振られていた。優しく接することとされてはいるが、中堅職員らは守っていない。
「ごめんね、松木さん。あたしもね、開け方を知らないのよ。こんど聞いておくね」
「ほんとに役にたたない子だよ!」
 唾を吐きかけんばかりの辛辣な言葉を投げ付けた老婆が、次の瞬間には
「おねがいだよ、ここから出しておくれな」と懇願する。あまりの豹変ぶりにほのかは対応できない。通りかかったベテラン職員が、
「そうなの、用事があるの。分かったわ、連絡してあげるからね」と、老婆をなだめながら連れ去った。ほっとしたのも束の間、またべつの老女から声がかかる。
「さいきん家族が来てくれないけど、何かあったんじゃないかないだろうかねえ。息子はね、良い子なんだよ。でもねえ、嫁女がねえ、底意地の悪い女でねえ…」
「そんなことないですよ。きっとね、お仕事が忙しいからですよ」
「でもねえ、昔はねえ…」
「こんど、息子さんに連絡してみますね」
 先輩職員たちの返答を真似るほのかだったが、老婆の本心がつかめていない。話を聞いてくれない職員たちであっても、腹を立てることが許されない入所者なのだ。
「でもねえ、よめじょがねえ……。電話にださせないだろうからねえ……」
「そんなことはないですよ。やさしいお嫁さんじゃないですか」
 グチ話を仲間内でしあっては、たがいを慰めあうだけの入所者なのだ。
「あたしもねえ、そうおもってたんだけどねえ…」と、話がとぎれることなくつづいていく。
「鈴木さん。まだ新人だからと大目に見てたけど、少し要領が悪いわね。もう少し手早く処理しないとね。他の職員の負担が増えるばかりだから」
 帰りぎわに、主任介護士に注意を受けてしまったほのかだった。そして
「高橋さん。体操ルームに坂本さんを連れてきてくれる。お願いね」と、指示が飛んだ。ほのかにとって一番の苦手なのだが、主任の指示では従わざるをえない。

 施設は三階建てで、中央に庭が配してある。さらにその真ん中あたりに背のたかい樹木が植えうえられており、その下で天気の良い日などは大勢が集まった。その庭をぐるりとかこんで、個室が用意されている。ひと部屋のスペースは大中小とあり、最小の部屋は六畳ていどで最大のスペースは六畳と十二畳のふた部屋がつながっている。そこは夫婦での入居専用であり、五部屋が用意されているが、つねに満室の状態だった。というよりも全室が満杯で、入居待機者がつねに十人をこえていた。
 一階は事務スペースが主体で、あとは大と小の集会室に体操ルームがあり、さらにはこの施設の売りである大浴場があった。複数人が同時に入浴するということで、本人はもちろん家族にも懸念の声があがりはしたが、昭和のなごりをかもしている銭湯風のつくりで、意外にも入居者には大評判だった。最大の楽しみである食堂も広く、いちどきに五十人が食事をとることができる。厨房がとなりにあるため、いつでも温かい食事とれるようになっている。壁際には70インチのテレビが設置してあり、ときおりチャンネルの奪い合いがおきることもある。
 そして四畳半ほどの家族たちとの面会室が五室あり、ここから庭に出ることもできた。平日に訪れる家族もいれば、週にいちど土曜日に面会にくる娘もいる。
「あたしもあと五年もすればお世話になるかもしれないわ。そのときはふたりともどもお世話になります」と、体力と気力がおちてきたとぐちをこぼすのが常だった。
 二階と三階が居住スペースで、夫婦用の部屋は三階に用意されている。さらには十二畳の部屋も五部屋あり、ここにはトイレが用意されている。収入に余裕のある老人が入居しているスペースだ。六畳の個室があるのは二階部分で、ほのかが苦手な坂本はこの階にいる。
「坂本さん、さかもとさん」
 声をかけても、坂本は素知らぬ顔をしている。ベッドから抱きかかえて、車いすに何とか乗せた。いつもは抱きついてくる坂本が、両手をだらりと車いすの横に出して膝の上に乗せようとしないでいた。
「坂本さん。手をね、膝の上に乗せてくださいね」。体をかがめて、坂本の耳元で声をかけた。
「ちょっと。あんた、なにしてるの! あたしが押すわよ!」。どぎつい赤の口紅を塗った老婆が、荒げた声をかけてきた。
「田上のお婆ちゃん。あたしがやりますから」
「誰が、お婆ちゃんよ! 失礼だわよ、あんた」
 今にもほのかを突き飛ばそうとしたとき、
「田上さん。ここに居たの? 探したわよ。電話が入ってるの、娘さんから。急を要するらしいわよ」と、呼びに来た。 
「さ、それじゃ行きましょうか。手を、膝に乗せてくださいね」。坂本の手が動き、ほのかの太ももに触れた。
「そうじゃなくてね、膝の上に乗せて下さいね」
 他の職員たちのたしなめには素直に応じる坂本だが、ほのかだけには素知らぬ顔でまさぐりつづける。聞こえなかったのかと体をかがめると、今度は胸をまさぐりはじめた。
「だめ!」。小声ながらも力強く言うと、すぐに手を払った。
「しょんべん!」。とつぜんに、眉間にしわを寄せて不機嫌な声を出した。
 共用トイレに入ると「うんこが出る、でる」とさわぎだした。あわてて車いすから抱きかかえたとたんに、思いもよらぬ行為に坂本がでてきた。抱きかかえたほのかに全体重をあずけるかたちで、そのまま中におしこんできた。「どうしたの、坂本さん」と声をあげるが、坂本はそれにはこたえることなく「出る、でる」とくりかえすだけだった。
 もみ合うほのかと坂本だが、老人とは思えぬほどの力強さで、なかなかに抗うことができなかった。ほのかのこころに恐怖心がわき上がり、体が硬直してしまった。声を出そうとするのだが、のどになにかが詰まっているようで出なかった。緊急呼び出しのボタンに手をのばすが、坂本の手がそれを阻止する。
〝なんで、なんで。なんでこんなことするの〟
〝坂本さん、さかもとさん、サカモト……〟
 壁というかべがグニャグニャと形状をかえて、ほのかに襲いかかる。板かべから白い手が伸びてきた。逃げまどうほのかにたいし、左右上下から伸びてくる。五本、六本そして十本と、逃げればにげるほど無数の手に増えてくる。腕に足に、そして胸に伸びてくる。脱力したほのかが崩れるように床に座り込んだとき、「なにしてるの!」。田上が叫んだ。
「いやらしいわね、あんた! こんなところに連れこんだりして。だれかあ!」
 職員がかけつけたが、興奮状態の坂本をおさえつけるのに三人がかりとなった。「フーフー」と荒い息づかいのまま、坂本が廊下へとおしもどされた。
 ほのかが陵辱寸前だったことはだれの目にも一目瞭然だった。しかし田上だけは
「小娘が、この小むすめが! あたしの坂本さんを、さかもとさんを…」と、眉をつり上げてがなり立てていた。ほのかはおびえた表情のまま、ひと言も発しない。そこへ「ほのか、大丈夫か!」と、次男が飛び込んできた。制服を引きちぎられてほぼ下着姿のほのかを見たとたんに、そばに立っていた男性職員になぐりかかった。
「お前か、このヤロー!」
「ち、違いますよ。坂本さんですよ」
 次男の剣幕に恐れをなして、不用意に口にしてしまった。
「落ち着いてください。だいじょうぶですから、無事でしたから」
 急報でかけつけた施設長がなだめにかかるが、次男の怒りはおさまらない。廊下に引きずり出されていた坂本にたいし、
「おまえか、エロじじい! おまえが坂本か!」と殴りつけた。坂本の鼻と口から、真っ赤な鮮血がとびだした。
「違う、ちがう。あのこは、良いんだ。わたしはいいんだ」と、坂本は、わけのわからぬことばを発しつづけるだけだった。
「良いんだ、わたしはいいんだ……」と、ただただ繰りかえすだけだった。
「良くねえよ! なんでお前なんかが!」
 坂本をかばう女子職員にも容赦なくなぐりかかった。職員の急報でかけつけた警察官によって、次男が暴行罪の現行犯で逮捕された。