にあんちゃん

(通夜の席でのことだ)

 通夜の席でのことだ。
 安らかな表情で横たわるシゲ子の枕元で、憔悴しきった孝道が座っている。その横に孝男が陣取り「西本さんだよ、福井さんだよ…」と耳元で告げている。
「うんうん」と頷きながらも視線はシゲ子に注がれたままだ。
 孝男の横には長男と次男がかしこまっている。長男が如才なくお辞儀をするのに対し、次男はじっと俯いたままでぐっと口を閉じている。反対側には縁者たちが陣取っている。八十を過ぎてのことだから大往生だと囁き合っている。孝道もまた、そう思っている。思ってはいるが、ひとり取り残されたという思いは消えない。
 シゲ子が倒れてから、わずか半年のことなのだ。一時は快方に向かったものの「もうお年ですから……」という医師のことばが、孝道のこころにするどく突き刺さった。「分かりました、楽にさせてやってください」。延命治療の決断をせまられたときの、苦渋の決断だった。誰に相談することもない、孝道の独断だった。
〝責めを負うのは自分だけでいい〟。少し前に、シゲ子に話したことがある。「苦しみながら死んでいくのはいやだ」と孝道が、シゲ子に告げたことがある。そのときに、「いやですよ、あたしは」と、シゲ子が即答した。そのことばの意が、孝道にはわからなかった。孝道の延命措置をつづけるわよ、という意思表明だったのか、それともシゲ子自身の延命措置を希望したのか、いつもの会話のように曖昧にしたままになっていた。
「これからどうする、こっちに来るかい」と孝男が声をかけた。あと二年もすれば八十になる孝道だが、まだ体はかくしゃくとしている。時折物忘れはするが、まだ独り暮らしができると思っている。そしてこの先どうにもならなくなったとしても、孝男夫婦の家に入ることはすまいと思っている。道子に己の世話までさせるべきではないと、固く決めていた。
 ほのかの泣き声が大きく家中に響いた。ほのかはチラリと布団のなかの祖母を見るだけで、後ずさりしてしまう。道子が
「あなたの大好きなお婆ちゃんよ。お別れを言いましょうね。待ってるのよ、お婆ちゃんは」と諭すのだが、いやいやと首を振る。道子に引きずられるように隣の部屋から入ってきたが、火の付いた赤児のように泣き叫んでいる。
「どうしたのかしら、この子は。おばあちゃんっ子だったのに」 
 母親の道子が、集まった親戚連の冷たい視線を受けて、夫の孝男にこぼした。孝男は、ムッとした表情を見せつつ
「ばあちゃんっ子だからこそ、ショックから立ち直れないんだ。あしたに、最後の別れをさせてやればいいじゃないか!」と、声を荒げた。不満の声が一部からあがりはしたが、孝道の「ま、そういうことだな。道子さん。ほのかには、あんたから言い聞かせなさい」という言葉で、場が収まった。
シゲ子が、ことのほか可愛がっていたほのかだ。できればシゲ子に声をかけさせたいと思う孝道だったが、尋常ではない怯え方を見せるほのかに、心の傷を残すことだけは避けなければならない。シゲ子もまたそう思っているだろうと考える孝道だった。まだ小学四年生なのだ。しかも甘やかされて育ったほのかだ、少しの幼児性が残っているのだろうと考える孝道だ。人間の死というものがどんなものなのか、なにひとつ分かっていないだろう。怖がるほのかを責めることはできないと考える孝道だった。
 翌日は朝から雨がしとしと降っていた。大勢の弔問客の訪れる中、ほのかは母親の背にぴったりとくっついて、隠れるように座っていた。どんなに「席に戻りなさい」と言っても聞かなかった。僧侶の読経がつづくなか、孝男関係の弔問客が次々に焼香を続けていく。間を縫うようにして、故人の弔問客が孝道に「気を落とされないように」と声をかけていく。
 いよいよ出棺の時がきた。棺に花が手向けられていく中、ほのかの手に花が手渡された。それが何を意味するのか、ほのかには十分すぎるほど分かっている。そしてこの時が最後の別れとなることも分かっている。今を逃せば、二度と祖母に会えぬことも。大好きな祖母を見送らなくては、そうは思う。思いはするのだが、どうしてもほのかの足は前に進まない。どころか、後ずさりしてしまう。
「小学五年の少女には耐えられないかな」
「シゲ子さんの死を受け入れられんのだろう」
 囁き合う声が、そこかしこから聞こえてくる。後ずさりをして行くほのかの姿は、見る者すべての涙を誘った。
「もういい、もういい。もうやめなさい。無理強いは良くない。孝男、道子さん。ここまでにしよう。いいんだ、いいんだよ、もう」
 祖父が声をかけ、ようやくほのかは解放された。激しく泣きながら本堂を駆け出し、そぼ降る雨の中に飛び出した。咲き乱れている紫陽花が、ほのかの目に飛び込んだ。思わず「ばあちゃんの好きな花だ」と口に出た。と同時に
「ほのかちゃん。紫陽花はね、黄緑から青色に変わり最後には赤くなるんだよ。だからね、七変化とか八仙花とも呼ばれるお花だよ」と、 シゲ子の声が聞こえたような気がした。
 そして今、にこやかに微笑むシゲ子が思い出される。学校帰りにいつも立ち寄っては、祖母手作りのおやつを食した。ときに食べ過ぎて、夕食が進まぬ事もあった。母の道子に「おやつはほどほどに」と言われているのだが、ついつい食べ過ぎてしまうほのかだった。

 ほのかが小学三年生のときだった。いつもの帰り仲間が風邪でお休みをしていて、ひとりで帰ることになってしまったほのかだったが、たまたま帰りが一緒になった次男と久しぶりに道草をした。いつもは横目で見るだけの公園に入った。ふたり並んでブランコ遊びをしている内に日も傾いてしまい、そのまま自宅へと直帰した。
 知り合いの農家から穫れ立てのサツマイモをいただいたシゲ子は、ほのかに食べさせてやろうと準備をした。町内会に出かけた孝道から忘れ物を届けてくれという電話がかかり、いつもの如くにテーブルに用意して出かけた。そこに滅多に立ち寄ることのない長男が来た。打ち沈んだ表情で「ばあちゃん、ばあちゃん…」と裏口から声をかけた。なんど声をかけても返事がないことから帰りかけたが、覗き込んだ台所のテーブル上にあるサツマイモに目が止まった。
 ほくほくと湯気の立つそれが美味しそうに見えた長男、空腹感に耐えかねて手を出した。食べ終えた後、暫く帰りを待つ長男だった。心に棘として突き刺さっている事を聞き質したかった。孝道では本当のことを話してくれない気がしていた。ごまかされてしまうのでは? と思えた。道子に問いただしても、「ああ、忘れてた。あれをやらなくちゃ」と、いつものように逃げてしまうように思えた。
「ぼく、定男おじさんの子なの?」。そのひと言が、ずっと言えずにいた。正月に孝道の元に集まった親戚連の会話を耳にしてしまった。
「そうかい、もう大学入試かい。あの勉強嫌いの定男のなあ…」
「定男さんの消息は、あれ以来分からずじまいなんですねえ…」
「ああ…。二十年近くになるか…」
 感慨深げに語り合う叔父・叔母たち。絶句して立ちすくんだ長男だが、だとすれば合点のいくことばかりだ。誰にも言えずひとり思い悩む長男だったが、今、その真偽の確認にきたのだ。しかし、日が暮れはじめたことから諦めて家路に就いた。
 程なくシゲ子が孝道と連れだって帰った。ほのかの為にと用意していたふかし芋が減っている。留守をした間に寄ったのかと時計を見やった。
「あらあ、おじいさん。六時半ですよ」
 驚いたような声を挙げるシゲ子に、孝道はどう受け止めて良いか分からなかった。それが「もう」なのか「まだ」なのか、孝道には分からない。とに角も、残りのサツマイモでその夜の食事とした。仕事に明け暮れた五十年だった。定年を過ぎてなお、技術継承にと七十歳まで後進の指導に明け暮れた。その後もまた自治会の役員に推されて、毎日と言っていいほど出歩く日々を送ってしまった。
 そのことにひと言の愚痴をこぼすこともないシゲ子だった。いつもにこやかに送り出すシゲ子に対し、仏頂面で「うん」と短く答える孝道だった。どんな思いでシゲ子がいたのか、孝道には想像もつかない。シゲ子自身もまた、是までの人生がどうだったのか、不満があったのかどうか判然としないでいた。短大卒業後に二度見合いをして、翌日に断りの連絡がきた。正確に言えば、乗り気のしないシゲ子が「顔を立ててのお見合いなんです」と告げたことに対する、相手側のせめての意趣返しのことだった。しかしさすがに三度目ともなると、仲立ち人も黙っていられない。
「お付き合いもしないで断られるなんて、よほどのことよ」と、暗にシゲ子のたくらみに気付いていますよと、告げてきた。そしてその三人目の見合い相手が孝道だった。無口な男でその朴(ぼく)訥(とつ)さがシゲ子には新鮮に映った。高校そして短大時代と、親に隠れての複数の恋愛経験を持つシゲ子には、初めてのタイプだった。
 真面目な性格でコツコツと仕事に打ち込む姿勢がシゲ子の両親に気に入られ、シゲ子の意思というよりは、両親の希望に押し切られる形での結婚だった。

翌日のこと。
「きのうのお芋さんは美味しかったろう。ばあちゃんもね、おじいさんと美味しく食べたんだよ」
「きのうはよらずにかえったよ」。誰かが食べたはずなのだ。
「ツグオちゃんだったかね」
「にあんちゃんは、ほのかといっしょだったよ」。思いも寄らぬ返事が返ってきた。
「それじゃ誰だったんだろうね。ツグオでもないんだね。近所の誰かかしらね」
〝まさかナガオが…。いやいや、あの子は寄りはしない〟と、否定してしまった。
「あんちゃんだよ、きっと。夕食、めずらしく少ししか食べなかったから。それに、もしにあんちゃんだったら、きっとぜんぶ食べてたよ。にあんちゃんはね、目の前のことだけなの」
 愛くるしい目をクルクルと回しながら笑い転げる。
「にあんちゃんがね、永田のおばちゃんからもらったカステラをね、あんちゃんといっしょに食べたんだって。『ほのかの分はあるんだろうな』ってあんちゃんが聞いたら『いっけねえ』なんだよ。あんちゃんはさ、はじめにキチンと三とうぶんするんだよ。ひとりじめにはぜったいしないの。みんなにびょうどうに分けてくれるの」
 嬉しそうに話すほのかに、
「ナガオはね、他人さまの評判を気にする子なんだよ。でもツグオはそうじゃない。自分に嘘をつかない子なんだね」と、次男をかばう。
 シゲ子は、その日の内に長男に問い質した。シゲ子のたしなめるような物言いに萎縮してしまった長男は、口をつぐんでしまった。幼いときから、人に甘えるということのできない長男で、特に祖母であるシゲ子に対しては身構えてしまう。シゲ子の長男に対するぎこちなさが、そうさせてしまっていた。
 シゲ子の執拗な追求に耐えきれず「ごめんなさい」と謝る長男だった。孝道が
「目くじらを立てるほどのことでもないだろうに」と長男をかばうと
「いいんだよ、食べたことは。でもね、翌日にでも『ありがとう、美味しかった』と、ひと言ぐらいあっても。ほんとに、卑しい子だよ」と、長男を叱りつけてしまった。
 美味しいサツマイモをほのかに食べさせてやれなかったということ、少しだけでも残していれば…という多少の罪悪感にも似た感情に囚われているシゲ子の、八つ当たりにも近いものだった。それが為に、つい声を荒げてしまった。
 メソメソと泣き出してしまった長男に
「男のくせに女々しい子だよ、ほんとに」と、捨て台詞を残して去ろうとするシゲ子に、道子が噛み付いた。
「お義母さん。ナガオを叱らないで下さいな、たかがおやつのことで。ナガオが食べてなにが悪いんですか。そうやって頭ごなしに叱るから、ナガオも素直に言えないんですよ」
 しかしシゲ子も負けてはいない。
「そんなつもりはないよ。食べたのかって聞いただけじゃないか。あんたこそ、もっと子どもたちに目をかけておやりな」
 言外に〝おやつぐらい用意してやりな!〟と道子を責めた。道子にしても、おやつは用意している。しかし子どもたちが敬遠するのだ。糖分の少ない手作りクッキーを出されても、長男以外は手をつけない。
 母の道子に、どこかしら余所余所しさを感じる長男だ。
「お母さん、お母さん」とまとわりつく次男に対し「じゃまでしょ」と邪険な態度をとるが、顔は笑っている。しかし長男がまとわりつこうとすると、なにかしらの用事を口にしてその場を離れてしまう。一度や二度なら偶然だと片付けられるけれども、三度を超したところで明らかに避けられていると感じた。
 といってないがしろにされているわけではない。すべてにおいて、まず長男からと言うことになる。食事にお風呂と毎日のことで、第一が父親で次が長男だ。たとえ席に着くのが遅れたとしても、次男とほのかが席に着いていても、長男の膳を二番に用意している。
 買い物にしても、長男が一番となる。たまに次男が駄々をこねても「お下がりでいいの」と相手にされない。外出となると、長男の希望が最優先となる。どれほどに次男が希望を言っても、聞き入れては貰えない。他所では「お兄ちゃんでしょ、我慢しなさい」なのにと、次男には不満だった。
 しかし甘えることのできない長男には「これだけのことをしてもらっているのだから幸せね」と、周囲から優等生であることを強いられた。常にプレッシャーのなかにいさせられた。高校時代に「進学に有利だぞ」という先輩たちのことばを聞き、真偽の程も分からぬままに、高二の後期に生徒会長に立候補した。
 三年になれば、いま以上の受験一色になる。いや、二年のいまでも気は抜けないし、一日を勉強漬けにしている。しかし有利なのだからと、己に言い聞かせる。そのうらに、青春を謳歌している就職組への羨望と妬みがかくれている。〝勝てるわけがないさ〟という思いもある。
 通常は前期は三年生がつとめて後期を二年生をという暗黙のルールがあるのだ。それを、なにげに漏らした長男のことばに、退屈な毎日を送っている一部の生徒たちが飛びついた。通常なら高三の就職組だけが立候補して信任投票の様相を呈する。担任からは「すこしの息抜きになるかな?」と意外なことばがかけられて、クラス全体が大盛り上がりになった。そして結果は、大方の予想を裏切って長男が僅差で当選した。
 得意顔で孝男に報告をする長男だったが、孝男は「受験にプラスなら良いが、気を抜くんじゃないぞ」と素っ気ない。次男は興味を示さず、ほのかは「すごいねえ」と感嘆の声を挙げはするが、すぐに忘れてしまう。ひとり道子だけが長男を褒め称えた。すぐにシゲ子にも伝えられたが「そうかい」のひと言が返ってくるだけだった。

 シゲ子の母校である女学園に入学したほのかは、よく聞かされていた校庭にそびえる桜の下に腰を下ろすことが多かった。
「よくきたね、ほのか」。祖母の声が聞こえてくる気がした。木の根っこに寄りかかりかかって、放課後の少しの時間を過ごす。それなりにクラスメートと談笑はするが親友と呼べる者はできなかった。クラス内に同じ中学出身者が居ないことも、ほのかには不運だった。
 部活動においても人気のない天文クラブに、名前だけで良いからとしつこく勧誘されての入部だった。年に一度か二度、新入部員の勧誘時に、顔を出すだけの幽霊部員だった。ほのかが三年生になったとき、三学年併せて七人という所帯で、一年生はひとりだけだった。
 夏休みに学校の許可が下りて「ペルセウス座流星群を観る会」が催されることになり、真夜中の鑑賞会ということになった。最低ひとりのゲストを参加させましょう、という檄が顧問から飛んだ。ほのかは次男に声をかけた。当初は「女の学校だろうが」と嫌がる次男だったが、ほのかの熱意に負けて参加することになった。孝男が「お父さんが行ってやろうか」と名乗りを上げだが、父親同伴なんてと、ほのかが拒絶した。
 予報では観測には十分の晴天で、午前三時頃がピークとなる予定だ。当日は午後八時集合ということになり、まずは部室で流星群の予備知識としての説明会が始まった。参加者は顧問ひとりと部員七名を含めた十五人となった。
 先ずは冷やしたスイカが振る舞われ、和気あいあいとはじまった。部屋の電気が消され、ミニプラネタリウムが出現した。とたんに歓声が起きたが、その中にかすかではあったが呻き声が聞こえた。慌てて灯りが点けられ、声の主を探した。一番後ろに陣取っていた老婆が、苦しげに突っ伏していた。
 孫娘が「おばあちゃん、おばあちゃん」と声をかけると「ごめんね、ちょっと胸がね…」と声をあげた。意識がはっきりとしていることから「大丈夫よ。先生がご自宅に送りとどけるから。それまでの間、リーダーの美沙子さんが説明をつづけていてね」と生徒にあとを託そうとした。
 夜間の部活動を渋る教頭にたいして「大丈夫ですから」と強く申し出た手前、救急車騒ぎは避けたい顧問だった。老婆を背負って部屋を出ようとする顧問に、次男が噛み付いた。
「救急車だよ、救急車、呼べよ!」
「いや、それより…」と渋る顧問に「わたしなら大丈夫だから。みなさんは、お星さまをみてくださいな」と、老婆が力なく言った。
「だめだよ。いまは元気でも、とつぜんに悪くなることがあるんだから。急げよ!」
 生徒たちの非難の視線を感じた顧問が、渋々救急車の要請を行った。ほのかはシゲ子のことが思い出され、体が硬直していた。なにかをせねばと気ばかりが焦るのだが、体はまるで動かなかった。
「ほのか。冷やしたハンカチ、持って来い!」
 次男の声にも体は動かなかった。金縛り状態がとけたのは、救急車が到着してからのことだった。老婆の状態を確認した後に、身内の生徒とともに顧問が付き添った。結局鑑賞会は、そのまま解散となった。
「大丈夫か、ほのか」。次男の声に我に返ったほのかは、抑えていた感情が爆発した。大粒の涙とともに
「にあんちゃん、にあんちゃん。ばあちゃんに、ばあちゃんに…」 と、泣きつづけた。
「ばあちゃんがなんだって? ばあちゃんは、死んじまってるだろうが。そうか。思い出したのか、ばあちゃんのことを」
 泣きじゃくるほのかを、とに角も椅子に座らせた。心配顔の部員たちに「先に帰って」と手をふる次男だった。
「ばあちゃんに、ほのか、謝らなきゃ。ほのか、悪い子なの。ばあちゃんをね、ばあちゃんをね。汚いって思っちゃったの。だから、だから、お別れができなかったの。ごめんなさい、ばあちゃん」
 大粒の涙が、ほのかの指の隙間からこぼれ出る。ぼとぼとと、ほのかの太ももにこぼれ落ちる。
「そうか、そうか。そうだな、怖かったよな。にあんちゃんも怖かった。だけどな、ばあちゃんは、ほのかのことはよく知ってるから、大丈夫さ」

 学校の裏手にある土手の草むらに腰を下ろしたふたり、流星群をここで観ることにした。
「ほのかね、毎日ね、ばあちゃんとお話ししているんだよ。あそこの樹の下でね、少しの時間だけど、ばあちゃんが話しかけてくれるの」
「そうか、ばあちゃんと話をしているのか。そりゃ良かった」
 ほのかが次男の肩に頭を乗せた。柑橘系の香りが次男の鼻腔をくすぐる。
「知らない人が見たら、にあんちゃんとほのか、恋人同士にみられるだろうね」
 ほのかの口からこぼれたその言葉が、次男の気持ちをざわつかせた。ドクドクと波打つ心音が、次第に激しさを増してくる。常々妹だと言い聞かせてきた次男で、何気なくもらしたであろうほのかの「恋人」ということばが、何度もなんども頭の中でひびいた。
「ばかなことを言うな。ほのかは妹だ!」
 思わず強い口調になってしまった。そのあまりの怒声に、体をびくつかせたほのかだった。
「だってさ、ばあちゃんがさ、ほのかがまだ小学生のころにさ、よく言ってたもん。『大きくなったら、ナガオ兄ちゃんのお嫁さんになるかい』って。でさ、ほのかさ『なる、なる。あんちゃんとにあんちゃんのおよめさんになる』って言ったの。ばあちゃん、大笑いしてた」
 衝撃だった。〝あんちゃんの嫁さん? 俺じゃなくて、あんちゃん? そうか…やっぱり俺はよそ者なんだ〟と、疎外感を感じる次男だった。〝本当の家族にするには…〟というシゲ子の真意が分からぬ次男だった。
 そしてこのことがきっかけとなり、ほのかは老人介護の道へと進むことを決意した。
「なあ、ほのか。大学がいやならそれでもいい。働きたいのなら、公務員はどうだ。とにかく大手の会社にしなさい。介護の仕事は重労働だと聞くよ」
 猫なで声で説得にかかる孝男に対し、ぷーっと頬を膨らませて
「介護の仕事って、大事なんだよ。大丈夫! あたし、頑張るから」 と、譲らない。結局根負けをしてしまった孝男、渋々ながらも認めた。せめて自宅から通いなさいと説得にかかった道子だったが、自宅からの通学時間がかかりすぎることと、施設側に寮が整備されていることから、これもまた渋々ながら認めざるを得なかった。
 年の暮れも迫った頃に、再度ほのかに対し意思確認が行われた。大学入試については諦めた孝男だが、勤めるにしても老人介護だけはやらせたくなかった。施設の内情に詳しい孝男だ。毎年度に融資依頼の稟議書が上がってくる。その経営の厳しさについては、重々に分かっている。
「給料は安いし、重労働だよ。なにもそんなところに…」と、翻意を促す。
「こんな経済状況だからこそ、有名大学を卒業するべきだ」と、長男もまた力説する。「馬鹿な奴だ」と小声で舌打ちをした。次男が声を挙げようとすると、
「お前は黙ってろ! バイト生活のお前の話なんか聞きたくない!」と、孝男からの雷が落ちた。
「もう少し考えてみたらどうだ。それとも、見学に…そうだ。銀行に来なさい。お父さんの銀行だったら、今からでもなんとかなるよ」
「だって…」と嘆くほのかを援護してやれないもどかしさに苛立つ次男だった。心情的には分かるのだ。祖母を、これから旅立とうとする祖母を汚らしい物として見てしまったほのかの後悔の念は分かる。実のところ、次男自身も感じたのだ。アンモニア臭の混じった老人臭が、シゲ子が寝込んだことにより部屋の中に滞留している。そしてなによりシゲ子自身が発しているのだ。床に伏せっているシゲ子の手を握り返したとき、シゲ子の目尻からひと筋の涙が流れた。
「ありがとうね、ツグオちゃん」。そんな声が聞こえた気がした次男だった。そしてそのときに、不良グループに入りかけた次男に対してかけてくれたことばを思い出した。 同級生が複数人の他校生徒に殴られたことへの報復行為が、問題となった。グループ内では英雄視された次男だったが、相手によりひどい怪我を負わせたことが問題視された。然もその因が、ゲームセンター内でのトラブルだったこと、さらには授業を抜け出してのこともあって、厳しい退学措置がとられた。
 道子がせめて停学措置にと嘆願したが、孝男は学校に顔を出すことはなかった。私大出の教師如きに、なんで頭を下げなきゃならんのだ、と道子に告げる孝男だった。その夜烈火の如く怒った孝男を制して、次男を諭してくれた祖父母のことばを思い出した。
「悪事を働いたからといって、悪人とは限らないんだよ」
「悪いことをすれば、報いを受ける。いや、受けなきゃいかん。そして善いことをつづければ、こころが清められていくもんだ。誰にも見られていないからいいやってもんじゃない。お天道さまが、空の上から見てなさるんだ」
「ばあちゃん、ありがとう。今まで、ほんとにありがとう」
 こころからの感謝を言えた次男だった。そのことを、ほのかに話してやりたかった。きちんとしたお別れがあのときにできなくても、お墓のなかに眠る祖母にたいしてこころから手を合わせてお祈りすればいい。きっと分かってくれる。そう伝えたかった。
その次男にも大きな心残りがあった。己の出生についてシゲ子に問い質せなかったことが、こころのど真ん中にでんとあった。激高しやすい次男に対して「定男おじさんに似てるわね」と帰り際にかけられたことばが、次男の疑念を確証に変えた。次夫の思いを知らぬシゲ子にしてみれば軽い冗談まがいのことばだったが、次男は額面通りに受け止めてしまった。長男が聞いた親戚たちの話を、次男もまた立ち聞きしていたのだ。
「道子さんもよう頑張るわ。実の子でもないのにねえ」
 そう言えば、と思い当たることが多々ある次男だった。孝男の冷たい視線、道子からの厳しい叱責。それらが次男を苦しめた。自暴自棄になりかけた次男を、優しく押しとどめてくれたのがシゲ子だったのだ。
「人はね、それぞれに持っているものがあるのよ。比較しちゃだめ。ナガオにはナガオらしさがあり、あなたにはあなたらしさがあるの。今いくつだい? 婆ちゃんの歳は知ってるかい? これから先、まだ何十年とあるんだよ。どっしりと構えてなさい」