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| (十八前のことだ) 十八前のことだ。 孝男と道子の結婚生活も五年を数えた。 子宝に恵まれぬふたりをよそに、高校三年の定男が、同級の女子生徒を孕(ハラ)ませてしまった。真剣な思いのふたりは、卒業と同時に結婚すると宣言した。親同士の話し合いを持ったが、すぐに結論が出るようなことではない。 女子生徒の親の怒りは激しく、ただ定男を詰るだけだった。道孝にしても、ただただ頭を下げるしかない。二度目の話し合いの折りに「申し上げにくいことですが」と前置きをして、中絶という禁句を口にした。 女子生徒の親は、男の親だからと激怒をし、「無責任です!」と詰りはするものの、ふたりを結婚させることにはためらいを持った。といってすでに九週目に入っている。急いで結論を出さねばならない。医師からは「十一週という、優生保護法のかべがありますから」と、人工妊娠中絶についての説明を受けている。冷静さを取りもどした双方のあいだで「中絶もやむなし」の結論になったとき、ふたりが家を出た。 「あんたんとこの息子が娘を連れ出しよった。どう責任を取ってくれるんだ!」 女子生徒の親が怒鳴り込んできた。オロオロとするシゲ子を、 「あんたの教育が悪い!」と責め立てた。 「若いふたりの過ちだ。片方だけを責められても困る」と、孝道が今度ばかりは反論した。女子生徒の親が警察で誘拐だと騒ぎ立てたものの、家出捜索として受理することになった。 家出中の定男など相手にする会社はない。ならばと深夜営業の外食産業に応募してみたが、親の承諾書を求められてしまった。三日ほど歩き回って七軒目を断られたとき、定男の心が折れた。 ワル仲間との遊びに興じはじめた定男に、身重の女子生徒が反発した。喧嘩が絶えなくなり、とうとう「赤ちゃんなんか、いらない!」と叫んだ。言い争いに嫌気を差した定男が、やむなく孝道に泣きついた。結局ふたりは別れることになったが、定男はそのまま家を出て戻ることはなかった。 ふたりの赤児は孝男が引き取ることになった。渋る道子に対しシゲ子が言い放った。 「跡継ぎができるんだから、感謝して欲しいぐらいだよ」 そのことばを聞いた孝道が、すぐさま道子に頭を畳にこすりつけんばかりに懇願した。 「婆さんの戯言(タワゴト)だ、気にせんでくれ。道子さんには申し訳ないが、産まれてくる赤児に罪はない。養子と考えんでもなかったが、相手のお嬢さんのことを考えると…な。すまんが、こらえてくれんかね」 慌てたのは道子だ。舅にここまでされては断るわけにもいかない。孝男は、お前に任せるの一点張りだった。 〝あたしはあなたを愛せないかもしれないけれど、大事に育てるから勘弁してね〟 家族の誰にも愛されない赤児だった。 孝道の懇意にする産婦人科医の計らいで、孝男・道子夫妻の実子として届けられた。孝男によって、長男と書いてナガオと呼ぶ名前が届けられた。 皮肉なことに、その二年後に二男が授かった。そしてツグオと読む次男と名付けられた。不妊治療に通うことをやめて後の妊娠だった。気持ちに余裕の出来た道子ゆえのことなのか、孝男に「あの金はなんだったんだ」と、嫌味のことばを受ける道子だった。 孝男の長男に対する無関心さは、実子でないからという理由があった。しかし次男に対しても無関心な孝男の心底が分からない。名前からして「第一子が長男なら第二子は次男にすべきだろうが」と、届けられてしまった。 子育ての手伝いなど期待するわけではなかったが、滅多に居ない休日にほんの少しの時間でも長男の遊び相手をと言う道子にたいし、孝男の返事は冷たいものだった。 「俺は闘っているんだ。お前たちの暮らしを守るために、少しでも早く高い地位に就きたいんだ。たまの休日ぐらいはゆっくりさせてくれ」 孝男の銀行における激務については、一年足らずとはいえ道子もまた銀行の窓口業務に就いていたのだ、良く分かっている。しかし孝男の子どもたちに対する愛情の薄さには納得がいかない。道子の知る父親像とはまるで違う孝男に、戸惑いを感じた。 道子は、実子との分け隔てなくという思いから、泣き叫ぶ赤児を後目(シリメ)に長男に対する世話を優先した。そんな道子にシゲ子が苦言を呈した。しかし道子は相手にしない。 「大丈夫ですよ、お義母さん。今はこういう育て方なんですから。泣いている赤ん坊を後回しにすることで、上の子は安心するんです。そして下の子に愛情を感じるようになるものなんですよ」 「口出しは遠慮しろ。定男の子どもを面倒見てくれているんだ。感謝こそすれ、だ」 常々、孝道がシゲ子に言うことばだ。そんな孝道に、シゲ子は反論することができない。必然、気持ちの中に鬱々としたものが溜まっていった。そして火の点いたように泣き叫ぶ次男をあやしながら 「そんなものかねえ。あたしたち古い婆さんには分からないことなんだけどねえ」と言うのが精一杯だった。そして今になって、長男を道子に預けたことを後悔した。 不遇の三十代、孝男はそう思っている。同期の中田に後塵を拝したのは己の才覚不足ではなく、上司の恣意的人事だと思っている。直属の上司に恵まれなかった己が哀れだと思っている。そして、上司に嫌われたからだと思っている。担当させられた地区には目ぼしい企業はなく、資産家も居ない。中田が担当した地区には資産家が複数人居住していたし、本店に移動した山田は企業街を担当していた。なんで俺だけ…という思いが渦巻いた。 愚痴をこぼし合う相手には事欠かない。孝男と同様に、他支店でも脱落者はいる。そんな中に、入行当時には気が合わずに口論が絶えなかった江藤が居た。本店での研修時にバッタリと顔を合わせたふたりは、互いの愚痴をこぼし合うようになった。 「息子なんて、要らないんだよ。考えてもみろよ、女房を取り合うライバルじゃないか。まったく夫のことを顧りみなくなるんだ。変な話、おっぱいをとられるんだぜ。けどまあ、十年も経つと女もだめだな。しおれちまったよ」 江藤に漏らした孝男の本音だった。 「面白いことを言うな、君は。しかしあんな美人の妻女なのに、不満なのか? それは俺のセリフなんだがな。けどまあ、俺は気楽なもんさ。出世を諦めたら、ぱあっと世の中が開けたよ。案外に銀行マンというのは、モテるものだからな」 意味ありげな笑みを浮かべながら、孝男を夜の遊びへと誘いこんだ。孝男にしても企業がらみの接待で、夜の街で遊ぶことはある。科を作るホステスも多々いる。しかし孝男にはなんの感情も湧かない。ただ香水をプンプンさせる女、厚化粧の女としか見えていなかった。己を律する心が働き、ブレーキを外すこともない。弱みを握らせるはずもないのだ。 しかし江藤と連れだっての遊興は、接待時のそれとはまったく違うものだった。孝男の警戒感がなくなり、たががはずれてしまった。江藤がそこらのスケベ親父に見える。嬌声を上げるホステスたちとの掛け合いを、当初は不思議な気持ちで見ていた。 〝なんて恥知らずなことを……〟。〝そこまで酔い潰れるなんて……〟。〝わたしにはムリだ〟。否定的な感覚に囚われていた孝男だったが、こっちにおいで、こっちの水はあーまいぞ、とばかりに手招きしてくる江藤とホステスたち。ふと高校時代の己を思い出した。 大学受験のためにと中学時代から毎晩予備校に通い、「たまには息抜きしろよ」というクラスメートたちの誘いを断りつづけた日々。進学校に入学してからも勉学に勤しんだ。「勉学? 受験勉強が勉学か?」。ただひとり仲の良かった学生が、とつぜん受験勉強から脱落した。しかしそんな孝男が、女児が生まれた途端に変貌した。盲目的愛情を示す孝男で、長男や次男に接するおりとはまったく違う表情や態度を見せた。長男に対する接し方については、己の実子ではないからと思えないでもない。しかし次男は、まぎれもなく実子なのだ。 名前にしてから、道子には納得が出来ない。初めに長男と付けたから、第二子は次男でいい、いや、でなければおかしいだろうと、まるで他人事のように言う孝男だった。ほのかの折には、まさか三女子(みなこ)と…不安になった道子だったが危惧に終わった。道子が怖れた名前ではなく、ほのかと名付けてくれた。 「どうだ、良い名前だろうが。ほのかに香る…だ」 得意満面に語る孝男は、新婚当時の孝男そのものだった。安堵する半面、不安な思いも過(よ)ぎった。あまりにも急激すぎる変貌ぶりが気になる道子だった。そしてその不安は、すぐに的中した。ほのかに対する愛情の注ぎ方が尋常ではないのだ。孝男の偏執とも思えるほのかに対する愛情の注ぎ方は、道子に重くのしかかっていた。 長男そして次男には決して行うことのなかった湯浴みを、嬉々としてほのかには行っている。当初こそ微笑ましく見ていた道子だが、泣き声ひとつ逃さない孝男だ。次第に懐疑の目を向けるようになった。そして不用意に漏らしたシゲ子のひと言が、道子を失意のどん底に落とし込んでしまった。 「孝男ったら。あの娘さんを、まだ引きずっているのかねえ。たしか、鈴木ほのかさんだったわよねえ」。不用意なのか、それとも道子に対する意趣返しなのか…。 孝男の初恋は、相手の父親の転勤で告白すらできない片思いに終わった。クラス違いということもあって、遠目からただ見守るだけの孝男だった。そして高校の卒業を待たずに、転校してしまった。姿形だけの相手であり、会話どころか声すら聞けていない。その人となりもまるで分からない。しかしそれでも、孝男のこころのなかにしっかりと刻まれた。 成人式後の同窓会において、酒の回った女性陣から声をかけられた。 「鈴木ほのかさん、覚えてる? あなたのことが気になってたみたいよ」 「そうそう。転校するって決まったときなんか、夜通し泣いたって、ねえ」 単なる酒席における戯(ざ)れ言(ごと)なのか、どこまでが本当なのか判然としなかったが、孝男の思いに一気に火が点いた。消息を誰彼となく聞くが、はっきりとした情報を持つ者はいなかった。実家のあるこの地にいつかは戻ってくるさと、にやけた表情を見せながら言う者がいた。からかい半分の情報かとも思ったが、一(いち)縷(る)の望みを持たないでもなかった。 ほのかの誕生後には酒宴の席も断り、接待だといっては出かけていたゴルフもパタリとやめてしまった。自慢のゴルフバッグも、粗大ゴミとして処分してしまった。代わりに、ベビーカーが陣取ることになった。周囲から「良い旦那さまねえ。羨ましいわ、奥さんが」と、事あるごとに声をかけられる。「ええ、まあ…」と口を濁す道子には、孝男の奥底の気持ちが分かっているだけに、辛いものだった。 ほのかが生まれてからというもの、定時退社が常となった。帰宅するや否や着替えもそこそこに、ほのかの元へと行く。すやすやと眠っているほのかを見てはうんうんと頷きつつも「もっと早くに昼寝をさせろ」と、道子に苦言を呈する。時にむりやり起こしてぐずらせてしまう。 「抱き癖がついてしまいますよ」と、道子がこぼそうものなら 「なら、お前が抱かなければいいじゃないか! ミルクは俺が飲ませてやる」と、烈火のごとくに怒り出す。 たまたま買い物が遅くなった日に、「風邪を惹かせるつもりか。肺炎にでもなったらどうするつもりだ」などと言いだし、物を投げ付けんばかりに怒り出した。あげくには「買い物なんぞ宅配サービスにしろ!」と言い出す始末だった。ほのかの健康を心配してのことではない。孝男の帰宅時に、ほのかが在宅していないことが問題なのだ。 毎日が定時帰宅ならば問題はなかった。ある時、胸騒ぎがしたからといって半休を取って帰宅したことがあった。その折に外遊びをと公園に出かけていた道子に対し、罵詈雑言を浴びせた。その怒声におどろいて泣き叫ぶほのかをあやそうとする孝男だが、手に負えない。なんとか寝かしつけた道子に対し、その夜、日付が変わるまで罵りつづけた。 シゲ子が夕食時に倒れたと連絡が入ったとき、真っ先に駆けつけたのはほのかだった。床の中で苦しげな表情を見せるシゲ子に近付いたとき、弱々しい声で「ほのかちゃん…」と呼びかけられたが、その場に立ちすくむという思いも掛けぬ反応を見せた。 「だれ、だれ…」。小声で問いかけるほのかだった。布団のなかの土色の肌をした老婆は、ほのかの知る祖母ではなかった。いつも身ぎれいにしているシゲ子とは、まるで似てもにつかぬ老婆だった。いや、醜悪な物体に見えてしまった。 「シゲ子、シゲ子。ほのかが来てくれたぞ。良かったな、これでもう元気になれるぞ」 孝道がシゲ子の耳元で囁く。かすかに口元に笑みが浮かんだ。布団の中からゆっくりとしわだらけの手が出て、明らかにほのかを呼んでいる。 「いや、いや!」と叫んだなり、踵を返して家に戻った。「ばあちゃんじゃない。ぜったいちがう!」。何度もそう叫びながら走るほのかだった。 シゲ子が息を引き取る前夜のことだ。付き添っている孝道に対して、シゲ子が力ない弱々しい声で語りはじめた。 「ナガオは一見(いつけん)優等生に見えますけど、心のなかにはどす黒い澱(おり)が渦巻いているんですよ。そのことを知っていたくせに、わたしときたら見て見ぬ振りをしてしまって。ナガオも可哀相な子です。実の親に捨てられたのですから。孝男にしても、渋々引き取ったわけですし…」 眉間にしわを寄せて苦渋の表情を見せながら、孝道もまた力なく答えた。 「といって、実母を責めるわけにもいかん。両方の親に反対されては…。まだ十七歳の娘さんなんだ。周囲に反対されればされるほど、燃え上がったんだろう。しかし、祝福されずに生まれ落ちた赤児ほど哀れなことはない」 大きく息を吐いたのち、窓の外に目をやった。今朝から降りはじめた雨は、夜になっても止む気配をみせない。 「いま思えば、定男の実子としてわたしたちが育ててやっていれば良かった。今さらですけど」 「お前は悪くない。すべてはわしが悪い。こんな事になるのなら、反対しちゃいかんのだった。一緒にさせることができんとしても、お前の言うとおりに、わしらが育てれば良かった。そうすれば…」 どれほどに後悔してもしきれないふたりだった。重苦しい空気のなか、互いをかばい合っての会話がつづいた。 |