にあんちゃん


(警察署の一室においてのことだ)

 警察署の一室においてのことだ。
「あなたよ、あなたのせいよ! あなたの性格を受けついでしまったのよ、ツグオは」
 道子の怒声がろうかにまで響きわたり、せわしげに行きかう職員たちの足を止めさせた。なにごとかと部屋を飛びだす者までいて、ことの次第がわかるまで騒然となった。
 にが笑いをしつつ部屋をでてきた老刑事の「痴話げんかですよ、単なる」という説明に、やっとそれぞれに平静がもどった。
「あなたの偏執な愛情が、ツグオにもあるのよ。鈴木ほのかさんという初恋のひとが忘れられなくて、娘にほのかなんて名前を付けたんでしょ! 三十年よ、三十年。想いつづけているんでしょ!」
 道子のそんな悲痛なさけびも、なじられている孝男にはまるで理解できない。道子の射るような視線のなかにはげしい憎悪の炎がもえているのだが、孝男にはまるで見えていない。ワッと泣きくずれる道子にたいし、どんなことばをかければ良いのか、またどんな態度をとれば良いのか、孝男は立ちすくんだままだった。警察官たちの視線が、孝男にするどく突き刺さってくる。
なんなんだ、これは。なんでこのわたしが非難されなきゃならんのだ。不始末をしでかしたのは息子だろうが。子どものしつけは、母親の仕事だろうに
 長椅子に突っぷして泣いている道子がうとましく思えてきた。女のなみだに男はよわいいというのが通説だが、こと孝男に関してはまるで当てはまらない。
 孝男のつとめる銀行においても、上司からの叱責に給湯室にかけこむ女子行員がいる。男子行員のほとんどが、その上司にたいして「そこまで言わなくても」といった顔を見せる。しかし孝男はそう思わない。どころか心内で、泣くぐらいなら手を出すなよ、と思う。己の能力以上のことに手を出して、結果失敗したとなれば叱責を受けて当然だ。過信は慢心だ、と思う。
 取引企業についても同じことを思っている。この不況のさなか、運転資金の追加融資を声高にせまる企業が増えている。本店での支店長研修時には、社会貢献をと口すっぱく言われる。他行が手をひいた企業でも、大化けすることもあるのだからと熱弁をふるう講師がいる。
 しかしその結果責任は、すべて現場の支店長にかかってくる。大口融資で本店の許可が下りたとしても、結果責任は支店長ということだ。支店長である孝男は、お客さまは大切にと、朝礼では訓示する。しかし朝礼の訓示など建前に過ぎない。本音では危ない会社からは手を引け≠サして弱き者は市場から去れ≠ニ思っている。
 奥の部屋のドアがひらき、肩をポンポンとたたかれながら、次男(ツグオ)が出てきた。口を真一文字にむすんだその顔からは、なんの表情もよみとれない。孝男に気づいた次男だが、悪びれるふうもなくそっぽを向いた。とたんに、孝男に怒りの思いがわいた。
“そもそもツグオは、なんで老人に暴行をはたらいたんだ。ほのかのつとめる介護施設だと言うが、なにがあったんだ。第一、ほのかさんに対するわたしの気持ちと、今回のツグオのことと、どんな関係があるんだ”
「ごめん、母さん……」
 次男の声が道子の耳に入ったとたん「この子って子は」の言葉とともに平手打ちが飛んだ。そして黙ってうなだれる次男の胸を何度もなんども叩く道子の口から、思いもかけぬ言葉が出た。
「お前とほのかは兄妹なの。血が繋がった、ほんとの兄妹なの」
絶句する次男に対し追いかけるように放たれた言葉が、次男を混乱の極地に立たせた。
「定男おじさんの子どもは、ナガオなのよ」
なんだ、なんなんだ。なぜ、今なんだ。こんな他人の居る場所で言うべきことなのか。いやそもそもそのことと今回のツグオのこととどういう関係があるというのだ
 孝男もまた混乱した。歪んだ顔から「お、お前。なにを言い出すんだ」と、声を絞り出すのが精一杯だった。両目をカッと見開いて次男を睨み付ける孝男に、道子が毅然と言い放った。
「ツグオは、あなたの子どもじゃないと思っていたんですよ。それで、あなたの大事なほのかに恋心を抱いてしまったんです」
「母さん、やめてくれ! 俺は、そんなんじゃない。ほのかが泣いてるって聞いたから、いや妹にいたずらをしているって聞かされたから、それで…」
 俯いたまま次男がくぐもった声を出した。
「いいのよ、ツグオちゃん。あなたの気持ちは、お母さんが一番分かっているから、ね」
 次男をしっかりと胸に抱きながら、とんとんと軽く背中を叩いた。
 なおも問い質そうとする孝男に
「ボケ老人の、ちょっとしたイタズラですって。度が過ぎただけのことなんですよ」と、大したことはないと強調する道子だが、次男がはげしく噛みついた。
「じょうだんじゃねえ! あいつは、ほのかを泣かせたんだ。許せねえ。今度やったら、殺してやる。ぜってえ殺してやる」。次男の据わった目は、激しい殺意にも似た色を秘めている。
「ちょっと待ちなさい。イタズラとは、どういうことだ。ほのかはどうしているんだ。警察に居ると聞いて飛んできたんだぞ」
「まあまあ、それはとんだ誤解でしたわね」
 素知らぬ顔で、道子は受け流す。次男が警察にいるといっても、孝男が来ることはない。しかしほのかが居るとなれば、なにを置いても駆けつける孝男だと知る道子だ。ひと言「ほのかが泣いています」と漏らしたことばで、孝男は飛んできた。
 人通りの多い往来では大きい声を出すことも出来ず、また道子を叱責することもできない。イラつく孝男は、唇を真一文字に結んでタクシーに乗り込んだ。分かってはいることだったが裏切られたという思いがわき上がった次男は、踵(キビス)を返して脱兎のごとくに走り去った。慌てて引き止めようとする道子に「ほっておけ、あんな奴のことは。それより、ほのかだ」と、車内に引き込んだ。
自宅に戻るやいなや、孝男の怒声が飛んだ。
「道子、ほのかはどこなんだ! そもそも、なんで介護士なんだ。ほのかにはどこでもあるんだぞ。銀行が良ければ入れてやるし、商社が良ければ話をつけてやれる。公務員はどうだったんだ。なんで、なんで、あんな老人のばかりのところに…」
 苦渋に歪んだ顔を見せて、力なくソファにへたり込んだ。そんな孝男を勝ち誇ったような表情で道子が見下ろす。
「あなたには分からないの、ほのかの気持ちが」と、詰るように言った。どういうことだと顔を上げる孝男に
「お婆ちゃんよ、おばあちゃんのこと。それが引っかかっているの、今でも。キチンとしたお別れをしていないでしょ」と冷たく言い放った。
「お別れしていないって、あれは、父さんが…。しかしそれがどうして、介護士なんだ」
「あなたから逃げ出したいという気持ちもあったでしょうね」
「どういうことだ、それは。ほのかには十分なことを、いや、子どもたちには不自由な思いはさせていない。みんなそれぞれに好きなことをさせているじゃないか」
 何の不満があるのか、と道子をにらみ付けた。
「ま、ツグオは別だが。あいつはだめだ。どうしようもない奴だ」
「それよ、それ。ほのかはね、あなたのそんな偏執さが我慢できなかったの。自分だけが特別扱いされて、特にツグオに対する冷たさが耐えられなかったの」
「馬鹿な! あいつはだめだ。何をやらせても、ナガオの足下にも及ばん。情けない奴だ」
 激しく首を振る孝男に、道子が冷然と告げた。
「ツグオは、あなたにそっくり。好き嫌いが激しくて、気に入った人間にはとことん入れあげるけど。嫌いだとなると徹底的に排除して。それを相手の人格のせいにするの」
 口を挟もうとする孝男を手で制しながら、なおも続けた。
「それに、清潔好きというより潔癖すぎるの。家族が触っただけで、同じ物は嫌がるし。髪の毛一本ですら目くじらを立てて責め上げるし」
「それはだな。お前の掃除が行き届いていないからであって、手抜き癖だろうが」
 苛立つ孝男が、道子の言葉を遮った。ほら相手のせいにするとばかりに、大きくため息を吐(ツ)いてみせながら「ツグオはね」とつづけた。
「ツグオはね、知っているの。あなたに似ていることを知っているの。だからいつもあなたを避けてるの。そしてね、あなたはそのことに気付いてないのね。気付いてないけど、感じてるのよ。だからツグオがナガオに負けることが許せないの」
 次男が孝男に似ているということが許せないのだと、道子が指摘した。「馬鹿な……」と言いつつも、否定できない孝男がいた。