〜第二章 良き友よ〜

〜第二章 良き友よ〜

 わたしには、ふたりの友がいる。高校時代からの付き合いで、四十有余年ということになるだろうか。世間一般流に言うと、親友ということになる。しかしあえてわたしは、友と呼んでいる。かつて某政治家と某経済人が、刎頸の友と称されていた。それほどに相手に心酔していることなのであろうか。
 その政治家については、おもしろい逸話がある。秘書の言なのだが、ある陳情客について諫言をしたときのことだ。するとその政治家は、「故郷の○○県人に悪い奴はいないんだがな」と秘書に告げた。海千山千の政治家が、そんな言をもらすとは、たしかに信じられぬことだ。しかしわたしは、その逸話を信じている。それほどに郷土愛の強い政治家だと思えるからだ。そしてもうひとつ。これが一番の因なのだけれども。「△△さんらしいや」。人情味のある人物で、わたしの敬愛する政治家なのだ。これは余談だけれども。
話をもどそう。刎頸ということばを検索してみると、「互いのために首を斬られても後悔しないような仲」とあった。中国の戦国時代に趙で活躍した、藺相如と廉頗が残した故事から紡がれたということだった。
 それがふたりの友に当てはまるかどうか……、相手もあることゆえにこれ以上の思索はやめることにした。軽々に、親友などということばを使いたくないのだ。しかしそれは四十年という月日を考えてみれば、おのずとそこに答えはあるような気がする。
 アーク・リアクターならぬペースメーカーを入れることになる、一年前のことだ。
「お前は、杓子定規なんだよ」
「そうそう。臨機応変ってことば、お前の辞書にはないだろ」
「会社で浮いてるっていうけど、そんな性格が災いしてるんじゃないか?」
 だれの発案だったか覚えてはいないけれども、それぞれの誕生日を三人で祝おうということになった。幾ばくかの金員を出しあって、プレゼントを買い求めた。なにを贈りあったのかまるで覚えていないけれども、腹をかかえて笑いあった記憶がある。ろくなものは贈っていないだろう。
 ああ、思いだした。コップだった――どこか温泉街に社員旅行に行ったおりに買い求めたものだった。底の部分に写真が入れてあるのだろう、水を入れるとそれが浮き上がってくる。その写真が決まってグラマラスな女性の水着姿だということだ。
 そして二十歳を過ぎてからは、当然のごとくに飲み会に変質していった。当初は赤ちょうちんだった。だだっ広いフロアにテーブルが並んでいて、仕切りも何もない。そして大半がおじさんたちでは身の置き場がなかった。何やかやとからまれてほうほうの体で逃げ出した。それからあちこちと渡りまわったが、なかなかお気に入りの店とはいかずに、しだいに繁華街へと移っていった。
一度だけ豪遊することになった。瀬尾が接待に使った料理屋になった。元来川魚が食せないわたしだったが、人生初の鮎の塩焼きに出会った。「天然の川魚はにおわないから」という瀬尾の言を信じて、恐るおそるひとくちを口にした。「えっ?」。思わず声を出した。それからふた口み口とつづけてしまった。
「うまい!」。ふたりのあきれ顔をよそに、一気に平らげた。不思議な物で、日本酒を好みとしないわたしだったが、その日だけは結構な量を飲んだ。日本酒通の瀬田に言わせると、一般に出回っている酒とはちがい、フルーティな香りの日本酒だということだった。言われてみれば、果実酒のような甘みがあるように感じられた。その口当たりの良さから、普段からは考えられぬ量を飲んでしまった。
 残念ながらあまりの高額に、その店に足を運ぶことは二度となかった。そしてわたしは、体調と相談しながらのビールへと移っている。それも一本だけということで、その後は似た色をしているウーロン茶に取って代わられている。そして今の場所は、駅近くにあるフランチャイズの居酒屋となった。交通の便が良いということもあったが、一番の理由はその安さということになる。家庭持ちともなると、それなりの店に落ちつくということだ。
 ワンフロアに席がひしめき合ってはいるが、それぞれにパーティションが置かれている。個室とまではいかぬが、それなりにプライバシーが保たれている。よほどの大声を出さぬかぎりは、それぞれの会話が邪魔をされることはないのだ。今夜の酒の肴は、わたしの愚痴話となっている。
 以前から気になっていたことを、部門の長である課長に進言したのだ。そのことで、直属の上司である女性社員から苦情を言われた。普段から目の敵にされていたこともあり、口答えをしてしまった。その口調が少々、いや多分にきつくなってしまったことで、課長に泣きつかれてしまった。で、先日にお小言をくらったというわけだ。そのことを本日の飲み会において、議題とした。
「うんうん。箱の積み方なんか、どうでもいいだろうに。荷崩れするかもなんて、考える必要あるのか? 順に運送屋が引き取っていくんだろ?」
「タメ口が気になるって、それを気にするお前が時代に合ってないんだよ」
「ときに作法どおり、ときにざっくばらんに、だよ。人はひと、自分はじぶんだ。自分の作法を押し付けちゃだめだ」
 自分でも分かっている。いまは一介の契約社員で、相手は正社員だ。指導を受ける立場なのだ。多少の威圧的な態度は、我慢せねばならない。たとえそれが、うら若き女性であってもだ。
「女か? そうか、女かあ…。それは、ちょっときついなあ」
「ああ、きつい。涙が出るくらいきつい」
「無視しろ、ムシ。で、いくつなんだ?」と、瀬尾が聞く。
「二十代の…三十までは、いっていないと思う」
「美人か?」
「うん。まあ、そうだろうな」
「ますます、きついな。でもさ、できれば仲良くしたいよな」
 村井からは、彼らしく波風を立てないようにとの忠告だ。
「いや、そいつは無理だ。こいつにそんな芸当はできない。だろ?」
 間髪入れずに瀬尾が言う。わたしは苦笑いをするしかない。
「はいはい、って言ってれば良いんだよ。面従後背、面従後背!」
「村井の特許だ、そりゃ。そうやって、中卒で四十五年働いてきたんだよな。そしていまは定年退職して、嘱託でさらに良い思いをさせてもらってるんだよな」
 ガチャガチャと空のジョッキを運んでいくバイトの娘が、通路を通っていく。その後ろ姿を通路に顔を出して追いかけながら、瀬尾がニヤついている。
「かつての部下に、へこへこと頭を下げて仕事してるんだ。俺ぐらいのもんだ、そんな処遇に耐えられるのは。けど、山本はだめだ! そうだろ? そんな芸当はできないだろ?」
「ああ、できん。といって、正面切って喧嘩もできない。村井の言うとおり、面従後背で行くさ。要は、黙って頷けば良いってことなんだから」
 通路にまで体をのり出していた瀬尾が、バイト娘が視線から外れたゆえのことだろうが、顔が戻ってきた。そしてジョッキをかかげると
「よし! それじゃ、飲もう。山本は、ウーロン茶か。糖尿と心臓のダブルじゃ仕方ないな。おい、村井。空けろ、あけろ。ああ、それにしても、女が欲しいぞ。還暦を過ぎてなお、盛んなんだぞ、俺は。いるんだよな、良い女ってのは。聞いてくれよ、おい。あの人とやれたらもう死んでも良い、なんて思えるくらいの女性が」と、のろしをあげた。
「山本は良いよな、趣味があるから。瀬尾だって、それはある意味生きがいだよな」
「そうだな、美味い飯と女。このふたつのために生きてるようなもんだ」
 中ジョッキの生ビールを一気に飲み干して、「ぷはあ!」と大きく息を吐く。
「それと、酒だ!」
「俺には、なんにもないや」。村井もコップを空にしながら、ポツリと呟いた。
「作ればいいじゃないか」
 簡単なことではないと思いつつも、そう言ってしまった。これがわたしの限界なのかもしれない。相手の境遇や思いなど、まるで頓着せずに口にしてしまう。おそらくのこと、相手に不快感をあたえているだろう。
「女に走れ! 男をとり戻せ!」
 突然に瀬尾が叫んだ。ほかの客に聞こえているだろうほどの大声で。たしかに瀬尾も、頓着することはない、ように見える。ただ瀬尾の場合は、相手をみてのことだと思う。誰彼となくいうことではなく、気の許せる相手だけだろうと思う。そして、空気もしっかりと読んでいる。でなければ、三十年近くの自営業などつづくわけがない。
「じつは……」。声を潜めて、村井が話しはじめた。
「若い女の子とひと晩を過ごしたいんだよ。どうしたらいい?」
 呆気に取られたわたしだったが、村井が乗り気になりはじめた。冗談とも本気ともわからぬことを言いはじめた。
「よしよし、やっとその気になってきたか。で、若いというと、幾つぐらいだ? 女はな、三十いや四十が良いぞ。俺が狙ってるのも、四十ぐらいだと思うんだよな」
「そんな年増は、いやだ。二十代の若い子が良いにきまってる。なあ、山本。そう思うだろ?」
 村井も真顔で答えている。こいつら、本気なのか? と戸惑いを感じてしまった。
「こいつは、だめだ。女は卒業してる。そうだろ?」
 瀬尾が決め付けてきた。苦笑いを見せたわたしにたいし、村井が問いかける。
「そうなのか? もう、勃たないのか? じつは俺もなんだよ。力がさ、ないんだよ。けど、ふにゃって感じで。それもだ、無理やりに起こしてだぜ」
 力のない自嘲気味の声で、村井が言う。すかさず瀬尾がかぶせてきた。
「俺なんか、バイアグラを使うかどうかの瀬戸際だぞ」
「だからな、若い子だと大丈夫かな、と思うんだよな。いちど試してみたいんだ」
「よし、教えてやるよ。金を用意しろ。そうだな、十万もあればいいかな」 
 身を乗り出しての瀬尾にたいし「そりゃ無理だ、少しまけてくれ」と、村井が言う。冗談なのか本気なのかわからぬままにわたしも、悪乗りしてしまった。
「ソープランドに行けよ。高級店の方が良いぞ。サービスがちがうからな。こころがある」
 意に反して、村井はムッとした表情を見せた。“やっぱり本気なのか?”と、信じられぬ思いになった。真面目一本の村井のはずが、一体どうしたというのか。いや待て。冗談というか、単なる願望とも受け止められるじゃないかと、思い直した。現実味のある方策をわたしが示したものだから、慌てたのかもしれない。それが証拠に、瀬尾にたいし盛んに交渉をつづけている。
「十万は無理だ、まけてくれ」
「そのくらいの金、用意できるだろうが。たっぷりと退職金が、入ったじゃないか」
 村井の申し出に対し、瀬尾も譲らない。
「母ちゃんに渡してしまった、そんなの」
「情けない奴だな、まったく。それじゃ、うーん、どうだ八万は行けるか?」
「もうひと声、頼むよ」
「七万は…だめか? ええい、いくらなら良いんだよ」。とうとう、さじを投げてしまった。
「いま手元にあるのは、五万。昼食代が要るから、だから…」
「あきらめろ、もう。そんな計算なんかする奴に、若い子がついてくるわけがない。どーんと、札束をテーブルに積み上げるくらいにしなくちゃ」
「それじゃ、一番上だけ本物でさ…」
 まるで漫才になってしまった。やはり本気ではないようだ。安心するとともに、淋しい気もした。人生の終焉が近づいていることを、三人が、共に意識しはじめたという事実がそこにあるのかと。それにしても最近は、まず女性の話になってしまう。若いころの武勇伝をたがいに披露して、たがいを褒めたたえあう。老年に差し掛かった男たちの哀しい性(さが)だろうか。そしてひとしきり盛り上がったあとには、判で押したように「いまの政治家はなんだ! いや政治屋だな、もう」と、世相斬りになっていく。そしてやがて、酔いつぶれていく。

 手術を終えて三日目のことだ。ベッドでうつらうつらとしていたわたしに「おい、生きてるか!」と、声をかける者がいた。瀬尾だった。相変わらず口が悪い。
「ああ、もちろん。アイアンマンなんだぞ、今じゃ。調子が良くなったよ、すごく。まったく嘘みたいだぜ、昨日までが」
 体調の良さを見せるべく、飛び起きて見せた。
「そりゃ、良かった」
 破顔一笑の瀬尾の顔があった。その人なつっこい笑顔は、まさしく水戸黄門の印籠ものだ。なにかしら安心できる。そして半歩下がった場所に、細君が居た。
「これは、これは。奥さんご同伴でしたか、申し訳ないです」
「ご無沙汰してます。お元気そうで、なによりです」
 相変わらず、愛くるしい顔だ。たしか、ひと回り近く年の差があるはずだ。
「こんな若い嫁さんを貰いやがって!」
 そんなことばを投げつけた記憶がある。背の低い女性で、背の高い瀬尾と並ぶと、まさしくノミの夫婦だ。
 休憩室に移動したわたしたちに、細君が缶コーヒーを用意してくれた。
「なんだ、おい。山本は、無糖に決まってるだろうが。糖尿なんだぞ、怖いこわい糖尿さまなんだからな。買い直して来い」
 大げさに手を振り回して、部屋から追い出した。
「いや、いいよ。一本くらい、大丈夫さ。奥さん、奥さん……」
「いいからいいから。癖になる、行かせろ。それでなくても、最近口答えするようになってきてるんだから。それよりどうなんだ、セックスはいけるのか?」
 細君が部屋を出たところで問いかけてきた。
「なんだなんだ、そっちの心配か? 大丈夫ってことだよ。医者の話だと、無茶なプレーじゃない限りは、OKだと。興奮状態になったとき、電池から電気ショックのようなものはありませんか? って聞く女性もいるらしいが、先ずもってそんな話は聞かないとさ」
「そっかそっか。なら、良いんだ。俺もな、心臓じゃないけれど足の血管で、やったじゃないか。いずれは心臓に来るのかな、とな。そっか、OKか。うんうん、そっか」
 大きく頷きながら、戻ってきた細君に「セックスOKらしいぞ、俺も入れてもらおうかな。最近、弱くなってきたからな。だからだろう、威張りだしたのは」と、本気とも冗談もつかぬ事を言って細君を困らせた。
「もう、お父さんたら。笑って見えますよ、皆さん。でも、そうするとなにがいけないんです? 良いことずくめなんですか、そのなんとかという機器は」
「まあ、ぼくにとっちゃ、良いことずくめですね。電磁波です、NGは。IHの調理器具ですよ。いやいや、ぼくは持ってないです。そんな高級調理器具なんて、無縁です。そうそう、携帯電話を使うときにね、念のために左ではなく右の耳で会話してくれと言われました。なににせよ、気分が悪くなったら、すぐにその場を離れること。これに限るということですわ」
 興味津々といった風に、わたしの話に聞き入る細君だった。おそらくは、明日には得意げに近所の主婦達に講釈することだろう。と、突然に、瀬尾が素っ頓狂な声をあげた。
「ひょっとして、飛行機はだめか? そいつは、残念だ。退院と体調回復の祝いで、外国にでもと思ったのに」
 にやつきながら言う瀬尾だが、言外に、外国で女でも買おうぜと聞こえてくる。
「大丈夫だって。金属探知器だっけ? あのゲートはくぐっちゃいかんということだ。ビービーと反応するということか、それともペースメーカーが誤作動を引き起こすのか、それとも両方か? なんにしても、くぐるべからずってわけだ」
 とたんに、
「そいつは残念だ。退院祝いにサービスしようかと思ったのに」と、笑わせてくれる。
「外国は無理だとしても、温泉という手があるだろうが。待ってろって。今年の文学賞を総なめにしてだな、どーんと賞金を稼いでだ、ふたりを温泉に招待するから」
「おうおう、大きく出たな。ま、期待せずに待ってるよ。俺の宝くじと、どっちが確立が高いかな? ま、俺の方だろうけれども」
「奥さん。まずは男三人で行って、そのあと、奥さん同伴でご招待しますから」
 三人寄るたびごとに宣言している、わたしの目論見だ。還暦を過ぎた今になっての挑戦ではあるけれども、遅れてきた新人、というキャッチフレーズを作っては悦に入るわたしを、ふたりの友は認めてくれている。もっとも、酒の肴に丁度良いのかもしれないけれど。
「まあまあ、ありがとうございます。子供も成人してますし、お父さんに言っているんですよ。でもね、中々に。自営ですからね、長いお休みというのは難しくて。お正月やらお盆は、それぞれの実家の用事がありますしね。五月の連休といっても、全部お休みするわけにもいきませんし。去年なんか……」
 と、一気に話しはじめた。瀬尾が肩をすぼめている。とにかく自慢の夫なのだ。旅行には行かないけれど、休日の家庭サービスもないけれど、それでも自慢の夫なのだ。細君に対してサプライズを仕掛けては、ひとり悦に入る自慢の夫なのだ。
 ネットで新鮮な魚を取り寄せては、包丁で捌いてくれる。そしてときに、肉の燻製を拵える。それらは細君に言わせると、プロの仕様だということになる。近所に配っては、羨ましがられていると、鼻高々なのだ。
「さ、帰るぞ」
 瀬尾のひと言で、細君の話が終わった。なんどお父さんということばが、褒めことばが出たろうか。亭主の鏡だと言わんばかりの細君だった。ちゃらんぽらんな家庭しか築けなかったわたしには、とんと耳のいたい話だ。
「そうそう、村井だ。きょうは京都だと。だから平日に寄ると、言ってたから」
「分かった、きょうはありがとう」
 エレベーターに乗りこんだふたりを見送って部屋に戻ろうとしたときに、隣のエレベーターが開いた。

「よっ! 出迎え、ごくろうさん」
 まさかの、村井だった。
「どう、体のバランスは。機器の分だけ、体が片方だけ重いんだ。傾いたりしないか?」
 相変わらず突拍子もないことを言う。
「今のいま、だよ。瀬尾が来てたよ。お前、京都だって言ってたぜ。平日に来ると聞いたばかりだ」
「ああ、行くには行った。行ったが、予定を繰りあげて帰ってきた。ちょっと、やり合ってさ」
 きのうの土曜日に清水寺の舞台から緑々とした山腹をながめ、あかく紅葉した木々を思い浮かべたという。「こんどは紅葉でも観にくるか」。細君に声かけをしながら、「いいわねえ」という答えに満足した村井だった。その後、伏見稲荷にまわりいつもの本殿奥から稲荷山へ向かう千本鳥居をくぐったらしい。今年の正月にお詣りをしたときには、その人出に圧倒されて早々葬送に帰ってきたと聞かされた。
「そんなに、毎度まいどくぐるのか?」と尋ねると、
「なんでかな? 癖になっちまってるからな。くぐらないと、その年になにか悪いことが起きるんじゃないかと不安になるんだよ」。そんな答えが返ってきた。
 皮肉屋の村井がそんなことを気にするのかと思えるのだが、案外のところ細君の希望だろう。祖母が稲荷信仰をしているのだ、さもありなんと思える。毎年、二月の初午大祭には大勢の信者らと共にバスをたてての参詣をするらしい。そしてその一向に村井も同行するのだとか。それは結婚時の約束事だからと言うが、当初は細君と離れがたいということだったろう。
「京都には何度か行ったけれども、春は春で良いなあ。どうしても、祇園祭に目を奪われちまうけど。吉井勇の歌の意味が、やっと分かったよ。『かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる』。風情だせ、ほんとに。知ってたか? 阿吽の呼吸は、八坂さん南楼門の狛犬からだってこと。梵語で、魔除けの意味を持ってたんだと」。夕方から祇園をぶらついて、祇園白川の枝垂れ桜を堪能したらしい。
 そして日曜日の今日だ。八坂神社から京都御所そして二条城と、修学旅行でもあるまいしといった行程を計画していたとか。オーバーツーリズムだと騒がれている今、なにをそんなに……と、わたしには思えるのだが。
 で、宿泊先のホテルのラウンジで夜の京都を見下ろしながらの食事を済ませてから、最終での帰宅予定だったらしい。いつものごとくに饒舌ではあるのだが、なにかしら村井らしからぬ話し振りだった。やはり喧嘩中の細君が気がかりなのだろう。
 高校時代に見初めた細君で、ふたつ年下のはずだ。息を呑むほどの巨乳の持ち主で、瀬尾の羨ましがることうらやましがること。村井にしても、自慢の細君だ。猛アタックを繰りかえして交際をはじめてからは、たしかに我々との交流が途絶えがちになったほどだ。一年ほどしたころには、細君の実家に転がり込んでいた。
 村井は生来の口達者で、その饒舌ぶりが一家の笑いを産んでいた。細君の家庭は、祖母に母に妹と、女性ばかりの四人所帯だった。細君には、まだ早いと躊躇する気持ちがあったのだが、祖母に気に入られたことで話がとんとん拍子に進んでいった。十八と十六のふたりであることから、互いの親同士の話し合いにより、細君が高校を卒業後に結婚ということで決まった。
 それからの村井は、とにかく細君ひと筋に邁進していた。その洒脱さから良く女子生徒たちと談笑していたけれども、細君の影がチラリとでも感じられると、すぐにその場を離れていた。
 そしてまた、男子生徒にどんなに揶揄されようとも、まったく意に介さない村井だった。その意志を貫く様は、到底わたしの真似できるところではない。
 それにしても、今回の諍いの因というのが、村井には悪いが、笑ってしまうことだった。昨日の内にみやげ物は買い揃えたらしいのだが、細君が今朝になって買い足したいと言い出したらしい。長男の交際相手のご両親へのみやげ物を忘れていると言いだしたとか。
「まあ、聞けよ。息子本人が買うっていうのなら、話は分かる。息子に頼まれているわけじゃない、と言うんだ。それがなんで、俺たちが買わなくちゃいけないんだ? まだ顔合わせもしていないんだぜ。それにだ、俺はもう現役じゃないんだ。嘱託になっちまったんだし。そこのところが、あいつは分かっちゃいない」
 憤懣やるかたないといった具合だ。現役を退いて嘱託へと職位が変わったことで、村井の心のなかに変化があるのだろう。分かる気もする。補助的な仕事をしている現状に、気持ちの切り替えが中々に出来ないのだろう。
「金が惜しいわけじゃない。給料も、申し訳ないがお前よりはるかに貰っている。年金だって、特例で早く貰えたし。公務員云々なんて言うなよ、四十五年間払いつづけたんだから。瀬尾が居たら『退職金だって、しこたま貰ったしな』って、言いそうだけどさ。なあ、山本。女房の言い分、わかるか? 『良い娘さんなのよ。ご両親に、良い印象を持ってもらいたいじゃない』って、言うんだ。冗談じゃない! 息子だって、どこに出したって恥ずかしくないぞ。新聞社で、第一線で頑張ってるんだ。なんで下手に出なけりゃいけないんだよ。そりゃ、息子には勿体ないくらいの娘さんだよ。よくぞ来てくれました、って言いたいよ。だけどな……」
 驚いたことに、とつぜんに目が赤くなり出した。なにかが、村井を突き動かしたようだ。
「いや、すまん。また、来るわ」
 とつぜんに、席を立った。
「ああ、ありがとうな。奥さんと、仲直りしろよ。こうやって入院すると、しみじみと思うぜ。付き添いのない淋しさをな」
「そうだな、うん、そうだな」
 わたしへの返事ではなく、村井自身へのことばに聞こえた。