Re:地獄変

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 (一)

 坂田カネの三十三回忌もなんとか終えまして、会食に入ったときのことでした。とつぜんのちん入事件が起きたことは、先ほどお話しましたとおりです。妙齢のご婦人がお迎えにみえて、ことは終わったと皆さん安堵されました。老人が立ち去ったあと、まだ夕方前だというのに辺りが薄暗くなってきました。天気が予想よりはやく崩れてきているのでしょうか。夜半になってから雨が降るという天気予報でしたので、皆さん
「傘を持ってきてないのに」「車で来ているから送らせるわよ」などとかまびすしいことに。
「料理が冷めてしまいましたが、どうぞ故人を偲びながらお食べいただけると幸いです」という喪主の松夫さんの声かけで、ガヤガヤとおしゃべりが始まりました。 
 未だに澱んだ空気が部屋全体をおおっています。タバコの煙があちこちから漂っており、開けはなたれた雪見障子から庭先へと流れでました。そしてその煙が庭先の空にのぼり終えたときに、廊下から変になま暖かい風が入りこんできたのです。なにごとかと皆さんの視線が庭先にむきました。

 そのときです。白装束のご婦人が、「みなさま失礼いたします」と現れたのです。そうなのです、とつぜん廊下に、出現したのです。皆さん口にはしませんでしたが、奥から歩いてこられたということもなく、ましてや玄関先からではありません。第一玄関先は閉じられていますし、少々立て付けの悪くなっているガラスの引き戸です。ガラガラ、ガタピシャといった音がします。そのような音を聞き漏らすはずもありません。
 先ほどのご婦人に顔立ちが似ておられる女性でした。万が一にもご老人の奥方ということになれば、もうお亡くなりになっているはずです。ゾクゾクッと、背筋に悪寒が走りました。まさか……幽霊? と、身構えもしたのです。
 失礼しました、冗談です。
「あんたは面白みがない。すこし隙をつくらなきゃ。冗談のひとつも言ってみろよ」
 同僚に、酒の席でよく説教されますので。もとより幽霊などといったものを信じているわけでもなく、遠いご親戚筋の女性か? と、正直思ったのですが。

 ところが、「わたくし、梅村小夜子と申します」と告げられます。どよめきが起こるなか、淡々と話をつづけられます。
「いまこの場にまいりましたのは、夫の正夫だけの話では片手落ちでございます。わたくしの言い分をも、ぜひにもお聞きいただこうと思った次第です」と、憤まんやるかたないといった表情でつづけられます。
 しかし片手落ちだと言われても、こちらからお願いしてのことでもなし、勝手に乗りこまれてきたわけですから。正直いえば迷惑なことでしたし。そして今また話を聞いてくれと言われても、といった思いです。
「思いだしたぞ! あの青びょうたんの足立三郎の、あのときの小娘か。どうにも見覚えがあるとさっきの婦女子も思ったが、当の本人が現れては間違えようもないわ」
 善三さんが、はたとひざを叩かれました。
「面白い、実におもしろい。わしに食ってかかったおなごなど、おまえさんぐらいのものだった。よーく覚えているぞ。皆の衆、怖がることはない。このわしに恨みごとのひとつも言いたくて化けて出てきただけさ。片腹いたいことだわ」

 おびえておられた皆さま方をなだめられます。さすがに善三大叔父です。この世に怖いものなどない! と豪語されている善三さんです。さすがに元特高刑事だった善三さん、肝がすわっておられて豪胆そのものです。みなさん安堵の表情を浮かべられています。
「まあ、しかし。べっぴんさんに化けて出られるとは、大歓迎よ!」といった本気とも冗談ともとれないことばに、一同どっと大笑いしました。しかし現れ出た女性への善三さんのなめるような視線は、体調を崩されて本日の法事を欠席されたタキ叔母さんがおられたらと思うと、気が気ではありません。
「善三さま。恨みごとなどと、とんでもありません。それどころか、善三さまには感謝していますのよ。わたくしの想い人は、思いのほか軽い刑罰ですみましたし」
 凛とした立ち居姿に、みなさん見とれておりました。ですが、
「皆さまが気になされていること、娘の妙子の出自でございます。お察しのとおり、三郎の娘でございます」と出てきたことばには、一斉に「それはひどい!」、「旦那さんがかわいそうだわ」と、小夜子さんに非難の声があがりました。ところが「うそを吐くでない!」と、善三さんが一喝します。

「たわけたことを言うでない! ほかの者ならいざ知らず、この坂田善三の目は節穴ではないぞ」と、つづけられながらギロリと睨みつけます。まさしく鬼の坂田と称された現役に戻られたかのような、鋭い眼光でした。大の大人がふるえがった、鋭利な刃物のごとき光がやどっています。ところが小夜子さんたるや涼しい顔です。なんとも気丈なことです。
「善三さま。そんな大きな声をだされなくとも、わたくし至って耳は丈夫でございますから。なにを根拠にそのように申されるのか分かりませんが、妙子が三郎さまの娘であることは間違いございません。母親であるわたくしが断じます!」
 語気するどく言い放ちました。そしてそのときには部屋にはいり、床の間を背にしてのことでした。そこには。葛飾北斎作の「不二越の龍図」が掛けられております。富士のお山が小夜子さんに隠れてしまい、天に昇らんとする龍がその背から現れ出ているようで、なんとも不思議な面持ちがしたものでした。
 その掛け軸を正夫さんは真作だと言い張るのですが、だれも信じる者はいませんでした。いえいえ骨董屋は複製画ですから、とはっきり言っています。ですので、別段だまされたといったことではありません。話がそれてしまいました。すこし間が空いてしまいましたが、お話をつづけましょう。

「みなの衆! だまされるでないぞ。このおなごは口がうまいから、危うくわしもだまされるところじゃったわ。このおなごと足立が、はたして誠に情をかわしていたかは、わしにもわからん」
 つばを飛ばしながらの熱弁です。口をはさもうとする小夜子さんを睨みつけながら、つづけられます。
「わしが問い詰めたこのおなごは、まさしく小夜子という名前にふさわしい、小娘だった。男など知らぬ清純そのものの少女だ。足立にしても、気の弱い学生で。そんなふたりが情を交わすなど、ありえん、ありえんわ!」

「なんで嘘など吐きましょうか、なんの得があるというのでしょうか。とことんまで追いつめられた男と女です。一旦もどられた三郎さまは、もうこの世の終わりだといわんばかりでした。いつもの気概に満ちあふれた三郎さまではありませんでした。『あすもういちど呼び出しがある。そして逮捕されるだろう。十年? 二十年? ひょっとしたら○刑かも。だめだ、もう二度と君には会えない。さよならだよ、小夜子さん』と、わたくしの手をにぎられて、目からボロボロと涙があふれて……。いまこのときを逃したら一生後悔する、そう思えたのです。三郎さまが生きた証しを、わたくしが残してさしあげねば。そう覚悟したのです」

 まだまだ話がつづきます。善三さんはといえば、「なにをばかなことを」と口走られて、大きく手を横にふられています。「あきれたもんだ」と、なおも呟かれます。

「三郎さまも思いは同じでございました。キラキラと輝く瞳でもって、わたくしをじっと見つめてくださいます。そして『小夜子さん。ぼくに生涯きえない想い出をくれ給え』とおっしゃられたのです。そしてその夜、ふたりは結ばれたのでございます」
 大きく息を吐いて、その場に座られます。

「いいお話ね」。「若いふたりには辛いことでしたね」。先ほどは非難されていたご婦人方の会話が聞こえます。
「バカも休みやすみにしろ! いまの話が本当だとしても、おまえは足立にだまされたんだよ。純愛なんぞじゃあるものか。足立の本音に気づけぬおまえは、大バカ者よ。聖人君子ぶる足立に、まんまとだまされよって。しかしわしも悪かったかもな」
 どうやら小夜子さんの話を否定する気持ちが失せたようで、しみじみと語られます。
「女を抱いたことがあるかと水を向けたら、はじめのうちこそ『女なんて下等な動物との交わりなど』と粋がっておったが、わしが、○刑じゃ○刑じゃと脅しをかけたら、真っ青な顔をして本音をポロリともらしよった。『いちどは抱いてみたい。そんな女がひとりいる』と涙声で言いよった。でわしが、この世に生きたという証に子どもを産んでくれと言うてみい。イチコロじゃ。女の方から股をひろげるさ。耳元でささやいたら、とたんに『帰してください。ひと晩でいいです』ときた」

 半分ほどの茶碗酒でのどの乾きを潤されると、「聞きたいか、本当のことを」と、また話をつづけられました。
「帰さんでもないが、その代わりに全部話すか? おまえの知っていること全部を話すか? 山本、白井、岡田にそして幹部の竹本のことを。そう言うと『もちろんです、知っていることすべてをお話します』。そう言い出したわ。まあそこで締め上げてもよかったが、良い思いをさせれば楽に吐くだろうと考えてな。一見ひ弱そうにみえる男ほど、意外に手こずらせることもあってな。それでとりあえず帰したというわけよ。これが、事の真相だ。思えば、あんたも哀れなもんじゃ」
 勝ち誇ったように立ち上がる善三さんでした。しかし正味のところ、善三さんの話は誰も聞いていませんでした。いつの間にか小夜子さんを取り囲むようにして座り、静かな声で話をされている小夜子さんのことばしか聞いていなかったのです。
「わしの話を聞け!」
 善三さんが、怒りにふるえて大声を出されました。しかし涼しい顔で、小夜子さんが言うのです。

「坂田さま、善三さま。みなさまがお聞きになりたいのは、わたくしの話のようでございますね。しばらくの間、静かにしてもらえませんか? わたくし、そう長くはこの場におられません。閻魔さまのお許しをいただけたのも、すこしのときでございますから」
 皮肉っぽく善三さんの名前を告げられて、こちらにどうぞと、手招きをしました。こぶしをぐっと握られた善三さん、
「よし分かった。わしもおまえさんの話を聞いてやろう。がもし嘘偽りがあったら、その場で糾弾してやる!」と、押しころした声でおっしゃったのです。

「それではみなさま。わたくしの話を聞いていただきましょうか。もちろん、うそいつわりなど申しません。すべてとは申しませんが、正夫の作り話を訂正させていただきます」
 ピンと背筋をのばしたその様は、まことに凛とした風情です。おとしは……、さきほどのご老人の話からしますと五十歳をすぎたあたりでしょうに。

「それにいたしましても、なぜ三十五歳という、いまなのでしょう。閻魔さまには『お前の好きな年齢を選んでいいのだぞ。ピカピカに光っていた己をえらぶがよい』と、おっしゃっていただきましたのに。よりにもよっていちばん苦しかったころのおのれに戻ってしまうとは。正夫はどうでしょう? やはり、『妙子が笑ってくれた』、『妙子が手をにぎってくれた』、『ハイハイしている』、『立ち上がった』、『歩いた』と大騒ぎをしたころでしょうか。
 それとも正夫自身がもうす、妙子の女学校時代でしょうか。ですが、あのときもとんでもないことをしでかしました。包丁ですよ、お台所での。なにが哀しくてのことなのかとんと分かりませぬが、ひとり大騒ぎでございました。『切れない、切れない』と大声を上げまして。包丁の背では、切れるものも切れませんわ。そもそも、あの男が自殺などと。そのようなことを考えるはずもありません。

「あの世では、おのれの光りかがやく年ごろに戻れるとかいうじゃないか」
 友人のざれ言でしたが、いまこの場で小夜子さんを見ましては、さもありなんと思えてしまうのでございます。えもいわれぬ艶香をただよわせての立ち居ふるまいは、善三さんをして惑わせているのですから。
「いかがです? あなた、そこのあなた。いくつに戻られたいですか? こころの中でけっこうですよ、みなさんも思いうかべてくださいな」
 小夜子さんにそう言われて、わたしも考えてみました。いま三十五歳という若輩者ですが、それなりに辛酸をなめてまいりました。つらつらと思い浮かべますに、やはりいちばん輝いていたのは大学一、二年のころでしょうか。 受験という自縛からのがれ、就職などはさきの話で、自分中心によのなかがまわっているなどと錯誤していたころでした。もっともあの頃にいまほどの分別がありましたら、この家族をもうすこし幸せにしてやることもできましたでしょうに。
 善三さんは、どうなのでしょう。数々のかがやかしい功をあげられたと聞く、特高警察時代でしょうか。酒席をご一緒したときなど、いつもそのときの自慢ばなしでしたから。で、水をむけてみました。ところが案にそういして、イヤな顔をされるのです。あたりをキョロキョロと見まわして、とくに小夜子さんを気にされているようでしたが。まゆは八の字となり代名詞である眼力もありません。オドオドとまではいきませんが、いままでの勢いがまるでありません。よく口ぐせに「お国のために」、「社会のために」と仰いますが、虚勢をはってらっしゃったのでしょうか。