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(二) まあ、人それぞれでございましょう。これ以上の詮索はやめにしましょう。ひとつやふたつのシミは、誰しもかかえていることですから。それをいちいちほじくり返すというのは、いかがなものかと。 「まあ、どんなことを話すのかはしらんが、はなし半分とせねばな。人間だれしも、おのれを擁護するものだ。わしもいやというほど、そんな人間を見てきた。あの足立という男にしても……」 善三さんの長ばなしはもうごめんだという空気がながれています。ですが元特攻刑事である善三さんは、他人をおもんばかるということができぬお方です。まあ職業柄やむをえぬとはおもいますが。しかし小夜子さんのさえぎることばによって、善三さんも口をつぐまれました。 「坂田さま。そのことはのちほどに、わたくしのお話を聞かれてからということに。みなさまもお待ちでしょうから」 あらためての仕切りなおしといったぐあいで、はじまりました。庭の木々が雨にうたれているのでしょう、ザーザーという音とともにパラパラと水のはねるおともしています。雪見障子もいまは閉じられていますが、すこしこざむく感じられます。 「現世にいることができる時間もかぎられておりますし、幼いころの話ははしょらせていただき、東京師範学校女子部にかよっていたころのこと、ホウキ事件からまいりましょう。正夫が悪女だと決めつけていた、ホウキでたたいたことの顛末です」 いきなりの展開に、みなさんすこし身をのりだすようでございます。善三さんのことばを借りれば、まずはおのれを利することがらからと思っていましたので、大げさでありますが虚をつかれたという感じでした。 気持ちの良い青空の下、クラスのなかよし三人組での下校途中でした。そうそう、みなさん。芥川龍之介の『父』という作品、ごぞんじの方はいらっしゃいます? まだ坊ちゃんと呼ばれるぐらいの少年たちが、街をいきかう人々にあだなをつけてはやすというお話です。そのうちに年配の男性にたいして、『ロンドン乞食さ』と揶(や)揄(ゆ)するのですが、じつはその男性が父親であるというお話なのです。余計なことを申しました。 「あたし、知ってますよ。その声の主がなくなったおりに、弔辞に立ったボクが『君、父母に孝に、』と読むんですよね。少年のこころもちをよく表していると感心しましたわ」 博学で本好きの聡子さんがおっしゃいます。「ほおっ」といった感嘆のこえがあちこちであがりました。松夫さんご自慢のむすめさんです。 ありがとうございます。わたくしにしましても、当時は花のさかりの女学生でございます。もう恥ずかしいったらありませんわ。まさかあんなことになるとは思いもしておりませんでしたから。 ここでひと息つかれて、お茶をくちに運ばれました。もう冷めているのではと、恵子さんがいわれますが、「これで結構ですわ」とそでぐちから伸びる白百合のような白い手で制されました。 「さてと、それでは聞いていただきましょう」 戦闘態勢がととのったとばかりに、背筋をピンとのばして居ずまいを正されました。 戦時下の昭和十九年のことです。早いもので、ふた昔、いえ三むかしということばはございませんね。そう三十年以上になるのですね。辻々にありました立て看板、覚えてらっしゃいますか? 「ぜいたくは敵」。「欲しがりません勝つまでは」。「飾る体に汚れる心」。 ですが、これなどはけだし名言ではございませぬか。「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」。 それにしましても、目的のための手段が実は目的化しているようにも、思えるのですが。あらあらご賛同いただける声があがりました。ありがとうございます。はい、足立三郎さまからの薫陶のたまものです。 学校のとなりに、と言いましても、正門からは百メートル近くありますでしょうか、角にある駄菓子屋のまえに小さなお子たちがたむろしていました。それこそたくさんのお菓子類を、らんらんと目をひからせて品定めをしております。ひとり飛び抜けて大きい子がおりますが、この子らのガキ大将でございましょう。 「ひとりひとつにしておけ。あしたもあるんだぞ」と、いくつもの菓子を手にした子を叱っています。 「でも……。おっかさんに言えばあしたももらえるし」と不満顔です。そう申したところで、頭をゴツンとやられています。その子にすれば親御さんから毎日お小遣いをいただけるということでしょうが、他のお子たちはそうもいきますまい。案外のところ、ガキ大将自身がそうなのかもしれません。ですので、遠慮しろといったところでございましょう。それこそ、先ほどの立て看板ですわ。 自宅から学校まではバスを利用しています。五つほどの停留所をすぎてのこととなります。大きなビルやら公園を横に見ながら、緑々とした並木道をはしりぬけます。反対車線では、きょうもまた道路工事です。道路をほりかえしては埋め、埋めてはまたほるのくり返しです。これでは渋滞があちこちで起きてしまいますわね。 バスを降りてすぐの角が、小さな商店街となります。小さなと申しますのは通りの長さが短いということもありますが、お店自体も小さく個人のお店ばかりなのです。順に見ていきますと、洋品店、呉服店、うどん屋、雑貨店、だんご屋、金物店に本屋さん。反対側では履きもの屋、傘店、八百屋、魚屋、骨董屋、時計店、そして商売仇の和菓子店といった具合です。そうそう、角のたばこ屋さんを忘れていました。 「いま帰りかね? じょうちやん」。「きょうは友だちづれかい」。「新しい本が入ったよ」 みなさんからいろいろと声をかけていただきながら、それぞれに「ごきげんよう」とお応えをして通りすぎました。いつもはバス停でみなさんとはお別れするのですが、その日は出がけにわたくしの父親から「学校が終わったら、おともだちを何人かつれてきておくれ。新しいお菓子のでき具合を聞いてみたいから」と、言われております。お店はこの商店街を出て左にまわった三軒目となります。 その大きな通りには比較的大きな店が多くて、そうそう百貨店もあるのです。お正月に集まる親戚のおじさんおばさんとともに、お買い物をしたりお食事をしたり、そしていち番の楽しみは屋上での乗り物あそびでした。バス停のない大通りだということで、いまバス停新設陳情と申しますのですか、この間「署名してくれ」と町内会長さんがまわってこられました。父にも役員になってくれとお誘いの声がかかってしまいますが、すぐには無理だが近いうちにはと答えていたようです。 両親ともにお店がありますので、お休みは元旦の日だけでした。日曜日や旗日なんぞは、とくにお店が忙しく休みにはなりません。で、必然ひとり遊びばかりでしたが、仕方がありません。ご近所には同じ年頃の娘もおりませんし。たまに町内会のお兄さんやお姉さんたちが映画館やら遊園地に連れていってくださいましたが。正直のところは寂しい思いをしておりました。ですが両親の頑張りのおかげで、上級の学校にも通えるのでございます。辛抱せねばバチがあたるというものです。 その道々、学校での授業のこと、上級生の品定め、もちろん先生方のそれも話題に上ります。そしてたがいの名前の話になりました。 「小夜子という名前、よろしかったら差し上げましょうか? わたくし正直なところ、好きになれませんの。小夜子という漢字は美しいと思うのですよ。でもね、ひらがなにしますと、さよこ。なんとも弱々しく感じられませんこと? いやだわ、わたくし。それにですよ、カタカナなんぞになりましたら、サヨコ。なんて冷たいんでしょう!」 貴子さんにはうなずいていただけたのに、一子さんは異をとなえられて首を横にふっていました。 「あたくしは納得できませんわ」と、応じられました。彼女の口からでたのは 「漢字というものは美しさを求めて作られたものでしょう? ひらがな文字は女性特有の文字ですから、弱々しくそしてさらには柔らかくやさしいことばですわ。カタカナ文字については、西洋ことばを日本ことばにしてしまうのが多いですよね。西洋ことばは強すぎる傾向が多くありますし、冷たく感じられるのも道理じゃないでしょうか」 そして最後に「兄の受け売りなのですが」と、付け加えられました。 「お兄さまって、帝大に通ってらっしゃるのですよね?」と、貴子さんのお声がありました、でもわたくしにはわかっています。一子さんのお考えです。わたくしの方こそが、ある方の受け売りなのです。やはり一子さんは、三郎さまのお妹さんですわ。頭がおよろしいんです。でもそれをひけらかすこともないんです。学校の試験もあまり高い点数はとられませんし、成績も中の下といったところでしょうか。どうも目立たれることが苦手のようでして。まあたしかに器量という面でいえば、たしかに……。ですので地味というか、劇中でいえば村人その一といった具合でした。 今日もそうでした。「あたくしなんか」と哀しげな口調ながらも、目は笑ってらっしゃいました。 「長女だからと、いちことされましたのよ。一つの子なんですから。一子なんて漢字にしましても美しさは感じられませんし。イチコというカタカナにされてしまえば、これほどに冷たく感じられる名前はありませんわ。せめても、初子という名前にしてほしかったと思うのですよ」 つづけて貴子さんです。一子さんに対する慰めといった風のことばは、わたくしもですが貴子さんからもありません。もう、当たり前といったことになっています。 「あたしもなんです。貴子という響きが固くていやですわ。ですので、答案用紙などには、わざとたかことひらがなにしてますのよ。それでよく先生からは、『親御さんからいただいた名前は、大切になさい』と、おしかりを受けますけど」 たしかに、名前とはうらはらにいつも穏やかな、そしておしとやかな貴子さんです。「交換いたしましょうか?」と言いますと、「ぜひに」と返ってまいりました。 そうした名前の感想を言いあううちに商店街をぬけて、角をまわる段になりました。普段ならば気をつけるところなのですが、きょうはワイワイと騒ぎながらのことでしたので、つい……。 「あっ?!」と、いう一子さんの声が。やはりでした。正夫がとつぜんに現れたのでございます。その日にかぎって、などではございません。もう毎日のことでございます。ええ、ええ。ひっしの言い訳をいたします。 「おたなのまえをはいているうちに、ここまできてしまいました」 腰をかがめて頭をなんどもさげて、毎日おなじ台詞のくりかえしです。もう聞きあきましたわ。たまにはちがう台詞でも言ってくれれば、それはひとつのお芝居になることでしょうに。その日もいつものようにあやまるかと思いましたら、 「ああびっくりした! おじょうさんがた、しっかりと前をむいて、あっ、あっ、ああ。さよこおじょうさま。こ、これは、その。お、おかえりなさいませ」と、さも一子さんが悪いかのように申します。おもわずカッとなってしまいまして、正夫の持つホウキを取り上げてふりかざしておりました。 「あやまりなさい、あやまりなさい! わたくしの大切なお友だちにあやまりなさい!」 何度もなんどもホウキで叩いてしまいました。こんな見てくれの悪い男なぞが使用人だとは、情けないことです。恥ずかしくてはずかくして、それこそ穴に入りたい気持ちでございます。それまでの楽しかった会話がすべて風で吹き飛ばされて、それこそ乾いた砂漠の地に立っているような、春には咲き誇っていた花たちがすべて枯れてしまった野原に立ちすくんでいる、そんな心持ちになっていました。 「結構よ、もうけっこうよ。おやめになって、小夜子さん。あたくしはなんともありませんことよ」 一子さんが止めに入ってくれなかったら、いつまでも叩きつづけていたことでしょう。頭に手をのせていた正夫が、「すみません、すみません」と叫びながら、走って行きます。 まるで、庭先で生け垣の間から顔を出したたぬきが家人に見つかってあわてて逃げていく、そんな態でございました。 「どうにも最近は図にのっているのですよ。お父さまが『正夫や、まさおや』と可愛がるというか、『助かるよ、ほんとに』などと頼りにするようになってしまわれて」 まあねえ。たしかに、両親代わりに親身に世話をしてくれました。ああ、熱を出したときのことですね? 店に出ている母親の代わりに、寝込んでいるわたくしの世話を甲斐がいしくしてくれました。また夜の夜中にお医者さまを迎えに行ってくれたり、わたくしをおぶって走ってくれたりしたこともありました。店が閉まっているにもかかわらず戸をドンドンと激しく叩いて、家人を起こしてまでも氷を買い求めてきてくれたりもしました。 ただ、そんなあれやこれやを恩着せがましく話されては、いくら感謝の気持ちを持っていたとしても、ねえ。つい、「おまえの背中はくさかったわ」と、口にしたことがありました。なぜって、それは……。いまさら自分を飾っても仕方ありませんね。お話しましょう。 正夫におんぶされたときなど、それこそ死んでしまいたいと思いました。それがどれほどに苦しい思いをすることか。匂いです、あんこの甘ったるい匂いです。甘いんだったらいいでしょうに、ですって! 冗談じゃありません。あれが諸悪の根源です。あの匂いをかぐたびに、わたくしのこころが少しずつ壊れていくのです。 おわかりになります? 幼少より両親の愛情というものを感じとれなかった辛さ、苦しさが。愛されていたはず? わたくしの誕生を、両親ともにとても喜んでいた? とんでもありません。まあ、はたから見ればそうなのでございましょう。いろいろのおもちゃで部屋は埋まっていましたし、高価できれいな布地のおくるみにくるまれた赤児でしたもの、そう見えて当たり前ですわね。 ですが、それがなんだというのです。安物の生地で作られた、いえ使い古しの木綿でもいいのです。しっかりと抱いてさえもらえればなんの不満もありません。「良い子だね、いいこだね」。そのことばをかけてくれるだけでもよいのです。 母の実家で聞きました。生まれ出てすぐに祖母が世話をしてくれたとのこと。「お母さんは産後の肥立ちが悪くてねえ」と、祖母に聞かされました。それでひと月の間を実家にとどまったとか。その間、父は一度だけ顔を出して、その日のうちに帰ったとのこと。後々に母方のご親戚から「情がうすい父親だねえ」と、言われたものです。そのことばのせいでしょうか、以後父は、母の実家にいくことはありません。わたくしだけを行かせるのです。学校が長期のお休みのおりに、正夫の供で追いやられたのでございます。 「旗日やら日曜日は一番の稼ぎどきなんだから」。それが口癖でした。わたくしへの答えでした。 |