Re:地獄変

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 (三)

 ここでしばらくことばが途絶えました。このまま話が終わってしまうのかと思いますと、なにやらこころ持ちが落ち着きません。といいまして話のつづきをと急かすわけにもいきませんし。善三さんがなにか言ってくださらないかと顔を横見しましたが、拗ねておられるのか、知らぬ半兵衛を決めこまれています。

 みなさま、失礼をいたしました。ただいま閻魔さまからのお叱りをいただきました。『親のことをあしざまに言うでない』と、大層ご立腹でございました。ですがですが、考えてもみてくださいまし。おなかが痛いと泣きさけぶ幼子にたいして、みなさまならどうなさいます? ひざの上に抱いておなかをさすられますでしょう? 足が冷たいと言えば、ふところに足を抱えて温められませんか? 熱を出したおりには、濡れ手ぬぐいを頭にのせられませんか? それでも下がらぬときは、医院にかけこみませんか? 
 そう、そうなのです。そのすべてを、あの正夫に押しつけたのでございます。正夫が先ほど申しましたことは、すべて事実でございます。いっさいのこと、両親はわたくしをかまおうとはしませんでした。ひたすらに、ただひたすらにお店のきりもりに時間を割き、お客さまを優先させたのです。それもこれも、あの正夫のせいでございます。正夫がいたから、両親はわたくしのことをかまってはくれなかったのです。そして、あの和菓子用の甘いあんこの匂いが、そのことを思いださせるのです」

 と、善三さんがとつぜんに立ち上がられて、
「おまえら商人は、使用人をみくだすところがある! 使用人は人ではなく、物、己らの所有物のごとくに思っておる。うん? 待てよ、まさかおまえ。さきほど話しておった、芥川の作品で、えっとなんだったか。そう、父だ、父。その話とおのれの所業を……。これはなんと。片腹いたいわ」と、大声で叫ばれました。
 急に大声を出されたせいでしょうか、終わりのことばはすこしかすれ気味に聞こえました。お茶でのどを潤されると
「そのくせだ。自分よりも力のある人間の前では、へこへこと腰をまげる。小夜子! おまえもそうだったぞ。足立のことは神のごとくに褒めたりかばったりするくせに、ことあのご老人のこととなると、蛇蝎にたいするがごとくに悪口雑言だ。それがどうだ。そんなあの男のもとに嫁いだと風のたよりで知ったおりには腰を抜かさんばかりだったよ」と、ご老人をかばうような言い方でした。

「なんとでもおっしゃいまし。人を見くだすなど、坂田善三さんほどではございませんから。特高だなんて、みなが怖がるものですから。それこそ特高の話など、わたくしたち庶民には口にするのもおぞましいですわ。蛇(だ)蝎(かつ)ですって? そのおことば、そのままお返しします。へびやさそりのように忌み嫌われていたのは、どちらさまで?」

 なんとも気丈なお方です。このように口答えされるとは。むろん、善三さんもこのままでは終わりません。
「なにを言うか! われわれ特高警察は、お国のために身を粉にしてはたらいていたのだ。国家転覆などという大罪をおかす者に、なんで情をかけてやらねばならんのだ! というてもだ、あの足立なんぞは、下っ端もしたっぱだったよ。足立自身は幹部連におだてられて、資金の調達やら女の斡旋やらをしておったが。なもんだから、足立自身も準幹部気取りでおったようだ。まあアジテーションの原稿づくりは、敵ながらあっぱれ、という部分もありはしたがな」
しかしさきほども申しましたが、小夜子さんも大したものです。善三さんを相手にいっぽも引かれぬのですから。怖いものなし、といった具合で。と言いますよりも、善三さんより一枚も二枚もうわてのようで。善三さんには申し訳ないのですが、手玉にとられているように見うけられるのです。
 と申しますのも、善三さんがお話中だというのに、気に入らぬ話になりますと、素知らぬかおでみなさま方に話をはじめるのですから。正直のところわたしにしても、席が善三さんのとなりでなければ小夜子さんの話に集中できるのですが。時々に相づちなり合いの手を入れませんと怒鳴りつけられる事態にもなりかねませんので。少々、悔やんでおります。
 ともあれ、小夜子さんのお話は、足立三郎との馴れ初めに入りましたようで。

 足立三郎さまは、それはもう目鼻だちのはっきりとされました眉目秀麗なおかたでございます。そうでございますねえ、長谷川一夫さまを思い浮かべていただきましょうか。あの大きな目でじっと見つめられますと、もう全身がかなしばりにあったようになります。たとえが悪くはありますが、へびににらまれた蛙でございます。しばらくそれがつづきますと、体がじっとりと汗ばんでまいりまして、立っていることなど到底できません。椅子などに座っておりましたなら、背筋をぴんと伸ばしておく力が抜けてしまいます。もしもとなりに三郎さまがいらっしゃったなら、磁石のちからで引っぱられるのでございます。
 わたくしだけ? いえいえそうではございません。本郷キャンパスに行かれてくださいまし。そのような光景を毎日のようにお見かけできますから。いつもいつも誰かしら女性の方がそばにいらっしゃいます。ソクラテスが「無知の知」を唱えたし、ニーチェの実存主義がサルトルによって発展した。そしてマルクスという経済学者が資本論を著した、などとむずかしいお話をされているようでございます。どうして知っている? それは当たり前ですわ。三郎さまご自身からお聞きしたのですから、本当のことです。

 大学内だけのことではありませんで、坂田善三さまがよくご存じの会合においても、理論をお教えになられているとか。アジ演説の原稿なども三郎さまのお手になるものですのよ。とにかく、たくさんの方たちから頼りにされているので時間がいくらあっても足りない、といつもこぼされています。なのに、こんなわたくしのために時間を割いていただけるのですから、ほんとうに感謝のことばしかありません。
 三郎さまにはじめてお目にかかったのは、もう十月に入ったというのにすこし動いただけで汗ばむほどの日でございました。いつものように三人組での下校途中のことでした。とつぜんに一子さんがおっしゃるのです。
「みなさま方。すこし涼んでいきませんこと? こんなに暑い中を歩きづめで、どちらかがお倒れになられては大変です。あそこの神社でひと休みいたしましょうよ」
 たしかに夏の日差しのように感じられました。衣替えを済ませたばかりでもう秋物のお洋服ですので、しっかりと汗をかいております。すこし歩きませんこと、という一子さんのご提案でしたが、やはりすぐにバスに乗って帰りを急ぐべきだったかと後悔の念がわいてきているときでした。
 貴子さまが
「そうですね。たくさんの樹木があるようですから、日陰だと涼めそうですわね」と、賛成されます。おふたりにそうおっしゃられては、わたくしが異を唱えることもできません。軽くうなずいて賛意をしめすはめに。

 そうしましたら、また一子さんが大胆なことを。
「あそこの駄菓子屋さんで、ラムネを買いません? 冷たくてシュワーっとあわが弾けて、ほんとにおいしいんですから」
 わたくしと貴子さんは、ただただ目を丸くするだけでした。買い食いなど、お外でお菓子を食するなど、ありえないことです。大人たちはけっして許してくれません。ああ、お祭りだけは別でしたね。神社の境内にずらりと並んだ露店からただよってくる種々雑多なにおい、思いだしただけでもわくわくします。貴子さんは、でも……と口ごもられましたが、わたくしはつい、「いただきたいですわ!」と、大きな声を出してしまいました。
 店の外の子どもたちはもちろん、中にはいりこんでいた子どもたちも、わざわざ外にでてきてわたくしたちを見ます。往来をあるく人たちの視線がいたく、もう恥ずかしいったらありません。顔はもちろんのこと耳たぶまで真っ赤にしていたのではと思います。わたくしだけでなく、おふたりも顔を赤らめていらっしゃいました。
「それじゃ決まりね。貴子さん。あなたもいただいてくださいね。あたくしたち三人は、『おなじ考えを持ち、おなじ行動をとる』と、お約束しましたものね。それじゃ行きましょ。本日はあたくしがご馳走するということで」
 一子さんが胸を反らせておっしゃいます。
「あらあら。ラムネごときで感謝しなければなりませんの?」と、わたくしが言いますと
「ほんとですわ。これなら毎日でもお願いしたいですわ」と、貴子さんがおっしゃられ、三人で大笑いをしました。しましたが、またそのことで周囲から冷たいしせんを浴びることに。ほんとに若いころというのは、はしが転んでもおかしいという時期ですから。

 三本のラムネが、ポンポンポンと、音を上げます。シュワーっと、勢いよく泡が吹きでてまいります。ほのかな甘いかおりが鼻先をくすぐります。お店の仕事場にあふれている、あのあまい匂いとはまったくちがったものです。青春まっただ中の乙女たちの、あふれ出る汗のにおいでございました。さっそくにものどに味合わせてやりたいのでございますが、淑女にはそのような、店先でのラッパ飲みなどできるはずもございません。三人同時にかけだして、角をまがったさきの神社にとびこみました。
 拝殿の階段に腰をかけて、三人が一斉に、せーの! と声を上げてラムネのラッパ飲みでございます。勢いよく流しこんだがためにのどをはげしい痛みがおそい、むせてしまいました。でも、その刺激がまたうれしくて、再度ながし込みました。炭酸がのどを通るたびに、ピリリピリリと針で刺されたかのように痛みがでます。
「クセになりそう!」
 一子さんの声に、わたくしも貴子さんも、大きくかぶりをふって納得です。そして大きく笑いながら、残りすくなくなったびんを愛おしく見つめたものです。
「一子さん! あしたもお願いよ!」と貴子さんがおねだりします。
「なんてあつかましいことを」と一子さんが応じて、また大笑いでした。そしてわたくしが、「ねえ。うしろのお賽銭箱には、……」と、のぞき込むまねをしました。と、とつぜにどこからか「喝! 罰当たりめが」という声が。

 それが足立三郎さま、一子さんのお兄さまだったのです。拝殿のふちに立たれて、腕組みをされていました。白いワイシャツを二の腕までたくし上げて、まあたらしい帝大の角帽をかぶっていらっしゃいます。思わず
「ごめんなさい、ごめんなさい」とただひたすらに、頭を下げるだけです。角棒が目にはいらずに、神社の関係者のかただと思ったのです。ところが、一子さんがきゅうに「ククク」と笑いはじめたのです。
「小夜子さん。大丈夫です。あたくしの兄ですから。でもどうして、こんなところに?」
「ああ。ちょっと休憩だよ。すぐそこの小屋でレクチュアをしていてね。解説していたところなんだ」
 すこし自慢げにおっしゃいます。どうやら神社の裏手にちいさな小屋があるらしいのです。
「どんなお方たちでしょう?」。「児童たちなの?」。「学問を教えてらっしゃるのですか?」。
 三人が口々にたずねます。三郎さまは、ハハハとお笑いになり、
「なあに、仲間です。あなたたちには理解できないことですよ」と、侮蔑のことばを吐かれました。わたくし、腹立ちまぎれに、瓶に残っておりましたラムネをシャカシャカとふってから、三郎さまに向けたのです。みごと命中です。ズボンにシャツまでびっしょりでした。

「気の強いお嬢さんだな。驚いたよ、これは」
 手ぬぐいで拭かれながら笑っていらっしゃいます。そしてわたくしたち3人の輪の中にお入りになり、すこしのあいだ談笑しました。三郎さまは無類の映画好きでして、中でもチャップリンの[街の灯]と[モダンタイムス]がお好きなようで。それらの解説を身振り手ぶりを交えて、汗だくになりながらしてくださいました。
[街の灯]は、めしいの娘と貧乏な男との恋愛物語りだったのですが、三郎さまときたら情感たっぷりにお話してくださいました。そして最後に資本家の横暴さを説かれます。[モダンタイムス]では、精神を患った労働者と、薄幸の少女とのお話を、涙なみだの物語りとして聞かせていただき、社会の冷酷さを力説されます。
 そしてそのためには「あなたたち婦女子もしっかりと勉強をして社会に立ち向かうべきだ」と締めくくられました。もうわたくし、すっかり感動してしまいました。そのときからなのです、わたくしが三郎さまをお慕いもうしあげるようになったのは。
「あたくしにも教えていただけませんか? その、難しい学問とやらを。できましたら、そのお仲間とはべつに」
 思わず口にしていました。すこしでも三郎さまとお近づきになりたいと願ったのでございます。貴子さんは口をあんぐりと開けられて、信じられないといった表情でした。いまでこそ男女ふたりだけの逢瀬もありましょうが、なにせ大戦中のことでございます。「男女七歳にして席を同じゅうせず」でございます。驚きになられるのもむりはありません。一子さんにしても眉をひそめられています。

 夢みる少女のように一点の空を見つめられて、それはそれはながーい嘆息がありました。思いだされているのでしょう、当時のことを。初恋というものは美化されてしまいます。すべてがお花畑でのできごとで、よくいわれます甘酸っぱいものだと。わたしも思います。当年三十五歳になるわたしですが、奥手と言われる十九歳に初恋の相手と巡り会いました。
 出身は九州の鹿児島県は球磨村です。球磨焼酎は日本全国に知れ渡っていることと思います。お恥ずかしい話で、わたしは超下戸でございまして、その匂いを嗅いだだけで良い心持ちになってしまいます。ですので周辺にある酒蔵に就職することもできず、三男坊であるわたしは、中学を出ての集団就職組なのです。就職先のご好意で定時制高校に通わせていただきました。そしてその後こんどは学校の推薦によって大学へ。そういった意味では幸運な学生時代を送らせてもらいました。
 失礼しました。わたしのことはさておきまして、小夜子さんのおはなしを聞くことに。ああまた善三さんが吠えてらっしゃいます。こんどは立ちあがって威圧されます。
「小夜子! あの国賊がおまえの一生をだいなしにしたんだろうが。それがあんな男を最後までかばいよって。どうだ。いまからでもいいから、ほんとのことを話してみんか」
「だから善三さん。その話をこれから聞かせてくださるんですから」
 思わず言ってしまいました。わたしのお仲人さんである善三さんをたしなめてしまいました。
「まあまあ、まだそんな無粋なことを。これから可憐なしょうじょの恋物語りを、そして正夫とのことをお話しするのですから」
「まあいいさ。いまさらのことか。職も辞していることだし。もう口をはさむことはない。存分に話をすればいい」
 善三さんは仏頂づらでどっかとすわりこまれましたが、小夜子さんは相変わらず涼しいかおでおられました。
「それではお許しの出たところで、お話をつづけさせていただきます」

 先日のように神社拝殿の階段に腰をおろしていますと、うっそうとした樹木のかげから参道によろよろとボサボサ頭の浮浪者が出てきました。もう驚いたのなんの、おもわず、口をふさいでしまいました。その浮浪者は、たぶん白い――というよりも白かったと思える――あちこちが黄色がかった開襟シャツを着ていました。ズボンは、ズボンの色は覚えておりません。
 黒かったような、それとも汚れのひどさでそう見えたのか。足下といえばゴム草履のようなものでして、体から悪臭がでているように感じました。すぐに灯籠のかげにかくれましたので、さいわいにも気づかれずにすんだのです。
 浮浪者はそのまま拝殿のかいだんに、たおれるように座りこみました。土色のかおいろで、口まわりも無精ひげだらけで。怖いものみたさともうしますか、せいらいの好奇心の強さからともうしますか、しばらく見ていました。もちろんのこと、なにかあれば、すぐにも通りにかけだす態勢はとっております。

「もう、お兄さまったら! どうしてそんな大切なご本をなくされますの。いのちよりも大切なものだと、おっしゃられているのに」
 聞きおぼえのあるお声です、すこしかん高いこえは、まぎれもなく一子さんのこえでした。だとすると、あの浮浪者のような男が三郎さまだということに? 
「一子、良かった。あったよ、ここに」
 賽銭箱の後ろから、なにやらひっぱりだされました。隠すように置かれていたふろしき包みが手にされています。そしてすぐに包みのなかを確認されています。
「この間、見つからないようにとここに置いたんだった。それを忘れていたよ。うん、大丈夫だ。すべて揃っている。ひとつでもなくしていたら同志たちに顔むけができないところだった。まあしかし俗人がこれを見たとしても、なんのことやらちんぷんかんぷんだろうが。これを理解できるのは、同志のなかでもかぎられたエリートだけだがね」
 一子さんをとなりに座らせて、わら半紙をさも愛おしげに撫でられています。
「幹部連にかわいがられている河合くんなんぞには、天地がひっくり返っても理解できまい。あの幹部連にしても、わざわざぼくの所にレクチャーを受けにくるしまつなんだから。でね、父さんに一子から頼んでくれないか。すこしまとまったお金がほしいんだ。参考書代だとかなんとか、うまく話してくれよ。一子にはあまい父さんだから」
 すこし考えこまれた一子さんでしたが、まかせてという声とともに、胸をポンとたたかれました。
「だれ? そこにいるのは」。一子さんに見つかってしまいました。からだは灯籠でかくせても、影まではかくせません。やむなく、ごめんなさいと体を出しました。

一子さんは、あらまあ、と驚いた顔をされています。三郎さまは、なにかいけないところを見られてしまったという具合で、そっぽを向いてらっしゃいます。わたくしは、ごきげんようとお声がけしたのですがお返事はいただけませんでした。
「ねえ、小夜子さん。兄に、家庭教師としてアルバイトさせてもらえないかしら。あたくしと一緒ということでいかがかしら」
 突拍子もないご提案をされるんです、驚きましたわ。日曜日の午後に三郎さまの下宿先で、ということでした。わたくしとしては、否というご返事はありません。ふたりだけでは許しがでなくても、一子さんとならばと思えるのです。
 しかも、場所は一子さんのお宅ということで。そうしましたら、万が一に電話があっても一子さんが対処できるからとおつしゃるのです。
「そりゃ良い考えだ。策士だな、一子は。これで河合くんなんぞに大きい顔をされずにすむというものだ。『貧乏なんで、この程度しか』なんて言って、ぼくよりも多額なんだ。まったくのところ、懐にはいるのがうまいんだよ」