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(三) ある夜のことでございました。娘がいつものようにわたくしの体を気づかっているとき、妻がわたしの部屋に入るや否やキッとした険しい目で娘を睨み付け、悪態をついて娘を追い出しました。なんと言いましたか、うーん、はっきりとは覚えておりませんのですが。「いい加減にしなさい!」とか何とか、そんなことだったと思います。 えっ? そ、それは、その。ひょっとしたら、「その辺にしときなさいね。」だったかも、しれません。しかし、しかし。わたくしが見た妻の顔は、それはもう、恐ろしい形相でございました。 その昔、まだ赤線というものがありました頃のことでございます。亭主を寝取られたと娼婦のもとに出刃包丁を手に乗り込んできた、半狂乱の女が居たと聞き及んだことがございます。その女の形相が、妻を見たときはっきりと思い浮かべられましたのでございます。もっとも、無理もございません。妻もまだ、三十路も半ばの女盛りでございます。夫婦の契りを断って、一年近くの月日がたっております。娘のためによりを戻そうとしてはみるのですが、やはり口論となってしまいます。 買い物だとわかっております折りに、帰りの時間がいつもより遅い時がございました。そんなとき“若いツバメ” を作ったのでは、と疑ったりするのでございます。また、艶っぽい仕草を垣間見せることがございますと、“やはり居たか”と、思ってしまうのでございます。 娘と妻の口論時には、どうしても娘の味方をしてしまいます。妻の止めるのも聞かずに、一週間ほどのクラブの合宿に参加した時でございます。正直のところは、わたくしも内心では反対でございました。いえ、妻の申すような心配事からではございません。 妻の申しますには、女ばかりの合宿は危ないと申すのでございます。引率の教師が女性であること、湖畔のバンガローのような宿泊所であること、等々。わたくしの反対の理由は、妻とふたりだけの日々が苦痛なのでございます。また、娘と離れての日々を過ごすことが、苦痛であり淋しくもあるのでございます。 己の都合だけからの反対心でございました。自己中心的だとのご指摘、その通りでございます。申し訳ありません。しかし、その頃のわたしには、娘の居ない日々は考えられなくなっておりました。正直のところ、毎日の学校ですら苦痛でございました。 ”片ときも離したくない”そんな気持ちでございました。ですが、娘のたっての希望を、頭ごなしに反対する妻に味方することはありませんでした。一度は反対いたしましたが、結局のところ娘の希望を叶えてやることにしたのでございます。物わかりの良い親父を演じてしまいました。今にして思えば、やはり反対すべきでしたが。 しかし娘の喜びようといったら、それはもうありませんでした。 「お父さん、ありがとう! 大好きよ!」と、わたくしに抱きついてくるのでございます。その勢いの余り、後ろに倒れるほどでした。「好きよ、お父さん」と耳元で囁かれた折りには、天にも昇る思いでございました。わたしの人生において、この頃が最良でございました、はい。 娘の居ない日々は、やはり地獄でした。針のむしろとでも言うべき日々でごさいました。毎夜、妻に嫌みを言われ続けたのでございます。 「娘に甘すぎる!」、「娘が居ないと、途端に帰りが遅い!」などと。 わたしときましたら、そんな妻の愚痴に対して反論することもなく、そそくさと自分の部屋に閉じこもりました。そして娘のことばかりを考える始末でした。子供のようですが、帰る日を指折り数えていたのでございます。それが、それが……。 娘からは、合宿の初日から電話が入りましてございます。 「着いたよー!感激ー、よ。お父さん、ありがとうね」 ハハハ、ハハハ、ハハハ、でございます。先日の娘の喜びようが、わたくしの五感に蘇ります。娘に抱きつかれてもんどり打って倒れた折の、あの感触が五感すべてに蘇ります。そのままごろごろと畳の上を、娘と。あ、お忘れください、お忘れください、どうぞお忘れを。 わたしの傍らでせっつきますので、妻と代わりましてございます。夜叉のごとき顔が一変いたします。菩薩さまのようにたっぷりの笑みを湛えて、娘と話しております。空気が澄んだ所で、満天に星が輝いていたと申しておりますようで。娘がわたくしにも聞こえるようにと、ひと際大きな声で話してくれております。しかしあまりに喜びに満ち溢れた声に、次第しだいに腹が立ってきました。 妻との会話が長いせいではございません。わたしには言ってくれた『ありがとう』の五文字を、妻には言いませんのですから。腹立ちの訳は、別のことでございます。わたくしの元よりも良い所があるなど、到底考えられません。有ってはならぬことなのでございますよ。 二日目、三日目と電話がかかります。夜の七時でございます、お客さまからの電話であろう筈がございません。すぐさまわたくしが受話器を取ります。妻の膨れた顔など、知ったことか! でございますよ。 「お父さん? 元気してる? お母さんは? 代わって」と、もう矢継ぎ早でございます。わたしと話せることがよ程に嬉しいのか、息せき切って言いますです。そんなわたしの傍らには妻が来ております。腹立たしいことには、受話器を引っ手繰るのでございます。それにしても、どうして女どもは長話が好きなのでございますかな。何をそんなに話すことがあるのでございましょうか、まったく。 四日目のことでございます。娘が、とつぜんに帰ってまいりました。そして部屋に閉じこもり、日がな一日泣きじゃくるのでございます。理由を問いただしても、ただただ泣きじゃくるばかりでございます。娘の顔を見たいと願うわたくし目ですが、なんど声をかけても「放っといて!」とかえってくる始末で。 もう涙がでてまいります。その点、女は冷たいものでございます。素知らぬ顔をしております。いまはなにを言っても無駄ですよ、と取り合いません。お友だちと喧嘩でもしたのでしょ、と言うのです。しかし不思議なもので、そのように言われますと、そんな気がしてくるのでございます。 ところが、事はそんな生易しい事態ではございませんでした。娘を追いかけるように顧問の先生が見えたのでございます。畳に頭をこすり付けての謝罪でございます。申し訳ございません、もうしわけございません、とただただ謝られるだけでございます。娘のからだに傷でも付けられたのかと、気が気でなりません。 妻ですか? さすがに妻も、顔を曇らせております。いえ、曇らせるどころではありません。眉間にしわを寄せて見る見る顔が紅潮してまいります。そして、怒鳴りつけるのでございます。 どうやら仲の良い友だちと夜の散歩中に、複数の男たちに襲われたようでございます。幸いにもご友人がうまく逃げだして、助けを求めたとの事。未遂に終わったとはいえ、そのショックは大きく、失意のなか立ち戻ってきたのでございます。しかし妻は、はなから犯されたものと決めつけて、あろうことか娘を非難致します。やれ医者だ、警察に訴える、と大騒ぎして、娘の純真なこころを傷つけるのでございます。 わたくしは、あまりの妻の狂乱ぶりに呆気にとられておりました。が、なんとか妻をたしなめて、その騒ぎを納めました。わたくしにしても、はらわたの煮えくりかえる思いではございました。が、娘の将来のことを考えて、この騒ぎはそれで終わりにしたのでございます。 しかし妻とわたくしの間に、このことにより埋めようのない亀裂が生じてしまったことは、改めて申すまでもございますまい。わたくしは、妻の口ぎたない罵りをひと晩中聞かされました。が、わたしの耳には届いておりません。ただただ、娘のことばかりを考えておりました。 成熟しはじめた娘の体つきや細やかな仕草。それらに歓喜の情にふるえていた折りでもあり、ただただ聞き入っておりました。ただただ、娘のことばかりを考えておりました。ときおり見せる妻の冷厳な目つき、すこしの無言があり、「なるほど」とか「やっぱり」ともれることも。わたしの心を見透かされたような錯覚に陥り、冷や汗がどっと……。半狂乱の妻の罵倒は、夜明けまで続きましたのでございます。 正直に申し上げましょう。それ以来しばらくの間、毎夜のごとく悪夢に悩まされました。林のなかを逃げまわる娘。追いかけまわす数人の男ども。右に左にと逃げまどう娘に、三方四方から男どもが迫るのでございます。娘の足はすり傷だらけになり、赤い血がそこかしこに滲んでおります。 木々の枝にブラウスが破られ、しだいに白い柔肌が露わになっていくのでございます。男どもは、そんな娘のあらわになっていく肌に、より凶暴になっていきますです。とうとう一人の男に掴まり、落ち葉の上に押し倒されてしまいます。 「いや、いやあ!」 そんな娘の叫び声は、かえって男どもの劣情をそそらずにはいません。 「やめて、やめてえ!」 娘の懇願の声も、男どもの嬌声にかき消されてしまいます。いえ、娘の懇願の声が、さらに男どもの凶暴さに火を点けるのでございます。 なんということでしようか。娘が、わたくしの娘が……。男どもに陵辱されているのでございます。泥で汚れた手が、ごつごつとした手が、娘の漆黒の髪をつかんでおります。光りかがやく漆黒の、キラキラとした髪が、汚泥にまみれています。気も狂わんばかりでございます。 うす汚いことばがほとばしるその口が、わたくしの娘の、可憐なむすめの唇にむさぼりつくのでございます。泥で汚れた手が、可憐な娘の、わたくしの娘の乳当てをはぎ取り、まだ固さの残る乳房を露わにするのでございます。そしてあろうことか、男のヌメヌメとした舌が、娘の美しい薄桃色の、、、なめまわすのでございます。さらには、娘の両手をすねで押さえ付けております。そして、そしてそのうす汚いナニを、口にするのもおぞましい物を、娘の可憐な口に、、、。 実のところ、いまひとり居るのでございます。いや、もうひとりおりますです。娘の足首を、片側ずつつかんでおります。バタバタと激しく動かそうとしている足首を、しっかりと押さえつけている手が、、、。 「待てっ! 待てっ! 待ってくれえ! それだけは、やめてくれ。他のことは、許そう、水に流そう。後生だから。それだけは、それだけは、やめてくれえい!」 断じて許すことはできません。八つ裂きにしても足りない男どもでございます。しかしもうわたしには気力がございません。お話しする気力が、ございません。もう、このまま死にたい思いでございます。まさしく地獄でございます。 ……地獄? そう、地獄はこれからでございました。じつは不思議なことに、男どもには顔がなかったのでございます。もちろん、その男どもをわたくしは知りません。見たことがありません。だから顔がない、そうも思えるのではございます。しかし、……。 そうですか、お気づきですか? ご聡明なあなたさまは、すべてお見通しでございますか。 ”申し訳ありません! 申し訳ありません!!” わたしは、犬畜生にも劣る人間でございます。 “殺してください、わたしをこの場で殺してください。この大罪人の、人非人を!” そうなんでございます、男どもは、すべて、わたしの顔を持っていたのでございます。……、この、わたくし目の顔を……持っていたのでございます。 蝿が飛んでおります、銀蝿でございます。あの野糞にたかる、汚わらしい銀蝿でございます。ぷーんぷーんと音も五月蝿く、飛び交っております。死人にも似たわたくし目の周りを、飛び交っております。手で払いのけるのでございますが、中々に立ち去ろうと致しません。立ち去らない? 虫けらに立ち去らないなどということばを使うわたし、ふふふ、気が狂れたのかもしれませんな。 実は、じつは、その銀蝿……。どうぞ耳をふさいでくださいまし、後生でございますから。おぞましいことに、このわたくし目の顔を持っているのでございます。何と、なんと言うことか、このわたしが、銀蝿などと! |