愛の横顔 〜地獄変〜
(三) 「正夫さん、本心からではないのですよ。あの年頃というのはね、心持ちとは逆のことを口にしたりするものですよ」 大木さまからの優しいお声かけがありましても、俄かには信じがたいことでございます。あの蔑みの目は、わたくしの脳裏からいまだに消えておりません。うっすらと浮かんでいた涙とて、そこまでお嫌いなのかと情けなくさえ思えたものでございます。いえいえなにやら言い訳じみたことばを聞かされはしました。「申し訳ないことをしていると、こころのなかで謝っていたのです」などと。 結果、わたくしたち夫婦の家庭内別居がはじまったのでございます。食事の支度こそしてくれますが、わたくしひとりのわびしい食卓でした。以前もたしかにひとり食事ではございましたが、あれこれと世話を焼いてくれておりましたのに。まあ考えてみますれば、朝を一時間ほど早めはいたしましたが。こんなわたくしでも、妻のふくれっ面など見たくもありませんですから。それに顔を見るとつい、「あの男が、いまでも忘れられないのでは」などなど、口に出してしまいます。 当初こそ否定していた妻ですが、ほどなく口を利かなくなりました。はい。認めたも同然でございます。いえじつは、認めたのでございますよ、はい。 「はいはい。そういうことにしておいてくださいな、馬鹿々々しい」 プイと横をむいて、わたくしの仕事場から出て行きましたです、はい。店の手伝いでごさいますか? ええ、まあ、表で頑張ってはおります。いつものようにお客さまに愛想を振りまいておりますです。裏で仕込みをつづけるわたくしのもとにまで聞こえてまいります。これみよがしに、わざと大声を張り上げているのでございますよ。カラカラと大きな笑い声をあげております。以前の小夜子お嬢さまは、コロコロと、それはもう月夜に愛でる水仙の花のように清々しいものでしたのに。 たしかに、以前も大声でした。下町のお店でございます。コロコロといった上品な声は、たしかに似合わぬ土地柄ではございます。その明るい声に、わたくしの疲れも吹き飛ぶというものです。世間話のうまい妻でございまして、よくお客さまを笑わせております。その笑い声が、お客さまに安心感を与えますようです。 「奥さんと話していると、うきよの憂さがぱあーとどこかに行ってしまうわ」。そんなおことばを、ちょくちょく頂いております。 おまんじゅう類だけでは先細りになりはしないかと考えて、妻の反対を押しきって醤油せんべいをつくってみたのでございます。「かたいおせんべいは他所さまでも作られてるものですよ。あなたのお饅頭は、だれにもまねのできないほどよい甘さがあるのですから」などと、またしてもお為ごかしのことばを言うのでございます。まあたしかに、お客さまのお口に合わなかったようでして……。いえいえ、きっと買ってくださるはずでした。 ある夕暮れどき、はじめて売れましてございます。思わず小おどりしてしまうほどでした。 「あなたには負けたわ。それじゃその、新しく作られたお煎餅を頂こうかしら」 妻の押し付けがましさは我慢なりませんです、はい。きっと売れるはずなのでございます。それが証拠に「美味しかったわよ、また頂くわ」と仰っていただけるお客さまが、日にひに増えているのでございますから。 「奥さんの太鼓判ですもの、美味しいはずよね」などと、お客さまにおべっかをつかわせるとは、まったく不届き千万でございます。それにしてもイヤ味な妻でございます。今日もきょうとて、これみよがしに大声を張り上げているのでございますから。 娘は、妻に手をあげたわたくしが許せなかったようで、敵意にも似た感情を持ったようでございます。やりきれない日々がつづきました。しだいにお店での時間が長くなり、食事も外で済ませるようになりました。“離縁”ということも頭をよぎりましたが、娘のかよう学校のことを考えるとそれもできませんでした。 ……いえ、本当のことを申し上げます。世間体を気にしてのことでございます。わたくしどものような和菓子屋は、家庭内のゴタゴタが外にもれますと、たちまち売り上げにひびくのでございます。考えてもみてください。ゴタゴタを抱えた職人の作る和菓子が美味しいはずがございません。実際、「ご主人がお店番? 以前より、味が落ちたんじゃないの」などとイヤみを言われたこともございます。 一年近くつづきましたでしょうか、そのような地獄の毎日が。妻でございますか? いまは店の手伝いもしておりません。さあ、一日をどのように過ごしていたのか……。また、嘘をついてしまいました。じつは、寝込んでおりますです。もうかれこれ、ふた月になりますでしょうか。いえいえ、わたくしとのいさかい事が因ではありません。心労からではございますが、以前から、ときどき寝込むことがございました。ただ、今回はすこし状態が悪かったようではございます。当たり前のことでしょう、わたくしを騙しつづけてきたのでございますから。 正直なところ、所帯をもってからの妻は一生懸命がんばってくれました。身を粉にして、という表現がピッタリくるほどでございました。いまのお店があるのも、妻の頑張りのおかげもございますでしょう。しかしだからといって、わたくしを騙していいとは言えますまい。 そんなある日洗面所で顔を洗っておりますと、娘が「はい、タオル!」と、わたくしに差し出してくれるのでございます。そして、「これからはわたしが、お母さんの代わりをやって上げる」と、申すのでございます。突然のことに、わたくしは何が起きたのか理解できずにおりました。娘の差し出すタオルがわたくしの手に乗せられるまで、茫然自失といった状態でございました。昨日までの、冷たい視線が嘘のようでございます。ひょっとして妻が本当のことを娘に話したのでは、と思ってしまいました。 「お父さんも、年とったわね。ここに白髪があるわ。」と、後ろから娘の声が。「抜いて上げる」と、わたくしの白髪を抜いてくれました。ああ、その時です、まさしくその時なのでございます。腰をかがめていたわたくしの背にのし掛かるようにしてのことでしたので、娘のやや固い乳房の感触が心地よく伝わってきたのでございます。いくら血のつながらない親子とはいえ、十六年間娘として育ててきたのでございます。 まさにその時でございます。その娘に対し、一瞬間とはいえ欲情を覚えたのでございます。恥ずかしながら、わたくしの逸物が反応していました。恐ろしいことでございます。畜生にも劣ります、はい。しかし娘にしてみれば、何ということもなかったのでしょう。機嫌良く、学校に出かけました。♪ふんふん♪と鼻を鳴らし、「行って来まーす!」と、妻ゆずりの美しい声を残して行きます。しかしその日のわたくしときましたら、まるでだめでございました。どうにも落ち着きません。 菓子作りでも、失敗の連続でございました。せっかく練り上げた生地に、あろうことかさらに水を足してしまいまして。餡にしましても、ほど良い甘さに仕上げていたものを……これもまた、お恥ずかしいかぎりでございます。砂糖を足してしまい、まったくのお子さま向けになってしまいました。甘みを控えたお饅頭を売りとしているのにで、ございます。まあ、お子さま向けのお饅頭としてご用意することにいたしましたので、廃棄するような勿体ないことはいたしておりません。 形を整えるおりも、つい娘のことを思い浮かべてしまいます。うさぎを作っているつもりが、耳がないのでございます。耳がなくては、うさぎとは申せません。桃の形を作ろうとして、栗になってしまったり。まったくの、上の空でございました。お恥ずかしい限りでございます。そうそうお話しておりませんでした、朝食のことでございます。妻が寝込んでからは、止むなく麺類にしております。うどんやらそばで済ませます。いえいえ自炊が自慢なのではございません。そのように先回りされましても。 実は、朝食をニ度頂いているのでございます。いえ、お腹が空くからというわけではありません。仕込みに一段落を付けての、ひと休みとしており……。申し訳ありません、有り体に申し上げます。娘でございます、娘が、むすめが、、、申し訳ございません。込み上げてきまして。あの、あの朝のひと時が、わたくしの人生の華でございました。なので、思い出す度に落涙してしまうのでございます。 さ、気を取り直して、お話をつづけましょう。二度の朝食と申しますのは、娘からの提案でございます。 「朝、一緒に食べてよ。お母さん寝込んでるから、ひとりぽっちなの。ちっとも美味しくないの、ひとりだと。あたしが作ってあげるから、お父さんも食べてよ。お母さんも、喜んでくれるから」 妻が喜ぶ? どういうことだ、それは。ああそうか、そうか。娘ひとりの食事が可哀相だから、仕方なくわたくしにお相伴させようということか。自分が起きたら、またわたしをのけ者にする腹でございましょう。ふん、いいさ。娘がわたしと一緒が良いと言ってくれるさ。「お父さんの方が良いわ」と言われた時の妻の顔が見たいわ。 |