愛の横顔
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(四)

 それから三年ほど経ちましたでしょうでしょうか、二十歳の秋の終わりでございました。女学校を卒業後、大学には行かずに勤めに出ておりました。そのことでも、妻とひと悶着ありました。わたしはもちろん娘の好きなようにするがいいと申し、妻は是が非でも進学をと言い張りました。妻の気持ちもわかりますが、いや本当のところはわたくしとしましても大学生活を味わってもらいたいと思ってはいました。
 しかし、娘に反対する勇気がなかったのでございます。正直、ほっとする気持ちがございました。考えてもみてください。大学といえば、それこそエリートとか呼ばれる男たちが通う場所でございます。品性のある、そして端整な顔つきの男たちが通う場所でございます。
 そんなところに行けば、娘が、わたしの娘が……。失礼しました、これはお忘れください。幸い、わたしどもの取引先の穀物問屋にお世話になることができました。その穀物問屋は先代からの取引先で、妻も良く知っている所でございます。故にまあ、妻も渋々承知しました次第で。

 なのに……。突如なんの前ぶれもなく、陽射しの強い日曜日の夕方に、あたしの恋人だと、ひとりの青年を連れてきました。肝をつぶす、というのはこういうことを指すのでございましょう。ただただ驚くばかりでございます。妻などはもう、小躍りせんばかりに喜ぶ仕末でございます。
 わ、わたくしでございますか? ……そりゃあもう、嬉しくもあり哀しくもあり、世のお父さま方と同じでございます。ええ、本当にそうでございますとも。

 青年は二時間ほど雑談を交わしたのちに、帰って行きました。穀物を扱う商事会社に勤めるお方で、年は二十六歳のひとり暮らしとのことでございました。両親は、九州にご健在で弟ひとり・妹ふたりの六人家族ということでございました。青年が帰りましてから、娘は、しきりに青年の印象を聞くのでございます。
 妻が、いくら「いい人じゃないの」と言ってみたところで、わたくしがひとことも話さないものですから、娘も落ち着きません。お茶をすすりながら、ポツリとわたしが言いました。
「いい青年だね。だけどお前、やっていけるのかい? ゆくゆくは、ご両親との同居もあるよ」
娘は、目を輝かせて「もちろんよ、お父さん!」と答えるのでございました。

 娘が進学を拒みましたのは、実のところはこの青年が因だったのでございます。娘が申しますに、高校二年の夏に、お友だちふたりの三人で市営プールに行った折に、この青年と出会ったというのです。プールの監視員を務めていたとかで。友人の弟がアルバイトをしていたところ、急性盲腸炎で緊急入院をされたとか。
 その友人は海外出張だとかで、やむなく代理を務めることになってしまったのだとか。で、そのプールで、娘がよりにもよってこむら返りを起こしてしまい、青年の看護を受けたことが始まりだったようです。 まあ目を輝かせて、ことの次第を話してくれました。以後のことも、でございます。ああ、もう!

 その夜は、まんじりとも致しませんでした。「もちろんよ!」と、言い切ったときの娘の目のかがやきが、目を閉じると瞼の裏にはっきりと映るのでございます。それからのわたくしは、まさしく且つての妻でございました。顔にこそ出しませんが、心の内では半狂乱でございました。娘を手放す男親の寂しさもさることながら、じつは、正直に申しますと、娘に対して‘女’を意識していたのでございます。
 以前にお話ししたとおり、血のつながりのない娘でございます。もちろん、自分自身に言い聞かせてはおりました。「血はつながらなくとも、娘だ!」と、毎夜心内で叫んでおりました。しかし、崩れてしまいました。もろいものでございます、親娘の絆は。もっとも親娘はおやこでも……。

 それからのわたくしときましたら。娘の入っていることを承知で、風呂場をのぞいてみたり電気を消してみたり、とまるで子どもでございました。娘の嬌声に歓びを感じているのでございます。そんなことを、はじめの内は勘違いと思っていた妻も、たび重なるにつれ疑問を抱きはじめたようでございます。わたくしの行動に目を光らせるようになりました。そんな時でございました、あの、忌まわしい、そして、恐ろしい夢を見ましたのは。

 ある夜のことでございます。わたくしと妻は、ひとつの布団におりました。が、急に妻が起きあがるのでございます。あっ申しわけありません、夢でございます。ご承知おきください。まだ、べつの部屋での就寝でございます。
 わたくしの腕のなかからすり抜け、だれか男の元に、走っていくのでございます。一糸まとわぬ姿で、その男にすがりつきます。わたくしは妻を追いかけるとともに、その男をにらみつけました。とっ! 何ということでしょう、あの青年だったのでございます。娘の婚約者でございます。
 わたくし自身めが、そうなることを望んでいたが為のことかもしれません。そのとき、わたくしがどんな思いで妻を連れもどしたか、お分かりにはいただけませんでしょう。いえいえ、そのような単純な思いではございません。とても、これだけはお話しいたすわけにはまいりません。ただそののち、年甲斐もなく激しく嬌声を発しながら、力のあらん限りをつくし荒々しく抱きしめておりました。

 妻は、わたくしの、そのあまりの声に怯えたのか、はげしく悶えながら逃げようといたします。わたくしは、両手で顔をしっかりと押さえつけ、唇を押しあてました。そしてそこから、わたくしの熱い吐息を、そして男を注ぎこんだのでございます。妻はまえにも増して、激しくもだえ抵抗します。いまだに信じられないことなのですが、抵抗されればされる程に、激情と申しますか劣情と申しますか……。
 頭から足の指先まで全身をなめまわしたのでございます。ぐふふ、ナメクジが這いずりまわるが如くにです。仲睦まじかったおりでも、そのような行為に及んだことはございません。どちらかと言えば、淡泊でございました。大恩あるご主人さまの忘れ形見だという思いが、あったのかもしれません。いえ、美しい女人を蹂躙してみたいという思いは、確かにございました。ひょっとして、ここにおられるあなた方のどなたよりも、そういった獣のような行為に憧れておりました。

 まだ赤線がありました頃には、足しげく通ったものでございます。お気に入りの娼婦がおりまして、その者に対しては口にするのも憚られるような行為をくりかえしたものでございます。えっ!”どんな行為か?”ですと。うーん……。お話したくはないのですが。緊縛はご存じでございますか? いま風に申しますれば、SM行為のようなものでございます。いやいや、お恥ずかしいことでございます。
 申し訳ございません、お話をもどしましょう。全身をなめまわしておりましたおりに、ふと気がつきますと妻のからだに鳥肌が立っていることに気がつきました。こころなしか痙攣を起こしているようにも見えます。わたしは、思わず手の力をゆるめ、顔をあげました。が、何ということでしょう、これは。

 …………、ああ、お願いでございます。わたしめを、このカミソリで殺してください。もうこれ以上の苦痛には耐えられません。そう、そうなのでございます。妻、だったはずが、娘だったのでございます。わたしは、犬畜生にもおとる人間、いや、鬼畜でございます。
 ふふん。しかし、あなた方だってそんな気持ちを抱かれたことはあるはずです。よもや、ないとは言われますまい。まして、血のつながりのない娘でございます。わたしの立場でしたら、あなた方だって、きっと、きっと。ふふふ……。
 申しわけございません、取り乱してしまいました。お話をつづけましょう。

 その翌日、もちろん娘をまともに見られるわけがありません。その翌日も、そしてまたその次の日も……、わたくしは娘を避けました。しかし、そんなわたくしの気持ちも知らず、娘はなにくれと世話をやいてくれます。そしてそうこうしている内に、結納もすみ、式のひどりも一ヶ月後と近づきました。娘としては、嫁ぐまえのさいごの親孝行のつもりの、世話やきなのでございましょう。わたくしの布団の上げ下げやら、下着の洗濯やら、そしてまた、服の見立てまでもしてくれました。妻は、そういった娘を微笑ましく見ていたようでございます。なにも知らぬ妻も、哀れではあります。

 しかしわたくしにとっては、感謝のこころどころか苦痛なのでございます。耐えられない事でございました。いちじは、本気になって自殺も考えました。が、娘の「お父さん、長生きしてね!」のことばに、鈍ってしまうのでございます。本当でございますよ、ほんとうでございますとも。娘にお聞きください、妻におききください。じっさいに包丁を手首にあてたのでございますから。台所でございます。流しに手をいれて、必死のおもいで包丁を当てたのでございます。

 なにゆえと言われますか? ふき出す血を流すのに、一番の場所ではありませんか。お風呂場? ああ、お風呂場でございますか。なる程、それは思いつきませんでした。そうですな、お風呂場が良かったかもしれません。さすればふたりに気づかれずに、成就したかもしれません。
 お恥ずかしいことに、使いなれない包丁でございます。背の方を手首にあてがっておりました。ですので、切れないのでございます。まったくお恥ずかしいことです。そうこうしている内に、わたしめのうなり声を耳にしたふたりが……。

 とうとう、結婚式の前夜がやって参りました。式の日が近づくにつれ平静さをとりもどしつつあったわたくしは、暖かく送りだしてやろうという気持ちになっていました。が、いざ前夜になりますと、どうしてもフッ切れないのでございます。いっそのこと、あの合宿時のいまわしい事件を相手につげて、破談にもちこもうかとも考えはじめました。いえ、考えるだけでなく、受話器を手に持ちもしました。ハハハ、勇気がございません。娘の悲しむ顔が浮かんで、どうにもなりません。そのまま、受話器を下ろしてしまいました。

 妻は、ひとりで張り切っております。ひとりっ子の娘でございます。最初でさいごのことでございます。一世一代の晴れ舞台にと、いそがしく動きまわっております。わたくしはといえば、何をするでもなく、ただただ家の中をグルグルと歩きまわっては、妻にたしなめられました。仕方なく、寝室にひとり閉じこもっておりました。
「トントン」とドアを叩く音がしました。「誰だネ?」ときく間もなく、娘がはいって参りました。ピンクのカーディガンを羽織っております。二十歳の誕生祝いにと、わたくしが選んでやったものでございます。娘はドアに鍵をかけると、わたくしの横にすわり
「お父さん!」と、声にならない涙声でちいさく呟きました。
 
 わたくしは、あふれ出る涙をかくそうと、そろそろ雪解けのはじまった街路を見るべく窓際に立ちました。夕陽も落ちて、うす暗くなりはじめていました。「まだまだ、寒いなあ」。そう呟くと、カーテンを引いて外界との交わりをたちました。涙を見られたくなかったのでございます。
「お父さん……わたくしのかたわらに来て、娘がまたつぶやきます。「うん、うん」と、娘のかたに手をおいて頷きました。娘は、なんとか笑顔を見せようとするのですが、涙を止めることができずにいました。わたくしはそのいぢらしさに、心底愛おしく思えました。
「お父さん!」。そのことばと同時にわたくし私の胸に飛びこんでまいりました。
「抱いて、だいて。彼を忘れさせるくらい、強くだいて」
 そんな娘のことばに戸惑いを感じつつも、しっかりと抱きしめてやりました。ふたりとも、涙、なみだ、でございました。静かでした。遠くの方でパタパタというスリッパの音がひびきます。そしてそれと共に、娘の鼓動が耳にひびきます。

 ……、……。
 失礼しました、お話をつづけましょう。しっかりと娘を抱きしめました。華奢なからだを両の手でしっかりと、抱きしめてやりました。そしてわたくしのこころに、またしても起きてはならないものがムクムクと頭をもたげてまいりました。
 思わず、手に力が入ります。娘も、負けじと力が入ります。もうだめでございました。止めることは出来ませなんだ。
 恐ろしいことでございます。そのおりのわたくし心境ときたら、おのれの都合のいいように考えていたのでございます。
”娘は知っているのだ、血のつながりのないことを。そしてこの俺を愛しているのだ。
父親としてではなく、男として欲しているのだ”などと。

 娘ですか? 人形でございました。そのおりの娘の心情は、考えたくもありません。もっともわたくしとしては、考える余裕もございませんでしたがな。うす暗い洞窟のなかに閉じこめられたような感覚におそわれていました。娘とふたりきりでございます。赤い、どす赤い(ということばがあるかどうかはわかりませんが)液体がわたくしめをおそってまいります。じわじわとではなく、どっとわたくしめにおそってくるのでございます。
 どれほどの時間が経ちましたか。と、驚いたことに、娘だとばかりに思っていたその女が、妻に変わっておりました。いや、そうではなく、妻に見えたのでございます。あの、わたくしの元に嫁いでくれたころの……。わたくしが惚れにほれぬいた女に、見えたのでございます。

わたくしは叫びます、こころのなかで絶叫します。
”この娘は、この女は、おれのものだ。だれにも、わたさーん!”

 ここで、老人のことばは終わりました。出席者のだれも、ひと言も声を発しません。静寂がこの場をとりしきっております。きょうは重陽の節句である、九月九日です。まだまだ残暑のきつい日々がつづいております。ふた間のへやを使っての大部屋でございます。二台のエアコンがフル回転しているとは申しましても、なにせ集まった人数が多うございます。
 あらためて申しますが、本日は大婆さまの三十三回忌でごす。最後の年忌法要として盛大に執り行っております。

「ごめんくださいませ。こちらさまに、……」
 と、妙齢のご婦人がお迎えにあがられました。お孫さんでしょうか、切れ長の目をされていて鼻筋も清々しく、清楚な感じの娘さんでございます。「お父さん、またよそさまのお宅に上がり込んで、だめですよ。申し訳ありません、みなさん。お通夜の席をお騒がせいたしまして、ほんとうにもうしわございません」
「失礼ですが、ご老人の……?」。善三さんが立ち上がられて、わたしだけでなく皆さんが疑問に関しだていることをお尋ねになりました。
「失礼いたしました。あたくし、田所妙子と言いまして、この正夫の娘ございます」

「いま、たえこさん、と仰いましたかな?」。善三さんが、再度お尋ねになります。
「はい、妙子でございます。小夜子は、わたくしの母でございます。昨年になくなりました」
 このご返事に、みな一斉にどよめきました。ご老人は、たしかに娘の命日と仰ったのです。
「娘さんのご命日とお聞きしたのですが?」と、再度たずねます。
「まあ、またそのようなことを。先年、母を亡くしまして。以来、塞ぎこむようになりました。最近になりましてすこし元気を取り戻したのですが、方々のご法事の場に赴いては、ご迷惑をおかけしています。ほんとに申し訳ございません。それでは失礼致します。さ、お父さん、帰りますよ」

 驚いたことに、背筋をピンと伸ばして話しておられた老人だったはずですのに、今のいままで声を張り上げての熱弁でしたのに。いまはよろよろと立ち上がられて、そのご婦人にしがみつかれます。
「おお、小夜子。どこにいた、どこにいた? わしを、わしをひとりにしないでおくれな」
 弱々しい老人の声が、耳にのこります。けれども、なんとも法悦なご表情のご老人になられていました。
「はい、はい。お家に帰りましょうね」

 思いもかけぬことに、「ひょっとして、ご老人は……」。一旦ことばを切られました。 いかな善三さんでも、そのことばを口にすることはためらわれたようでした。
「はい。お察しのとおりでございます。母の死後に、痴呆症と診断されました」
 大きなどよめきが起きるなか、そのことばとともに、深々と頭を下げながら去って行かれました。ふたりが去った後、「ふーっ」と、みなさんが一斉にため息を吐きます。澱んだ空気が部屋全体をおおっています。タバコの煙があちこちから漂いはじめ、開け放たれた障子から庭先と流れでていきました。
 そしてその煙が空にのぼり終えたとき……

(あとがき)

 疲れました……。
「地獄への招待」という、高校一年生に書き上げた作品を、大幅に手直しした作品です。といっても、大筋はそのままですが。
 文芸部の大先輩(最上級生の4年生で女子でした)に、こっぴどく叱られました。
「高校生が書くものじゃない」、「あなたには、夢がないのね」。
 その方は、卒業後すぐに、嫁入りされました。しかも、わたしの大っ嫌いな教師の元に。

 で、六十年後に[Re:地獄変]を書き上げました。小夜子の言い分となります。