(七十三)

 昭和二十四年にドッジ経済顧問が来日したことにより、富士商会は不況の荒波にもまれることになった。ハイパーインフレの収束を目指した経済政策は、日本を未曾有のデフレへと導いた。前年にGHQから発令された『経済九原則』を、日本政府に対して強硬にドッジは断行させた。緊縮予算実施のために大量の解雇がはじまり、街には失業者があふれた。復員兵を大量にやといいれていた国鉄も、九万五千人という大量人員整理を命じられた。当然のごとくに、民間企業も次々と人員整理に追いこまれた。すでに社員数五十余名にふくれ上がっていた富士商会も、半数近くの社員が余剰気味になった。
「社長!背に腹は変えられません。首切りを断行しましょう」。詰め寄る五平に対し、武蔵は頑として受け付けなかった。なぜ? 五平には武蔵の意図がくみ取れなかった。同業他社では次々と首切りを断行して、この国難とも言える事態を乗り越えようとしていた。それでも持たずに店を畳む者も多々いる。ここまで辛抱してきたんだ、社員も分かってくれる=Bそんな思いが五平にはある。しかし武蔵は頑としてそれを拒否する。
「俺たちの取り分をゼロにしてでも、首切りはやらん! 一年の辛抱なんだ。朝鮮半島のきな臭さを考えれば、早晩戦争は起きる。そうなれば、特需だ。大企業ならいざ知らず、富士商会ごときに優秀な社員が集まるはずもない」
「しかし社長、持ちますか? それまで」。なおも五平が食い下がる。
「なあに、心配するな。いざとなれば、裸になれば良いんだ。いままで良い思いをしてきたんだ、泥水をすすってでも持たせるさ。幸い、あの三人も給金は当分不要だと、言ってきた」
「えっ! あの三人が、ですか……」。五平は、絶句した。恥ずかしかった。あの三人ですら、おのれの給料を減らしてでも、いや全額返上してもいいという切り出した者さえいるという。それほどに仲間意識を持って首切りに反対しているというのに、五平にはおのれの給料を減らすなど思いもつかなかった。他所では……という言い訳の元で、おのれだけは助かりたいと思ってしまった。

 それからの武蔵は、まるで鬼人の如くに動いた。徹底的に、同業他社を叩き潰しにかかった。売価の徹底値下げを図った。他社と正式契約を取り交わしている相手に対し、半ば恐喝まがいの行為で破棄させた。他社の提示価格よりも一割、二割と値下げ提示して回り、「なあに、早晩自滅するさ。いつまでもあんな商取引が続くわけがない」と、陰口を叩かれた。
 武蔵の、赤字覚悟の攻勢だった。『まず、売価有り!』の戦法を取った。納入後に、仕入先との値段交渉に入ったのである。有無を言わさぬ価格決定に対し、轟々たる非難が起こったが、武蔵はどこ吹く風とばかりに受け流した。掛けではなく、徹底した現金仕入れを取り入れもした。直接、製造工場に乗り込んで、テーブルの上に札束を積み上げた。明日の利益よりもいまの現金に目がくらんだ工場主は、武蔵の軍門に下っていった。夜逃げ寸前の町工場に乗り込んで、調達したことも多々ある。大手のメーカーでは、工場長の犯罪さえ誘発した。そのおりには、富士商会の名前は出さず架空の会社名で買いあさった。
 小物類は爪切りから、大きい物品は機械旋盤までを買いあさった。さらには食品にも、手を出した。生鮮食品以外のほとんどの物を買い込んだ。畑違いの生糸にまで手を出したおりには、さすがに五平が異を唱えた。しかし武蔵の意外なことばには、唸らざるを得なかった。「もう忘れたのか、五平。戦時中のかわやづとめを」。「将校たちの話のなかに、弾切れ以外にも、土のう不足だ、軍服不足だとこぼしていただろうが」。そして倉庫はもちろんのこと、事務室内、果ては廊下にまでうず高く積み上げた。武蔵の自宅はもちろん、下っ端の社員宅まで運び込んだ。

(七十四)

 年が開け、春の訪れが聞こえ始めた頃、さすがの武蔵も“これまでか!”と、観念した。社員への給料も遅配に始まり、とうとうこの月には欠配となる。既に、武蔵は勿論のこと五平の自宅も、銀行への担保に取られている。倉庫に眠る機械類も、担保に入れた。
「社長! 街金に駆け込みましょう。もう少しです、もう少しの辛抱ですよ」。五平が、武蔵に迫った。しかし武蔵は、首を縦に振らない。
「いや、ダメだ! 一度でも街金を利用すると、銀行が逃げる。これからは、銀行との付き合いが第一となる」。「しかし……」。分かっている、街金に手をだした商店は、結局のところ潰れている。
「まあ、待て。最後の手段だ、銀行を脅してくる。この手だけは、使いたくなかったんだが」。「そ、そんな。銀行を脅すなんて。気は確かですか、社長」。尋常ではない、切羽詰まった状態にまで追い込まれていることは分かっている。徳子の悲痛な金切り声が、毎日のように耳にはいっている。
「支店長だよ、支店長。使い込みをやってる奴が、いるんだ。梅子からの情報だから、間違いはないはずだ。なあに、失敗したところで、お前がいる。俺が警察の世話になったら、あとはお前が取り仕切れ。ぶつを叩き売ってもいい。なんとしても、持ちこたえろ」。悲壮な覚悟を告げる武蔵に、五平は思いとどまるよう懇願したが、むだだった。

 雨の降るなか、武蔵は車へと向かった。確証があるわけではない、キャバレーの女給から聞いただけの話である。知らぬ存ぜぬで、押し切られる可能性もある。恐喝罪に問われる危険性が高い。それでも武蔵は、なんとしても銀行から引き出すつもりだった。
「車まで、送ります」と言う五平を制して、すこし離れた駐車場に向かった。と、そのとき、ビルのかげに潜んでいた男が、武蔵に向かって突進してきた。手にキラリと光る刃物があった。体をかわす間もなく、武蔵のわき腹に突き刺さった。見も知らぬ男だった。「天誅!」と叫ぶやいなや、男はそのまま雨のなかを走り去った。崩れおちる武蔵だったが、雨が幸いした。手の握りが弱かったらしく、深手にはなからなかった。それでも過労のせいもあり、一ヶ月ほどの入院となってしまった。
 その日、五平の決断で、社員全員に給料の欠配を告げた。「三ヶ月間、辛抱してくれ。かならず、神風が吹く」。結局のところ、47人の社員が残った。ふた桁の退職数を考えていた五平には嬉しい誤算ではあった。しかし予想もしない男が、土下座をしてわびながら会社を去った。みな口々に慰留のことばをかけたが、その理由を知るに至って涙の別れを納得した。
「すまん。親父が倒れて、田舎に帰らざるをえない。もし許されるなら、戻れることがあったら戻ってきたい」。しぼり出すような悲痛な声に、「いいとも、幸田。戻って来いよ、いつでも。ねえ専務、それでいいですよね」。竹田がしっかりと幸田の肩を抱いて、五平を見上げた。
「ああ、いいとも。かならず戻ってこいよ。お前の営業としての力量は、社長も一目置くほどだ。待ってるぞ」。ぽんぽんぽんと五平もまた幸田の肩をたたいて、 別れをおしんだ。
まるで、忠臣蔵だな。さしずめ幸田部は、年老いた母親を思って脱盟した中村清右衛門か。こうなると、社長の入院が良かったのかもしれんな=Bひとり五平は、心内でつぶやいた。

(七十五)

 その年の六月、朝鮮動乱勃発。武蔵の読みどおりに朝鮮戦争特需で、日本経済は回復軌道に乗った。しかしそれは、あくまで見かけ上のことではあった。一部の産業――特に繊維産業は、その特需の恩恵に預かった。武蔵が予測したとおりに、膨大な土嚢に軍服、そして天幕を受注したからだ。武蔵は在庫の生糸類を一気に吐き出した。GHQによる対中貿易禁止令によって安価な物資が途絶えて、アメリカ本土からからの高値の物資を買わざるを得なくなってしまった。
「アメリカから資源を買い、アメリカのために生産し、アメリカの言い値で売る」。そんな状況に陥ってしまった。必然市民生活には恩恵が届かずにいたが、富士商会は多額の利益を得ることになった。「うちを一枚かませてくれなかったのは……」。同業他社の妬みは凄まじく、GHQから情報を得ていたのではないかと疑われて忌み嫌われた。「社長の大英断ですから」と、必死に社員全員で取引先を飛び回って説得した。日頃の武蔵を知る者や個々の社員たちの信用もあって、ほとんどの取引先は納得をしてくれた。納得できない業者もいるにはいたが、飛ぶ鳥を落とす勢いの富士商会にたてつくことは得策でないと、いつしか矛を収めた。

 熱い夏の盛りがやっと終わり、朝夕にはしのぎ易い風が吹くようになった。青息吐息だった富士商会も、朝鮮特需によって飛躍的に業績を伸ばした。大量に買い込んでいたあらゆる物が、あっという間に捌けたのである。病み上がりの武蔵も、あちこちの取引先からの要請で、日本中を飛び回った。
「疲れた」と言う言葉を禁句にしていた武蔵だが、この時ばかりは頻繁にこぼした。心配げに見守る五平だったが、その五平自身もGHQの将校達との接遇に追われた。情報収集が最優先すべき五平の仕事であり、それが富士商会隆盛の源なのだ。
「五平よ。慰安旅行にでも、行くか? 正直、疲れた。熱海辺りにでも、繰り出すか。女連れで、銀座もないだろう。同じ金をかけるなら、一泊でドンちゃん騒ぎでもするか?」
 思いもかけぬ、武蔵のことばだった。むろん、五平に否と言う言葉は浮かばなかった。
「いいですなあ、社長。社員達にも、一時は辛い思いをさせましたし。それにこの夏は、休日返上で頑張ってもくれました。パァー! っと行きますか」
「よし、決まった! そうだな、十一月に入ったら臨時休業するか。どこか、予約しておいてくれ。金に糸目は付けるなよ。最上級の旅館で、最高のサービスをさせろ。それから、五平。俺とお前の二人きりの時は、社長はやめろ。軍隊時代からの付き合いだ。武さんで、いいぞ」
「いやいや、それはまずいでしょう。けじめは、付けなくちゃいけません。あたしみたいな半端者が、こんないい思いをさせて貰ってるんだ。感謝してますよ、ホントに」
「それは、俺にしても同じさ。五平のお陰で、GHQとの繋がりもあるんだからな。これからも、二人三脚でやって行こうや」

(七十六)

 富士商会初の慰安旅行は、土・日にかけての一泊旅行として発表された。思いもかけぬ朗報に、全員が感嘆の声を上げた。更には、鉄道の三等ではなく二等客車を利用するという声に、蜂の巣を突付いたような騒ぎとなり、その日一日笑い声が絶えなかった。
「死ぬまでに一度は、乗りたいと思ってたんだよ。よおし、その日までは、なにがあっても生きぬくぞ」。「何だ、そりや。その後なら、死んでもいいってことか?」
「お洋服、新調しなくちゃね。なにせ、一等車だもの」。「そうね、そうよね。奮発して、デパートで買わなくちゃ」
「熱海だなんて、嬉しいわ。貫一・お宮の舞台なのよね」。「温泉に入るの、楽しみ。しかも、熱海で一番の旅館なんでしよ?」
 あちこちで話が盛り上がり、「仕事しろ、仕事!」と、五平の怒鳴り声がひびくこととなった。

 当日は午前中で仕事を切り上げ、それぞれに新調した服に着替えての出発となった。ゆったりとした座席に陣取った一行は、他の乗客達のひんしゅくを買う程にはしゃぎ回った。
「社長。やっぱり列車じゃなくて、バスの方が良かったんじゃないですか」
「なんだよ、バスって。あんな狭苦しい乗り物なんかで、3時間、いやもっとか、揺られるなんて、できねえ相談だよ。第一、俺が人混みが大っ嫌いだってことは、五平も知ってるだろうが。俺はごめんだぜ」
 吐き捨てるように言う武蔵に対し「あいつらがこんなに大騒ぎするとは思ってもいませんでした。バスなら騒いでも社員たちだけですし。社長だけ汽車でという手もありましたしね。狭苦しいということなら、二手に分けて出るということもできましたよ。貸し切りという方法があるらしいんです。真剣に考えりゃ良かったですよ」と、五平のぼやきがつづいた。
 眉をひそめながら愚痴る五平に対し、武蔵は「きょうは、大目にみてやれ。乗客には、俺から謝るさ。次の停車駅で、弁当かなにか買ってきてくれ。お客さんらにそれを配って、辛抱してもらうさ」と、取り合わなかった。

 熱海に到着したころには、そろそろ日も暮れ始めていた。駅舎から出た一行を出迎えたのは、[富士商会御一行様]という幟だった。番頭らしき初老の男と二人の仲居が、満面に笑みを浮かべていた。総勢五十人程の大所帯ということもあり、路線バスを借り切っての迎えだった。改札から出てくる社員中には、赤い顔をした者やら大きく欠伸をする者やらで、統制が利かない。五平が声を張り上げて、やっとバスへの列を作った。
「長旅、おつかれさまでございました。さあさあ、どうぞ。なあに、ほんの五分ほどで着きますです」と、もみ手をしながら誘導した。
「五平。俺はあとで合流するから。ちょっと寄りたいところがあるんだ」。そっと耳打ちをする武蔵に「こんな所にも女を作ったんですかい? 社長も好きですねえ」と、小声で応えた。武蔵は、苦笑いを見せながら「そんなんじゃねえよ」と手を振りながらその場を離れた。

(七十七)

 武蔵には本館ではなく、少し庭先を歩いた離れの間が用意されていた。庵風のつくりで、趣のある平屋の建物だった。灌木の間を歩いて、石灯籠を見やりながら石畳の道を歩く。下駄でお渡りくださいと宿に用意されたが素足にはひんやりとして冷たい。しかしそれがまた風情ある趣を醸し出していた。
 引き戸を開けると半坪ほどの上がり口があり、まず四畳半の部屋がある。襖を開けると十二畳の部屋につながっていた。正面の床の間に掛け軸があり、不二越えの龍という掛け軸が目に入った。庭に面する部屋にしてくれという武蔵の希望通りに、ガラス戸の先には四季に合わせた花が見られるようにと数種類が植えられている。むろん樹木も植えてあるが、壮観だったのはその先に浜辺が見えることだった。
 
「本日はありがとうございます。のちほど女将がご挨拶に伺わせていただきますが、先ずはお茶を」と、番頭が仲居を呼んだ。
「番頭さん。そこの掛け軸は、不二越えの龍、ですか。葛飾北斎でしたっけ?」
「これは、これは。よくご存じで。葛飾北斎作ということですが、真贋のほどは、ご勘弁を。先代が骨董屋から買いあさったもののひとつでございますが、女将がその中から選びました」。じっと見つめる武蔵に番頭が説明した。
 武蔵に書画の趣味があったとは思えぬ五平が「社長。これから集めますか、すこし」と探りを入れた。熱海到着時に単独行動の意味が分からぬ五平だったが、物見遊山的行動をとる武蔵ではないことは分かっている。なにかしら商売上の動きだろうと、武蔵のことばに探りを入れた。
「いや、俺には似合わねえよ。この間、取引先の社長室に水墨画がかかっていてな。その社長、北斎が好きなんだと。そのときに、画集を取り出してきて長々と講釈をたれやがって。あの会社、長くねえな。そんな余裕なんかないはずだぜ。早晩、……ということだな」と、口に指を当てた。

 番頭と仲居が退室したあとに、「社長、申し訳ありませんでした。皆には、きつく叱っておきますので」と、五平が頭を下げた。足を崩せとばかりに手を振りながら「ああ、汽車のことか。なに、構わんさ。それだけ楽しみにしていた、ということじゃないか。叱ることは、ないさ。宴会が盛り上がらなくなるぞ。そんなことより、大丈夫だろうなあ。ドンちゃん騒ぎを、させてやれよ」と、応えた。
「はい、それはもう。前金を、たっぷりと渡してありますから。仲居への心付も、奮発しておきましたし」。「そうか、それでいい。で? 芸者は、何人呼んだんだ」。社長個人の道楽に金をつぎ込むぐらいなら、会社全体でつかいたいもんだ、これが武蔵の言い分だった。
「はい。『熱海中の芸者全員を呼べ』と、言ってあります」。「うん、それでいい。それからな、若い者たちは外に繰り出すだろうから、番頭にその旨言っておけよ。おかしなことに巻き込まれないよう、目を配ってやれよ。なんだったら、五平も行くか? 一緒に」。
「いやいや、社長。それじゃ、若い者が可哀相です。社長と、とことん飲み明かしますよ」
タケさんをひとりにしたらどうなることやら。旅館中のおんなを口説き回るんじゃ?
 五平の目が笑う。

(七十八)

 大広間に集まった社員の前で、えびす顔の武蔵が声を上げた。
「みんな、ご苦労だった。良く頑張ってくれた。加藤専務には、ほんとうに苦労をかけた。感謝したい、ありがとう。みんなの入院中の頑張りについては、加藤専務から報告があった。苦しいなか、良く残ってくれた。良く耐えてくれた。そのお陰で、会社は生き残れた。本来ならもっとお前たちに還元してやりたいんだが、この景気がいつまでもつづくわけがない。以前の俺なら、どーんと弾むところだが、入院中にいろいろ考えた。やはり、会社自体にも利益を残しておかないとな。もう二度と、あんな思いはたくさんだ」。武蔵の顔が苦渋に満ちたものに変わった。社員たちもまた、下を向いたり上を向いたりと、それぞれに思いを馳せた。
「いや、すまんすまん。楽しい席での言葉じゃなかったな。勘弁してくれ」。武蔵のことばを遮るように、大広間のあちこちから「社長の責任じゃないですから」と、声が上がった。期せずして「社長バンザイ! 富士商会バンザーイ!」と一斉に大合唱となった。
「みんな聞いてくれ」。興奮するみなを手で抑えながらつづけた。
「じつのところ今回の慰安旅行の発案は、加藤専務だ。正直、俺は渋ったんだがな。しかしいまは、みんなの笑顔を見ていると、大正解だったな。とにかく今夜は、思いっきり飲んで食べて、そして騒げ。ただし男どもは、程々にしておけよ。どうせ、外に繰り出すだろうからな。番頭に言ってあるから、楽しんで来い。女性陣は、たらふく食べろ。新鮮な魚介類を、たっぷりと用意させてあるからな。以上だ。みんな、ホントにご苦労さんだった」

 思いもかけぬ武蔵のことばに、五平は我が耳を疑った。慰安旅行の発案は武蔵であるのに、五平の進言だと、はっきり告げられたのだ。しかも、渋る武蔵を説得したかのごときことばに、社員全員の視線が五平に集まった。武蔵に促されて、五平が立ち上がった折には、大広間が揺れるほどの拍手が沸きあがった。
「社長は、わたしの手柄のごとくに言って下さったが、そんなことはない。みんなの頑張りがあったから、こそだ。社長は、利益をひとり占めするような人じゃない。頑張ればがんばっただけのことは、きっとしてくださる。これからも一丸となって、社長に付いて行こうじゃないか。というところで、乾杯だ。かんぱーい!」

 二十人近い芸者たち全員が、武蔵の意向もあり社員の輪の中に入っていた。はじめのうちこそ照れくさそうな表情をしていたのだが、次第に酔いが回るにつれて、飲めや歌えのドンちゃん騒ぎとなった。そんな中、五平が武蔵の前に陣取った。
「社長! 死ぬまで、ご奉公しますぜ。今夜ほど、うれしいことはないです。こんなどうしょうもない男に、あんなに気をつかっていただけけるとは。惚れました、いや、惚れなおしました」感涙に咽びながら、五平は武蔵に深々と頭を下げた。
「五平。止めろ、もう。頭を上げろ!」。「いや、頭を上げられません。涙が、止まらんのです。こんな、みっともない顔、社長に見せるわけにはいかんのです」
「それじゃ、酒が飲めんだろうが。いま思いついたんだが、どうだ、この床の間に徳利を並べてみんか。徳利で、埋めつくそうじゃないか」。「そうですな、飲みあかしますか。どちらが先に飲みつぶれるか、ひとつ勝負しますか」

(七十九)

 ふたりの話が一段落したとみた服部に山田、そして竹田の三人が、「社長、お流れをいただきにきました」と、武蔵の元にやってきた。
「おゝ、ご苦労だったな。三人とも、良く頑張ってくれた。これからも、加藤専務を助けてやってくれよ」。「もちろんです! 専務同様に、我々も、社長に惚れこんでいますから。社長の社員思いには、感激しました。みんな、喜んでます」と服部が言い「ありがたいです。社長といえば、どこも威張り散らすだけですから」と、山田がつづけた。寡黙な竹田は、ふたりの言葉にただ大きく頷くだけだった。
「おい、おい。これ以上は、なにも出んぞ。それより、お前らも早くくり出せ。ほれっ、あそこで待ってるじゃないか。それとも気に入った芸者がいるんだったら、番頭に話をつけてやるぞ。専務に頼め、たのめ」と、追い払った。

「シャチョー〜! わたしたちにも、お流れえ〜!」と、三人が立ち上がると同時に女性社員がどっと押し寄せた。
「分かってるんだから。社長が言い出しっぺでしょ、旅行は」。「そうよ、そうよ。渋ちんの専務が、言い出すわけないもん!」
「社長! いい加減に、所帯を持ってくださいな。なんだったら、あたいはどう?」。「いゃだあ! あんたなんか、だめよ」
「そうよ、そうよ」。一気にかまびすくなった座で、武蔵はただ苦笑いをするだけだった。

「そうです、社長。もういいかげんに、身を固めてくださいよ。あのときの娘なんか、社長にピッタリなんですがなあ」。我が意を得たり! とばかりに、五平が言った。とたんに、「ええっ! 誰、だれ、それ。専務、どこの娘さんなの?」と、一斉に声が上がった。
「おい、専務! どこの誰とも分からん、娘だろうが」。武蔵が口をとがらせる。
「どういうことなの、専務。そんな素性の分からない女は、だめよ」「そうよ。そうだわ! 山本富士子なんか、いいんじゃない?」
「そうねえ。社長みたいな色男には、あの位じゃなきゃねえ」。酔いのまわった女性たちの口撃に、武蔵はたじたじとなった。
「分かった、分かった。口説いてみるさ、こんど。さあ、料理が残ってるぞ。全部、平らげて来い。これは、社長命令だ」。「はあ〜い」
 見事なハーモニーで返事をすると、ケタケタと笑い合いながら「外に出よっか」「寛一お宮の松でも見に行く?」「お土産も買わなくっちゃ」「お土産と言えばさ、うちの旦つくの姑がね、、」と話が広がっていった。

(八十)

 だだっ広い広間に、ふたりだけが残った。仲居たちが「よろしいでしょうか」と声をかけて片付けにかかった。「いいぞ。ただ、ここには酒をジャンジャン頼むよ」と声をかけた。二本のお銚子を持ってきた仲居に対して「面倒だろうから、冷やで良い。とにかく十本ぐらいを持ってきてくれ。で呼んだら、また追加だ。今夜はここで飲み明かすから、よろしく頼むよ」と、手の中に札を握らせた。こんなに、と恐縮するが返すそぶりは見せなかった。
「それじゃ、社長。あらためて、ということで」と、杯を上げて酌みかわした。「おい、五平。いまは、タケさんでいこうや」。杯じゃ面倒だと、コップ酒に切り替えた。
「五平よ。俺は、どのくらいの寿命をもらってると思う。子供を持たせてもらえるだろうか」。大きくため息を吐きながら、思いもかけぬことばが洩れた。
「なにを気弱になってるんです? ガキなんてのは、知らぬ内に出来てるもんですよ。欲しいからって出来るもんじゃありません。タケさん。その前に嫁さんですって。でなきゃ、授かるものもさずかれませんよ。しっかりしてくださいな、タケさん」
「そうだな、そういうことだな」。「どうしたんです? また急に」。「うん、ちょっとな」

 武蔵の変化に気づいてはいた。弱気とまでは言わぬまでも、猪突猛進さが失われたとは感じていた。疲れを知らぬ邁進ぶりが、鳴りをひそめはじめたと感じていた。病み上がりのせいか、とも思える。いや、そう思いたい五平だった。
「しかしタケさん。あの親分、やってくれましたなあ。タケさんの仇討ちとばかりに、あの三国人に……」。「おいおい、滅多なことは言うなよ。犯人不明ということになってるんだ」。「そうでした、そうでした」
「しかしまさか、あそこの娘が嫁いでいたとはな。まったく肝を冷やしたぜ」。「あいつらは、問答無用ですからねえ」
 ガチャガチャといった片付けの音がじゃまで、次第に声が大きくなり出した。小声で、と武蔵が言うのだが五平は、生来こえが大きい。密談には不向きな男だ。体をちぢこませて、体を寄せての話となってしまう。はたから見ると、よからぬ算段をしているように見える。ほぼ片付けの済んだ頃に、広間の入り口から宿の女将がふたりに視線を送るがふたりは気づかない。大きな声を上げながら近づけば問題はないのだが、いまのふたりには人を寄せつけぬ空気がただよっている。