(八十一)
 
「俺の後継者は、五平、お前だぜ」
 とつぜんの武蔵のことばに、危うく酒をふきだしそうになった。
「何を言い出すんですか、坊ちゃんを作ってくださいよ。いま、その話をしたばかりじゃないですか」
「いや。運良く息子を授かったとしても、こんな商売はやらせられん。堅気の会社に勤めさせる」
 コップ半分ほどの酒をいっきに飲み干し、また大きくため息を吐いた。
「タケさん! 怒りますよ、まったく。どうかしてる、今夜のタケさんは。富士商会を、堅気の会社にすればいいじゃないですか! タケさんが頑張って、坊ちゃんに安心して継がせられる会社にすればいいんだ。タケさん。あんた、いま、何歳です? やっと三十を越えた若造ですぜ」
「そうだな、そういうことだな」。「まず、嫁さんですよ」
「分かった、分かった」。五平のまくし立てる剣幕に閉口した武蔵は、早々にほこを収めた。しかし本音の部分では、生き馬の目をぬくような過酷な会社経営を子どもにさせることには、武蔵も二の足を踏んでしまう。
「どうしてもやってみたい」。そう言い切る子どもならば反対する理由はない。しかし、と考えてしまう。ヤミ市の頃は良かった。朝早くから次からつぎへと繰りだされる荷物をさばきつづけ、夜になると五平とふたりで、カストリと称された密造酒をあおりつづけた。工業用アルコールを水で薄めたバクダンと称された密造酒にも手をだしたが、さすがに体を壊しかねないと知り、一度でやめた。そしていまでは毎晩のように女給たち相手に酒を痛飲し、好きなときに気に入った女給を抱いてはいる。「羨ましいことで」と周りからは言われるが、当の武蔵にはまるで達成感のないものだった。
 しかし男として生まれたからには、と思いはする。50人近い社員を抱える一国一城の主となったことを自慢する己がいる。テキ屋の間では、一目も二目も置かれる存在となった。しかし今……。
「入院をしていた時にな、いろいろと考えさせられたよ。なんで刺されなくちゃならん? そこまでのあくどいことをしたって言うのか? ってな。けど、黒幕があの女だったと聞かされたときに、正直、執念を感じたよ。覚えているか、そりゃ覚えているよな。親を自殺にまで追い込んでしまったんだから」
 口に運びかけたコップを膳にもどすと、改めて大きく息を吐いてからことばをつづけた。
「山新商店だっけかな、屋号は。ヤミ市時代のことを詐欺まがいの商売だとののしられて、ついカッとなってしまった。それじゃ仕掛けてやるぜって調子で、あちこちに噂を広めちまった。テキ屋連中のことばってのは、意外にほんとにされるもんだと、あのときはじめて実感したぜ。『うそも突きとおせば真実になる』ってな。こわいもんだ」
「そうでしたねえ、あれはこたえました。けど、詐欺まがいってことばはまるで思いちがいだ。にせ物を売ってたわけじゃないんだ。まあねえ、GHQの後ろだてがあるってことが、あの親父には信じられなかったんでしょう。もっとも、将校たちに女をあたしが斡旋ししてたこと、案外のところ知ってたんですかね。商品がにせ物ってことじゃなくて、仕入れの方法が汚ねえ、そのことを言ってたのかもしれません。タケさんのことじゃなく」

(八十二)

「これからは、五平にはキチンと話をしてから物ごとを進めていこうかと思ってる。いま、反省している。独断すぎたな、俺が。あの頃のことだよ、首切りが流行っていた。俺が社員たちのそれをしなかったのには、他所に対する意地があった。けどもちろん、それだけじゃないけれどもさ」
 いつの間にか五平をも部下のひとりとして見ていたおのれに気づいた武蔵は、五平の存在がどれほどに大きかったのかを思いしらされたのだ。五平がいうように、GHQという後ろ盾があったればこその躍進ぶりだった。もっといえば存続だった。決して武蔵の力だけではなかったのだ。そのことに気づかせてくれた、刺傷事件だった。そしてそのことが、息子に後を継がせたいという思いをためらわせた。同じ目に遭わせるわけにはいかん、そう思わせた。そして「俺の後継者は、五平、お前だぜ」につながった。
「タケさん、いや社長。これからは仕事の話なんで、社長と呼ばせてもらいます。きょうはどちらに行かれたんで? 今おっしゃってくださったでしょう、わたしには事前に話してくださると。社長がなんの思惑もなしに、熱海くんだりまで来られるわけがない。いや、待ってください。先に言わせてくださいな」
 口をはさもうとする武蔵を制して、五平がつづけた。いま自分の思いの丈をすべて吐き出さねば、武蔵のことばに飲み込まれてしまうと思ったのだ。これまでにもあったことだ。特に五平にこたえたのは、やはりあの刺傷事件だ。
ついて行けば良かった。ひとりでなんでも片付けようとするタケさんに対して、もっと強く意見すべきだった=Bその思いが強い。
「これから、どこに行こうとされているんですかい。社長のことだ、現状で満足されているとは思えんのです」
「そうだな、五平には話すよ。なんといっても、かけがえのない俺の相棒なんだ。富士商会は俺だけの会社じゃない。五平とふたりの、俺たちの会社なんだ」
 コップに残る酒を飲み干すと、それを五平に手渡した。
「お聞きします、社長」と居住まいを正して、武蔵に正対した。
「販路先を広げたい。いまのままでも十分にやっていけることは分かってる。いまの日本は、衣食はだいたい足りた。住にしても、でっかい団地とかいう建物が建設されるそうじゃないか。ちらほらマイホームって話もでてる。となるとだ、次はなんだ? 娯楽だ。おんな子どもも入れてみんなで騒ぐ娯楽だろう。むろん、社員の慰安旅行もそのひとつだ。だけどそれだけじゃねえ、家族だ。子どもたちをも、きっと楽しませようという機運がきっとでてくる。でだ、宿泊施設だ。そいつは旅館でありホテルだろう。いま現在どんな具合かを知るために、来てみたんだ。むろん、社員たちの頑張りにたいする慰労が一番だけどな」
 思いもかけぬ武蔵のことばだった。ただの慰安旅行ではないと思ってはいたが、まさかそんな思惑が隠されていたとは考えもつかない五平だった。この人は、こと商売にかけちゃ……=B天才ということばをぐっと飲み込んだ。
違う、そんなひらめきなんかじゃねえ。きちんと、論理的に考えての結論だ
 次にくるもの、そのひとつに娯楽があるとは、目端の利く者ならだれもが気づくことだ、しかし武蔵は、他人より一歩いや半歩早いのだ。だから人を出し抜ける。だから、より儲けられるのだ。そう納得させられた。

(八十三)

「社長。やっぱり、首切りはすべきだったんですよ。不幸中の幸いというか、今回の社長の入院でとりあえず落ち着きはしましたがね。結果的に6人が辞めましたが、本音の部分では辞めたくなかったようです。実家に連れもどされた娘やら、親の商売を継ぐということで辞めた者、あとはやっぱり家計が持たないということでした。持ち直したら再雇用して欲しいなんていう奴もいましたがね」
「そうか、そういう気持ちか。嬉しいことを言ってくれる。しかしいちど辞めた奴を雇い直すことはしないぞ。それを許してしまったら、残った奴らに申し訳がない。はっきりいって、富士商会を見捨てた奴らだからな。しかし、残念だよ。賃金の遅配やら欠配やらの事態にまで追い込まれた、いや追い込んだのは俺だ。申し訳ない気持ちだ。社員は家族も同然だからな。家族ってのは、家長がしっかりと守ってやるべきだ。たとえ相手を殺してでも、食い扶持は持ってくるもんだ」
 最後のドスの効いた声には、このひとならほんとにやりかねえ≠ニ思わされた。刺傷事件のときも、どこまでの事態になったか分からぬことだったのだ。武蔵が刺傷事件を起こしたかもしれないと、思ってしまう。思わず男泣きをする五平だった、女衒時代の苦衷を思い出した。
「うちはね、タケさん。親父の稼ぎがわるくて、母親が土方に出る始末でした。あたしだって、十歳になったとたんに丁稚奉公をさせられた。姉がいたんですが、お察しのとおりです。まだ十五にもなっていないのに、嫁がされた。口減らしみたいもんです。いやもっとひどいかも。売られたも同然ですからね。そいつがまた、ひでえ男でしてね。親をだまくらかしやがって、売っ払ちまいやがった。で、一年と持たずに病気をもらっちまって、実家にも帰れずに滝に身投げしてしまいました。亡きがらも見つからずですわ」
 憤懣やるかたないと表情をしながら、ぐっと拳を握りしめた。
「あたしがもう少し大きかったら……」。その後は口をつぐんでしまったが、そのあとにつづくことばは即座に理解した。
「そうか、それで女衒になったのか」
「ええ。変な話ですが、姉みたいに奈落に落ちることのないようにと、あたしなりに気をつかいました。自慢できることじゃないですがね、まあ、娘たちには感謝されました。親にはだめですがね。あたしをぼろくそに罵ることで、罪悪感を隠したんでしょう。自分をごまかしたんでしょう。ま、それはそれで良いんですがね」
「いいことなんか、あるもんか! 他人に怒りをぶつけるなんて、最低だぜ。甲斐性なしなんてのは、大概がそんな奴ばかりだろうさ。俺の親だって、似たようなもんだったよ。まあ、人の好さだけが取り柄だった。が、それが裏目に出たというか。ご先祖さまから受け継いだ田畑を、親戚連中にいいようにされて。中でもひとり、業つく張りがいやがって。畑はおろか、家まで取られちまったよ」
 意外なことに、武蔵の表情は笑っていた。怒りを隠してのことではなく、自嘲気味でもなく、心底から笑っていた。
「良い勉強をさせてもらったよ。親父は反面教師で、あの従兄は、俺の先生さまだ。あのお方さまをじっくりと観察することで、いろいろと勉強させてもらったからな」

(八十四)

 服部、山田、そして竹田の三人が、大浴場の湯船に貸し切り状態で浸かっている。他の一般客を閉め出しているわけではないのだが、時間が遅いことと富士商会の面々は夜の街に繰り出していることからのことだ。実のところは、それだけではない。服部のいたずらで「清掃中」という立て看板を立てている。五平からの多額のこころ付けを受け取っている仲居頭の黙認と、服部のお茶目な頼みに部屋付きの仲居が協力しているのだ。
「社長、変わったよな」。「どんな風に」。「おとなしくなったというか、さ」
 服部と山田の会話に、竹田は黙って聞きいっている。
「竹田、そう思わないか」
 またこいつ打ち沈んでいるのか、と疑った服部が竹田の顔に手で水鉄砲をかけた。それに反撃するでもなく、顔をぬぐって
「なあ、社長と加藤専務ってさ、どっちが怖い?」と、その問いに答えることなく、ふたりに質問を投げかけた。「はあ?」と怪訝な表情を見せつつ「どっちも怖いけど、しいて言うなら専務かな」と服部が答え、「そうだな」と山田が同意した。
「けどまあ、それはいま現在のことであって、起ち上げのころは、ふたりとも怖かったぜ。とくに社長はききせまるというか、三国人やらテキ屋相手に一歩も引かないもんな。あの暴力団相手にしたたんかは忘れられん」。うんうん、頷きあう三人だった。
「お前らチンピラごときにぐだぐだ言われる覚えはないぞ! こっちは特攻崩れなんだ! 一回いや二回三回と死ぬ思いをしてきたんだ。いや、あのときに死んだんだよ! おまけなんだ、これからは」
 武蔵の声が、いまこの浴槽で響きわたった気がして顔を見合わせる三人だった。
 富士商会のあまりの景気の良さに用心棒代を要求してきた暴力団に対応したしたときの、武蔵の一世一代の仁王姿だった。むろん五平とこの三人もまた、武蔵のうしろに立っていた。人数的に武蔵側が多かったせいもあるが、武蔵の気迫に暴力団側が負けたということだった。といっても、面子の世界に生きる暴力団としても、「はいそうですか」と引き下がるわけにも行かない。水面下の交渉が行われて、ヤミ市に店を出すおりに挨拶をしたテキ屋の総元締めを仲介人として手打ちが行われた。解決金として拾萬円を支払い、以後は一切の介入をしないとの約定が交わされた。暴力団にとってはかろうじて面目が立つという条件で、総元締めの威光だけが示されたものだった。
「やっぱ、あれだな。大病をして生死の境をさまようと人は変わる、って言うけど、社長も人の子なんだな」
「そういうことだろうな」
 山田のことばに頷く服部だったが、このふたりは分かっちゃいない、社長の怖さを≠ニ竹田は思った。あの日の病室での会話を耳にしていなければ、竹田も同調していたことだが。

(八十五)

 刺傷事件の顛末を、服部・山田は知らない。   
「金物屋のことだ、夜逃げした店の雇い人たちなんだが。明日にでもやって来るかもしれん。というか来るだろう、きっと。適当にあしらってくれ。口から出まかせで、『従業員たちの面倒をみる』と言ってある。もしも、そのときは知らぬ存ぜぬで押しとおしてくれ。それから残金なんだが、のらりくらりで踏みたおせ。どうせ社長は夜逃げしてるだろうから」
 武蔵の言い放ったことばに、相手次第で鬼にも仏にもなれるお方だと、竹田の背に冷たいものが流れた。珍しく五平が仕入れ先からの接待で、一泊二日の旅行に出かけている。いつもなら辞退する五平だが、「せっかくのお誘いだ。行ってこい、行ってこい」と、居合わせた武蔵から背中を押された。そこで、竹田に五平の代役がまわってきた。
身内はとことん守ってもらえる。けど、相手が敵に回ってしまったら、その理由がなんであれ徹底的に叩くお方なんだ
 このふたりに、あの日の会話を教えようかと考えた。そのことをどう考えるか、ふたりの反応を見てみたい気もした。その反面、知ることが怖くもあった。服部は、社長を理解するだろう。「裏切った奴が悪い」と、即座に答えるだろう。山田はどうだ? 服部に同調するか? 表だって異は唱えないだろう。しかし内心では反発するかもしれない。相手に対して同情癖のある男だ、特別の事情があるんじゃないのか=Bそう考えるはずだ。
 ただ、そうはいっても、自分に跳ね返ってくることだ。死ぬか生きるかと追い込まれたときに相手の事情を考えるだろうか、そう考えると、山田もそうだが自分だって、と考えてしまう。そしてそれは人間としてどうなんだ、と考える。
 そのとき、姉のことが思い出された。母親のことが思い出された。うさんくさい占い師らに翻弄されつづけ、給料の大半を吸い上げられて悲惨な家庭生活に追い込まれた。そのときに、いっそ逃げだそうか、家族を見捨てようか、そう考えたおのれを思い出した。そこまで追い込まれたときに、このふたりの助言にどれほど助けられたか。五平に話す機会をえて救われた。そしてその機会を作ってくれたのが武蔵だと知り、一生をこのお方に捧げる≠ニ誓ったのだ。

(八十六)

 朝方近くまで痛飲した武蔵は、酔いつぶれてしまった五平を残して、そろそろ明るくなりはじめた外に出た。眼前に広がる海原を、感慨深げに見つめた。いちめんに敷かれた芝生が、素足であるく武蔵にここちよく感じられる。海からの風も、武蔵にここちよい。
俺も、ここまで昇りついたんだな。苗字のせいで、やれ便所だの、臭いだの、と揶揄されたもんだ。蔑まされつづけたが、なにくそ! と発奮してきたんだ。運にも恵まれたが、スレスレの事もやった。つぶした同業も、数多あった。テキ屋相手に啖呵も切ったし、暴力団と渡りあったこともある。そういえば、首をくくった奴もいた。あのときは、若い者を外で待たせていたんだ。すぐにどうこうということはなかったが、支払いが滞りはじめたからなあ。しかしあの男も、納得ずくだったんだ
「社長! どう、ここらで楽になんない? うまく立ちまわろうよ、ねえ。酷な言い方だけど、早晩いきづまるよ、お宅は。いや、分かってるって。頑張ってきた、ホントに。頭が下がる、ホントにね。でもね、これ以上ねばってみてもさ、良い目はでない。ジリ貧だ、もう。そこでだ、こっちもね、苦しいのよ。だからさ、お互い良い思いをしょうよ。いい考えがあるの。七掛けで買ってよ、商品を。で、そっちの商品を五掛けで買うわけ。相殺って、形ね。いやいや、表向き七掛けな訳よ。実際には、五掛けでいいの。分かる? 二割は、現金で払うからさ。もちろん、帳簿には載せない。それでね、バンザイしちゃうの。夜逃げしたって、いいじゃない。もちろんね、そのまま頑張ってもいいよ。社長の力量なら、再起できると思うけどね。どう、この話に乗るかい? よし決まった! あそこの角に、若い者を待たせてるから。上代で、壱百萬だあな。ここにいま、弐拾萬円あるんだ。取りあえず、これだけ払うよ。残金は、あとで払うからさ」
 売れ筋の商品を、半ば強奪するように積みこんだ。形の上では、正規の取引である。先を見誤った、と強弁すれば済むことである。
「本業がかんばしくないので、はたけ違いの商品を取り扱った」。そう弁解すれば良いのだから、と強引に押し切った。結局のところ、眼前に積み上げられた現金に目がくらんでしまったのだ。月末にやってくる給料の原資に窮し、法外な利息の街金に手を出してしまった。為に利益の大半を、その街金に吸い上げられていた。この店とは富士商会を立ち上げてからの付き合いなのだが、相手に情けを掛けるような武蔵ではない。相手を殺してでも、己が生き延びることを優先させた。もっとも、そうやってかき集めた商品を抱え込みすぎたがために、富士商会自身も苦しむことになってしまった。
 結局はその店も、ひと月と保たずに倒れてしまった。武蔵が渡した弐拾萬という金員も、従業員の手には渡らなかった。街金に怒鳴りこまれて、残金の参拾萬が入るからと、つい差し出してしまった。ところが、さ程の抵抗もせずに差しだしたが為に、怪しまれてしまった。
「社長! 隠し金は、やめてよ。俺ら、すぐに見つけるからね。もしあとで出てきたら、そんときは容赦しないよ。腕の一本や二本、ね? 分かるよね」
 結局、夜逃げしてしまった。そして残金については、武蔵の手から従業員たちに配られることになった。
「社長に聞きました、『富士商会さんから貰え』って。街金に渡されたら、俺たちに回ってこない。助けてください」と、涙ながらに訴えてきた。しかし武蔵は、すんなりとは話に乗らなかった。

(八十七)

「内もね、苦しいんだ。思ったように、さばけないんだ。倉庫を見てくれよ、商品の山なんだ。事務所の廊下にまで、溢れかえっているだろう。といって、手ぶらで帰ってもらう訳にもいかんし。どうだろう? 君らの給料の五掛けで、手を打ってくれないか? 本来なら、社長に支払うべきものなんだ。街金に談じ込まれたら、返答に窮してしまう。その代わりといっちゃなんだが、ほとぼりが冷めた頃にだ、富士商会に入らないか? 君らなら、諸手を上げて歓迎するが」。武蔵は、「残金、たしかに受領いたしました」という一札と引き換えに個々の従業員に手渡した。総額がいくらなのか、誰にも分からぬよう処理したこと、そしてまた残金と書かせたことで、金壱拾萬円の支払済みとしてしまった。実のところは、伍萬円そこそこの金額だったのだが。そのあと、何人かが職を求めてやって来たが、武蔵の入院という事態でうやむやに終わってしまった。その場かぎりの武蔵の方便だった、社長を裏切るような従業員を雇うつもりは、まるでなかったのだ。竹田に「聞いていませんので」と断られ、再度訪れたおりには、五平に一喝されて、彼らはすごすごと引き上げて行った。
 感慨にひたる武蔵の元に、旅館の女将が声をかけて来た。
「お早いですねえ、社長さま。おはようございます。いかがですか? ここからの眺望は。当旅館の、自慢のひとつなのですよ」
 武蔵が振りかえると、斜めうしろに楚々とした風情で立っていた。和服にはうとい武蔵だが、見るからに高級そうな着物姿だった。年の頃は三十路も半ば過ぎか、と武蔵には思えた。やや首をかしげる仕種は妖艶さをただよわせている。思わず見とれてしまった武蔵に、「どうかなさいました、社長さま」と、女将が見上げるように尋ねた。
「いや、こりゃ失礼! 見惚れてしまいましたよ、女将に」
「あら、あら、そんな。都会のお方は、お上手ですね」
 女将は、口元に手をあてて微笑んだ。その柔らかい仕種がまた、武蔵のこころをとらえた。
「昨夜は、世話になりました。美味い料理でした、板さんによろしく言っておいてください。みな、喜んでいました。中々に食べられんのですよ、活きの良い魚は。それに、おひたしの出汁は絶品でした。いまどき、あの香りは一流の料亭でも無理でしょう」
 料理については余ほどに自信があるのか、したり顔で小鼻をふくらませて頷いた。旅館の醍醐味のひとつに料理があることを知る女将が、毎日くどいほどに板前に要求をつづけている現れだった。軽く頭をさげて「ありがとうございます、申し伝えておきます。いかがです、あちらは。復興目覚ましいのじゃありませんか? わたしときましたら、ここから離れたことがございませんので、新聞で知るだけなのでございますが」とおのれを下にすることを忘れない女将に対し、武蔵は「うん、そうだね」と、短く答えた。

(八十八)

「それにしても、ご酒がお強いのですね? 驚きましたわ、本当に。ご用意が間に合わずに、失礼致しました」。女将は、庭に設置してある椅子を勧めながら、自らも腰をおろした。
「いやいや。ぼくも専務も、あれ程に飲んだのは、はじめてで。なにせ、床の間を埋め尽くせ! とばかりに、やりましたから」
「お体の方は、大丈夫でございますか? 少しは、お寝みになられましたでしょうか?」
 武蔵は浴衣の上から半纏をかけている。気持ちが高揚しているせいか、それともまだ酒がのこっているせいなのか、すこし汗ばんでいた。必然浴衣の胸元をゆったりとして、半纏も紐をかけていない。すこし浮いたあばら骨が女将の視界に入った。日焼けしている顔とは異なり、白い肌をしている。そんじょそこらの女よりも白い。吸い込まれるような思いにとらわれた女将だったが、
「お寒くはありませんか?」ということばを繋げることで、面目をたもった。
しかし武蔵は「大丈夫です」と答えて、
「うん。横にはなったけれども、なかなか寝付けなくてね。しかしこんな飲み方をしていちゃあ、先が短いでしょう。まっ、太く短くですな」と、太く短くを強調した。生っちょろい男じゃないですよ、と強調した。
「そんなこと……」
「いやいや、早死にしますよ。自分の体ですからね、分かるんです」
 話の勢いで出たことばだったが、何かしら予言じみたものに感じられた。死を恐れる気持ちがないわけではないが、もしも選択を迫られたら――御手洗武蔵という男に胸を張ることが出来ない状態に追い込まれたら、きっとその選択を拒否することになるだろうと思えた。それがどんなときなのか、いまは想像もつかないが、そのときには男として死のうと考える武蔵だった。「命を惜しむな、名を惜しめ」。どこかで耳にしたことばが、武蔵のこころに、その琴線にひびいたのだ。
「大丈夫ですわ、きっと。社長さまのご酒は、楽しいご酒ですから」
「楽しい、酒ですか?」。「そうですわ」。「ところで、女将のご主人は?」
「宅は、グチの多い酒でした。偏平足ということで、あっ、おたまちゃん! 社長さまに、白湯をお持ちしてね」。聞かれたくないことをおっしゃらないで、と軽く武蔵をにらみつけながら、縁先を通る仲居に声をかけた。
「それにしても、社長さまの奥さまは幸せ者ですわね」
「ハハハ。残念ながら、独り身です。そのことでは、昨夜、女性陣に責められました」
「あら、残念! あたくしが、十も若かったら、押しかけましたのに」
「いやいや。女将なら、歓迎しますよ」
「お上手ですこと。社長さまのことですもの、あちこちに、いい方がいらっしゃるでしょうに」
 久しぶりに、ゆったりとした気分に浸る武蔵だった。そうだな。そろそろ、身を固めてもいい頃かもしれんな=B灯りの消えている自宅に帰ったときの寂寥感が、最近とみにこたえてしまう。
「ご苦労さん、おたまちゃん。お連れの方は、どうしてらっしゃるの?」
「はい。先ほどお伺いしましたら、まだお寝みでございました」
「そう、分かったわ。お目覚めになられたら、『社長さまはお庭にいらっしゃいます』と、お伝えしておいてね」
武蔵にたいし、深々とお辞儀をして仲居は辞した。
「よく躾がゆきとどいていますな、これが老舗旅館ですか」
「とんでもございません、古いだけの旅館でございます。さっ、白湯を召し上がってください」
 湯気の立つ白湯が武蔵に手渡された。着物の袖からのぞいた腕は、白くそして細かった。身長が5尺たらず(1m47cm)で、体重は…12貫とすこし(47kg)の平均的な女性だった。しかし痩身ゆえか、それとも女将としての自信のあらわれゆえか、すこし大きく見えた。
「そうだ、女将。徳利を進呈しなくちゃいかんな。昨夜に、なにか暴言を吐いた記憶があるんだが」
「お宜しいんですのよ、社長さま。当方の手落ちでございますから。中々補充がままなりませんものですから、不足してしまいました。とんだ、不調法でございました」

(八十九)

 酒の追加を命じた折に、空の徳利を下げたいという女将の言を、床の間にならべつくすからと拒否した武蔵だった。女将の泣き言を聞いてみたいという、いたずら心からのことだったが、女将はあっさりと引き下がった。
「どうしました? 実際のところは」
「はい。番頭さんに言いつけて、他の旅館よりお借りいたしました。お恥ずかしいことでございます」
 女将は、涼しい顔でさらりと答えた。
「ほお、そうですか。無茶な要求だと思ったのだが」
「ほんとうに。ほほほ」。こんどは、声を上げて笑う女将だった。
「気に入った! 女傑だねえ、女将は。よし! 徳利を進呈しよう。もどり次第、手配させる。いいんだ、そうさせて欲しいんだ。なあに、日用雑貨品は、お手のものさ」
「ありがとうございます、甘えさせていただきますわ」
 深々と頭を下げて武蔵の申し出を受ける女将の襟足から、そこはかとなく漂う、女の色香。老舗旅館を背負い立つ女の、凛々しさとでも言うべきか。武蔵の虫がザワザワと騒ぎはじめた。
「女将。ちょっと、聞きにくいことですが、答えていただけませんか?」
「あらあら、なんでございましょう。怖いですわね、ほほほ」
 卑屈になることなく、正面から武蔵の視線を受け止めた。
「ぼくのこと、どう思いました? いや、どう思っています?」
 声を落として、いくぶん肩も落として、武蔵が問いかけた。
「と、いいますと?」
「いやその。例の徳利の件では、悪印象を持たれたんじゃないか、と」
「あらあら、お気の弱いことを。そうでございますすね、失礼を顧みませず申し上げますれば いけ好かない殿方 でございました」
 きっぱりと言い切った女将の目は、涼やかにそして穏やかであった。徳利を無償提供しようという者にたいする、いやそもそも客に対する返答ではない。それでも本音をさらけ出した女将にたいし、武蔵は好感以上のものを感じた。
「でも、いまのわたくしには、素敵な殿方でございます。女将としての修行をさせていただいた、大事なお客さまでございます」
「女将。おためごかしな言い方は、やめようや。厭な客だと思われても仕方がないさ」
「いえいえ、御手洗さま。本音でございます。たしかに昨夜はいやなお客さまでございました。でも、けさの御手洗さまをお見かけしてわたくしの考えがまちがっていたと、気付かさせていただきました」

(九十)

「どういうことです?」
「会社経営をなされていますお客さまが、いかに大変なご苦労をなされているか、いかに大きなご心痛をお持ちになっていらっしゃるか、思いが至りませんでした」
「それを、今朝のぼくに見た、と?」
「はい、海をながめていらっしゃる御手洗さまに。大変失礼なことを申し上げまして」
 深々と頭を下げる、女将だった。
「いやあ。女将と、一戦まじえたいものですなあ」。とつぜん、武蔵が言う。「あらあら、こんなおばさんでよろしいんですの? 」と、女将は受け流した。
「その色香は、そんじょそこらの女どもでは出ません。口はばったいですが、ぼくも年の割には遊んだと自負しています」
 なおも食い下がる武蔵に
「まあ、まあ、まあ、どうしましょう。都会の殿方はお口が、お上手ですから。でも、おからかいもほどほどに。でないと、大やけどなさるかも」と、さらに妖艶な科をつくってみせた。
「社長、おはようございます。いやあ、参りました。二日酔いです、完全に。社長は大丈夫ですか?」
「おやおや、専務さんはお弱いんですね 」
 朝の光がまぶしく感じるように目をほそめながら現れた五平に、女将が声をかけた。
「女将、言ってくれるね。弱くはないんだ、わたしだって。弱くはないんだが、この社長が底なしなんだ」
「それは、ほんとに。ひょっとして、ご酒が血液で、体中を回っていらっしゃるとか? ほほほ、失礼しました」
「女将も、いけそうだね。どう? 一丁、勝負しますか。そうだな、ぼくが勝ったら女将の操をもらおう。万が一ぼくが負けたら、ご奉仕しますよ」
 五平の登場に間の悪いときにと思う武蔵だったが、もう一度粉をかけてみた。
「あらまあ。それじゃ、どちらも同じことじゃありません? 」
「ハハハ、ばれたか。大抵の女はひっかかるんだがなあ。細かいところまで、聞いてるおられる。さすがは老舗旅館の、女将だ」
「ありがとうございます。賭けは別としまして、社長さまとは、ゆっくり、さしつさされつ と、まいりたいものですわ」
 社交辞令か? と、勘ぐる武蔵だが「よし、決まった。もうひと晩お世話になることにしょう。空いてるよね、部屋」と押してみた。
「はい、もちろんでございますとも。万が一にもふさがっておりましても、なんとしてでもお泊まりいただきますわ」と、女将が返してきた。
「聞いたか、五平。泣かせるねえ、女将は。丁々発止とはこのことだぜ」
「社長。盛り下げるようですが、明日は銀行が来ます。酒を抜いておきませんと」
「無粋だぜ、五平。と言っても、銀行じゃなんともならんか。名残り惜しいけれど、女将。また、日を改めてと言うことで」。
「承知いたしました。首をながーくして、お待ち申し上げております」
 女将が去ったあと、武蔵の隣に五平が腰を下ろした。
「のんびりしますな、ここは」
「ああ、東京の喧騒がうそのようだ」
「まったく、です。ところで、女将と話がはずんでいたようですね。で、どんな話を?」
 うずうずとしていた五平が、武蔵に直球を投げかけてきた。
「なんだ、気になるのか?」
「いや、あれだけの女傑は、そんじょそこらにはいませんて。女将でなかったら、社長の伴侶に迎えたいもんですよ」
「五平もそう思うか? 」
我が意を得たりとばかりに身を乗りだす武蔵に、
「ってことは、社長! まさか? ただですねえ。あの女将、後家さんなんです。それでもいいとおっしゃるなら、話をつけますがね」と、五平が応じた。
「ばか言うな。ここを捨ててまで、俺について来るわけがねえだろうが。おい、ちょっと待て。後家さんだと誰に聞いた? 俺には旦那がいるって口ぶりだったぞ。いや待て、そういえば生き死にの話はしなかったな。こりゃ、だめってことか」と、肩を落とした。
「いやいや、社長が本気で口説けば、分かりやしませんよ」
「おいおい、本気にしちまうぜ」
「どうぞ、どうぞ」。このまま話がつづくと、五平は本気で女将を口説きかねない。あわてて武蔵は、五平を押しとどめた。
「やめとこう。あの女将は、男を食らう。男を踏み台にして、大きくなってきたんだ。たまに逢うぐらいで丁度いい。それはあの女将も先刻承知だろう。それにまだ女盛りだ、どこぞに間夫がいる。案外のところ花板あたりと、ねんごろじゃないか?」
「社長。そいつは、ちょっと違いますぜ」
「ほう、違うってか。女のことでは、五平にはかなわねえや」
「あの女将は、ひとりに入れあげることは、まずないでしょう。複数の男を、ことばは悪いが、手玉にとりますよ」
五平の目はたしかだ。それは五平が見つけるオンリーさんで、証明されている。アメリカ将校からの不平があるにはあるが、数えるほどだ。
こんな高学歴の女が?=B良家の子女だぞ?=Bそんな疑問符のつく女性が、魔法にかかったがごとくに陥落する。
「おいおい、そんな女が、俺に似合ってるのか?」
「いや、女将だからですよ。会社でいえば、社長だ。なにもかもを、ひとりで切り盛りしてる」
 すべてを見通しているかのごとくに、五平がすらすらと答える。武蔵にしても確信はないけれども、すべてを采配する女将が想像できないわけではない。ただそれも、あくまで想像の産物だ。五平のように断じることはできない。
「なんでそんなことが、分かる?」
「いえ、仲居から聞きました」
「聞いたって、お前、いつだ……ええ! まさか、今朝ってのか」
「へへへ、そのまさかです。丁度目が覚めたときに、その……」
 思いもかけぬ五平のことばだった。そんな都合良く女がそばにいるわけがない。おそらくはひと晩中部屋にいたはずだ、五平を待っていたはずだ。
「どうやって布団に引張りこんだんだ。後学のためにも教えろよ」
 舌を巻く武蔵にたいし、頭をかきつつも鼻高々といった風情を見せる。こと女性問題に関しては、武蔵をつねにうならせる五平だ。
「そんなご大層なことじゃありませんよ。夕べ、ちょいと心づけを多めに渡しときまして。それで、水をくれと。で、口移しで飲ませてくれまして」
「そうか、それじゃ俺もやってみるかな」
「だめだめ。あたしみたいなげす野郎だから、いいんです。タケさんみたいな二の字には似合いません、て」
 大仰に手をふる五平に
「なんだそりゃ。それじゃ、どうすりゃいいんだよ」と、突っかかった。
「なにもいりませんて。今夜つきあえで、充分ですって」
「ほんとかよ。本気にするぜ」
「どうぞ、どうぞ。女将も、待ってますよ」

(九十一)

「のんびりしますな、ここは」
「ああ、東京の喧騒がうそのようだ」
「まったく、です。ところで、女将と話がはずんでいたようですね。で、どんな話を?」
 うずうずとしていた五平が、武蔵に直球を投げかけてきた。
「なんだ、気になるのか?」
「いや、あれだけの女傑は、そんじょそこらにはいませんて。女将でなかったら、社長の伴侶に迎えたいもんですよ」
「五平もそう思うか? 」
我が意を得たりとばかりに身を乗りだす武蔵に、
「ってことは、社長! まさか? ただですねえ。あの女将、後家さんなんです。それでもいいとおっしゃるなら、話をつけますがね」と、五平が応じた。
「ばか言うな。ここを捨ててまで、俺について来るわけがねえだろうが。おい、ちょっと待て。後家さんだと誰に聞いた? 俺には旦那がいるって口ぶりだったぞ。いや待て、そういえば生き死にの話はしなかったな。こりゃ、だめってことか」と、肩を落とした。
「いやいや、社長が本気で口説けば、分かりやしませんよ」
「おいおい、本気にしちまうぜ」
「どうぞ、どうぞ」。このまま話がつづくと、五平は本気で女将を口説きかねない。あわてて武蔵は、五平を押しとどめた。
「やめとこう。あの女将は、男を食らう。男を踏み台にして、大きくなってきたんだ。たまに逢うぐらいで丁度いい。それはあの女将も先刻承知だろう。それにまだ女盛りだ、どこぞに間夫がいる。案外のところ花板あたりと、ねんごろじゃないか?」
「社長。そいつは、ちょっと違いますぜ」
「ほう、違うってか。女のことでは、五平にはかなわねえや」
「あの女将は、ひとりに入れあげることは、まずないでしょう。複数の男を、ことばは悪いが、手玉にとりますよ」
五平の目はたしかだ。それは五平が見つけるオンリーさんで、証明されている。アメリカ将校からの不平があるにはあるが、数えるほどだ。
こんな高学歴の女が?=B良家の子女だぞ?=Bそんな疑問符のつく女性が、魔法にかかったがごとくに陥落する。
「おいおい、そんな女が、俺に似合ってるのか?」
「いや、女将だからですよ。会社でいえば、社長だ。なにもかもを、ひとりで切り盛りしてる」
 すべてを見通しているかのごとくに、五平がすらすらと答える。武蔵にしても確信はないけれども、すべてを采配する女将が想像できないわけではない。ただそれも、あくまで想像の産物だ。五平のように断じることはできない。
「なんでそんなことが、分かる?」
「いえ、仲居から聞きました」
「聞いたって、お前、いつだ……ええ! まさか、今朝ってのか」
「へへへ、そのまさかです。丁度目が覚めたときに、その……」
 思いもかけぬ五平のことばだった。そんな都合良く女がそばにいるわけがない。おそらくはひと晩中部屋にいたはずだ、五平を待っていたはずだ。
「どうやって布団に引張りこんだんだ。後学のためにも教えろよ」
 舌を巻く武蔵にたいし、頭をかきつつも鼻高々といった風情を見せる。こと女性問題に関しては、武蔵をつねにうならせる五平だ。
「そんなご大層なことじゃありませんよ。夕べ、ちょいと心づけを多めに渡しときまして。それで、水をくれと。で、口移しで飲ませてくれまして」
「そうか、それじゃ俺もやってみるかな」
「だめだめ。あたしみたいなげす野郎だから、いいんです。タケさんみたいな二の字には似合いません、て」
 大仰に手をふる五平に
「なんだそりゃ。それじゃ、どうすりゃいいんだよ」と、突っかかった。
「なにもいりませんて。今夜つきあえで、充分ですって」
「ほんとかよ。本気にするぜ」
「どうぞ、どうぞ。女将も、待ってますよ」

(九十二)

 はやし立てるように笑う五平に、
「調子に乗りすぎじゃねえか、五平さんよ。俺だってそれなりに自信はあるが、どうもあの女将は分かんねえや。うまくあしらわれるような気もするんだなあ」
 弱気になっている武蔵にたいし、
「らしくもねえ。ドーンといってみたらどうです。ただし、今日はダメですよ。タケさんのことだ、またすぐにでも来るんじゃないですか」と、探りを入れる五平だった。しかしそれには答えることなく、
「女将といえば、こんど陶器を扱うことにしたから。手はじめに、ここに徳利を進呈することにした。夕べのやんちゃのお詫びの意味でもな」と、話題を変えた。
「お詫びねえ。分かりました、わかりました。そういうことにしておきましょう。やっぱりだ」。
「ところで、五平、さん 」
「気味が悪いなあ。いつもどおりに、五平でお願いしますよ」
 にやつきながらの武蔵に、尻がムズムズする五平だ。
「俺に嫁さんうんぬんというが、お前さんはどうなんでしょうねえ。たしか、四十に近いんじゃないか? 」
「ええ、ええ。おかげさまで、もう七になってますよ」
「そうか、三十七才か。で、どうなんだ? 」
「なにがです? 」。ニヤつきながら、五平がこたえる。
「このやろう、しらばっくれて! 嫁さんだよ 」
「ああ、それですか。 あたしは、貰いませんよ。いや、貰っちゃいけないんで。あんな稼業だったあたしです。とんでもないです。それに、気が向いたときに好きな女を抱いてるんです。充分です」
 このやろー、と口にしながら口を尖らせる武蔵だった。
「だったら、俺だっておんなじだ。なんでおれだけ、窮屈な思いをしなくちゃならねえんだ?」
「タケさん。家庭ってのは、いいもんだ。それに、社会的にも大事だ。あんたは社長だ。体裁が悪いです、いつまでも独り者じゃ」
 なるほどと納得する武蔵だった。たしかに対外的な側面から考えても、いつまでもフラフラする状態ではまずい。上場企業との取引先においても、その胡散臭さが邪魔をすることがある。
「しかし五平。いつまでも昔を引きずるもんじゃないぞ。女衒をしてたからって、そこまで卑屈になることもなかろうに」
「いや、それはだめ」
「まあ待てよ。納得ずくのことだろうが。だまくらかしてのことでもあるまいに」
「いや、それは……。でもねえ、娘たちの言い分を聞くと」
 幾度となく五平のことばを遮る武蔵だった。五平の言わんとすること、思いは、充分に武蔵も理解している。しかしそれでも、五平をいまだに縛り付けている過去から解放してやりたいと思う武蔵だった。 
「玉ノ井だってことは、言ったんだろうが。まさか女中奉公だとは言ってないだろうが」
「そりゃまあ、そうですが。でも、女郎だとは、娘たちには言ってないんで」
「そんなものは、親が知ってりゃいいんだよ。大枚の支度金が渡されるんだ、覚悟の上さ。なあ、こうしようや。俺が嫁さんを貰うときは、五平ももらえ。いっしょに式をあげよう。いいか、決まりだ」
「タケさん、ありがとうございます。しかしわたしみたいな半端者が、所帯なんぞ持ってもいいんですかねえ」
「当たり前だ! 俺の相棒なんだぜ」
「キャッ、キャッ」とはしゃぐ声が、ふたりの耳に入った。
「ああ、いたいた。社長! 探したわよ。みんながね、お土産買いたいから、早く出たいんですって」
「そうか、お土産を買いたいのか。分かった、わかった。お嬢さん方のご希望だ。専務、そういうことだから、頼むぞ」
「頼むぞ、って、社長。まさか……」
「やっぱりだめか?」
「冗談はやめてくださいよ。いっしょに帰ってくださいよ」
 ふたりの掛け合い漫才にも似たことばの応酬に、
「どうしたんですか? まさか、もう一泊なんて、だめですよ。女将でしょ! 社長の目、なんだか嫌らしかったから。京子ちゃんの予感が当たってる。はい! いっしょに出ましょ」と、武蔵の両の手をふたりがかりでつかむと、さあさあと引っ張りはじめた。
「五平! お前。俺の伴侶にって、言ってたじゃねえか」
 武蔵の救いを求める声に対して
「だめですな、社長がこっちに来そうだ。女将にしてやられそうだ。あっちの方が、一枚も二枚もうわ手のようだ。諦めてくださいな」と、五平が突き放すことばを出した。