(六十一)
先日の逢瀬のおりには、となり町の映画館に出かけた。ベニス国際映画祭でグランプリを獲得した、黒澤明監督作の〔羅生門〕が上映されていると聞きこんだ小夜子の、たっての希望だった。正三にしても興味のある映画であったが、ふたりを知る人間のいないというとなり町であることが嬉しかった。さらにまた、映画館という隠微なひびきが、正三のこころを浮かれさせている。
「そりゃあ、何と言っても、映画さ。ぐっと近づくものだぜ。なにせ暗闇だからな。それに、立ち見が一番だ。ぎゅうぎゅう詰めの中だろ? わかるだろうが、なあ!」
「そう、そう! 多少の接触には、目をつぶってくれるさ」
「それより何より、待ってるんじゃないのか? 昼日中から、挑発的な態度をとるぐらいなんだから。ひと押ししてみなよ、正三」
友人たちのことばが、正三の耳にひびく。正三の肩を抱きしめて、耳元に囁いてくる。
「この映画、どうしても見たかったの。この女優さん、アーシアといっしょに写真を撮られていたのよ。ほんと、お綺麗だったわ」
小夜子の目が宙をただよい、夢のようなあの日に思いをはせた。アナスターシアの写真撮影が大幅に遅れてしまい、対談相手の女優が来てしまった。ふだんは不機嫌さからカメラマンにたいする叱責で大幅に遅れるのだが、きょうに限ってはアナスターシア自らのポーズ取りが増えての遅れだった。担当者の謝罪のことばに、
「わたくしもスチール撮影なんかあるじゃない、参考にさせてもらうわ」と、静かに受けこたえた。
「でもほんとに、華奢な体つきねえ。わたくしには、ちょっと無理なポーズもあるわね」
時間押しには慣れているはずなのだが、他人の仕事場での待機にすこし焦れはじめた。そんなときに、小夜子がお茶を運んできた。話し相手にでもと考えた女優が「可愛いお嬢さんねえ、お幾つなの?」と声をかけ「はい。十七です」と、小夜子がこたえた。
「そう、十七なの。あなた、女優になる気ない? はじめは大部屋からだけど、あなたならすぐに使ってもらえるわよ。あたくしの引きがあることが分かれば、いきなりの主役は無理でしょうけど、相手役ぐらいならねえ」
「あの、あたしが、女優ですか?」
大衆一座の看板役者を父に持つ小夜子だった。思いもかけぬその誘いに、好奇心の虫が騒いだ。
「どう? なんなら、あたくしが口利きしてあげてもいいわよ」
退屈まぎらしの声かけだったが、しだいに本気になってきた。思い切ったことばだと意識しつつ
「そうだわ、あたくしの妹役なんてどう?」と、口にしてしまった。早まったかしらという後悔の念がわきはしたが、昨日のファッションショーでの出来事を耳にしていたことから、大丈夫でしょと己を納得させた。当然に「そんな、恐れ多いことです」といったことばが返ってくるものと思っている女優にたいし、物怖じせぬ態度で思いもかけぬことばが返ってきた。
「アーシアに相談してみないと」
何と答えたのか、女優の耳には入っていない。ただ申し訳なさそうな表情が目に入った。マネージャーから相談してみるとのことですと耳打ちされて、即答ではないと知らされた。訝しげに「だれに?」と聞き返した。
「はい。あそこにいるアーシアです」と、小夜子が指さした。その指先には疲れから苛立ち気味になっているアナスターシアしかいない。それともすこし離れた場所にいる助手の男性かと、こんどは女優が指さした。楽しげに話す小夜子が気になり、気もそぞろになったアナスターシアの顔色が変わった。異変を察知した前田が、すかさず女優の元に駆け付けたが、「NO! NO! NO!」と、アナスターシアが声を張り上げた。
アナスターシアの怒声とその剣幕に、意味がわからずうしろに立つマネージャーに「どうしたの?」と声をかけるが、当然にマネージャーにも分からない。前田から事情を聞いた女優は、アナスターシアに向かって軽く頭を下げた。世界的モデルとはいえ、年下のアナスターシアだ。自分もまた、大女優としてのプライドがある。そのまま憤然と席を立つことも考えはしたが、映画宣伝で世話になっている雑誌記者の顔を立てての謝罪だった。それでも会釈ていどの頭下げが、せめてものプライドだった。
(六十二)
予期していたこととはいえ、ホールから観客が溢れていた。扉を開け放ち、黒い幕を張りめぐらせているほどだった。
「やっぱりね、すごい人気だわ」
「まいったな、これは。どうする? いったん、出ようか。半券に印を入れてもらって、出直すこともできるようだから」
「ここで待ちましょうよ。あと、二、三十分もすれば終わるんだから。そうだわ、軽く食べましょう。そこの売店に、アンパンが売ってるわ」
もう、おどおどした態度を見せる正三ではない。厳格な父親にたいして、宣戦布告をした、してしまったのだ。いまさらあと戻りはできない。小夜子にしても、正三にたいする態度に変化を見せている。横柄な態度をとることもありはするが、頼もしい男性としてまぶしそうに見上げる仕種を見せることもある、と感じる正三だった。たしかに正三にたいしてだけは、お嬢さま然とした態度やことば遣いを控えるようになった小夜子だ。ただ、あくまで主導権は小夜子にある。それだけは決して譲ろうとしない。
とにもかくにも、正三の買い求めたパンとラムネで時間を潰すことにした。正三としては、映画を見終わった後で洋食屋での食事を考えていたのだが、小夜子の意向に逆らうことはなかった。機嫌を損ねては、このあとの腹積もりが狂ってしまう。
「夕食を奮発してやれよ、正三。カツレツあたりを、ご馳走してやりな。とに角、陽が落ちるまでは、時間を何としてもつぶすんだ。そのあとに、公園でひと休みするんだ。なあに、アベックだらけに決まってる。黙ってても、良い雰囲気になるってもんだぜ。ヘヘ、羨ましいぜ。何てたって、あの小夜子だもんな」
「そ、そんなこと」
「おいおい、正三。お前もそろそろ、男になれよ」
そんな悪友たちとの会話が耳から離れない。下心を見透かされまい、それが至上命題のきょうの正三だった。
「ねえ、聞いてるの!」。「あ、ああ。もちろん、聞いてるよ」
なま返事を繰り返していた正三は、慌ててかぶりを振った。
「あたしも、なんとしても東京に行くわ。正三さんは、いつなの?」。「今月末の予定なんだ。来月に、入省させて貰えるから」
「いいわねえ、正三さんは」
「ありがたいと、思ってるよ。だけれど、責任が重い。伯父さんの顔を潰すようなことは、できないから。重圧感で、いっぱいだよ」
「あっ! 終わったみたいよ。急がなきゃ!」
ぞろぞろと、黒い幕の間から、観客が出てきた。みな一様に、難しい顔をしている。
「この映画って、芥川龍之介の『藪の中』をメインにしてるんでしょ、たしか」
「うん。『羅生門』という作品と、くっつけてるはずだ。短編だからね、芥川の作品は」
「正三さん。あたしのこと、好き?」
小夜子のとつぜんのことばに、正三はことばが出なかった。愛くるしい瞳で見つめられて、正三の胸の高鳴りが、一気に爆発した。「ああ、勿論!」。思わず、叫んでしまった。
「そんな大きな声で言わなくてもいいのに。変な正三さん」
変なのは、きみだよ、小夜子さんだよ=B小夜子の本意がわからない。
(六十三)
とうとつに聞いてきた正三の小夜子への思い、逡巡することもなくこたえた正三だが、小夜子の表情に変化はない。ただ「ふーん」ということばだけがとどいた。小夜子にしてみれぱ、意味のある問いかけではなく、今のいま、聞きたくなっただけのことだった。ただそれだけのことだ。
スタッフが重々しい扉を開けるのももどかしげに、正三の意に反し小夜子はグイグイと中ほどの客席に進んで行った。帰りをいそぐ客を押しのけるようにして、ときに罵声を浴びながらも、流れに逆らって入りこんだ。正三は、ただただ謝りつづけた。正三としては立ち見の方が良かったのだが、小夜子はかたくなに中央の席を目指した。下心を見透かされたのかと動揺するが、「座りたいの」という小夜子を聞いてほっとする正三だった。
「済みませんが、席をひとつしてもらえませんか。あたしたち、ふたりなんです」と、無理やりにふたり分の席を確保した。舌打ちしながらも、中年男は席を空けてくれた。「どうもすみません、すみません」。正三はなんども頭を下げて、その男のとなりに座った。
「正三さん、謝ることはないわよ。混んでるんだから、仕方ないわよ」。聞こえよがしに言う小夜子に、「そうは言ってもね、無理をお願いしたんだから」と、正三がたしなめた。
「人が好いんだから、正三さんは」。不満げに、小夜子が答えた。明らかに不機嫌な表情を見せる男に、正三はだまって頭を下げた。気まずい雰囲気のなか、ブザー音がなりひびき館内が暗くなり、上映がはじまった。
こんなはずじゃなかった=B正三の目論見は、完全に閉ざされた。最後尾の客席うしろに設置された手すりに小夜子を立たせ、ガードするように小夜子のうしろに立つ積もりの正三だった。自然な形で、小夜子に接触できることを願っていた正三だった。そして「大丈夫かい?」と、耳元で優しくささやけるはずだった。
「いいか! 女なんてのは、耳元で甘くささやかれると、グッ!とくるものだぜ」
「そうそう。混んでるんだから、体に触れたって不自然じゃないんだ」
友人たちの折角のアドバイスも、まったくの無駄になってしまった。しかも、気まずい空気が流れている。意気消沈してしまった正三は、もう映画どころではなかった。小夜子の横顔を盗み見すると、食い入るようにスクリーンを見つめている。話し掛けることはできない。となりの男は腕組みをしている、明らかに不機嫌だ。どうにも映画の中に入りこめない正三だった。
小夜子のたっての希望で、再度見ることになった。どうしても一度では、物足りないと言う。正三には願ってもないことだ。いま外に出ても、まだ陽が高い。それに、ほとんど映画を見ていなかった。あれこれと思い悩むなかでは、役者たちの台詞すら右から左にすり抜けていった。これでは、小夜子の気分を害するに決まっている。小夜子のことだ、色々と検証するに決まっている。そのときに、生返事を繰りかえすわけにはいかない。
それにしても、難解な内容だった。ストーリーとしては単純なのだが、登場人物それぞれが異なる証言をしている。罪から逃れようとするのではなく、自らの凶行だと言い張っている。佐伯家での夕餉の場で夕餉の場で父親が口汚く罵る役場の人間たちは、みな責任逃れをしているように聞こえる。そんな責任逃れに対するアンチテーゼか? と思えてしまう。しかしたしかに原作本でも「俺が、わしが、拙者が」と、身を乗り出している。作者である芥川龍之介特有の遊びこころのなのかと思ってしまった。そしていつの間にか、正三も食い入るように見入った。
(六十四)
「終」の文字がスクリーン一杯に現れても、喪失感にとらわれていた正三は、小夜子に促されてもなお席を立つことが出来なかった。男たちの、それぞれの勝手な言い分に混乱の極みに立っていた。罪を問われれば当然のごとくに罰が待っているのだ。生きていくのがいやになるほどの、それほどに辛く暗い時代だからと言うのだろうか。だから死を求めての告白なのだろうか。なのになのに今、自分は、わがままを通そうとしている。時空のちがう映画が語る時代へと己を移している自分が、とつぜんに滑稽に思えた。
夕闇の迫るなか、正三は寡黙になっていた。
「どうしたの? 正三さん。そんなに考えこむこと、ないじゃない。見栄よ、みえ。みんな、見栄を張ってるのよ。精一杯の、虚勢を張ってるのよ。真実などと言うのは世間が求めるもので、当事者たちにとっては自分に都合のいいようにしたいわけよ。たとえば殺された武士にしてみれば、妻を守るために決闘をした。山賊は、名高き悪名をけがしたくない。妻は、夫にたいするなにか恨みがあったんでしょ。案外、木こりが犯人かもよ。でもね、これは犯人さがしの映画じゃないんだから」
「しかしねえ。なにを言いたかったのですかね、黒澤監督は。すっきりしないよ、これじゃあ」
「良いのよ、そんなこと。面白いか、おもしろくないか、それだけじゃない。面白ければ良いのよ。それより、お腹が空いたわ。美味しいもの、食べさせてよ」
小夜子の、正三とはまったく違う見解に驚きを隠せない正三だった。たしかに、小夜子の言わんとするところも分かる気がした。常に、おのれに正直に生きている小夜子だからこその感想に思えた。「面白ければいいのよ」。そう言い切る小夜子がうらやましくも思えた。父親に宣言をしたものの、あの日以来、事あるごとに父親に母親に、そして妹の幸恵にまで「お兄さまは間違っている」と詰め寄られている。佐伯家に男子として生まれたからには、それなりの責任が生ずるというのだ。
佐伯家に男子として生を受けて以来、下にも置かぬ接遇を受けてきたのだ。特別の待遇でもって、周りからの世話を受けてきたのだ。畏怖の念を抱かせて、使用人たちに尽くされてきたのだ。家内だけでなく、一歩外に出てもそれなりの尊敬の念を受けてきたのだ。羨望のまなざしで見つめられたはずなのだ。
そしてそれは、正三個人に与えられたものではなく、なんども言うが佐伯家の男子としての立場、地位に対してのものなのだと、妹の幸恵にすら言われてしまう。嫡男である正一が戦死して以来、村人たちからの視線が痛い正三だった。逓信省という本庁への入庁が決まったのも、総領としての地位が確立したからのことなのだ。そして最後に、こうも付け加えられた。「だから、無責任なことはしないで。いずれは受け継ぐ佐伯家当主として、恥ずかしくない行動をとるべきよ」
反論ができない正三だった。新しい日本国憲法の精神には、家制度はない。もう、封建主義からは解放されたのだ、と考える正三だ。だから、例えば婚姻についても、当事者両人の意思によって決めて良い、いや尊重されなければならないと考えている。しかしそんな思いも、幸恵に論破された。こんな薄っぺらいものだったのか、ぼくの学識は≠ニ、情けなく思えた。しかしそれでも、小夜子を思い切ることはできないだろうと考える正三だった。
そういえば、イギリスの何とかという王は、愛のためにその地位を投げだしたではないか≠ニ、思い出した。幸恵にゆずれば良いんだ、養子を迎えればすむことだ≠ニ、理屈をこねはじめた。大丈夫、幸恵なら分かってくれる。きっと分かってくれる。それほどに小夜子さんは素晴らしい人なんだ=Bひとり合点をする正三だった。
(六十五)
今日もまた、小夜子が正三の手を握っている。リーゼントの髪型をした若い男が「見せつけてくれるねえ」とからかいの声を上げても、小夜子は前を向いたまま無視をしている。小夜子が取るあまりの突っ慳貪な態度に、男に絡まれないだろうかと不安な気になってしまう。男がこわいのではない、恐怖心に襲われて逃げ出してしまうかも、というそんな自分を小夜子に見られることがこわかった。今までにも学校内で不良グループに囲まれたことはある。しかしそれはあくまで校内のことであり、同級生たちの目がある。いざとなれば大声を上げれば良かった。そうだ、大声を出せばいい。誰かが助けてくれるさ。もしくは警官を呼んでくれるかもしれない=Bそう思うと気が楽になった。そして思わず小夜子の手を握り返した。
洋食屋に入ったふたりは、はじめて食するトンカツ料理に舌鼓を打った。
「こんな美味しいものを、アメリカさんは食べてるのね」。嬉々としてほおばる小夜子を、正三は満足げに見つめた。
「こりゃあ、病み付きになりそうですね(このあと、君を食してみたいよ)」。 喉まで出かかったことばを、正三は肉とともに飲み込んだ。
「ねえねえ。東京だと、もっと美味しいものがあるのかしら。あたし、行く! 絶対、東京に行くわ! 正三さん、探しておいてね。約束よ、きっとよ!」
「ああ、勿論だよ。小夜子さんのために、探しておくよ。でも、ホントに出られるのかい? 茂作さんのお許しは出るかなあ」
「駄目だって言われても、行くわ。家出してでも、行くわ。その時は、正三さんの所に転がり込もうかしら?」。妖艶な目つきで、小夜子が正三に問い掛けてきた。虚をつかれた正三は、「えっ! 家出だって? 勿論だとも。その時には、寮を出てでも、小夜子さんを迎え入れるよ」と、しどろもどろになりつつも、最後はきっぱりと答えた。
「うふっ、頼もしいわ」。頬杖をつきながら、小夜子が軽く片目をつむった。それがなにを意味するのか、正三はドキリとさせられた。
「ねっ、少し公園ででも、休んでいかない?」。思いもかけぬことばだった。
「ぼくは良いけど、小夜子さん、遅くなってもいいんですか?」
「いいわよ、少しぐらい遅くなっても」
いいわよ、遅くなっても≠ニいう小夜子のことばが、正三の頭の中を駆けめぐる。そして、公園に、と言うのはどういうことだ? 額面どおりに受け取ってもいいのか? それとも、うがち過ぎだろうか。師範学校で旧友たちに見せられた、江戸時代におけるもろもろの春画が正三の頭でうずまく。
小夜子は、そんな正三にお構いなしに、さっさと歩いて行く。正三を急かせるように時おり振り向いて、あからさまに不満げな表情を見せた。正三さん、遅いわよ!」と、軽くにらみつけてもくる。そのたびに、正三も歩を早める。小夜子はそんな正三を確認すると、またさっさと歩き出す。待っててくれても、いいじゃないかと不満を感じつつも、駆けよるような真似だけは、正三のプライドが許さなかった。姉に叱られながらうしろを追いかける弟、そんな具合に見える。
とつぜん、小夜子が奇声を上げた。道行く人が、いぶかしげに小夜子を見つめた。立ちならぶ家々の中からも飛び出してきた。あわてて正三は、立ち竦んでいる小夜子のもとに駆けよった。
(六十六)
「どうしました? 足でもくじきました?」と、足元を見つめている小夜子に、声をかけた。
「もう! 正三さんが悪いのよ。見て、これ」と、足元を指差した。正三が見ても、特段変わった様子もない。細かい石ころが転がってはいるが、その場所が特に多いわけでもない。中心街から外れた場所では、舗装が行き届いていないのは当たり前のことに思える。首をかしげている正三に対し、小夜子がそっと足を上げた。
「犬の糞を踏んじゃったの! この靴、おニューなのに」。憤慨する小夜子に、「ああ、こりゃひどい。ちょっと、待って」と、その場に腰を屈めた。真新しいハンカチを取り出すと、赤い靴の汚れた部分を拭き取った。
「嫌だわ、もう。田舎じゃあるまいし、キチンと始末しておいて欲しいわ!」
小夜子の元に集まった人々を、キッと睨み付けた。
「ごめんなさいねえ、おじょうちゃん。のら犬のしわざでしょう、きっと」
「さいなんだったねえ、まったく」
口々になぐさめのことばをかけてくれるが、小夜子の険しい表情はゆるむことはなかった。
「ものは考えようさね、じょうちゃん。運が付いたと、思いねえ」
「そりゃそうだ。犬のウンコが付いて、運がひらけるかもねえ」
どっと笑いが起きたが、小夜子は気色ばんで金切り声を上げた。
「冗談じゃないわ! なんて失礼な人たちなのよ、もう!」
「小夜子さん、そう目くじらを立てなくても。悪気があってのことばじゃないんだから」
正三は、集まった人に頭を下げながら、ハンカチの始末を頼んだ。
「はいはい。お兄さん、わたしがすてておきますよ」と、お婆さんが受け取ってくれた。
小夜子は正三に目もくれずに、さっさと歩き出した。慌てて正三は追いかけたが、早足で歩く小夜子に、中々追いつけなかった。
こんなに気の強い女性だとは。ほんとに、新時代の女性なんだな
肩で風を切るがごとくに歩く小夜子の後姿を見ながら、正三はため息をついた。
優柔不断なぼくには、どうしても小夜子さんなんだ。このひとしかいない
急に歩を止めた小夜子が、空を見上げながら叫んだ。
「もう、だめ! 明日にでも、行くわ! もう、田舎はイヤ! 一分一秒も、我慢できない!」
正三に対することばというよりは、小夜子自身を鼓舞するさけびだった。唖然とする正三のもとに駆けよった小夜子は、正三の首に手を回して、軽く唇をかさねた。
「おやくそくの接吻。東京で逢いましょう、きっとよ!」
(六十七)
あの日以来、小夜子と茂作に会話のない日々がつづいていた。停学中の小夜子は、日がないちにち本を読んでいる。前田のすすめで買い求めた、平塚らいてふ発刊の文芸誌〔青鞜〕を読みふけった。
『原始女性は太陽だった』の一節が気に入った小夜子だった。以来、ことあるごとに会話の中に飛び出してくる。
「いい? だからね、女性はもっと自信を持つべきなの。女性なくして、社会は成り立たないのよ。原始時代からね、女性は太陽だったの」
正三の妹幸恵が、停学のあいだぢゅう小夜子のもとに日参した。その日の学校内での出来事を、面白おかしく報告してくれる。そのたびに小夜子が、お腹をかかえて笑いころげる。日々笑うことのなかった小夜子に、しだいに幸恵を待ちわびる気持ちがめばえた。幸恵にしても、兄である正三の気持ちがどれほどに強固なものであるかを知るにしたがって、しだいに気持ちが揺らぎはじめていた。
家長のおにいさまのお相手とてしは、小夜子さまはちょっと……=Bそんな思いがあった。本家としての存在でもあればまだしも、貧乏小作人の娘なのだ。しかも両親がなく祖父に育てられている。しかもその茂作の評判はすこぶる悪い。
でも、おにいさまのきもちを考えれば……
ロミオとジュリエットの小説で知った、男女間のこころのつながりの美しさを知ることによって、この年代特有の恋愛至上主義的感覚がわいてきた。そして間近で接する小夜子の、自立心に富んだ精神性にとりこまれていった。
「ああ、笑い死にそうだわ。ほんと、面白い人ね」
「そうですか? 同級生は、誰も笑ってくれませんよ」
笑い転げる小夜子を物珍し気に見入る幸恵だった。
「あなたみたいな人を妹さんに持ってる正三さんが、羨しいわ 」
「ほんとですか? だったら、ほんとに妹にして下さい。正三兄さんのお嫁さんになって下さい」
真剣なまなざしで言いよる幸恵だった。正三の気気性をよく知る幸恵だ。正三兄さん自ら告白するなど決してあり得ない、と考える幸恵だ。あたしがひと肌脱がなきゃ、とも思ってしまう。そして今、告白の代弁をした、はずだった。
ふふ。あたしが粉かけてること、この子が知ったらどんな顔するかしら?
意地悪な気持ちがわいてきた小夜子が「でも、正三さんがなんて思ってらっしゃるか、ねえ?」と、探りをいれてみた。
「そんなの、大丈夫です。もう、正三兄さんったら! あれ以来、なにかと言うと、小夜子さんのことばっかりで。『ほんと、綺麗だった。小夜子さんは観音さまだ、天女さまだ』って、毎日あたしに言うんです。そして最後には決まって『親しく口をきかせていただけるなんて、お前ほんとに幸せ者だよ』。もう、お念仏なんです」
「それがほんとなら、嬉しいことね」
茂作は縁側でうたた寝をしている。幸恵が来ていることは知らない。もしも幸恵との会話を耳にしたとしたら、正三を呼びつけて「どういうつもりじゃ!」と詰問していたはずだ。気の弱い正三のこと、正左衛門に一喝されたらシュンとしてしまうと思っている。なので、本音の部分を確認しておきたいのだ。いやじつのところは、正三を小夜子の婿にすることは考えていない。ただそうなった場合にはやむを得ぬことだと考えているだけなのだ。
「あの、ちょっと聞いていいですか?」
「なあに?」
「小夜子さま、最近、なんだか雰囲気が違うんですけど」
「 あら、そお? 変わったかしらね」
「はい、ずいぶんと」
やはりそう見えるのねと、不思議なことにうれしく感じられる。高慢だと傲慢だと思われることが、小夜子には快感だった。横柄、高飛車、不遜、居丈高、そして尊大ということばすべてが、小夜子には快感に感じられていた。とにかく、分家の娘だと侮られることが我慢できずにいた。
「どんな風にかしら?」
「こんな言い方失礼ですけれど、お優しくなられた、と言うか」
「ふふふ、やっぱりそう感じるのね。わたくし自身が一番驚いてるの。多分、アーシアのおかげね。背伸びすることはない、ってこと。幸恵さんには、分からないでしょうね」
幸恵には本音を言ってみたくなる小夜子だった。行くゆくは義妹なるのだ、家族になるのだ。そう思うと、ついついほほが緩んでしまう。
「じつは兄に聞いてみたんです。そしたら、『キレイだからさ』って、笑うんです。なにかあったの? って聞いても、ニヤッと笑うだけで」
「正三さんって、お固いのね。幸恵さんにも話してないなんて」
(六十八)
にこやかに微笑みながら、小夜子が言う。
「幸恵さん。これからよろしくね」
いままでにも小夜子の笑顔を見ることはある幸恵だったが、今日のこの笑顔だけははじめてのものだった。小夜子の口角が微妙な角度で上がっている。同じ女性からしても妖艶さを感じるほどで、背筋がゾクリとする初めての感覚を味わった。
「あのお、それって、兄の……」
「お兄さんの、なあに?」
幸恵としては「兄のお嫁さんになるということですか?」と聞きたかったが、ぴしゃりとやられそうで声が詰まった。
「ふふふ。正三さんのお嫁さんになるということ? ふふ、そうかもね」
「ええ! ほんとですか? お、お兄ちゃん、腰抜かすんじゃないかしら」
「でも、内緒にね。正三さんにもね。だってまだ、お話をいただいてないんだから」
小夜子が上目遣いで幸恵をのぞき見る。やわらかくそして温かみさえ感じるそれは、小夜子にはあり得ない目だと幸恵は思った。なにがあったのか? あの正三が積極的な行動をとるとは考えられない。といって、小夜子が正三を認めるはずもないとも思った。
まさか、まさか……。佐伯家の当主となる正三だから、なんですか? 財産目当て……
決して口にしてはならぬことばが、幸恵の頭のなかで走りまわった。しかしそれならばそれでもいいと思った。正三の喜ぶ顔が、光りかがやく笑顔を見られるならば、それはそれでいいと思えた。
「分かりました、内緒にします」
「あなたとわたしだけの、ふたりの秘密ね」
「か、感激です」
「応援して、頂ける?」
「も、もちろんです。小夜子さまがあたしのお義姉さまになって頂けるんですから」
「幸恵さん。ふたりだけの時は、さまはやめてね」
いまこの時、小夜子にもアナスターシアの気持ちが分かった。喜々として小夜子にアーシアと呼ばせた気持ちが、はっきりと感じとれた。さらにまた妹ができるというその喜びも、いやアナスターシアにとっては唯一の家族を得ることが出来るのだ。小夜子の胸の中に、狂おしいほどの溢れんばかりの思いが湧いた。「これが愛するということかしら」。そう思わずにはいられなかった。いますぐにでもアナスターシアの元に飛んでいきたい、そう思った。そしてその気持ちをアナスターシア自身も抱いてくれているのだと、はっきりと確信できる小夜子だった。
「でも、お許しが出るかしら。なんといっても、佐伯ご本家の跡取りでいらっしゃるもの」
「そうですね。両親のことですから、家の格がどうとか……。ごめんなさい、失礼なことを言って」
「いいのよ」
たしかに幸恵の不安は当たっている。家の格云々の前に、小夜子の行動が問題になるのだ。正三との結婚は、あくまでアナスターシアに同行するという前提に立っている。摩訶不思議な思考なのだが、小夜子にとっての正三は、あえて言えばパトロン的存在なのだ。アナスターシアの元に旅立つためにはそれなりの金員が必要となる。アナスターシアに用意させるということは、小夜子のなかにはない。それは正三が用意すべきものなのだ。
夫婦になるということの意味は、小夜子も理解しているし、正三に対する思いが金員のためという打算から出ているわけではない。年に一度はこの地に戻るつもりでいる。そしてそのときには正三も家族となる、むろんアナスターシアとともに。小夜子とアナスターシアは一心同体であり、分けて考えることのできない存在なのだ。不条理と思える事柄ではあるものの、小夜子には至極当然の理となっていた。
「でも、兄はそんなこと、気にしないと思います。普段は両親の言いなりですが、やる時はやると思います」
「大丈夫、幸恵さん。その時は、そのときよ」と、小さな笑みを浮かべる小夜子だった。
「あたし、絶対に応援しますから。もう、家に縛られることなんかないんですよね」
「そうね。これからは女性も声をあげなきゃ。女性が、この世の起源ですもの。原始女性は太陽だった、よ」
「えっと、ひら……」
「平塚らいてふ。闘う女性の代表なの」
(六十九)
あれ以来、小夜子がなにくれとなく幸恵に声をかけてくる。昼休みにはふたりだけで音楽室に入りこみ、ピアノを引き合ってみたりする。校庭の木陰で、きょうのようにおしゃべりに花を咲かせることもしばしばだ。同級生たちから受ける羨望のまなざしが、しだいに棘のある妬みの色に染まっていくのを感じはじめた。かつては、休み時間には数人の仲間とのあいだで笑いころげていた。
しかしいまは、だれひとりとして幸恵に声をかけるものはいなくなった。寂しい気持ちに襲われることもあるが、やっかみの思いからだと分かっているだけにやむを得ないことに思えている。そしてそれが、やがて優越感に変わりはじめた。きょうも校庭の木陰に幸恵が行くと、かすかな寝息を立てている小夜子がいた。そっと近づくと、小夜子の目に涙のしたたりあとを見つけた。
気丈な小夜子さまがお泣きになるなんて=Bそっと引きかえそうとする幸恵に、「幸恵さん?」と、小夜子の声がかかった。
「ごめんなさい、起こしちゃいました?」
「いいのよ。ちょっと、ウトウトしていただけだから。どう? 皆さんお変わりない?」
「はい、正三兄さんも元気です」
あたりさわりのない話が、いつものごとくにはじまった。
「そう。あなたは?」
「わたし、ですか? わたしはいつも元気です。今朝もしっかりご飯をいただいてきました。いつもみたいにお代わりをしましたら、正三兄さんに言われました。『少しは控えたらどうだ。最近、太ったんじゃないか? 小夜子さんを見習ったらどうだ!』なんて」
コロコロと笑いながら、お腹の肉をつまんで見せた。
「あらあら、それはごめんなさい。でも、朝は大事ですことよ」
「小夜子さんの朝は、どんななんでしょうか? ごめんなさい、変なことをお聞きして」
「あたしも朝はね、しっかりと食べてるわ。夜のお食事をね、控え目にしてるの。だから、朝はとってもお腹が空くの」
「やっぱりお夕食は控え目にされているんですね。あたしは、だめなんです。お腹が減ると、眠れないんです」
「そうね。慣れるまでは、辛いでしょうね。でも、少しずつでも、ね」
小夜子を崇めるような視線を心地よく感じながら、“アーシアに比べたら、わたしなんかまだまだよね”。幸恵とのおしゃべりに、アーシアと過ごしたあの夜のことが思い出される小夜子だった。
「分かりました、頑張ってみます」
「だめ、だめ。頑張りはだめ。がんば張らずに、気楽に、時間をかけてね」
「でも、頑張らずになんて、できるものでしょうか?」
「頑張るとね、反動があるの。がんばるとね、疲れるでしょ?」
「はい、でも……」
「大丈夫! 幸恵さんなら出来るわ。ほんの少しだけ、控えればいいのよ」
「分かりました。あたし、がんば、いけない! 頑張らずに、やってみます」
「未来のステキな自分を思い浮かべて、ね 」
またやさしくそしてやわらかい声をかけた。
(七十)
どうしても小夜子の涙が気になる幸恵は、意を決してたずねてみた。
もしかしてわたしの知らぬところでの、お父さまからの圧力にお兄さまが負けてしまったのでは≠ニ、思ってしまった。家を継がねばならぬ嫡男の正三とちがい、おのれは他家にとつぐ身なのだ。佐伯家に縛られることはない。見合いの話がすでに届きはじめたとは聞いているが、幸恵の気性を知る母親によって抑えられている。大婆さまの意向が働きはじめたことを薄々と感じてはいるが、意に沿わぬ相手に嫁ごうとは思わぬし、最悪の場合には正三を頼ることすら考えている。
幸いなことに小夜子に気に入られているという自負心が、幸恵にはある。それこそ、新しい女として自立すれば良いことと考えている。しかし今、小夜子に異変が起きているのでは? と疑いを持ちはじめた。よもや正三に心変わりをするとは思えぬけれども、責任感の強さとともに気の弱さが気になる幸恵ではあった。
「小夜子さま。とてもぶしつけなことですし、お気に触ることかもしれませんが、お聞きしてよろしいでしょうか?」
「なあに、あらたまって。どうぞ、答えられることなら、よろしくてよ」
「小夜子さんの涙、はじめて見ました。もしかして正三兄さんのことで、うちの親からなにか……」
すまなさそうに目を伏せながらの幸恵に
「あらあら、見られちゃったかしら? 心配なくてよ、正三さんのことじゃないの。じつはね、近々家を出ようかと思ってるの。正直のところ、学業にまったく身が入らないの。焦りが、ね、あるの」
幸恵の肩に手を置いて、心配させてごめんなさいね、と目で送った。
「えっ! 行かれるのですか? 正三兄さんは、まだ暫くあとのことになると思うのですが」
「ほほほ、正三さんとわたしの東京行きは、別物よ」
「そうなんですか、ここから出て行かれるのですか」
肩を落とす幸恵に、「お手紙を差し上げるわね、幸恵さんに」と、指切りの約束をする小夜子だった。
「待ってます、あたし。すぐに、お返事も書きますから」
そうよね、どうしてかしら? ここのところ、とつぜん涙が出てくるのだけど、どうしてかしら=Bおのれに自問してみる小夜子だった。
東京に出ることに対し、不安がないわけではない。しかしその不安を打ち消すほどの、明るい未来を感じる。じつのところは、信じられないことなのだが茂作のことが気にかかる。茂作に対し、特段の罪悪感を感じるわけではない。「ごめんね」のひと言で済んでしまう程度のものだ。仕方のないことだ、と思っていた。
しかしいま、いよいよとなるとなぜかしら泣けてくる。はじめてのこころ持ちで、どう考えたらいいのか、小夜子には分からない。持て余す小夜子だ。小夜子の預かり知らぬところで、涙腺が緩んでしまう。気がつくと、涙がほほを伝っている。幸恵がみた涙も、そんななみだだった。小夜子に涙は似合わない。どんなに辛いときも悲しいときも、ついぞなみだは見せない。
泣いたら負けよ、負けたら終わり=Bそんな思いが、小夜子を縛りつける。悲しくもないのに、どうして涙が出るの?=B自問しても、やはり答えが出ない。
(七十一)
宣言どおりに小夜子は、あの日からほど程なく東京に旅立った。茂作は当然に、烈火のごとくに怒った。しかし、小夜子の家出宣言の前には、いかな茂作も折れざるを得なかった。結局、茂作の知人宅に世話になるということで妥協した。苦渋の選択ではあったが、夜のバイトも認めざるを得なかった。借財まみれの茂作では、いかんともし難い経済状態だった。
ミツと澄江の預け金も残り少なくなっていた。高等女学校に進んだ小夜子のために、大半が費やされている。一年間の英会話学校での学費はなんとかなるにしても、生活費まではまかなえない。繁蔵の援助ということも考えたが、大婆さまが反対をしていては、なかなかに難しい。竹田家の財布は、まだ大婆さまの管轄となっている。
意気揚々と東京に出た小夜子は、日中は英会話の学校に通い、夜間をナイトクラブでのタバコ売りに費やした。毎日の睡眠時間は五時間弱ほどだったが、見るもの聞くものすべてが驚きの連続で、辛いという気持ちはまったくなかった。茂作の知人である加藤は「出世払いでいいから、夜の仕事は辞めなさい」と、事あるごとに小夜子に促した。しかし当の小夜子にしてみれば、窮屈さをきらった。しかも学校よりもナイトクラブに魅力を感じているのだ。なにより、ジャズの生演奏が聞けることが嬉しい。そしてまた、給金以外のチップ収入も魅力的だった。
なんどか高額のチップを中年男が渡してくれた。そしてその度に「こんど、社長を連れてくるよ。お付き合いして損のない方だから」と、口説かれる。しかし小夜子は「わたしには、決めた男性がいるんです」と、固辞しつづけた。
「正直な女性だね、ますます気に入った。ぜひにも、逢わせなくちゃな。店の中でなら、いいでしょ?」と、なおも食い下がる。「でも……」。困惑の表情を見せつつも、悪い気はしない。
田舎ではモダンガールとして通っていた小夜子も、さすがに東京では田舎娘だと自覚させられる。同じ洋服を着ても、どこか借り物に見えてしまい、化粧をしてみては、けばけばしく感じる。失いかけた自信を取り戻すために正三に手紙を書いてみるのだが、一向に返事が来ない。来るのは、茂作の愚痴ばかりの手紙だ。それとはなしに正三のことを茂作に聞いても、元気そうだ、とあるだけだった。
正三はと言えば、小夜子からの手紙をこころ待ちにしていた。毎晩のごとくに小夜子の夢を見ては、朝にため息を吐く日々を送っていた。もうぼくのことは、忘れてしまわれたのか?=Bそんな悶々とした日々を送る正三だが、小夜子の住所を知らぬために手紙を出すこともできない。出す当てのない手紙が、机のなかに溜まっている。茂作に聞けばいいのだが、なぜか気おくれしてしまう。それでも意を決して一度たずねてみたが、「お前がそそのしたのか!」と、一喝されてしまった。
まさか正三の両親が、小夜子からの手紙をかくし持っているとはつゆ知らぬ正三だった。友人たちに話しても、「そりゃ、東京に好きな男ができたのさ!」。「振られたな、あきらめな!」と、にべもない。ただひとり、幸恵だけは正三を力づけた。「小夜子さま、お忙しいのよ。お兄さまとちがって意志の強いお方ですもの。勉学に励んでいらっしゃるんだわ。それよりもお兄さまも、準備をされなくちゃ。逓信省にお入りになるんだから、それなりのお勉強をなさったら。権藤のおじさまを落胆させないにしなくちゃ」
そうだった。もうすぐ、上京できるんだ!=Bそう思うことにより己を慰めてはみるものの、小夜子に連絡をとるすべは、いまだにない。
(七十二)
いよいよ上京! という前日になっても、小夜子との連絡がとれなかった。すでに小夜子が上京してから、二ヶ月近くが経ってしまった。
「だめだ、幸恵。ぼくは見限られてしまったようだ。じつはね、小夜子さんから誘いは受けたんだ。一緒に行きましょうって。でもぼくは、残ってしまった。情けない男だ。逓信省への入省がダメになってしまいます。そうなっては男として情けないことになってしまう、とね」
正三の落ち込みように接した幸恵は、意を決して告げた。
「正三にいさん、いままで黙っててごめんなさい。じつはね、小夜子さんからお手紙がなん通かとどいているの。お父さんがね、かくし持ってるの。いえ、破り捨ててしまわれてるかもしれない。でもね、わたし、住所を覚えてるわ」
いつ切り出すか迷いつづけた幸恵だった。すぐに教えても良かったのだが、ためらいがあった。小夜子を知る前の正三ならば「仕方ないよ、お父さまの考えに従うしかない」と、早々に白旗を揚げたことだろう。しかし現在の正三は違う。しっかりと父親と対決しうるだけのこころ根が出来ている。もしも口論となっても、しっかりと制することが出来るはずだと思える。もう簡単に父親の威厳に押さえ込まれることはないと、正三自身は確信していた。
しかしそれはとりもなおさず、佐伯家の崩壊という最悪の状態を招きかねないのだ。江戸時代から連綿とつづく、由緒ある佐伯家が途絶えることになるかもしれないのだ。「勘当だ!」。そのひと言に対しても、いまの正三ならば屈することはないだろうと考えてしまう。そうなれば、幸恵が婿養子をとらざるをえない。
それはそれで仕方がないわ≠ニ考えもするが、その一方でここまで男系がつづいているのだという意識が拭えない。小夜子の「新しい女として生きるべきだ」という思いを受けついだはずなのに、その呪縛からは逃げられていない。理論としては思考の上では、理解しているし賛同もしている。しかし、なにかが幸恵を縛りつけている。
正三と父親との口論は聞きたくない、そういう思いもありはする。母親の嘆きかなしむ姿を見たくないという思いもある――そうだった、幸恵の中にいち抹の不安な思いがわいた。正三の、母親に対する思慕の念だ。その強さは尋常ではない、いつもそう感じていた。幼い頃から佐伯家男子としての自覚を求めつづけられて、同年齢の幼子のような自由気ままな生活態度をきびしく制限されてきた正三を、毎晩のように慰めたのは母親なのだ。凜とした姿勢でもってことに対処しつつも、常に正三の味方でいてくれた母親なのだ。
次男の正二がなにかともめ事を起こしてしまう。総領である正一になにかが起きたときには、正二に総領の立場が回ってくる。しかし正二ではもつまいと、正左衛門と危惧している。なのでいきおい、正三にたいしてその立場を求めてしまう。なにかといえば「折檻だ!」と怒鳴りちらす父親にたいして、畳に頭をこすりつけてかばってくれた。
もしもそんな母親が正三にたいして、同じように頭を畳にこすりつけるようなことをしたら……。それでも正三が強くおのれを主張して、小夜子との生活を選べられるかどうか、自信が持てなかった。
「佐伯家を継ぐものとしての自覚を持て!」
「国家百年の大計と市井の女ごときと、どちらが大切だ!」
と迫られたおりの正三が、どちらを選ぶか、いや選ばせられるか、幸恵には判断がつかない。万が一にも家制度の重みに負けてしまったら……、幸恵自身の将来にも関わることだ。正三の苦しみを知りつつも、心を鬼にして隠しとおした。しかしもう時間がない。いま告げなければ、正三は小夜子に会うことは出来ないだろう。そしてまた、小夜子をも裏切ることになる。意を決して、幸恵がことの真相を告げた。
「そうか! 小夜子さん、手紙をくれてたのか。だけど、返事を出していないんじゃ、怒ってるだろうな。もういまさら、逢ってくれないかもな」。パッと顔をかがやかせつつも、暗澹たる気持ちになった。
「大丈夫よ、正三兄さん。キチンと訳を話せば、分かっていただけるわ」。そんな幸恵のことばにも、正三の心は晴れなかった。両親が反対していると聞いたおりの小夜子の反応が、正三は恐かった。
障害が多ければ多いほど、燃え上がるものさ。両親を説得できないなんて、最低! と言われるかも=B相反する思いが、正三の頭をかけめぐった。
「とにかく、向こうに着いたらすぐに手紙を書くよ」。直接出かけようとは思わぬ、そんな気の弱さが幸恵にはじれったい。それが正三の限界だと分かってはいるのだが、お兄さんと小夜子さん、だめかも。そんな思いが、幸恵によぎった。
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