(五十一)
茂作の怒りようは尋常ではなかった。正三の予想の範囲をはるかに越えていた。
「なんのために付きそったんだ、お前は。小夜子の身になにかあったら、どうするつもりだ! 責任をとれるのか!」。バンバンと床を叩き、正三を威嚇した。身を竦めながら、正三は必死に訴えた。
「大丈夫ですよ、なにも起こりません。ぼくの命をかけても良いです」
「ばか者! お前の命なんぞ、小夜子の指一本分のかちもないわ。そのヒャッカテンにしてもだ、本人が来てだ、頭を下げるのが筋だろうが!」
なるほどと、若干二十一歳の正三も思った。しかしその反面、通り一片の手紙でこと足りると考えた坂田に、かく有りなんとも思えた。田舎のいち年寄りの元に、有名百貨店の社員が来るわけがない。片道四時間をかけてなど、望むべくもない。かおを真っ赤にして怒る茂作のあたまから湯気がみえるようだった。
正三は「怒りがおさまらないようだったら、これを見せて」と、小夜子から手紙をあずかっている。正三の説明では落ち着くはずもないと、知るサヨコだツタ。
「茂作さん。小夜子さんから、これをあずかってきました」
小夜子、という文字を見たとたん、茂作の表情が一変した。柔和な表情で、「そうかそうか、小夜子からわしにのう。うんうん、これはたしかに、小夜子の文字じゃのう」
お父さんへ
ありがとう! お父さん。小夜子、とっても嬉しいの!
お父さんのおかげで、ステキな体験をしています。
ステキなモデルさんとお友だちになれました。
お父さん、大好き! 小夜子
読み終えた茂作から大きなため息がもれた。
「そうか、喜んでいるか。そんなに喜んでいるのか。正三! ほんとに大丈夫なんじゃな。なにかあったら、責任をとらせるぞ」
「大丈夫ですよ、茂作さん。えっ!? 責任って、取ります。もちろんのこと、喜んでとらせて貰います。ありがとうございます」
床に頭をこすり付ける正三に、「ちょっと待て。なんかあったら、のことだぞ」と、茂作が念を押した。
「大丈夫ですよ、きちんと責任を取りますから。結婚させてもらいますから」
「だから、なんかあったらだ、と言ってるだろうが」
しかし正三の耳には、入らなかった。
「そうですか、責任をね。それじゃ、そういうことで」と、上の空で辞した。
「まあのう、佐伯本家のあととりでもあるし、良しとするかのう。しかし小夜子にも困ったものよ。チャラチャラした娘にならんけりゃ、いいんじゃが」
(五十二)
「ただいまあ、お父さん。楽しかったよ、ありがとうね。今度はね、お父さんもご一緒にどうぞだって。来年の早い時期にまた来られるようにするからって。それまでにね、あたしは、絶対英会話ができるようになってなきゃ」
キャッキャッとはしゃぎ回る小夜子に、茂作はにこやかな表情を見せるだけだった。昨日までの、いや小夜子が帰って来るまでの憔悴しきった顔が、「ただいま」の声とともに、消え去った。一気に生気がもどった。小夜子にはこの三日間の、茂作の苦悩が分からない。寂しさ、苛立ち、不安、怒り、そして、そして、怖れ。
このまま帰って来ないのじゃ? 澄江のように、このまま……=@しかし小夜子の声を顔を見たとたん、その怖れが消えた。
「小夜子、小夜子。よおもどったのお」はじめて見る気弱な茂作に、奇異な感じを受ける小夜子だった。
「どうしちゃったの? 帰るに決まってるでしょうが。正三さんから聞いてくれたんでしょ? 変なの」
しかしそんな気遣いはすぐに消えてしまう。ラララア、とショーで使われた音楽が口にでる。軽くスキップしながら体をくるりと回してのターンがでる。こうやってね、と茂作に歩き方を見せる。
「観客の前をね、歩いて行くの。みんながあたしを見てるわ。ううん、見上げてるの。そしてね、ため息を漏らすのよ」。うっとりとした表情を見せる小夜子だが、茂作は困ったものだと首を振るだけだ。
「なにはともあれ、お茶を用意しようかの。さあさ、ここに座るといい」
「ここにって、そこはお父さんの座る上座でしょうに」
「いいんじゃ、いいんじゃ、今日は小夜子がご当主さまじゃ」
どうにも今日の茂作が分からない小夜子だった。礼儀作法については厳しい茂作が、自らその禁をやぶっている。
「茂作さん、茂作さん。小夜子さん、戻ったんですね? 良かった、よかった」。戸口から正三が息せき切って、駆けこんできた。
「あら、正三さん。お久しぶり」。わずか三日のことなのだが、もう久しく会っていないような錯覚に襲われた。
「ああ、小夜子さん、ご無事の帰宅でなによりだ。茂作さん、ほんとに心配してみえましたよ」
「そうなの? 心配ないって、正三さんから聞いてたでしょうに」
「そりゃだめですよ。親ごころが分かってないなあ、小夜子さんは。毎日学校帰りに寄りましたけど、その度に叱られました」
「そ、それはだな。お前の説明が悪いからじゃろうが。要領を得んから、怒ったんじゃ」
「でも、責任をとれえ! って、叱られたのは嬉しかったです」
「バ、バカもの! それはことばのあやというものじゃ。本気にするやつがおるか!」
「それから学校の方には、病気だと妹に届けさせてますから。話を合わせてくださいね」
(五十三)
小夜子の顔色をうかがう正三に、柔らかく微笑む小夜子だった。口元を緩めて、とつぜん小夜子が笑いだした。キョトンとする正三に、小夜子が言った。
「前田さんの予言どおりね」
「なんですか、予言とは」
「ふふふ、正三さんがね、あたしの為にね、いろいろと骨を折ってくれてるって。たとえば家に毎日寄るとか、学校への連絡とか、って。ね、すごいわよね、前田さん。でもありがとう、正三さん」
どうしたことだろう、小夜子さんじゃないみたいだ=B小夜子の口から感謝のことばが聞けるなど、まったく考えられない。戸惑うばかりで、どうしても信じられない正三だ。
なにかあったのだろうか?=B聞いてみたい気持ちはあるのだが、その答えが恐ろしくもある。
「じつはね、アーシアもね、そう思うわって。アーシアと言うのはアナスターシアのことよ。あたしには、そう呼んで欲しいんですって。あのマッケンジーさんですら、呼ばせてもらえないのよ。モデル仲間の数人だけなんですって」
「そりゃ、すごい! よほど、小夜子さんが気に入ったんだ。妹にしたいって、そりゃもう……」
振り返ると、険しい表情の茂作がいた。思わずことばに詰まってしまった。もう退散時かと、腰を上げた。
「ほんとにありがとうね、正三さん」
小夜子からの予期せぬ声かけに、グッと胸がつまった。小夜子のひと言ひと言がこころに染み入ってくる。これまでの正三の生活のなかでは決して得られなかった、大げさではなく、歓びの思いが感じられた。使用人たちからの畏敬の念やら学友たちからの賞賛にも似た視線で感じる羨望やらからは得られない感情がわき起こった。
「そうそう、お土産があるの。アーシアからよ」。戸口近くまで正三の歩が進んだところで、小夜子が声をかけた。茂作には、あまり聞かせたくない小夜子だった。
「あなたのこと、アーシアがね、ハンサムボーイだって。ハンサムの意味分かる? 好青年と言う意味よ」
「そんなこと……」。どうにも調子が狂ってしまった正三だった。
「なによ、喜びなさいな。世界のアナスターシアが言うのよ。嘘じゃないわよ」
ほんとに信じていいのだろうか。いやそんなことより、小夜子さんはどう思ってる?
「こんど、話を聞かせてください。今日は、帰りますんで」
「ふふ、聞きたい? じゃまた、行く?」
信じて良いのか? また足元を、すくわれるんじゃないか? 今日の小夜子さん、絶対におかしい=Bまだ信じられない。昨日までの小夜子と、今日の小夜子、そして明日の小夜子……。
「クク……大丈夫、もう意地悪しないから。アーシアのおかげで変わったの、わたし」
(五十四)
「ああ、そうそう。忘れるところだったわ。お土産よ。はい、これ」
正三に、きれいなリボンで包装された箱が手渡された。軽く小さめの長方形で、ネクタイにしては小さすぎる。正三の中にネクタイが浮かんだのは、つい先日に母親から「初登庁には、これを締めて行きなさい」と手渡されたからだった。紺地に金糸が斜めに5ミリ間隔に縫い込まれているデザインで、「派手じゃないですか」と非難めいたことばを口にしてしまった。と、意外にも「正三さんもそう思うの?」と、我が意をえたりと顔をゆるめてこたえる初江だった。
「お父さまがね、権藤のおじさまのおすすめだからとおっしゃって。だからね、間違いないことだって」
「そうですか、おじさんの見立てですか。だったらいいでしょう」と、得心した。逓信省への入庁資格を得させてくれたのは権藤叔父だ。父親からも「あいつの言うとおりにすれば間違いはない」と、ことあるごとに言われている。しかしもしもネクタイなら、初入庁にはこちらにしようと考えつつ「開けていいですか?」と、リボンを丁寧にはずした。
「万年筆だ。ええ! パーカー製じゃないですか。いいんですか、こんな良い物を」
「いいんじゃないの。もう貰ってきてるんだから」
「いやあ、欲しかったんです。でも、なんで分ったんでしょうかね」
「あたしよ、あたし。官吏さまになるのって、教えちゃったの。で、前田さんがアーシアに助言して、決まったの」
「ありがとう、小夜子さん。感激です、ぼく」
思わず小夜子の手を握り、激しく振った。まさかと思える事だった。思いもかけぬ贈りものだった。だれかの進言だとしても、「要らないわ」のひと言で済ませるはずの小夜子だと思える正三だった。「アーシアのおかげで変わったの」と、小夜子は言った。
変わる? 小夜子が変わる? 今だけさ、明日には元の小夜子さんに戻るのさ。どうしてもそう思ってしまう正三だった。どんなに衝撃的なことに出会ったとしても、永続的になることはない、そう思ってしまう正三だった。
ならば、ぼくの気持ちも変わるというのか? あり得ない、それはあり得ない。ぼくの小夜子さんに対する思いは本物だ。変わるわけがない。けれども、小夜子さんは……残念だけど、移り気な女性だ。常にそばにいて、常に思いを示さねばならない=Bそう思える正三だった。
「痛い、いたいわ、正三さん」
「小夜子、小夜子!」。茂作の呼ぶ声で、「じゃ、またね」と、小夜子が中に入った。
(五十五)
「お待たせ、お父さん。はい、これ。ウィスキーとか言うお酒だって。オールドパーって言うの。一本じゃなくて、二本もだよ」と、バッグの中から取りだした。買い与えた物ではないバッグだった。お礼としてもらったのかのと思いはしたが、いかにも高価な品に見える。ピカピカと光る真っ赤なエナメル質で、キラキラと光る金メッキのバックル類がいかにも派手だ。どう考えても小夜子には似合わない――と、茂作は思った。まだ十七歳の小娘が持つようなバッグではない。
「おう、おう。二本もかい。そりゃあ、有り難いのお。お祝いのときにでも貰おうかのお」
「どうして? 今夜にでも飲めばいいのに」。「いや、いいんじゃ」。
「どうして?」。「いや、ちょっとな」。「ひょっとして、あたしのために……」
以前の小夜子ならば「あ、そう」と気にもかけない。いやもしも己のためだと気づいたとしても、当然のことよねと片づけてしまう。
「まあ、その。酒断ちをしておるんじゃ」
「ありがとう、お父さん。でももう帰って来たんだから、いいんでしょ?」
「いや、だめじゃ。お前が嫁ぐまでは、と願かけをしたんじゃから」
涙ぐむ小夜子に、茂作は驚いた。昨日までの小夜子ならば、こんなことで涙を見せる筈がない。当然よね。そううそぶくのが、常だ。
どうしたことだ、いったい。帰ってからの小夜子はいつもの小夜子ではない。正三に対する言動など、信じられんことだ。正三からがして、目をパチクリさせておったわ。まさか、キズものに。だからと言うて、弱気など有り得ん。いやそもそもが、小夜子はそんなヤワな娘ではない
「お父さん、肩もんであげるね。そうそう、忘れてた。謝礼をね、郵便為替にしてもらってるからね。お父さん宛にとどくから、郵便局まで受け取りに行ってね。いいの、いいの。お父さんにあげるから」
やはりおかしい、こんな娘じゃなかった=B信じられない思いのまま「小夜子、向こうでなにかあったか?」と、意を決して口にした。
「別になにもなかったわよ。どうして?」
「いや、ちょっとな。小夜子らしからぬことがあるもんだからな」
「アハハハ、そうかもね。小夜子ね、大変貌をとげたの。いまの幸せにね、気づいたの。アーシアのお陰よ。ほんとよ、ほんとによ」
「うん、うん、そうかそうか」
大きくうなずく茂作に、「いままでごめんなさい。我がままいっぱいの娘で、ごめんなさい」と、涙ぐむ。感極まった小夜子が、茂作の背につっぷした。
(五十六)
「アーシアはね、ひとりぼっちなの。お家がないの。待っててくれる家族が居ないのよ。寂しいの、哀しいの。でね、あたしが妹になったの。お父さんにね、もう一人娘ができたのよ。どう、嬉しい?」
「そうか、そうか。妹に、なったのか。うん、うん、良いことをしてあげた」
家すら持たぬおなごとは哀れなものじゃ=B正三に聞かされたこととはあまりに違いすぎる境遇に首をかしげつつも、旅芸人のようなものかと解釈してしまった。他愛もない女同士のその場かぎりの約束事だろうと、軽く考えてしまった。茂作にとって人生最悪とも言える事態が、このことによってもたらされることになるとは、予想だにできなかった。
「アーシアはね、ロシア人なの。肌がとっても白くて、透き通るような肌なの。髪は金色で…」
「なんだと! ロシア人? ロシア人はいかん! あいつらは信用できん。今度の戦争にしても、ロシアの裏切りで負けたんじゃから。満州でたくさんの人がひどい目におうてる。ほりょで捕まった人たちが、いっぱいおるんじゃ。まだ戻られておらん方たちが、たくさんおいでになる」
とつぜん、怒り出した。ロシア人にたいする敵意を剥き出しにして、茂作が怒りだした。しかし小夜子も負けてはいない。たしかに、ロシアの裏切りによっておおくの日本人が苦難の捕虜生活を強いられていると聞きはした。鬼畜米英以上に人でなしだと、村人たちの口の端に乗っている。
「そんなの、おかしい! 日本人にだって悪い人はいる。ロシア人にだって、良い人はいるわ。アーシアは、良い人なの。それに、王家の血筋を引いてるんですって。日本の天皇家みたいなものよ」
「そんなことを言うなんぞ、うさん臭いのお」
「違うもん、アーシアが言ったことじゃないもん! 他の人から聞いたもん」
「なお悪いわ! 取り巻きが言いふらすのは、始末に悪い。バレた時に、言い訳ができる」
「そんなことないもん、アーシアは悪くない!」
どう説明しても、茂作の口から出ることばは非難ばかりだ。庇えばかばうほど、茂作のことばが辛辣になってくる。「爺ちゃんの意地悪う!」と、今にも泣きそうな顔で立ち上がった。
「やれやれ、やっぱり行かせるんじゃなかった。毒されてしまったか。しかし小夜子らしからぬことじゃて、あの位のことで泣き出すとは」。仏壇の前で「なあ、ミツ、澄江や」と、手を合わせた。
「小夜子、大丈夫かい? さっきはすまなんだ。ちょっと言い過ぎた」
襖越しに小夜子に声をかける茂作に、「あっちに行って!」と、厳しい声が投げつけられた。
「わしが悪かった、わるかった。ロシア人のみんなが、悪いわけじゃない。えっと、誰じゃったか? その娘さんはいい子で…」
「あっちに、行って! じいちゃん、嫌い!」
取付く島もなく、茂作を追い返してしまった。
どうしちゃったのかしら、あたし。あんなこと位で泣くなんて。あたし、泣き虫になっちゃった
窓から山々の向こうに見える青く澄んだ空に、アナスターシアを思う小夜子だった。
今ごろは、アメリカに着いたのかしら。マッケンジーさんの家で、休んでいる頃かしら。それともまだ、移動中? そうよね、ふつかほどかかるって言ってたじゃない。こんなことなら、アーシアと一緒に行けば良かったかしら。泣いてる? アーシア。あたしも、あなたのことを思うと、涙が止まらないわ。決めた! 誰がなんと言おうと、東京に出る。正三さんに家を借りてもらい、お勉強よ。大丈夫、正三さんは説得できる
(五十七)
翌日、小夜子のまわりは人だかりだった。ふつか間だけの休みにも関わらず、長期間欠席したかのごとき騒ぎだった。
「小夜子さま。入院されていたという噂で持ち切りなのですが、本当ですか? 」
「わたくしが、入院? どうしてそんなことになるのかしら? 」 引きもきらない質問がとぶ。
「日曜日に、朝早くお出かけされましたよね」
「ええ、良くご存じね。正三さんが上京されるとお聞きしたので、お供させていただこうと。でも、熱が出てしまって。正三さんには、ほんとご迷惑をおかけしましたわ。正三さん、ご立派ね。官吏さまになられるのね」
一斉に感嘆の声が上がった。臆することなく、さらりと正三の名を出した。
「正三さんと、お付き合い、されてらっしゃる、のですか?」
恐るおそる聞きかえす後輩に、
「ふふふ。良い方よね、正三さん」と、笑みを浮かべる小夜子だった。
「それで、もう、お体はよろしいのですか?」
「ありがとう、下がりました。知恵熱なんて、いまごろ、ねえ」
小夜子の軽妙なうけこたえに、一同からどっと笑いがおきた。
そしてひと月ほど経ったころ、学校内がまた小夜子の話で持ちきりとなった。
「ねえねえ、お母さんの話だとね」
「知ってるしってる。小夜子さまのことでしょう? すごいわよね。知恵熱だなんて、冗談をおっしゃってたけど」
「モデルさんですってね? その方とご姉妹のちぎりを交わされたんですって」
「そのモデルさんって、世界中を旅してるんですってね。いいなあ、色んな国に行けるんですものね」
教師間でも、喧々ガクガクの議論となり、退学処分にすべきという意見も出た。
「けしからんです、問題です。嘘を吐いていたわけですから」
「でもまあ、気持ちが分からないわけじゃありません。アナスターシアに会えるなんて。一生に一度あるかないかですものね」
理解をしめす女教師にたいして、お局的存在の女教師が噛みついた。
「とんでもない! まだ学生ですよ、あの子は。校内態度もいろいろ問題を抱えています」
「先生、それはちょっと。高慢な態度をとりますが、だからといって」
「それに今は、いい子ですよ。そのアナなんとかという女性が、いい刺激になったようですし」と、複数の教師から擁護の声が上がった。
「なによりですなあ、彼のこともありますしなあ。あちらでは、不問に付するということですし」
「ああ、佐伯正三くんですか」
「先生、名前は出さないように。どうでしょう、先生方。校長に一任するということで」と、教頭が話を引き取った。結局校長一任となり、一ヶ月間の停学処分となった。厳しすぎるという声が生徒の間から上がったが、当の本人は、のほほんとしたもので、「丁度いいわよ。あたし、学校をやめる」と、まるで意に介さない小夜子だった。
(五十八)
その日のうちに、言いわたされた処分を、ケロリとした表情で茂作に告げた。
「やめるって、小夜子。そんなやけを起こさないでもいいだろうに。もうすこしおんびんな沙汰にしてもらえるように、わしが頼んでくるから」
「いいわよ、お父さん。あたし、本気なんだから。英会話のね、勉強をしたいの。心配しないで。お仕事しながらでも、通える学校だから。そういった人たちばかりが集まっている学校だから。もうねえ、その学校には連絡してあるの。来年にでもとお願いしたんだけど、この際だから早めてもらうわ。いいのいいの、いつからでも良いですよって言われてるから」
絶好の機会だと捉える小夜子に、茂作はきつく「だめだ、だめだ。どうせ、この村から出て行きたいが為の方便だろうが」と、諫めた。
頬を大きく膨らませて「そんなことないわよ。ほんとに勉強したいの。アーシアと約束したんだから」と、小夜子が抗弁した。
「小夜子よ。お前の、その、ロシア人を信じたい気持ちは良く分かる。楽しい時間をすごしたんじゃからな。しかしのお、夢の時間はゆめの時間にすぎんぞ。夢はさめるもんじゃて」
「何が言いたいの、アーシアは嘘をつくような人じゃないわ! もういい! お爺ちゃんのバカ! 」。激しいことばを投げ付けて、部屋に戻った。
困ったことになった。小夜子の頑固さは、折り紙付きじゃからて。あきらめてくれればいいんじゃが。いっそ、小夜子の思いどおりに。いや、いかん。とりかえしのつかんことになる。というて、澄江のように家出をされても困ることじゃし=B結論は出ているのだが、認められない茂作だった。
どうしても反対なら、家出だわ。お母さんも、昔、家出したのよね。で、あたしを産みに帰ってきて、爺ちゃんに引き止められちゃったのよね。お母さんも可哀相に。お父さんの所に帰りたかったでしょうに、労がいにかかるなんて。だからあたしを避けたのね。あたしは、違うわよ。あたしは、絶対に幸せになるんだから。アーシアと一緒に、世界を旅するのよ。そのためにも、英会話の勉強をしなくちゃ。だからどうしても、行かなきゃ
小夜子の退学問題はあっという間に村中に知れ渡ることになり、竹田の本家から重蔵自身が赴き、内実を知る者として正三もまた呼ばれた。佐伯家では、関係のないこととして不満の声が上がったが、正三本人の強い要望でもって出席することが決まった。この会合で、正三の必死の訴えが小夜子の拙速な行動を抑えることとなり、大人たちの体裁を保たせる結果となった。そして小夜子の停学期間が二週間と短縮されて、必然的に小夜子の退学希望もとりさげされた。不満げな表情を見せた小夜子だったが、「会場でのことは理解していますよ」という謎めいた正三のことばが小夜子のこころに響いていた。
来年には卒業を迎えることでもあり、小夜子自身も感情的になりすぎたと反省するこころが生まれていた。もっとも、小夜子の反省といっても、経済的な裏づけのないひとり生活など成り立つはずもなく、先ばしりすぎたということだったのだが。しかしそのことで、何があっても卒業したら、という思いがさらに燃えさかった。
(五十九)
小夜子主導ではじまった交際は、周囲の目をまるで気にしない奔放なものだった。男女七歳にして、同席せず!≠ネど、どこ吹く風とばかりにふるまった。連れだって歩くおりには必ず腕を組み、ときにはピッタリとしがみつく小夜子だった。すれ違う大人たちが怪訝そうな面持ちを見せても、「こんにちわ!」と、明るく声をかける。子供たちのはやす声にたいしては、ニコニコと微笑みかえす小夜子だった。正三の友人と出会ったおりには、いやがる正三を尻目に、これみよがしに見せつけた。
「こそこそすること、ないでしょ!」目線を伏せる正三にたいし、強い口調でなじることもままあった。
「正三兄さん。すこし控えた方が、宜しいんじゃない? 噂になってます、村中で。わたし、恥ずかしいわ。小夜子さんも、小夜子さんよ。まるでげぼく扱いだわ。あんなお方だとは思わなかった」
憤慨する幸恵にたいし、正三は「うん、まあなあ。でも、小夜子さんには小夜子さんの考え方が」と、ことばを濁した。はじめの内こそ、気恥ずかしさとわずらわしさを感じていたが、友人たちのことばの裏にひそむ羨望を感じてからは、誇らしさを感じはじめていた。異性との交わりが皆無だった正三は、その甘美さにどっぷりと浸りはじめていた。そんな正三に業を煮やした父親の作左衛門が、仏壇を拝みつつ正三に対して背を向けたまま言いはなった。
「正三! どういうつもりだ、いったい。嫁に貰うつもりなのか。あんなチャラチャラした女は、我が家の家風には合わんぞ! お前は長男なのだからな。本家ならまだしも、分家じゃないか! しかもだ、いかがわしい物に手を出している茂作の娘だ。許さんぞ、わしは。佐伯家は、由緒ある庄屋なんじゃからな。大方、佐伯家の財産目当てに、茂作が娘を焚き付けてとるんじゃろうて」
「お父さん、それはあんまりです。彼女は、そんな女性じゃありません! 純粋な女性です! たしかに奔放な面はありますが、新時代の女性なんです。良からぬ噂が立っていることは、知っています。でも、天地神明に誓って、不純な行為はしていません。まだ将来を約束した訳ではありませんが、妻に迎えても良いと思っています」
「な、何を言うか! 許さんぞ、そんなことは。おまえは逓信省を辞した後には、わしの後を継がねばならん。六代目作左衛門を名乗ることになるのだぞ」
烈火のごとく怒る作左衛門にたいし、正三は毅然として反論した。「許すもゆるさないも、これはぼくの問題です」
「馬鹿者! 親の言うことを聞けんとは、どういうことじゃ!」
「おことばですが、お父さん。今は、民主主義の時代です。戦前とは、違います。ぼくの人生は、自分で決めます」
(六十)
「正三、お父さんにあやまりなさい。お父さんに逆らうなんて、どうかしてますよ。以前のお前は、聞き分けの良い子だったのに」と、ふたりの口論を聞いていた母親が、慌てて間に入った。
「タカ! お前が甘やかすから、こんな口答えをするんだ! 躾が、悪い!」
「お父さん! お母さんを責めるのは、筋違いです。世の中が変わったんです。現人神であらせられた天皇陛下が、人間宣言をされるような時代なんですから」
「な、何ということを! お上が、本心からそのような事を仰られる筈がない。進駐軍に強要されたのだ。恐れ多いことだ、まったく。もう良い! とに角、わしは許さんからな。それにお前は、もうすぐ東京に行く身だ。あんな女のことなど、すぐに忘れてしまうじゃろうて」
吐き捨てるように言いのこすと、正三の声に耳を貸すことなく立ち上がった。作左衛門が立ち去ったあと、タカが正三の前に居住まいを正して座った。
「ねえ、正三。いったい、どうしたの? 小夜子さんとお付き合いをはじめてからというもの、すっかり変わっちまいましたねえ。お夕飯の時間になっても、帰ってこないし。たまに共にしても、ひと言も話すでもないし。いいですか、正三。お前は、逓信省の官吏さまになるんです。お父さまの、ご自慢なのですよ。恐れ多くも、お上のお膝元に行くのです。お国のために、粉骨砕身はたらくのです。そんなあなたが、あんな性悪女に関わっていて、どうするのですか!」
「お母さんまで、そんなことを。小夜子さんを貶めるようなことばは、控えてください。あの人は、そんな女性ではありません。たしかに、常軌を逸した行動で驚かされることばかりですが、素晴らしい女性です。なにより向学心に燃えています。ここでは学べない、英会話の勉強をしたいと、言っているんです」
「だまんなさい、正三! まっ、まさか、あなた…。だめですよ、目が届かないからといって、ふしだらなことは。権藤の伯父さまの、お声掛かりで入省させて頂けるのですからね。お顔を潰すようなことは、許しませんよ」
誇らしげに語る正三に、めずらしくタカが声を荒げた。
「大丈夫ですよ、お母さん。ぼくたちは、清らかな交際ですから。それに彼女の東京行きは、ぼくとは関係ありませんから。心配性だなあ、相変わらず」
正三は、笑いながら答えた。その実、こころの奥底を見透かされるのではないか、という不安も過ぎった。

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