(四百七十六)

 麗子には友人と名のつく付き合いはなく、ただ静かに読書をする毎日だ。そしてそんな姿が人を寄せ付けぬ風情をかもしだしていた。当人にしても幼少期からひとり遊びが多く、他人との交わりは年に一、二度の親戚づきあい程度だった。そんな麗子がなぜ武士に興味を持ったのか……、それはこの後のこととしよう。
「でね、折角なのでロシア文学の方も原書で読むことにしましたのよ。会話は無理でも読み書きぐらいはねえ」と、再びロシア語の習得を口にした。よほどにこだわっているのだろう。それとも、翻訳者のフィルターがかかった文章では、飽き足らないということだろうか。
「ひょっとしたら婚約者とともに赴任することになるかもしれませんでしょ? そのときには、こんなあたくしでも少しはお役に立てるかもしれませんし。そうだわ。武士さんの専攻って、国文学でしたわねえ。ですけど、是非にも罪と罰、それにアンナ・カレーニア、この二作品だけはお読みいただきたいわ」 
 麗子の知識は武士を驚嘆させるものだった。仏文学専攻の麗子の口から発せられる聞き慣れない横文字の人名は、武士にとってなじみのない人物ばかりだった。茂作の命令にも似た指示によって、国文学を専攻する武士には、別世界のことだった。麗子の口から柔らかい響きでささやかれるフランス語は、まさしく魔女のことばだった。しかしそれだけでは納得ができず、今度はロシア文学だという。その旺盛さにはただただ感嘆するだけだった。
 しかし麗子にしてみれば、勉学に時間をつぶすことしかできないのだ。学友と呼べる女子はいないし、同窓生の中にも時間を共有できる相手はいない。必然書物に目が行くようになり、翻訳本では飽き足らなくなってきた。そして今では、教授の依頼によりフランス語による論文作成の手伝いをするにまで至っている。
 すべてが麗子のペースであり、武士はただただ付き従うだけであった。気まぐれに行動する麗子にふり回されながら、時として反発心を感じる武士ではあったが、すぐにも萎えてしまう。茂作の束縛から逃れようとした武士が、今また麗子の意志に付き従うことは、ある意味では滑稽ではあった。しかし武士は、満足だった。女王然とする麗子に付き従うことに、悦びさえ感じた。

 大晦日から元旦へ――底冷えのする夜だったが、武士の身体は火照っていた。本通りから露店が立ち並ぶ参道にはいると、さらに人混みでごった返しはじめた。必然的に麗子が武士に寄り添ってくる。武士の鼓動は波打ち、頭の中で早鐘のように大きく響いた。
「すごい人ごみね。武士さん、あたくしを守ってくださいね」
「は、はいっ。もちろん、です!」
 首に巻かれている毛皮のショールが、人混みの中で外れかけた。慌てて武士が麗子の肩に手をまわし、ショールを押さえた。麗子の体温が伝わってくる。そしてほのかに漂ってくるバラの香に、武士は酔いしれた。「Merci(ありがとう)」。そんな麗子のことばも、武士の耳には届かなかった。人混みに押されて麗子の身体が武士にもたれてくると、女性特有の柔らかな弾力が、武士の鼓動をさらに激しく波打たせた。武士の手が、さらに麗子を引き寄せる。そしてもう片方の手を前方にまわし、抱えこむようにした。そうしなければならない程、込み合ってきたのだ。頭が、ガン、ガン、ガン≠ニ、金槌で叩かれているようになっていた。武士はもう、お詣りという状態ではない。感極まった状態に陥っていた。
「ゴーン、ゴーン」。除夜の鐘が境内にひびき渡る。期せずして「ウオーッ!」と怒声にも似た声が上がり、そこかしこで「おめでとう!」ということばが飛び交った。「おめでとうございます」「Felicitations(おめでとうございます)」。武士と麗子の会話は成り立っていない。共に新年の祝いをしているのだが、武士には麗子のフランス語が単なる機械音に聞こえている。そのことは麗子もまた理解している。麗子と武士との間で会話が成り立っていないことが、麗子としては歯がゆいと思う反面、己の優越感を満たせていることも感じたりしている。
 婚約者との間では許されることのない会話が、武士には嬉々としてできる。というよりも、武士がそれを求めているように感じるのだ。婚約者の話をするときに見せる苦渋の色が、ロシア文学についての考察をはじめると、大げさではなくぱっと輝くように見えるのだ。教授と聴講生。聴講生に講義をするおりの教授の感覚はこれなのだわ、そう勝手に解釈する麗子だった。あたくしってほんとは、教職に奉ずるべきなのかしら……=Bそんな錯覚さえ与えてくれる。例えるなら、師弟関係、主従関係……。あくまでそこに、恋愛感情はない。存在し得ないもの、のはずだった。


(四百七十七)

 その夜、武士はなかなか寝付かれなかった。身体は疲れているのだが、頭のなかに艶姿の麗子が所狭しと現れ出てくるのだ。しっかりと握りあっていた左手がじっとりと汗ばんできても、前後左右でもみ合う参拝客に押されても引かれても、麗子から離れることはなかった。正殿前まで押されてきたとき、これ以上前に進むことを諦めかけた武士に対して、麗子から強い言葉が出た。
「お賽銭箱まで行きますわよ」。たしかにあと十歩足らずまで来はした。しかしそれは隅田川の対岸まで泳ぐに等しい距離感だった。ムリですよ≠ニ頭のなかで答えはするが、武士の腕のなかから飛び出そうとする麗子の動きを感じて、「行きましょう」と答えていた。
 麗子の発案で用意された布袋に入れられた板垣退助の肖像が印刷された百円札と、重し代わりの百円硬貨とが投げ入れられた。しかし柏(かしわ)手(で)を打ってのお願い事などできるはずもなく、すぐにその場から押し出されてしまった。苦笑いをしながらも、互いに「こんなの初めてですわ(よ)」と、口にした。
 参拝の後に「小腹が空きましたわ」という麗子のことばで、参道の露店でおでんをつついた。初めてだという麗子は、目を輝かせて「お父さまなら絶対にお許しにならないのよと、」興奮気味だった。
「自分で好きな具を取るんですよ。他人の箸が入った鍋からではいやですか?」。恐るおそる、武士が尋ねた。
「大丈夫、火がしっかりと入ってますもの」と、どうしてそんなことを聞くの? といった表情で答えた。まず武士の箸が煮卵に突き立てられ、皿に移された。そしてハーフーと息を吹きかけながら口に運んだ。
「うまい! というのは失礼ですかね。プロですもんね、おいしいのは当たり前ですよね」
 かつて武蔵が五平とともに川べりの屋台でおでんを突(つつ)いたときに感嘆のことばをあげた。そのときのことばを、知るはずのない武士が使った。
「ありがとね、坊ちゃん。昔むかし、そのことばを聞いた気がするよ」。屋台の親父が破顔一笑になった。
 つづいて麗子の箸が、ゆっくりと入れられた。やはり見知らぬ人間の箸が入った鍋では、多少の抵抗があるのだろう。頭では分かっていても、脳の指令にすぐさま従えぬ指だった。しかし一旦口にすると、武士も驚くほどの食欲を見せた。
 その後の射的の店でも「キャー、キャー」とはしゃぐ麗子の嬌声が、いまも耳に響いている。やっとまどろみ始めたのは、窓の外が白々としてきた頃だった。しかしそれでも、麗子は容赦なかった。彼の夢にまで、現れた。絵画にある、貝のなかに立つヴィーナス(ヴィーナスの誕生)の姿をして。翌朝、武士は生まれてはじめて、夢精を経験した。

 一週間ほど経った日、学生寮の武士の元に麗子から電話が入った。管理人のおばさんが武士の名を呼んだ。
「女の人からよお」。そのひと言が、アパート中の住人を部屋から出て来させた。
 初めてのことだった。寮生たちが「今日は、大雪になるぞ」。「いや、明日にも大地震だ!」などと、騒ぎ立てた。
武士は、顔を真っ赤にしながら電話口に立った。後ろでガヤガヤと騒ぐ者達に、
「頼むから、部屋に戻ってください」と、懇願せざるを得ないほどだった。宙に浮いた感覚のまま、武士は上ずった声で「ハイッ!」と、電話の前で直立不動の姿勢となった。
「明日の夜、『愛』という喫茶店に来てくださる? 時間は、五時五十分。遅れたりしたら、あたくし、帰りますから」。極めて事務的な、命令調の言葉だった。
「どうして、五時五十分なんですか?」武士は、怖ずおずと聞き返した。
「あたくしが六時に着くように行くからですわ。十分前に到着してるのが、男性のエチケットだから」
 武士は、次のことばが出なかった。しかしどうして六時丁度では…≠ニ、言えなかった。
「じゃ、時間に遅れないように、ね。それじゃ」
 柔らかい響きの声に、武士は瞬時酔いしれた。受話器を下ろすと、耳たぶが熱くなっている自分に気付いた。一旦は部屋に戻った寮生たちが、いつの間にかまた集まっていた。寮母すらも彼らの後ろに立っていた。
「かんべんしてよ、もう。戻ります、もう」と、叫ぶように言うと脱兎のごとくにその場から逃げ出した。
「ウワーオゥ! デートだ、デートだぞ」。「ブラボー!」。盛んな拍手と、怒号にも似た奇声がいつまでも、武士を追いかけてきた。


(四百七十八)

 武士は、車中にいた。
――交通事故か何かでバスが遅れでもしたら…。
――遅れるわけにはいかない。きっと遅れたりしたら、帰ってしまわれる。
――もう二度とお誘いして頂けなくなる。
 そんな思いが渦巻いて、ついつい早足になってしまった。バスの中でも、交差点で止まる度に苛立ちが増してくる。
――ほら、青じゃないか。なにしてるんだ! のろまな運転手だ。
――あゝ、もう。信号は黄色だぞ。その車、入っちゃダメじゃないか。
――横断歩道を歩くばあさん、わざとゆっくり歩いていないか?  ついつい悪態の言葉が頭に浮かんだ。そして五時半に着いた。すぐに分かるようにと、ウエイトレスが案内した奥まった席ではなく、ドアそばの席で、入り口を向いてス座った。なにやら声をかけてくるが、武士の視線は一点、ドアに向けられている。再度ウエイトレスが「何にいたしましょう」と、不機嫌に問いかけてもなんの返答もしない。
 そもそも武士の耳には入っていない。しびれを切らして、「後ほどお伺いします」と、その場を去った。いや、去ろうとした。
そのときになってようやく、「コーヒーを」と、武士が答えた。邪魔だったのだ、ウエイトレスの立つ場が、入り口をふさいでいたのだ。
 週刊誌を手にしたものの、なにも頭に入ってこない。漫然とただ眺めている、そんな感じだった。早や時計は、六時半を指している。しかし麗子は、現れない。
――時間を間違えたのか。いや、たしかに六時だった。
 今日じゃなかったのか? いや、たしかに明日と聞いた
――店の時計が進んでいるのか? それともからかわれた…?
 チリンチリンと音を立ててドアが開くたびに、入り口を見やる自分が嫌になってきた。というより、怖くなってきたと言うべきだろうか。幾度となく顔をあげては、裏切られた。時計をたしかめることが、苦痛になっていた。
――諦めて帰ろうか。
――いや、もう少し待っていようか。
 そんな逡巡を繰り返している自分が、哀れでもあり愛おしくも感じる彼だった。
「ごめんなさい。知り合いにバッタリ出会って、挨拶だけのつもりが話し込んじゃって。気にはしてたのよ、ホントにごめんなさい」
 笑顔で詫びる麗子に、武士は口ごもるだけだった。そして、安堵感とともに緊張が走った。
「お詫びに、横に座らせて」
 武士は驚きの表情を隠せず、彼女の言うがままに席をずれた。
「Bonjour(ごきげんよう)」。「ハイ、どうも」
 突然のことばに、武士は何とも間の抜けた返事になってしまった。次のことばが出てこなかった。あの夜の女性がとなりにいる。一糸まとわぬ姿で、惜しげもなくその裸身をさらした女性がいる。今夜は、光沢のある紺色のワンピースを着ている。どうだろう、覚えていてくれるだろうか? あの夜の約束、「次には是非に」という、中華そばを食するという約束を。
 バイト先における武士は、若い世代の女性たちに対して雄弁だった。軽口も叩く。ところが、麗子の前では『借りてきた猫』そのものになってしまった。身体が強ばり、時として声が裏返ってしまう。平静になろうとすればする程、緊張感が増してきた。


(四百七十九)

「元気にしてらした?」
「はい」
「お正月のお休み中は、何をしてらしたの?」
「はい。…あっ、これといっては」
「郷里には、お帰りになられたの?」
「はい。いえっ! こっちに居ました」
「お仕事は、お休みされたの? 違うお方が、配達にみえましたわよ」
「すみません」
「あたくしがお勧めした小説、お読みになりました?」
「いえ、まだ…、すみません」
 立てつづけの質問責めにも、武士はまともな返事が出来なかった。実の所、麗子がほのかに漂わせる香水の香に酔いしれて、会話どころではなかった。さらに、時折触れる肩が気になって仕方がなかった。横顔を盗み見した折りに目が合うと、ドギマギとする。あの夜の夢が、白日夢のように蘇ってくるのだ。そしてあの夢のように、麗子が幻となって消え失せてしまうのではないか。それとも今もまだ夢のつづきを見ているのだろうか。
「どうなさったの? なにを緊張してらっしゃるの」
「あっ、すみません」
麗子さんのような美しい方が、となりに座られたので…≠ニ浮かびはするのだが、喉がひりついて声にならなかった。
「ほほほ、変な方。ほほほ、ほんとに楽しいわ」
 コロコロと、鈴のような笑い声が店のなかに響いた。一斉に、皆の視線が集まる。武士の緊張はさらに高まり、思わず俯いてしまった。
「ねっ、お食事に行きましょう」
 テーブルの上に置かれた飲み物には目もくれず、麗子は立ち上がった。慌てて彼も立ち上がった。テーブルに膝が当たり、危うくカップを落としかけた。
しまった! 鈍くさいと、思われてしまう
 瞬時、武士の脳裏をかすめた。しかし麗子は素知らぬ顔で店を出ている。慌てて武士は追いかけた。闇のなかに、麗子はスポットライトを浴びて立っていた。それぞれの店からの明かりで舗道は照らされている、街灯もある。しかし武士にはそう感じられた。行き交う人すべてが、麗子を振り返っていく――ー武士にはそう思えた。
 突然のことばだった。
「お食事は今度にしましょう。映画が見たいわ、『ひまわり』をご存じ? マルチェロ・マストロヤンニという役者が、あたくしのお気に入りなの。ソフィア・ローレンとの共演なの。ロードショーのときは風邪を惹いていましてね。それが長引いてしまって、行けませんでしたのよ。リバイバル上映なのよ、嬉しいわ」
 有無を言わせぬことばだった。武士は、ただただ従うだけだ。いやいや、本心を言えば、また、会える。食事で、会えるんだ≠ニ、喜びに打ち震えていたのだ。


(四百八十)

 映画館はここから歩いて五分もかからなかった。というよりも、通りの向こう側にあった。来るときには気がつかなかったのだが、「愛」という喫茶店は商店街入り口の角にあった。その商店街で一区画を構成しており、昼間は人でごった返すものの、夜になると閑散とする場だった。対して向こう側の区画は通り沿いには、商店街からはじかれた複数の映画館にパチンコ店などの娯楽施設があった。そしてそれらの奥には低層階のマンションやアパートが立ち並ぶ、住宅街になっていた。
 リバイバル映画のせいか、映画館内は人もまばらだった。立ち見客などひとりとしていない。だのに、席に座ろうともしない麗子の真意を、武士は図りかねた。立ち見は、ふたりだけなのだ。座席の選定でもしているのかと考えてみたが、麗子はスクリーンを一心に見つめているようで微動だにしない。もっとも武士には、映画などは目に入らず耳にもはいらない。麗子の動向が気になり、それどころではないのだ。もっとも、麗子が口にした俳優などはじめて聞く名前であったことも一因ではあった。
 武士の視線は、麗子の手に注がれていた。白魚のようなその手が、武士には眩しかった。細く長い指が、キラキラと輝いていた。少し手を伸ばせば、その手に触れられる。体を少し動かせば、触れられる。いや、ポケットの中からハンカチを取りだしてもいい。その所作でなら、不自然さもなく触れられる筈だ。そして、軽く握って…。そんな思いに駆られながらも、逡巡していた。躊躇していた。
――不意に手を握ってもいいものだろうか?
――声をかけてから、だろうか?
 悲しいかな、異性とのデートの経験がない武士には、わからないことだった。
学校では、教えてくれなかった……
 馬鹿話をする級友のいなかった武士には、未知の世界のことだった。武士は、居たたまれぬ思いでその場を離れた。なにかとんでもない行為に出そうで、そしてそのことで麗子に嫌われてしまうのでは…≠ニ思えてしまった。
 誰ひとりとしていない廊下に出て壁際の長椅子に腰をおろすと、入れ替え待ちの客のために設置してあるテレビを、漫然と見つめた。(当時の映画館では上映時間にかかわらず入場することができ、それらの待ち客のために、後に娯楽の王者から引きずりおろすライバルとなるテレビが設置してあった)
 そこには、人気絶頂の漫才師が出ていた。舞台の上をドタバタと走りまわる相方にたいし、あれこれと注文を付けている男のひと言ひと言に、テレビの中の観客が笑いころげている。麗子に振りまわされている武士が、そこにいた。
「他人から見ると、滑稽に映っていることだろうな」。ポツリと呟いた。
「こんなとき、親父が生きていてくれたら…」。思わず頭に浮かんだそのことばに、武士はふかい溜息をついた。


(四百八十一)

 少しの時間をすごして中に戻ると、麗子の姿が見えない。言いしれぬ不安にかられつつ、さながら母親を捜す子どものように、キョロキョロと辺りを見まわした。そして、すぐ近くの最後列に座っている麗子を見つけたとき、武士は体中の力が抜けるように思えた。
「トイレ?」。小さく、麗子の声がとどいた。「はい」。武士もまた、小さくそして消え入るような声で答えた。
 武士の目が、麗子の手に動く。が、無情にも膝の上で固く握りしめられていた。あのとき手を握っていればと、なんども己の意気地のなさを責めた。チラリと銀幕に目をやると、激しいキスシーンだった。思わず武士は、目を伏せた。己の欲望が映像化されたそのシーンは、気恥ずかしさから武士の耳までをも熱くした。愛し合いながらも別れる、そんなふたりの自然の行為なのだが、武士には赤面ものだった。麗子は、食い入るように銀幕を見つめている。その目はキラキラと輝いている。そして麗子の右手が髪をかき上げたとき、甘い香りが武士の鼻孔をくすぐった。そして下ろされたとき、もう固く握りしめられることはなく、どころか心なしか武士の方に近づいているように思えた。
 武士は目を閉じると、思い切ってその手の上に武士の手を乗せた。先ほどまでの逡巡していた気持ちが嘘のようだった。武士にはその手が「おいで、おいで」と呼んでいるように見えたのだ。そして「ほら、武士。待っているんだぞ」という武蔵の声が聞こえたような気がした。「お父さんは女の人を見ると、みんな自分を誘っていると思うようなところがあったのよね」。武蔵の声に小夜子の声が重なった。
 細い指だった、冷たい感触だった。しかし、武士のほとばしる熱情を消すものではなかった。武士はそっと、しかし強く握りしめた。払いのけられはしないか、「帰ります!」。強い口調で詰られるのではないか、それとも頬に平手打ちが飛んでくるのではないか。そんな思いが一気に武士の頭のなかで吹きだした。手を離そうとした瞬間、思いもかけず麗子の手がクルリと返り、武士の指にその指がからまってきた。ドクンドクンと、武士の鼓動が急激に早まり、頭の中が真っ白になった。
 麗子がとつぜん立ち上がった。武士は、ハッと我に返った。白日夢のごとき妄想から、我に返った。本当に手を握っていたのだろうか?#サ然としないまま、武士もまた立ち上がった。虚脱感に襲われつつ、麗子の後ろに、さながら夢遊病者のごとくに付き従った。
 外は、いつか雪がちらついていた。
「あら、雪ですわ。素敵ね、雪の降るなかを歩けるなんて」
 麗子は、無邪気にはしゃいだ。手を掲げながら、手の平にふわりと落ちてくる雪を楽しんでいた。しかし武士には、館内の事が頭から離れずにいた。あれは、妄想だったのか?¢兜マわらずの疑問が、頭のなかで渦巻いていた。
「ねえ、『ひまわり』どう思いまして?」
「はい、感動しました」
 間髪を入れずに答えた。ここで言いよどんでしまえば、どんな叱責が飛んでくることか。それにしても、なぜ武士はここまで卑屈になっしまうのか。しっかりしろ! 武士。お前は、御手洗武蔵の息子なんだぞ=B誰がささやいたのか分からぬ声が、武士の耳に飛びこんできた。
「フフフ…。嘘でしょ? 見ていなかったでしょ。あたくしの手を握ろうか、どうしようか。ずっと見ていたでしょ? フフフ……」
「えっ?!」。一瞬、絶句した。そして次のことばを考える間もなく、麗子の手が差し伸べられた。
「今夜は楽しかったわ。それじゃ、これで。Au revoir,merci(さよなら、きょうはありがとう)」
 握手を求めさる麗子の指は、細くそして冷たかった。


(四百八十二)

 悄然とした様で寮にもどった武士をむかえたのは、それまで挨拶すらまともに交さなかった寮生たちだった。ガラスの引き戸を開けたとたん、奇声の混じった歓声が武士を襲った。
「ウォー!」。「ヒュー、ヒュー!」。「お帰りいぃ!」
 思わず立ちすくんだ武士にたいし、誰彼となく手を差しのべてきた。
「この手がなあ……」
「どこまで行ったの? A? B?」
「いくらなんでも、Cはないよな」
 中でも手荒い歓迎をしたのは、この寮のボス的存在である三回生の佐久間だった。武士の首に手をまわし、プロレス技のヘッドロックをかけてきた。
「痛い、イタイ、です! 止めてくださいよ」。懇願する武士に対し、佐久間は手を緩めることなく
「正直に、言ったんサイ。そしたら、外してあげるサ」と、武士の耳元でささやいた。
「分かりました、分かりました。話しますから外してください」
 集会室に集まったのは、寮生全員だった。さらに、寮母も同席していた。
「そもそもの馴れ初めはですね……」
「そんなのは、どうでもいい!」
「いや、馴れ初めから聞くべきだ!」
 皆が口々に声をあげはじめ、武士の声がかき消されてしまった。
寮母が立ちあがり、一喝した。
「あんたたち、静かにしなさい! 彼女が欲しいのなら、静かに聞きなさい」
 静まり返ったなか、武士は頭をかきつつ、麗子との馴れ初めを話しはじた。犬に襲われて配達用の荷物をかじられないようにとしたことを話した。それがきっかけで口をきいてもらえるようになったこと、またその荷物が彼女にとって大切なものだったこと。そしてそれが縁で初詣でに誘ってもらったことを、かいつまんで話した。
「ナンセーンス! 人間より荷物が大事だなんて、許されることじゃなーい!」
「いいんだよ、それで。それだからこそ、彼女の気を引いたんだろうが」
「やっぱりブルジョア階級の女は……」
「なにが悪いんだ。たまたまデートした相手がブルジョア階級だってことじゃないか!」
「結果オーライ、で済まされることじゃないぜ」
 武士を置き去りにして、さながら討論会の様相を呈してきた。一部の学生が声高に叫んだことで、皆が知りたがっていた肝心なことが聞けていない。いらだつ大半の寮生の気持ちを代弁して、
「うるせえ! いちいち口をはさむな。集会じゃないんだ、イデオロギー論争なんか入れるなっ!」と、佐久間の怒声がひびいた。
思わず武士も、体を硬直させた。
「なれそめは分かった。で、初詣でに行ったんだよナ。それで、今日また、デートだよな。どこに行った?」
「はい、映画を観てきました。ひまわりという外国映画で、……」と、今夜の映画鑑賞のことをも簡単に説明した。しかし館内での出来事や、その折りの武士のこころの動揺については、当然ながら省いた。


(四百八十三)

 壁一面に張られた映画のポスター群に、その出演者である映画スターのポートレートなどが、所狭しと張られていることを説明した。
「いいよ、いいよ、それは。映画館にはみんな一度は入ってるから。そんなことより、ええっと、その、なんだ。Aか、Bか、まさかCということはないよな、どこまで行ったんだ? そこのところを、正直に話してくれ」

 みるみる武士の顔が真っ赤になっていく。そしてすこしの沈黙の後に、武士の目にうっすらと涙がしみ出てきた。それでも、絞り出すように声を出した。
「知らないんです、ボク。
どう接していいのか、分かんないんです。
…映画を観たんです、いや、映画館に入ったんです。
だけど、だけど、麗子さんが気になって、スクリーンなんか、全然観てられないんです」

 そんな感傷ごとなどどこ吹く風とばかりに、
「映画館だってよ」。「暗い、よなあ、中は」。「となりを気にする奴なんかいないよなあ」。「ピンク映画なんかだと、ククク……」
 そこかしこで囁き声が発せられた。そして「しーっ!」、「静かにしろ!」。窘める声も、そこかしこで発せられた。次の武士のことばを固唾を呑んでみなが待つが、閉じられた武士の口は、なかなか開かなかった。沈黙の中、鼻をすする音だけが響いた。もうあふれ出てくる武士の涙を止める術はない。武士にしても、これ以上の披瀝すべきことがらはない。口にすれば惨めになるだけのことばかりだ。そしてなにより、「連絡しますわ」のことばも「こんどは中華そばね」ということばがない。ただ、冷徹な分析結果を突きつけられただけだ。「楽しかったわ」ということばさえ、「田舎者のあなたをいたぶれて面白かったわ」という意味にとってしまうのだ。
「さあ、みんな、お開きよ。はい、はい! お部屋に戻んなさい!」
 立ち上がった寮母が、パンパンと手を叩きながら、皆を部屋から追い出した。
「悪かったな、みたらいくん。あんな美人とデートした君が、みんな羨ましかったんだ。ひょっとして、デート、初体験か?」
 武士の肩に手を乗せながら、佐久間が謝った。落ち着きを取り戻した武士は、真顔で佐久間に言った。
「いえ、取り乱してすみません。恥ずかしいことですけれど、女性とふたりだけで話をしたことすら、初めてなんです。教えてもらえませんか、女性のこと」
「ええぇっ、女性のことか? 俺も、あんまりなあ。一般論としてだな、緩急をつけろって、言うよな。『押さば引け、引かば押せ』とは、言うよな。で? キスは、したのか」
「キ、キス、なんて。とんでもない! 手を握ることだって、できなかったんですから」
「カカカ、お前らしい。そんなことだろうと、思ったよ」
「で、あの……AとかBとかCとか、何のことですか?」
「知らないのか、そんなことも。AがキスでBがペッティング、そんでもってCがセックスだ。ついでに言うとだ、Dは妊娠さ」
「えっ、えっ、ええ! そ、そんなこと、とんでもないです」
「タイミング、タイミング、だよ! やるにしろ止めるにしろ、タイミングだよな。何となく、あるんじゃないか? 雰囲気みたいなもんが」
「そんなもんですかね」
 体を屈めて、ひそひそ話を続けるふたりに、寮母の声が飛んだ。
「さあ、さあ、消灯の時間だよ」