(四百八十四)

 真っ青な空があり、ふんわりとした雲がゆっくりと流れている。緑々とした草むらに、武士は寝転がった。そして武士の右手を腕枕にして、麗子がいる。お互いことばを発することもなく、どこまでも青く澄んだ空を見ていた。ゆったりと流れていた雲が、突然ふたつに割れた。そしてその別れた雲が、再びひとつつになった。
「ふふふ、まるで、キスしてるみたいね」
 麗子のことばに誘われるように、武士の唇が重ねられた。
な、なんだ? なんて夢だ=B翌朝目覚めた時、二度目の夢精を体験した。佐久間さんがあんなことを言うから≠ニ、顔を赤らめるまだ純情初心(うぶ)な武士だった。
 小さな商店街からすこし離れた裏通りのに一角に寮はあった。玄関の庇(ひさし)上には「清心大学寮」とあるのだが、長い年月のせいか所々が禿げかかっていて正確に読める者は数少なかった。読めると、「女子寮ですか?」と尋ねられる。心清き者たちの寮、という意味での命名だったのだが、男子生徒たちにそれを求めるのは……。当初から違和感のある名前だと、口さがない者たちのかっこうな餌食となっていた。
 玄関の右手に五台ほどの自転車置き場が設置してあり、寮所有の自転車があるがそのほとんどに鍵がかかっていない。所有者が不明のこともあり、寮母の「盗難にあってもしらないよ」との苦言にも「そんな奇特な人がいるもんかねえ」と、誰もが気にもしていなかった。まあ確かに小汚い代物ばかりでは、盗人にしても手を出さないのかもしれない。
玄関の入り口は、間口が六間ほどで、観音開きの戸になっている、上半分が磨りガラスで下はベニヤ板が重ねられている。中に入ると左側に靴箱が設(しつら)えてあり、三十足近くは入れられるだろうか。靴が入ってるものもあれば、泣きたくなるほどにすり減ったスリッパもある。靴箱の上には形ばかりの造花が置いてある。そしてその横に鏡があり、そこで髪型のチェックする寮生が多い。
 右側の壁には幅が一mで横が二mほどの額があり、寮則らしきものが書かれている。らしきものというのは、もうずいぶんと古い物で、文字の判読が難しくなっているからだ。まあどこも同じようなものと考えても良いはずだ。三十cmほどの高さでかまちがあり廊下となっている。正面に階段があり、三階までつづいている。
 三階建ての建物で、廊下の幅が二間ほどだ。片側だけに部屋があり、一階に三室分の広さがある集会所と六畳一室があり、階段を挟んで寮母の二室分にあたる自室と、六畳の部屋二室がある。二階と三階にはそれぞれ階段の両側に六畳四室ずつがある。部屋は一応上級生から順に三階二階を使用することになっているが、四年生ともなると彼女のアパートに転がりこむ者もいれば、とっかえひっかえの恋愛を楽しむ豪の者もいる。それぞれがアパートを借りているので、三階には三年生四名と、二年生二名が入っている。もう二室あるのだが、ここは四年生が遊びに来た場合にそなえて空き室となっている。二階は二年生と一年生で八室がすべて埋まった。武士は入寮決定が遅れたために、一階の集会室のとなりに決まった。

 なにも手につかぬ武士に、三度目のデートはその四日後にあった。事前の連絡もなしのとつぜんのことだった、寮の前に車が止められると、そこから麗子がおりてきた。無骨なスタイルでシルバー色のボディが、麗子には似つかわしくしい。武士にはその車の名称もわからないし、メーカーもわからない。どころか、国産車なのか外車なのかすらわからない。ただただ目を丸くして見るだけだった。
 羨望のまなざしで見入る武士に満足感を感じながら、これがスピードメーター、これがタコメーターと称されるエンジンの回転計、これが水温計で赤い印を上回るとオーバーヒートしてエンジントラブルが起きること、そして最後に指さしたのがガソリンメーターだった。
「この車はね、普通のガソリンではダメなの。ハイオクタンという特別のガソリンを使うの」
 そう言われても、武士には何のことやらさっぱり分からない。「はあ、そうなんですか」と、頷くだけだった。
「うおっ、すげえ。車じゃないか」。三階の窓から身を乗り出して、危うく落下しそうになる。その声につられて、二階からものぞき込む者が現れて、寮内が騒然となった。
「武士さん、乗って」と、武士を急かした。今日は午後からのアルバイトが入っている。当日のシフト変更は厳禁なため、「いや、今日は」と口をもごもごさせながらも、麗子の命令は絶対的なものだ。実のところ百貨店における上司から耳打ちされている。
「本来こんなことを頼むのは本意ではないんだが、高野さまはうちの特上客なんだよ。上からも決して粗末に扱うなと厳命されているしね。だから頼むよ」と、両手を合わせられた。ということは、この場合は麗子を優先させなければならないことになる。その為に、武士はアルバイトを休まねばならなかった。他の寮生たちの羨望の眼差しを意識しつつ、武士は車中の人になった。

(四百八十五)

 車の中で、麗子は終始無言だった。寮生たちの声に怒りを感じているのだろうか。しかしそれは、麗子にも分かっていたはずだ。まだ大学は休みであり、寮生たちの大半が留まっていることは、麗子には容易に推察できることのはずだった。となるとそのことでの怒りはないだろう。そこではたと、武士の思考が止まった。もしもあの日のことが許せないのであれば、今日この日に、わざわざ寮までくるはずがない。しかも何の連絡もなしにだ。ということは、怒りから無口になっているとは考えられない。
もしかしてぼく恋しさ?≠ネどと不遜な考えも浮かんだが、それでは無言になるわけがない。第一、天地がひっくり返っても明日に地球の終末期を迎えるとしてもあり得ないことだ。なにせ麗子は、婚約中の身なのだ。あくまで武士は、酒のつまみかデザートにすぎないのだ。いやそれすら違うかもしれない。ただたんに家猫を飼うがごときにじゃれているのかもしれない。
 しかしこの沈黙はさすがの武士も耐えられない。といってなにか話しかけようにも、それを許さない厳しい表情を見せている。いつもの麗子ではなかった。不安を拭えない武士だったが、生唾を飲み込むたびに、ことばを失った。先のデート以来、夜ごとに麗子との隠微な世界に思いを巡らせていた武士だ。それゆえに、この沈黙は真綿で首を絞められるがごときものだった。

 国道から高速道路に、車は滑り込んだ。長い沈黙が、車のエンジン音すら飲み込んでしまう。フィーン! という風切り音が、武士の首筋に冷たい鋭利な刃物を感じさせた。これからの武士を暗示させるがごとくに、思えた。
ぼくをどうしたいのだろう?≠サんな思いが、武士の脳裏をまたしてもかすめた。武士の右側の車窓に、ガードレールが流れて行く。車に疎い武士には、この車がドイツの高級車メルセデス・ベンツであるとは、分からなかった。麗子にしてみれば、そんな武士の純情初心さが物珍しいのかもしれない。
 麗子の口から、いつもの軽やかな口調ではなく、なかば咎めるような、そして蔑みの色さえ感じられることばが発せられた。
「貴男、運転できる?」
 思いもかけぬ問いかけに、思考がついていかない。しかし、口をきいてもらえた。それだけで、どぎまぎしながらも安堵の心持ちが湧いてきた。そして問いかけの意味をやっとの思いですりつぶすと、「いえ、免許を持っていないんです」と、答えた。それでこの会話は終わると思っていた。しかしあにはからんや、麗子の口から強いことばが出た。


(四百八十六)

「違う! 無免許だとはいうことは知ってるわ。車を動かせるかと、聞いているの」。腹立たし気に、畳みかける口調だった。何を意図しているのか、なにを聞き出したいのか理解できぬまま
「いえ、まだ動かした経験もないし。だめです、すみません」と、つづけた。
「それは変よ。経験してないから出来ない、というのは理屈に合わないわ。あたくしにしても、無免許ですのよ」
えっ! 無免許だって……?=B驚きはしたものの、さもありなん、と思えてしまう武士だった。だからこその、緊張からくる無言だったのだ。答えがわかってしまえば、いまにも声高らかに笑い出しそうになる武士だった。
「すべての経験は、初体験からよ。貴男、童貞? そうね、きっとそうね」
 一瞬、軽い放心状態に陥った。耳を疑った。淑女が口にすべきことではない。なにが言いたいのだろう…′ヒ惑いつつも、麗子の真意がどこにあるのか…、武士は訝しげにことばを返した。
「どうしてそんなことを聞くんですか? すごく残酷だ、その問いは。どう答えて良いのか、ぼくにはわかりません」
 すると毅然とした口調で、二の矢が放たれた。
「答えになっていないわ。あたくしは、貴男のそういった優等生然とした態度が、童貞という前提から生じていると思うの。あたくしにはね、そういった貴男がじれったいの。貴男、きっと女性から言われているでしょう?『貴男って、いい人ね』って。どう、違う? でもね、女性が男性に対してそのことばを投げかけるのは、決して誉め言葉じゃないことよ。逆なの、失望の意味があるものなの」
 麗子の目には同情や憐憫の色はなく、敵意すら充ちていた。武士は、やはりことばを失った。その沈黙が武士自身を苦しめることは、分かっていた。麗子を苛立たせるだけだとも、わかっていた。他の女性に同じことばを投げ付けられたならば、必死に抗弁するだろう。しかし、麗子の前では、武士は従順な羊だった。

 周りの景色が矢継ぎ早に、後ろへうしろへと流れていく。スピードメーターは、百二十kmを超えていた。しかし麗子は、アクセルを緩める気配を見せない。むしろさらに踏み込もうとしている。風切り音が、前にも増して武士の首筋に冷たい鋭利な刃物を感じさせる。もはやエンジン音は沈黙に吸い込まれることなく、風切り音とともに悪魔の声に聞こえる。すぐ向こうで、ポッカリと口を開いた死神が待ち受けているように感じた。
「事故死」。瞬時、武士の脳裏を走った。
 スピードを落としませんか、危ないですよ。武士がそのことを麗子に告げたとしても、受け入れる麗子ではない。さらにアクセルを踏み込むだろう。いや実際に、スピードメーターは少しずつ大きな数字を目指している。
いいさ、その時はそのときだ=Bそう考えると、不思議に心が落ちついてきた。
すべてを麗子さんに任せよう=B深々とシートにもたれ、厳しい表情の麗子を見つめた。武士の小心さは、裏をかえせば居直りの強さを秘めているのかもしれない。
「貴男、恐くないの? あたくしの技術の限界を超えていることよ。お話することさえ、今のあたくしには苦痛ですのよ。一歩一歩、死に近づいていますのよ。それとも、このあたくしが、恐怖心からスピードを落とすとでも、思っていらっしゃるの?」
 武士は、返答に困った。麗子の意図するところがわからない。武士になにを言わせようとしているのか、わからなかった。 
 スピードを落としてください、とでも言おうものなら、高笑いして詰るだろう。そして、麗子さんの気の済むように、と言えば、‥‥やはり、高笑いするするだろう。そう思えたのだ。
「なにを怒っているんですか? ぼくにはどうしてもわからない。困らせることばかりだ。ぼくを試しているんですか? 見当違いかもしれないけれど、麗子さんはわざと無駄遣いをしているとしか思えない。飲み物を頼んでも口もつけない。映画を観ていても途中で帰られる。なぜですか? ぼくの知っている麗子さんは、そんな女性じゃないはずだ。ぼくと会っているときの麗子さんは、本当の麗子さんじゃない。いや、ぼくだけじゃない。誰かと接しているときの麗子さんは、多分本当の麗子さんじゃない。愛犬と戯れているときの麗子さんが、そのときだけが、本当の麗子さんなんだ」
 武士は、一気に吐き出した。途中、口を挟もうとした麗子を制してまくし立てた。
「でも、ぼくには怒れない。麗子さんの気まぐれに振り回されても、ぼくにはどうすることもできない。麗子さんは、ぼくの、ぼくの、その、何ていうか…」
 武士は耳たぶまでも赤くしながら、最後は呟くように、小声となった。


(四百八十七)

「貴男は、あたくしの気持ちがまるで分かっていないのね。ほんとに、肝心なことがわからないのね。まだわからないの! あたくしは、貴男といると決まってイライラするの! 余りにもあたくしの思い通りの男性で、手応えがまるでないの! どんな無理難題を言っても、いつも受け流してしまう。いい人ね、本当に。あたくしを失望させない、怒らせもしない。でもね、あたくしは生身の人間なの。血が通っているの。貴男はフェミニストね。でも、本質的には、女性を軽蔑しているの。一段見下ろしているの。あたくしのことも、よ。貴男は意識していないでしょうけれど」
 麗子のことばの一つひとつが、武士の胸を突き刺した。
麗子さんを軽蔑している? 馬鹿な! ありえない、そんなことは断じてない。おじいさまは、いつも仰ってた。『女というものは馬鹿だ。男のひごのもとでしか生きられんのだ』と。でも、ぼくはそう思わない。だって、お母さまは素晴らしい女性だもの。麗子さんだって、素晴らしい女性なんだ
「あたくしね、大学を卒業後すぐに結婚するかもしれないの。ううん、きっと結婚するわ。相手の方は、貴男とはまるで正反対の方なの。すべてにおいて、あたくしを無視しているの。『黙って後ろから付いてこい!』といった方なの。その方と結婚したら、すごく幸せになるか、ひどく不幸せになるか、どちらかでしょうね。ただそこに、高野麗子は本当に存在しているのかしら……。でも、あたくしは幸せになれると思うの。少なくとも、貴男とよりは、ね」
 麗子は、武士からのことばを拒んだ。言いかけることばを遮って言う。
「なにも言わないで、わかっています。聞きたくない、それは。ごめんなさいね、今まで。彼に抑えつづけられる毎日の、憂さ晴らしに貴男を苛めていたのよ、きっと。そういうことにしておいて」
 スピードが緩んでいた。後方にいた車群が、次々と麗子のベンツを追い抜いていく。そして決まって、助手席にいる者が、薄ら笑いを浮かべている――武士にはそう見えた。そしてそんな相手に怒りを感じた。
麗子さんを馬鹿にするな! すくなくともお前たちよりは、ずっとずっと、素敵な女性だ。リスペクトできる方なんだ
「さよなら…」
 はじめて見る麗子の涙だった。武士は、ただ黙って聞いていた。かけることばを失った。すでに聞かされていたこと――結婚ということばが、いま現実味を帯びて武士の耳にとどいた。衝撃を受けた。そして、武士の両親のことを思った。その背景は違うかもしれないが、なぜか武士の両親と同じ結婚生活を送るのではないか、そう思えた。
母さんは、幸せだったのだろうか? 戦後の混乱期でも、なに不自由のない毎日を送った母さんだけど、本当に幸せだったのだろうか? 人間はパンのみにて生きるに非ず、じゃないのか? 相手が、正三さんだったら……? アナスターシアというモデルさんが生き長らえていたら…? また別の人生を送っていたはずだ


(四百八十八)

「貴男は、あたくしの気持ちがまるで分かっていないのね。ほんとに、肝心なことがわからないのね。まだわからないの! あたくしは、貴男といると決まってイライラするの! 余りにもあたくしの思い通りの男性で、手応えがまるでないの! どんな無理難題を言っても、いつも受け流してしまう。いい人ね、本当に。あたくしを失望させない、怒らせもしない。でもね、あたくしは生身の人間なの。血が通っているの。貴男はフェミニストね。でも、本質的には、女性を軽蔑しているの。一段見下ろしているの。あたくしのことも、よ。貴男は意識していないでしょうけれど」
 麗子のことばの一つひとつが、武士の胸を突き刺した。
麗子さんを軽蔑している? 馬鹿な! ありえない、そんなことは断じてない。おじいさまは、いつも仰ってた。『女というものは馬鹿だ。男のひごのもとでしか生きられんのだ』と。でも、ぼくはそう思わない。だって、お母さまは素晴らしい女性だもの。麗子さんだって、素晴らしい女性なんだ
「あたくしね、大学を卒業後すぐに結婚するかもしれないの。ううん、きっと結婚するわ。相手の方は、貴男とはまるで正反対の方なの。すべてにおいて、あたくしを無視しているの。『黙って後ろから付いてこい!』といった方なの。その方と結婚したら、すごく幸せになるか、ひどく不幸せになるか、どちらかでしょうね。ただそこに、高野麗子は本当に存在しているのかしら……。でも、あたくしは幸せになれると思うの。少なくとも、貴男とよりは、ね」
 麗子は、武士からのことばを拒んだ。言いかけることばを遮って言う。
「なにも言わないで、わかっています。聞きたくない、それは。ごめんなさいね、今まで。彼に抑えつづけられる毎日の、憂さ晴らしに貴男を苛めていたのよ、きっと。そういうことにしておいて」
 スピードが緩んでいた。後方にいた車群が、次々と麗子のベンツを追い抜いていく。そして決まって、助手席にいる者が、薄ら笑いを浮かべている――武士にはそう見えた。そしてそんな相手に怒りを感じた。
麗子さんを馬鹿にするな! すくなくともお前たちよりは、ずっとずっと、素敵な女性だ。リスペクトできる方なんだ
「さよなら…」
 はじめて見る麗子の涙だった。武士は、ただ黙って聞いていた。かけることばを失った。すでに聞かされていたこと――結婚ということばが、いま現実味を帯びて武士の耳にとどいた。衝撃を受けた。そして、武士の両親のことを思った。その背景は違うかもしれないが、なぜか武士の両親と同じ結婚生活を送るのではないか、そう思えた。
母さんは、幸せだったのだろうか? 戦後の混乱期でも、なに不自由のない毎日を送った母さんだけど、本当に幸せだったのだろうか? 人間はパンのみにて生きるに非ず、じゃないのか? 相手が、正三さんだったら……? アナスターシアというモデルさんが生き長らえていたら…? また別の人生を送っていたはずだ


(四百八十九)

 なぜか、麗子が小夜子にだぶって見えた。
ぼくは、ぼくは…。麗子さんのなかに、母さんを見ていたのか……?
 また沈黙の時間がながれ、車は静かに高速道路をおりた。車窓の景色もはっきりと見てとれた。見慣れた商店街を通り過ぎ、ビル群の建ち並ぶビジネス街も通り過ぎた。行き交う車の運転手が、いつものように麗子に視線を投げかけていく。しかし、いまの武士には誇らしい気持ちはなかった。どれほどの時間が経ったのだろうか、辺りは薄暗くなっていた。街灯の灯りが柔らかく道路を照らしている。やがて、武士の寮が見えてくる街角に差しかかった。ウィンカーの音がすると、車は静かに停車した。麗子は、ハンドルに頭を乗せていた。
「ふー!」
 麗子の溜息が漏れた。車の運転に疲れたせいなのか、それとも……。武士は目を閉じたまま、シートにもたれていた。なにか納得のいかない気持ちがあふれていた。麗子の思いだけが武士に伝えられた。
「会いたいときに逢う。それじゃだめ?」そんな麗子のことばに不満を持ちつつも、「しつこい人は、嫌いになることよ」と、ことばを付け足す麗子の前で、武士はしおれてしまう。
 違う! あのお方には、婚約者がいらっしゃるんだ。そんなことを望んじゃだめなんだ。しかし武士はまだ己の気持ちを、すべて吐露できてはいない。
そうだ、まだ小説を読んでいない。まだ感想をのべちゃいない。麗子さんはその答えが聞きたいはずだ。麗子さんの捉え方と、ぼくの捉え方……。そうだ、そうだった。まだ父さんのことを話しちゃいない。戦前の男の、御手洗武蔵のことを。男尊女卑の思想が強い、漢(おとこ)武蔵だなんて言われて良い気になっていた男のことを。金の力で母さんを娶ったという男のことを。金儲けだけはうまかった男のことを。でもでも、死ぬまで母さんが好きだった男だったことを。いや、なにを期待している? 麗子さんは、結婚されるんだ。そしてぼくとでは幸せになれない、そう言われた。ぼくにそんな資格があるなんて思っちゃいない。でもでも、ほんとうの自分を見てほしかった。ほんとうの自分? 御手洗武蔵の息子で、御手洗小夜子の子ども……。田舎育ちの御手洗武士……
「さよなら…」。いつもなら口にしたであろう最後のことば、「Adieu(さよなら)」ではなかった。そして、武士の頬に、暖かく、そして柔らかいなにかが――そう麗子の唇が触れられた。

 麗子と別れたいま、武士は放心状態に陥っていた。「結婚するわ」。そのひと言が武士の心に、憧れとしての麗子ではなく、生身の麗子としての存在を植え付けた。いまにして思えば、武士の目に映っていたのは麗子には間違いないのだが、麗子の瞳に映る己を見ていたような気がしてならなかった。
――麗子さんにはどう見えているのだろうか?
――麗子さんはなにを求めているのだろうか?
 己を主張するのではなく、相手が望む人としての己を演じていたように思えた。そして、茂作に対してもそうだったような気がするのだ。茂作が望む子どもであり、希望する幼少年時代を送ってきたような気がした。そしてやっとその呪縛から逃れ得たいまの生活も、結局は麗子に従属するがごとき行動をとってしまった。武士は、己を、御手洗武士という人物を演じていた。
「どうした、みたらいくん。ご令嬢とのデートでは、いつもぐったりとして帰ってくるじゃないか? お嬢さま相手は、やっぱり疲れるかい?」

 集会室の片隅で頭を抱えこむ武士のとなりで、佐久間が話しかけた。しかし武士は、うな垂れたまま無言だった。
「なんだい、おい。まさか、押し倒したんじゃないよな? で、お嬢さまにしっぺを喰らったとか、さ。ご、ごめん。そんな雰囲気じゃないよな。失言だった、ごめんよ」
 明るい集会室にも関わらず、ふたりが座る片隅だけが暗く感じられた。押し潰されるような空気のなか、武士が重い口を開いた。
「麗子さん、結婚するんですよ。卒業後に、すぐにでも、らしいです」
「えっ? なんだい、それ。それって、おかしいぜ。だって……。みたらいくん。どういうことなんだ。ご令嬢にとっては遊びだってことか! 許せんな、君みたいな純な男を弄ぶなんて」
 こぶしを握りながら憤慨する佐久間に対して、
「いいんです、いいんです。もともと憧れの女性でしたから」と、静かな声で制した。
「憂さ晴らしだったって、麗子さんは言うんですが、ボクはそれでもいいんです。それで麗子さんが落ち着けるのなら、いいんです。でもぼくの態度が、麗子さんを苛立たせてたらしいんです。いま思うと、イエスマン過ぎたとは思うんですけど。でも、逆らうなんてこと、思いも寄らぬことですから」

(四百九十)

「もう少し、詳しく話しておくれよ。おばさんにも、聞かせておくれな」
 エプロンで濡れた手を拭きながら、寮母がふたりに声をかけた。
「びっくりした、お母さんかい。立ち聞きは、良くないよ。俺たちには、そう言ってるくせに」
「あたしゃ、いいんだよ。お母さん代わりなんだからさ。何かあったら、親御さんに申し訳が立たないからね」
 寮母のことばを聞いたとたん、武士の目から、大粒の涙がどっと溢れはじめた。
「ぼ、ぼくなんかのために。ありがとうございます」
「うん、うん、いいんだよ。さあ、話してごらん」
 訥々と話す武士のこちばに聞き入っていた寮母は、
「幸せ者だね、あんたは。嫌われてなんかないよ。好かれてるよ、そのお嬢さんに。まっ、タイミングが悪かったね。もっと早くに会ってたら、いい関係になれたんだろうけどね」と、快活に答えた。
「じゃあ、お母さんは、そのお嬢さんに腹が立たないんですか!」。語気鋭く詰め寄る佐久間に対して、
「一期一会ってことば、知ってるかい? いい人生経験だよ、ミタちゃんにとっては」と、なだめるように返した。
「そうですね、ホントそうですね。素晴らしい女性でした、麗子さんは。幸せになってほしいです。お母さん、佐久間さん、ありがとうございました」
 武士は、真摯に心配してくれたふたりに感謝のことばを残して、自室に戻った。

『男にとって、男のエゴが生命(いのち)の素だ』
 武藏の口癖だった。酒を飲んだ折には、そして社員たちへの訓示の折には、必ず張り上げることばだった。
「家庭に家族に気持ちを残していては、良い仕事なんぞできないさ」と、嘯(うそぶ)く武蔵だった。五平と酒を酌み交わすときに、漏らしたことばだった。終戦後に五平とともに店を立ち上げて、二人三脚で馬車馬のごとくに働き、雑貨品卸販売において覇を唱えられる位置にまできた。そんな五平だからこそわかることばだった、心情だった。ないがしろにしたのではなく、家庭を女人である妻に任せて、まさしく後顧の憂いなく働きつづけたのだ。家庭に家族に気持ちを残さずではなく、妻の内助の功があってこその、信頼するからこその、仕事だった。
 しかしそんな武蔵のことばの心情に気づくはずもない武士だ。思い出話として愚痴った小夜子に同情し、あんな男にはなりたくない≠ニ、思った武士だった。強く反発した武士だった。
「大正男の半端な男よ。式の後には一度も顔を見せなんだ。情けない男よ」、「軟弱な男よ」と、茂作から幾度となく聞かされた。富士紹介の面々から聞かされる武蔵とは似ても似つかぬ、茂作の武蔵評だった。
 どちらが正しいのかは、武士には判別できない。じいちゃんがうそをつくわけがない=B少しのうそも許しはしない、あれほどに厳格な祖父なのだ。村人たちも、「茂作さんはぶあいそうだが、うそはつかねえおかただ」と、口をそろえて言う。「口にしたことはかならずやってくれるから」と、褒め称える。茂作の後ろにいる武蔵を見てのことばだとは、武士にはわからない。
 小夜子の「おじいちゃんの言うことにまちがいはないのよ」という援護射撃も武士にはしっかりと届いている。茂作と小夜子の意見が違っては、幼い武士が混乱するだけだと考える小夜子だった。
 しかしいま、武士は武蔵を懐かしく思いはじめた。己の都合のみで、小夜子や武士のことなど二の次だったわ、と聞かされた武蔵のことを。
「タケゾーはね、ほんとに独りよがりな人だったのよ。お母さんの言うことなんかひと言も聞いてくれなくてね。あんなに死んじゃだめだった言ったのに、あっという間にあの世に行っちゃって」。小夜子としてはあまりにも早すぎる死への愚痴のつもりであることが、幼い武士には伝わらない―わけがない。寂しさを紛らすためのことばが、事実として武士の脳裏に埋め込まれた。
「仕事では厳しいお方でした。でも…」
 人を人とも思わない態度を取りつづけた武蔵だった。進捗状態が思わしくないとき、部下がトラブルを抱えて立ち往生したとき、激しい口調で怒鳴りつけていた。しかし、袋小路に追い詰めることはしなかった。かならず退路を作ることを忘れなかった。
 思い込みからの情報でもって大量の商品を滞貨させてしまった部下にたいし「減給だ!」と詰ったことがあった。が、その後に
「○○商会に行ってこい、話をつけてある。他の者には内緒だぞ。お前の才覚だということにしておけ」と、フォローすることを忘れなかった。己の非を認め深く反省をした者にたいしては、挽回の場を与えもした。
 いま武士は、そんな武蔵を懐かしく、そしてまた恋しくも思った。
父ならば、いまのぼくにたいしてどんな言葉をかけてくれるだろうか。笑うだろうか、それとも怒鳴られるだろうか…