| (四百六十七) 明治生まれの頑固な祖父の元から抜け出した武士は、十分過ぎる自由を持てあまし気味になった。小夜子が用意した賄い付きの下宿にはいる手もあったが、武士自身が申し込んでいた大学の寮に入ることになった。お母さんが用意したのに、と不満を口にする小夜子だったが、寮に入ることで不摂生な生活にはならんだろうと、茂作の後押しもあり、入寮が決まった。 寮では部屋に入れないでしょ?&s満のたまる小夜子だったが、茂作までもが武士側については矛を収めざるを得ない。月に一度の富士商会への出社時に武士の下宿先で一泊をというもくろみが外れてしまった。 あんなにお母さんお母さんと言ってくれた武士が、あたしの元をはなれるなんて=Bどうしても納得のいかない小夜子は、なんとか出社当日の食事を約束させた。 武士にしても、茂作から離れられることにうれしさは感じるものの、小夜子と離ればなれになることには不安な気持ちが消えない。そしてまた富士商会の社員たちに会えるかもしれないと思うと、たとえ食事の場に呼べないとしても、小夜子とともに出社してみたいという思いがわいていた。 単身出向いた武士には、すべてがワクワク感を与えてくれる別天地に思えた。武蔵の死後に百貨店の屋上にあったワンダーランドに、小夜子が連れて行ったことがある。はじめて見るきらびゃかな装飾とともに、その遊具に乗っている子どもたちのキラキラとした眼が、いまも小夜子の脳裏にある。そして武士とともに乗りこみ、上に下にと揺られたメリーゴーランドのことが鮮明な記憶として残っている。 武士はふわふわの綿飴を頬ばりながら、そして小夜子は、アイスクリームを頬張った。武蔵と出かけた銀座のステーキハウスで食した、あのデザートの味には到底及ばぬものの、懐かしい冷たさに舌鼓をうった。この場に武蔵がいれば、人混みを嫌う武蔵であっても、武士とともならばと思う小夜子だった 大学の構内における同世代のひとり若者との会話も――田舎ではどことなくよそよそしさの流れるなかでの会話が多かった――素晴らしいものであった。専攻とした源氏物語について田舎では口にすることのできなかったことを、ここでは頻繁に論じあえる。ただその彼が、とつぜんに退学してしまった。 「学費が払えなくなってのことらしいよ」 「講師だった女性と、いわゆるいかがわしい行為に走ったってことらしいぜ」 「そうそう。ただその女性が独身なら、普通の恋愛だから良かったけどね」 「結婚してるもんねえ。それが旦那さんにばれて、大学に押しかけてきたんだって」 大騒ぎになってしまった。一年ほど前から夫婦関係が破綻していたことで、夫の嫌がらせだという噂が流れた。「情けない男だ」と、講師の女性を擁護する声も上がったが、結局のところ講師は解雇となり学生は退学となってしまった。 月々の仕送りの額に特別不満があるわけではなかったが、大学一年の夏休みにはじめたアルバイトをその後もつづけた。百貨店のお中元配達のアルバイトに、武士は喜々として励んだ。そんな武士の真面目さがデパート側に認められて、シーズン後もつづけることができたのだ。もてあまし気味の時間を埋めるには恰好のものだった。 武士の本音を言えば、当時の憧れの的であるデパートガールたちとの接点が嬉しかった。食堂において、彼女たちとのたわいもない会話をできることが楽しかった。学内での武士は目立たない寡黙な男子学生だったが、高校卒のデパートガールたちが見せる羨望の眼差しが、武士を雄弁にさせていた。 (四百六十八) 車窓から見える町並みが、次第に都会色に染まりはじめた。“ああ、帰ってきたんだ”。そんな感慨を覚えた武士は、「もう、田舎では暮らせないかも」と、ポツリと呟いた。わずか三日間の帰省ではあったが、寮にもどった武士はどっと疲れを感じた。喧噪のなかに身を置いたとき、武士は都会暮らしがすっかり身についた事を感じた。故郷での時間の流れは、ゆったりとしたものではあった。疲れを癒すには、たしかに有りがたいものであった。しかし違和感を感じていたということを、いま知った。落ち着かなかったのである。 茂作から脱け出したいが為の、わずか三日という短期間の帰省にしてしまった。 「もう帰るのか」 「もう少し休めないの?」 茂作と小夜子から同時に声をかけられ、 「ごめん、繁忙期なんだ。無理を言って休んだから」 こんなにすらすらと嘘を吐けるなんて≠ニ、己を責めた。 「次はもっと休みをもらってくるよ」という返事が精一杯だった。しかし、今日この寮にもどってみて気がついた。わずか六畳の部屋ではあるが、誰からの干渉も受けない。大の字になって寝転がってみると、妙に安心できた。廊下を歩く学生たちの声や足音が、遠慮会釈なしに飛び込んでくる。それらが妙に、武士の心に安心感を与えてくれた。 聞けば他の大学では相部屋が普通だという。兄弟というものの交わりのない武士にとっては、想像ができないことだった。大人たちに囲まれての生活は、真綿の中でのことばかりだ。同世代との軋轢がないかわりに、子どもたちだけの楽しみが味わえない生活だった。学校帰りにキャッキャッとはしゃいでいる子どもたちが羨ましく感じることも、多々あった。 その反面、煩わしく感じることもあった。とくに武士をいらだたせたことは、顔を近づけての会話だった。大人たちはそれなりの距離を置いて話しかけてくる。ゆっくりとした口調で、ことばひとつひとつを明瞭にしてくれる。しかし子どもたちは首に手をまわして、さらには大きな声を出す。中には鼻汁を吸い込みながら話しかけてくる。声の大きさもだったが、なにより苦痛に感じるのは匂いだった。服からの多種雑多なにおい、頭からのツンと鼻にくるにおい、そして口臭がきつかった。しだいに身体的な距離を置くようになり、そしてそれが武士からかもしだされるバリアとなってしまった。 八月も下旬となって、寮の仲間たちも、一人二人と帰りはじめた。皆それぞれに、懐かしげに声をかけあった。さ程に会話を交わさない者でも、口々に「お帰り。どうだった、田舎は」と、尋ね合った。それぞれの故郷の名産品を持ちあって、わいわいと話に興じた。そして、決まって最後に口にした。 「やっぱり、ふる里は遠きにありて思うもの≠セなあ」 「それがさ。幼なじみの女の子がね。俺、好きだったんだけどなあ。取られちゃったよ、居残り組に」 「ええっ? それってすこし早くないか? でもないか、田舎じゃ」「それじゃ、やけどしちゃったんだ」 無論いまの武士には、そんなやけどのことなど想像もできない。というよりも、やけどを負う前にその前提がおとずれるのかどうか……。異性との関わりを持つことができるかどうか……。小学・中学そして高校と男女共学の場にいながら、女子生徒との関わりはおろか、まともな会話すらできない武士だった。しかし小夜子は言う。 「大丈夫。素敵な女性にめぐり会えるわよ。なんといっても、お父さんの子どもなんだから」 (四百六十九) アルバイト生活ではじめて迎えた年の暮れ、武士は薔薇をつかんだ。お歳暮が届きはじめる十二月に、いくどか配達を繰りかえした先の令嬢と、ある事件をきっかけにことからことばを交わすようになった。いつもは繋がれている番犬が、その日にかぎって鎖が外れていたのだ。そうとは知らぬ武士は、いつものごせとくにチャイムを鳴らし門扉を開けた。とたんに、庭を走り回っていた柴犬が、けたたましく吠えながら武士の元に突進してきた。「あっ!」という声を上げ門扉の外に出ようとした。しかし俊敏な犬から逃れることができなかった。やむなく配達の商品を頭上に上げながら、足で応戦した。 デパートでの訓辞である「商品を第一に考えること」を忠実に守ったのだ。例としてあげられた「車の水しぶきに対しては、自分は濡れても商品は濡らすな」という訓辞をとっさに思い出したのだ。 水と犬では対処の仕方が違うということになるのだが、武士は律儀に考えてしまった。 「ジョン、ストップ!」。幸いにも、近くにいた令嬢のひと声で、犬は武士にたいしての攻撃を止めた。見事に訓練されている犬であったことが、武士を救った。顔面蒼白な武士を見た令嬢は、大きな声で笑いながら 「おかしな人ね、荷物で撃退すればいいのに」と、声をかけた。 とつぜんに声をかけられた武士は、「そうですね、すみません」と、つい謝ってしまった。 「あらっ、謝るのはこちらよ。ごめんなさいね、鎖を外してて。散歩をさせないといけないんだけど、あたしでは抑えきれなくて。あたくし、麗子と言います。あなたは……ミ、タ、ライ、さん? 珍しいお名前ね?」 御手洗という漢字を、一字一字をしっかりと読み上げて、確認のために胸から下げているネームプレートを手に取った。近づいた麗子の髪からふんわりと匂ってくるローズ系の甘い匂いが武士の鼻腔をくすぐってくる。うっとりとする武士にたいして、麗子はうれしそうに話しかけてきた。 「あなた…。もう彼女さんはいらっしゃるの? ちょっと待って。あたくしに考察させて。そうねえ、引っ込み思案で無口で…人見知りが激しいかしら。答えは、Nonといったところね。あ、ごめんなさい。違うというフランス語なんだけど。どう、当たってる?」 一瞬、とまどった。特定の彼女はいない、それはたしかだ。しかし百貨店で親しく声を掛け合う女性はいる。異性との交際経験のない武士としては、どう答えればいいのかわからないでいた。その届いた商品は、麗子が父親へのクリスマスプレゼントとして用意したネクタイとマフラーのセット商品で、わざわざ海外の本店から取り寄せた一点物に近いものだった。口では「荷物で撃退しなさい」と言いつつも、その中身を確認してホッとしたものだ。 そのことでのお礼をと考えたのか、「うふふ……、いらっしゃらないのね。いいわ、話し相手ぐらいならなってあげる」。妖艶に微笑みながら、「連絡、差し上げるわ。Merci(ありがとう)」と言い残して門扉をしめた。 (四百七十) 麗子の大学生活は退屈なものだった。学究の徒たちが集まる場と言うよりは、まるで花嫁修業の――良家との縁談資格を得んがための――場となっている。しかしここは、両親の治外法権だ。女子大学ということもあり、異性との交流はないものと両親は考えていた。たしかに校則自体は厳しいものだったが、いかんせん一歩学外へ出れば教員の目も届かない。 その校外では、正門から少し離れた場所で外車でのお迎えが待っている。人目も気にせず迎えの車に乗り込む女子大生の多いこと多いこと。そんな彼女らには目もくれず、というよりその場所に近づくことのない麗子だった。 武士のようにバイト生活で生活費を稼ぐなど、麗子には考えられぬことだった。両親から「学生の本分は……」と、お題目のように聞かされている。そのことからも、バイトの経験を希望する麗子の希望がとおることはなかった。というのは表向きの理由であり、麗子の行動に制限がかけられていたのだ。俗に言う、悪い虫がつかぬように、というのが、両親の本音だった。付属の幼稚園、小学校、中学校、そして高校は女子高校に通学させて、極力異性との出会いを制限していた。赤井の意向がそこに働いたことは言うまでもない。その代償としてほしがる物に関しては、そのほとんどが与えられた。 時期的に歳暮シーズンであることから届け物が多く、三日と開けずに顔を合わせることになった。そんなことから、武士は麗子と親しく会話をするようになった。しかし麗子の通う大学がお嬢さま大学として認知されていることもあり、今さらながら、茂作に対する反発心から現在の二流大学に在籍してしまった己を悔いた。そんなコンプレックスも相まって、麗子の女王然とした態度は武士をして萎縮させるに十分だった。 「そんなに気難しい方なの? でも、自立するために敢えてワンランク下の大学にしたなんて、思い切ったことをなさるのね」 「正直、いま、すこし後悔してます。そのせいで仕送りの額を減額されて、こんなバイト状態です」 茂作に減額されたわけではない。むしろ武士が減額を申し出たのだ。そもそもが、武蔵が設立した基金からの支給なのだ。 「でも、だからこそ、麗子さんにお会いできたんですよね。あっ、すみません。失礼なことを言ったみたいで」 顔を赤らめながら答える武士だったが、まったくの本音だった。その様は麗子にたいするリスペクトそのものだった。これまでにも褒めちぎられることの多かった麗子だったが、そのどれもが己に対することばかけではなく、となりに立つ父親に向けてのものだと分かってくるようになっていた。しかしいまの武士のことばは、両親ではなく、心底の麗子への賛辞であることがひしひしと伝わった。麗子をしっかりと見据え、まるで少女漫画に出てくるヒロインにたいする憧れを表現する、キラキラとした光をたたえていた。幼少期、そして少女時代。 「かわいらしい娘さんで」、「お美しいお嬢さまだこと」、「聡明さは、お父さまゆずりでしょうねえ」、「この気品は、奥さまゆずりでしょう」。それらすべてが、両親を賞賛することばなのだと感じる麗子だった。 (四百七十一) 大学における武士は、その無口さも手伝い、異性はおろか同性の友人さえいなかった。そう、麗子とまるで同じ状態にあった。いや、ひとりだけ居た。なにごとも思い詰めるタイプの男で、わずか半年ほどの在籍だった。夏休みが終わり久々に顔を合わせたおりには、もともと痩身ではあったが、目がくぼみ頬もこけていた。 「どこか悪くしたのかい?」。思わず、挨拶もそこそこに問いかけた武士だった。 「なんでもないよ、なんでもない」。いつもの突き刺さるような目力のない、どこかよどんだ目でまともに目を合わせようとしない。おどおどとして、キョロキョロと周囲に気を巡らせている。尋常ではない空気が彼から発せられている。なんども、「話を聞くよ」と水を向けても、「何もないったら。うっとおしいんだよ、きみは」と、怒りだす始末だ。そしてそのままそそくさと場を離れると、「関わりを持たないほうがいいんだ」と、捨て台詞にも似た投げ出すような口調でのこし、走り去った。以来、彼の姿を構内で見ることがなくなってしまった。 この二流大学に籍を置く学生らは、武士のプライドを満たすものではなかった。常に学業においてトップを走ってきた武士は、他の学生の試験時における右往左往ぶりが滑稽だった。日常の会話でナンパの話に明け暮れている彼らを、常に見下ろしていた。この大学に籍を置いたのは、間違いだった≠ニ、今さらながら後悔していた。 おじいさまは正しかった。やはり、格というものは存在しているんだ。世間の見る目がまるでちがう。お母さまは、「本人の努力次第ですよ。お父さまがそうだったわ」と、何かにつけて励ましてくださるけれども、もう時代が変わってしまった。個の時代は終わったのかもしれない。これからは組織で動くことになるのだろう。富士商会だってそうだ。勝利のおじさんだって言っている 「スーパーマンが活躍する時代は終わりました。武士坊ちゃんには、組織経営の何たるかを、しっかりと勉強なさってほしいです。許されるなら、学部移動をされるといいですねえ」 ぼくには父親のようなカリスマ性はない。いやそもそもが、富士商会の後継者たり得るかどうか……。お母さまは嫌うけれども、加藤社長は立派に努められている。いや、伴侶である真理恵さんの力が大きいのかも=B武蔵を否定するわけではない。案外にすんなりとワンマン経営から、組織経営者へと変身するかもしれない。そんな柔軟性を持っているのでは、と考える武士だった。しかしそれでも、小夜子を苦しめた男として、どうしても許すことのできない父親であり、男だった。 茂作の口から語られる武蔵像と、小夜子から聞かされる父親としての武蔵、そして夫としての武蔵、そしてそして経営者としての武蔵像。そのどれもが複雑に絡みあい、ひとりの御手洗武蔵となる。先手必勝、冷静沈着、そして冷徹漢。身内に甘く他者には容赦ない。そのどれもが、現在(いま)の彼には備わっていないもののように感じていた。 (四百七十二) 麗子からの誘いは初詣でだった。単なるリップサービスと思っていたことから、夢見心地であり歓びいっぱいのことになった。たしかに以前にくらべれば配達時の会話も増えたし、ときとして武士の肩をたたくなどのスキンシップもありはした。しかし麗子と己では住む世界がちがうと思い知らされたことも多々あった。しかも麗子は婚約中であり大学卒業後には養子を迎え入れることが決まっていると言うのだ。 相手は商社マンであり、時を経ずして海外への赴任となるだろうとも聞かされた。そしていまはその下準備のための出張だという。寂しくはないですかという武士の問いには、すこし悲しげな表情を見せつつも、意外なことにそれ程の感情の高ぶりがないというのだ。いつもの隣県への出張時と変わらぬ面持ちだと、さばさばした表情を見せた。「結局は政略結婚なのよ」。事もなげに言う麗子だった。「赤井家の床の間に飾ってあるドールなのよ」とも付け加えた。 そして「母もまたそうだったの。総領である叔父さまに何かあったときのためにと、父との結婚が決まったの。わたくしと同じように、父が大学の在学中にね。当時の母は花嫁修業の真っ最中。そのためだけの、存在だったのよ」。事もなげに言うが、その裏には意識はしていないものの、小夜子が傾倒した新しい女への挑戦心があろうことは推察できた。 「折角の父ですもの、利用しない手はないわ。叔父さまが本当に社長としての器がおありなのか、そしてまた跡継ぎに恵まれるかどうか……。神さまだけがご存じのことなのよね。いえ、あたくしもかしら。叔父さまは四十も半ばだというのに。お話が来ていますのよ、お相手は銀行の支店長の娘さんだとか。叔父さまったら冷たいそぶりをされてて。後家であると言うことに引っかかりを感じてらっしゃるのかしら? あら、いけない。こんなこと、武士さんにお話しすることじゃなかったわ。お忘れくださいね」。その微笑みの中に、武士は陰険さを見た思いがした。そしてそれが麗子の本質なのだと感じもした。さらにはそれが、赤井商会の創立者である祖父の血だということになるのだ。 そしてそれを我が身におきかえてみると、武士もまた父である武蔵から受け継いでいる血というものがあるのだ、祖父である茂作の血もまた流れているいるのだと、半ば絶望的な思いにかられた。 もっと人間らしい、ひとりの女性だけを愛し続ける、そして子どもの意思を尊重してやれる親になるのだと強く決意した。と同時に、そんな麗子が、なぜ自分のような、赤井家にとって何の利益にもならぬ者に構うのか……、単なるあそび、気まぐれでしかないのか、そう考えると、奈落の底に落とされるような気がした。 しかしそれそれでも良いさと考える自分がいた。「己が幸せになることだけが、人生の目的ではないはずだ。相手を幸せにする、そんな人生があってもいいじゃないか」。そんな蒼い考えが武士の頭を支配しはじめた。奇しくも武蔵が願った「穏やかな人生を送ってほしい」という願いを、知る由もない武士がしっかりと受け止めていた。しかし天がそれを許すはずもなく、ある意味では武蔵が犯した罪に苦しめられる武士だった。そして時として父である武蔵に救いを求める武士であった。 麗子という女性。武蔵にとっての小夜子。片やお姫さま、片や女王さま。ふたりの女性がどう武士に関わり、どのような 結末を迎えるのか……。さらにはその後に、武士がどうなるのか……。ぜひにも期待を膨らませていただきたい。乞う、ご期待! (四百七十三) その日はあいにくの曇り空で、昼過ぎから雪がちらつきはじめ夕方には本降りになるという。しかし長つづきはせずに、年が変わる前には小康状態になるという予報が出ていた。 「雨でなくて良かった」。「いや、彼ら流に言えば、相合い傘となるわけか」。「いや彼らだって、相手が麗子さんともなれば、いくらなんだって……」。 考えはじめるときりがない。しかしそんな時間が楽しく感じられる武士だった。 雨ではなく雪模様でも、傘を差すことになるだろうか。そもそも麗子さんは傘を持ってくるのだろうか 麗子さんの傘ならば、おそらくはブランド物の高級品だろうし、ぼくの傘なんかそこらで売ってる黒傘だし 麗子さんの傘は、なに色だろ? 母さんと同じピンク色だろうか≠ニ思いを巡らせてみる。 そういえば、雨傘と日傘とを使い分けていたなあ。麗子さんもやっぱりそうだろうか。話に詰まったら聞いてみようか 初詣でともなると、五分や十分の会話ではすまない。神社に着くまでの道すがら、話をすることになる。駅からスムーズに行ったとしても、二十分はかかると聞いた。人出もあるだろうから、倍の時間は覚悟した方がいいわよ、とも。 配達のおりに、少しの時間だが話をするようになった。麗子がその日の天気やら、近所でのちょっとしたできごとを話して、武士からは道路の混み具合に、あちこちで行われている道路工事のことやらを、報告することになる。 すこし長話になったことがある。女子大でのこと――教授から出る課題やら、職員たちが敬語で接してくることやら――を話してくれるが、他の女子の話がまったく出なかった。奇異な感じがしたが、問いただすわけにもいかない。 そしてひとしきり話がつづいた後に、「あなたは?」とやはり、学内のことを聞かれた。特段に話すことがらもないし、職員との接触などまったくといっていいほどない。教員にしても、教授などはまるで学生を学生と思っていない。黒板に向かって講義をして、学生たちを見ようとはしない。 機械的にチョークを動かして、お前たちには理解不能かもしれんが……といった風情で、ただただテープレコーダーから流れ出るような、あまり抑揚のない声が聞こえる。 いや本当にテープレコーダーから流れているのでは? と疑いたくなることもあった。 「そうなんだ。学内の話はしたし、百貨店に関することは話すわけにいかないし……」。はたと困った武士だった。学内の彼らのように話をうまくつなぐことなど、考えるだに恐ろしい。 たしかに、デパートガールたちとは長話をしている。昼食時やら、三時のおやつタイム(彼女たちがかってにつけている呼称である)には、たしかに話の輪にとけこんでいる。しかしその内容たるや、とてものことに麗子に聞かせるような話ではない。 女性に詳しいという寮生からアドバイスをもらう? しかしあっという間に麗子とのことが広まって迷惑をかけてしまう。百貨店に迷惑をかけることにもなりかねない。 では、女性として寮母は? 口は堅そうだが、申し訳ないが中卒だ。そして「ガハハ」と笑い飛ばす豪快中年女性だ。麗子のような上流社会人との会話など、経験がないだろう。 最後の手段として小夜子にでも聞けば、笑いながら教えてくれるのだろうが、かえって、根掘り葉掘り聞かれそうで電話をとる気にならなかった。 (四百七十四) 明日だ、もう明日なのだ。いや、正確にいえば、きょうの今夜の十二時の約束だ。 会話の中身も気になるところだが、いちばんの問題は服装だ。 なにを着るか、これが大問題なのだ。 といって選ぶことに苦労するほどには衣類を持ち合わせていない。 そもそもが社会人ではなく、学生なのだ。 学ランに黒ズボン、そして黒い安物の革靴。これだけだ。 その他にといえば、夏用の半袖シャツがあるだけだ。 ああ、大事な物を忘れていた。 ワイシャツだ。これは他の衣類と似合わず、最高級品となっている。 武蔵の遺品に当たる。三枚だけだったが、小夜子が武士のためにと残してくれた。 むろん他にも衣類の遺品はたくさんあった。 しかし形見分けに欲しいとということで、大半を譲り渡してしまった。 ただ帽子だけは、頑として譲らなかった。 唯一武蔵の匂いが染みついた遺品として残しておいた。 ああ、もう一着ある。これもまた最高級品のオーバーコートだ。 寒い日には、小夜子を包み込んでくれた逸品だ。 武士に、と考えたわけではなく、武蔵からの愛情が詰まっているようで、遺したものだ。 武士が社会人になる、まるで想像ができない小夜子だった。もみじのような手で、しっかりと小夜子の小指を握ってくる。親指でも人差し指でもなく、小指が好きな武士だった。 半ズボン姿に見惚れた小夜子だった。小学校に上がる前年に、銀座のテーラーに無理を言い特注品にした。苦笑いをしながら、「初めてですよ、こんな小さな紳士は」と受けてくれた。 そして、「張り紙でもしましょうかな。小っちやな、紳士淑女に、オーダーメイドは? とでも」と、小夜子が出来上がった品を受け取ったおりに、真顔で話してきた。 どう応じればいいのか、言葉に詰まってしまった。武蔵がそばにいれば、「そうね、それもおよろしいかもですわ」と、高飛車に出ていただろうが。 「ごめんなさい、無理なお願いをして」と、腰を折る小夜子に驚いた店主が 「いや、冗談ですよ」と、あわてて小夜子を起こした。 寒さ対策で、学生服の上にオーバーコートを引っかけることにした。「あなたには似合わないわね」。そう言われそうな気がする武士だった。そしてそれをきっかけに、父親の話をしてみようかと思う武士だった。茂作の言う傲慢な武蔵ではなく、母の言う女癖の悪い武蔵ではなく、富士商会で聞かされる社長の武蔵ではなく、まだ五歳に満たずおぼろげにしか、というよりほとんど覚えていない武蔵のことを、麗子には話してみたいと思った。 麗子さん。どんな反応を示すだろう…… (四百七十五) 「Bonjour(ごきげんよう)」 麗子が、初詣でということもあり和服姿で現れたおりには、別人と見まごうほどだった。ピンク地に大きくバラが描かれている、振り袖姿だった。結い上げられたうなじが彼の目には眩しく、面長の顔で柳眉、目元はアイラインでしっかりと引き締めている。すっきりとした鼻筋に、小さめの薄い唇。顎のラインが柔らかめにカーブしている。普段のワンピース姿でもドキドキする武士では、まったく正視できなかった。 ことばの出ない武士にたいし、 「どうなさったの? これはね、パパが成人のお祝いにって用意してくださったの。似合うかしら?」と、勝ち誇ったような声が、さながら鈴の音に響いた。 「も、もちろんです」と、やっとのことで声を絞り出した。「うふふ……」。当然とばかりに頷くと、「行きましょ」と武士の手を取った。あれほどに逡巡した手つなぎが、いまここでいとも簡単にかなってしまった。もうこれだけで、今年一年が実り多き年になり、そして来年が光り輝く一年になることが決まったようなものだった。 駅からまっすぐに伸びる本通りの舗道では、ごった返すというほどではないにしろ、大勢の参拝客が列をなしていた。 中に奇声を上げながら歩く若者たちがいたが、後ろをふり返ったおりにさらなる奇声を上げる者がいた。 「はくい女がいるぜ。男はフツーだけどよ」。 その声に一斉に前を歩く人々が、ふたりに視線を向けた。 そしてため息が聞こえてくる。 同性ですら、感嘆のことばをささやきあっていた。 武士の思いは得意絶頂であった。 どうだい、みんな。羨ましいだろう!=B そんな思いが、身体中を駆けめぐっていた。 「パパはね、あたくしの言うことならなんでも聞いてくださるの。あたくし、フランス文学を専攻しているでしょ? この間もね、フランス文学の原書をおねだりしたの。スタンダールの[赤と黒]、それにヘルマン・ヘッセの[車輪の下で]はご存じよね。教授のご推薦作品なんですのよ。でも最近はすこし物足りなさを感じてますの」 身振り手ぶりを交えての熱弁に、となりを歩く女性の肩に手が当たりそうになるほどだった。しかしそれでも麗子の自慢はつづいた。「でね、ロシア文学の方に興味が移りはじめましたの。トルストイやらドストエフスキーはご存じですわね? それに付け加えてツルゲーネフの作品も揃えはじめましたわ」 土の匂いのする作風、そして細かく人物像や情景描写されるロシア人気質にのめりこんでいった。 「トルストイは、すばらしい作家だと思いますわ。[アンナ・カレーニア]なんか、じつに人間の機微をうまくとらえて。でも、あれは浮気女ですわ。あんな女(ひと)、あたくしは容認できません」と、憤慨する思いをぶちまけた。 「その点、ドストエフスキーはおよろしいのよ。[罪と罰]では、己の犯罪に最後まで苦しみましたもの。そして最後には真実の愛に目覚めますのよ。でも他に、あたくしがもっとも読みたい作品がありますの。[カラマーゾフの兄弟]だけは原書で読み込みたいものですわ」。 目をらんらんと輝かせる麗子に、この人は本当に純真な女性なんだ。そして真っ直ぐな人だ。道は違うけれども、お母さんに似ているかも?≠ニ、そんなことが頭を |