(四百四十)

 きようは金曜日であり、週の内で一番浮かれやすい日だ。明日の土曜日も仕事ではあるのだが、半日だと言うこともあり、物流量が少なく、配達員たちもいつもよりはのんびりとしている。普段はそれぞれの部でもって、連絡会議をもつ。来週一週間における入荷予定の流れを聞かされ、質問があればその場で確認する。
 さらに会社二階の大食堂において、月に一度の朝礼がある。大体が第一土曜日が多い。締め後のことでもあり、通常の半分以下ていどの物量になる。以前のこと、大きなトラブルの起きたことの対処があり、そこに至るまでの経緯・経過が調べられた。そしてそのトラブルが二度と起きないようにと、対応・対策が指示された。
 ときにその通常を超えての異常事態が起きたときになどには、営業開始時間をおくらせての話し合いになる。今回は順調な営業成績の伸びからして、小言がでるとは考えられない。社長である加藤が、胸をはって上機嫌に営業職を褒め。そしてまた物流部門をたたえた。
 先月には取引先から細かな苦情がきていることを、みなが知っている。口頭における聞き間違いがあったことへの反省から、指示書がつくられることになった。それによって、言い間違い聞きちがいがへった。そのアイデアを出した女子事務員に、今月の朝礼で部長賞があたえられた。
 そして今日これから真理恵と徳子の闘いがはじまる。しかしその勝負は、はじまる前からそのすう勢は決まっているようなものだ。その導入についてはすでに進路が決まっており、あとは実行の段階だからだ。
  問題はその推進者だ。そろそろ一年が過ぎようとしているのだが、遅々として進まない。これまでは武蔵の温情によって不問とされている。そこにいよいよメスが入れられようとしている。
 平机が片付けられ隅っこに積み上げられている。直立不動の社員のまえに、リンゴ箱を台として五平がのぼった。武蔵が使って以来、壇にはリンゴ箱を使用している。株式会社として名前が売れたからといって、創業当時の思い――熱気・根気・やる気――を忘れない そしていま、真打ち登場とばかりに真理恵が立った。えんじ色のブレザーに紺色の膝下20センチほどのスカート、そして靴はエナメル質の黒光りものだ。胸には大輪のバラをさし、化粧はすこし派手目にみえる。真っ赤な口紅をこれでもかというほどに塗りたくり、まさしく戦闘態勢に入っている。
「加藤真理恵です。よろしくおねがいします」
 専務の妻、とは口に出さなかった。あくまで、ひとりの個人としての挨拶だった。30度ほどに腰をまげつつも、あなたたちへの礼ではなく、富士商会への礼なのです≠ニ言外に宣言しているようなものだ。つめたく見下ろすような視線を、全社員にそそいでいた。 横に立つ五平はまるで無頓着で、「わたしの嫁さんだからと身がまえる必要はない」と口にするものの目は笑っていない。これから起こるであろう幹部社員たちとのバトルが気になって仕方がない。という意思表示のためだった。
 けさ、「お手柔らかにたのむぞ」とこぼしたおりに、「あたしはね、あなたが富士商会の専務だから嫁いだの。次期社長ふくみのね。社長夫人としてではなく、いち幹部社員として会社の繁栄につくすためなの。ミタライ社長? あの方では天井が低いわ。いつかは父とともに、二部でもいいわ。上場させてみせるから」と、五平の目をまっすぐに見て宣言した。
 
(四百四十一)

真理恵ならばやりかねない。いまの家族的経営では、けっして満足しまい。タケさんの存命中ならいざしらず、早晩小夜子さんと衝突してまうだろう。といって、真理恵の意見が正しいことは自明の理だ。なんとしても、小夜子さんには一時的にせよ身を引いてもらって助かった。となると、山田や竹田、そして徳子らの意向だな。みなタケさんの信奉者だ。ひとすじ縄ではいくまい
 五平が心変わりしたのではない。二年ほど前に、武蔵から打ち明けられていた。以前に熱海での社員旅行で泥酔したおりに、武蔵の語ったことばを思いだしていた。「俺の次は、五平、おまえだ」。単なるお為ごかしだと思っていたのだが、どうやら本心のようだった。
「どうもおれの寿命は短い気がする」。とつぜんに口にしたあのことばは、現在のことを暗示していたのかと思う五平だった。武士という後継者に恵まれぬ以前とはいえ、端にも棒にもかからぬ己のことをそこまで……と考える五平だったが、武蔵の胸の内には、冷徹な計算がはたらいていたのも事実だった。
 そして死の床についていたとき、武蔵が思索していたことがある。いまの家族経営は小規模のうちには通用する。しかし株式会社として体裁をととのえ、大きく成長していこうとすれば、どうしても人の好き嫌いが関与してくる。本人にその意識はなくとも、いや逆に「えこひいきはいかん」とした場合に、かえって優秀な社員をうしなうことになりかねない。その点五平ならば、と考えた。
 女衒というなりわいが、逆に功を奏するのではないかと考えたのだ。冷静な目でもって評価をし、しがらみとは無縁に物ごとの判断ができるのではないか、そう思った。
俺のもつ熱量で社員たちをひっぱり、天のガラスをぶち破った。ならばあとは、五平にバトンをわたそう。ひとつ、情にながされる面が気がかりのたねだった。最後のさいごには折れてしまう、女衒としては弱い面をもつ。
 しかしそんな人情家の五平を、あの真理恵が作り替えるだろうと思った。男は強い、しかし女にだけは弱い。とことん惚れぬいた女にはからきしだ。 五平は、真理恵に惚れてはいない。しかし富士商会に惚れぬいている。
 最後には、真理恵が五平に引導をわたすだろう、そう思った。そしてそれがゆえに、武士は富士商会を継げるだろうか……≠サれだけが気になった。
小夜子? 小夜子を社長に? 世間はどう見る? 女だてらに社長職とは、と排除に動くか? 能力云々じゃない。男が女の風下に立たされることを容認するだろうか? アメリカを見ろ、ままだじゃないのか? 重役? 重役と社長ではひかくにならん。全責任を負うのが、おわされるのが、社長だ。 
 代表取締役というのは、下手をするといのちさえ投げだすことになる。どれほどの商店主が、夜逃げした、そして自殺した? だめだ、まだだめだ。おれは死ねん。神だのみは、いっさいしてこなかった。今回は、こんどだけは、神さま、お願いだ。おれをたすけてくれ=@

(四百四十二)
 
 初夜のことを、五平が思いだしている。ひんやりとした空気のただようなか、五平と真理恵が対峙している。あからさまな政略結婚であることに、五平は忸怩たるおもいをもっている。真理恵への申し訳なさが、五平のこころに充満している。わかにたいする未練の情をすてきれない五平だ。武蔵の思いは痛いほどわかる。おのれが武蔵の立場にたったならば、やはりおなじように説得を試みたろうとおもっている。
 しかも10歳近い年の差と、五平の容貌だ。三友銀行という大看板をせおう父親をもつ令嬢でもある。再婚とはいえ、望めばもっと将来有望な青年にとつげるはずだ。こんな風采のあがらぬ、女衒あがりの男なんぞに≠ニ思うきもちがつよい。
 せめてもこののち、しっかりと愛情をそそぎなに不自由のない生活はもちろん、真理恵の夢――それがなにかは知らぬ五平だけれども――を叶えてやりたいと思っている。それとも子を為せぬ体とはきいているが、万が一に奇跡がおきて子を授かるしれない。そんな思いもかかえていた。
 しかし真理恵は、女としてのおのれは死んだ! これからは女性企業人として生きていく≠ニ、決めていた。そのためには意に沿わぬことではあるけれども、おのれの体を与えることにより、男をおのれの支配下におく、と決めていた。まさしく小夜子とは対極にあるけれども、めざすものは同じものだった。
 日々の家事は、そのいっさいを真理恵が拒否した。五平にしても家政婦なりお手伝いをやとえばすむことで、よけいな気苦労から解放されると、快諾した。
 社員数が70名を超えるに至って、事務系の部屋が手狭となった。幸いにもビルの三階スペースが空くことになり、すぐさまそこを使うことになった。3階に社長と空席ではあるが専務の部屋を置き、そのとなりの部屋を経営戦略室で利用することになった。真理恵はその新設された経営戦略課にはいった。肩書きこそなにもないが、三階に陣取ることにより、実質的にはNo.2の座についた。
「いっそ社屋を建てるなり、中古のビルを買いませんか」と、佐多にすすめられたが、
「時期尚早ですし、分不相応なことはしたくないもので」と断った。本音をいえば、これ以上の借入金をふやすことで銀行の介入を嫌ったのだ。
 二階の社長・専務とあった部屋のかべをぶち抜き、会計課を改称して総務課とした。総務課課長として徳子がつくことになり、嘱託である小夜子には、便宜的に専務室が与えられたが、その部屋に入ることなく迎えに来る取引先の車に乗り込むことが常だった。

(四百四十三)

 週に1回のペースで、経営戦略室にて[組織経営の何たるか]という初歩の経済学勉強会が開かれることになった。講師は真理恵がつとめ、第2土曜日には真理恵の父親であり三友銀行銀座支店長の佐多が、極秘で特別講師としてまねかれていた。その場には、服部・山田・徳子、そして社長である五平も出席することになった。
接待の多い日ではあるが、できるだけその日を外すようにして出席していた。
はやくも尻に敷かれたか≠ネどと社の内外から陰口をたたかれつつも、毎回参加の五平だった。
御手洗社長ならば女ごときに……≠ニいう声もでた。しかしこんな声も追加して聞かれたことだろう。
もっとも小夜子奥さんのご命令とあれば従うかな?=Bそして話に興じる全員が笑いがおになり、次回の接待の場ではその話で場がもりあがる。武蔵もまた、心底から笑ったことだろう。
 五平にもその話はとどいている。しかしまったく意に介さず、その話題がでても、「まいりますよ、まったく。あのご出身ですからね」と、いかにも卑屈な態度をみせつつ、腹の中で見てろよ、そのうちに差ができちまうぞ≠ニ、腹の中でせせら笑っている。そしてついでに、「お姫さまにでもご出席いただければ、お花畑になるんでしょうがな」と、笑いをとっている。武蔵とはちがった手法で、相手の裏をかいている。
 第2土曜日の佐多の出席には重大な理由があった。武蔵の生存中から複式簿記がとりいれられているが、会計事務所での処理となっている。かねてから非効率だということで社内での会計処理が急がれてはるいる。でそれが会計責任者である徳子に白羽の矢が立っているのだが、尋常小学校どまりの徳子では荷がおもく、なかなかすすまない。武蔵・小夜子時代ではそれも良かったのだが、五平が社長就任するにいたり真理恵からの攻撃がはじまった。
 第2土曜日に佐多が来るのは、徳子のつくる単式簿記を月末に受け取り、複式処理された簿記が会計事務所からとどくのに1週間ほどかかるからだった。それまでは半年に一度のペースだったものをいきなり月に一回の提出というのは、会計事務所にとって多大の負担ではあったが佐多の登場でやむなくとなった。
 イヤミなどではなく一日でもはやくできれば毎週でも、その複式簿記で確認したい項目が少なくない。スピード経営をめざす佐多や真理恵にとって、徳子の存在は邪魔だった。簿記の問題だけではなく、そのお局然とした存在が障害になることもあった。 
 会計だけでなく人事も総務課長である徳子の決済がなければ、金員の出金はもちろん移動すらままならい。新人の入社など、徳子がくびを縦にふらなければおぼつかない。「社長命令よ」とつげても馬耳東風で、意に介さない。服部・竹田のふたりが進言すれば「仕方ないわね」となるのだが、それでは即断即決に支障を来す。
 
(四百四十四)

 まず竹田に複式簿記のなんたるかを説明し、いかに会社経営において有用であるかを認識させた。そして竹田同席のもとで服部を夜の会席に呼び出し、さらには五平をも同席させて、あらためて複式簿記の有用性を説いた。いくら内容を聞いてもちんぷんかんぷんな表情を見せる服部への、竹田の「ぜったいに必要なことだ」とのことばが、真理恵の援護射撃となった。
 表に出したくない金員を佐多から頼まれることがある。民間会社では使途不明金として処理できるものが、銀行だと金融庁からの厳しい目が光っている。監査が入ろうものなら、出世はおろかその場に留まることすらできない。場合によっては、おのれの進退をも左右することになる。二の足をふむことの多いなか、佐多は積極的に受け入れてきた。そしてこの地位に就いたのだ。
 佐多の上司から「うまく処理してくれ」との依頼があったおりに、富士商会は使いがっての良い会社となる、はずだった。そして佐多が上に行けばいくほど、富士商会にもうまみが出てくる。二、三ヶ月に1度の割合で佐多が持ち込む、銀行作成のマル秘文書である取引先の決算書そして借り入れ稟議書などは、営業をかける上で重要ものだ。他社よりはやく情報が入ることが有利なことは自明の利だ。
 珍しく在室している小夜子の部屋から、ひそひそ話がきこえてくる。あれほどに飾りたてていた前室とちがい、こんどの部屋は地味で質素だ。こののち誰の部屋になるかもわからぬし、いつまでいるかもわからない。早晩この部屋ともわかれる予感があるのだ。なので小夜子の趣向で飾り立てては、ムダになるとかんがえた。ただ一点、武蔵の愛用したソファだけは運び入れた。
 その部屋で小夜子ひとりのはずなのに、小声での会話がきこえてくる。幹部連――五平、竹田、そして徳子たちは、それぞれ自席についてる。服部はもちろん営業にでかけている。部下のひとりが新規開拓のお客をつかみかけているということで、珍しく小夜子ではなく服部に同行をもとめた。
 女ごときに、という古いタイプの経営者で、五平が社長に就任したということで、「話を聞いてやろう」ということになった、創業が明治3年の老舗企業だった。
 
(四百四十五)
 
 五平から声がかかり、徳子が社長室にはいったときだった。小夜子がいる部屋のまえをとおったとき、扉がすこし開いていた。キチンと閉じることなく入ったせいか、窓からの風でドアがすこし開いてしまった。重厚に見えるそのとびらも、じつのところ合成板を使った安物だった。武蔵ならばすぐにも取り替えさせたであろう、代物だ。      
「お客に見られる最初のものだ、本物を使わなくてどうする。輸入の高額品でなくてもいい、国産材でもいい。とにかく本物を使え。富士商会は本物しか扱いません、と宣伝するんだ」
 渋る五平と徳子だったが、武蔵の言わんとすることに納得せざるを得なくなった。「いまは分不相応でも、ぐにも……」。武蔵の強いことばが付け加えられた。
 そういえば一階のカウンターも、名前は知らないが一枚板だときいている。業者に在庫がなく、また市場にも流通していないと言うことで、特注でつくらせたものだった。「来客した客の度肝を抜いて、有利な取引条件をひきだす」。武蔵お得意の、はったり商法だった。
 どうにも気になった徳子は、「書類の一部をわすれました」と五平にことわって、そっと小夜子のへやを盗みぎきした。ひとり小夜子がへやを歩きまわり、相手にたいして抗議らしきことば――グチかもしれぬことばを吐いている。
 小夜子にしてはあまりに低い声なのでなかなかに聞きとりにくかったが、相手がだれなのかも判然としない。語り口からすると取引関係先ではなく、身内とも思える身近な人間に思えた。千勢さん? そうも思えたが、誰にも気づかれず会社に訪れることはできないはずだ。
「ないしょにして」と声をかけたにしても、内緒にということですがと前置きをうけて、千勢の来訪を徳子に告げるはずだ。よくよく聞いてみると 会話調ではあったが、どうにもひとり言のように思えた。架空の相手をみたてて、問う、というか詰問調にもきこえた。
「どうしてなの」、「それはムリよ」、「告げちゃダメなの?」、「拒否されるかしら」、「仕返しは?」。話の途中に「あなたが蒔いたタネでしょ!」とよりきつい詰りことばがでた。
 相手を責めているようにきこえる。むろん相手からの返事はない。どうやら、亡くなった武蔵を相手のことのようにおもえる。人前では決して口にしない悪口をつぶやいている。徳子も聞いたことのない、竹田が以前にこぼしていた――社長や専務にたいすることが多いんです――不満を聞いた。聞いてはいけないことをきいてしまったという罪悪が生まれてきた。
そうよね、お姫さまだって人間だもの。腹のたつことは一杯あるわよね
 極めつけは、「こんなことなら」ということばのあとすこし間が空き、「経営の勉強をしておくべきだったわね」、そしてつづけて「武蔵がいなくなるなんて、あたし、あたし、考えてもいなかったから……」と、なみだ声になっていった。
 胸の詰まるおもいだった。すぐにも部屋にかけこんで、小夜子を抱きしめたいとおもった。まだ二十台なかばなのだ。子どもが生まれて幸せの絶頂期のはずなのだ。

(四百四十六)     
 
 ソファに座ったり机に戻ったり、そして冊子をパラパラとめくっている。窓の外ではチンチンと電車が行き交っている。車の往来もはげしい。思えば復興がめざましい。階下ではひっきりなしに電話が鳴っている。呼び出し音が2回なるまえに、受話器を取るようにと命じられていて、みなそれをキチンと実行している。応対の声もいつにも増してあかるい。     
「おい、どうした?」
 しびれをきらした五平がドアから顔を出した。小夜子のへやの前で聞き耳を立てていた徳子に、「早くはやく」とせかせた。
「どうもお待たせしまして。問い合わせがおおくて、手が足りませんで」と五平が徳子を後ろに従えて、頭を下げた。
前社長なら決して頭を下げないわ。『申し訳ないですなあ、立て込んでいるものですから』とでも言って、恩に着せるのに≠ニ、まだ五平の社長就任にはふまんがある徳子だった。
「もうしわけありません、すぐに上がるつもりが……」。頭を下げる徳子にたいし、「状況をおしえてください」と、相手先がいらだった様子をみせた。
 部品のひっ迫が、もう二ヶ月ほどつづいている。高級品でも特殊品でもない。ふつうに流通している、小さなネジなのにだ。国内で造っていたものだが、大火事によって複数の町工場が被害を受けた。海外からの安価な同種のネジもまた、不運なことに政変が起きて国内が大混乱となってしまった。
 製品単価の安いものだっただけに、増産や新規生産にふみきる工場もなく、ただただ製品単価アップの確約を求める町工場が出た。一時的な単価アップは受け入れるとしても、今度はそのネジに生産が集中してしまうと、ほかの部品不足におちいってしまう。ネジやボルト、小さなひとつの部品に過ぎないのだが、そのひとつが欠けても大きな機械や製品はつくれない。[山椒は小粒でもピリリと辛い]を地でいくような大事件となった。
 しかし事件だ大事件だと、面白がっている場合ではない。幸いにも富士商会には普段の半分ほどが入荷している。輸入について話がつきはしたものの、それも入荷が五日ほど遅れているし、まだ三、四日の遅れが予想されている。なので問題はそれまでのあいだ、在庫品をどう配分するかなのだ。そう、販売ではなく、配分なのだ。戦時中の配当のようなものだ。
 そしていま五平が応対しているのは、そのネジに関してのことなのだ。大手の家電メーカーの製造部の部長が、入荷予定の確認にきている。正味のところ、実需分だけでなく在庫分としての確保を狙っている。現状の発注分の半分ちかくが在庫分としてのものだ。しかしそのことは、おくびにも出さない。ただただラインが止まってしまうと、談判にきている。

(四百四十七) 

 きょうの電話のほとんどがそのネジに関するもので、一部が不足が予想されているボルトに関するものだ。なんの情報も持たぬ事務員にしてみれば、駆けずり回っている営業に問い合わせてほしいとおもうのだが、その営業自体もじっさいの入荷予定がわからずにいる。
 唯一はっきりしているのは、今日の営業終了後に、入荷の予定ではなく予想を立てて、そして在庫分をどうふり分けるかということを話し合うことになっている。そしてそのために、販売先にこの先一週間の製造予定の確認に走り回っている。
 残念ながら今回のネジ不足について予見していた者はだれもおらず、日本全国が右往左往している。そしてこの商機を逃すまいと、問屋連もまたネジの取り合いに参入してきた。そうなると価格の高騰はとまらず、「価格は気にせず、量の確保を優先しろ」とどこも指令が飛んでいる。
 しかし富士商会は過去の経験をもとに、竹田の判断でその狂騒には加わらずにいる。五平もその判断を受け入れた。
「入るときははいる。足りないときはどこもたりない。下手に積み増すよりも、お客さま優先で適正価格での取引をする」と、指示をだした。
 朝鮮動乱のおりにあらゆるものを買い込んで、あやうく倒産の危機においこまれた経験を、いま活かそうとしている。「もうけられるときにもうけるべきだ」という意見もある。 服部がその先頭に立っている。客先で選ぶのではなく、利益がとれることを優先させるべきだと主張している。そしてそのための調整を、こんや最終決定することになっている。                   午後六時をすぎて、三々五々集まった。社長室に、真理恵に竹田と徳子、そして遅れて服部がはいった。
「いやあ、もう想像以上です。どこもかしこも、どう考えても必要量の五割増し、いや倍の要求です。もうすごい剣幕です。うちだけじゃなくて、過去に取引のあった業者にも連絡を入れまくっているみたいです」
 服部の状況報告に、竹田がポツリとつぶやいた。
「日本人はどうしちゃったんですかね。謙譲の美徳なんて、過去の話ですか……」
「なにばかなことを言ってるの! 競争社会だもの、あたりまえでしょ。人のいいことを言っていたら、相手にくわれちゃうわよ」
 真理恵がかみついた。お人好しの気があると五平に不満をもらしている真理恵だったが、今夜はことのほか機嫌が悪かった。普段ならばいないはずの小夜子が会社にいたため、不機嫌になってしまった。

 (四百四十八)
 
 しかも皆がバタバタと動き回っているというのに、自若泰然と専務室に閉じこもっている。そしてそれを当たり前のこととして見ている社員たちに腹をたてているのだ。
電話のひとつもとって、それこそ気に入られている課長なり部長にこびを売ってほしいわ。うちの社員たちをいじめないでくださいって。みんな頑張ってますからって。いいわ。そうやってボーッとしてなさい。みんなの目をあたしに向けさせるから
 五平がまず口を開いた。
「よその業者に依頼をかけるのは当たり前のことだ。富士商会だけで対処できる状態じゃないからな。しかしここをうまく処理できれば、大もうけできるぞ。さ、それじゃ、どう配分するかだな」
 満足そうにうなずきながら、五平がソファの背に体をゆだねた。とたんに真理恵の表情がきびしくなり、五平に詰めよった。
「ミタライさんが聞いたらなんていうでしょうね。問題はそこじゃないでしょ」と、ややヒステリックに言った。
 なんのことだ? と疑問の表情を見せる五平に、真理恵がつづけた。
「売るのはだれにでもできるわ。これだけの物不足ですもの。でも、いまの在庫分を売り切ったらどうするの。三日後にはいる? それじゃそれを売り切ったら? 価格はどうするの? 二倍? 三倍の売価? 暴利をとるということなのね。で、いつまで続けるの?」 真理恵の言わんとするところがどうにも分からない。五平に服部、そして竹田もいまいちつかみ切れていない。昨夜、父親の佐多に呼ばれて実家にもどった真理恵だった。かべに埋めこまれた書棚いっぱいに、書物がならんでいる。経済書はもちろん、精神分析関係に物理学の本。そしてまったく似つかわない推理小説まで。
 いちど聞いたことがある。「お父さま、推理小説はお好きだった? それともストレス解消のため?」。それにたいする佐多の返答は意外なものだった。
「ストレスか、そりゃあもう大変なものだよ。推理小説は、人間の心理探索のバイブルだ。精神分析とおなじだ。どうすれば人は怖がる、喜ぶ、そして畏敬の念をもってくれるか。これが意外にわかってくるんだ」
 このところしばらく、毎夜のように佐多から真理恵に声がかかる。むろん五平に否やはない。灯りの消えた家にもどるのにも、もう慣れた。かえって灯りがついていると緊張してしまう。門の前で立ち止まり、洋服のしわを伸ばしてから「ただいま!」と声を上げる。
「タクシーなり社用車なり使ったら? ミタライさんはどうなさってたの?」
 見栄が働いている。颯爽と車を横付けさせて、五平が降りてくる。それをお手伝いが「お帰りなさいませ」と出迎える。現実に、実家である佐多家ではそうしている。ならばこそ周囲から尊敬と羨望の眼差しを受けるのだ。しかし五平は、電車を使い、ときにバスで帰ってくる。タケさんほど有能じゃない。分をわきまえるべきだ=Bそう思う五平だった。
 そして昨日の夜も、現在の部品不足にたいする考え方の講義を受けるべく、実科である佐多家を訪れた真理恵だった。
「会社の大小じゃない。いやそれを考慮せねばならんことは当たり前か。それよりもだ、この現象だけをみるのではなく、そこに隠れた裏はないか、そもそもなぜこの事態になったのか。そしてこの部品不足がおきたことで、他の部署、取引先、そして産業分野にどんな影響を与えているか、いないか。多面的にしらべることだ。川下だけではなく、川上もみてみろ」    

(四百四十九)

 そしていま、佐多のことばを真理恵が咀嚼して話しはじめた。
「まず、大火事で町工場の生産が止まったわね。安価な部品のために、代替生産してくれる町工場がすくない。輸入品は政変でトラブル。これが原因よね」
 三人が頷いていることを確認してから、また話をつづけた。
「流通量が当然のことに減るわよね。でもそれ以前はどうだった? ダブついていたはずよ。そうでしょ? 竹田さん。富士商会でも在庫がたくさんあったわよね。それがどうして一気に不足? そうじゃないわ、だれかが売りおしみをしてるの。またはどこかのメーカー、なり問屋が買いだめしたのよ。価格アップを狙ってね」
 当たり前のことを話している、と皆が思いだした。
「でもね、企業心理をついたうまい方法よ。現実に部品不足はおきてるし。解決するには、とにかく供給することよ。溜めこまないで、すべて吐きだすの。富士商会はいっさい売り惜しみをしてません、と宣言するの。荷がはいった段階で、外で開けるのよ。お客さんに来てもらってもいいわね。
 そしてね、これが大事なことだけど、正確な入荷日をつかむの。いついつの何時に港に船がはいり、税関をとおって運送会社にはこの時間です。そして富士商会には、何時何分に着きます。そこまで知らせるの。信用度をあげるのよ。それからもうひとつ、暴利はだめ。あとあと恨まれるわ。原価に適正利潤をのせて売ること」
 もうここまでくると、真理恵の独壇場だった。だれも異論をはさまない。「もうけられるだけ、売価をあげなさい!」。前日まで金切り声をあげていたはずだ。それがひと晩でひっくり返ってしまった。おやじさんだな、入れ知恵したのは=Bだれもがそう思った。しかしそれを口にする者は、だれもいない。
「いままでは、富士商会のことね。お客さんの立場で考えると、たとえば毎日届くとすれば、一定量でいいわけ。余分にほしがるのは、明日は入らないんじゃないかという恐怖感があるからでしょ。ラインが止まることなど、けっしてゆるされることではないわ。逆にいえばその恐怖感をとり除いてあげれば、通常にもどるの。そのためには、富士商会に部品がキチンとはいってこなくちゃいけないわね。ではどうするか? 富士商会だってやみくもに仕入れる必要はないのよ」
 まるで生徒と教師だった。絶対の信頼をよせている教師のことばには、迷うことなく従うものだ。いままさに、その関係におちいっていた。
「実需ってわかる? ほんとの需要よね。じゃ仮需は? そう、恐怖感からうまれた、膨れ上がった需要。きっとあふれだすわ。あとひと月、ふた月? 日本の町工場をなめないで。きっと徹夜してでも生産してるわよ。売れるんだもん、作ればつくるほど。国の政変もおちつくわよ。みんな食べていかなきゃいけないもの。ここでもうひとつ大事なことがあるの」  
(四百五十)

 熱弁をふるった真理恵が、喉をうるおすためにコーヒーを口にした。それにつられて、三人もそれぞれの飲料を口にした。コーヒーになじめぬ五平はお茶をすすり、服部と竹田はコーヒーを飲み、徳江だけはなにも口にしなかった。なにかおかしい。真理恵の持論ではないかも、そう勘ぐっていた。父親ね、佐多支店長の入れ知恵ね≠ニ、確信した。
 しかしそんなことにはお構いなしに、真理恵のトーンがあがっていく。
「それは実需をつかむこと、きっとどの企業も言わないはずよ。そこでデータを引っ張りだして。過去一年間の購入量を確認して。そのデータを元に、富士商会が持つ在庫数、そして入荷できる量から、納入数量をはじきだして。それ以上にほしがる企業には、よそから仕入れてもらいましょう」
 思わず拍手がおきた。服部と竹田が、大きくうなずきながら
 「これなら平等だ。多少の不平不満はでても、押し切れる。富士商会はえこひいきしない会社だとおもってもらえる」と、服部が万歳をしかねない勢いではなした。
「まだよ、まだあるの。他の部品についても調べてみて。不足気味になっているものはないか、価格がつり上がっているものはないか。一点に生産が集中すると、かならずどこかにしわ寄せがでるはず。その部品をいち早くさがしだして、在庫を積みますの。そしてそれについては、販売時点での原価にたいして適正利潤を上乗せするのよ。これならたとえ余剰益がでても、だれも暴利だとはいわないはずよ。取引先のメーカーだけじゃだめよ。川上の部品メーカーも調べるのよ。自分の関係している取引先では浸かっていなとか、そんな言い訳はダメ。富士商会全体で考えてちょうだい。未来の自分の取引先だとおもって、真剣にね。あたしの好きなことばがあるの。
『ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために』。このことばを、肝に銘じなさい。それじゃすぐにとりかかって。しばらくは日曜返上よ」
 久しぶりのことだった。所帯が膨れあがるにつれ、おれはおれ、あいつはあいつ、そんな風潮がでていた。武蔵の死後、組織経営という名のもとに、社員間の団結心がうすれていた。これこそが、小夜子が感じていた違和感だった。家族経営にこだわる小夜子の、強いねがいだった。皮肉なことに、小さな部品にすぎないネジが巻き起こしたことが、真理恵をして――じっさいは佐多だったとしても――為すことになった。そして一気に真理恵にたいする信頼感が醸成され、徳子の存在感がうすれた。