(四百五十一)
竹田が言った。「忘れてたよ、社長のことばを」。 なにごとかと竹田に視線があつまり、つぎのことばを待った。
「情報はいのちだ。きょうの飯じゃなくても、あすのステーキに変わる」
「ものごとは一面だけで決めつけるな。多面的にかんがえろ」
徳子がつづいた。
「人はいち面だけで判断するな。目鼻立ちが気にいらなかったら、口をみろ。歯をみろ、笑顔をみろ」
つづけて服部が言う。
「酒を呑んでるときは、となりのお兄ちゃんやおっさんの話をきけ。おもしろい話がきけるかもしれん」
最後に五平だ。
「おれも思いだしたぞ。一日中、商いのことをかんがえろ。おれは便所でもかんがえるぞ。ああ、ちがうか。小夜子とのなにのときは、小夜子だけだったわ」
そして四人がいっせいに叫んだ。
「誰しもひとつは強みを持っている」
四人が四人、豪快にそしてうれしそうに笑う武蔵のことが思いだされた。そして武蔵と同じ視点を持つ真理恵――ではなく、佐多――に、姫は勝ち目がないと感じた。そのなかで、徳子だけがこの女に姫が負けたわけじゃない。父親の佐多支店長にかなわないだけだ≠ニ、悔しさが我がことのようにわいてきた。
休日出勤の命をうけた社員たちが、不満げな表情を見せて集まった。グチを言いあう社員にたいして、それぞれが部署にわかれて説明した。真理恵のことばをそのままにつたえ、そしてさいごに
「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」と締めた。
その日以降、徳子と真理恵のみぞが深まり、徳子が去ることになった。というよりは、そう仕向けられた。総務課を総務部に格上げし、会計課を新設した。総務部長に真理恵がつき、徳子は総務課長のままとした。さらには会計事務所から、会計士の卵――国家試験受験前の人物――をあらたに入社させ、資格取得後には係長の職位を与えるという条件で引き抜いた。そして会計処理がまかされ、徳子の権限が大幅に縮小された。
これでは徳子の立つ瀬がない。もう用なしよ、と宣言されたにひとしい。辞表を持って社長にのりこんだ徳子だったが、五平と真理恵の間では徳子の退職は既定路線となっており、形だけの慰留にとどまった。そして事務引き継ぎのために、今月いっぱいでの辞職ということになった。
惜しむ声があがりはしたが、積極的に引き留めようとする者はいなかった。もうすでにほとんどの社員が、真理恵に――否、佐多に取りこまれていた。竹田ですらも、もう徳子ひとりでは富士商会の会計を任せられないと思っていた。ただひとり、小夜子だけが徳子のおもいをおもんばかった。
徳子の退社は、あるいみ情と理の闘いでもあった。一時的に情で業績アップをはかれたとしても、けっきょくは理が勝ってしまう。企業経営のなんたるかを学問的に教えられた真理恵であり、佐多という活きた辞書をもった真理恵だった。
他方、ただただ新しい女という漠然とした理念にとらわれただけの、小夜子だった。情にどっぷりと浸かっていた小夜子であり、勘と経験に裏打ちされた武蔵をかたわらで見ているだけでは、そのうらにある苦悩を知る由もない。早すぎる武蔵の死により、学ぶ場すらあたえられなかった。勝負の決着は、闘いがはじまる前からついていた。
徳子の去った富士商会は、小夜子にとっては北風の吹く場となってしまった。取引先からの見学依頼もひと段落がつき――というよりは、社長職をおりた小夜子では利用価値もなく、さらには今回の部品不足においてなんの恩恵も得られなかったことが、過去の人ととらえられる一因となった。
(四百五十二)
週に二日の出社もいつの間にか一日に減り、幼稚園に通いはじめた武士がぜんそくという病魔に冒されたことと相まって、ついには小夜子もまた退社というふた文字があたまに浮かびはじめた。医師から「実家のあるいなかに戻られて、武士くんを楽にしては」と、へき地療養をすすめられたことも、大きな一因となった。
東京を離れ、実家にもどる。考えはしていたが、まだまだ先の話という思いがあった。しかし毎日をつらそうに送る武士を見るにつけ、そしてまた徳子がいなくなるという現実が目の前にせまっていることから、小夜子のなかにはじめて弱気の虫がうまれた。
田舎にもどってしまえば、ふたたびこの地にもどれるという保証はない。田舎での入学となれば、学力の差が如実にあらわれる。勉学をとるか、健康をとるか。しかし小夜子のなかに、迷いはなかった。
「健全な肉体に、健全な精神が宿る」。武蔵の口ぐせ、いや人生観といっていい。
「武士には、おれのような病弱さはいらん。とにかく強い子に育て上げてくれ」
しかしその武蔵は、幼い武士をのこして夭折した。父親を知らぬ武士も哀れだが、口ぐせのように言っていた「帝王学をたたきこむぞ」、と意気込ごんでいた武蔵もまた哀れだ。そしてその、念願の後継者問題にしても難関が待ちうけている。
最近の真理恵の奮闘ぶりをみていると、その能力をうたがう余地はない。うしろに佐多が控えているとはいえ、真理恵自身の精進もすばらしい。そのことはだれもが認めざるをえない。見誤っていた。真理恵こそが、真の新しい女なのではないか。
本人にその意識はないけれども、小夜子にはそう思えてならない。しっかりと裏打ちされた理論をもち、毎日を、真理恵の場合には経営について、講師である父親から受けている。
さらには、いま田舎にもどったとして歓迎されるかどうか。あしなが基金は名目上のこってはいるものの、ほとんどが利用されていない。繁蔵からの手紙では、その基金のなかから村での行事への寄付金として使用している、とあった。そしてそのおかげで、茂作も大事にされているとある。
小夜子の知らぬ事ことはあったが、GHQの解体後は富士商会の力が弱りはしたものの、各役所内にシンパをかかえる状況となり、それなりの影響力はもっている。そしてそれを活用して、優位な便宜をとりつけるだけの力はもっていた。
小夜子の、退社という意思が伝えられた。さすがにその事態だけは避けるべく、五平を筆頭に服部・竹田らが引き留めにかかった。しかし小夜子の意思はかたく、「武士のためなの」と医師がすすめる療養なのだと告げた。
問題は千勢の処遇だった。当然ながら小夜子としては、ともに田舎へ引っ込んでほしい。いまでは家族も同然の千勢とはなれるなど、とうていのことに考えられない。そのことを伝えられたおりには、おいおいと千勢が号泣した。
(四百五十三)
千勢もまた小夜子を姉とおもい、武士を甥とみていた。ときに我が子と錯覚をしたこともある千勢だった。もともとが田舎出の千勢のこと、田舎暮らしに不安を感じることはまるでない。しかし千勢には、ひとつのこころ残り、いや夢とでもいうか。無謀だということはわかっている。母親の反対があることも知っているし、なにより……。
竹田が千勢を嫁の対象として、いやそうではなく、ひとりの女としてみてくれることなど天変地異がひっくり返ってもありえないことは、重重に分かっている。それでも、この地を離れたくはなかった。東京の同じ地で、同じ空気を吸っていたいと願う千勢だった。
「千勢はこの地にのこります。どこかよそのお宅で働きます」と、きっぱりと返答した。物言いのはっきりしている千勢のことだ、いちど決めたことをくつがえすことはない。
当然のごとくに真理恵は小躍りせんばかりであり、佐多もまた色濃くのこる武蔵の残影との闘いの終了をよろこんだ。しかし五平のつよい慰留の意思はかたく、真理恵がどれほどにことの理を説いても首を縦にふることはなかった。
武蔵ののこした風土が日に日に薄れていくなか、小夜子までもが富士商会を離れるとあっては、それはもう五平が知る、武蔵と五平が立ち上げ育てた富士商会ではなくなってしまう。それだけはいかなることがあっても、阻止しなければと決心する五平だった。
その思いは竹田もつよく、小夜子がいなくなるのであれば、自分自身もまた富士商会に別れを告げようとさえ思いつめた。竹田ほどではないにしろ、服部もまた小夜子のいない富士商会は荒涼たる砂漠のように感じられる。一輪の花にこころを癒やされるがごとくに、小夜子はやはり富士商会にとっての「お姫さま」だった。
部の行動ははやく、全社員たちの嘆願書をつくりあげ、五平の元に三日後にはとどけた。
その嘆願書をみせられた小夜子は、おのれがいかに愛されているかを知り、またかつての七人の女たちを思いだし、名前だけは残すことに決めた。そこで五平ら三人の協議の結果、月に一度でも出社できぬかと持ちかけ、嘱託としての席を残すことが決まった。
社員全員の嘆願書をみせられては真理恵としても矛を収めざるをえず、役員会そして株主総会での承認となり、正式に小夜子の在籍が決まった。
小夜子の知らぬことではあったけれども、富士商会の株式の五十一%は小夜子名義となっている。ゆえに、富士商会のオーナーは御手洗小夜子であり、当人が議決をしないかぎり退職などということはありえないことだった。「やっぱりあの株の配分は正しかった」。五平の偽らざる心境だった。
(四百五十四)
五平たちは武士の富士商会への入社をこころ待ちにしている。とくに五平と竹田は、成人式をすませてぶじ大学を出て、そして平社員という立場からのスタートをこころ待ちにしている。そしてゆくゆくは幹部となり、五平の跡を継いで社長となるのだ。
服部もまたそうあってほしいと願ってははいるが、それはあくまで本人の精進次第だと思っている。ぼんくらの遊び人ではこまる、それでは後継者たりえない、と公言している。むろんそうなるように、指導をおこたらずサポートもしていきたいとは思っている。
「武蔵の血をひく武士ぼっちゃんのことだ。大酒飲みで豪快で、人情味あふれる社長になってくれると信じているとも、吹聴している。 ゆいいつ不安があるとすれば、小夜子だ。溺愛のすえに、病弱で学業に専念せず、ただ怠惰な生活をおくりはしないか、それが心配なのだ。生き馬の目を抜くこの地ではなく、のんびりとして茫洋とした田舎ですごすことにより、凡庸な人物になってしまうのでは、と危惧するのだ。
最近、ひとつの噂が社内で飛びかっている。土曜の夜に銀座のレストランでふたりのところを見かけた、という具体性のある話が流れている。または、同じく土曜の夜に、ふたりづれで映画鑑賞をしていた、等々、チラホラ聞かれる。その相手が真理恵ではないかと、ささやかれている。そしてそれを服部も否定していない。「勉強だよ、経営の」。その言い訳から、次期社長を狙っているといったことも流布し、さすがにそれに対しては「武士坊ちゃんを支えるためだ」と強弁する始末になった。
「取りこまれるなよ」。五平が服部に忠告することばだ。すでに仮面夫婦であることは、社内で知れ渡っており、五平も真理恵も否定していない。しかし「会社のために離婚はしない」という共通項だけは、互いに持っている。
五平は、安定した会社としての富士商会を武士に手渡す。真理恵は、せめて二部上場会社に育て上げたい。たがいに、最終着地点の多少のずれはあるにせよ、会社を守るためなら、現状維持でと考えているのだ。
直情型の服部、熱しやすく冷めやすい服部、生涯の伴侶にめぐりあえればそれに超したことはないのだが、いまのところ武蔵とおなじ道を歩いている。キャバレーのホステスたちと浮き名をながし、いっぱしのプレイボーイとしてならしている。ただ、武蔵がそうであったように、ひとつの店での遊びはひとりだけを心がけている。 万が一にふたりめが現れたとしたら、かならずキチンとした誠意を見せて円満な状態を保つことにしている。もっとも、いまのところはその事態にはおちいっていない。武蔵にとっての梅子という存在はつくらず、浅く広くと遊び歩いている。服部もまた武蔵と同じく、というよりは武蔵に感化されて、男のエゴを貫きとおしている。そして服部にとっての小夜子が現れたならば、そこでスッパリと女遊びからの卒業を思い描いている。
(四百五十五)
そして悠然型の竹田、女性に関してはまったく噂がでない。仕事ひと筋で、ただただ「武士を富士商会の社長に」がライフワークのごときかのように、日々を送っている。
竹田の毎日は自宅と会社の往復だけで、けっして寄り道をしようとはしない。例外中の例外といえば、ひと月に一度の飲み会に、三度に一度出るくらいのものだ。そのときでもホステスたちとの会話はほとんどなく、ただ静かにひとりで飲んでいる。嬌声があがりっぱなしの服部の席とはちがい、ひっそりとしている。その竹田の席にひとりの新入りがついた。
九州からでてきた十九歳の娘で、この店に来る前には小さなバーでアルバイトをしていたという。三年前に実家のいもうとが大病をし、多額の手術費用がかかるということから、昼は事務員で夜にバーとの掛け持ち状態になった。一年ほどで体調をくずし、けっきょく梅子の誘いでこの店にはいった。
まだ場になれぬ娘ゆえに、しずかな竹田のもとに行かせた。服部の陽気さで、はやく一人前のホステスにと考えないでもなかったが、妹の手術費用が片づけば、また昼の仕事にもどりたいという本人の意向にそって、おとなしめのあくまでヘルプとして扱うこととした。
もの言わぬまま、一時間でも二時間でもすごすふたりに、「まるで恋人だわねえ」と揶揄する先輩ホステスたちだが、竹田の心情をしる梅子から「からかうんじゃない!」と一喝された。それを契機にすこしずつの会話がはじまり、梅子の「妹おもいの子なんだよ」と事情を説明され、いっきに仲が進展した。といって男女関係や、恋愛云々ということではなく、勝子との想い出にひたることができる唯一の場となった。
自宅ではカネが勝子との想い出話を拒否するため、ひと言でも勝子という名前や姉さんということばをだすと、とたんに不機嫌になってしまう。小夜子ということばですら、勝子を思いだすためか禁句になってしまっていた。そんな竹田が富士商会の飲み会にもひんぱんに通うようになり、事情を知らぬ服部は、「竹田も女に目ざめたか、けっこうけっこう」と大はしゃぎする。
「もうちょっと派手な女にしないか? ああ、待てまて。社長が言ってたわ。人も多面的に見ろってな」と、勝手な解釈をつけた。
そんな服部のからかいにもただニヤニヤと笑うだけで相手にしなかった。どんなに同席しろとさそっても「きみの席はうるさいし、ぼくがいたら辛気くさくなるだろう」と、座わらない。そこはそれ、部下たちも竹田の性分を知り尽くしている。「まあまあ。そっとしときましょう」と、とりなしている。
勝子との想い出に浸りたいときには、単身で通うようにもなった。しかしこのひと月、竹田はあらわれない。仕事が忙しいわけではなく、いや繁忙な日にこそ「きょうは疲れたよ」とやってきていた。 たがいに肩を寄せ合うだけの時間、一時間そして二時間と、大した会話を交わすでもなく過ごしていく。そして蛍の光が流れると、またの約束をして竹田が帰る。
前回おとずれたとき、女の雰囲気が変わっていることにきづいた。妹の借金が消え昼の世界にもどれるはずなのだが、すこしのぜいたくから華美な世界へとうつってしまった。先輩ホステスからのアドバイスを受けてのことか、思いもかけぬ誘いを受けた。
「こんや、店がおわったら食事につれていってください」
濃いめのアイラインに、強めのほほ、そして真っ赤な口紅を見せつけられたとき、勝子との想い出をけがされた気がして席をたった。そして石部金吉の、竹田にもどった。
(四百五十六)
「社内に広告塔は不要よ。そんなものは、社外に求めればいいんだわ。その都度に必要なファクトをもった人材なりを、社外から調達すればいい。こちらの求めるイメージが変われば、そこで変えることができるでしょ? いえ、かえなきゃいけないの」
真理恵が持論として持ちだした。案に小夜子の存在を否定している。
「真に必要なのは、スター社員ではなく、そこそこに稼いでくれる複数の社員たちなの。もしもスター社員がこけたとき、その穴埋めはだれがする? またあたらしいスター社員を作るの? それとも外部から引っ張ってくる? そんな効率の悪い経営はだめよ」
そしていま、武蔵という天才プレーヤーを否定した。
「どう? これまでの富士商会は超スター社長のおかげで成り立っていたわね。つい最近では、お姫さまなる女性が引っ張っていたわね。彼女がお年を召されて容貌が落ちたら? 過去の栄光にすがってお情け営業をつづける? それよりも、たくさんは売れないけれども、そこそこに売ることができる社員を複数かかえたほうがいいと思わない?
ひとりが抜けても、みんなが少しずつがんばればそれをカバーできるように。製造業で考えればよく分かると思うわ。あたまの中でイメージしてみて。これがね、組織経営のひとつの根本だと思うわ。『ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために』なのよ」
ラグビーというスポーツ内で使われている一文を、真理恵なりの解釈でもって会社経営に当てはめた。
真理恵の話は、理路整然としている。たとえ話もはいって、ここちよく耳にひびき、こころにも染みこんでくる。ただ、組織経営が行きすぎて、これ以上のアメリカナイズはまずい。力のある者が富をかっさらう――行きすぎた資本主義は、この日本という国には合わない、根付かない、いや根づかせてはならない、と竹田は考えた。
佐多は、世界をひとつの商圏として捉えなければならん、と力説する。日本国内だけを相手にしていては、これ以上の成長はないと断じた。逆に衰退し、さいあく倒産という事態もありうると、悲観的なみかたをしめした。それはあまりに悲観的だとはおもいつつも、人員整理などの憂き目はありうるかも、と佐多のことばを聞かされると思ってしまう。
ともに聞いていた五平は、「オーバーだよ、佐多さんは」と意に介していない。しかしその楽天的な考え方が、真理恵を通した佐多のによる富士商会の支配につながっていくのではないかと、危機感をおぼえる竹田だった。
取引関係のない会社への多額の出金があり、それが真理恵の指示だときかされたとき、いよいよ富士商会の経営権が奪われていくぞ、と思った。こうなると、やはり小夜子にはがんばってもらいたい。月に一度でいいから出社をしていただき、とくに出金関係のチェックを図ってもらわねば、と思った。
(四百五十七)
しかしそんな竹田の危機意識は他の社員たちには伝わらず、どころか真理恵の経営方針に賛意をしめす者がふえてきた。福利厚生の充実により、正確な残業手当の支給に有給休暇の徹底、そして営業にたいしては残業手当が外されたものの営業手当が支給されることになり、服部を筆頭にもろてをあげての賛同となった。
そしていよいよ、小夜子の帰省がきまった。春先のあたたかい日がいいだろうと、3月の中旬ないしはおそくとも下旬までにとなった。事ここに至っては小夜子のなかに感傷はなくなり、ただただ、千勢との別れがつらかった。
そして武蔵との愛の巣の売却についても、五平が責任をもって行うこととなり、家財道具いっさいは悩みになやんだ末に、すべて売却することになった。これについてはアーシアに出会わせてくれたあの百貨店において、中古品販売部に売却することが決まった。
自宅でのこと、その毎日がなくなるのかと思うと、ここで感傷的になった。平日の朝9時、閑静な住宅街にある自宅を出る。日々の暮らしは、もうはじまっている。学童たちのげんきな声は、もう聞こえない。おはようございますと声をかけあう人々にあふれ、「あらごめんなさい」と、声をかけあいながら、ほこりっぽい道路に水をまいている。
「小夜子おくさま、おはようございます。これからご出勤ですか?」
ななめ向かいの佐藤家のよめである道子が声をかけてくる。
「おはようございます」と返事をし、かるく会釈する。するととなりの家からあわてて、大西家の姑であるサトが出てくる。
「もうこんな時間ですか、行ってらっしゃいませ」
わざわざ外に出てこなくとも、と小夜子は思うのだが、女性たちは必ず声をかける。
小夜子にあいさつをするが、じつは小夜子ではない。御手洗家にたいしての、最大限のあいさつなのだ。平屋建ての多いこの一角では、敷地200坪で建坪70の2階建ては御手洗家のみだ。他に見わたせば、偶然にもすこしはなれた通りちがいに、正三の叔父である権藤家があるだけだ。
そして町内会にたいして役員や行事参加ができないからと、多額の会費を拠出するのも御手洗家だけだ。その羽振りのよさは武蔵であって、小夜子ではない。しかもその主である武蔵は死亡した。ゆえにこれからも多額の会費を拠出するとはかぎらない。しかしそれでも、「おくさま」と呼びかけられる。
角の電柱を曲がってすこし行くと、商店街の入り口がある。大きくはないがそれなりに店が集まっている。間口3間ほどのみせが、ひしめきあっている。まずは角のたばこ屋。ここでいつも武蔵が車を止めて、ラッキーストライク2箱を買っていく。この銘柄は武蔵以外に買うものはいない。なので店先のケースには並んでいない。
武蔵の顔を見るとすぐに、奥の棚から大事そうに出してくる。そして笑顔で「いつもありがとう」と、ばあさんが笑う。「あんたの顔を見ないと、いち日がはじまらんよ」と、タバコを受けとる。
「おつりはサービス料だ」と、すこし多めにおいていく。大のお得意様だ。
武蔵との散歩のおりに二、三度立ち寄ったことがあり、面識はある。そしてなんどか笑顔とともに声をかけられたことも。しかしきょうは目があったおりに、かるい会釈だけだった。しばらく顔を見せていないことで、忘れられた? と思いつつも、道すがらの人たちと同じあいさつなであるが、小夜子にはうれしかった。とってつけたような、媚びられているような挨拶には辟易する。
(四百五十八)
感傷的になるかと思っていた小夜子だったが、意外にもサバサバとした気持ちになった。空はあいにくの曇り空なのに、ウキウキとした気分でビルを出た。全員がお見送りをしたいと申し出たが、五平と竹田のふたりが通りで見送った。
最敬礼をするふたりに「やめてよ、そんな大げさなことを」と言いつつも、感慨ぶかいものがあった。はじめて会社におとずれたとき、水たまりがあるからと、武蔵にお姫さま抱っこで車からおろされた。大きな歓声と冷やかしの声、また近隣ビルの窓から、なにごとかと覗かれたこともなつかしい。なにからなにまで、なつかしい想い出だ。
帰りの車をことわり、ひとり日本橋界隈をねりあるくことにした。そういえば通りをあるいた記憶がない。いつも契約タクシーで会社前まで乗りつけた。竹田の送迎もあったわね、と思いだす。大層なご身分だったのね、あたしも=B今さらながらおのれの境遇に思いをはせた。
等間隔にある街灯も車中から漫然とながめるだけで、印象がうすかった。大正ロマンの香りをただよわせるそれは、やはり小夜子にはなんの感慨もない。むしろ石畳のほうがなつかしい。カッカッと切れの良い音をひびかせながらの、婦人たちのロングスカートがまぶしかった時代を思いだす。
武蔵と出会ったキャバレーでのタバコ売り、大人たちの視線がいたかった。それでも生活の糧のためと、ビッグバンドによる演奏にひかれて辞めることはなかった。
ビル街の1階にハイカラな洋品店が立ちならび、ウィンドウのなかには最新ファッションが並んでいる。しかしふしぎなもので、以前ならばくい入るように見ていたそれらが、いまはなんの関心もない。すこし離れた洋菓子店でも、陳列ケースを一瞥するだけだ。店員から「いかがですか?」と声をかけられても、大好きなアイスクリームを見つけても、まるで食指が動かない。
いつも武蔵がとなりにいたからこその、最新モードでありケーキであり、そしてアイスクリームだった。いまはそれらすべてが色あせてしまった。
通りをはさんだ向こう側には、行き交う車のあいだから宝飾店がみえた。有名ブランドのロゴが飛びこんでくる。しかしそれとていまの小夜子には、単なる文字、記号にしかみえない。
どうしてあんなに欲しかったんだろう
最新モードにみをつつみ、ネックレスに腕輪、そして指輪とかざりたてても、みせる相手のいない小夜子だ。おのれの虚栄心におどろく小夜子だ。村でくすんでいた女学生時代、やはり着飾りたい気持ちがつよかった。
誰にみせるでもない、いや、そうではない。同級生だけでなく、全校生徒にみせつけたい。他校の男子学生たちに見てほしい。そしてなにより、茂作にみてほしい。
あたしはこんなにキレイなの
いまは、武士だけに見てほしい。着飾ることのないすすけた小夜子であっても、素の自分をみてほしい。
(四百五十九)
しかしふと不安になった。武蔵のいない今、だれが「奥さま」と呼んでくれるだろう。「ミタライさん」と呼ばれるのだろうか。御手洗家の主ではあるけれども、武蔵はいないけれども、それでもやはり「奥さん」と呼ばれたい。御手洗家の主は、やっぱり武蔵であってほしいと願う小夜子だった。
「パッ、パッ、パアー!」。けたたましいクラクションが鳴った。
「バカヤロー!」。だれ? だれへの叫び声なの? 大勢が立ち止まっている交差点、赤になっていることに気づかなかった。
「ごめんなさい」と、頭をさげる小夜子に「気をつけろ、この有閑マダムが!」と、捨てゼリフをのこして、商用車が行く。
やめて、そのことばは。小夜子のもっとも忌み嫌う、有閑マダム。新しい女の対極ともいえる、蔑称ととらえている小夜子。夫の地位そして財力に、安穏としている種族。首に数本のネックレスをかけ、翡翠の腕輪をし、そして指にも複数の指輪をつけている。頭にはこれみよがしに、飾り物をつけていめる。
しゃなりしゃなりと歩く、有閑マダム。服は派手な色のワンピース、そしてそのおりおりの羽織り物。靴はビカビカに光るエナメル調。そしてときに、長いキセルで煙りをくゆらせる。小夜子のもっとも忌み嫌う種族、有閑マダムだった。
全身を百貨店のショーウィンドウに映した。そこにいたのは、有閑マダムの小夜子だった。目元にアイラインを引き、まつ毛にマスカラをたっぷりつけて。真っ赤な口紅を塗りたくった、唇の小夜子がいた。
男たちが指笛を吹きならすなかを、しゃなりしゃなりと歩く小夜子が、そこにいた。そこには、小夜子社長でもなく、もちろん小夜子奥さまでもない女が、艶女がいた。「こんなのあたしじゃない!」。思わず口走ってしまった。まだ二十代の小夜子が、みそじをこえての四十代の女がそこにいた。
「サヨコシャチョー」、「サヨコオクサマ」。道行く人が、あわれみの色を見せて呼びかけている気がした。違う、ちがう。あたしは、ただの小夜子なの=B思わず耳をふさいだ。
「どうしました、大丈夫ですか」。ふりむくと、女学生の小夜子がいた。そしてもう一度ショーウィンドウに映る己を見たとき、清楚な小夜子がいた。
「ご自宅前までうかがいます」。契約タクシーの運転手がいう。けれども小夜子は商店街を抜け、左に折れてすこし行ったところにある公園入り口近くに車を待たせている。五平の「なにかあったら困ります」との忠告にも耳を貸さない。車に乗るまでの、この十分ほどで、小夜子は戦闘態勢をととのえていた。
しかしもう、明日からはその必要がない。明日からは、元の小夜子にもどるのだ。元の小夜子? 武蔵がいない今の小夜子? おそらくは社長職についてからの小夜子は、イヤな女だったろうとおのれ自身が感じた。いつもピリピリとしていて、険のある表情だったろうとかんがえた。他人の笑顔を責めるまえにおのれを鏡に映さねばならなかったかもしれない、とも。
ひょっとして武士にもこんな顔をみせていたのか、千勢に八つ当たりはしていなかったろうか。ごめんなさいね、千勢=Bこころのなかで呟きながらも、声にはしなかった。あたしはご主人さまなの、まだその思いが消えずにいた。
しかしもう大丈夫。これからは愛情たっぷりの笑顔を武士に与えられる。千勢にはすなおに、「ごくろうさま」、「ありがとうね」と言える。もう押しつぶされそうな重圧感もなく、見知らぬ相手に愛想笑いをふりまく必要もない。素の自分にもどれることがどれほどに幸せなことか、思い知る小夜子だった。そして空の上で武士と小夜子を見守ってくれているであろう武蔵に、問いかけた。
「タケゾーは、あたしのまえでは素でいられたの?」
(四百六十)
ひさしぶりに今日は、武士をベビーカーに乗せての買い物にでかけた。千勢の表情もこころなしか晴ればれとしている。空を見あげれば快晴だ。北の方角に、ひとつさびしげに雲が浮かんでいる。
「ねえねえ、千勢。ひょっとして武蔵、あの雲の上にいるかもよ?孫悟空みたいに寝ころがってるかしら? それともあたしたちを見てる?」
「そりゃもちろん。小っちゃな穴をあけて、のぞいて見えますよ」
千勢がうれしそうに答える。
「障子にあけるあな? 風神・雷神さまがおこるわよ、きっと。穴に足のゆびがはさまったらどうする! って」
とつぜんに武士が雲を指さして、「ダー、ダー!」と声をあげた。
「あらあら。武士にはお父さんが見えるのね。良かったわねえ」
なごやかな空気をただよわせながら、ちっぽけではあるが幸福感にひたる小夜子だった。
商店街にはいると、この雑踏のなかをあるくと、よりそれを感じる。
「おくさん、おくさん」と声をかけられ、武士と千勢とを連れだっての買い物は心地いい。
「このおさかな、煮付けにどう?」。「この刺身がねえ……」。魚屋のおかみさんが声をかけてくれる。
「白菜がね……」。「京ネギっておいしいよ」。 こんどは八百屋で、二代目のお兄さんの声がする。
「新鮮なひき肉だよお!」。「こっちは、ステーキ用だよ!」。最後に、いつもの肉屋で大将が声を張り上げている。
「あしたは、なにをおとどけしましょうか?」。酒屋の御用聞きから声をかけられる。もういまは、日本酒もウィスキーも届けてもらうことはない。「お醤油とお酢に、それからお味噌も……」。千勢が答える。そして「まいど!」と返してもらう。そんな中を歩きながら、きょう一日が終わっていく。
梅子にグチを聞いてもらうために出かけたキャバレーにも、出かけなくなった。電話をかけて声を聞くだけになってしまった。武士の近況を知らせるだけになってしまった。そうだった。その前にかならず、ランプ亭に寄ってビーフステーキとアイスクリームを食していた。それもなくなった。
武蔵の死以来、百貨店を訪れることもなくなった。相変わらず、季節の挨拶のハガキやらセールのお知らせが届く。あれほどに楽しみにしていたものが、すべて色あせて見えてしまう。アナスターしぁに出会わせてくれた百貨店だというのに、勝子とともにキャッキャッと歩き回った百貨店だというのに、いまはただのびっくり箱になってしまった。
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