(四十一)
ざわついていた着替え室が、とつぜんに静まり返った。
「Good morning!(おはよう!)」
「Hi,Anastasia!(アナスターシア!)」
マッケンジーが満面の笑みをたたえて、駆け寄った。一斉に全員の視線がアナスターシアに向けられた。
「OK、OK!」
見るみるマッケンジーに生気が戻り、パンパンと手をたたいて皆を急かした。
「みなさま、大変お待たせいたしました。本日の主役のご登場です。世界の希望、世界の夢、アナスターシア嬢です」
一段と大きな拍手がわきおこり、今かいまかとその登場を待ちわびた。灯りが落とされ、ライトが一点を照らす。そしてその中に、アナスターシアが立っていた。そして会場が静まりかえり、なんとも言いがたい雰囲気に包まれた。あのポスターにあったドレスを着ての登場だった。大きく開いた胸元から、透き通るような白い肌を惜しげもなく見せていた。
観客はもちろん舞台袖のモデルたちが息苦しさを感じるなか、ゆっくりとアナスターシアがランウエイを歩いた。ときにピンと伸ばされた手の指が、手首から外に向け広げられた指が、愛らしく動かされる。ときに肩をすくめて、首をかしげながら唇をとがらせる。
その一挙手一投足に、会場中が目をうばわれた。ピンクチェリーと呼ぶに相応しい唇、凛とした鼻、深くいまにも吸い込まれそうな青い瞳、そして光り輝くブロンドの髪。どれひとつをとっても、非の打ち所がない。ステージの袖から、小夜子もまた見とれていた。
うっとりと見上げる、紳士淑女連。だれもがアナスターシアの姿に、圧倒されている。この一点のドレス姿だけで、このショーの成功があった。アナスターシアだけで、感銘を受けた。ランウエイの先端で、クルリとターンをし、ゆっくりと戻っていく。そこでやっと、呪縛から逃れられたかのように、万雷の拍手がわきおこった。アナスターシアの姿がステージから消えても、止むことなく拍手がつづいた。
改めてアナスターシアが登場したとき、着物姿で現れたアナスターシアに、大きなため息が洩れた。
「花魁みたい……」。あちこちで声がもれて、そして鳴り止まぬ拍手が、会場中にひびいた。
「Khorosho!(ハラショー!)」
マッケンジーがアナスターシアに飛びついた。感極まって、キスの嵐をふり注ぐ。ラストシーンに向けて、小夜子をのぞく全員がステージに出た。
「Congratulations!(おめでとうございます!)」と、前田が百貨店の坂田が握手を求める。モデルたちの拍手のなか、アナスターシアが小夜子に近づいてきた。
「What pretty!Will you becomemy younger sister?」と、抱きついてきた。その光景に、マッケンジーが肩をすくめる。そして、いきなりの抱擁にとまどう小夜子だった。アナスターシアのことばの意味が分からず、ことばを返せない。
「あ、あの……」
(四十二)
「アナスターシアがね、あなたのことを『とっても可愛い!!』と言ってるの。『妹にしたい、家族になりたい』って、言ってくれてるのよ」
前田が小夜子の耳にそっと告げた。
羨ましい子ね。世界的なモデルのアナスターシアに、ここまで褒められるとは。ほんと運の良い子だわ
「ほ、ほんとですか? 嬉しい! こんなステキな女性に、そんな風に言ってもらえるなんて」
小躍りしたい思いを抑えて、なんどもアナスターシアの祝福を受けた。なんども抱きついてくる欧米式の行動に、小夜子のとまどいは膨れ上がるばかりだった。前田に助けをもとめても、肩をすぼめるだけだった。
「さあ、さあ。皆さん、大急ぎで着替えてくださあい。このあと、打ち上げ会をやりまーす。当百貨店で二次会まで用意しています。ぜひ、ご参加くださあい」
「うわあ、太っ腹! さすが、坂田さーん」
モデルたちに歓声が上がり、バタバタと着替えをはじめた。
「小夜子さん、あなたも参加してね。アナスターシアも、参加するの。あなたとね、お話しをしたいんですって」
「うーん。だめなんです、あたし。田舎に帰らなきゃならないので、そんなに時間取れないんです。すごく残念ですけど」
「Nyet!No!」。 前田のことばに、アナスターシアが小夜子の手を取った。ひんやりとした手で、驚くほどに細い指をしていた。アナスターシアと前田の間で、しばらく会話がつづく。小夜子には、さっぱり分からない。
あたしも英会話の勉強するべきかなあ。そうすれば、直接話せるのよねえ
そんな思いが湧き出た。
決めた。東京に出たら必ず頑張るわ=@
茂作の反対する顔が浮かんだが、すぐに打ち消した。なんとしても、どんなことをしてでも出るのだ、思いを固めた。
「困ったわ、我がままで」
前田が小夜子に顔を向け、「じつはね」と口にして、しばしの間を取った。
「アナスターシアが、あなたをホテルに連れて行くと言うの。そこでね、お食事をして、そのあとでおしゃべりもしたいと言うのよ。もちろん、わたしを間に入れてだけどね。だけど、わたしも次の仕事があるしね」
真っ赤な嘘だった。前田に次の仕事はない。デザイナーの卵だと言っても、前田自身がそう言っているだけで、認められている訳ではない。百貨店側は、通訳としての契約である。マッケンジーも、そう思っている。
じつのところ、この通訳の仕事が一週間ぶりの、仕事らしいしごとだった。カフェの女給で生計を立てている前田にとって、久しぶりの通訳であり、ファッション関係の仕事などいつ以来か忘れたほどだ。ゆえに、このチャンスを最大限生かしたいのだ。できうれば、このあとアナスターシアが日本に滞在している間中、通訳としての仕事を入れたいのだ。
マッケンジーにその旨伝えたおりには、「It's up to Anastasia. She's temperamental. If she wants you, we'll sign the contract.(アナスターシア次第だな、彼女は気難しい。彼女が君を望めば、契約しょう)」と、告げられた。で、ここで小夜子を口説きおとせれば、アナスターシアの心証が良くなり、契約されるということになるはずだ。世界のアナスターシアの誘いをことわる馬鹿は、いないわよ≠ニ、高をくくっていた。
(四十三)
「ごめんなさい。あたしもおしゃべりしたいんですけど、ほんとに時間が……」
「ちょっと! アナスターシアよ、世界のあこがれの的の、アナスターシアよ」
信じられない思いだった。断るなどということは、あり得ないことだ。銀幕のスターたちでさえ、会いたがるのだ。実際、雑誌社からの取材申しこみが殺到している、と聞いている。対談の申しこみも、だ。それを、この娘が断ろうとしている。信じられぬ思いの、前田だった。
「あなた、どうかしてる。絶対、おかしい」と、翻意するよう詰めよった。
「アナスターシアはね、北の国の生まれなの。ロシアの王家の血筋を引いているという噂もあるのよ。どういう経路でいまに至ってるのかは、詳しくは知られてないの。本人が話したがらないのでね。いまは、マッケンジーと一緒に世界中を旅してるの」
「あのお、ひょっとして、ロマノフ王朝のことですか? たしか同名の皇女さまがいらっしゃったと思うんですけど」
「へえ! あなた、博学ね? 良く知ってるじゃない。そうなの、そうなのよ。真偽は分からないけど、ロマノフ王朝の末裔か? って、ことなの」
「Saoyoko,Sayoko」と、前田を押しのけて、アナスターシアが隣に座った。
「Pleas,stay with me(一緒に)」。小夜子の手を握り締め、涙を浮かべて懇願しはじめた。そして前田に対し、早口で思いの丈を訴えた。驚く前田は、なんどもうなずいた。
「小夜子さん。本気みたい、アナスターシア。本気であなたと家族になりたいみたいよ。いっしょにね、世界を旅したいって言ってるわ。それが叶わぬなら、アナスターシアがこの日本に留まってもいいって。そこまで、言ってるわ。果報者ね、あなた。世界いちの幸せ者よ」
興奮気味にはなす前田がいて、すがるような目で小夜子を見つめるアナスターシアがいる。大粒の涙をこぼすアナスターシア、つられて小夜子も涙した。離れた場所で、呆れた表情を見せるマッケンジーもいた。小夜子は困惑の極におちいった。
「嬉しいんですけど……」
お願いだから、OKしてよ。あたしの為にさあ=B声に出したい衝動をグッとこらえて、前田の説得がつづく。
「そうだ。あなたさ、仕事だと思いなさい。ね、お金、もらってあげるからさ。ね、そうしなさい」
「いえ、そんなもの」。「じゃあ、なに!」。前田と小夜子の押し問答がつづく。
いら立つ前田が、語気するどく迫った。
「バカじゃいないの! あなたねえ。世界モデルのアナスターシアなのよ! 信じられないわ」
ことの成り行きを見守っていたアナスターシアが、前田からのいきり立っての強いことばに烈しく怒った。頬を紅潮させて「Nyet(NO)! Yarost(Fool)!(ダメ! バカ!)」と、上ずった声で前田にかみついた。
(四十四)
「あのお、おじいさんのことだと思いますが」。 恐るおそる正三が口をひらいた。なんどか口をはさもうとしたものの、前田のあまりの剣幕に恐れを抱いてしまっていた。小夜子ですら、気圧されているのだ。正三ごときが、だ。
「えっ、そうなの? うかつだったわ。そうね、ご家族ね」
「小夜子さん、おじいさんとふたり暮らしなんです。なおのことです」
小夜子にとって、正三の助け舟がどれほど嬉しかったことか。前田がふり向くと同時に、激しく頭をふってうなずいた。
「小夜子さん。ぼくが、茂作さんに伝えますよ」。「ほんと?」。小夜子がすっ頓狂な声をあげた。
「じゃあ決まりね。そうね、坂田さんに事情説明の手紙をしたためてもらうわ。あと、日当と今日のモデル料はあたしに任せてくれる? 大丈夫よ、たくさん貰えるように交渉してあげる」
「そんなの、良いです。あたし、いりません」
「なにを言ってるの、貰えるものはもらわなくちゃ。お金は、大切よ。まあ、あなたぐらいの年齢では、遣うばっかりでしょうけどね。お金を稼ぐというのは、そりゃもう大変なことなの」
いまにも噛み付かんばかりに、まくし立てた。
これだから、田舎娘は。そんなお人好しじゃ、これからの日本では生きていけないわよ。そっか、この子も、家庭という就職先に逃げこむのね
にらみ付けるアナスターシアに、交渉がうまくいってると告げた。満足気にうなずくアナスターシアにこれから「I'll manage to secure the promise somehow, so just wait a bit(なんとか約束させるから、すこし待って)」と、声を押し殺して焦らすことも忘れなかった。一言ひと言の間隔をあけて、正確な翻訳ではなく、といって小夜子の気持ちを代弁するようなニュアンスではなく、おのれがいかに説き伏せるために苦労しているかをにじませた。気づくと手のひらに汗をかいていた。とにかく己を高く売らなければ、前田がいなければうまくことが運ばないと思わせなければならない。
「あのお、前田さん。お聞きしていいですか?」。とつぜんに小夜子が言う。
「なぁに、どうぞ」。上機嫌に、前田がこたえる。
「その英語って、どうやって覚えられたんですか?」
「どこってそれは……。アメリカさんとお話しするのが一番かもね? ふふふ」と、意味深な含み笑いでごまかした。
「そうですか、アメリカさんと…」と、思いつめた表情を見せる小夜子に、やさしく言えば良かったかしらと、後悔したが、「前田さん、ちょっと」と、スケジュール確認を求める坂田の呼び声に応えた。
(四十五)
アナスターシアと小夜子、そして前田の三人は、百貨店が用意した打ち上げ会に参加することはなかった。とにかく小夜子との会話を楽しみにするアナスターシアにとって、その他大勢のモデルたちにはまるで興味を覚えない。といより、邪魔者ばかりだった。なにかと話に割り込もうとするモデルたちが鬱陶しい限りなのだ。「疲れたから」といらだちを隠そうともせずに、ホテルへと向かった。
小夜子のまえに並べられた料理に比して、アナスターシアの料理はいかにも貧相で量も少なかった。怪訝な表情を見せる小夜子に、アナスターシアはにこやかに微笑んでいる。
「小夜子さん、わたしのことは気にせずに食べて下さいって。わたしのことは気にしないで、ってなんども言ってるわよ。モデルはね、体型維持のため、カロリー制限しているの。だからあなた、気にせず食べなさい」
でも、とためらう小夜子にアナスターシアがにこやかに言う。「Please!」
「ホラホラ。あなたが食べないと、アナスターシアが食べないわよ。あたしも食べられないし」
「分かりました、いただきます」
食事中のおしゃべりの習慣のない小夜子は、黙々と食べた。小夜子に話しかけようとするアナスターシアだが、目を伏せている小夜子に、拒否されているようで悲しい思いでいた。アナスターシアのそんな思いに気づいた前田が、日本の習慣を告げると哀しげな目を見せつつ、うなずいた。突然にアナスターシアの表情が明るくなり、前田に日本語を教えてくれるようせがんだ。
「Sayoko,ofuro ittsyo.OK?」。とつぜんの日本語による問いかけに、目を丸くして小夜子がアナスターシアを見た。
「OK?」と、再度問いかけてくる。
「はい、もちろんです」。返事を求められた小夜子は、大きくうなずいた。
円形の大きなバスタブにふたりして入り、きゃっきゃっと嬌声をあげながら湯を掛け合った。
「肌が、ほんと白いわあ。うらやましい。それに、髪も金色にきらめいて、きれいだわ」
うっとりと見つめる小夜子に、アナスターシアの手が伸びる。小夜子の漆黒に輝く髪の艶に、にこりと微笑む。 指をすべらせ、肌のきめ細かさに感嘆の声をあげる。ことばは通じなくとも、互いの目で意思の疎通をはかった。
「What is your boyfriend'sname(彼の名前は)?」
小夜子のとなりにいた正三をさすために、顔の形を手で表現し、三角形を造りそれを口にほおりこむ仕草をして、サンドイッチであることをわからせた。そしてそれを持ってきた「boyfriend」だと、なんとか理解させた。そして小夜子を指さして「Sayoko」と呼び、となりのいるはずの男を「Who?」「name?」とつづけた。自分をさして小夜子と言ってくれた。そして、となりの人物をさしている。名前を聞いてるのではと気づいた小夜子が、「OK , OK」とこたえた。そして「正三、佐伯正三」とつづけた。
それからアナスターシアの英語の講義がはじまった。大きな窓をゆびさして「Window」、鏡を「Mirror」石けんを「Soap」ふたりが入る風呂桶をなでながら「Bathtub」と教えた。そして小夜子の髪をさわり「Hair」、ゆびさして「Black」、おのれの髪をさして「Blond」、頭に両手をのせて 「Head」、額にてをあて 「Forehead」、そして眉毛を「Eyeblow」と声に出した。目、鼻、口、そして顎へと指を動かした。そしてそれが、はてしなくつづいた。
のぼせ上がってしまったふたりが、バスタオルで互いに風を送りあいながら出てきた。そしてアナスターシアが人なつっこい笑顔を見せながら、小夜子に抱きついた。左右のほほにキスをすると、また力を込めて小夜子を抱きしめた。
「あなたのボーイフレンド、お友達でなかったら、あたしのフレンドにしたいところだって」
前田がとびっきりの笑顔をアナスターシアに向けて、小夜子に告げた。あわわて大きくバツ印に腕を組んで「だ、だめです」と、 小夜子が手をふった。昨日までの小夜子ならば、アナスターシアに会うまでの小夜子ならば、笑って「のしを付けて差し上げますわ」と、答えていた。しかしいまの小夜子には余裕がない。アナスターシアに出会って、小夜子の鼻っ柱の強さも折れてしまった。
前田とのヒソヒソ話のあとに、アナスターシアが「Sayoko,kechinbou!」と声を張り上げ、大きく笑った。
(四十六)
「Anastasia, it is about time for you to retire for the night. Tomorrow, you have an interview and a dialogue with the magazine company scheduled.(アナスターシア。そろそろ、就寝タイムですよ。明日は、雑誌社の取材と対談が入っていますから)」。
普段ならば「Don't command me(命令しないで)!」と不機嫌になるのだが、アナスターシアには夜ふかし厳禁だ。渋々ながらも素直にしたがった。
「Sa yo ko,co me he re!」
一つひとつの単語を区切り、はっきりと発音するアナスターシア。なんとか、サヨコと意思の疎通をはかろうとする。しかし茂作の影響で、英語の授業をさぼりつづけた小夜子にはどうしても理解できなかった。
「いっしょに寝ましょう、って言ってるのよ。イエスと言ってあげて。了解、という意味だから」
小夜子は、ダブルベッドの、そしてふかふかの布団などまるで経験がない。しかも背中越しにアナスターシアに抱きつかれてとなると、なかなか寝付けない。女性の柔らかい体ではなく、ゴツゴツとした骨だらけに感じるアナスターシアだった。かわいそうに。しっかりとごはんを食べられないから、こんなに痩せ細っているんだわ。ひとりぽっちなのよね、アーシアは。あたしにはじいちゃんがいるけど、だれもいないんだものね
幼いころ頃からひとり寝を強いられてきた小夜子には、はじめての経験だ。からだに異変を感じていた澄江は、心を鬼にして小夜子にひとり寝をしいた。どんなに泣き叫ぼうとも、抱きかかえることのない澄江だった。以来、小夜子は癇の強い赤児になっていた。
「Sayoko,Sayoko,……」
なにやら話しかけてくるが、分かるはずもない。アナスターシアにしても、百も承知でのことだ。ふたりと同室での就寝を申しでた前田にたいし「No thankyou!(いらない!)」と、断った。ふたりだけの一夜をともにしたいと考えるアナスターシアは、頑迷に拒否した。
本来は他人との同室はしない。他人を意識させられることが、アナスターシアには耐えられない。常に監視役のように誰かがかたわらにいる日々を送るアナスターシアには、夜の就寝時だけが唯一のこころ安まる時間だった。しかし小夜子だけとは過ごしていたいと願った。小夜子とのコミュニケーションを図りたいアナスターシアには、眠りの時間が惜しくてたまらない。ことばの通じない足かせがあるだけに、なおのことに焦れた。
しばらくのちに、アナスターシアの寝息がながれはじめた。極度の緊張感のなかにいるアナスターシアの眠りははやい。しかし中々に小夜子は寝付けない。小さな寝息すら気になってしまう。朝方になって、やっとウトウトした小夜子だった。
清々しい笑顔で「Ohayou,Sayoko!」と、アナスターシアが起こした。
「小夜子さんのおかげで、ぐっすり眠れたらしいわ。ごきげんのようよ」
目の下にくまを作っている小夜子に気付いたアナスターシアが、小夜子にメイクを施したいと言い出した。
「fun,fun,fufun!」と、鼻歌まじりに嬉々としてメイクを施すアナスターシアだった。目を閉じた小夜子も、昨日のことを思い浮かべて顔がほころんでしまう。
「Beautifull!Great!」
出来栄えに満足する、アナスターシア。
「きれいよ、小夜子さん。鏡で、見てごらんなさい」と、手鏡を渡しながらほんとにこの子は、化粧栄えのする子ねえ。マッケンジーもさすがだわ。あんな遠目から、見極めるんだから≠ニ、羨望の思いを感じる前田だった。
ドキドキと、覗きこむ小夜子。きのうみたいに、きれいになってるかしら?
ドキドキ感のまま覗きこんだ小夜子が、「あっ!」と、感嘆の声をあげた。
これも、あたしなの? こんなに愛くるしいのが、あたしなの?
きのうのショー時とは打ってかわって、くるくると回る大きな目が強調されている。百貨店のそこかしこに並べられていた、西洋人形に似た小夜子がそこにいた。
「ありがとう、ありがとう!」と、思わずアナスターシアの手を握る小夜子だった。そしてきのうのアナスターシアにならって、しっかりと抱きついた。
(四十七)
雑誌の取材では、さながら着せ替え人形のアナスターシアだった。いつもは渋るアナスターシアだが、きょうはまるで別人だ。着替えるたびに「かわいい!」。「きれい!」。感嘆の声を上げる小夜子に、気を良くしていた。
「小夜子さん、ありがとう。あなたのお陰でスムーズに運んだって、雑誌社も大喜びよ。お礼をしたいってことだから、楽しみにね」。前田の耳打ちに気づ付いたアナスターシアが、怒りの声をあげた。アナスターシアのきげんを損ねる行為は、現につつしまねばならない。冷たい視線が、いっせいに前田にむけられた。
「They were saying how radiant you look today, Anastasia(きようののアナスターシア、一段とキレイねって、話してたの)」。必死に弁解をするのだが、いっさい受け付けずヒソヒソ話をやめるようにと言明した。そして、小夜子をどこにも行かせないように、とつけくわえられた。小夜子へも涙ながらに、声をだしていた。「イエス!」と答えはしたものの、それからが大変だった。トイレすら、アナスターシア同伴となってしまった。異常なまでに小夜子に執着するアナスターシアに、みなが不思議がった。前田がそれとなく聞くのだが「I love Sayoko(小夜子が好きなの)!」と、答えるだけだった。
「Did someone from your family… pass away(身内の方でも、お亡くなりになったのですか)?」。
片言の英語でたずねる雑誌社の担当に、
「それはないわよ、絶対に。彼女、天涯孤独の身ですもの」と、前田が答えた。と、突然にアナスターシアの目から大粒の涙があふれでた。
マッケンジーから語られたのは、アナスターシアが溺愛していた犬のイワンが死んだことにより、こころのよりどころを失ってしまったという。いちじは自殺をはかるのではと、二十四時間体制で見守ったとか。しかし、小夜子のおかげで、どうやら立ち直ることができそうだ、とも。たかが、犬ごときで=B皆がみな、そう思った。
しかし小夜子には、そんなアナスターシアの気持ちが、痛いほどに良くわかった。家族愛の渇望、小夜子もまた同じだった。母からの愛情に飢えてそだった幼児期、そしてとつぜんの別れ。いまでも気持ちの整理がついていない。労咳にかかっていた澄江は、小夜子を出産したことから一気に悪化した。日にひに病状が悪化し、医者もサジを投げてしまった。
「もう、薬を変えるしかない。しかしそれで治るかどうか……」と、ことばをにごした。「どんな薬ですか?」と聞きはしたものの、あまりに高価すぎて茂作には手が出ない。本家の方で芝居一座から渡された金員をつかう話が出たけれども澄江がつよく反対をし、小夜子の学費のためにのこすことになった。ミツのことが頭をよぎりなんとしてでもと金策に走るが、「かわいそうじゃが、金のことは……」と、先々で断られた。
「なんぞの、たたりじゃないのか? ミツさんにつづいて娘の澄江さんまでとは」。そんな囁きがあちこちで聞かれ、誰も関わりを持ちたがらなかった。
(四十八)
本家の兄である繁蔵も、「分家の嫁ごときに、大枚の金員をつかうことなど罷りならん!」という、大婆の意向には逆らえない。「それで治るならまだしも、手おくれじゃろうと医者がいうとるのに」と、むべもない。澄江の実家からも、やむを得ぬ仕儀じゃとの声が聞こえてきた。茂作のただひとりの味方である初枝から、「これで栄養を」と渡される卵だったが、それすら大婆に止められてしまった。
「永くはない、好きなことをさせてあげなされ」。そう宣告されてから、二年ほどを頑張りつづけた澄江だった。小夜子の入学を見届けたいという、澄江の執念だった。
家がビンボーだと、だれも助けてくれない。金持ちにならねば、本家にとつがねば、ころされてしまう=B偽らざる、小夜子の思いだった。
そしてそれから、本家と呼ばれる家々の娘たちに敵愾心を抱くようになった。お嬢さまことばを使いはじめたが、父親ゆずりの美少女ぶりがそれらの所作をきわだたせていた。他のだれよりも、様になっていた。本来ならひんしゅくものなのに、いつしかだれもが認めるようになっていた。茂作はそんな小夜子が、愛おしく感じられてならない。
小夜子だけは、幸せにしてやらねば。ミツそして澄江、わしに甲斐性がないばっかりに……、かわいそうなことをしてしまった。小夜子には、みじめな思いなどさせんわ
「小夜子さん、小夜子さん。大丈夫?」。前田の声にすぐに反応しない小夜子を、アナスターシアが心配げにのぞき込んでいる。強い光を発するフラッシュに、体調を崩したのでは? と、気にしている。
「違うの、ちがうんです。ちょっと考え事をしてたんです。ごめんなさい、アナスターシア」
明るく答える小夜子に、アナスターシアが言った。
「I want Sayoko to call me Asia.Because she’s my sister, of course, after all?it's only natural. Please, go ahead, say it(小夜子には、アーシアと呼んで欲しい。あたしの妹だもの、当然よ。さあ、呼んで)」。アナスターシアのすがるような瞳に、驚いたのは前田だ。アーシアと呼べる者がいるとは聞いていたが――世界でも片手ほどの小人数だと噂されている。よほどの信頼を受けない限りには呼ばせない。あの親代わりに世話をしているマッケンジーですら呼ばせないのだ。きのうのファッションショーで出会い、その後のわずかな時間をともにしただけの小夜子に対して、自らアーシアと呼んでくれと懇願しているのだ。信じられぬ思いだった。
そんなにも思いが強いの?=B口には出来ぬが、強く聞いてみたいと思う前田だった。しかし 小夜子にはなんのことか分からずキョトンとしている。
明日には日本を離れるアナスターシアが、とつぜんに腰をくねらせながら、小夜子を手招きする。夕食を食べ終えて、誰もが無口になっているときだった。明日のわかれを口にすることが怖い、だれもがそう思ったときだった。
「Oide、Sayoko…please」。やわらかく手を動かすアナスターシア。両手を広げその手を胸の前でクロスさせて指先をくっつける。そして左手をななめ横に伸ばして右手を肘ひじで曲げる。そんな動作を何度もなんどもくりかえした。なんともひょうきんな動きに、つい小夜子も笑ってしまった。
「No、No!」。口をとがらせるアナスターシアだが、目は笑っている。動作をくりかえしながら「I love you!」をもくりかえした。
「ハワイのフラダンスという、踊りですって。いっしょに踊るよう、言ってるわ。さ、ならんで踊りましょ。さいごの夜なんだから」
(四十九)
前田のことばを待つまでもなく、灯りを落とした部屋で窓から差し込む月明かりのなか三人ならんで踊りだす。窓に映るアナスターシアの真似をしながら、手をユラユラさせそして腰をクネクネと。流れる汗を拭くこともなく、ただひたすらに腰をくねらせる。スローテンポに流れていたメロディが、とつじょ激しいビートにのってアップテンポへと変わった。ハワイの伝統楽器のひとつ、パフと称される大きな太鼓の音が部屋中にひびき渡る。と同時に、アナスターシアの動きが烈しくなり、ゆらりとしていた腰のくねりが一気にヒートアップした。小きざみに腰だけを動かし、肩の揺れはほとんどない。ふたりもアナスターシアの踊りに必死についていこうとするが、どうしても真似が出来ない。腰を動かせば、肩もまた烈しく上下左右に動いてしまう。
「うわっ! これ、きつい。ダメ、あたしもうダメ」。前田が、まずダウンした。つづいて「ああ、わたしもです。もう、ダメです」と、小夜子もダウンした。ソファにへたり込んだふたりが「すごいですね、アーシアは。体力が、まるで違いますね」、「ほんとねえ。あんな少しの食事なのに、ねえ」と、うなずき合った。
アナスターシアのほとばしる汗が、床に落ちる。恍惚とした表情が、しだいに苦痛にゆがみはじめた。かれこれ、一時間になる。とうに音楽は止まっている。止まると同時に、またゆったりとした動きに変わった。しかしすこしの時間が経つとまた烈しいビートを利かせた動きになった。そんなふたつの踊りを繰りかえしている。なにかに憑かれたように、小夜子の目をじっと見つめながら、鳥たちの求愛行為と同じようにつづいた。
やがて着ていた服を、まるでショーの最中のように、一枚いちまいずつ脱ぎ――己の手ではぎとりはじめた。当初は演出だと鷹揚にかまえていた前田だったが、下着に手をかけはじめたところで「おかしいわ、変よ」と、その異常さに気づいた。やがて一糸まとわぬ裸身をふたりの前にさらすことになり、その異常なほどの痩身があらわになった。くびもとの鎖骨が異様にもりあがり、胸骨や肋骨が浮きでている。腸骨・仙骨・尾骨等々、すべての骨が異様にうきでている。モデル特有の体型と座視できぬほどに痩せほそっている。
「アナスターシアが心配だ、睡眠に問題がある。時間もそうだが、その質が大問題だ。熟睡が出来ていないようだ」とは、マッケンジーとそのスタッフ間で深刻な問題として話し合われているのを、前田が小耳にはさんでいる。そのあとマッケンジーの指示で、医師との連絡手段を作っている。
「アーシア、止めて。もう、やめて」。懇願する小夜子だが、アナスターシアには聞こえていないかのように、とり憑かれたように踊りつづけた。
「Stop!You'll…ruin…your…health(もうやめて! あなたの健康が…心配よ…)」。前田の絶叫にたいし、思いもよらぬことばが、アナスターシアの口から洩れた。
「It's okay.Even ifit breaks.I can be with Sayoko……(大丈夫。壊れてもいいの。小夜子と一緒にいられるわ……)」。息をゼエゼエと切らしながら、途切れとぎれに話すアナスターシアの姿がそこにあった。
「Sayoko, this is true. It's me. Please, don't ever forget!(小夜子、本当よ。これが、わたしなの。お願い、忘れないで)!」。哀しげなその表情、痛いたしい苦悶の表情に、「もういい、もういい」と、小夜子が抱きついた。
「おーけー、おーけー、よ」。涙ながらの小夜子のことばに、アナスターシアから憑きものが、ハラリと落ちた。へなへなとその場にすわりこんだ。そして小夜子になにやら囁く。前田を見上げるが「ロシア語みたいね、わかんないわ」と、肩をすぼめた。
ひとしきり泣いたアナスターシアは、小夜子をじっと見つめた。吸い込まれそうな青い瞳に見つめられ、気恥ずかしさを感じる小夜子。思わず、目をそらした。そんな小夜子をしっかりと抱きしめて、ゆっくりと囁いた。
「Spasibo(ありがとう)!」
(五十)
翌日、大勢の見送りのなか、晴ればれとした表情のアナスターシアがいた。はじけんばかりの笑顔を見せて、大きく手をふるその一挙手一投足に歓声があがった。アナスターシアも、感謝の意をこめて、四方八方へと投げキスを繰りかえした。マッケンジーの知るかぎり、あり得ない光景を目にしていた。アナスターシアの笑顔は、限られた場所・場面でしか見られない。プライベートではいっさい笑顔のないアナスターシアだった。
楽屋で無表情な顔を見せていても、ライトの当たるステージに一歩を踏みだしたとたんに、瞳をキラキラと輝かせて笑顔を見せる。グラビア撮影での不機嫌な表情が、カメラのシャッター音・フラッシュの光を浴びたとたんに笑顔を見せる。
普段の帰路では大きめの帽子にサングラスをかけ、時にはマスクをしてまで顔をかくす。そしてそのルートは決して外には漏らしてはならない。それが今日は、滞在しているホテルの公表を認めたばかりかマスコミをも呼び寄せることに同意した。さらには空港内においてもファンの見送りを受けることにも拒否反応を示さなかった。
「Unbelievable!(信じられない)」と、思わず漏らしたマッケンジーの声がその異常さを物語っていた。
「やっと、終わったわ。疲れるのよ、女性は。我がままだしね、ほんとに。通訳してるだけなのに、当人じゃなくてあたしが怒られるのよね。関係者ってさ、笑いながら怒るのよ。当人には『怒ってなんかいませんよ』って顔してさ。あたしに文句言うの」
アナスターシアが機中の人となり、三々五々に引き上げる人々を見つめながらこぼす前田だった。大きくため息を吐いたあとで、小夜子にたいして感謝のことばをつづけた。
「ああしろこうしろって指図するときでもね、ハデなボディアクションなんかするんだけど、それが通じないときがあるの。そうしたら『How can you not understand?!(なんでわかんないんだ!)』って、あたしには怒鳴るの。そのときも笑顔を見せてるの。もう不気味よ。といって直訳するわけにもいかないし、黙ってるのもおかしいしね。困っちゃう。でも、今回は楽だったわ。あなたのお陰ね、ありがとう」
「とんでもないです。あたしこそ、ありがとうございました。前田さんに引き止められてなかったら、こんな経験は二度とできないと思います」。深々と頭を下げる小夜子に、
「えっと、正三さんだったかしら? 彼、はなしちゃだめよ。あんな良い人、そうそういないわよ。まあ、あなたにべた惚れみたいだからね。彼だったら、あなたの意のままじゃない? もしも、もしもよ、アナスターシアとほんとに家族になるにしても、彼だったらOKじゃない?」と、片目をつむって見せた。
「ええ、まあ」。ぽっと頬を赤らめる小夜子。今回のことで、正三にたいする見方が一変した。正三の優柔不断さに頼りなさを感じていた小夜子だが、それが正三の優しさとも思えた。感謝しなくっちゃ、と思いもよらぬことばが頭に浮かんだ。
「みーんな、アーシアのおかげですね。あたし、彼女に会って、ほんとに変わった、いえ変われた気がします。気が強いばっかりの高慢ちきな女だったと、今回のことで気がつきました。これからはやさしい女性になれると思うんです」
小さくなっていく飛行機を眺めながら、アナスターシアが最後に告げたことばを心の中で反すうしていた。
「Sayoko,I love you(サヨコ、愛してるわ)!」
*文中の英文は、microsoft社の Copilot の支援を受けました。
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