(四十一)

 ざわついていた着替え室が、とつぜん静まり返った。
「グッ モーニン!」。「オゥ! アナスターシア!」。
 マッケンジーが満面の笑みをたたえて、駆けよった。一斉に全員の視線がアナスターシアに向けられた。
「OK、OK!」。 見る見るマッケンジーに生気がもどり、パンパンと手をたたいて皆を急かした。ラストシーンに向けて、小夜子を除く全員がステージに出た。拍手喝采の中、アナウンスが告げられた。

「皆さま、大変お待たせいたしました。本日の主役のご登場です。世界の希望、世界の夢、アナスターシア嬢です」
 一段と大きな拍手が沸き起こり、今かいまかとその登場を待ちわびた。灯りが落とされ、ライトが一点を照らす。そしてその中に、アナスターシアが立っていた。そして、会場が静まりかえり、なんとも言い難い――妖艶さと清楚さが入り交じった、森林の細道を静かに小さな動物たちやら鳥たちをしたがえて。一斉に花を開かせて甘い香りがかもし出されている――ランウエイを、ラストルックとしてアナスターシアが歩いた。あのポスターにあったドレスを着ての登場だった。大きく開いた胸元から、透き通るような白い肌を惜しげもなく見せて。
 息苦しささえ感じる中、ゆっくりとアナスターシアが歩く。その一挙手一投足に、会場中が目を奪われた。ピンクチェリーと呼ぶに相応しい唇、凛とした鼻、深くいまにも吸い込まれそうな青い瞳、そして光り輝くブロンドの髪。どれひとつをとっても、非の打ち所がない。ステージの袖から、小夜子もまた見とれていた。

 うっとりと見上げる、紳士淑女連。だれもがアナスターシアの姿に、圧倒されている。この一点のドレス姿だけで、このショーの成功があった。アナスターシアだけで、感銘を受けた。T字型のステージ、ランウエイの先端でクルリとターンをし、ゆっくりと戻っていく。そこでやっと、呪縛から逃れでたかのように、万雷の拍手がわきおこった。アナスターシアの姿がステージから消えても、止むことなく拍手がつづいた。そしてあらためてアナスターシアが登場したとき、着物姿であらわれたアナスターシアに、大きなため息が洩れた。
「花魁みたい……」。そして、鳴り止まぬ拍手が、会場中にひびいた。
「ハラショー!ハラショー!」。マッケンジーがアナスターシアに飛びついた。感極まって、キスの嵐をふり注ぐ。
「コングラチュレーション!」と、前田が、百貨店の坂田が握手を求める。モデルたちの拍手の中、アナスターシアが小夜子に近づいてきた。
「プリティガール、マイシスター、マイファミリー!」と、抱きついてきた。その光景に、マッケンジーが肩をすくめる。そして、いきなりの抱擁にとまどう小夜子。アナスターシアが言うことばの意味が分からず、ことばを返せない。
「あ、あの……」

(四十二)

「アナスターシアがね、あなたのことを『とっても可愛い!!』”と言ってるの。『妹にしたい、家族になりたい』って、言ってくれてるのよ」。前田が小夜子の耳にそっと告げた。
うらやましい子ね。世界的なモデルのアナスターシアに、ここまで認められるとは。ほんと運の良い子だわ
「ほ、ほんとですか? 嬉しい! こんなステキな女性に、そんな風に言ってもらえるなんて」。小躍りしたい思いを抑えて、なんどもアナスターシアの祝福を受けた。
「さあ、さあ。みなさん、大急ぎで着替えてくださあい。このあと、打ち上げ会をやりまーす。当百貨店で二次会まで用意しています。ぜひ、ご参加くださあい」
「うわあ、太っ腹! さすが、坂田さーん」。モデルたちに歓声が上がり、バタバタと着替えをはじめた。
「小夜子さん、あなたも参加してね。アナスターシアも、参加するの。あなたとね、お話しをしたいんですって」
「うーん。だめなんです、あたし。田舎に帰らなきゃならないので、そんなに時間取れないんです。すごく残念ですけど」
「ニエット,ニエット!」。
 前田のことばに、アナスターシアが小夜子の手をとった。ひんやりとした手で、驚くほどに細い指をしていた。アナスターシアと前田のあいだで、しばらく会話がつづく。小夜子には、さっぱり分からない。
あたしも英会話の勉強するべきかなあ。そうすれば、直接話せるのよねえ=Bそんな思いが湧き出た。決めた。東京に出たらかならず頑張るわ=B強い決意のようなものが生まれ出た。茂作の反対する顔がうかんだが、すぐに打ち消した。なんとしても、どんなことをしてでも出るのだ、そう思いをかためた。

「困ったわ、我がままで」。前田が小夜子に顔をむけ、「じつはね」と口にして、しばしの間を取った。
「アナスターシアが、あなたをホテルに連れて行くというの。そこでね、お食事をとっておしゃべりもしたいと言うのよ。もちろん、わたしを間に入れてだけどね。だけど、わたしも次の仕事があるしね」
 真っ赤なうそだった。前田につぎの仕事はない。デザイナーの卵だといっても、前田自身がそういっているだけで、認められているわけではない。百貨店側は、今回のショーの通訳としての契約である。マッケンジーも、そう思っている。じつのところ、この通訳の仕事が一週間ぶりの、仕事らしいしごとだった。
カフェのメイドで生計を立てている前田にとって、ひさしぶりの通訳であり、ファッション関係の仕事などいつ以来か忘れたほどだ。ゆえに、このチャンスを最大限生かしたいのだ。できうれば、このあとアナスターシアが日本に滞在している間中、通訳としての仕事を入れたいのだ。そしてあわよくば、次回の来日時での通訳として仕事を確保したいのだ。
 マッケンジーにその旨をつたえたときには、「アナスターシア次第だな、彼女は気難しい。彼女が君をのぞめば、契約しょう」と、告げられた。で、ここで小夜子をくどき落とせれば、アナスターシアの心証が良くなり、契約されるということになるはずだ。世界のアナスターシアの誘いをことわるバカは、いないわよ≠ニ、高をくくっていた。

(四十三)

「ごめんなさい。あたしもおしゃべりしたいんですけど、ほんとに時間が……」
「ちょっと! アナスターシアよ、世界のあこがれの的の、アナスターシアよ」
 信じられない思いだった。断るなどということは、ありえないことだ。銀幕のスターたちでさえ、会いたがるのだ。実際、雑誌社からの取材申し込みが殺到している、と聞いている。対談の申し込みも、だ。それを、この娘がことわる、と。
「あなた、どうかしてる。絶対、おかしい」と、翻意するようつめよった。
「アナスターシアはね、北の国の生まれなの。王家の血筋を引いているという噂もあるのよ。どういう経路でいまに至ってるのかは、詳しくは知られてないの。本人が話したがらないのでね。いまは、マッケンジーと一緒に世界中を旅してるの」
「あのお、ひょっとして、ロマノフ王朝のことですか? たしか同名の皇女さまがいらっしゃったと思うんですけど」
「へえ! あなた、博学ね? 良く知ってるじゃない。そうなの、そうなのよ。真偽はわからないけど、ロマノフ王朝の末裔か? って、ことなの」

「Sayoko,Sayoko,」と、前田を押しのけて、アナスターシアがとなりに座った。
「Pleas with me」。小夜子の手をにぎりしめ、涙をうかべて懇願しはじめた。小夜子にはゆっくりとひと言ひとことを区切るように話しかけて、そして前田にたいしては、早口で思いの丈をうったえた。おどろく前田は、なんどもうなずいた。
「小夜子さん。本気みたい、アナスターシア。本気で貴女と家族になりたいみたいよ。いっしょにね、世界を旅したいって言ってるわ。それが叶わぬなら、アナスターシアがこの日本に留まってもいいって。そこまで、言ってるわ。果報者ね、あなた。世界いちの幸せ者よ」

 興奮気味にはなす前田。すがるような目で、小夜子を見つめるアナスターシア。大粒の涙をこぼすアナスターシア、つられて小夜子も涙した。離れた場所で、呆れた表情を見せるマッケンジー。小夜子は困惑の極におちいった。
「嬉しいんですけど……」
お願いだから、OKしてよ。あたしの為にさあ=B声に出したい衝動をグッとこらえて、前田の説得がつづく。
「そうだ。あなたさ、仕事だと思いなさい。ね、お金、もらってあげるからさ。ね、そうしなさい」
「いえ、そんなもの」。前田と小夜子の押し問答がつづく。
「じゃあ、なに!」。いら立つ前田が、語気するどく迫った。ことの成り行きを見守っていたアナスターシアが、前田に烈しく怒った。
「No,no,Нет(ニエット:ダメ)!」

(四十四)

「あのお、おじいさんのことだと思いますが」
 恐るおそる正三が口をひらいた。なんどか口をはさもうとしたものの、前田のあまりの剣幕におそれを抱いてしまっていた。小夜子ですら、気圧されているのだ。正三ごときが、だ。
「えっ、そうなの? うかつだったわ。そうね、ご家族ね」
「小夜子さん、おじいさんとふたり暮らしなんです。なおのことです」
 小夜子にとって、正三の助け舟がどれほどに嬉しかったことか。前田がふり向くとどうじに、はげしく頭をふってうなずいた。
「小夜子さん。ぼくが、茂作さんに伝えますよ」。「ほんと?」。小夜子がすっ頓狂な声をあげた。
「じゃあ決まりね。そうね、坂田さんに事情説明の手紙をしたためてもらうわ。あと、日当と今日のモデル料はあたしに任せてくれる? 大丈夫よ、たくさん貰えるように交渉してあげる」
「そんなの、良いです。あたし、いりません」
「なにを言ってるの、貰えるものはもらわなくちゃ。お金は、大切よ。まあ、あなたぐらいの年齢では、つかうばっかりでしょうけどね。お金を稼ぐというのは、そりゃもう大変なことなの」。いまにも噛み付かんばかりに、まくし立てた。
これだから、田舎娘は。そんなお人好しじゃ、これからの日本では生きていけないわよ。そっか、この子も、家庭という就職先に逃げこむのね
 
 状況が分からずにらみ付けるアナスターシアに、交渉がうまくいってると告げた。満足気にうなずくアナスターシアにこれから「約束させるから、すこし待って」と焦らすことも忘れなかった。とにかくおのれを高く売らなければ、前田がいなければうまくことが運ばないと思わせなければならない。
「Спасибо!(スパシーバ:ありがとう!」。アナスターシアが小夜子に抱きついた。
「こちらこそ」。オーバーアクションに慣れない小夜子は、ただただとまどうだけだった。
「あのお、前田さん。お聞きしていいですか?」。とつぜんに小夜子が言う。
「なぁに、どうぞ」。上機嫌に、前田がこたえる。
「その英語って、どうやって覚えられたんですか?」
「どこってそれは……。アメリカさんとお話しするのが一番かもね? ふふふ」と、意味深な含み笑いでごまかした。
「そうですか、アメリカさんと」と、思いつめた表情を見せる小夜子に、やさしく言えば良かったかしらと後悔したが、「前田さん、ちょっと」と、スケジュール確認を求める坂田の呼び声に応えた。

(四十五)

 アナスターシアと小夜子、そして前田の三人は、百貨店が用意した打ち上げ会に参加することはなかった。とにかく小夜子との会話を楽しみにするアナスターシアにとって、他の諸々のモデルたちにはまるで興味を覚えない。とういより、邪魔者ばかりだった。なにかと話に割り込もうとするモデルたちがうっとおしい限りなのだ。「疲れたから」といらだちを隠そうともせずに、ホテルへと向かった。
 小夜子にとって初めての車は、驚嘆そのものだった。おのれの体をシートに預けられることに慣れない。村を走るのは木炭バスぐらいのもので、その座席には腰かけるといった具合だ。ガタガタと横ゆれをしたり飛び上がったりと、乗り心地はわるい。しかしそれでもそんなものだと思っていた。ところがこの乗用車はおなじ揺れるにしても、ふわふわと雲の上にいるような感覚にとらわれる。何やかやとアナスターシアが話しかけてくるが、まるで耳に入らない。いまはただ、乗り心地におぼれている。

 小夜子の前にならべられた料理に比して、アナスターシアの料理はいかにも少なかった。けげんな表情を見せる小夜子に、アナスターシアはにやかに微笑んでいる。
「小夜子さん、わたしに遠慮せずに食べて下さいって。わたしのことは気にしないで、って言ってるわよ。モデルはね、体型維持のために為、カロリー制限しているの。だからあなた、気にせず食べなさい」
 でも、とためらう小夜子にアナスターシアがにこやかに言う。「please!」
「ホラホラ。あなたが食べないと、アナスターシアが食べないわよ。あたしも食べられないし」
「分かりました、いただきます」
 食事中のおしゃべりの習慣のない小夜子は、黙々と食べた。小夜子に話しかけようとするアナスターシアだが、目を伏せている小夜子に、拒否されているようで悲しい思いでいた。アナスターシアのそんな思いに気づいた前田が、日本の習慣を告げると哀しげな目を見せつつ、うなずいた。とつぜんにアナスターシアの表情が明るくなり、前田に日本語を教えてくれるようせがんだ。
「サヨコ,オフロイッショ.オーケー?」。とつぜんの日本語による問いかけに、目を丸くして小夜子がアナスターシアを見た。
「オーケー?」と、再度問いかけてくる。
「はい、もちろんです」。返事を求められた小夜子は、大きくうなずいた。

 円形の大きなバスタブにふたりして入り、きゃっきゃっと嬌声をあげながら湯をかけあった。
「肌が、ほんと白いわあ。うらやましい。それに、髪も金色にきらめいて、きれいだわ」
 うっとりと見つめる小夜子に、アナスターシアの手が伸びる。小夜子の漆黒に輝く髪の艶に、にこりと微笑む。 指をすべらせ、肌のきめ細かさに感嘆の声をあげる。ことばは通じなくとも、たがいの目で意思の疎通をはかった。
「彼の名前は?」。「正三、佐伯正三と言います」
 ふたりの会話をバスルームの外から前田が通訳する。恋人かと聞かれ、友だちです、とこたえる小夜子だった。
「あなたのボーイフレンド、お友だちでなかったら、あたしのフレンドにしたいところだって」
 大きくバツ印に腕をくんで「だ、だめです。」と、 あわてて手をふる小夜子だった。昨日までの小夜子ならば、アナスターシアに会うまでの小夜子ならば、笑って「のしを付けて差しあげますわ」と、答えたろう。しかしいまの小夜子には余裕がない。アナスターシアに出会って、小夜子の鼻っ柱のつよさも折れてしまった。
 前田とのヒソヒソ話のあとに、アナスターシアが「サヨコ,ケチンボー!」と声を張り上げ、大きく笑った。わたしにはいない、と哀しい目をみせるアナスターシアに、「わたしはどうですか?」と、つい口をすべらせた。

(四十六)

「アナスターシア。そろそろ、就寝タイムですよ。明日は、雑誌社の取材と対談が入っていますから」。 夜ふかし厳禁のアナスターシアは、前田に諭されベッドへ入った。
「Sayoko,come here!(小夜子、ここにおいで!)」
 一つひとつの単語を区切り、はっきりと発音するアナスターシア。なんとか、サヨコと意思の疎通をはかろうとする。しかし茂作の影響で、英語の授業をさぼりつづけた小夜子にはどうしても理解できなかった。
「いっしょに寝ましょう、って言ってるのよ。イエスと言ってあげて。了解、という意味だから」

 背中越しにアナスターシアに抱きつかれて、なかなか寝付けない。女性の柔らかい体ではなく、ゴツゴツとした骨だらけに感じるアナスターシアだった。
かわいそうに。しっかりとごはんを食べられないから、こんなに痩せほそっているんだわ
ひとりぽっちなのよね、このひとは。あたしにはじいちゃんがいるけど、だれもいないんだものね
 幼いころからひとり寝を強いられてきた小夜子には、はじめての経験だ。からだに異変を感じていた澄江は、心を鬼にして小夜子にひとり寝をしいた。どんなに泣き叫ぼうとも、抱きかかえることのない澄江だった。以来、小夜子は癇のつよい赤児になっていた。

「Sayoko,Sayoko,……」
 なにやら話しかけてくるが、分かるはずもない。アナスターシアにしても、百も承知でのことだ。ふたりと同室での就寝を申しでた前田にたいし「No thankyou!」と、断った。ふたりだけの一夜をともにしたいと考えるアナスターシアは、頑迷に拒否した。
 本来は他人との同室はしない。他人を意識させられることが、アナスターシアには耐えられない。常に監視役のように誰かがかたわらにいる日々を送るアナスターシアには、夜の就寝時だけが唯一のこころ安まる時間だった。しかし小夜子だけとは過ごしていたいと願った。小夜子とのコミニュケーションを図りたいアナスターシアには、眠りの時間が惜しくてたまらない。ことばの通じない足かせがあるだけに、なおのことに焦れた。
 しばらくのちに、アナスターシアの寝息がながれはじめた。極度の緊張感のなかにいるアナスターシアの眠りははやい。しかし逆になかなか小夜子は寝つけない。小さな寝息すら気になってしまう。朝方になって、やっとウトウトした小夜子だった。

 清々しい笑顔で「オハヨー,サヨコ」と、アナスターシアが起こした。
「小夜子さんのおかげで、ぐっすり眠れたらしいわ。ごきげんのようよ」
 目の下にくまを作っている小夜子に気づいたアナスターシアが、小夜子にメイクを施したいと言い出した。
「フン,フン,フフン」と、鼻歌まじりに嬉々としてメイクを施すアナスターシア。目を閉じた小夜子も、昨日のことを思いうかべて顔がほころんでしまう。
「It went well,Beautifull!(うまくできたわ、きれいよ!)」。出来ばえに満足する、アナスターシアだった。
「きれいよ、小夜子さん。鏡で、見てごらんなさい」と、手鏡を渡しながらほんとにこの子は、化粧栄えのする子ねえ。マッケンジーもさすがだわ。あんな遠目から、見極めるんだから≠ニ、羨望の思いを感じる前田だった。
昨日のように、きれいになってるかしら?<hキドキと、覗き込む小夜子。小夜子が「あっ!」と、感嘆の声をあげた。
これも、あたしなの? こんなに愛くるしいのが、あたしなの?
 昨日のショー時とは打って変わって、くるくると回る大きな目が強調されている。百貨店のそこかしこに並べられていた、西洋人形に似た小夜子がそこにいた。「ありがとう、ありがとう!」と、思わずアナスターシアの手を握る小夜子だった。

(四十七)

 雑誌の取材では、さながら着せ替え人形のアナスターシアだった。いつもは渋るアナスターシアだが、きょうはまるで別人だ。着替えるたびに「かわいい!」。「きれい!」。感嘆の声をあげる小夜子に、気を良くしていた。
「小夜子さん、ありがとう。あなたのおかげでスムーズに運んだって、雑誌社も大喜びよ。お礼をしたいってことだから、楽しみにね」
 前田の耳うちに気づいたアナスターシアが、怒りの声をあげた。アナスターシアのきげんをそこねる行為は、現につつしまねばならない。冷たい視線が、いっせいに前田にむけられた。
「きようののアナスターシア、一段とキレイねって、話してたの」
 必死に弁解をするのだが、いっさい受けつけずヒソヒソ話をやめるようにと言明した。そして、小夜子をどこにも行かせないように、とつけくわえられた。小夜子へも涙ながらに、声をだしていた。「イエス!」と答えはしたものの、それからが大変だった。トイレすら、アナスターシア同伴となってしまった。異常なまでに小夜子に執着するアナスターシアに、みなが不思議がった。前田がそれとなく聞くのだが「小夜子が好きなの!」と、答えるだけだった。
「身内の方でも、お亡くなりになったのですか?」。片言の英語でたずねる雑誌社の担当に、「それはないわよ、絶対に。彼女、天涯孤独の身ですもの」と、前田が答える。
 マッケンジーから語られたのは、アナスターシアが溺愛していた犬のイワンが死んだことにより、こころのよりどころを失ってしまったという。いちじは自殺をはかるのではと、二十四時間体制で見守ったとか。しかし、小夜子のおかげで、どうやら立ち直ることができそうだ、とも。たかが、犬ごときで=B皆がみな、そう思った。

 しかし小夜子には、そんなアナスターシアの気持ちが、痛いほどに良くわかった。家族愛の渇望、小夜子もまた同じだった。母からの愛情に飢えてそだった幼児期、そしてとつぜんの別れ。いまでも気持ちの整理がついていない。労咳にかかっていた澄江で、小夜子を出産したことから一気に悪化した。日にひに病状が悪化し、医者もサジを投げてしまった。
「もう、薬を変えるしかない。しかしそれで治るかどうか……」と、ことばをにごした。どんな薬かと聞きはしたものの、あまりに高価すぎて茂作には手がでない。芝居一座から渡された金員をつかう話が出たけれども、澄江がつよく反対をし、小夜子の学費のためにのこすことになった。ミツのことが頭をよぎりなんとしてでもと金策に走るが、「可哀相じゃが、金のことは……」と、先々で断られた。
「なんぞの、たたりじゃないのか? ミツさんにつづいて娘の澄江さんまでとは」。そんな囁きがあちこちで聞かれ、だれも関わりを持ちたがらなかった。

(四十八)

 本家の兄である繁蔵も、「分家の嫁ごときに、大枚の金員をつかうことなどまかりならん!」という、大婆の意向には逆らえない。「それで治るならまだしも、手おくれじゃろうと医者がいうとるのに」と、むべもない。澄江の実家からも、やむを得ぬ仕儀じゃとの声が聞こえてきた。茂作のただひとりの味方である初枝から、「これで栄養を」と渡される卵だったが、それすら大婆に止められてしまった。
「永くはない、好きなことをさせてあげなされ」。そう宣告されてから、二年ほどを頑張りつづけた澄江だった。小夜子の入学を見届けたいという、澄江の執念だった。

家がビンボーだと、だれも助けてくれない。金持ちにならねば、本家にとつがねば、○されてしまう=B偽らざる、小夜子の思いだった。
 そしてそれから、本家と呼ばれる家々の娘たちに敵がい心を抱くようになった。お嬢さまことばを使いはじめたが、父親ゆずりの美少女ぶりが、それらの所作をきわだたせていた。他のだれよりも、様になっていた。本来ならひんしゅくものなのに、いつしかだれもが認めるようになっていた。茂作はそんな小夜子が、愛おしく感じられてならない。
小夜子だけは、幸せにしてやらねば。ミツそして澄江、わしに甲斐性がないばっかりに……、かわいそうなことをしてしまった。小夜子には、みじめな思いなどさせんわ

「小夜子さん、小夜子さん。大丈夫?」
 前田の声にすぐに反応しない小夜子を、アナスターシアが心配げにのぞき込んでいる。強い光を発するフラッシュに、体調を崩したのでは? と、気にしている。
「違うの、ちがうんです。ちょっと考え事をしてたんです。ごめんなさい、アナスターシア」
 明るく答える小夜子に、アナスターシアが言った。
「I want Sayoko to call me Asia.She's mysister,of course.Come on,call me.(小夜子には、アーシアと呼んで欲しい。あたしの妹だもの、当然よ。さあ、呼んで)」
アナスターシアのすがるような瞳に、おどろいたのは前田だ。アーシアと呼べる者がいるとは聞いていたが――世界でも片手ほどの小人数だと噂されている。よほどの信頼を受けない限りには呼ばせない。あの親代わりに世話をしているマッケンジーですら呼ばせないのだ。きのうのファッションショーで出会い、その後のわずかな時間をともにしただけの小夜子に対して、自らアーシアと呼んでくれと懇願しているのだ。信じられぬ思いだった。
そんなにも思いが強いの?=B口には出来ぬが、強く聞いてみたいと思う前田だった。しかし 小夜子にはなんのことか分からずキョトンとしている。

 明日には日本を離れるアナスターシアが、とつぜんに腰をくねらせながら、小夜子を手招きする。夕食を食べ終えて、だれもが無口になっているときだった。明日のわかれを口にすることが怖い、だれもがそう思ったときだった。
「オイデ、サヨコ……please」。やわらかく手を動かすアナスターシア。両手を広げその手を胸の前でクロスさせて、目線を左下におとし心臓を見つめる。そしてゆっくりと胸元から両手を小夜子にさしだしてくる。そんな動作を何度もなんどもくりかえした。なんともひょうきんな動きに、つい小夜子も笑ってしまった。
「Нет,hет!(ニェット:だめ)」。口をとがらせるアナスターシアだが、目は笑っている。その動作をくりかえしながら「I love you!」と、何度もくりかえした。
「ハワイのフラダンスという、踊りですって。いっしょに踊るよう、言ってるわ。さ、ならんで踊りましょ。さいごの夜なんだから」

(四十九)

 灯りを落とした部屋で窓からさしこむ月明かりのなか、三人ならんで踊りだす。窓にうつるアナスターシアの真似をしながら、手をユラユラさせそして腰をクネクネと。流れる汗を拭くこともなく、ただひたすらに腰をくねらせる。スローテンポに流れていたメロディが、とつじょ激しいビートにのってアップテンポへと変わった。ハワイの伝統楽器のひとつ、パフと称される大きな太鼓の音が部屋中にひびき渡る。と同時に、アナスターシアの動きが烈しくなり、ゆらりとしていた腰のくねりが一気にヒートアップした。小きざみに腰だけを動かし、肩の揺れはほとんどない。ふたりもアナスターシアの踊りに必死についていこうとするが、どうしても真似ができない。腰を動かせば、肩もまた烈しく上下左右に動いてしまう。
「うわっ!これ、きつい。ダメ、あたしもうダメ」。前田が、まずダウンした。つづいて「ああ、わたしもです。もう、ダメです」と、小夜子もダウンした。ソファにへたり込んだふたりが「すごいですね、アーシアは。体力が、まるで違いますね」、「ほんとねえ。あんな少しの食事なのに、ねえ」と、うなずき合った。

 アナスターシアのほとばしる汗が、床に落ちる。恍惚とした表情が、しだいに苦痛にゆがみはじめた。かれこれ、一時間になる。とうに音楽は止まっている。止まると同時に、またゆったりとした動きに変わった。しかしすこしの時間が経つとまた烈しいビートを利かせた動きになった。そんなふたつの踊りを繰りかえしている。なにかに憑かれたように、小夜子の目をじっと見つめながら、鳥たちの求愛行為と同じようにつづいた。

やがて着ていた服を、一枚いちまいずつ脱ぎ――己の手ではぎとりはじめた。
 当初は演出だと鷹揚にかまえていた前田だったが、下着に手をかけはじめたところで「おかしいわ、変よ」と、その異常さに気づいた。やがて一糸まとわぬ裸身をふたりの前にさらすことになり、その異常なほどの痩身があらわになった。くびもとの鎖骨が異様にもりあがり、胸骨や肋骨が浮きでている。腸骨・仙骨・尾骨等々、すべてのほねが異様にうきでている。モデル特有の体型と座視できぬほどに痩せほそっている。
 アナスターシアが心配だ。睡眠に問題がある。時間もそうだが、その質が大問題だ。熟睡ができていないようだと、マッケンジーとそのスタッフ間で深刻な問題として話し合われているのを、前田が小耳にはさんでいる。そのあとマッケンジーの指示で、医師との連絡手段を作っている。

「アーシア、止めて。もう、やめて」
 懇願する小夜子だが、アナスターシアには聞こえていないかのように、とり憑かれたように踊りつづけた。
「Stop! You,ll ruin yourhealth(やめて! からだを壊すわよ!)」
 前田の絶叫にたいし、思いもよらぬことばが、アナスターシアの口から洩れた。
「It’s okay.Eeen if it breaks.I can be with Sayoko(大丈夫。もし壊れても、小夜子と一緒にいられる)..、、、」。息をゼエゼエと切らしながら、途切れとぎれに話すアナスターシア。
「Sayoko.This is the real me.Do'nt forget!(小夜子、これが本当のわたしよ。忘れないでね!)」
 哀しげなその表情、いたいたしい苦悶の表情に、「もういい、もういい」と、小夜子が抱きついた。

「おーけー、おーけー、よ」。涙ながらの小夜子のことばに、アナスターシアから憑きものが、ハラリと落ちた。へなへなとその場にすわりこんだ。そして小夜子になにやらささやく。前田を見上げるが「ロシア語みたいね、わかんないわ」と、肩をすぼめた。
 ひとしきり泣いたアナスターシアは、小夜子をじっと見つめた。吸い込まれそうな青い瞳に見つめられ、気恥ずかしさを感じる小夜子。思わず、目をそらした。そんな小夜子をしっかりと抱きしめて、ゆっくりとささやいた。
「Спасибо,дасвиданья!(スパシーボ,ダスビダーニャ:ありがとう、さよなら)」

(五十)

 翌日ホテル前で、おおぜいの見送りのなか、晴れ晴れとした表情のアナスターシアがいた。はじけんばかりの笑顔を見せて、大きく手をふるその一挙手一投足に歓声があがった。アナスターシアが感謝の意をこめて、四方八方へと投げキスを繰りかえした。マッケンジーの知る限り、あり得ない光景を目にしていた。アナスターシアの笑顔は、限られた場所・場面でしか見られない。プライベートでは一切笑顔のないアナスターシアだった。
 楽屋で無表情な顔を見せていても、ライトの当たるステージに一歩を踏みだしたとたんに、瞳をキラキラと輝かせて笑顔を見せる。グラビア撮影での不機嫌な表情が、カメラのシャッター音・フラッシュの光を浴びたとたんに笑顔を見せる。
 しかし帰路につくおりには大きめの帽子にサングラスをかけ、ときにはマスクをしてまで顔をかくす。そしてそのルートは決して外にはもらしてはならない。それが今日は、滞在しているホテルの公表を認めたばかりか、マスコミをも呼びよせることにも同意した。さらには空港内においてもファンの見送りを受けることにも拒否はんのうを示さなかった。
「Unbelievable!(信じられない)」と、思わず漏らしたマッケンジーの声がその異常さを物語っていた。

「やっと、終わったわ。疲れるのよ、女性は。我がままだしね、ほんとに。通訳してるだけなのに、当人じゃなくてあたしが怒られるのよね。関係者ってさ、笑いながら怒るのよ。当人には『怒ってなんかいませんよ』って顔してさ。あたしに文句いうの」
 アナスターシアが機中の人となり、三々五々に引き上げる人々を見つめながらこぼす前田だった。大きくため息を吐いた後で、小夜子に対して感謝のことばをつづけた。
「ああしろこうしろって指図するときでもね、ハデなボディアクションなんかするんだけど、それが通じないときがあるの。そうしたら『なんでわかんないんだ!』って、あたしには怒鳴るの。そのときも笑顔を見せてるの。もう不気味。といって直訳するわけにもいかないし、黙ってるのもおかしいしね。困っちゃう。でも、今回は楽だったわ。あなたのおかげね、ありがとう」

「とんでもないです。あたしこそ、ありがとうございました。前田さんに引き止められてなかったら、こんな経験は二度とできないと思います」
 深々と頭を下げる小夜子に、「えっと、正三さんだったかしら? 彼、離しちゃだめよ。あんな良い人、そうそういないわよ。まあ、べた惚れみたいだからね。彼だったら、あなたの意のままじゃない? もしも、もしもよ、アナスターシアとほんとに家族になるにしても、彼だったらOKじゃない?」と、片目をつむって見せた。

「ええ、まあ」。ぽっと頬を赤らめる小夜子。今回のことで、正三に対する見方が一変した。正三の優柔不断さに頼りなさを感じていた小夜子だが、それが正三の優しさとも思えた。「感謝しなくっちゃ」と、思いもよらぬことばが口にでた。
「みーんな、アーシアのおかげですね。あたし、彼女に会って、ほんとに変わった、いえ変われた気がします。気が強いばっかりの高慢ちきな女だったと、今回のことで気がつきました。これからはやさしい女性になれると思うんです」
 小さくなっていく飛行機を眺めながら、アナスターシアが最後に告げたことばをこころの中で反すうしていた。
「Sayoko,I love you.」