(四百十五)

 翌朝、けたたましく電話が鳴った。その音に武士が敏感に反応して、大泣きしはじめた。小夜子の与えるおっぱいを、イヤイヤと拒否をする。おかしい、こんなことはいままでに一度もない。ひょっとして、武士には電話がどこからなのか、そしてなにを伝えようとしているのかわかるのか、千勢が出ようとする電話をひったくるようにして、武士を抱えたまま出た。
 病院からだった。容態の急変が告げられ、すぐに来るように告げられた。タクシーを飛ばして病室に入ると、五平が小夜子に深々と頭を下げた。
「どうしてあなたが先にいるの!」
 妻である小夜子より先に連絡を入れるとはどういう病院かと、その場にいた婦長に怒鳴った。
「いや、小夜子奥さま。そうじゃないんです、ちがうんです」
 あわてて五平が、いきり立つ小夜子を抑えるべく説明をはじめた。五平によると、武蔵から「出社前に来てくれ」と、伝言があったという。
「で今朝の七時に病院に着きまして」と言ったところで、小夜子の怒りは頂点に立った。
「それでどうしてタケゾーの容態が悪化するの!」
 あまりの剣幕に、これ以上武蔵の病状を隠せないと、医師があとを継いだ。
「奥さん。御手洗さんの指示で、病状についてお話しておりませんでした。回復したかに見られる御手洗さんでしたが、実のところは」
「わかってます、わかってました。きのう、タケゾーが……お別れをしてくれたのよ」 
 医師の説明を聞き終わるまえに、叫ぶように金切り声をあげた。
「タケゾーのことは、あたしがいちばんよ。あたしがタケゾーにとって一番なように、タケゾーもあたしにとっていちばんなの!」
 立ちすくむ医師を押しのけるようにして、
「どうなの? 意識はあるの? あたしの声は聞こえてるの」と、武蔵の枕元に寄った。
「ほら、ほら。タケゾーのいちばんの、ひまわりのワンピースよ。いつも言ってたじゃない。太陽を追いかけるひまわりが好きだって。『小夜子はひまわり娘だ。太陽みたいに輝く娘だ』って。ねえねえ、目を開けて。狸寝入りはいやよ。約束したじゃない、アメリカにつれてってくれるって。アーシアのお墓参りをして、そしてそして、ビッグバンドのコンサートに行くって。武蔵。約束はキチンと守ってくれたじゃない。どんなに時間がかかっても」
 突然にことばを切って、立ち上がった。そしていきなり、ワンピースを脱いだ。
「ほらっほらっ。タケゾーの好きな、おっぱいよ。小っちゃいけどおわん型が好きだって言ってくれたじゃない。毎晩まいばん、吸ってくれたじゃない。ほらっ、吸って、すってよ。痛いの、いたいのよ、いま。武士のかわりに吸ってよ」
 母乳があふれ出している乳首を武蔵の口にあてがった、押しつけた。武蔵の口から母乳があふれだし、顔と言わず首といわず、寝間着までもびしょびしょになってもやめなかった。
「もうしばらく、このままで」と、五平が止めようとする看護婦を押しとどめた。

(四百十六)

 時間がさかのぼって、朝の七時をすこしまわったときだ。五平が、正面玄関ではなく、横手にある救急口から院内にはいった。救急外来の受付のまえを通り、「お早いですね、きょうは」、というあいさつには帽子をあげて応えただけだった。
 まだ外来が機能していない時間帯では、人の動きもない。普段ならごった返すうす暗いロビーを通り、受付まえのエレベーターで武蔵の病室へとむかった。ドアが開くと、そのまえに看護婦詰め所があり、数人が机でカルテに書き込みをしている。
「おはよう」
 ここでは中の看護婦に声をかけて、たたき起こした菓子店で買いもとめた饅頭をさしいれた。
「いつもありがとうございます」と、武蔵専属になっている看護婦が受けとった。五平が部屋にはいると、武蔵のかるい寝息がきこえてくる。閉じられたカーテンのすこしのすき間からはいりこむ光は、客用のテーブルのかどを照らしているだけだ。部屋のあかりを点けるとどうじに、武蔵のこえが五平にとどいた。
「はやくにすまんな」。力ない声ではあったが、しずかな部屋では十分にききとれる。
「とんでもないです、社長。あたしこそ仕事をいいわけにお見舞いにもきませんで」 
 本音だった。すこしの時間ならば、いくらでも作れる。来ようとおもえば毎日でも寄れるのだ。しかし、あとにしよう、いや明日にしようと、延ばしてしまっている。
 前回は、三日まえだった。仕入れ先のひとつが、契約内容の変更をもうしいれてきた。なんのことはない、武蔵の入院生活がながびいていることを危惧し、支払い条件をすこし厳しくしようというのだ。その仕入れ先については曰くありで、武蔵からペナルティ的に、ゆいいつ手形決済をさせられている。
 といって、他の仕入れ先には翌月現金払いということではなく、つねに取引金額の半分が翌月まわしとなっている。日本商事との安売り合戦がおをひき、資金繰りの悪化をたてなおすあいだ、すこしの時間がほしいと迫ったのだ。
 いちぶ取引を控えた会社もありはしたが、ほとんどがしぶしぶ了承した。手形決済をされている会社というのが、いったんは取引を中断したものの、すぐに取引再開をともうしいれてきた。怒った武蔵が、ならばと手形決済となっているのだ。
 それを、他の会社どうようの条件にしてほしいと言ってきた。武蔵の存在あっての富士商会であり、不在の現状では信頼関係がよわまるということだ。ただ、五平と三友銀行日本橋支店長との姻戚関係ができあがったことで、資金繰りにかんして盤石の態勢ができあがったことは事実なのだ。
 本音の部分では、武蔵の病状うかがいといったところなのだが、そのまま口にすることもできない。で、弱気になって条件をゆるめるか、それとも条件変更はしないと突っぱねるのか、それで病状の判断をしようということだ。
「いままでどおりに」。五平のなかでは結論はでているけれども、いちおう武蔵の思惑をきいておきたいと思ったのだ。

(四百十七)

「五平、いままでありがとうな。おまえとの日々は、じつに楽しかったよ。軍隊時代にであえたことは、天の配剤以外のなにものでもない。五平に会わなかったら、いまの富士商会はないし、俺も商売なんかしていない。おれが無鉄砲にいろんな奴とやり合って来れたのも、五平、おまえがいたからこそだ。でなきゃ、あっというまにあの世行きだったかもな」
 ときどき長めの息つぎをしながら、なんとかことばをつなぐ武蔵だった。
「社長。もうそれくらいで。社長の気持ちは十分わかっていますし、あたしだって社長がいなけりや、どうなっていたことやら。女衒の最期ってのは、そりゃもうみじめなもんですから。世間さまから後ろ指を指されるようなことをしてきたわけですから」
 しんみりと答えながらも、互いを支え合ってきたこの10年の余のことが、走馬灯のように思いだされた。
「いやいや、小夜子のことにしてもだ。五平のおかげだよ、かたじけねえ!」
 無理に体を起こしかける武蔵に、あわてて五平が体をささえた。それは昨日に小夜子が感じたとおなじ、あまりの痩身さに冷水を浴びせられたようなものだった。 そういえばいつも部屋がうす暗い。明るくしようとすると、決まって「まぶしいんだ」と止められた。しかし今朝は灯りを点けてもなにも言わない。もう隠す必要もないということか、と覚悟を迫られた。
「しっかりしてくださいな。あたしだって、タケさんのおかげで真っ当な人間になれたんだ。それに、富士商会の専務にまでしてくださった。あたしこそ、世話になりました。かたじけねえってのは、あたしのことばですよ。来世でも、またタケさんと出会って、商売をしましょうや」 
 まずい、と思った。つい来世などということばをつかったことを後悔した。たがいに余命の短さを聞かされているとはいえ、口にしてはならぬことだった、はずだった。
「そうだな。来世でも一緒に商売をしたいな。こんどは、食べもの屋がいいか? あこぎなまねをしないですむ、まっとうな店がいいな。…………」
 突然にことばが途絶えて、苦しげに胸が大きく上下し始めた。異常を告げるモニター音が部屋に鳴りひびいた。五平があわててナースコールのボタンを押すと同時に、看護婦とともに医師がやってきた。夜勤明けなのだが武蔵の容態が気になり、詰め所に立ちよったものだった。すぐに処置を行ったことで、いったんは小康状態に戻った。そしてすぐに、小夜子への連絡をと命じられた。
「なあ、五平」。目を閉じたまま、突然に武蔵の口がひらいた。
「タケさん、もうそのへんで」
「みたらいさん、休みましょう」
 五平と医師が同時に、武蔵に口を開かぬようにと声をかけた。
「いや、言わせてくれ。胸んなかに収めたままじゃ、死んでも死にきれねえ」。武蔵の思いに、ふたりともそれ以上はなかった。
「おれは、嘘吐きだ。はったりもかましてきた。それで窮地におちいったこともある。嘘にうそを重ねてごまかしてきたこともあるし、にっちもさっちもいかなくなったこともある。けどな、小夜子に対してだけは嘘を吐いていない。すくなくとも、嫁として意識してからは、だ。小夜子は、いるか? いないか……」
 小夜子、小夜子と、武蔵の手が宙をさぐる。
「五平よ。小夜子につたえてくれ。武士をたのむ、と。正直者であれ、とは言わん。正直になれないときは、沈黙だ。うそつきは、いかん」
 何度もなんども、「うそつきはいかん」とくり返しながら、しだいに声が弱まっていった。そして目がカッと見開かれたが、すぐにまた閉じられた。
「7時33分、ご臨終です」
 昭和27年11月12日、武蔵がこの世を去った。

(四百十八)

 その日、武蔵の死が社員につたえられた。それまで回復の途にあるという説明を受けていた社員にとって、寝耳に水のことだった。
「専務、じょうだんはやめてくださいよ!」。服部が、大声でどなった。 
「かつがないでくださいよ」。女性陣からは弱よわしい声がもれ、「うそよ、大うそよ!」と、金切り声もあがった。
「竹田! なんとか言えよ」。じれったそうに、服部が、またどなった。
 首をうなだれながら、頭を横にふるだけの竹田だった。
「知らないんだ、ぼくも。なにも聞かされてないんだ」。
 絞りだすように言うと、両の目からどっと涙があふれでた。哀しみの涙ではなかった、ただただ、悔しさがむねに押しよせてきた。
早すぎる、はやすぎるよ、神さま
 早逝した武蔵をいたむこころとともに、
信頼されていなかった、ほんとのところは。かってにぼくが思いこんでいた、舞い上がっていただけだっんだ≠ニ、恨みの思いもわいてきた。と同時に、早逝した勝子のことばを思いだした。
「いいこと、勝利。公と私の区別をわきまえなさいよ。あなたは、あくまで、社員なの。使用人なのよ」
「だから、なんど言ったらわかるのよ!」
 金切り声にちかい小夜子のこえが階下にひびいた。相手は、五平のようだった。こんなことは、これまで一度もなかったことだ。どうしたんだろう、とそれぞれに互いの顔を見合わせた。葬儀についてのことが話し合われているはずだった。社葬とすることは決まっているし、喪主も小夜子がつとめることになっている。話し合いといっても、日時・場所については五平が段取りをつけるとなったほか、参列者についても社葬である以上、五平の采配内のはずだ。なのでここまで声を荒げるような事項はないはずだった。
「専務がなにか、お姫さまの気にさわることを言ったのか?」。社員たちの偽らざる気持ちだった。しかしあの五平が、周囲に対する気くばりをかかさぬ五平が、という思いは皆にあった。
「ひょっとして、お姫さまのわがままだろうか?」。次に浮かんだのが、このことだった。武蔵の異変を、小夜子ではなく五平に伝えられたことが、癇にさわった?」とも考えられる。しかしそれは、武蔵の呼び出しで五平が駆けつけたということだ。
「となると、社長の死期を五平がはやめてしまったということか? なにか社長によからぬ話をしたと言うことか?」と、それぞれに疑心暗鬼のおもいが浮かんでくる。
「これは武蔵の意向なの。あなたも聞いたでしょ!」。 強いことばが発せられた。
「チンドン屋を手配してちょうだい!」。つづけて聞こえてきたことばに、一同が顔をみあわせた。
「チンドン屋? 葬儀に?} 

(四百十九)

 耳をうたがうことばだった。「気がふれられたのか?」。誰かが口にしたことばが、あっというまに伝播した。
「社長の意向だって、聞こえなかったか?」。「にしても、チンドン屋とは……」。さまざまに声が上がった。
 声を抑えてくださいという五平にたいして、「あなたが:*%&$#:@;>?」と、聞きづらい金きり声がまたあがった。
「わかりました、わかりました。検討させてください」
 なんとか落ち着かせようとする五平の声があり、「だれかお茶をたのむよ」と、階下に指示がでた。すぐさま徳子が用意をして、かけあがった。
「いいこと。『にぎやかに送ってくれ。チンドン屋でもよんで、派手にな』。武蔵が言ったのよ。それに『会社から出してくれ、社員は俺の家族なんだ』とも。あなたも聞いてたでしょ」
 徳子が部屋にはいると、ソファにすこし腰を下ろし、背筋をピンとのばした小夜子がいた。五平はといえば、ひとり掛けのソファのまわりをうろうろとしながら
「奥さまの仰るとおりです。いぜんに参列された、台湾出身の陳志明さんのご葬儀に『感動的だった』とお聞きしました。長崎くんちのようなお祭り騒ぎだったと聞いています。そのおりに、『俺の葬式もこんな風にいきたいよな』とも」
 それみたことかとばかりに五平をにらみつける小夜子にたいし
「ですが、それは冗談めいたことばで……」とつづけると、
「タケゾーが言ったじゃない! あたしはタケゾーの思うとおりにしてあげたいの。世間さまがどう思おうと、そんなことは関係ないわ。好き勝手させてくれたタケゾーだもの、あたしもタケゾーの遺志を尊重してあげたいの」と、さいごは涙声になった。
「よくわかります、わかります。ですが、会社からの出棺は良しとしても、チンドン屋というのは。この界隈にはむかしからの老舗店舗もありますし……」と、にわかには賛成できない五平だった。
 すこしの静寂のあとに、徳子がおずおずと口をはさんだ。
「あたしごときが口をはさむことではないと、重々承知のうえでもうしあげます」
 お互いの感情がたかぶりすぎて、これ以上は堂々巡りになると感じていた。そこに時の氏神ならぬ徳子があらわれた。ほっとした空気がながれるなかで、しずかに声を上げた。
「いかがでしょう。ご葬儀自体はしめやかにとりおこなって、ご出棺時のみチンドン屋でお送りするといいますのは。むろんのこと、となり近所には事前にことの次第をお伝えしておくということで」
 小夜子にしても、しめやかな葬儀を望んでいた。いくら武蔵の希望とはいえ、騒ぐのは良しとしても、さすがにチンドン屋はと思っていた。しかし生前に、冗談話とはいえ
「俺が死んだときは、かなしむなよ。俺にとっちゃ、この世は地獄だったんだ。監獄にとらわれたも同然だ。小夜子を迎えて、やっと娑婆にでたようなもんだ。だから、大よろこびで送ってくれ」と、むつごとで聞かされていた。
 結局のところ、徳子の折衷案が採用されることになった。小夜子に武士、そしてお手伝いの千勢。そして、富士商会の社員たち。小夜子の実家からの出席は取りやめとした。茂作の武蔵にたいする思いを知る小夜子が、武蔵の死去後に嵩にかかった行いをとらないかと不安になったのだ。
 おそらくは本家筋から、烈火の如くに叱られることはわかっていた。
また、村人たちからの弔意をうけぬことでも、「常識がない!」と責められることもわかっていた。それでも茂作の気持ちをおもんばかって、葬儀当日に電報を打つことにした。

(四百二十)

 昭和27年11月12日のお昼近くに、武蔵がふた月の余をすぎて自宅にもどってきた。憔悴しきった小夜子を「おかえりなさいませ、おくさま。それから、旦那さまも」と、千勢があかるく迎えいれた。
「たけしぼっちゃんは、ついさっき、おねむになりました。それから竹田さんたちにおてつだいいただいて、きゃくまにごよういいたしました」
 その夜、通夜が執りおこなわれた。
入れ替わりたちかわり社員たちが武蔵の死に顔に手を合わせるなか、小夜子はただただ呆然と座りつづけていた。今日いちにちなにも食していない小夜子にたいし、千勢が汁物を用意したが、ひと口ふたくち口だけで、「もういいわ」と下げさせた。しずかにねむる武蔵をじっと見つめながら、「ひどいよ、ひどいよ」とお念仏のようにつぶやきつづけていた。
 五平はむろん、竹田ですら声をかけることができない。
 「結婚前はしかたないとしても、結婚されてから。しばらくはおとなしかった社長なのに、また女あそびはじまったもんな」
 庭先での服部のことばに、みながうなずいた。そして小夜子のことばを、武蔵への恨みごととうけとった。五平ですら、「社長の女遊びは筋金入りだった」と口にした。「原動力、ガソリンといったほうがいいかな」とも、付け加えた。
 そんな中でただひとり、千勢だけはその言にくびを縦にふらなかった。武蔵の女あそびを是としているのではなく、憔悴しきった小夜子の、いまの気持ちをおもんばかっていた。
「ひどいよ」ということばは、浮気ぐせにたいする恨みごとではないと断じた。いぶかる面々にたいして、ただひとつ武蔵の守らなかった約束を思っているのだ、と。
「小夜子を送ってから、つぎの日に俺も逝くよ」。そのことだという。そしてもうひとつ付け加えるならば、アナスターシアの墓参りをさせてくれなかったことだ、とも。そんなあ、と驚きのこえがあがるなか、五平だけは「なるほど。かもな」とうなずいた。
 そして葬儀の日、ひともんちゃくがおきた。とつぜんに小夜子が
「きょうはやめにします。まだ武蔵とのお別れがすんでいないのよ!」と、金切り声を上げた。それまで葬儀屋にたいして、ただ「はいはい」と応じていた小夜子だった。いや応じるもなにも、小夜子にはそれらすべてが耳にはとどいてはいるものの、文章としての体を成していなかった。たんなる単語の羅列にすぎず、まったく理解していなかった。
 それがとつぜんに「読経が終わりましたら、会社の方へご遺体を……」と聞かされ、それが、この家から武蔵がいなくなると言う意味だと千勢に教えられた。
「だめだめ、そんなことだめ! こんなせま苦しい木の箱のなかに武蔵をいれるなんて、ぜったいだめ! あたし、まだお別れをしていないのよ。武蔵に抱かれていないのよ」
 はげしくことばを投げつけた。だれにということではなく、言うならば、己にぶつけていた。

(四百二十一)

 業者の、
「ご遺体からの死臭のこともありますので、早めにされた方が……。万が一にも腐乱となりますと、お部屋中にしみついてしまいますし……」ということばにも、小夜子は納得しない。
「死んだんでしょ、武蔵は。もうおきないんでしょ! お風呂にもはいっていないのよ。人いちばい汗かきの武蔵だもの、におって当たり前よ。いいの、いいの。武蔵のにおいを、家中にばらまくんだから。天井にもかべにも窓にも、よ。あの掛け軸にもあそこの絵にも。あのテーブルでしょ、武蔵の大好きなソファにも。あの花瓶にも水差しにも、なにもかもにつけるの。それであたしは、その中で暮らすの。武蔵に抱かれて暮らすのよ、ねむるのよ。いやいや、火葬なんてぜったいにイヤ!」と、手がつけられない。
 そうひとしきり叫ぶと、その場に倒れこんでしまった。すぐに医者が呼ばれたが、はげしい興奮状態で寝不足もかさなっているため、安定剤の注射を投与することで、ねむらせることになった。武蔵の遺体については、深まった秋であることもありしばらくは腐敗することもなかろうということで、その日の移動はとりやめ、二日後の十四日に会社からの出棺とすることが決まった。 
 二日後の十四日早朝、ねむりつづけた小夜子が目を覚ました。十四日には、小夜子の状態にかかわらず、遺体を搬送することがきまっていた。小夜子の怒りがどれほどのものになるか想像するだに恐ろしいことだったが、その責めを五平がとることを決めていた。他の社員たちに波及することのないよう、ひとり五平だけが自宅にとどまることが決められていた。
 そんな中、小夜子が目を覚ました。おそるおそる、
「おくさま。本日、会社から出棺となります。火葬の時間がきめられておりますので、おそくとも九時には出発いたします」と、五平がしっかりと小夜子をみながら告げた。勝手に決めないで! とばかりに怒りにまかせた声がでるものと思っていた五平に
「そう。九時ね、わかったわ」と、思いもよらぬことに、しずかに小夜子がこたえた。
「ではお待ちしています」と、早々に五平がへやをでた。
 千勢が部屋にはいると、小夜子の身支度は終えていた。
「千勢にも見送らせてあげたいけど、武士をおねがいね」
「千勢はさきほど旦那さまとのおわかれをすませました。きれいなおかおでした、わらっていらっしゃるような」
 沈んだ面持ちのなか、かすかに笑みが浮かんでいる。前夜までは、ただただ泣きくれていた千勢も、小夜子が平静さを取りもどすにつれて、武蔵のこれまでを思いうかべながら、閑かにみおくれると思いはじめた。
 ふだんならば小夜子の顔をみない時間がふえるにつれて、むずかりはじめるのだが、昨日おとといはさほどでもなかった。どころか昨日にいたっては、安置されている武蔵のそばにいき覚えたての「パパ」をいくどとなく口にした。はやくおきろとばかりに、冷たくなったなったおでこやほほをぱふぱふと軽くたたきつづけた。そして小夜子のもとにいき、じっと見つめてそのばに座り込んだりもした。しかし特段にむずかることもなく、千勢の世話をうけた。