(四百七)
珍しく武蔵から、小夜子に病院までひとりで来るようにと連絡が入った。いつもなら竹田の迎えがあり、武士を連れての見舞いを喜ぶ。病室に入れなくとも、窓越しにでも武士の顔をみたいとせがむ武蔵だった。それが今日に限っては、かならずひとりで来いと言う。すこし長くなるかもしれぬから、武士が寝付いてから来いとも。なにやらイヤな予感を感じつつも、このところは体調が良いらしく、看護婦相手にじゃれている場面にでくわしたこともある。
かつて目にした、キャバレーでの武蔵の遊びを、まさか病院で見るとは思いもせぬことだ。看護婦が出たあとに、キッとにらみつけて「こんなところでも浮気癖がでるものなのね。いっそ退院したらどう? 両用専用のホテルにでも入ったら」と、イヤミたっぷりに告げた。
ふとんの上で遊び相手がいなくなったと所在なげにしている腕を、思いっきりつねってやった。でも良かった。元気が出てきた証拠なのよね=Bそう思わないでもない。そして今日は、その相手が自分なのか? と、不謹慎な思いを抱いてしまったりした。
ひとり取り残されると分かったせいなのか、今日は朝から駄々をこねる武士だった。ウトウトとしはじめたことから昼寝をしてくれると思い出かける支度をはじめると、火が点いたようにワーワーと騒ぎ出す。千勢があわてて抱き上げても、普段ならば小さくしゃくり上げる武士が、収まらない。
おしゃぶりを与えてもすぐに吐き出してしまう。そしてかわいらしい紅葉がそれをたたき落とそうとする。小夜子が抱いてもまだ泣き止まない。ならばとブラウスのボタンを外しにかかると、ピタリと泣き止んだ。そしてさも愛おしげに、両手でおっぱいを抱え込みチューチューと乳首に吸い付いた。
「やあねえ、もう。武蔵といっしょだわ」
のぞき込むようにしながら武士の閉じられた目を見た。安心感、満足感をたっぷりと持って吸い付いている。
「いたっ! 歯がはえてきたから、このごろはかまれたりして痛いのよ」
満足そうに微笑みながら、千勢に言う。千勢もまた
「そうですかあ、そうですかあ。タケシ坊ちゃんは、ママのおっぱいが好きですかあ」と、満面に笑みを浮かべて返してくる。煌々とともる灯りの下で、女性ふたりが赤児の所作に見とれている。しばらくすると吸い付く力が弱まり、両手もまただらりとなる。しかしそこでおろそうとするものなら、パチリと目を開けてしっかりと吸い付いてくる。
千勢が用意したふとんの上に、小夜子が武士を抱いたまま横になる。武士の吸い付く力が弱まる、ならばと離れようとすると吸い付く力がつよくなる。弱まる、離れる、つよくなる……。幾度かくりかえす内に、武士が眠りに入っていった。ゆっくりと離れて起き上がると、千勢と交代する。
千勢もまた上半身を裸にして、その小ぶりな乳房を武士に与える。目を閉じたまま、出もせぬ乳首に吸い付く武士だった。しっかりと武士の両手が千勢によって乳房にあてがわれ、そのままスースーと軽い寝息を立てた。
(四百八)
小夜子が病院に着くと、陽がかたむき建物やら木々やらの影がながくなっていた。病院前のバス停には五、六人の人が立っていて、バスの到着を待っている。みな一様に厳しい表情を見せている。五人掛けのベンチには、足にギブスをはめた男性と、おなかの大きな妊婦、目深にソフト帽をかぶったサラリーマン、そしてもうひとりヨレヨレになった麻地のスーツとパナマ帽の初老の男性がいた。
少し襟元をゆるくしている小料理屋の女将らしき女性が、そのベンチ横に立っていた。ベンチに腰掛けようと思えばできるのだが、もう少し詰めてくれれば座らないでもないわよと言いたげに、横目でにらんでいる。
そこに腰の曲がったお婆さんが、バスはまだ来ていないというのに「もう来るかね」とこぼしながらせかせかと歩いてきた。
「おばあさん、こちらにお座りなさい」と、初老の男性が、となりのソフト帽のサラリーマンに少し詰めるように手で示しながら、声を掛けた。
「そりゃどうも。どうもねえ、六十をすぎるといけません。いま六なんですがねこしがごらんのとおりにまがりましてね家はねここからふた駅のところなんですがやはりとしですねえもうバスにのらなけりゃいけませんわ」と、句点のないしゃべり方で一気にかまびすしくなった。
「あたしのことは無視かい」と、小料理屋の女将風の女が、小声で舌打ちをした。それを聞きとがめた初老の男性が、「あんたはまだ若いんだ」と、声を荒げた。
そこへバスがやってきて、若い女性の車掌が
「お待たせしました、○○方面行きです」と軽やかに声をかけた。
「やあやあ、良いタイミングだ。さあさあ、お姉さんも機嫌をなおして」と、サラリーマンが締めくくった。そのあとを追いかけるようにタクシーが入り、バスを追い越して玄関口で停車した。
「あらまあ、あんな小娘ふぜいがタクシーだなんて。どんなお大尽なんですかね」と、女が腹立ち任せに毒のあることばを吐いた。
ナースステーションに声をかけて、病室へと急いだ。「ご一緒します」と、ふたりの看護婦がついてくる。
「大丈夫よ、あなたたちも忙しいでしょうから」
心づけほしさね≠ニ忌々しく思いながらも、案内人のつくことに、どこか特別待遇を受けているようで気持ちが高揚する。
思えばどの店に赴いても、かならず店員なりウェイターたちが先導してくれる。小夜子自身ではなく、武蔵の妻だからだと言うことは分かっているが、それでもやはり気分が良い。女王然と振る舞えるいまを、しっかりと享受している。
部屋にはいると、差し込む西日で、武蔵の顔がはっきり見えない。顔色も分からず、その表情も読み取れない。
“どうしてひとりで来いなんて?”。そのことが気になってならない小夜子だ。
「なあに、あたしが欲しくなった?」。声にならない声で、唇を動かしてみた。
(四百九)
「おお、来たきた。俺の、観音さまだ。富士商会の姫であり、そして俺の守護霊さまだ。さあさあ、ここに来い」と、ベッドの端をポンポンと叩く。強い西日の光をさえぎろうと、看護婦がカーテンの前に立った。
「おいおい、そのままにしてくれ。小夜子の顔がはっきり見えるんだから」と、怒気のふくんだ声が飛んだ。そこに、医師と婦長が入ってきた。
「なんだなんだ、今日は。小夜子とふたりだけの時間は作ってくれないのか。先生、婦長までもか。そんなにおれは悪いのか? まるで臨終の儀式みたいじゃないか」
おどけた口調で言う武蔵だったが、
「なんてことを! 先生、ちがうわよね」と、涙声で小夜子が問いただした。己の死期がちかいことは、武蔵は知っている。しかしそのことは小夜子には言わないでくれと、何度も武蔵が口にしている。
気持ちの変化でも起きたのかといぶかしがる医師に対して、婦長が
「あらあら。あたしたちはお邪魔虫みたいね。さあさあ、血圧を測ってちょうだい。お熱もね。どうにも奥さまがいらっしゃらないとわがまま三昧で」と、その場をとり繕った。
「婦長だけだ、俺のことをわかってくれるのは。一回の呼び出しでは来なくていい。二回目が鳴ったら、そのときは緊急時だ」
顔を真っ赤にしながら、なにも言えずにいる小夜子だった。普段ならばなにがしかのことばで言い返すのだが、入院してからというもの、夫婦としての会話がまるでない。
ひと月は、武士の相手ができるわと楽しんでいたけれども、ふた月も経つと寂しさを感じてしまう。しかも小夜子の寂しさを知ってか知らずか、武蔵はこのところにこやかな表情を見せることが多くなった。むろん時には苦痛に歪む表情を見せることがある。しかし武士の笑顔をガラス越しとはいえ見ると、すぐに破顔一笑となる。
ただ武士を連れて来るときには、大騒動なことになる。本来ならば「赤児の見舞いはお断り」となるのだが、武蔵の無理強いは度を超えている。なのでやむなく、いやがる武士にマスクをさせて、さらには肌が病院内の空気に触れないようにと、手袋をさせてつれてくる。
しかも武蔵との面会のおりには、上部がガラス面のパーテーションを部屋に持ち込んでのことになる。そして三十分以内という時間の制限もつける。不満顔を見せる武蔵だが、万が一にも感染してはという医師のことばに従わざるをえない。
「さあそれじゃ、みんな。おふたりだけの時間にしましょう。先生、三十分ならよろしいかしら? 御手洗さん。くれぐれも病人だということを忘れないように」
(四百十)
部屋の照明は落としたまま、ベッドぎわの灯りだけを点けた。上向きの灯りは、うす暗くはあったが落ち着いた雰囲気で、気持ちも和やかになってくる。ふとんの中に入れと、小夜子を迎え入れた。しわになりにくい素地の服だということで、小夜子も久しぶりに武蔵に触れられるとウキウキしてくる。
しかし武蔵の体を感じたとたん、あまりの痩身ぶりに驚かされた。たしかに腕にしろ足にしろ、細くなっていることは見ていた。が、直接に小夜子の体全体で感じる物とは異質のものだった。
こんなに痩せ細ってるの? ううん、だいじょうぶ。退院したらしっかりと栄養を摂らせるから
小夜子のそんな思いを推し量ってか、
「小夜子。病院食ってのは、精進料理そのものだな。まるで脂っ気がないぞ。ああ、中華そばが食いたい、ステーキもがっつりといきたいぞ」と、両手を合わせてお願いポーズを見せた。
「分かったわよ、わかった」と、武蔵の手をふとんの中に収めたとたんに、やっぱりだわ、熱がある。勝子さんと同じだわ。良くなったと思ってたのに、あのあと……≠ニ、不安がおそってきた。
「あなた! しっかりと治療を受けてよ。武士が一人前になるまで、しっかりと」
母親が子どもを叱るように、ひと言ひと言に力をこめた。武蔵はそんな小夜子のことばには答えずに、淡いベージュ色の天井を見つめたまま
「おまえ、ピグバンドが好きだったな。そのなかで、どの楽器が好きだ?」と、唐突な問いかけをした。
「トランペット!」。間髪を入れずに答えた。なにか重大な意味がありそうにも思えるし、ひょっとして、性格占いのような本でも読んだ? それとも、自己啓発本のようなこと?≠ニ、疑問も湧いてくるけれども、ただ単に話のとっかかりなのかとも思える。
「そうか、思ったとおりだ。だから俺に惚れたんだな。俺もな、トランペットだ。というよりも、俺自身がトランペットなんだよ。トランペットを目指したんだ。意味不明か? 突撃隊長だ、猪突猛進だ。なにがなんでも、前に行く。未来を明るく照らして、他の楽器を引っぱるんだ」
手を宙に舞わせながら、ことばが止まらない。人差し指を唇にあて、他の指を両手の指を上下させながら、「ぷっぷっぷっ、パッパッパラパ」と声を出す。
「前に、まえに、だ。大きな音をひびかせて、静寂なんてしったことじゃない。とにかくやかましい。やかましいけれども、気分が盛り上がるんだ。行け、いけ、いけえ! だ。俺はそうやって生きてきた。小夜子。お前には寂しい思いもさせたな。人混みがだめな俺は、いつもお前を放り出してしまった。
小っちゃい頃にな、押しくらまんじゅうをした。そのときに、体が小っちゃかった俺は、いつも悪ガキどもにいじめられた。軍隊では、二枚目の俺をにやけた奴だと、またやられた。役者連中といっしょに、かわやに閉じ込められたこともあった。それらが思いだされるんだよ、人混みに入っちまうと」
これまでの武蔵の人生をふりかえるがごとくに話す。俺を覚えておいてくれ、俺という人間を知っていてくれ、そう言わんばかりのことばの羅列が、小夜子の胸をえぐる。
(四百十一)
「もう良い、もういいわよ。武蔵の優しさは、あたしが一番知ってる。武蔵がどれだけ頑張ってきたか、あたしが、よく知ってるから。
体にさわるわ、もう休みましょう」
なんとか武蔵の興奮状態をおさえようと必死になるが、武蔵自身は興奮状態にあるわけではない。おのれの死期がちかづいていることを、知られたくないという思いととともに、気づいて欲しいという願いもある。そんな相反するものが、今日の武蔵を饒舌にさせていた。
「ところがだ。小夜子に会ってから、小夜子に惚れてから、俺は変わっちまった。トランベトがうるさく感じるときがある。いやいや嫌いになったわけじゃない。気づいたんだよ、小夜子。大事なことを、な」
トーンを落として、静かに話しはじめた。
「小夜子。お前に会ってから、俺はおかしくなった。なにかが弾けてしまい、消えちまった。それまでの俺は、なにがなんでも成り上がってやると思ってた。法律に触れることはしちゃいないが、スレスレはやった。人をだますことも、ギリギリまでやった。うちが、富士商会がもうかればいいと、な。トランペットだったよ、俺は。そしてそれを他の者にも求めた」
すっかり辺りが暗くなり、一切の景色が変わった。遠くに見えていた富士の山も見えなくなり、代わりに煌々と光るネオンサインが幅を利かせてきた。
「もう三十分以上よ。そろそろあたしは帰るわね。また明日にでも来るから」
ふとんから抜け出そうとする小夜子を、痩せ細った、熱を感じさせる手が引き留めた。
「もうトランペットじゃない。いまじゃ、信じられんことだが、ベースだ。あの、ブンブンブンと地味な音を響かせる、腹にズシンズシンと入ってくるベースになった。俺の意識外だった、あの図体のでかいばかりのベースが、俺の心臓をえぐるようになったんだ。トランペットが中心だと思っていたよ、俺は。けどな、違うんだ、だめなんだ、トランペットだけでは。トロンボーンもいるし、クラリネットもいる。ピアノもいるしドラムもだ。みんなが一体となって、ひとつの楽曲を完成させるんだ。そしてその中心が、ベースなんだよ、そう思うようになった。もう少し、もうすこし話をさせてくれ」
武蔵が、すがるような目を小夜子に見せる。こんな弱々しい武蔵は見たことがない。常にヒーロー然たる武蔵を見てきた小夜子には、なにか特別のことが、武蔵に起きているように感じた。
「どうしたの、武蔵。きょうはおかしいわよ」
頭を、しっかり太い髪の毛を指でなでながら、「大丈夫よ、だいじょうぶ。武蔵が、もういいっていうまでいるから」と、やさしく受けた。
「小夜子。俺はお前に会うために生まれてきた気がする。小夜子という宝石を輝かせるためだけに、俺は生まれてきた気がする。小夜子。お前は幸せだったか?」
「もちろん、もちろん幸せよ。どうしてそんなこと、聞くの? へんな武蔵」
過去形だった。「幸せか?」ではなく「だったか?」。なぜ、どうして過去形なのか。ただ単に言い間違えただけなのか。感傷に浸る武蔵の、単なる感傷から出たことばだ、そう言い聞かせる小夜子だった。
(四百十二)
「小夜子。おまえは、ヴァイオリンだ」
とつぜんに己のことをふられて、なんと答えれば良いのか窮してしまった。しかし武蔵はお構いなしにことばをつづけた。「おまえは、ビッグバンドの、いやオーケストラのといっても良い、ヴァイオリンなんだよ。そこにいるだけで、あるだけで、光を放っている。華やかな、存在だ。誰もがひれ伏す存在だ。いや、ヴァイオリンがなければ成り立たない」
こんなの褒めことばは、小夜子には面はゆい。
「やめてよ、もう。どうしたの、今日のタケゾーは。熱でもあるんじゃない?」
といって、熱に浮かされている節もない。心底からのことばに聞こえる。目を見ればわかる。しっかりとした瞳がそこにあり、そしてしっかりと小夜子を見ている。まるですぐにも居なくなってしまう小夜子を見忘れないようにと、しっかりとめにやきつけようとしているかのごとくだ。
「やあねえ、もう。あたしはどこにも行かない」
ま、まさか……。ううん、そんなのうそよ。いつもの、武蔵の冗談よ。あたしを悦ばせるための、いつものことじゃない≠ニ、激しく打ち消した。
「なあ、聞いてくれ。こんな時じゃなきゃ、お前は信じないだろう。御手洗武蔵の、おれだけの女王さまなんだよ、おまえは。透きとおった高音が奏でられるかと思えば、ふてぶてしい低音で突き放しにかかる。キラキラと弾けたり、ズンズンとひびく音色もある」
武蔵の唇に小夜子の細い指が置かれた。もういいから、お休みしましょう、と目が言う。
「いいから、きいてくれ。きょうは気分が良い。全部、ぜんぶだ、吐き出したいんだ。なあ、覚えてるか? ベニー・グッドマン楽団を。最初でさいごだったなあ、一緒に聞いたのは。あれはいつだったかなあ……、」
懐かしそうに言う武蔵だが、小夜子には覚えがない。
「どうしてだろうなあ。キャバレーの女どもなら、いくら居てもなんともないのに。気心の知れた連中となら、どんなに騒がれても平気なのに。あのときは、ずっと我慢してたんだ。けどどうしても気分が悪くなって、途中で帰ってしまった。あのときの小夜子の怒りようはすごかった。せっかくセットした髪をクシャクシャにして。そうだ。帝釈天みたいに髪が逆立ってみえたよ。悪かった、ほんとに」
だれかとまちがえてる……=B怒りではなく、哀しい気持ちが一気にこみ上げてきた。しかし武蔵の必死の声は、嘘ではないようにも聞こえた。というよりも、閉じられたが目が開かない。小夜子との会話なのだが、いま横にいる小夜子ではなく、夢の中で相対している小夜子に向かってのことばのように思えてきた。
夢? いま、ゆめの中にいるの? あたしは、ここよ。タケゾーのとなりにいるじゃない。一緒のふとんに入っているじゃない。タケゾー、たけぞう。あたしを見て!
(四百十三)
「けどもこんどは、本場で聞こうな。アメリカに行って、アナスターシアだったか? お墓参りをすませてから、ラスベガスに寄ろう。
な、なあ。それで機嫌を直してくれよ」
涙があふれ出した。揺り起こそうかとも思った小夜子だったが、いまはこのまま夢のなかの小夜子でいいかと思いなおした。
「小夜子。俺ほど小夜子を知っているものはいないぞ。頭の髪の毛一本から足のつま先でも、俺は小夜子を当てられる。はらわたの一つひとつまで知っている。肺も心臓も、胃袋だって知っている。きれいだぞ、とっても」
ふーっと大きく息を吐いて、カッと目を見開いた。起きたのかと思いきや、またすぐに目を閉じてしまった。
「おおおお、ステーキを食べたな? いま胃をとおって、腸にはいった。栄養素に分化されて、肝臓やら腎臓にとどけられるんだ。そしてそのカスが便となって外に出る。汚いことなんかあるか! 食べてやるぞ、俺は。昔むかしな、越という国の王が、呉の国王の便を食べてでも生きながらえて復讐したという、ほんとか嘘かわからん話があってな……」
いかにも嬉しそうに口角をあげる武蔵だったが、そういえばと思いだした。武士が出した緑っぽい便を指ですくって、まず鼻の先で匂いを嗅ぎ、そしてそのまま口に入れてしまったことがあった。鼻をグスグスとし始めたときには、「くるしいか、くるしいか」と呟きながら、イチジクの実のように赤くなった鼻に吸い付いたりもした。そしてズーズーと武士の鼻汁を吸い取った。
タケゾーならやりかねないわ。タケゾーほど実のある男性はいないわ
涙があふれてきた。お上手ではない、ごますりではない。本心からのことばだと、小夜子には感じられた。
「小っちゃい頃にな、押しくらまんじゅうをして、よく遊んだよ。そのときに、体が小っちゃかった俺は、いつも真ん中におしこめられてなあ、悪ガキどもにギューギューだ。痛いいたいって叫んでもお構いなしだ。イヤ、かえって押されたかなあ。
軍隊では、二枚目の俺をにやけた奴だと、またやられた。役者上がりといっしょに、厠に閉じ込められたこともあったぞ。もう、くさいの、なんの。それにうっかりすると、ドボン! だ。だからな、どうにも人混みがダメなんだよ。勘弁してくれなあ」
(さっき聞いたわよ、そのことは)。喉まで出かかることばをぐっと飲みこんだ。
タケゾー、死んじゃイヤよ。あたしを残してなんてダメよ。もしもタケゾーが死んだら、あたしも死ぬ。もうイヤだもん、ひとり残されるのは。お母さんでしょ、アーシアでしょ、そして勝子さん。みんなみんな、死んじゃった。
「おんぎゃあ、おんぎゃあ!」。武士をあやす千勢が苦労している。いや、千勢ではなかった。アナスターシアだった。大きく胸が空いたドレスを着たアナスターシアがあやして……、いや待て……勝子だった。勝子が汗だくになって、ミルクを飲ませようとしている。しかし武士は手で払いのけて、母乳をほしがっている。
「ごめんね、ごめんね。お乳はでないのよ」。必死に叫ぶ勝子の声が、火の付いたように泣き叫ぶ武士の声にかき消された。
「タケゾー、帰るわ。武士がお乳をほしがってるの」。未練がましく手を伸ばす武蔵をふりきって、ベッドをおりた。
(四百十四)
時計を見ると、もうかれこれ二時間ちかくは経っている。廊下をゴロゴロと配膳車が通る音が聞こえてくる。いつ部屋が開けられるかもしれない。このままふとんの中にいるわけにはいかない。そっと体を起こして、ベッドから下りようとした。しかし小夜子の手は武蔵に握られている。無理にでも離そうかと思ったが、それでは気持ちよく眠っている武蔵を起こすことになってしまう。いや、それよりも、夢のなかにいる小夜子を消してしまうことになる。
「男、みたらいたけぞうは、小夜子の中にいる。小夜子。おまえが俺を覚えていてくれる限り、俺を愛していてくれるかぎり、俺は、俺は……。男、みたらいたけぞうだ」
普段から、「さよこが一番だ、好きだ、愛しているぞ」と口にする武蔵だ。ともすると人前でも口にする。アメリカナイズされた武蔵の、面目躍如だ。しかししだいに、小夜子のこころが沈んできた。
なに? どうしたの? いくらなんでも、おかしいわ。ほんとは起きてる? あたしをからかってる?
いま、気づいた。顔色が、すこし土色がかっている。部屋に入ったときには西日が強く、武蔵の顔が見えなかった。弱々しくはあったが、はっきりとした口調の声だけだった。それで安心してしまった。もう大丈夫、元気になる、そう思ってしまった。
「小夜子。武士だけを、愛してやってくれ。武士に、おまえのすべての愛情をそそいでやってくれ。他の者から甘やかしすぎだと言われても、俺の代わりにたっぷりと愛情を注いでやってくれ」
いまは武蔵の目がしっかりと開いている。それでも小夜子をみることはなく、天井をしっかりと見すえながら語りつづけた。
「俺は、いらん子としてこの世に産まれた。疎ましく思われる子どもだった。けど、母親のおかげでここまで生きてこれた。武士にはそんな思いはさせたくない。万が一に俺が死んだら、おまえひとりになったら。再婚してもかまわん。けど、けど、武士だけにしてくれ。おまえの愛情は、武士だけに与えてくれ」
さいごは絞り出すような声だった、喉がからからになり、ひりついた声だった。
「じゃあ、あたし帰るね。武士も待ってるだろうし」
これ以上武蔵のそばにいては、泣きだしてしまうかもしれない。どうにも今日の武蔵は手に負えない。あり得ないことが、小夜子に起きている。いつもと違うのだ。いつもは小夜子が駄々をこねて、それを武蔵がなだめる。お気に入りのソファに武蔵が腰掛けて、そのひざに小夜子がすっぽりと収まる。そして小夜子の黒髪を武蔵が愛おしげになでながら、ことばのセレナーデをささやくのだ。
「寿司が食べたい、小夜子と一緒にたべたい」
幼児のように駄々をこねる。そして築地の寿司店の桶がとどけられた。旬のネタが並べられている。
「なんだなんだ、いさきがねえぞ」
とりたてて好物だというわけでもないのに不満をもらし、「ならいらねえや。さよこ、おまえ食べろ」と、そっぽを向いた。わかっていた、食べないであろうことは。無理難題を言ってみたいだけなのだと。甘えてみたいだけなのだ、と。
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