(三百九十九) それは突然のことだった。武蔵が入院して、ほぼひと月が経っていた。「なんでいまごろになって!」と、憤りの気持ちがきえない。週刊誌の記事に、武蔵の刺傷事件が面白おかしく載った。 『親の仇討ち! ~義侠心からのこと~』 銀座の有名百貨店における刺傷事件として新聞記事になりはしたものの、一報だけで終わっていた。むろん被害者として武蔵の名前が発表されはしたが、単なる三面記事であり続報として載ることもなかった。取引先からちらほらと問い合わせが入りはしたが、「軽傷です」との答えに大きな動揺は起きなかった。また入院が長引いていることについては、「このさい休養も兼ねて、持病の肝疾患も治療しています」と答えていた。一部いぶかる向きもあったが、五平と真理江の結婚話が持ち上がっているとの噂をながして動揺を抑えきった。それがいまになって、詳報が出てしまった。 ――――― 犯行に至った男が、その足で自首をした。その出頭先が日本橋署ではなく新宿署だったことから、警察内部では身代わり出頭かといきりたった。しかし日ごろ懇意にしている刑事の元に、その刑事の点数稼ぎのためだということが分かった。もちろんその裏には「自首をしたのだから」と、情状酌量の余地をのこしておきたいという思惑があったとも報道された。 有名百貨店での犯行であることから、新聞報道ではトップ記事になるかもしれない、そのおりに少しでも斟酌された記事内容になるように根回しをと、犯人がその刑事に懇願した。動機について、「老舗の大杉商店が倒産したのは、被害者が経営する会社によってのことだ。義憤にかられて、天誅をくわえた」と自白した。 「大杉商店の三女と懇意にしていたが、とつぜんに姿を消してしまった。それが最近になって連絡がはいり、夜逃げの真相をきかされた。そして親の仇討ちとばかりに新会社を立ち上げたが、結局相手の卑劣な手段によって、またしても倒産させられた」と聞かされて、卑劣な男だと知り、社会に害を与える男だと思った。 犯人としては義侠心にかられてのことであり、私利私欲からではないと強調している、と。 ――――― 続報として、「犯人の身元照会の結果、未解決事件の参考人であることがわかり、結局は重罪犯としてきびしく取り調べを受けることになった」と、他のゴシップ専門の週刊誌に載った。さらには、武蔵の女ぐせの悪さも調べ上げられて、当初の被害者であることからの同情論が消えていってしまった。もっともそのことは業界ではすでに知られていることであり、富士商会の業績に響くことはなかった。ただ、弁解をさせられる社員たちが辟易したことはいうまでもない。 (四百) ゴシップ誌を手にした小夜子が、武蔵の枕元で「タケゾーの悪行が載ってるわよ」と、なかば冗談、なかば真剣な顔つきで耳元にささやいた。眠りに入っている武蔵にその声が届くわけがないと思いつつ、「はやく起きてよ。アメリカに連れていってくれるんでしょ」とつづけた。 「わかった、わかった」。とつぜんに武蔵が小さく声をあげた。うっすらと開けられた目だが、まだ力が弱い。冬の曇り空からかすかに顔をのぞかせる太陽の光のように、まるで暖かみのないどんよりとした目だった。 「起きたの? あたしが分かるのね?」 ふとんから出された血管の筋がくっくりと浮きでた手をしっかりとにぎりながら、武蔵の目をのぞきこんだ。 「小夜子だろ? おれの観音さまだ。富士商会のお姫さまだろ?」 目の光に少しずつ力がはいり、ことばも明瞭になった。枕元のブザーを力をこめてなんども押しながら、「はやくきて、はやくきて! めがさめたのよ!」と、怒鳴るように声をあげた。 ここ数日のあいだ意識混濁があり、見舞客の認識ができなくなっていた。小夜子ですら分からずにいた。そしてきのうから意識が途切れ、面会謝絶状態になってしまった。 「そんなにあわてるな。小夜子とふたりだけの時間がなくなっちまう」 「なによ、それ」と、ほほを赤らめながら言うが、「ふたりだけの時間がなくなっちまう」と言った武蔵の真意には気づかない小夜子だった。いつもの冗談だと聞き流してしまい、「あした、武士をつれてくるから」と、目からあふれ出る涙もふかずに、武蔵の手をしっかりとにぎっていた。 担当医と数人の看護婦が息せき切って病室に入ってきた。 「いやあ、良かった、よかった。意識がもどられましたね、とりあえず安心だ。脈も……、すこし弱いが、起き抜けだからでしょう」 ことばをにごしながらも、とりあえず意識が戻ったことに安堵した。なにせ多額の金員を受けとっている。「なんとかたのみます」と、土下座せんばかりの五平から受けとっている。長くはないかもと五平には伝えてあるといえども、このまま還らぬ人になられては困る。 翌日から引っ切りなしの見舞客で病室があふれかえり、小夜子とのふたりだけの時間がとれないでいた。覚悟する時間を作らねばと考える医師だったが、小夜子の来院も三日に一度ほどと、医師に全幅の信頼をよせている。 婦長が、ふたりの看護婦をつれてはいってきた。「小夜子さん、良かったわねえ」。満面の笑みをたたえて、婦長が小夜子を抱いた。ゆいいつ担当医以外で武蔵の病状を知る婦長だった。 (四百二) 回復しつつあるかに見える武蔵だったが、まだ危険な状態にあることが、小夜子ではなく五平に伝えられた。小夜子には耐えられないことだから、と武蔵が医師に頼みこんだのだが、じつのところは外部にもれることを恐れたのだ。感情の起伏がはげしい小夜子では、どうしても隠しきれないと思ったのだ。 「時期をみてわたしから話します」と、医師に念を押した。本来ならば家族である小夜子に告げるべきことなのだが、武蔵の社会的立場を考えればやむを得ないことかと、納得した。それに小夜子には赤児がいる。まだまだ母乳を必要としている。なにより母親のこころが安定していなければ、赤児にも影響がでかねない。 「手は尽くします、最新のくすりも手配していますし。希望を持っていきましょう。なんといっても、御手洗さんの精神力が肝心ですから。やまいは気から、このことばが本当のことだったと、笑いましょう」 しっかりと武蔵の手を握って、大きくうなずきながら励ます医師だった。 当たり前のように木枯らしが吹く十一月に入ってのことだった。武蔵が入院して、ほぼ2ヶ月が経つ。富士商会に対する風当たりも収まり、武蔵の復帰が取り沙汰されはじめた。取引先から尋ねられる社員たちも、詳しい病状やら退院の予定を聞かされていないこともあり、尾ひれの付いたうわさ話が飛びかいはじめていた。 武蔵の病状については悲喜こもごもだったが、富士商会の先行きに関して悲観的なムードが漂いはじめた。そうなると当然のごとくに、売り先の切り崩しがはじまった。先頭に立った服部の防戦もむなしく、月を追うごとにじり貧になっていた。 おまけセールで資金繰りが悪化しているらしいという噂を仕入れ先に流され、竹田や五平の元に毎日のように確認の電話が入った。中には、個人保証を求める声もあり、五平の荒い声が会社中に響きわたることも多々あった。 武蔵の入院がながびくにつれ、富士商会内部につめたい風が吹き込むようになってきた。五平の怒鳴り声が毎日のようにひびき、若手社員たちのあいだにすこしずつ不満がたまりはじめた。武蔵もミスをした社員には容赦なくしかりつけた。場合によっては手を上げることもあった。しかしかならず付け加えることばがあった。 「罪を犯したから罰せられるんじゃない。己をあざむくからおのれに罰せられるんだ。いいか! 俺が叱っているんじゃない。自分に言い訳をするから、代わりに俺が叱っているんだ。けどな、これだけは覚えておけ。自分を守るやわらかい鎧をこころにまとえ」 そのあとに竹田なり服部なり、そして女子社員には徳子がよりそって、「きょうは自分を責めても、あしたはじぶんを褒めるんだぞ(のよ)」と慰めていた。 武蔵に言われている。 「叱ったり責めたりばかりじゃ、萎縮してしまう。おまえたちが、気持ちを解放させてやってくれ」 しかしいま、もう余裕がない。皆がみな、こころではなくからだに硬い鎧をまといはじめた。ギスギスした空気が会社内に充満し、からだを縮こませながら眉間にしわをつくりはじめた。 「おはよう! みんな」と、小夜子が顔をだす。とびっきりの笑顔をみせる。一斉に「おはようございます、姫!」と、返ってくる。いっきに空気が和らぎ、寒風がおさまり春風が入りこんでくる。 「社長はいかがですか?」 「元気よ。近いうちに、会社に顔をだすかもよ」 と、嬉しいたよりを、とどけてくれる。それが嘘であることは、社員全員が知っている。しかしそれでも、小夜子に対して「待ってまーす!」と声を返した。いまはとにかく辛抱のときだと、みなが互いを叱咤する。そしてその輪の中に、中心に小夜子がいた。 (四百三) 難色を示していた真理江が、佐多の懇願にちかい説得によって、五平との婚姻を受け入れた。将来の社長含みとしての五平を受け入れた。風采のあがらぬ三十半ばの男を、夫とすることに同意した。 もう女としての幸せは捨てるわ。父の言うとおり、行くゆくは富士商会を一部はムリとしても二部にでも上場できる会社に育て上げるのよ。その五平とやらいう男を使ってそだてあげるのよ≠ニ、おのれに言い聞かせた。 武蔵の息子に社長職をゆずることになるとしても、二十年いや三十年はかかるだろう。真理江には子ができない。先の流産で、「子どもは難しいかもしれません」と告げられた。離縁は、そのことが理由でもあった。女でなくなった、そう告げられた気がした。 それならそれでいいわ。おんな男になってやるわ≠ニ、生来の勝ち気な性格が頭をもたげた。そして父親から受けついだ出世欲が、真理江をして事業欲に目ざめさせた。 「真理江。おまえには辛い道のりになるかもしれんが、父の夢をはたしてくれ。富士商会は博打企業だ。社長の勘で商売をしている。ワンマンというのは伸びやすい。しかしかならず頭打ちとなる。ある規模に達すると、成長が止まってしまう。そして代替わりすると、ほとんどが衰退していく。二代目が悪いんじゃない。組織経営というものを取り入れられないからなんだ」 書斎で、佐多が真理江相手に熱弁をふるう。真理江も神妙な面持ちで聞いている。大銀行の、日本一の支店長まで駆け上がった父親のことばだ。ひと言も聞きもらすまいと、ときにメモをしていく。 「おまえは表舞台には立てない、残念ながらな。加藤専務が社長になるだろう。だから、軍師として黒田官兵衛になるんだ」 今太閤と賞賛されている豊臣秀吉のお抱えである黒田官兵衛、真理江も知ってはいる。しかしなぜいま、その名前が出てくるのか、佐多の意図が分からずにいた。 「これから式を挙げるまでの短期間、おまえを銀行によぶ。そしてわたしの秘書のひとりにする。徹底的に教えてやる、取引先につれ回る。実地も兼ねてのことだ。外部には、おまえの体裁を整えるためとみえるだろう。陰口をたたく者がでるかもしれん。言わせておけば良い、そんなものは。お父さんは、本店に行く。そして役員になる。そしておまえをバックアップしてやる。おまえは、富士商会を一流企業にしあげなさい」 慈愛にみちた笑顔なのに、その目は冷ややかなものに感じられた。 おとうさま。きれいごとはやめましょうよ。はっきりとおっしゃって。頭取をめざす、と (四百四) 五平と真理江との式は地味なものとなった。武蔵にしろ佐多にしろ、品格のある一流ホテルでと考えた。しかし真理江がどうしても納得しなかった。となり近所には体調を崩してのことと、なっている。離縁されての実家がえりとは知らせていない。 しかし真理江が戻ってそろそろ半年を過ぎようかとしていることもあり、「離縁されたのよ、きっと」、「あの気性では、お姑さんとはねえ」といった陰口がとびはじめた。真理江としては離縁の理由が、跡取りを産めぬことだとは知られたくない。子の産めぬ石女だからとは知られたくない、あくまで姑との諍いからとしたいのだ。 そんな中いまさらのこと、ことさら大げさな華燭の典などしたくない。できれば誰にも知られることなく、実家からはなれたいのだ。ましてや、相手は風采の上がらぬ男だ。婚姻の条件として、次期社長にという約がある。せめても会社社長婦人として、面目だけは保ちたい。 しかし入籍だけでよいという真理江の願いは、さすがに受け入れられない。五平はそれでもよいと思うのだが、それではけじめがつかないと佐多が言い張った。前夫のことを引きずらさないためにも、式だけは上げさせたいと願う佐多だった。 婚姻話が外部にもれたとき、佐多家側からの漏洩は考えられず、「案外のところ、御手洗社長の策略か?」と疑いを持った。銀行にとっては何のプラスもないことだが、資金繰り悪化が噂されている富士商会側にとっては、これ以上の援軍はないはずだからだった。支店長あての電話が、翌朝から引きも切らずとなった。 「あたしどもも宴に参列させてもらえれば」と申し出る取引先がほとんどだった。ふたりの結婚を祝するためではなく、新婦の父親である佐多との、ひいては三友銀行とのつながりを持ちたいがためのものであることは自明の理だった。しかし真理江の思いをおもんばかって、すべてを丁重に断ることにした。 五平には家族と呼べる者がいないことから――というよりは五平が家族を呼び寄せることを嫌がったことからなのだが――ほんの身内だけのこととなった。武蔵の出席がかなわぬことが五平にとってはこころ残りではあるが、小夜子を新郎側の主賓とし徳子に服部そして竹田を出席させることとなった。真理江側は再婚であること、さらには新郎側との人数あわせの意味もふくめて、両親と弟そして親戚を代表して叔父ひとりが出席した。 武蔵の華燭の典が、新郎側の地でなく小夜子の実家で行われたことに、「こちらでもやらんことには格好がつきませんよ」と、五平が注進した。 しかし武蔵は、「いいさ。取引先にはすでに広まっていることだし」と、相手にしなかった。 「それに、小夜子のじいさんは、たぶん納得していないだろうだろうからな」と、茂作を気づかってのことだとにおわせた。そのことからひっそりと、流行りはじめた神社での式を挙げた。 五平の自宅にはわかがいる、いやいたのだ。そんなわかを追い出す形となってのことだ。華々しいことはさけたいというのが気持ちもあった。そしてなにより、武蔵の入院中という大義名分があった。取引先に対しては、五平と佐多家との連名で挨拶状を送付している。そのことだけで十分なこととした。 問題はそこではなく武蔵の後継として、社長就任をその挨拶状に書き込みたいという佐多の言だった。武蔵はもちろんそれでいいと快諾しているのだが、五平が頑としてそれは拒否した。武蔵の引退が近いと誤解を与えかねない、というのが五平の言い分だった。それでは佐多の思惑通りに事が進んでしまうと、武蔵を説得した。そして佐多に対しては、まだ社内での根回しがすんでいないことを理由にした。さらにはいまの時期での社長交代は、社外的にみて会社乗っ取りと思われてしまうのではと難色を示した。 その五平の説得に佐多は納得したのだが、真理江が難色をしめした。武蔵との口約束にすぎないのではいやだとゴネて、念書にしてほしいと詰めよった。それには五平が首をたてにふらず、さながら主導権あらそいの様相を呈した。結局は、五平の「いかにも、という感じですな。それは、世間体が悪い」ということばで決着がついた。そのことを武蔵に報告したとき、意外なことばを聞かされた。 「やっぱりそうなったか。娘がゴネるとは思っていたが、佐多が折れたな。銀行は世間体を気にする。押しておして、押しまくってやれ。娘を嫁にしたら、五平の勝ちだよ。無理難題をふっかけてやれ」 どこまでも底の知れぬ武蔵に、空恐ろしいものを感じる五平だった。と同時に、やっぱりタケさんはすごいと、安堵感も感じる五平だった。 (四百五) 神社での式は古式に則ったもので、以下のように行われた。 1 参殿:親族の待つ神前に、新郎新婦がはっていくる。 2 修祓:斎主である神主が、修祓の儀式で参列者を祓い清める。 3 斎主一拝:神主が神さまに一礼し、これに出席者たちもならう。 4 祝詞奏上:神主が祝詞でもって、神さまにふたりの結婚を報告する。 5 三献の儀:三種類の杯で御神酒を飲み、ふたりの契りを結ぶ。 6 誓詞奉読:神前にて、ふたりで結婚を報告する。 7 玉串奉奠:玉串をお供えして、ふたりのつながりを固める。 8 巫女の舞、:たりの門出の祝福と両家の繁栄を祈っての舞い。 9 親族盃の儀:神主からふたりと両家への祝辞があり、参列者一同で神前に拝礼する。 10 退場:神主、新郎新婦、親族の順で退出する。 神社側から、一般的に取り入れられはじめた指輪交換の確認があったがわかを生涯の妻とする≠ニ、こころで決めた五平はそれを拒否した。真理江の叔父の提案で、指輪の代わりに赤い紐をつかってはどうかと意見が出たが、こんどは真理江が拒否した。 五平への対抗心からではなく、父親に対する反抗心じみたものからでたものだった。それがゆえに、仲人を立てることすら拒否した。これには五平も意外な思いでとらえることになり、これが、女衒を生業にしていたとする罰なのか≠ニ、重く受けとめることになった。 ひんやりとした空気の漂うなか、ふた組のふとんを横にして五平と真理江が対峙している。本来なら初夜のこのとき、ふたりの思いは熱く燃えたぎっているはずだった。あからさまな政略結婚であることについて、真理江に不満があることは五平も承知している。いくら出戻り娘とはいえ、世間にたいして胸を張って「主人です」と公言できないだろうとは思っている。まだ三十半ばなのに、四十を超えたとみられている五平だった。 「あんなお若い娘さんを娶られるとは、うらやましいかぎりですな」と、口々に取引先から祝いのことばとともにつけ足される。 世間一般では、十歳ほどの年の差やらでは当たり前のように誕生している。しかし真理江の境遇を持ってすれば、より条件の良い相手が見つかるはずなのだ。三友銀行という大銀行の日本橋支店長令嬢なのだ。 よりによっておれのような風采の上がらぬ男に、女衒のおれにとつぐことになるとは そんな思いが強い。せめてもこのあと、真理江の夢をかなえてやりたいとは思っていた。社長夫人、その地位を渇望していることは知っている。しかし正直なところ五平にその気はない。むしろ己ではなく、佐多を迎え入れた方が良いと考えていた。そして行くゆくは武蔵のひと粒種である武士を社長に据えたいと、強く願っていた。そしてそれが実現するように、なんとしても道筋をしっかりと作らねばと思った。 (四百六) 万里江にしてみれば、女としての自分は死んだと思っている。子を生せぬ体では、女としての価値はないと打ち据えられた。 「これからもこの家に居たいのであれば、妾のひとりやふたりは認めてもらいます。その妾たちに子を生させます。それが条件です!」 姑のことばに反論ができない万里江だった。しかしとどめとなったのは、夫からのひと言だった。 「置いてやるんだ、そのくらいは辛抱しろ」 いま五平を目の前にして、まじまじとその顔を見るにつけ、己の不遇を嘆かぬわけにはいかなかった。どこか卑しさを感じる、特に締まりのない口が許せない。そして薄く空いたその中から見える、ヤニ色の歯が背筋に悪寒を走らせる。あの口がこの体を舐めまわす、想像しただけで卒倒しそうになる。そして、鼻。まるでガマガエルのようにひしゃげたそれが、顔の中心にデンと居座っている。風邪を惹いたときに、ジュルジュルと鼻汁をすすられては……。そして黄色がかった白目が、万里江には許せない。さらには垂れ下がった目尻、卑しさの源がこれだと確信させられる。 しかしそれでも、富士商会株式会社の次期社長なのだ。そしてその妻である万里江は、社長夫人となるのだ。小なりとはいえども、一国一城の主なのだ。しかも業界の雄として君臨している。 「お前の手で、株式を上場させなさい」 父親の佐多に言われるまでもなく、大望を抱いている。これからは佐多万里江ではなく、加藤万里江として、陰の社長として君臨する。 日々の生活は、家政婦を雇うことで解決した。一切の世話を万里江が拒否した。「気持ちが落ち着くまでは、」とことばを濁す佐多に対し、五平は、構いませんよと応じた。子どもじみたことをと思いつつも、五平にしても余計な気遣いをせずにすむと、安堵の気持ちもあった。 今さらながら、わかのありがたみをしみじみと感じる五平だった。今日から俺には家庭はない。ここも戦場だ=Aいっそ引退して、わかの元へ帰ろうか≠ニ、考える五平でもあった。しかしそれでは、武蔵との約束を果たせない、どころか、五平自身のねがいもついえる。武蔵の思いは、五平のおもいでもある。 朝、五平は定時に出社する。以前は7時には出社していた。しかしそれでは他の社員たちが萎縮してしまう。実質的なトップである五平に、会社の鍵を開けさせるわけにはいかない。当番制にして女子社員が出社してくる。そのことをやんわりと竹田に指摘され、武蔵のことばを思いだした。 「上が張り切りすぎると、下が縮こまる。上が緩むと、下はだらけてしまう。難しいなあ、会社経営というのは。下は、いつも上を見ているからなあ。個人商店の方が、よっぽど楽だ」 万里江は、遅れて十時に出社する。五平と連れだっての出勤がいやなこともあるが、「気負いすぎないように」という父親のことばがある。会社の、組織のなんたるかは、短い期間ではあったが、父親に教え込まれた。これから休日には父親の元に出かけて、知識と実践との差を、問題点を話し合うことになっている。それがゆえに、一歩しりぞいた位置からの観察を、当面の仕事と考えた。 一般事務の大部屋に同室して、過去の帳面類に目を通す日々をおくることにした。小夜子同様に、口にはしないが、新しい女性としての先を見すえている万里江だ。 |