(三百九十四)

 日本橋に会社をうつして三年目のことだ。武蔵が五平を、社員たちのまえで怒鳴りつけた。闇市での商売のおりには、目くばせを受けながらのことはあった。しかし今回は、いきなりだった。武蔵の真意をはかりかねて、といってそれを問いただす勇気もでずに、ただただいじけてしまった自分が情けなかった。
 事の発端は、二階の開け放たれている社長室にまで五平のどなり声が聞こえてきたことだ。なにごとかと階下をのぞくが、受付に客らしき人物はいない。ただオロオロとしている、まだ入りたての若い娘が見えるだけだ。顔をおおって泣いている。五平が叱りつけたのかと階下におりてみると、五平は電話の相手に声を荒げていた。
 あきれ顔の徳子に、「専務があんなに怒鳴るとは。あいては筋もんか?」と、武蔵が聞いた。徳子の説明によれば、忙しく立ちまわっていた新人事務員が、電話の相手についぞんざいな対応をしたということだった。矢継ぎばやに詰問調で声を張り上げられて、「謝るヒマもなかったようです」と、かばうことばを付け足した。
 通りかかった五平が電話をかわり、
「まだ小娘なものですから、失礼しました。専務のあたしからお詫びしますんで」と告げたところが、
「こっちは客だぞというつもりはないが、問い合わせをする客に、あれは失礼じゃないか!それにわたしのほうが目上だということもある。すこしは敬意をもった口の利き方をできないのか!それとも、富士商会というのは、そんな殿さま商売の会社なのか!」と、相手に言いかえされた。
 相手に理があることは五平としてもわかってはいたが、わざわざ専務だと告げての謝罪ですら収まらないことで、逆ギレした。まだ入りたての若い娘だったこと、そしてまた、まだ取引が浅い相手だということもあり、「いいかげんにしろ!」と、声を荒げてしまった。
 五平が顔を上げると、顔をまっ赤にした武蔵が仁王立ちしている。
受話器を手でおさえて「いや、あんまり横柄な物言いをされたもので、」と弁解した。しかし武蔵は五平のことばに耳を貸すこともなく「代われ!」と、電話をひったくるように取り上げた。そして「すぐに謝罪にまいります」と相手に告げると、会社を飛びだした。
 なにごとかと注視していた社員たちが五平をみる。なぜ怒鳴られたのかわからずにいる五平にたいして、徳子らの一部社員が冷たい視線をおくる。あたしたちのために怒ってくれたと感謝されるかと思いきや、意外な反応をみせられて困惑する五平だった。
 張本人の新人社員も、恨みがましい視線を送っている。問題解決をはかるどころではなく、油に火を注いでしまった五平に、感謝のことばもなく詫びるふうでもない。
なんなんだ、これは。この空気は。まるで俺がわるものじゃないか=B納得のできない五平だった。
タケさんもタケさんだ。いきなり、代われ、はないだろうに=Bいたたまれぬ思いで、二階の自室へと逃げ込む形になった。

(三百九十五)

 終業を告げるベルがなると同時に、五平が会社をとびだした。いたたまれなくなったのだ。
こんどこそほんとうに、俺の居場所がなくなるぞ
 どんよりとした曇り空が、五平のこころをさらに落ちこませる。となりのビルから出てきた会社員が、五平に、「どうも」と頭を下げる。そのとなりの洋品店の娘が「もうお帰りですか?」と、にこやかな笑顔を見せてくれる。せわしなく行き交う通行人は、無表情にとおり過ぎた。
 もう少し行けば百貨店だ。そしてそのとなりがくだもの屋で、もうすこし先に行くと花屋もある。こんやは無性に人恋しい。しかしキャバレーでのどんちゃん騒ぎはしたくない。しっぽりとした酒が飲みたい。気のゆるせる相手を前にして、静かにただしずかにお猪口でゆっくりと、さしつさされつを楽しみたい。もう街頭のランプに灯が入っている。公衆電話に飛びこんだ五平が、これから寄るよと、わかに電話をかけた。
「こんやは、店を開けないでくれないか」と、弱々しく告げた。「あいよ」。わかが短くこたえて、電話が切れた。
 のれんの出ていない店なのに、中が明るい。「準備中かい?」と、常連客がはいってくる。申し訳なさそうに、「ごめんなさいね、今夜はおやすみなんですよ」と、わかがこたえる。「ちょっとね、ぐあいが悪くて」と、わざとかったるげに椅子から立ち上がる。
 二階で待とうかとも思ったわかだが、電話での弱々しかった声が気になる。もうそろそろ来るころだろうしと、また椅子に腰をおろした。
「すまない。今夜は貸し切りにしてくれ」。 五平が、張りのない声ながらも、はっきりとした口調で入ってきた。
「あいよ。たんまりと払ってもらうよ」。わかが快活にこたえた。一階だとお客が入ってくるかもしれないからと、二階に上がりこんだ。お猪口でゆっくりと、そう思っていた五平だが、「俺には似合わねえ」と、一升瓶でのコップ酒になった。
 ふたりが関係をもってから、ふた月がすぎた。
「めいわくならそう言ってくれ」。 口ぐせのように、五平が言う。
「イヤになったら来なくて良いよ」。そのたびに、わかが言う。そして先日に、「所帯でも持つか」と、ボソリと五平が言い、「それもいいね」と、わかが言った。
 好物のするめをほおばりながら、ひと言も声を発しない五平に、「どうしたの? 会社でいやなことでもあった?」と問いかけるが、それでも五平は口を開かない。
「いっそ会社をやめたらどう?」。このところの疲れ顔が気になるわかが、思い切って口にした。「そうだな」。思いもかけぬことばが、五平の口からでた。しかしすぐに、
「ま、もうすこしがんばってみるさ」と、わかを引き寄せた。

(三百九十六)

 雑多な商店の建ちならぶ一角に、その沢田商店はあった。まだ従業員はいないものの、早晩店をひろげて、富士商会並みとはいわずとも、2,30人ほどにしたいと、気概がある。ゆえに小バカにされた態度をとられると、つい癇癪を起こしてしまうと頭をかいた。とくに権力者から見下されるとがまんができないらしく、町内会の慣習に納得がいかないと突っかかることもあるようだ。
「古くから住んで見えるお年寄りなんだから、顔を立ててあげなさいなって言うんですけどねえ」
 大きくなったお腹をさすりながら、豪快に細君が笑いとばした。その笑い声にこたえるかのように「あのときはひと晩留置所に留め置かれてまいりました」と、苦笑いをみせる。
ここも、かかあ天下なのか。ましかし、そのほうが家庭円満ってとこだな=Bほほえましく見た武蔵だった。
 蒲田駅近くであり、羽田空港と東京湾からも近い。この利点がどう幸いするのか、すぐではないだろうが、必ずあるだろうと武蔵は感じた。この店との取引を長つづきさせることは、富士商会にとっても利がある、そう考えた。ガラス戸をすべらせて中にはいると、「いらっしゃいませ!」と張りのある声で出迎えられた。
「ごめんください、富士商会の御手洗です。このたびはうちの社員が粗相をいたしまして申しわけありません」
 軍隊式に背を三十度ほどかたむけて敬礼をみせる武蔵に、さすがに沢田も社長直々でしかもすぐに来てくれたことで、「こちらも大人げないことをしました」と、頭を下げた。こんなちっぽけな店ですが、これからしっかりと稼ぎますからと、武蔵の手をしっかりとにぎり「応援をよろしく」と、ふたたび頭を下げた。
「いやいや、こちらこそ。人が増えるとつい教育の方がおろそかになります。良い勉強をさせてもらいました。沢田さんは考え方がしっかりしていらっしゃる。これからの人ですな。ただ気をつけてください。『いわゆる清濁あわせ呑む』も、実践してください。ある規模に達したらならば、おのれの信じる道を、経営方針を貫けると思いますが、しばらくは……。老婆心ながらのことばをおくりますよ」
 しまった、上から目線になってしまったと後悔するが、吐いたことばはもどせない。一瞬ムッとした表情をみせた沢田だったが、年下のおまえが言うかと頭をよぎる沢田だったが、短期間でのし上がってきた武蔵のことばだけに、ズシリとくるものがあった。
「そうですよ、あなた。みたらいさんのおっしゃるとおりですよ。かんしゃく持ちでして、このひとは」
 細君が横からくちをはさむ。眉を八の字にしてますます険しい表情をみせるが、だまりこくっている。

(三百九十七)

「いえ、わたしごときが口にするようなことではありませんでした。沢田さん。いまのことばは忘れてください。がむしゃら、わたしどもがやってきたことです」
 あらためてことばを作ってみたが、どうにもつなげることはできない。しかし武蔵の気持ちはつたわったらしく、「がむしゃら、ですか。たしかに。肝に銘じます」と、感謝の念を示した。
「あらあら、あたしったら。社長さんにお茶も出しませんで」と、細君があわてて奥へと引っ込んだ。
 間口は5間ほどで、奥行きはしっかりとある。その奥がガラス戸になっているところをみると、案外のところ中庭をはさんでの倉庫があるのだろう。両壁際に設置してある五段棚に作業工具やねじ類などの商品群が整然と並べてある。その種類の多さが、この店の規模感から考えると多すぎるように武蔵にはみえた。左手のすこし奥まったところに階段があり、いまは2階が住居になっているようだ。いかにも戦後に商売をはじめたという観で、店主の沢田は35歳だという。
 意気投合した武蔵と沢田は、細君がとめるのも聞かずにすこし先にある飲み屋ののれんをくぐった。そこは立ち飲み専門の店で、仕事にあぶれた者たちがたむろする場でもあった。「みたらい社長。ぼくもねえ、あきえと会うまではここの常連だったんですよ。人に自慢することでもないんですが、特攻くずれでしてね。故郷にもどったんですが、そりゃもう、白い目で見られましてね。村八分にちかいようなぐあいになりまして、でとうとうこっちに。もうなにもかもがいやになって、飲んだくれていました」
 その日は仕事にあぶれてしまい昼過ぎまでふて寝をしたあとに、ここで飲みはじめたときのことだという。店の前を逃げるように走って行く女がいて、そのあとを三人の男たちが追いかけてきた。どうやら近くにある赤線地帯からの、足抜けと称される脱走劇らしい。侠気をおこしたといえば聞こえが良いが、じつのところはごろつきとの喧嘩に走っただけのことだった。その理由づけに、「かわいそうな女を助けようとした」が欲しかったに過ぎない。
 そんな顛末の末に、「あきえ、いや本名かどうかはわかりませんがね、所帯を持ちました。不思議なもんですねえ。ひとりのときにはなかなかありつけなかった仕事なのに、毎日のようにトラックに引っ張り上げられました。ほんとかどうかはわからないんですが、地回りと一戦まじえた男として認識されたみたいで……」
 コップ酒をグイグイあおりながら、話がつづいた。
「あきえもねえ、しっかりと働いてくれましたよ。ご近所からのこまごまとした手伝い仕事でね。えっ? この地を離れようと思わなかったのか、ですか。そうなんです。あきえがいうにはですね、ここらにはもうたぶん来ないだろうって言うんですよ。灯台もと暗しってやつですよ。まさかって、思うんじゃないんですか? いやいや、ぼくじゃありません。あきえです、あいつの発案ですわ」

(三百九十八)

 夕闇のせまるなか、雑多な商店が建ちならんでいる通りを歩きながら、たばこ屋はないかとあたりをうかがった。と、目の前にあった。どうしても遠方に視線がむいてしまい、意外に見落としてしまう。店頭に赤電話のあることを確認した武蔵は、「おばちゃん、ラッキー・ストライクはあるかな?」と声をかけた。老婆というにはまだ若い五十代半ばぐらいの女性が「はいはい、ございますよ。奥にあるので、ちょっとお待ちください」と、えびす顔を見せた。
 20本入りで1円90銭の高級輸入品で、国産のゴールデンバットの5倍ほどする代物だ。めったに買い求める客もいないだろうから置いていないかと危惧していたが、案外に多くの商店が建ちならんでいることと、蒲田駅に近いことなどから、愛煙家がいるのかもしれないと思い直した。
「円タクを呼びたいんだが、電話番号はわかるかな」と、赤電話の受話器をとりあげると、
「旦那さん、蒲田駅がすこし先にありますが」と、答える。
「いや、汽車はちょっと。円タクにするよ」と、さらに言うと
「それじゃあたしが……。いえいえ、お代はタバコだけで結構でございますから」と、武蔵から受話器を受けとった。
 いまはすべて出払っていて、30分ほどのちにならうかがえますが、と返事がきた。
「やっぱり汽車の方がよろしいんじゃないですいか?」と勧めるが、「いやいい。待つことにする」とこたえた。この時間だと大勢の帰宅時間にかさなり、汽車内は混雑している。どうせならすこしあたりを見て回るかと、もしも円タクが先に来たら待たせておいてくれと言いのこし、散策をすることにした。
 多摩川の土手にあがりぐるりと見渡した。大きな工場が点在しており、あそこが石川島播磨重工業(現IHI)で、あれが三菱重工か。北進電機製作所に中央工業と。まわりには無数の下請け・孫請けがひろがるぞ。こりゃあ一大商圏じゃないか。沢田商店は伸びるぞ、良い場所に店をかまえたもんだ≠ニ、感心させられた。
「運が良かったですよ」なんて言ってたが、どうしてどうして案外に先見の明ってところじゃないか≠ニ、沢田という男に興味を覚えた。
まったくなにやってんだ、五平は。取引の多寡や年月で相手を差別するとは、あいつらしくもない。こんなことが他所に広まってみろ。新規開拓ができなくなるぞ。それだけじゃない。取引先をえらぶのか、ってことになっちまう。まあな、実態はそうだとしても、ぜったいに表に出しちゃいけねえことだってことぐらい……。しかし来て良かった。この沢田商店の先が楽しみだ。もっとも周囲の発展次第ということか
 五平の気の緩みが危惧されたが、これは自分自身にも当てはまることだと、他山の石にしなくてはと思い至った。