(二百八十六)

 しかし記者発表の場では、女を寝取られたことによる意趣返しの犯行だとされた。仕事関係のトラブルについては一切報道されず、世間的には愛憎問題として報じられた。さほどに盛り上がることもなくすむかと思われたが、業界新聞によって事の真相が暴露された。富士商会によって倒産させられた大杉商店の長女・次女が、ある金主の妾になることにより資金提供を受けて日本商会を立ち上げた。
 あくまで富士商会をターゲットにした商売だったが、それが失敗に終わり金主からの返済を求められた末の、苦肉の報復だったことが報じられた。あまりに詳細なその情報から、日の本商会からのリークだし断じられて、物笑いの種となった。一時期において動揺の走った取引先も、「御手洗社長のやりそうなことだ」として、一般紙の話を口にして騒動がおさまった。結局のところ、富士商会の存在感があらためて示されたことになり、武蔵の病状の行方に関心がうつった。
 なんとか危機を脱した武蔵には、最上階にあるVIP専用部屋が用意されてあった。小夜子が出産時に入院した病院で、武蔵の心付けがたっぷりと配られた病院だ。当然の待遇として、身元が判明してすぐに用意された。二十坪はあろうかという広々とした部屋で、壁ぎわにベッドがおかれ、病人からも窓の外がみられる。窓がおおきく、晴れた日には富士のお山がみえるという自慢の個室だった。 見舞客用にと3人がけのソファがおかれていて、小さなガラス製のテーブルが付随している。その対面にはひとり用が2脚用意されている。ある程度の回復後には、そこで病人と見舞客が談笑できる。ある意味、秘密の会合にはもってこいの部屋だった。そして小夜子の仮眠用にと簡易ベッドの申し出があったが、さすがにそれは辞退した。ソファにでも横になりますからと告げたのだが、自宅においてきた武士のことが気になる小夜子だった。千勢が面倒をみているのだが、どうにもお乳がはって痛みがでる。
「あたしを呼んでいるのよ」。「あたしを恋しがっているんだわ」。そう告げて、いったん自宅にもどることにした。正直のところ病院側としても、小夜子のわがままぶりは出産時のことで十二分にわかっている。渡りに舟とばかりに、「しっかりと看させていただきます」とにこやかに送りだした。苦笑いする竹田にたいし、頼んだわよと念を押して病院をあとにした。
 一週間ほどしても武蔵の意識がもどらず、さすがに医師連もあわてだした。計器やら検査においては異常はみつからなかった。ただ、心音が若干弱いことが気になることだった。肝臓の数値が異常を示しているが、これは前々からのことで、「すこし酒をひかえてください」と口酸っぱくいっていることだった。武蔵みずからの意思で昏睡状態にあるのでは、などと言いだす若手もいた。
 点滴でもって術後の感染症をおさえ、輸液での栄養補充をとるしかなかった。床ずれを起こさないようにと、短時間のうちに体勢をかえることもはじめた。「どうしてなの?」。「いつ目ざめるの?」。医師をみるたびに小夜子が問う。
「もう少しおまちください」としか返答のできぬ医師にしびれを切らした小夜子が、竹田にとんでもないことを言い出した。

(三百八十七)

「竹田。祈祷師がいたでしょ。つれてきて」
 さすがにこれには竹田も反駁した。五平にも連絡をとり、そして徳子までがかりだされた。竹田の母親が見舞いにきたときには、すこし気が動転してみえるからと話し、まともに請け合わないようにと念をおした。万が一にも勝子に処したような、民間療法的なことをいいだされてはこまるのだ。さすがにこりているのか、「ばかをお言いでない!」と一喝された。気丈にふるまう小夜子だったが、竹田の母親にだけは思いがあふれでた。
 ソファで落ち着かない母親のひざに泣き伏して、大声で「武蔵は、あたしを見捨てる気なのよ」と号泣した。やさしく背中をなでながら、「そんなことはありませんよ」と声をかけ、「たたかってらっしゃるんです、いま。小夜子さんの応援があれば、きっときっと、ね」と励ました。
「そうね、そうよね。いまたたかってるのよね、あたし武蔵に声をかけるわ」 武蔵の手をにぎって、「あなた、あなた。武士も待ってるわよ。あたしも待ってるから」と、何度もなんどもほおずりをくりかえした。そして10日の後に、やっと武蔵の意識がもどった。
「『あなた』って呼びかけてくれたのを聞いてな、こりゃ起きなきゃいかんって思ったぞ。どうせもう二度と呼んでくれないだろうからな」
 弱々しい声ながらも、小夜子の手をしっかりとにぎって笑った。
「ばか、バカ! ほんとに心配したんだから。あなたが死んだら、あたし、あたし。もう耐えられない! アーシアが死んで、勝子さんも亡くなって、それからそれから……」
 みるみる小夜子の目に涙があふれ出した。
「おいおい。泣くなよ、生きてるんだから、おれは。かわいい恋女房をのこして、あの世に行くわけにもいかんだろうが。それに、武士もいることだしな。そうだ、武士はどうした? 母さん恋しってないてないか?」
 しゃくり上げる小夜子にことばをかけるが、小夜子はあふれ出る涙を拭おうともせずに「だいじょーぶ。千勢がしっかりと面倒をみてくれてるわ」とこたえた。
 うんうんとうなずきながら、「千勢か……。家事なら任せられるが、赤ん坊はどうなんだ? 子守りの経験はあるのかなあ」と、まだ安心できんとこぼした。
「だから、大丈夫だって。おしめの交換なんかうまいもんよ。あたしなんかよりよっぽど手際がいいわ。あたしだとグズるくせに、千勢だとキャッキャって喜ぶんだから」
 すこし上目づかいですねた表情をみせながら、武蔵の手を自分のほほに押し当てた。
「はやく帰られるよう、がんばってね」

(三百八十八)
 
 病床にある武蔵のもとに、三友銀行日本橋支店長が見舞いにおとずれた。銀行にしてみれば数ある取引先のひとつに過ぎないが、武蔵たっての願いからだった。支店長にしても武蔵の容態が気にはなっているところで、なんとかその病状を知りたいと気をもんでいる折でもあった。
 小夜子に部屋から出るよう指示をだしたあと、ベッドの上からで申し訳ないですと断りをいれた。まだ点滴の管がつながれている状態ではあったが、顔にはすこしの生気がみられた。
「お元気そうじゃないですか」。お決まりのことばで挨拶をした支店長は、武蔵のことばを待った。担当者ではなく支店長である己を指名してきたことに、なにかしらの決断があるのではと考えてはいるが、それがなにを意味するのかまでは図りかねていた。
 武蔵の表情から読みとろうとするが、酸素マスクすがたではいかんともし難い。すこしの無言がつづいた。声をかけても閉じられた目がひらくこともなく、もちろん声も発せられない。部屋に案内されたときには五平がいた。しかし持参した見舞い用の花を受けとるとすぐに部屋を出てしまった。
 手持ち無沙汰のまま、ベッド上の絵画をみたり窓から見えるかなたの山々をながめたりと落ち着かないでいた。耳を澄ますと、こんな郊外に位置する病院まで、工事現場のつち音が聞こえてくる。
復興もだいぶすすんできたな。それにしても日本人の生真面目さはすごい。あれほどに意気消沈していた国民だったが、いまでは嬉々として汗を流している=B武蔵を見やってみたが、まだ目を開けていない。部屋の中央に置かれているソファに腰をおろすと、また思念の世界に入った。
それにまた日本人の特性なのか、他国の慣習やら文化になじむ早さはどうしたことか。米英鬼畜とまで忌みきらっていたアメリカ人の文化を、いまでは流行の最先端とばかりに受け入れている。いやそうじゃないな、戦前から文化は受け入れていたか。ビッグバンドやらジャズやら、一部とはいえしっかりと入りこんでいたな。いやいや古来から日本人は、仏教にしろ儒教にしろ柔軟に取り入れてきた。そして日本流にアレンジしてきたじゃないか
 そこまで思いがいたったときに、「すみませんなあ、佐多支店長。まだ起きませんか?」と、五平が入ってきた。
「またつぎの機会に、ということで……」。ソファから腰を上げて、中折帽を手に取った。どうしたものかと考えあぐねる五平だったが、意を決して「じつは……」と佐多を押しとどめた。
「本来なら御手洗の口からお願いしなければならんのですが……」。しかしことばがつづかない。じれる佐多の表情をみて、「これは他言無用でお願いしたいのですが、」と言いつつ、またことばが止まった。
「なにか余ほどのことですかな? わたしも銀行家の端くれです。お客さまの秘密は、ぜったいに外にはもらしません。どうぞ心配なさらずにお話しください」
 
(三百八十九)

「どうした、五平。自分の口からは言いにくいのか」。弱々しいけれども明瞭な声が後ろから聞こえた。酸素マスクを外した武蔵が、声をかけた。
「社長。気づかれましたか、いやあ助かりました。やっぱり、あの話はもう一度……」。五平がベッドそばに駆けよって、懇願するようにまゆを八の字にしている。
「加藤専務、もう良い。会社にもどってくれ」
 そのかしこまった言い方と命令調のことばに、並々ならぬ事柄が告げられるのだと理解した佐多が、
「加藤さん。トップのおふたりがいない会社はいけません。きょうは、一日をみたらい社長との密談についやします」と、話に割りこんだ。
「佐多支店長。あんたにこんな恰好で申し訳ない」。同じことばが武蔵から出た。まだ本調子ではないなと、きょうの話がどこまで信じて良いのか疑問符がつくかもしれないと、落胆の気持ちが起きた。「もう一度」という五平のことばにも懸念が生じた。 
 武蔵のことばにつづけて「安静にしていてくれと、医者にいわれていましてね。じつはこの面談も、渋々でして」と、五平が付け加えた。佐多には五平の大仰な身ぶり手ぶりに、これは演技だな、と分かった。しかし体を起こそうとする武蔵の誠意だけは感じとられた。
 ここまでの礼を尽くされては、悪い気はしない。しかし佐多にも、わたしも天下の三友銀行の、しかも銀行内ではいち番の優良支店をまかされている身だ≠ニいう自負がある。ベッドの背を上げた武蔵にたいし、佐多は用意された丸椅子に腰をかけて、やっと武蔵との目線をあわせられたと感じた。
「それじゃあ、佐多支店長。よろしくお願いします」と、五平が部屋を辞した。重苦しさを感じていた五平には、これいじょう部屋にとどまることができない精神状態だった。
「佐多さんには駆け引きなしでいこう。わたしも長話は、少々きついので。他でもない、わたしの後継のことです」
 佐多の想定の範ちゅうを超えたことばに、驚きの色をかくせなかった。
すこしの間会社からはなれるので、資金繰り等の相談にのって欲しいということか? いやいや、その程度のことなら、担当者でも十分だ。案外に、わたしが引き抜きでもされるのか?=Bそんな諸々が浮かんだ。
「このことは他言無用でお願いしたい」。再度、念を押す。これは相当なことだと身構える佐多に対して、時折ゼーゼーと息を切らしながら、それでも眼光するどく「これからのことを加藤専務にまかせよう、と思うのです」と告げた。
 順当な人事だとは思える。富士商会の序列からいって、専務がその任にあたるのは、至極当然なことだった。しかし、と佐多には思えた。決して己自身が乗りこみたいというのではない。加藤専務で大丈夫か? 短期間ならばいいだろう。しかし代替わりとなると……=Bあくまでビジネスとして考えた場合、取引先の中には多くの不平不満がたまっているだろうしと、危惧感がぬぐえない。
 
(三百九十)

 株式会社という組織の体をとってはいるが、やはり富士商会は、御手洗武蔵という個人の店だった。取引先のほとんどが、富士商会に対して好感をいだいているはずがない。取引条件の厳しさは群を抜いている。しかしそれに甘んじるだけの魅力が、富士商会いや武蔵にはある。どっしりとしていて、それでいて素早い。戦国時代になぞらえれば、まさしく「風林火山」だった。
 佐多自身が口にした「富士商会は、博打企業だ」は、当をえている。「たまたまうまくいっただけのこと」。世評ではそうなる。しかしそれは、しっかりと世相・世情に裏打ちされたものであり、飛びかう情報のうずをしっかりと乗り切っての判断だった。佐多をして唸らせる決断も、多々あった。
 むろん失敗がなかったわけではない。武蔵の読みどおりに事がはこぶわけでもなく、不良在庫を抱えこんだ時期もあった。「傾いている」、「倒産まぢかだ」と噂される店に、ことば巧みにすこしの売れ筋商品との抱き合わせ商法で、不良在庫品を押しこんだこともある。代償として多少の金員をわたし、そのまま夜逃げさせてしまったこともある。また、朝鮮動乱の時期をみあやまり、大量の在庫をかかえてしまったこともある。脅迫まがいに銀行から融資を引っぱり出して、なんとかその苦境からのりきった。
「あの御手洗社長なら大丈夫だろう」。取引先の大半が、それほどまでに信頼する。しかし五平では、それがない。信頼感がないわけではない。武蔵以上に駆け引きもするし、容赦もない。しかし武蔵にはないものを、五平は持っている。情、というものをもっている。そしてそれが仇になるときもあると、みなが知っている。取引先だけでなく、富士商会内の誰もが感じることだ。
「実はね、佐多さん。あんたを引き抜いて、とも考えはした。あんたなら無事に富士商会を守ってくれる、いやさらに発展させてくれるだろう。しかしそれでは、ぼくの大望が果たせない。それと、五平、いや加藤専務がおもしろくない。他の社員の中にも、そう思う者がでるはずだ。しかも、将来の幹部社員が、だ」
 これ以上の野心など持たぬと己を戒めてきたけれども、やはり一国一城の主となってみたいという思いはある。事業家として、おのれがどこまで高みにのぼれるか試してみたいという想いもある。
「御手洗さん。わたしも本音でいきますよ。この部屋に入って、あなたの状態をみて、そんな風に考えたことは事実です。部下の報告がいかに当てにならぬか、落胆以外のなにものでもないですな」
 佐多のポロリとこぼしたひと言は、己以外は無能だと言わんばかりだった。というよりも、己の格というものが、本店の役員クラスだと自負してもいた。

(三百九十一)

 武蔵の額に冷や汗が浮かんでいる。苦しげに顔をゆがめることもある。 
「ここまでにしますか。またあらためて伺いますよ」
 容態の変化に気づいた佐多は、己が因で悪化されては困るとばかりに申しでた。しかし武蔵は首をふり、「いや、もう大丈夫です」と精一杯の声をだした。
「どうでしょうかな、五平で乗り切れますかな?」。核心を突いてきた。
「えっ! ……そうですなあ。正直のところ、五分五分といったところではないですかな。富士商会さんは、各社から狙われている。すきあらば取って代わろうという会社は多いでしょう」
「やはり……」。そう言うと目を閉じる武蔵だった。佐多は、五平では乗り切れない、と考えている。武蔵と一致した。武蔵のなかに、はやく会社に復帰せねば、と焦りのこころが生まれていた。居ても立ってもいられぬ、はじめての経験だった。
 焦慮感にかられる、まるで武蔵のうしろから死に神が追いかけているように感じる。武蔵自身はではない。富士商会を破滅させにくるのだ。鬼の形相で取り立て屋がくる。玄関を激しくたたき、「どろぼう!」、「金かえせ!」、「人でなし!」と叫びつづける。なにごとかと集まってくる、人人人、そしてひとひとひと。そのときはじめて店をたたまざるをえないということが、どれほどに主を苦しめるのかが分かった。
「御手洗社長」。耳元に声がきこえた。とたんに取り立て屋がきえ、群衆もまた消えた。うっすらと目をあける武蔵にたいし、
「わたしどものところに、じつは出戻りがおりまして。大学の助教授のもとに嫁がせたのですが、姑とうまくいきませんで。さらに悪いことには、せっかく授かった赤子を死産しましてな」と、聞きもしない家庭の話をはじめた。
「結局は離縁ということになり、いまは銀行の子会社で事務をやらせています」
 なぜいま、佐多が家庭の恥をさらすようなことを言うのか。ただ単に打ち解けてきたということではない。かりにも、大銀行の日本橋店の支店長さまなのだ。どこに行っても――たとえば銀座の一流レストランでも、たとえば赤坂の老舗料亭でも、たとえば千代田区の名門ホテルそして文京区の高級旅館あたりでも、下にも置かぬ接遇を受ける、受けられる身なのだ。
 これ以上は望むべくもない、りっぱに功成り名を遂げたのだ。往々にしてそのプライドの高さが鼻につく言動があったとしても、それは地位の高さからいって当然至極のことなのだ。一国一城の主であり、多くの家臣団をかかえる大大名なのだ。当人がそうではない、主ではないと思っても、武蔵たち企業の経営者からすれば奉られるべき地位にあるのだ。その支店長である佐多が、己を貶めるような痴をうちあけている。
 我が意を得たり、と武蔵が感じた。五平か? さすがに日本橋支店長にまでのぼりつめた男だ。姻戚関係となれば、五平の義父だ。富士商会を牛耳ることも可能だしな

(三百九十二)

 しかし懸念材料がある。いま五平には、わかという内縁関係の女がいる。ふらりと立ち寄ったいっぱい飲み屋の女で、転がりこんでからもうそろそろ一年になるという。近々籍を入れるつもりだとも聞かされている。こまかく聞こうとすると口をにごすところをみると、なにやら過去において関わりのあった女らしい。
 翌早朝に五平が病室をおとずれた。業務時間に会社から離れることを良しとしない武蔵が、五平につたえた。「あたしもそう考えてました」ということばに、「やっぱり五平だ、頼りになるぜ」と、弱々しいながらもしっかりと手をにぎった。
「じつはな……」と、佐多支店長の申し出を五平につたえた。「えっ!」。絶句する五平に、追いうちをかけた。
「すまん、五平。俺の至らなさからこんな結末を迎えてしまった。俺はどうしても、富士商会をのこしたい。それは五平もおなじだと思う。そして武士に継がせたい。まだ生まれたての赤児だけれども、その将来に富士商会という財産をのこしてやりたい。武士に花をさかせてほしいんだ」
 切々とうったえる武蔵に、五平も否はない。それが当然だと思っている。五平にしろ富士商会はかわいい。手塩にかけて育ててきた、我が子同然だ。いまはまだやくざな会社と評されているのだろうが、いつかはまっとうな会社にせねばならぬ。そしてやっと武蔵にさずかったひとつぶ種の武士に、五平にとっても掌中の珠に感じる武士にゆずってやりたい。心底、そう思う五平だ。
 武蔵が三十三歳で五平が三十八歳のふたりだ。ともに男盛りであり、働き盛りだ。まだ二十年三十年と動けるし、進めるはずだ。たしかに以前のようにがむしゃらなことはできない。機関車のごとくに強引にことを運ぶこともできはしまい。しかしそれでは、もはや武蔵ではなくなる。そこらの社長であり、そこいらの店主に過ぎなくなる。その無念さは、察してあまりあるものだ。万感の思いであろうし、五平もまたおなじ気持ちだ。
「もうひとつ、手があるにはある。佐多支店長には話していないが……」
 苦痛にゆがんだ顔をみせる武蔵に「大丈夫ですか? 明日にしますか?」と、あわてた。
「いやそうじゃない、体じゃないんだ。手というのは、引き抜きだ。佐多をな、次期社長含みで、顧問として迎え入れる。で、頃合いをみて交代だ」
「次期社長って、タケさん、あんた……」。ことばが詰まる。
そんなに悪いんですか? まさかこのまま……=B思わずことばを飲みこんだ。
 五平が武士を一人前の、いや一流の経営者にそだてあげることなど思いもよらない。武蔵のいうとおり、たらしい組織として生まれかわらせられるのは佐多だと思った。たしかに顧問としてならば五平も納得できるし、会社のほかの者も納得するだろう。
 しかし次期社長ぶくみとなればどうなのか。理屈としては理解できるし、ストンと腹にもはいる。しかし実際には腹にはいらないし、情として受けいれられない。感情がじゃまをする。五平が社長になりたいわけではない。向き不むきがあるのだ。
俺が社長じゃ、くしの歯がぬけるように取引先がにげるだろう
第一、銀行の信用度がちがう
そしてまた、華がねえ。そんじょそこらにある、普通の会社になっちまう
 
(三百九十三)

「タケさん。いっそ、」。「いやだめだ、それは」。五平に語らせることなく、即座に否定した。
「勘ちがいするなよ。あいつの資質云々じゃない。まだ早いってことだ。小夜子の準備がどうのというのじゃなく、世間さまが認めてくれない。小商いならいざしらず、富士商会はいっぱしの会社だ。それもこの業界では、いっちゃあなんだが、ナンバーワンだろうが。第一だ。次期社長の加藤五平だからの結婚話なんだ」
「しかし社長……」と、五平には納得できない。佐多の娘だからではない。社内的にどうなんだ、と思ってしまう。
「乗っ取った」。そのことばが頭からはなれない。いっそ、佐多を……=B頭をかすめた。しかしそれとて、社員たちの非難の声はあがるだろう。そう思ってしまう。
 武蔵も五平の危惧感はわかっている。五平が継ごうが、佐多をむかえいれようが、どちらにしてもひと波乱はある。まずはわかとの内縁関係を解消せねばならない。それを五平が決断できるかどうかだ。つらい選択になることはわかっている。冷静に考えれば、当たり前のことだ。しかしそれでも、会社をのこしたい、武士につがせたい。
「ふたりでつくった店じゃないか。俺がたおれたら、五平、おまえであたりまえじゃないか」
 弱々しい武蔵の声に、五平の気持ちがかたまった。腹が決まった。
「わかりました、社長。受けさせていただきます。必ずまっとうな会社にして、武士ぼっちゃんにおゆずりします。お約束します」
 涙ながらに武蔵の手をとった。
「すまん……」。あまりの小さな声で、あまりの力ないこえで、ほんとうにそういったかどうかもわからない。しかし五平の耳には、はっきりとそう聞こえた。
 その夜、五平とわかが正対した。店を臨時休業とさせて、いぶかるわかに対し、五平が「すまん!」と頭をたたみにこすりつけた。そのことばに、なにかただならぬ事態だとさっしたわかは、ただ
「わかりました、いままでありがとうございました」とだけ言った。そして静かに立ち上がると、「さいごのごはんですね」と台所に立った。
 思えばふしぎな再会だった。いや、残酷な、といったほうがいいのかもしれない。だれもわかの過去をしらぬ場所で、細々とつづけていた飲み屋だった。その日にかぎって、どうしてもなじみの店に行く気にならず、かといってちかくの店に飛びこむ気にもならず、一時間ほど歩いた。
 寂しかった、情けなくもあった。武蔵の真意をはかりかねて、といってそれを問いただす勇気もでずに、ただただいじけてしまった自分が情けなかった。武蔵の自宅に行くべきか否かと悩んでいるうちに、気づくとそばに浅草寺があった。
 雷門から仲見世をのぞき込んだ。そこには玩具に菓子屋にみやげもの屋らが軒をつらねている。みながみな、行き交う参拝客相手に声をからしている。思い出した、「闇市で、おれらもああやって客をよびこんだもんだ」と。
「タケさん、すまない。慢心してたよ、オレッちは」