(三百七十八)

 武士のために玩具でもと思い立ち、珍しくはやめに帰宅しようと考えた。ぷよぷよする赤子のほほを、唇でふれたいのだ。小夜子のお乳をたらふく吸っている、武士のほほに吸い付きたいのだ。そして同じように小夜子の唇にふれ、小夜子をだきよせ、その耳に「世界一のしあわせ者だ、おれは」と、ささやきたいのだ。
「専務、あとはたのむぞ」
 一階で竹田との打ち合わせ中の五平に声をかけた。
「きょうはなにごともないことを祈りますよ」
 ここ二、三日のあいだ、五平に言わせれば「しょうもないことで」ということになるのだが、配達人の態度が横柄だという苦情がはいったという。連日の荷物量に音を上げたひとりが、店先に乱雑に放り投げていったというのだ。本人に確認をしたところ、いつもとはちがう行動をしてしまったという。
「どこに置きますか?」と確認をせずに、一存で軒先の端っこに置いてしまった。決してほうり投げたのではなく、置いてきましたと弁解した。
 また、「毎度!」「ごくろうさん」のあいさつを怠ったことを報告した。本人に言わせると「毎度」とは言ったものの、小声になってしまったので聞こえなかったと思うとこたえた。いつもの倍ちかい量の配達におわれて、つい相手の返事を確認しなかったと告白した。竹田としても人員配置の責めを感じはするものの、キャパオーバーな状態がつづいていることに危惧感は持っていた。どうしてもの場合は服部に応援を頼み、配達代行をさせていたときのことだった。
 比較的あたらしい取引先であることから、竹田自らが謝罪にまわるための相談を五平としていたところだった。
「そんなもん、次の配達のときにでも本人にあやまらせればいいだろう」。武蔵としてはこの時期に竹田をたとえ半日でも留守にさせることはまずいと考えた。しかし竹田の答えはちがい、武蔵をおどろかせた。
「忙しいときだからこそ、じかにあやまってきます。あたらしい取引先だからこそ、まわってきます」
「そうか、わかった。しっかりと謝ってきてくれ」
「おつかれさまでした、社長」。やりとりを聞いていた五平が、ニヤニヤと武蔵のうしろについた。そして小声で、「どうです? 竹田もいっぱしになったと思いませんか?」
 なるほどと思った。五平が「あたしの居場所が……」と弱気な面をみせたのも分かる気がした。このところの竹田の成長ぶりは、服部への助言といい今回といい、武蔵をしてうならせる戦略だ。  
「社長、おつかれさまです」。女性社員たちがいっせいに、ニヤニヤと声をかけてくる。
「なんだ、なんだ、おまえら。全員で声をそろえることはないだ、、、あ、このやろー。勘ぐってやがんな。ちがうちがう、武士にオモチャを買うんだよ。小夜子のごきげんとりじゃねえよ」
 それでもニヤつく女性社員たちには、武蔵のことばを真に受ける者はいない。
「まったく、うちの女どもは。五平、おれのことをスケベ大魔王だなんて言いふらしてないだろうな」
 いそがしく伝票を繰ったり帳簿に書き込みをする社員たちの机の間を歩きながらこぼした。
「いえいえ、とんでもない。今じゃ、武士ぼっちゃんがお生まれになられてからは、超真面目人間だと言ってありますって」
 考えすぎですよ、それとも身に覚えがありなさるんで? 言外にそんなことを感じさせる。
「どうもお前のことばにゃ、実が感じられねえんだよ。まあいい、あとはたのむぞ」
「へい、行ってらっしゃい。お気をつけて」

(三百七十九)

 きょうは来客の予定もなく、決済すべき案件もない。思案をめぐらさなければならないような取引先もいない。出張の予定も、いまのところ入っていない。五平もこんやは休肝日にしたいという。なにもかもが順調にすすみ、武蔵をどうしても百貨店へといざなおうとしている。
「そうだ! アイスも買って帰ろうか。武士のおもちゃだけじゃ、へそを曲げかねんからな。小夜子も外出がへって、気分も晴れんだろうし」
 忙しげに行き交う人のあいだをヒョイヒョイとかわしながら、口笛でも吹きかねないご機嫌の武蔵だった。こんなに気分爽快な日というのは、年に数回ほどだ。
 博打商売だと評される武蔵の勘がさえわたり、今年は大あたり品を生み出した。
「こんなものが売れるんですかい?」と危惧する五平に対し、「大丈夫、お坊ちゃんのご託宣だ!」と強行した。
「武士がな、俺のパナマ帽をおもちゃ代わりにしてるんだよ。小夜子にかぶせてな、手を叩いての大喜びなんだよ」。女性用の帽子としては類をみないほどの大当たりになった。仕入れても仕入れても問屋からの催促がひききらないほどだった。
「好事魔多しだ。こういう絶頂期があぶないんだ」。朝礼の折に訓示したことばだ。
「お客さんにたいして、絶対に横柄な態度をとるなよ。営業マンはもちろん、配達人もだ。それから事務方もな。こういうことが、後あとにひびくんだ。心しておけよ」。五平もまた「実るほどこうべを垂れる稲穂、だぞ!」と、戒めのことばを追加する。
 いつもは雑踏をきらう武蔵なのだが、きょうに限っては皆がみな、武士の誕生を祝ってくれていそうで、素直にうれしい。
「ありがとう、ありがとう」と、いちいち帽子を取って感謝の意をつたえたくなるほどだ。
1階受け付けで、「御手洗ですが、外商の森田くんを頼みます」と告げる。武蔵のことは受付嬢も先刻承知で、名前を出すまえに森田をよびだしていた。これもまた武蔵をあげあげの気分にさせた。
きょうは人生最良の日か、と思わせるほどだ。違うちがう、最良の日は小夜子を娶った日だ、と思いなおすが、ほほは緩みっぱなしだ。
お辞儀をしつつ出てきた森田にたいし、赤ん坊用のおもちゃを見つくろってくれと指示した。
「つい先日にお買い求めいただいていますが……。いえ、さっそくにも」と、玩具売り場の主任をよびだした。
「五点ほどたのむよ」と告げると、自身は店内をぶらついた。珍しいことだった。普段ならば森田にお任せで、自身は従業員の休憩室にこもって、タバコをくゆらせている。きょうは、案内をという森田に「いいんだ」と、手をふってみせた。
 うず高く積み上げられたぬいぐるみや、化粧箱にはいった西洋人形類を見ていたとき、その惨劇は起こった。大きなテディベアのかげから、とつぜんに中年男が飛びだしてきた。普段ならば周囲に目をくばり、見かけぬ人物でもいれば警戒をおこたらない武蔵だった。玩具売り場だということもあったかもしれないのだが、きょうの武蔵はたしかに普段とはちがっていた。
 浮かれていた、気を許していた、好事魔多しをわすれていた。このとき、相手になんらかのためらいがあれば、武蔵も防御態勢をとれていたかもしれない。しかしその男は、武蔵と視線を合わせず、大きなテディベアを見上げながら武蔵へと向かってきた。

(三百八十)

 それまでごった返していたフロアだったが、男と武蔵のあいだに二メートルほどの直線ルートができた。そのときはじめて、男が武蔵と視線をあわせた。会社を出てすぐに見かけたな≠ニ危険を感じた武蔵だったが、この至近距離ではいかんとしがたく、なされるままだった。
 なんのことばもなく、「ドン!」と男がぶつかり、そのまま黙して男が去っていった。武蔵と男がぶつかった、ただそれだけのようにみえたが、武蔵の腹に、大型のサバイバルナイフが突き刺さっていた。
 挨拶をしているようにみえました、争う様子はありませんでしたという証言がほとんどだった。中年男がはなれたとき、武蔵がその場に崩れおちたが、なんのことばもなかった。静かにひざが折れて前のめりになり、両手で傷口をおさえていた。
「男のお子さまでいらっしゃいますし、これからいろいろとご活発に……。売り場主任が大量の玩具類を台車にのせてはこんできて、フロアに倒れ込んでいる武蔵を見つけた。
「みたらいさま、みたらいさま」。大声で叫びながら駈けよってきた。ひざをついて崩れおちた武蔵の異変に気づいた者はいなかった。ただひざをついているだけのことに見えた、とその場にいた全員が証言した。
「救急車、きゅうきゅうしゃ!」。その声がフロアにひびくと、ほかの客たちもようやく事の重大さに気がついた。そして店員たちが大騒ぎするのをみて、さも心配げにのぞき込みはじめた。
 ナイフが突き刺さったままだったことで出血量が少ないことが幸いした。時間が夕方まえで車の渋滞が起きていなかったことも、そして救急隊員の駆けつけが早かったことも、武蔵を助けた。急を聞いた五平らが駆けつけたとき、すでに手術室のとびらは閉じられていた。
 竹田から要領のえない連絡をうけた小夜子も、取るものも取りあえず駆けつけた。祈るような仕草をみせているふたりに発せられた小夜子のことばは、意外なものだった。
「ふたりとも! そんな手をあわせることはしないで。お祈りなんてやめて! 武蔵は大丈夫、きっと戻ってくるから。『心配かけたな』って、手をふって部屋からでてくるんだから」
 目をつりあげて鬼のような形相をみせながら叫ぶように言った。
「あたしと約束してるの。『アメリカにつれていってやる。アーシアのお墓参りをふたりでするぞ』って、約束してくれたんだから。
武蔵は約束はまもるのよ。きっと、守るの。どんなに苦しいときでもどんなに辛いときでも、かならずあたしには笑顔をみせるんだら。
『ただいま!』って、かえってくるんだから」
 大粒のなみだを流しながら、己に言い聞かせるように、最後は五平らふたりには聞きとれない小声になってしまった。

(三百八十一)

 なにかを言わねば、慰めのことばをかけなければ。“勝子ねえさんだったらどういうだろう、どうお慰めするだろう”。思えばおもうほど、考えればかんがえるほど、ことばが逃げていってしまう。“社長、しゃちょう。お姫さまのところへ戻ってきてください。信じてらっしゃいますよ、小夜子奥さまは”。やはり祈るだけしかできない竹田だった。
「社長はねえ、つねづね言ってらっしゃった。『小夜子に勝る宝物はねえよ。おれがこんなに女ごときに惚れちまうとは、思いもよらねえことだぜ』ってね。小夜子奥さまに会わずに逝かれることはありません、ぜったいにね。いや、あっちゃならねえことです。戻られますって、ねえ。今日だって、『武士坊ちゃんにおもちゃを買うんだ』って、そう言って出られたんですよ」
 五平のことばに意を強くした竹田もまた、「そうでした、おもちゃです」とつづけた。
「そう、そうなの。なんで百貨店なんかに、そう思ってたけど、またおもちゃなの? もういっぱいなのよ、足の踏み場もないくらいなのに。武蔵らしいわね。あたしのときもそうだった。もういらないっていうのに、鞄だ、靴だ、帽子だって。そうなのよね、武蔵は愛情表現がへたなのよね。お金をつかうことばっかり考えて」
 気持ちが落ちついてきた小夜子だった。愛情表現がへただと言い切った小夜子だが、己自身にも当てはまると思う小夜子だった。
そういえば、あたしも武蔵に、はっきりと自分の気持ちをつたえてなかったわ
だめだめだめよ、あなた。あたしにも言わせて、しあわせよって
 はじめて、おじさんではなく、タケゾーでもなく、「あなた」ということばをつかった小夜子だった。
「竹田。なんで、なんでなの? なんで刺されなくちゃいけなかったの!」
 疑問の問いかけが、さいごには怒りのことばに変わった。
「だれなの、犯人は。目星ぐらいはついてるんでしょ! そりゃねえ、あこぎな商売をしてるのはわかってる。まともな商売なら、こんなにあたしに贅沢なんかさせられないわよ。近所でもうわさにのぼってるのは、あたしにだってわかるわよ。でも、殺されかけるほどのことなの? 商売上なら商売で勝負しなさいよ!」
「そのとおりです。小夜子さん(お姫さま)のおっしゃるとおりだ(です)」。五平と竹田のことばがかぶさった。
「あなたたちって、似たもの同士なの? おんなじことを言って。
竹田。あなた、もうすこし気の利いたことはいえないの? そんなじゃ、お嫁さんの来てがないわよ」
 小夜子から手きびしいしっぺがでた。しかし竹田はうれしかった。それでこそお姫さまだ≠ニ、こころの中でつぶやいた。

(三百八十二)

 長時間におよぶ手術がやっと終わった。昼の名残りがのこる薄暮の時間から、漆黒の闇につつまれる午前二時過ぎに終わった。憔悴しきった三人の前で、手術中のランプが消え大きく息をつく音とともにドアが開いた。
「プシューッ」
 三人の頭が上がった。まだ朦朧としたあたまではあったが、小夜子がまっさきに「あなた、タケゾー!」と、しがみついた。つづいて、五平と竹田が、また同じく「しゃちょー!」と声を合わせた。竹田は思わず指を組んでいる。それを見とがめた小夜子が「祈りはだめって」とのことばを発し、また大粒の涙があふれでた。ガラガラと音を立てて進む中、引きずられるように「信じてたんだからしんじてたんだから」と、その横につきそった。
 手術室まえで、五平と竹田が固唾をのむなか、静かに執刀医がせつめいをしはじめた。
「難しい手術でした。犯人は、素人さんではないですな。あるていど訓練を受けた、プロというものが存在するかいなかは知りませんが、そういった類いですな。一度刺して、そしてもういちど押し込むような、しかもナイフ自体を回転させながらです。これではたまりません。肝臓がねえ……」
「そんなにひどい状態なんですか。で、なおりますか? 退院のめどってのは?」
 ふたりの声がかぶさったものの、今回は竹田がひかえた。
「うーん。退院ですかあ……。命があっただけでも、もうけもんですからなあ。ま、すこし様子を見てからということにしましょう。とにかく、重体であることは間違いありません。……最悪の場合ですが、このまま意識が戻らないってことも…あるかもしれません」
 それではと、疲れたからだをあらわすように、両肩を上げ下げしながらはなれた。
「うーん。こりゃあ……」。五平がうなると、竹田も腕を組みながら「どうしよう、お姫さまにはなんとご報告したら」と思案顔をした。
「そうか、そうだな。医者にも口止めしておかなきゃ。こんなことが、いま、外部に漏れたらえらいことだ。いいか、竹田。俺たちだけの秘密だぞ。会社のものには軽いもので、すぐにも退院できると伝えろ。ただ、できるけれども、長年のつかれをいやすためにもしばらく静養される、ということにするんだ」
 竹田に言明したあと、口をつぐんで考え込む五平だった。悲しくなる竹田だった。やむを得ぬことかもしれぬが、と己の立場というものを考えないわけにはいかなかった。会社のことを思えば、たしかに不祥事であり大ごとにしてはならない。百貨店内でのことだ、朝刊には面白おかしく書かれることだろう。会社の電話がなりひびくだろう様子が、竹田の目の前にはっきりと思い浮かべられた。

(三百八十三)

 五平のいうとおりに、ここは軽傷だったと答えるべきだろう。時間かせぎだとしても、その間に対策を講じねばならない。だがしかし、小夜子はどうなるのだ。会社のことばかりを優先させてもいいものだろうか。それになにより、この事態をなんと伝えればいいのか、真実を話すのか、軽傷だと安心させるべきなのか。
 思案に暮れる竹田だった。
「よし、決まった。当面は箝口令をしいてしのぐとして、長期にわたった場合には銀行との折衝だな。なんとしてもこの案をのませなくちゃ。竹田、これから言うことは、秘密中のひみつだ。俺とおまえだけの話だ。徳江にも言うな、絶対だぞ。会社の存亡に関わることだからな」
 気迫のこもった、ついぞ見たことのない五平の目だった。目の中でギラギラと炎が燃え上がり、体全体に熱いマグマのような血液がめぐり回りまわっている、そんな威圧感を感じさせるものだった。
これが「気骨」というものか、敗戦という時代を生き抜いて、いまを作り上げた者の正体なのか
「は、はい。肝に銘じます」。それだけしかなかった。さっきまでのセンチメンタルな思いは、片隅に追いやられてしまった。 
「とりあえず、おれが会社の指揮をとる。むろん、社長が短期に復帰されれば、笑い話ですむ。しかし医者の言うとおりに長期となったら、迷走することになるからな。でだ、当面の資金繰りは、きびしい時期ではあるが――まずい時期を選んでくれたものだ。そうか、これが狙いか。長期の入院をさせるための、あのナイフの使い方か」
 ひとり、合点するように頷く五平に「どういうことです? ナイフの使い方がなんです?」
「いやな。医師が言うとおりに、まっすぐに刃を刺せば、場所が悪けりゃ重大な結果となるがな。普通は、それほどにひどくはならん。臓器に直接に刺さればべつだがな。けれども、刃を回転させるということは。そうだな、果物を例にとれば、まっすぐに切ればきれいな断面だ。けども、真ん中あたりで刃をまわしてみろ。グチャグチャになるだろ。それと同じだよ。修復するにも時間がかかるし、場合によっては死亡の可能性だったある」
 竹田は、五平の目を正視できなかった。そんな恐ろしい方法で人を傷つける、ひとを殺すことができる人間が存在するとは思えなかった。竹田のそんな思いに気づいたのか、五平がやさしい目で語りかけた。
「信じられんよな、竹田には。人間がそんなに残虐なものだとは。戦争だ、せんそうだよ。戦争は人をかえる。どんなに善良な人間でも、悪鬼になる。もしなれなかったら、おそらくは帰ってこれなかっただろう。まあなかには、そんな経験をせずにすむお方もいらっしゃるだろうがな」
 誰のことを指しているのか、竹田にはわからない。五平はそうではないらしい。やけにナイフについて詳しすぎる。しかし五平は内地で終戦をむかえたと聞いた。そして社長も。そうだ、社長は、そんな幸運なひとりなのかもしれない。そう考えた。では五平はどうなのだ。さきほどの疑念が消えない。
いやいや、たまたまさ。たまたまナイフについて詳しいだけで、そんなお方じゃない=Bなんとか黒いよどんだ澱を飲み込まないように吐き捨てた。

(三百八十四)

 五平の元に、刑事がやってきた。小夜子には伝えないでほしいとという、五平の要望を理解した警察の配慮だった。
「自首してきましてね、本庁に。凶器のナイフも所持していました。
おとなしく捕まりました。あの手の犯罪者というのはにげまわるもんなんですがね。犯人の名前は、太田和宏です。年令は、44歳です。心あたりがありますか? 出身がはっきりしないのですが、本人の言によると山陰地方だというんですが。ただねえ、戸籍がねえ。本名かどうかも怪しいんですがねえ。どうも筋者ではないようです、いわゆる特攻帰りというやつですな。これだけははっきりとしています」
 戦後の混乱期に帰国した者の戸籍については、中には怪しげなものもありはした。外地で戦死した者の戸籍をかたる者がいたのは事実だったからだ。
「で、ですな。動機なんですが。本人は『天誅だ、てんちゅうだ!』とさけぶんですなあ。義侠心にかられてのことだ、と。なんかお宅、あこぎな商売をされているようですな。『大杉商店の件だといえばわかる』と言ってるんですがな」
 やはり日の本商会だった。起死回生の一手のつもりなのだろうが、悪手にはちがいない。個人商店ならばいざ知らず、立派な会社組織なのだ。社長不在だからとゆらぐことはない。ただ、不祥事としてとらえられることが困る。社長個人のトラブルとして処理できれば、それに越したことはない。あくまで、会社間のトラブルとしての報道はさけねばならない。
「で、ですな。新聞記者がうるさいんですわ。詳細を教えろと、やいのやいのでして。そこで事情をお伺いしたいのですよ。会社関係ならば加藤さんでしたかね、専務の。もし個人的なことでしたら、もうしわけないが奥さんにでも」
 どっちにする? 会社関係か、それとも個人間のトラブルとして処理するか? と迫ってきた。
 どもこうもない。個人間のトラブルで処理することは決まっている。しかし小夜子では、そこの所の打ち合わせができていない。こんなに犯人逮捕が早いとは、想像だにしていない。相手の作戦勝ちだ。下手をすれば同情による逆転だってありうる。とっさの判断を迫られた五平、「個人の浮気です」と断じた。
 思わず顔を上げた竹田の表情を読み取った刑事だったが、とりあえずの深入りはさけた。富士商会という会社について検索をかけた結果、かつてGHQとつながりのあった会社だと言うことがわかったからだ。下手につついて、藪から蛇となれば、自身に難が及ぶ可能性もある。ここは慎重に、なんらかの証拠があがってからのこととした。
「そうですか。それじゃ、もうしわけないが奥さんから少し事情をおうかがいしますか」
 竹田が即座に反応した。
「お姫さまは、いまはやめてください。まだショックが大きくて。それに社長につきそわれていますし」
「社長とは戦友でしてね。女あそびは、わたしのほうが。というより、奥さんはご存じないでしょうし」と、話を引き取った。

(三百八十五)

「竹田。席をはなれてくれ。奥さんが心配だ、そばにいてやってくれ」
 さっきのことを腹に入れて対処しろ、と目配せをした。
「わかりました。自宅のほうにも連絡しておきます。お千勢さんが心配されているでしょうし」
 万が一にも五平の意図を知らされぬまま、警察の事情聴取をうけられてはならぬ。一秒でも早く、小夜子に伝えておかねばならない。
しかし気の重い竹田ではあった。会社を守るためとはいえ、武蔵個人をいやしめるのだ。たしかに武蔵の浮気癖は激しい、はげしかった。しかしそれとて、小夜子との結婚まえの話だ。
 最近では減っている、というより、以降はいちどもそんな兆候がない。たしかに酒宴の席はへってはいない。増えた感もある。しかしそれとて、小夜子の自慢のための酒宴がおおくなっていた。さらには武士が誕生してからの、お祝いだと浮かれる姿もある。しかし女あそびは格段に減った観がある。
 武蔵はいま、術後観察のためにICU内にとどめられており、小夜子の入室は許されていなかった。頭といわず胸といわず、足にまで、管やらリード線がつけられて、武蔵の予断をゆるさぬ容態がみてとれるものだった。ガラス窓に体を預けてじっと見入る小夜子の姿に、竹田は胸が熱くなる思いがした。
「祈るのはやめて!」と叫んだおりの、強い小夜子はそこにみえなかった。ただただ夫の無事をいのる姿があるだけのように感じられた。
いやよ、いやよ、このまま逝っちゃいやよ。あたしとの約束は、まだいっぱい残ってるんだから=B知ってかしらずか、胸のまえで指をかさねている小夜子だった。
「小夜子奥さま。大丈夫ですか。いま、お千勢さんにれんらくしておきました。着替え等をそろえて、朝になったら持ってきてくれるそうです。それから……」
 申し訳なさそうに目を伏せて、小夜子に小声で耳打ちした。
「いま警察が来ていますが、その、動機について、犯人は仕事関係をにおわせていますが、その」
「はっきりしなさい。五平が、女の不始末だって言ってるんでしょ。わかってるわよ、そんなこと。それであたしは、知らぬ存ぜぬでとおせ、ってことでしょ!」
 常の小夜子にもどっていた。ピシャリと竹田をはねつけ、五平の意図を理解していると告げた。
 その後の調べで、大杉商店の三女の知り合いであることが分かった。義憤に駆られたというよりは、三女の依頼によって事に及んだことが発覚した。そしてそれを画策したのが長女であり、次女は反対したものの三女が決断をした。
 当初は三女の交際あいてのチンピラに白羽の矢が立ったが、土壇場で逃げだしてしまった。で、その兄貴分である男に、特攻帰りの自称太田和宏を紹介されて、三女が貢ぎ物となることで話がついたという。