(三百七十一)

 血のメーデー、警官隊が早稲田大学に突入した早大事件、そしてデモ隊と警官隊の衝突となった吹田事件に大須事件と、世相が騒然とする中、富士商会の業績は順調に伸びた。しかしそしてそれにつれて、五平の気力が萎えはじめた。開業以来やすみをとることなど一度としてなかった五平が、たびたびとるようになった。病気かしらと事務員のあいだでささやかれるが、当の本人は力なく「ちがうよ」と、首をふるだけだった。
 竹田が声をかけても、「ああ」と返事をするだけだ。しかしそれで仕事が滞るということもないため、「疲れておられるんだ」と気にとめる者がいなくなった。
「どうした、専務。最近、元気がないじゃないか」
 生気のない表情をする五平を気にする武蔵に、から元気をだそうとする五平だったが声に張りがなかった。 
「社長。そろそろあたしもしおどきかと思えるんです。どうにもね、体力の衰えが気力のおとろえを呼ぶようで。こんなことでどうする! って、自分をしかってみるんですがね。でもねえ……」
「おいおい、なにを言いだすんだ。まだ、四十前だぞ。老け込むには早すぎるじゃないか。なにか悩みごとでもあるのか? そうか、あれだな。富士商会も安定期に入ったことからのだ。なんていうか、気が抜けたってところか? どうだ。もういっそ、結婚しろや。むかしのことは忘れてだ、もう五平の贖罪は済んでるんだ。所帯をもてよ。そうか、所帯は持っているんだな。籍を入れていないだけだな。だからか、それで責められているのか?」
「いえいえ、そういうことじゃないんです。あいつは、そういった形式にはこだわらない女ですから」
「じゃあ、なんなんだ!」
 いらだちを隠せずに、語気するどくせまる武蔵に
「こんど、一杯どうです? 屋台のいい所を見つけましてね。無口な親父が一人でやってるんですがね。そのおりにでも、聞いてもらいますよ」と、柳腰でかわした。
「むさい男がひとりでやってるのか? 女っ気なしだと? 五平さんが、女っ気なしの屋台で? おいおい、こいつは重症じゃないか。
こいつは今度といわずにだ、今夜にでも行かなくちゃな」
 五平の自宅がある大田区田園調布近辺での酒盛りとなった。金持ち連中が居をかまえる場、富裕層が暮らす一帯だ。その地に居をかまえるなど五平には思いも付かぬことだったが、同居する真理江のたってのねがいで中古住宅を買いとることを決意した。いにも五平には結構な額のたくわえがある。
 誰とて遺してやることもない金だ。真理江のためならと、決断した。そんな真理江とは、一年ほどの付き合いになる。ふらりと立ち寄ったいっぱい飲み屋の女主人だったが、それがかつて女衒時代に遊郭に斡旋した女人だった。
 当初は気がつかなかった五平だが、ひとり静かに飲む五平にやたらと女主人がからんでくる。
「なんだ、このおんなは?」。奇異な思いをいだいていたが、客が五平ひとりになったときにその旨を告げられた。まさかの再会におどろく五平であり、女衒としての後ろめたさからやっと解放されかけたところであり、女主人の意外なことばに救われる思いだった。
「はじめはね、すごくうらんだわよ。父親と、そして五平さん、あなたを」。なまめかしい目つきを見せながら話をつづけた。
「でもねえ、あのころは、もう生きるか死ぬか、そんなときだったもの。あたしが売られるたことで、家族みんなが生きながらえたんだ、そうおもうとさ」
 とつぜんに女主人の目に涙があふれだし、ことばがつまった。五平の目には、この女主人のことばが嘘であるように感じられた。「すまなかった、ほんとにすまなかった……」。精いっぱいのことばだった。酔うどころのさわぎではなく、正直のところ、この店にはいるんじゃなかったと後悔の念にかられた。
「五平さん、あんたには感謝の気持ちでいっぱいなんだよ。あんたね、こういってくれたんだ。『いやなら、まだまにあうぞ』って。
そのことばでね、かくごができたのさ。だけど……。ああ、もう。あたしはなにいってんだろうね。どうにもはなしべたでねえ。いっつもしかられてたよ、あいそがないって」
 結局のところ店を早じまいしての、ふたりだけのさしつさされつとなった。女主人の愚痴話をきかされる羽目になった五平だが、帰ろうと思えばかえられないわけではなかった。ただ罪ほろぼしのためとおのれに言い聞かせてのことだった。そしてぽつりぽつりと話しだした女主人のことばで、五平の心も軽くなっていった。
「本音をいうとねえ。いつまでも親を恨むことはできなくてさあ、五平さん、あんたをうらみつづけたんだよ。恨んでうらんで、のろい殺してやろうって。でもねえ、ふしぎなもんだね。うらむってことはさあ、その相手のことを思うってことなんだよ。いつの間にか、五平さん。あんたのことばっかり考えるようになっちまって。ふふふ……。いつのまにか、あんたが好きになってたのかねえ」。
 そしてその夜は、いっぱい飲み屋の二階に泊まった。

(三百七十二)

そよそよと多摩川の川べりから風が吹いてくる。
きらびやかなネオンサインが焦がす空を、はるかに見ながらふたりして並んでいる。電柱にとりつけてある街灯にむらがる虫が、他の客だ。
「どうです、いけるでしょ?」
「うん、美味い! と言うのは、失礼か? 仮にもプロの作るものだ、うまいのは当たり前だな。俺たちに合ってるな、この味は。五平にしちゃ、上出来の所を見つけたな」
 熱々のおでんを口にはこびながら、コップ酒を手にする。五平は、ちびりちびりと舐めるように飲んでいる。おだやかな表情の中に、ときおり見せる苦汁の色。武蔵が、口を開いた。
「五平、なにを悩んでいるんだ。話してみてくれ。五平の悩みごとは、俺の問題でもあるんだ。俺たちは、血こそつながっていないが、義兄弟なんだ」
 じっと五平の横顔を見ながら、五平の口がひらくのを待った。しばらくの沈黙ののちに、やっと五平の口がひらいた。
「社長……」
「五平、タケさんでいいよ。いや、タケさんじゃなきゃだめだ」
「だめですわ、それは。社長としてのタケさんに話したいんです」
 五平にしてはめずらしく、気色ばんで言い返した。
「そうか、社長としての俺か。わかった、こころして聞くよ」
「社長。ここらで、身を退かせてもらいたいんで」
「身を退くって、おまえ。会社を辞めるってことか? 冗談言うな、悪いじょうだんだぞ、そいつは。五平には、定年なんかないんだぞ。辞めるのは、いや辞められるのは死んだときだ。馬鹿ばかしい、話にならん、そんなことは」
 思いもかけないことばに、五平から目をそらして首をふった。
「社長の気持ちは、ほんとにありがたいと思いますわ。ありがたいんですが、もうダメなんですわ。気持ちがね、切れちまったんです。朝起きて、以前なら『よし、やるぞ!』って思えたのが、今はねえ、ないんです。『もうあさか』って、ため息なんですわ、出るのが」
 沈んだ声ながらも、はっきりとした口調でいう五平に
「だめだ、だめだ。そんなことは許さんぞ。なあ、五平。五平だから言うけれども、俺なあ、長くないかもしれん」と、声をひそめる武蔵だ。 五平のことばに誘われるように、武蔵もまた、弱よわしくつげた。
「なんです、その長くないってのは。変なことは言わないでくださいな。医者に、なんか言われたんですか?」
 思いもかけぬ武蔵の告白をきかされて、己の発したことばに驚きを隠せない五平だ。
「ふん。医者は、酒をひかえろのお題目さ。そうじゃない、そんなことじゃない。実は、じつは夢見がわるいんだよ、最近。おむかえの夢を見るんだ。親父とお袋らしきふたり連れがな、むかえに来るんだよ」
「らしき…って、どういうことです? いやいや、疲れからですよ。喜びが大きすぎて、それにとまどってるんですよ。坊ちゃんの誕生がね、タケさんの気持ちをね、目いっぱい高揚させているんだ。その反動でね、わるい夢を見るんですよ」
「まあいい、辛気くさい話はやめだ! とに角、五平の退職は認めんぞ。だめだ、だめだ! 親父、もう一杯だ。五平、お前もからにしろ」
「社長…あたしは……」。くらく沈んだ声で、五平がポツリポツリと話しはじめた。
「あたしは、いや、あたしなんかが居ても良いんですかね? 厄介者じゃないかと、そう思えはじめて」
「待てまて、なに」。口をはさみかける武蔵を制して、五平がつづけた。
「竹田も、いっぱしになってきましたしね。もう、あたしの指示なしでも、なんでもこなせるようになりました。徳子との二人三脚で、経理もきちっとやってますし。その徳子も、あたしなんかより竹田との方がやりやすそうですし。それに最近じゃ、仕入れの方も社長におまかせしっ放しですし。なんだか、あたしの居場所がね、なくなっちまったようで……」
「とにかくだめだ。この話は、これで終わりだ。いいな、The Endだぞ」

(三百七十三)

 翌日のこと、社員すべてを集めての朝礼がはじまった。電話番としてひとり、徳子が事務室にのこった。いまではお局さま然として、女子社員を取り仕切ってる。かつては武蔵の愛人として君臨していたものだが、小夜子という姫が現れてからは、いやその小夜子自身に惚れ込んでしまい、女城主の警護係になっている。?
 二階にある大食堂でのこと。武蔵の激しくもどこか誇らしげな声がひびいた。
「セールを始めてから2ヶ月だ。どうだ、成果は上がったか? 
服部、営業の成績を発表しろ」
 ぐいと胸をそらせて、服部が黒板中央に立った。そこには折れ線グラフで、月ごとの成果表が示されている。
「ええ。セールそのものは、8月の頭からスタートしました。1、2月は社長の新年の訓示もあり、不景気な世間とはちがい前年度なみでした。ところが、3月に入り、漸減傾向となり、5月6月の落ちこみがはげしくなりました。これが、例の日の本商会事件です。で、6月に山田の報告により分かりました。社長の指示の元、おまけ作戦を敢行したところ、このグラフの通りにうなぎ登りにあがっています。9月の今月は、過去最高の売り上げを予定しています」
 割れんばかりの拍手の中、服部が満面に笑みを浮かべ拳を突き上げて、やったぞと誇示した。
「ええ、もうひとつ報告があります。取引先の数も300社を超えて、過去最高であります。新規顧客へのおまけ作戦を敢行したことが寄与したと思われます」
 鼻高々に話す服部に対して、武蔵から苦言がでた。
「こらっ、服部。それはだめだと言ったろうが」。 しかし服部も負けてはいない。
「新規とはいっても、いい客筋ばかりです。なかなか取引させてもらえない所ばかりなんです」
「新規の客にはじめからこんなサービスをすると、富士商会は御ししやすいとなるんだぞ。またぞろ無理難題をいってくるぞ」
 武蔵が苦言を呈した。武蔵に苦い経験があるのだ。日本橋に会社を移して数年後のことだった。あるメーカーとの取引でもめたことがある。競合してしまった相手である大杉商店に対し、「これははじめての取引ですので、原価で売り込ませてもらいます。ただし一回だけの値段で、その旨は相手にもつたえてあります。以後はこんな無茶はしませんので、今回かぎりは」と義理を果たした上で、大杉商店主の人の好さにつけ込み納得させた。
「旦那さまのおっしゃるとおりではございますが、『小さなのありの一穴からダムが崩壊することもある』という故事もございます」。番頭も忠言したが聞きいれられなかった。とくに信用金庫に勤める長女の娘むこは、前々から人の好さを危惧していたこともあり、「お考え直しください」と進言したがむだだった。
「あなたは金勘定ばかりしているから、人情というものがうすい。商売というものがわかっていない。なあに、しょせんは一介の課長決裁じゃないか。いざとなれば、社長に直談判しますよ」
 歯牙にすらかけられなかった。これまでの人情味あふれる己の評判を落としたくないという一点で突っ走る店主だった。

(三百七十四)

 富士商会の次回納入時の交渉では、言った聞いていないの水掛け論となり、それならば「元の問屋との取引を再開する」と突っぱねられた。このメーカーとの取り引きによる恩恵は大きい。富士商会の信用度があがるし、すそ野がひろい業態であることで関連する企業も多い。二年越しで狙っていたメーカーでもあり、なんとしても口座を開かせたかったのだ。
 定石通りに通っていたのでは、この先何年もいや取引ができることも難しいかもしれない。お得意の素行調査をやってみたが、係長は落とせても謹厳実直を絵で描いたような課長は、難攻不落だ。家族にまで広げたけれども、どれも落とすことができるようなものはなかった。結局実利を与えることでしか、取引は成立しなかった。
 結果、値上げは見送りとなった。しかし武蔵にしても利益なしでの取引をつづけるわけにはいかない。結局のところ、大量の買い付けを行うことで仕入れ単価の値下げを勝ち取り、なんとか利益を出すことができた。そしてこのことが、大量買い付けによる仕入れ単価の値下げを要求するという、富士商会のスタイルが決まった。
 しかし売れ筋の商品を大量買い付けすることは、他の業者からの反発が大きく難航することばかりだったが、五平のGHQを利用した交渉が実ることになった。おかげで、大杉商店は同業者たちから轟ごうたる非難を受けることになり、次第に商売そのものが先細りとなった。そこでお詫びの印にとばかりに、一部の売れ筋商品を富士商会からまわすことになった。ただその商品の中に不良品が混じり込んでいることが発覚し、それがとどめとなってしまった。
 武蔵にいわせれば、買い付けた商品の検査を怠ったことが悪いのだということであり、現に富士商会の商品からは出ていないということになる。そして返品を要求する大杉商店には、一旦他店に売り上げられた商品の返品は受け付けられないと、断固拒否した。
 信用をなくし取引先が逃げ出したのでは、先行きがみえている。仕入れ先からも見限られて、さらには前金なら商品を渡すという詐欺にまでひっかかり、番頭すらもなけなしの金をもち逃げしてしまった。店じまいをすることになった大杉商店だが、同業者のだれもが「はめられたな、ありゃ」、「富士商会ってのはエグいことをする」と同情の声が上がりはしたものの、富士商会に正面切っての非難はなかった。
「そもそもがだ、のきを貸してひさしをとられたってことだろう」。これが大方の声だった。

(三百七十五)

「大丈夫ですよ、その点は。特例中のとくれいだってことを伝えてありますから。新入りの藤本なんか、ぼくが何度いっても門前払いの吉田工業との取引を成立させたんですよ」と、しかしそれでもなお食い下がる服部に対して、
「それでもだ。節操がない会社とおもわれる」と、取り合わない。
「一回目は通常取引で、二回目からおまけ作戦をとりました。みんな営業に苦労している所ばかりなんです。特例として許してやってください」
 すがるような視線を、営業全員がいや富士商会社員全員が、武蔵に向けた。
 「しかしなあ……。まあ、お前たちの判断にまかせるといったのは事実か。しかし服部、事後承認でいいと言ったんだぞ」
「はい、分かっています。でも『ダメだ』って言われそうだったんで、セール終了後にしようと思いました。すみません。責任はぼくがとります。給料を減らしてください」
 ニコニコと聞いていた五平が武蔵に言った。
「社長の負けだ、こりゃ。服部の方が一枚上手ですなあ。はじめてじゃないですか、社員にやりこめられるのは」
 苦笑いをする武蔵だったが、横を向いて「竹田。お前の策だろ? 服部はこんな策は思いつかん。正面切って、俺に取引させてくれというはずだ。そういう直球勝負でいくところが、服部のはっとりたるゆえんだ。だからお得意先に好かれるんだ、大事にしろよ、お前の売りだからな。分かった、わかった。今回は不問だ。それより、あと一ヶ月だ。予定通り、それでセールは終了だ。日の本商会の奴、音を上げたらしい」と、先ほどの仏頂面とは裏腹に、勝利に酔いしれている。
「仕入れ先からのクレームに耐えかねんのだと。『二流三流品に見えるからやめてくれ』だと。ぶつが入ってこなけりゃ、そりゃ商売ができないわな」
 そのことばに、五平が付けたした。
「社長だって手をこまねいていたわけじゃないぞ。こうやって、裏工作をなさっていたんだよ。ましかし、みんなよく頑張ってくれたな。営業のみじゃなくて、事務方もだ。いやがらせの電話が、けっこう入っていたというじゃないか」
 あまりの長さに、徳子が二階へと上がろうとしたとき、五平の労いのことばを耳にした。
「それから長尾。お前ら配達人も、よくがんばった。売り上げが伸びるということは、それだけ荷物量がふえたということだ。それをこのギリギリの人数で、よく頑張ってくれた。朝はやくから夜おそくまで、ほんとうにごくろうさん。お前たちは縁の下の力持ちだ。だれもほめてくれる部署じゃないが、みんな知ってるぞ」
 五平のことばが終わると同時に、全員から拍手がおくられた。そっと部屋から出る武蔵が、部屋の外で聞き耳を立てていた徳子に気がついた。
「どうした、徳子。電話番じゃなかったのか?」
 少し詰るような強いことばだったが、そのことには気にもとめずに、徳子が全員を押しもどした。
「浮かれるのも今だけよ! セール期間中は、とんでもないことなんだからね。いいこと! 富士商会も、大赤字なの。分かってるでしょうね、みんな。おまけをつけるということは、半値で売ったのと同じなんだからね。日の本商事が死に体になったとしても、富士商会も、深〜い傷を負ったんだからね」
 沸きにわいた瞬間だったが、徳子のことばに冷水を浴びせかけられたも同然だった。
「そうだな、そのとおりだな。徳子の言うとおりだ。けどな、きょう一日だけは、勝利に酔いしれようじゃないか。さっ、そうとなれば仕事だ、しごとだ。待ってるぞ、お客さんが」
 五平の締めことばでお開きとなった。徳子のことばに深海に落ち込んだ全員が、五平のことばでふたたび生き返った。

(三百七十六)

 その日の夜に、竹田・服部・徳子、そしてむろん五平が、社長室に呼ばれた。昼間の興奮がさめやらぬ中、おもむろに武蔵が口をひらいた。
「どうだ、ソファの座り心地は。加藤専務がうまいことをいった。『雲のじゅうたんですなあ』。ふわふわだけれども、芯がしっかりしている感じだろう」
 まだソファ自慢がつづこうとするのを、五平が引きとった。
「社長とは真反対だよな。ゴツゴツしているけれども芯はやわらかい、ってな。で、なにかまだ話があるんですかい」
「日の本商会の実体がわかった。女社長だということまではみんなも知っているだろう。ただその素性が分からなかった。それがおとといに分かったんだ。驚いたよ、おととしの暮れに店じまいした大杉商店を覚えているだろう。そこの長女だった。美人の三姉妹で評判のみせだったけれども、もっとも小夜子には遠くおよばないがな」
 ニヤつく武蔵に、五平がちゃちゃを入れた。
「小夜子奥さまは、社長にとっちゃ掌中の珠だ。どんな美人を、そうですな。山本富士子あたりを連れてきても、『小夜子の勝ちだ!』と豪語なさるでしょうに」
「まあいい、話をもどそうか。不思議なのは資金源だ。ほぼ夜逃げ状態だったんだ、金なんかあるわけない。長女の旦那は気のよわい銀行マン。銀行と言っても信用金庫だし、金が出るわけもない。
次女の旦那は商事会社と銘打ってはいるが、口銭かせぎの輸入問屋につとめてる。問題は三女だ。このはねっ返りだけはわからん。男がいるようだが、勤め人じゃないかもしれん。ということで、どこから金を引っ張ってきたのか、さっぱりだ」
 徳子が用意したお茶をすすりながら、武蔵の話がおわった。どっぷりと日の暮れた外では、ひっきりなしに車のクラクションが鳴っている。歩道には人があふれ、行き交っている。沿道には商店が立ちならびそれぞれに客のよびこみを図っている。歩道に立て看板をおいての宣伝合戦だ。
 時計店・宝石店では、ショーウィンドウの中に高額なブランド品を、どうだ! とばかりに陳列してある。洋品店ではマネキン人形に最新ファッションを着飾らせて、若い女性たちの気を引いている。そろそろ遊びの虫がわいてきたか、服部がそわそわし始めた。
「あいつらが待ってるんだよ、例の店で」。小声で竹田に話す。耳ざとい武蔵がその声を聞きつけた。
「どうだ、だれかひとりものにしたか?」
 へへっと、服部が頭をかいたとき、1階の電話がけたたましい音を立てた。時計は7時をまわっている。取引先からの連絡はありえない。残っている社員の家族からの緊急電話かと、みなに緊張の色が走った。しかし武蔵が平然と言った。「おれあてだよ。どうやらわかったようだな」
 五平たち四人を制止して、武蔵が足早におりていった。なにごとかと色めき立つなか、五平が口元に笑みを浮かべながら「資金源だよ」と、冷然と告げた。?

(三百七十七)

「大杉商店だったとは、日の本商会は。あそことは、因縁がありますなあ。社長のくち車に、こりゃ言い過ぎだ。詐欺にはひっかかるし、しまいには番頭の持ちにげときた。まったくハゲタカばかりですなあ、世の中。うちも気をつけなくちゃ」
 くわばらくわばらとばかりに、背広を頭にかぶせる仕草をする五平に
「うちも、富士商会もハゲタカっていわれてるんだぞ。もっとも、そのハゲタカも気をつけなくちゃ、他のハゲタカにやられかねんがな」と、相づちを打つ武蔵だった。
「しかしなあ。あの大杉商店も、結局は店をたたんでたろうさ。生き馬の目を抜くっていわれるこのご時世に、あの人の好さはいただけねえ。老舗だってことで取引先も『悪いことはしねえだろう、暴利はとらねえだろう』ってことでつながってたんだ。それが証拠に、うちが持ちかけた取引にはほいほいと食いついてきたじゃねえか。誠意だけじゃ、飯はくえねえってことさ。それに、人が10人いれば10の理屈があるってことさ。10の国があれば10の正義が存在するってことさ」
「まあそういうことでしょうな。しかし番頭がしっかりしてりゃ、主人がだめでももちやすがね」
 ふたりだけになった社長室で、恒例の酒盛りがはじまった。ゆったりと足を伸ばして、ふたりとも素の顔を見せあった。
「そうそう、そういうことだ。富士商会も、五平という番頭がしっかりしているから、大丈夫ってわけだ」
「やめてくださいよ、社長には勝てませんて。あたしはただ、社長がいつもいうように汗をかくだけですよ」
「智慧があるものは智慧を出せ。ちえがないものは汗を出せ。汗を出せない者は去れ。ってやつか? だれのことばだっけかな? しかしこれは、けだし名言だぜ」
 大きく手をのばして背伸びをした武蔵に、思いだしたように五平が口をひらいた。
「10人の正義・理屈ですか。あれもまた、名言ですなあ。しかし詐欺といったらいいすぎですが、一歩手前でしたぜ。ああわかってたよ。だから慎重にやったんだ、ことばじりをつかまえられちゃたまらんからな。ましかし、楽なもんだった」
「不良品の選別料を差し引いた特価品なので、次回からは通常価格でいきますよ」
 買い入れたメーカーの話を伝えなかったことに、五平が「社長、大丈夫なんですかい」と疑念の声をあげたが、「うちだってすべての商品の検査はするんだ。調べねえほうがわるいや」と強弁した。
「まあな。メーカーにしたって、作りたくて不良品を作ってるわけじゃねえ。一定量の不良品はかくごしてるんだと。でその不良品はずしに、たかい給料を払ってまで調べてなさるんだ。そこで俺っチの出番よ。安い手間賃で調べますんで。その分をこちらにいただきたいと、少し色をつけてな。それに万が一の不良品の責任はとらせてもらいますから、ということなんだ。俺にしたって、あちらさんに入ってるとは言ってねえかもしれねえが、うちじゃ検査してますよ、とは言ったんだ。それをどうとるかは、向こうさま次第だよ」