(三百六十二)
普段ならば嫌みのひと言も口にする小夜子だが、いまばかりは頼もしさを感じる。正三との連絡がうまくいかずにいたときには、アナスターシアがあらわれた。そしてアナスターシアと離れてからは、武蔵というあしながおじさんにめぐりあえた。いつもそうだった。苦難におちいりそうになると必ず救いの主があらわれる。おのれの運の良さがどこからくるのか、母親の運をも吸いとってしまったのかと思える小夜子だった。
「そうだ、名前を決めたぞ。タケシだ、武士と書いてタケシと読むんだ。御手洗武士。どうだ? 良い名前だろうが。侍のように凛々しい男にそだてという願いをこめてだ。勇猛果敢という意味で、猛も考えたんだか、どうもキツイ気がしてな」
「断然、武士がいいわ。ううん、武蔵の一字を取るんだから、いいわよ。それで、きっとあたしたちの子どもだから、美男美女で生まれてくるわよね」
「ああ、大丈夫だ。小夜子とおれの子だ。美男子にきまってるさ」
武蔵の手をにぎりしめながら、小夜子にとっては頻繁におそいくる陣痛をこらえた。産婆の呪文がないというのに、武蔵の手にさすられているという思いで、そのいたみに耐えられる小夜子だった。
「どうだ? 俺の念も、すてたものじゃないだろうが」
小夜子が苦痛に歪む表情を見せると、すぐさま
「よし、吸いとってやるぞ。小夜子のいたみを、俺がぜんぶ吸い取ってやる」と、小夜子の口を吸った。
「はいはい、ごちそうさま。タクシーが来ましたよ。それじゃ、病院に行きましょうかね。先生もこれから向かってくださるって話しだし。妊婦がいなけりゃ、話にならないわ」
病院に到着すると、玄関先に四、五人ほどの人影があった。その看護婦たちのなか中に、帰宅した産科の婦長のすがたがあった。異様な光景に≠ニいぶかしがる運転手を後目に、まさにVIP待遇で車椅子に乗せられた小夜子が運ばれていく。
「大丈夫ですよ、御手洗さん。あとはあたくしたちにお任せください」
柔和な表情のなかにも、介の民間人ごときに、なんでわたしまでが≠ニ苦りきった表情をチラリとかいま見せた。「お願いしますよ、婦長。とりあえず、これを。看護婦さんは、何人ほどお見えですか? 十人、二十人ですか? 婦長には、あらためてお礼をさせて頂きますよ」と、封筒を手渡した。
「あら、そんなこと。ここは大学病院です、受け取るわけには」
「いや、そうおっしゃらずに。お産は、長時間にわたるとか。夜食代の一部にでもしていただければ、ということですので」
「婦長! 教授がとうちゃくされました」
薄暗い廊下の先から、タイミング良く声がかかった。
「はい、いま行くわ。分かりました、とりあえずこれは、お預かりということで」と、手渡された封筒をポケットに入れて立ち去った。
(三百六十三)
「お客さん、有名人なんですね」。うしろから運転手が声をかける。事のなりゆきに興味をもって、顛末をみとどけるまではと玄関先に車を置きっぱなしにしていた。
「いや、そうじゃない。ま、金がきらいな人間はいないってことさ。お前さんだって、金は好きだろうが。金はな、貯めこんじゃだめだ。キチンと遣うべきときに、つかってやらなきゃ」
半端じゃない額をつかませたんだ。ぶじ出産を終えたら、あらためて相応の礼もとつたえてあるし。医者も必死だろうさ。しかしま、看護婦にも良い思いをさせなきゃな。片手落ちってもんだ。なんといっても、産後は看護婦しだいだろうから。小夜子のことだ、わがままいっぱいを押しとおすだろうし。看護婦も手なずけておかなきゃな
〔金で物事を解決する〕
世間では忌みきらわれることばだけれども、武蔵にしてみれば、こんな単純な道理はないと考えている。
金で買えるものは買えばいい。金で買えなければ、汗で買えばいい。それでも買えないものは、買えないものは、奪えばいいってか? 価値のわかる者が持ってこそ、光り輝くものだ≠ニ武蔵は考える。
価値の分かっている者から奪うことになっても、より価値の分かる者ならば良しだ。真に光り輝くことになるんだ。そしてそれは、俺以外にはありえない≠ニ、断じる武蔵だ。
その最たるものが、小夜子なのだ。想い人がいると宣した小夜子を強引におのれの伴侶とした武蔵だが、武蔵以外の男に、小夜子を光り輝かせることなどできぬ相談だと断じる。アナスターシアの不慮の死によって、ポッカリと空いたこころのすきまに乗じた武蔵だった。よしんばアナスターシアの死がなくとも、小夜子を妻にすることを諦めるはずはなかった。
より価値の分かる者が、より光輝かせることができる俺がとばかりに、強引にいくつもりだった。小夜子にとって屈辱的な行為をとってでも、娶ったにちがいない。その小夜子の出産だ、あとつぎを生んでくれる小夜子だ。どれほどの金員をそそぎこんでも惜しくないと考えるのも無理からぬことだ。
俺のできることは、ここまでだ。あとは、小夜子の役目だ。頼むぞ、しっかりと産んでくれよ。風体なんて、どうでもいい。とに角、丈夫な男子をうんでくれ。いや、男だろうと女だろうと、どっちでも構わん。病弱でもいい、とにかく生んでくれ。母子ともに、無事でさえいてくれればいいんだ≠ニ、神仏にも祈る思いの武蔵だった。
静まりかえった玄関ホールの椅子にすわり、カラカラと乾いた音をたてている小夜子を乗せた車椅子を見送った。右手にあるエレベーターから看護婦があらわれたときには、なにごとかと身構えた武蔵だった。薄ぼんやりとしたホールではその表情がわからず、また小脇にかかえたバインダーらしきものが目に入りますます不安な思いがつのった。
「なにかありましたか!」。詰問するように叫んでしまった。
「いえいえ」と首を振りながら、
「どうされますか? ご出産には相当なお時間がかかります。ほとんどの方が、ご自宅にもどられますが」と、書面を見せてきた。そこに「社長、社長! どこです?」と、息せき切って五平が入ってきた。
(三百六十四)
「おう、ここだ。大きな声を出すなよ、病院だぞ。それに夜間だ、ひびくんだよ」
「いやいや、すみません。で、どうなんです? まだ…のようですな。お産というのは、分かりませんからな」
「ああ、まだだ。長丁場になるらしい。赤子がな、大きくなり過ぎてな。最悪、帝王切開しますって言われたよ」。となりの席を指さしながら、座れよと目配せした。「それじゃあ」と、五平もが座る。「帝王切開って。あの、お腹を切るってやつですか?」
「ああ。母体があぶないと判断したら切りますから、ご了解くださいだとさ。書類に署名もさせられた」
「そうですか、それはそれは。ちと、大事にされすぎましたね。仇になったってわけですか」。初産ですしねえ、と五平も声を落とす。「うん、考え違いをしたよ。小夜子にも赤子にも、悪いことをしてしまった。いま、反省しているところだ」
「ま、しかし、医者に任せるしかないでしょう。それにあの医者は、名医だって話ですし。大丈夫ですよ、きっと。切らずに済みますって。あんがいに、ケロッとして、そんな話しましたか? って顔で、部屋から出てきますって」
「ああ、そう願ってるよ。さてと、それじゃ帰るとするかな。
ここにいたって、なにもすることもないしな。あしたも忙しいことだし。たしか、午前に2社と午後に1社来るんだったよな?」
腰をうかせる武蔵を押しとどめながら「そりゃ、そうですが。なんでしたら、日を改めてもらえるようお願いしますが」という五平に対し、頭をふりながら「ばかを言うな。小夜子はお産、俺は商売だ。かせがなきゃ、小夜子は怒るだろうさ。これからまた、金がかかるだろうからな」と、受けあわない。
「奥さん、おくさん。ぼくが、わかりますか?」
その声に小夜子の目が開く。上からのぞくようにして、医師がことばをかける。
「大丈夫だからね。ぼくがついているから、大船にのった気でいなさい。でね、ぼくの言うとおりにしてくださいよ。『イキんでー』って言ったら、下っ腹に力を入れてよ。『ヤスんでー』って言ったら、どうするかな? そう、力を抜くんだねえ。よくわかってるねえ、goodな妊婦さんだ。そうすればね、すこしでも楽なお産になるからね」
ときおり看護婦への指示をまぜながら、小夜子に声をかけつづける。小夜子の視界から医師が消えても、おかげで不安な気持ちにならずにすんだ。
「先生、まだ生まれないんですか? 陣痛、ずいぶんと前からはじまったんですけど。あ、来たきた、また来た。先生、イキムんですか? まだ早いですか?」
ちいさな声で、懇願するようにいう小夜子。しだいに陣痛の間隔がせばまり、その痛みにあぶらあせをかいている。
「そうだね、そうだよね。痛いよね、いたいよね。でもまだ、いきまないでね。いまね、赤ちゃんね、産道をとおるための準備をしているんだ。それはそれはせまい産道をとおるんだよ。ところが、赤ちゃんね、大きくなりすぎちゃったんだ。たくさん栄養を摂ったものねえ。旦那さんが用意してくれたんだよね。niceな旦那さんだね」
ときおり英語をまじえながら話しかける。洋行帰りをひけらかすプライドの高い産科の医師だった。看護婦の間では「看護婦を下に見る、いけ好かない医師」ではあるのだが、難産にも対応できる医師として名がとおっていた。
武蔵に「腕のいい医者をたのむぞ」と言われた五平が見つけてきた医師だった。小夜子としては、勝子が最期をむかえた病院は避けたかったが、その医師がいるということで武蔵がおしとおしたのだ。
(三百六十五)
「でも、ちょっと摂りすぎちゃったんだよね。だから赤ちゃん、大きくなっちゃったんだよ。でも、大丈夫。奥さんなら、大丈夫だよ。そう、小夜子さんだ。小夜子さん、meが付いてるから。おっ、来たかい? いたいね、陣痛がきたね? よしよし、でもまだbadだよ。いきんじゃだめだよ。もうすこし我慢してね。いたいかい? よしよし、それじゃね、先生の気をあげよう。気って、知ってるかい? 気持ちの気だよ。気力って、知ってるよね。小夜子さんは、物知りだから。中国のね、excellntなお坊さんがね、人間の気でもって、病をなおしてたんだ。こうやって手をかざしてね、やまいの原因をやっつけてたんだ。それと同じことをしてあげるから。大丈夫だよ。赤ちゃんには、害はないからね。
先生の気はね、赤ちゃんも元気にしちゃうんだよ。ねえ、赤ちゃんだって頑張ってるんだ。小夜子さんと同じように、痛い思いをしてるんだ。でも大丈夫、だいじょうぶだよ。先生の気はつよいから。よしよし、いいぞ! さあ、赤ちゃんが出てきたぞ。よしよし、イキんで! イキんで! はい、休んでえ。息を吸ってえ、吐いてえ。吸ってすって、吐いてはいてえ。うん、ご主人かい? 大丈夫、だいじょうふ。ろうかで待ってるよ。『ガンバレ、ガンバレ!』って言ってるよ。先生には聞こえてるよ。よし、イキんで。はい、休んでえ」
医師の声が、分娩室にひびく。小夜子の声をかきけすように、大きな声をだしている。
「もういや、先生。こんなに痛い思いをするなら、赤ちゃん、もう要らない。もう二度と産まないから。あっ、あっ、痛い! タケゾー、タケゾー、助けてええ! 手を握ってえぇぇ!」
あらんかぎりの声を小夜子がしぼりだす。その絶叫ぶりに、舌をかまれては大変だと、口のなかにガーゼが入れられた。
「うぐっ! うぐっ! ふー、ふー! うぐっ、うぐっ! ふー、ふー!」
「奥さん、おくさん、頑張って! 気をしっかりもって! 赤ちゃんもがんばってるのよ、奥さんもがんばらなきゃね。女の根性をみせなさい。男なんかに負けないんでしょ?」
気を失いかける小夜子を、産婆が叱咤激励する。ときに頬をたたいて、小夜子の手をしっかりとにぎった。
「ここで頑張らないで、どこで頑張るの? 女の強さをみせてやんなさい。男なんかに負けてたまるか! でしょ? 新しい女は、強いんでしょ?」
「うん、うん」とうなずく小夜子。必死の形相で歯をくいしばり、その痛みに耐えつづけている。
夜も明けて、窓のそとが白々としてきた。ぐったりと疲れはてた小夜子だが、まだ赤子の誕生にはいたっていなかった。医師はもちろん看護婦たちにも、疲労の色はかくせない。
「先生、どうしますか。帝王切開に行きますか?」
婦長が、鎮痛な面持ちで問いかけた。しかし医師は「いやだめだ。なんとか自然分娩でいこう」と、ちからなく首をふる。
「まだ若いんだ、体力があるんだ。体に傷をのこすのは、できるだけ避けたいしね。ご主人も、それを願っておられることだし。もうひと踏ん張りしてもらおう。」
今度だめなら、止むを得んだろう=Bのどまで出かかったことばを、グッと飲みこんだ。武蔵の懇願がみみにのこっている。
(三百六十六)
「帝王切開は、ギリギリまで待ってください。自尊心の強い女です。体に傷がのこってたりしたら、絶望のあまり、とんでもない事態になりそうな気がします」
「母体が危険だと判断しましたら、御手洗さん、施術させてもらいますよ。とに角、赤子が大きくなり過ぎた。この二週間のあいだに、驚くほど大きくなってしまったんですよ」
医師と武蔵のギリギリの交渉だった。ビジネスにおける武蔵ならば、声を荒げて相手を威嚇する。しかしいまは、医師が絶対的に優位だ。武士の世界におきかえれば、主君と家来にもひとしい。逆らうことなどあり得ない。しかしそれでも武蔵はねばった。小夜子の気持ちを考えると、傷を残すことなど考えられない。まだ少女のようなきめ細かさを保っている肌だ。むろん武蔵にしても、そんな小夜子の肌に、毎晩のようにほほずりをしながら安らぎを得ている。
「ほんぎゃあ、ほんぎゃあ!」
ひときわ大きな泣きごえが分娩室にひびいたのは、入院翌日の午後にはいってからだった。分娩室に入ってから、二十時間を超えるときが流れていた。いくどとなく帝王切開の準備にはいったものの、踏みきれずにいた医師。大きくため息を吐いた。
「ふーっ。みんな、ご苦労さん。よく頑張ってくれた、上出来だ。切らずに済んで、なによりだ。婦長、ありがとう。産婆さん、たすかったよ。あんたの声がけが、功を奏したようだ。ありがとう」
達成感とは程遠い安堵感を感じる婦長だったが、
「頼みますよ、婦長。なんとか、帝王切開だけは避けてください」という武蔵のことばが、ずっと耳をはなれなかった。
分娩室から出た医師だったが、産婆に看護婦たちは誰も部屋から出ず、というより休息などとんでもない状態だった。叫びつづけるかと思えば、意識をうしないかける状態におちいったりと、様態の安定しない小夜子だった。そしてやっと出産を終え、思いもかけぬプライドの高い医師からねぎらいのことばを受けて、その場に泣きくずれる看護婦もいた。
「御手洗さんですか? いま、ぶじに出産なさいました。ええ、母子ともに健康です。ナスが、ぶら下がってますよ。体重が、三千グラムを超えていました。ええ、おっきい、ほんとに大きい赤ちゃんです」。婦長が、疲れ切った声で武蔵に伝えた。
「でかした! でかしたぞ! おいっ、男だ、男児を産んでくれたぞ!」。
武蔵をぐるりとかこんだ男たちにむかってさけんだ。
「いやあ、おめでとうございます、社長」
「うお〜お!」
いっせいに歓声があがった。こぶしを突きあげて、声にならぬ雄たけびをあげる者もいた。
「ありがとお、ありがとお!」
受話器をもったまま満面の笑みをたたえて、武蔵もまたもう片方の手をはげしくなんども突きあげた。
「婦長さん、ご苦労さまでした。先生にもお礼を言っておいてください。おふたりには、しっかりとお礼をさせてもらいます。いやいや、なにをおっしゃる。遠慮は無用ですって。わたしの気持ちなんですから。規則? そんなもの、わたしには関係ないことです。感謝の気持ちですから。自分だけ? 大丈夫ですって。ほかの看護婦さんにも、お礼はしますから。婦長さんは、なん時までの勤務ですか? もう帰られる? すこし待っててもらえませんか。先生にも待っててもらってくださいよ。これからすぐに出ますので」
受話器を置くやいなや、「行ってくる、きょうはもどらんぞ。専務、あとをたのむぞ」と、会社を飛びだした。
(三百六十七)
赤児の誕生は、小夜子を大きく変貌させるに十分なことだった。母親の愛情に飢えていた小夜子を不憫だとおもう茂作は、小夜子のわがままにつきあうことでしか愛情を注ぐことができなかった。
「母親のぬくもりをしらぬ小夜子は、ほんにふびんな子じゃ」と、周囲にたいしてお念仏のようにいいつづけていた。
そしてそれは周囲のだれもがおもうこととなり、最大公約数となってしまった。ふびんな子というお題目でもってわがままをおしとおす小夜子を、だれひとりとして叱り付けることはなかった。生まれもった美貌とあいまって、それが許されてしまったのは、小夜子にとって不幸なことだった。
アナスターシア、そして勝子。そのふたりの死が小夜子にあたえた衝撃は大きかった。武蔵という存在がなかったら、小夜子自身の崩壊ということもありえたかもしれない。しかし小夜子の満ちたりぬおもいは、武蔵をもってしても埋めつくすことはできなかった。小夜子の物欲を満たすことはできても、奥底にかかえるこころの渇きはいえることがなかった。
「はいはい、おっぱいね。はいはい、たーくさん召し上がれ。たくさんたくさん飲んで、早く大きくなってね」
「どうしてひとつずつしか、としは取らないのかしらねえ。はやくお母さんはお話したいのにねえ」
おのれには与えられることのなかった母の愛を、愛息にはたっぷりと注いでいる。しっかりと乳房にすいつく愛息が、小夜子には可愛くてたまらない。
「おぎ!」。すこしの声にも、すぐさま小夜子があやしに入る。「看護婦さん、きて! はやくきて!」
半狂乱でさけぶ小夜子の姿が、きょうもまた見られた。あわてて飛んできた看護婦にたいし
「おかしいの、おかしいのよ。赤ちゃんが、わたしの赤ちゃんがね、おっぱいを戻しちゃったの。先生に診てもらったほうがいいわね?」と泣きさけぶ。
「大丈夫ですよ、御手洗さん。ゲップをしたときね、すこしもどすのは珍しくないんですよ」
しかし小夜子は、看護婦のことばを「いいえ! なにかの病気だったら、どうするの。やっぱり、診てもらわなくちゃ。はやく先生をよんで!」と、一切うけつけない。一事が万事だった。ささいなことを大げさにとらえては、泣きさけんだ。
「針小棒大って、このことよね。仕事にならないわ、ほんとに」
「先生が甘やかすからよ。なんでも、『はいはい大丈夫だよ、もう』なんてね」
不満のこえを声高にあげる看護婦たちにたいし
「多額のこころづけをいただいたでしょ。多少の我がままはしんぼうなさい」と、婦長は取り合わない。
「でも、婦長。仕事になりません、あたしたち。あんななんでもないことでいちいち呼び出されたんでは、他の患者さんたちにも悪影響をあたえます。ほぼ全員から、いやみを言われているんですから」
「まあね、確かにね。度をこしてるかな? って思うこともねえ。でもねえ、先生に言われているしねえ。『はじめての出産で、不安がいっぱいなんだ』って、わざわざ念を押されたし」
(三百六十八)
「いっそ、専属の看護婦をつけてほしいわ」
うしろろから、悲痛なさけびにも似たこえがもれた。もちろんそんなことがまかりとおるなどとは、思っていない。しかし皆がみな、大きくうなずいた。
「そうね、それもありかもね。婦長の権限でやれるかしらねえ。それに、誰がつくの? 新米さんでは心もとないし。あなたたちベテランを付けるのもどうかと思うし」
ざれ言に近い提案に婦長が反応するとは、だれも思っていなかった。婦長としては本気でとりあげるつもりはなく、ただのガス抜きとして口にしただけのことだった。婦長の真意をはかりかねて、たがいの顔を見あっている看護婦たちに、
「あのお、ちょっとご相談があるのですけれど……」と、竹田の母であるカネがやってきた。
「身内じゃないんですが、妊婦さんのつきそいなんぞをやらせていただけるものでしょうか? 御手洗小夜子さんのつきそいを、旦那さまの社長さんからたのまれたのですが」
つきそい看護婦の派遣を、完全看護をうたっている病院としては、おもてだっては認めるわけにはいかない。しかも看護婦の資格をもっていないという。いっせいに婦長に視線があつまった。すこしの沈黙後に、
「このさい、規則はわすれましょう。ただし、この方の手に負えない事態となったならば、すみやかに出向くこと。いいですね、みなさん」と、その日からのつきそいと決まった。
一昨日のこと見舞いに訪れたさいに、柳眉をあげて不平をまくしたてる小夜子を見たカネだった。小夜子のわがままだとみえるのだが、はじめての出産ではやむなしかと思えぬでもない。グチを聞いてやれば多少は気持ちもおさまるかと思ったが、話をしている内に小夜子の気が高ぶりはじめて、その剣幕はとどまることをしらない。そしてとうとう、赤子を起こしてしまった。火の付いたように泣き叫ぶ赤子に、小夜子が病気のせいだとわめき立てた。
「小夜子さん、落ち着いて。お母さんの怒ったこえがね、赤ちゃんを不安にさせているのよ。大丈夫、だいじょうぶだから。小夜子さんが落ち着けば、赤ちゃんも泣き止みますよ。さあ、バーバが抱っこしてあげましょうね。はいはい、だいじょーぶですよ。いい子ですねえ、武士ちゃんは。はいはい、おそとを見ましょうか。ほーら、あおいおそらですよ。しろい雲さんが、ぽかりぽかりと浮かんでますねえ。はいはい、見えますかあ?」
むろん、赤児にまだ見えるはずもない。しかしそのおだやかな語りくちと暖かいふところに抱かれたことで、泣きさけんでいた赤児がすやすやと眠りにはいっていった。
「ね、小夜子さん。赤ちゃんって、お母さんのきもちがわかるんですよ。たーくさんの愛情をね、いっぱいいっぱいあげるとね、こんなにきもちよさようにねむるんですよ。赤ちゃんが泣くときはね、お腹が空いたときとおしめがぬれたときぐらいですからね。こうしてやさしくあやしてあげると、安心してねむるんですよ」
いとも簡単に泣き叫ぶ赤子をあやしたカネが、小夜子には後光がさして見えた。菩薩さまに見えた。
「お母さん……」。消えいるような小声で、小夜子が言った。
(三百六十九)
「えっ!?」
不意の小夜子のことばに、カネは驚いた。うっすらと涙をうかべる小夜子など、はじめて見るすがただった。
「ごめんなさい、へんなこと言って。迷惑ですよね」
「とんでもない、小夜子奥さま。うれいですよ、あたしは。勝子におしえられなかったことをね、おっぱいの飲ませ方やらおしめの変え方やら。小夜子奥さまにおしえられて、あたしはいま、もうれつに感激しているんですよ。小夜子さんがごめいわくでなかったら、母親としてのつとめをね、はたさせてもらいたいぐらいです」
「じゃ、じゃあこれから、お母さんって呼んでもいい?」
「もちろんですよ、小夜子おくさま。こちらからお願いしたいぐらいです。勝利なんか、ほんとに無口で。それにかえりもおそいですし、さびしくてね」
はたから見ればなかむつまじい嫁姑に見えるふたりだった。たがいのこころがしっかりと結びついて、あれほどに剣呑な表情を見せていた小夜子が、柔和な表情を見せるようになった。
「竹田さんに付き添っていただいてから、ほんと大人しくなったわね」
「そうなの、びっくりよ。助かるわ、ほんとに」
「でもさ。毎晩来る、竹田さんの息子さんちょっと良い男じゃない? それに優しそうだしさ」
「旦那さんの会社に勤めてるんでしょ? 将来の幹部社員だって」
「そうなの? それじゃあたし、アタックしよっかな?」
「ムリ、ムリ。あんたごときじゃ、釣り合いがとれないわよ。それにもういるんじゃないの、恋人は」と、看護婦のあいだでかまびすしい。
「小夜子奥さま。いかがですか、おかげんは?」
「お母さんのおかげで、順調よ。この分だと、すぐに退院できるんじゃない? 武蔵に出張に出ないようにって、ね」
「かしこまりました、かならずお伝えします。でも良かったです。大勢が押しかけるのはどうかということで、ぼくが代表して来ているのですが。みんな、こころ待ちにしています。みんな、早く赤ちゃんを見たい見たいって、毎日まいにち大騒ぎなんです」
「そうね、お披露目しなくちゃね。でも、すぐはだめよ。自宅に押しかけるようなことは、絶対だめだから。どんな病気を持っているか、分かったものじゃないでしょ? 竹田。あなた、大丈夫よね? 病気なんかしてないわよね? 風邪、ひいてないわよね?」と、しつこく詮索する。子を思いやる母のきもちを知った小夜子だ。憎くて遠ざけられたんじゃない、可愛いからだったんだ
廊下を咳してあるく者がいると、すぐさま赤児をしっかりと抱きしめる。マスクすがたの看護婦が部屋に入ろうとすると、柳眉をつりあげて制止する。異常なほどの反応を見せる小夜子だった。
「そんなに神経質になることはありませんよ。おっぱいの中にね、赤ちゃんをまもる強いみかたがはいっているんですよ。お母さんが健康ならば、大丈夫なんですよ」
しかしカネのことばにも、これだけは譲らない。
「だめだめ、だめよ! あたしの赤ちゃんに病気をもちこむ人は、ぜったいに許さない。たとえタケゾーでも、だめ!」
その小夜子の頑固さに、医師もあきれはてて「過保護すぎるのも、赤ちゃんに良い影響はあたえないから。ま、ほどほどにしなさい」と、さじを投げた。
(三百七十)
「竹田! 武蔵は、なにしてるの! 一度来てくれたきりじゃないの! まさか、もう浮気してるんじゃないでしようね。これ幸いって、遊びまわってなんかいないわよね」
「まさか、社長は毎日をいそがしくされてます。おふたりのためにと、もう以前にもまして活動的です。浮気だなんて、とんでもないです。それはもう、あちこちに電話をかけられていますよ」
多少の後ろめたさを感じつつも、得意先の接待なんだから。以前よりも増して、仕事に熱を入れられているのは間違いないんだ≠ニ、己に言い聞かせる竹田だった。
「よし! こんやは、近辺の旦那衆だ。れんらくはいれてあるな? よしよし。で? どのくらいの人数があつまるんだ? 十人か? 二十人か? なに、なんだ? 七人に声をかけて、三人だと? バカヤロー、なんだそれは」
行ってきました、とかえってきた事務員の返答に、おもわず声を荒げる武蔵だった。お留守なんですよと言い訳をすると、なおも機嫌がわるくなる。当日になってうかがいをたてにまわったことも、武蔵には不満だった。事務員にしてみれば〆後のことで、請求書づくりを優先させたのだが、武蔵にしてみればひとりぐらい抜けても、という気持ちがあったのだ。
「社長、ちょっと度が過ぎていませんか? こうも毎晩の連チャンでは、からだをこわしますよ。お姫さまのところには、一度だけでしょ? おこってらっしゃいますよ、きっと」
心配する女子社員の声にも
「なにを言ってるんだ、おまえたちは。お祝いだぞ、俺のあと継ぎが生まれたんだ。みなさんに祝っていただくんだぞ、日ごろお世話になっている方たちなんだぞ」と、まるで耳を貸さない。
「お祝いというのは、相手がするものでしょ? 接待をうけることじゃないわよねえ」
「要するにさ、社長はあそんでるのよ。やっぱり社長も、そこらの男いっしょだってことよね」
陰でささやきあう女子社員たちの声にも、馬耳東風の武蔵だ。まるで意に介さない。
いま遊ばないとな。鬼のいぬまの、いのちのせんたくだ。
そして退院してきたら、夜のあそびから、めでたく卒業というわけだ
「専務、せんむ! 社長に言ってくださいよ。あたしたちでは、ぜんぜん効き目がないんだから。専務からガツンと言ってやってくださいよ。お姫さま、きっと淋しがってらっしゃいますよ」
「ああ、そうだな。たしかに、おいたが過ぎるな。分かった、わかったよ。俺からもひと言、言っておくさ」と、答える五平ではあった。
「専務、どうしたのかしら。なんだか元気がないのよね。ひょっとして、社長の後をねらっていたのかしら? 跡継ぎができたってことは、もう専務はせんむどまりということよね」
辛辣なこえをあげる者もいれば、
「それはないでしょ、年齢を考えてごらんなさいよ。専務のほうが、年上なのよ」
「そうよね、そうよね。元気のなさは、昨日今日のことじゃなかったしね」
「それよ、それ。この間なんか、大きなため息なんか吐いてたわ。びっくりよ、ほんとに」と、うちけす声もあがった。
 |