(三百五十三)
昨日までの小夜子ならば、「そんなこと、あたしには関係ないわ」と、席を立つところだ。しかしいまは、妊婦のはなしを聞きたくてならない。ささいなことも、一言一句聞きもらすものかと身構える小夜子だ。これから出産までの内に小夜子をおそうであろうこと柄を、とにかく知っておきたいのだ。
「つわりって、どんなでした? お食事は、しっかり取れるでしょうか? 好みが変わるって、ほんとですか?」。
ことばの端々をつかまえては、立てつづけに聞いた。
「ハハハ。つわりはねえ、人それぞれだと言うねえ。ひどい人もいれば、軽い人もいる。あたしの場合は、その中間ぐらいだったかねえ。ま、辛いといえば辛いし、そうでもないといえばそうでもないし。食事にしたって、そうさ。食べたい時に食べればいいのさ。食べたい時に食べたいものを食べる。気にしないことだね、なにごとも。ケセラセラだよ、なるようにしかならないしね」
快活に笑いとばすその妊婦が、小夜子にはまぶしく見えた。
「そうですか、人それぞれですか、そうですか……」。およそ小夜子とは思えぬ、気弱な声で言う。がっくりと肩を落として、いまにもくずれおちそうな風体を見せている。
「大丈夫だって! どんなにひどいつわりでも、ここの先生にまかせれば大丈夫よ。きちんと手当てしてくれるから」
「そうですか? お薬かなにか、出していただけるのでしょうね」
「ハハハ。心配性だね、あんたも。大丈夫、だいじょうぶ。みんなそれを乗り切って、お母さんになっていくんだから。楽しちゃいけない。多少の苦しみはガマンしなくちゃ。そうでなきゃ、母親としての覚悟ができないじゃないか。ま、母親になるための儀式だと思いなさい」と、受け合わない。
その夜、武蔵の帰りを待ちわびる小夜子だが、なかなか武蔵は帰って来ない。
「遅いわねえ、タケゾーは。会社はもう出たのよね? 千勢、千勢。
旦那さまはたしかに一時間もまえに、会社を出られたのよね? 朝、なにか言ってた? 寄り道するとか、なんとか」
イライラする気持ちをおさえきれずに、千勢に当り散らしてしまう。身を小さくしながら、千勢が答える。
「はい。会社に電話しましたら、六時過ぎに会社を出られたと聞きました。朝ですか? とくには、なにも。いつものように『行ってくるぞ』だけでした」
「もう! どうして起こしてくれなかったの! 旦那さまのお出かけを知らない妻なんて、いないでしょうに!」
「もうしわけありません。旦那さまが『起こさなくていい』とおっしゃるものですから。昨晩のごようすを旦那さまにお話しましたら、すごくご心配されていました。『疲れているんだから休ませてやれ』とおっしゃられまして」
台所の床で正座をして、ただただ小夜子の怒りがおさまるのを待った。ただきょうの怒りようは、これまでのようなヒステリックな怒声ではなかった。ことばこそきつめではあるけれども、勢いがよわいと感じる千勢だった。なにかしらおなかをかばうような、弱い声だと感じた。
(三百五十四)
「心配って、おかしいじゃないの! そんなに心配しているのなら、それこそ早く帰って来るべきでしょうが。そうよ、タケゾーは案外に冷たいのよね。千勢もそう思うでしょ!」
「いえ、そんなことは……」
決してここで、同調しない千勢だ。武蔵を非難することばは、小夜子以外が口にすることはタブーだ。ひと言でも武蔵をとがめようものなら、烈火のごとくに怒りだす小夜子だ。
「タケゾーの悪口を言っていいのは、あたしだけなの!」。これが、常套句だ。
「旦那さまはおやさしいお方ですから。奥さまがおつかれのごようすなのをごぞんじで『起こしちゃいかんぞ』と、おっしゃられたので」と、あくまでよき夫であると強調した。とたんに、小夜子のけわしい表情がゆるんだ。パッと、明るくなった。
「そうなの、そうなのよね。それが、タケゾーなのよ。あたしが、まず一番なのよね。ふふ……」
本音をいえば、心地よいのだ。崇められることに快感を感じている。女学校時代が思い出される。校門をはいるおりには、「おはよう!」と、教師たちからいっせいに声がかかる。同じく登校中の同級生やら上級生たちへかけられる声とは、あきらかにがトーンがちがう。すこし鼻にかかったようで、動揺している様が聞きとれる。並んで校門をとおることに、他の者にたいする優越感のようなものを感じとられる。その日いちにちが高揚感につつまれるように思えるのだ。
「小夜子さまとご一緒に門をとおったの」。
「えぇっ! あたくしも少し早かったみたいだから、あすはお待ちしようかしら」。
「だったら早くきますわ、わたくしは」
そんな会話が交わされていることに満足感をおぼえる小夜子だった。
「女房を広告塔に使う、なさけない経営者だ」。そんな声が、競合先から聞こえてくる。現在の状態が正常ではないことは、武蔵も実感している。小夜子を正規の社員としてしまえば、批難の声を抑えることはできるかもしれない。しかしそれでは、経営者としての武蔵の矜持に反する。あくまで、一時的な変則の事態として考えている。ホップはできた。いまはステップの段階だととらえている。そしていつかはジャンプをして、会社名のごとくに、日本一の会社をめざしたいのだ。ただ、なにをもって日本一とするかが、武蔵の中にまだできあがっていない。
社員数で圧倒する日本一か、売上額で日本一となることか。この日本橋の地に、他を圧倒する高さを誇る自社ビルを建てることなのか。しかしなにかが違うと感じる武蔵だった。数字ではない、そういった物理的なものではなく、武蔵もまた小夜子とおなじく崇められたいのだ。
「おめえは、いらん子だ。よぶんな子だ」。酔った父親から浴びせられたそのことばが、まだ幼い武蔵に突きささる。
「いやだっちゅうのに、酔っぱらったとうちゃんが……」。母親の子どもをかばう思いのことばなのか、それとも父親と同じく思いもかけぬ赤子だったゆえのことばなのか。
そういえば母親に抱かれてあやされたという記憶がない武蔵だった。貧乏小作人の常として、家族総出のはたけ仕事になってしまう。畦に竹で編んだおおきな丸篭をおいて、そのなかにほうりこまれた。大声で泣き叫んだとしても、遠くから「おお、よしよし」と声がけをされて終わり、という日々をおくってきた。
(三百五十五)
「げんきな子じゃのう」。ほかの農作業者たちからも、それが当たり前のこととして声がかかる。それを恨みに思う気持ちはないし、当時としてはやむをえんことだし、と武蔵も理解していた。しかしいまの武蔵には、どうでもいいことだった。それよりも育ての親への感謝のきもちが強い。なかなか授からなかった実子が産まれたことにより、商家から追いだされるように軍隊入りしたことも、いまとなってはありがたかったことだと感じる武蔵だった。
帰りが遅い、と詰めよられると分かっている武蔵だった。毎日まいにちを取引先への挨拶回りに引っ張り回している小夜子に、相当の疲れがたまりはじめたことは、武蔵も感じていた。口では不平不満をこぼす小夜子だけれども、「みなさんが会いたがっているんだ」と、拝みたおす儀式をすれば、満面に笑みをたたえて「しょうがないわね」と応じる小夜子だ。
武蔵の本音を言えば、今夜のことを問いただされるのが嫌だった。
ぬいのことを聞かれちゃかなわんからな。さいきん、妙に勘がはたらくようになってきた。なにはともあれ、さわらぬ神に祟りなし、だ
小夜子の勘のするどさというのは、つまるところ観察眼にある。相手をよく観察することからはじまる。幼いころに母親の体調の見きわめやら、親類縁者の機嫌によっては叩かれるかもしれぬという恐怖感、そして茂作の感情の起伏、それらによってつちかわれたある意味、哀しいさがだった。
妊娠後は、とくに匂いが気になる。毎日毎夜、小夜子を苦しめた。武蔵の浮気ぐせのせいか、それともけばけばしい化粧女たちの世界に入っていたせいか、化粧品のにほい鋭敏に反応した。パステルカラーではなく、毒々しい赤いろやむきだしの紫いろのファンデーションのにおいが小夜子におそいかかる。消し去りたい日々だったせいか、それとも下宿先だった加藤夫婦の家が思い出される。それゆえに普段とは違うにおいが身についていれば、すぐに感じとった。
「最近の殿方は、香水をつけられるのかしら?」。キャバレーとの女との浮気が発覚したおりの、小夜子のことばだ。
「取引先の、ほらM工業の松田さんだ。あの人の接待だよ」。全身に冷や汗をかきながらも、素知らぬ顔でこたえた。
「どうもあの男、小夜子にホの字のようで。小夜子をチラリチラリと盗み見するのが、俺としては面白くない。といって、怒鳴りつけるわけにもいかんし。あの男の席には、もう小夜子をつれていかん。だからあの男の接待のときは、同伴はしなくていいから」
背広を脱がせた千勢すら気付かぬにおいに、小夜子が噛みついたのだ。
「小夜子、勘弁してくれ。キャバレーに行ったんだ。香水の匂いも、すこしは付くだろうさ。千勢、お前、気になるか?」
「いえ……奥さまに言われて、ようやく気づきました」
「ほら見ろ。小夜子の気のせいだろうさ」
我が意をえたとばかりに、胸をそらせて大きな声で言う。
「あらあら。いまどきのキャバレーでは、お風呂のサービスもあるのかしら?」
「えっ? 風呂って、そりゃなんのことだ……? 待てよ、そう言えばビールをこぼされてな、それでおしぼりで」
「言い訳はいいわ! タケゾーの浮気は、病気だものね。でも、すこしは控えてよね。あたしという、妻がいるんですからね」
しどろもどろに弁解する武蔵を、ぴしゃりとはねつけた。たまにはネチネチと突き刺さることばをかけなきゃと、思っている。でなければ際限ないものになってしまう。
(三百五十六)
最近になって気づいたことがある。武蔵の女あそびには、どうやら武蔵ルールといったものがあるらしいと。
その一が、三ヶ月ほどの間隔をあけることだ。もっとも相手とは長くつづいてもふた月ほどで別れてしまうことを考えれば、年中浮気しているも同然かもしれない。ただ頻繁に会えない相手となると、このルールは当てはまらない。
その二が、なにか大きな商談をまとめたときの、自分に対するご褒美だ。つねづね「社長というのはつまらん職業だ。大仕事をしても、ほめられんのだ」とこぼし「社長ならあたりまえ」と言われちまうと、愚痴る。「さすが社長です」ということばにも、実が感じられないと、しまいには怒りだしてしまう。
その三が、「英雄、色を好む」だ。もっともこれはルールと言うよりは、口実であり言い訳に過ぎないけれども。「戦の多かった戦国時代に生まれたかった」と、酒の席で豪語していたと聞いたことがある。いまや女給たちは小夜子の見方となってしまっている。
それが、つい先月のことだった。もうしないからと謝って、まだ二週間と経っていない。舌の根もかわかぬうちの所業では、いくらなんでもと武蔵自身が思ったのだ。そして今夜は、竹田をつれてのご帰還となった。
「小夜子奥さま、千勢さん。社長のおかえりでーす」。玄関先で、竹田が大声で呼ぶ。千勢が台所から、あわてて飛んできた。
「旦那さま、どうなさったので? お加減でもお悪いのですか?」。竹田が同伴などとは、体調をくずしたおりぐらいのものだ。千勢があわてるのも無理はない。
「なあに、どうしたの? タケゾー、帰ってきたの?」。 小夜子が二階から声をかける。
「奥さま、奥さま。旦那さまが」。千勢の悲痛な声がとぶと同時に「社長は大丈夫です。飲みすぎられただけですから」と、竹田が声をかぶせた。
「いや、すまん。飲みすぎたみたいだ。今夜は、竹田ら若手と飲んだんだ。将来の幹部社員たちの、いまの気持ちを聞いておこうと思ってな。そろそろ跡継ぎもほしいし、こいつら若手に盛り立ててもらわなくちゃいかんしな。万がいちあと継ぎに恵まれなかったら、だれかにあとを継がせなきゃいかなくなるしな。だから……」
そんな必死の弁解をつげる武蔵だったが、プイと横を向いたまま
「ご苦労さま、竹田。もう帰っていいわ」と、相変わらずの突っけんどんな口調で言った。
「はい。それでは、おやすみなさい」と、武蔵の顔を見つつ頭をさげる竹田だった。その竹田を、通りまで千勢が見送った。久しぶりの竹田だったが、こんな遅くにことばを交わすわけにもいかず、「おやすみなさい、気をつけて」と、タクシーに乗り込む竹田をなごり惜しげに見おくる千勢だった。
家内では、ソファに武蔵をすわらせ、小夜子は床に正座をした。武蔵はソファに寝転ぶようにしていたが、小夜子の異様な雰囲気にきづき、あわてて床に正座しなおした。
「いや、悪かった。こんなに飲むつもりはなかったんだ。なかったんだが、あいつらがあんまり嬉しいことを言ってくれるものだから、ついつい。すまん。しかしふた晩つづけてはまずいよな。しかも、小夜子の体調が悪かったのにな」
頭を床にこすり付けんばかりにする武蔵、機先を制したつもりだった。
「あなた、あとつぎが欲しいのよね」。思いもかけぬ小夜子の言葉に、けげんな顔付きで
「ああ、欲しい。欲しいけれども、俺の気持ちだけでは……」と返事をした。小夜子の険しい顔つきに、ことばもとぎれてしまう。
「できました、赤ちゃん。きょう、病院で確かめてきました」
思いもかけぬ話に、武蔵の思考が停止した。というより、小夜子の冷静な話しぶりでは、そのことば自体が伝わらなかった――いや、ことばは耳に届いたのだけれども、その意味が理解できない武蔵だった。
赤ちゃんができた? なんだそれ
(三百五十七)
やせ型だった小夜子が、みるみる太っていく。妊婦特有の体型に変わっていく。当たり前のことだと分かっているが、せり出してきたお腹をさすりながら、いら立つ気持ちが湧いてくるのを抑えることができないでいた。その反面、日々成長していくおなかの中の赤子への愛おしさもまた、ふくらんでいく。昼日中にひとりでやすんでいるときに、「よしよし、げんきだねえ、おまえは。そんなにいっぱいけらないでね。おとこのこかしらねえ、おとうさんににるのかねえ。どうだろうかねえ、あかちゃん」
やさしい気持ちでひとりごちる小夜子だったが、ふと母親の澄江を思い浮かべた。
「おかあさん。おかあさんもそうおもってくれたの? おとうさんに『あしげにされたんじゃ』って、じいちゃんは言うけど、ほんとだったの? 不幸だったの? あたしを産んでよかったと思ってくれる?」
めずらしく早く帰ってきた武蔵が、小夜子に懇願し始めた。取引先で聞かされたことが耳からはなれない。普段から元気いっぱいの妊婦が、医者から太鼓判をおされたこともあり、いつもと同じ日々をおくっていたところ、にわかに産気づいてしまった。あわてて産婆を呼んだものの、けっきょくは死産の憂き目にあったという。まだひと月も先のことだしと、おなかの張りや痛みについてかるく考えていたと後悔したとのことだった。
「いいか、小夜子。退屈だろうけれども、家でおとなしくしていてくれ。大事なだいじなあと取りなんだから。その代わりに、小夜子の欲しいものは何でもそろえてやるから。たのむよ、小夜子」
拝むようにいう武蔵にたいして、
「男の子と決まったわけじゃないのよ。女の子かもしれないわよ。竹田家では、女の子ばっかりみたいよ。『わしらはとくべつじゃった』って、よく話してたから」と、武蔵の泣き顔をみながらつづけた。
「じいちゃんの話では、三代にわたって女の子ばかりが産まれたって。じいちゃんと繁蔵おじさんは、奇跡みたいなもんじゃって、言ってたわよ」
「大丈夫だ。御手洗家は、男系だ。女が生まれたって話は聞いたことがない。だから男に決まってる。ま、百歩ゆずってだ。女の子だとしても、特段のことはない。その子に会社を継がせる。女社長だ、小夜子二世さ。いまの時代ではまだ珍しいけれども、やれないわけじゃない。それが証拠に、りっぱに女主人としてがんばっている女性は、世の中に五万といる」
御手洗家が男系だと言い切ったのは、まっ赤なうそだった。といって女系というわけではない。親戚を含めてみても、どちらかに偏って生まれているという事実はない。
「たとえば旅館業だ。いま、旅館への販路拡大をはかっているけれども、どこも女将がりっぱに切り盛りしている。それに、美容院だ。こうしてみると、客商売に多いな。一般的に、女は大所高所からの判断ができないと言われる。しかしそれは、違うぞ。女だから経営能力がないと言うわけじゃない。そういった教育を受けていないから、その能力が花ひらかないだけだ。御手洗武蔵の子どもには、男であれ女であれ、キチンと帝王学を教えるさ」
(三百五十八)
「あらあら、鼻息のあらいこと。でもおしえるのは、商売のことだけにしてよ。浮気のしかたなんて、金輪際おしえないでよね! そうねえ、女の子がいいわね。そうよ、新しい女よ。女性経営者なんて、ちょっとしたものよね」
小夜子自身、男の子だと思っている。おなかの張り具合やら元気のよさを考えると、病院での妊婦たちの会話をきいて確信していた。しかしそれを武蔵に伝えることはない。万が一に間違っていたら、そんな思いもありはするが、小夜子の思いとして女の子がほしいと考えている。
気づいていないのだが、アナスターシアの生まれ変わりがほしいのだ。ともに世界を旅して、ともに幸せになりたいと切望していた夢をかなえたい、のだ。武蔵がきらいないのではない。どころか、好きですきでたまらない。
出会いは最悪だった。小夜子のどん底とでもいうべきときにあらわれた。ナイトとしての役目を果たすべくあらわれた。正三がはたすべき役割を、おまえでは役不足だとばかりにあらわれた。そしてアナスターシアなき今、しっかりと小夜子を守っている。
「分かった、わかった。分かったから、こころ静かにしていてくれ。そうだ、欲しいものはないか? レコードはどうだ? 聞いた話だと、クラシック音楽がいいらしい。広いこころを持った子どもになるんだぞうだ。よしよし、何枚か買ってきてやろう。
なあに、レコード店の主人に選ばせるさ。胎教にいいクラシック音楽は? ってな。それから……と。食べたい物はないか? 病人じゃないんだ。なん何でも食べていいんだろ? こんどの休みはだめだが、来週に行こう。ビフテキか? 寿司か?」
日がな一日を、なにをするでもなく過ごす小夜子だった。ゆったりとソファに腰をおろしての、レコード鑑賞の毎日だった。ビッグバンドの奏でるレコードをと考える小夜子だったが「だめだ、だめだ。赤子がビックリしてしまうぞ。クラシックだ、静かな曲にしておけ」と、変えられてしまう。しかし過ぎたるは及ばざるがごとしで、次第しだいに体重がふえていった。
「御手洗さん、すこし運動しようかな。黄信号だ、こりゃ。体重がね、増えすぎてる。どうだい、体が重いだろう? 立ち上がるのも辛いんじゃないの? 赤ちゃんもね、大きくなりすぎると辛いんだ。奥さん自体も、相当にふえてるよ。なんにもしないというのも、かえって良くないからね。散歩をするなりして、とにかく体を動かしましょう」と、医者の苦言をきかされるはめになった。
まん丸になった顔に、せり出したお腹を支えるための足も、十分にふくらんだ。鏡台のまえに立ってみて、はじめておのれの醜悪なすがたかたちに気付いた。
「なに、これ! あたしじゃないわ。まるで別人じゃないの! こんなのいやよ。そうよ、タケゾーよ、タケゾーのせいよ。大人しくしてろ、おとなしくしてろって言うからよ。そうよ、お家の中でじっとしてたから、こんなになったのよ。武蔵のせいよ、みんな。あたしのこんなぶざまな姿を見て、どうせお腹の中で馬鹿にしてたのよ。許せないわ!」
その夜、小夜子の好きなアイスクリームを大事そうに持ち帰った武蔵だったが、たっぷりと小夜子にとっちめられてしまった。
(三百五十九)
そして出産予定日を五日ほどすぎてから、陣痛がはじまった。
「武蔵をよぶですって? いいわよ、べつに。仕事中でしょ、いま」と、余裕を見せていた。
「でも、奥さま。旦那さまに言われているんです。『陣痛が始まったら連絡しろ』って、出がけにおっしゃったんです。あたし、しかられます。こまります、それは」
「いいから、いいから。陣痛といっても、ほんとかどうか分かんないだから。だって、すぐ治まったじゃないの。いまはなんともないんだし。働かせておきなさい。稼いでもらわなくっちゃね、精々」と、受けあわない小夜子だった。
しかし夕方になったとき陣痛の間隔がせばまり、そしてまたその痛みも尋常ではなくなってきた。
「千勢、千勢。産婆さん、呼んでくれた? 待って、病院に行った方がいいかしら。ねえ、武蔵は? 武蔵はまだ帰らないの? えっ! まだ四時だから会社にいる? あたしがこんなに苦しんでいるのに、会社でなにしてるのよ! 仕事? そんなのもの! 仕事とあたしと、どっちが大事なのよ! あ、痛い! イタイ! もう、だめ。あたし、このまま死んじゃうのね。なんて可哀相なんでしょ。あ、あ、痛い。イタイわ、ほんとに。あ、あ、もう子どもなんかいらない。なんとかして、千勢。千勢、タクシーを呼んで。病院に行くわ。もうだめ、病院に……」
小夜子のことばを、笑いをこらえながらきく千勢だった。これまでに両手をつかって数えるほどの出産に立ち会っている千勢だった。いちど目は千勢の妹が産まれたときだった。はじめてのあのときは、いまの小夜子どころではなくあわてた。痛みを必死にこらえる母のことばが、いまでも耳にのこっている。なになをどうしていいかわからず、ただただ大人たちのうしろで手をあわせるだけだった。
その後、奉公先での出産立ち会いの機会が多くあった。身内ではないということもあってか、それともなんどかの経験をえたことからか、おちついたこころもちで見ていられれた。たっぷりのお湯を用意したり、妊婦への声かけなどのてつだいを数多く経験している千勢だ。不安がる小夜子の気持ちが手にとるように分かり、「いまれんらくしました」、「すぐおみえになります」と声をかけつづけた。
「あ、いいわ。治まったから、もういいわ。ああ、びっくりした。なんなの、あれって。まさか、違うわよね。千勢、やっぱりタクシー呼んで。やっぱり病院に行くわ。どこか悪いのよ、わたし。そうよ、無理したからだわ。お医者さまに言われてから、がんばり過ぎたのよ。
お散歩、するんじゃなかったわ。三十分のお散歩を、朝夕の二回もするなんて。それも毎日よ。お休みしたのは、雨の日だけだったでしょ? 風の強い日も、お休みすれば良かった。ああ、わたし、このまま、きっと死ぬのよ」
痛みはおさまったものの、またあらたな不安が小夜子をおそった。陣痛がおきてはじめて出産に至ることは、なんども医師から説明を受けている。母親になる誰しもがとおるべきものだと、周囲からも聞かされている。
大丈夫、だいじょうぶよ。あたしは陣痛のいたみになんか負けないわ。ちっちゃいころから病気らしいびょうきもしたことがないんだから
(三百六十)
「つわりにしろ陣痛にしろ病気じゃないから心配はいらないから」。なんど待ち合室の先輩妊婦たちに聞かされたことか。そしてまた「終わったらね、ケロっとしたもんだから。なーんにも心配はいらないから」と聞かされている。
それにしては、と小夜子には思える。こんなにいたみが強いはずはない。死ということばが小夜子におそいかかっている気がしている。
「薄幸の美少女って言うけれど、あたしがそうだわ。でもどうしてこんなに、苦しまなくちゃいけないのよ。あたし、なにか悪いことをしたかしら? 新しい女として、一生懸命に生きてきたのに。
神さま、ひどいわ! えっ? 産婆さんが来た? そうじゃないでしょ! 病院に行くのよ。きっと悪い病気にかかってしまったのよ。あ、あ、また来た。いたい、イタイ、痛いのよ!」
さすがに、ここまで痛みを訴えつづける小夜子が心配になった千勢が、産婆をよんだ。まだ早いと思いつつも、武蔵から前金だといって謝礼をもらっているのだ。ハイヤーのお迎えがきては、他に予定のある妊婦もいないことだしと、押っ取りがたなでかけつけてきた。千勢からはなしを聞くにつれ、大声でさけびつつけている小夜子を、産婆はあきれ顔で見るだけだった。
「でも。奥さまのごようす、ただ事じゃないと思いますけど」
「いいから、このままにしておきなさい。まだまだよ、これからなんだから」と、言うだけだった。
「大げさなのよ。こんなことでお医者さまの手をわずらわせたら、あたしゃもの笑いの種になっちまうよ。恥ずかしくて、表も歩けなくなっちまうよ。ほっときなさい。あたしが来るのだって、ほんとは早いくらいなんだから。これ、小夜子さん。そんなに大きな声で騒ぐもんじゃないわよ。ご近所にまる聞こえだよ。ご迷惑ですよ、ほんとに。こんなもの、あたりまえのことじゃないか。三十分間隔でしょ? まったく情けないねえ、いい若い者が」と、まったく受け付けない。というより、辛抱の足りなさに腹が立ってくる思いだった。
「だって、だって。お医者さまの言いつけ、キチンと守ったわよ。だからこんなに痛いのは、きっとどこか病気なのよ。急がないと、わたし死んじゃうかもよ。う、痛い! イタイ! また来たわ。あっ、あっ、なんとかして。こんなに痛いのは、きっとどこかが」
「しようのない子だねえ、もう。それじゃ、とっておきのおまじないをしてあげるよ。これをすれば、楽になるからね。そのかわり、特別料金をもらうからね」
特別料金とはなんのことだろう? 千勢が産婆に小声で聞いてきた。産婆が「気をちらすのさ」と答えると、小夜子に見られぬようにと後ろを向いて笑ってしまった。
「いいわ、いいわ。タケゾーに言って。いくらでもだしてくれるはずだから。あっ、あっ、あっ、またきた」
小夜子のおなかを両手でさすりながら、もごもごと呪文らしきことばをとなえはじめた。
「*+$%#&”>?<{:*+;」
意味不明のことばが発せられたが、日本語なのかも分からない。しかしだからこそ、小夜子には霊験あらたかなものに思えた。そしてその効果は、小夜子のおなかに如実にあらわれた。さすっている産婆の手が、次第しだいにあたたかみが増してきた。そしてそのあたたかさが小夜子のおなかにとどきはじめると、あれほど感じていた激痛がすこしやわらいだように思えた。
「すごいわ、すごい。あったかい、あたたかいわ。いたみもなくなってくみたい。あっ、あっ、でもやっぱり、イタイ。もっとちょうだい、もっと。痛みをなくして、もっと。あっ、イタイ。あっ、あっ、痛いっ!」
「すこしは我慢しなさい。赤ちゃんだって、頑張ってるのよ。このいたみがね、母親の愛情をうんでくれるの。このいたみがね、母性愛をね、そだててくれるのよ。ほら、いくよ。$*+<:{%&”#?*+>;」
(三百六十一)
「ああイタイ! でもがまんする。あたしのあかちゃん、だもの。ああ、でもイタイ! あかちゃん、あかちゃん、もうすこしおとなしくして。もういらない! この子でいい、この子だけでいい。イタイ、イタイィィ、痛い、痛ーい!」
「ほら、呪文をとなえてるから。すこしでも和らぐようにって、となえてるからね。がまんするんだよ。$−>+?<]:^{<%*&;”}#?{*+=〜)>(;」
産婆のとなえる呪文は千勢の耳にもとどいているが、やはり意味不明だった。いや、そもそもことばなのかすら疑わしい。
小夜子奥さま、がんばってください=B千勢もまた、小夜子のいたみが和らぐようにと、一心に祈りつづけた。
じつのところ呪文とは名ばかりで、ただただ唸っているだけにすぎない。気持ちのよりどころを小夜子にもたせることで、いたみから気をそらせようとしているだけだった。しかしそれでも、小夜子にはありがたいお経のように聞こえている。
神仏を信じる小夜子ではないけれども、この痛みを抑えてくれるならば、悪魔ですら信仰しかねない。もっとも、出産をおえて陣痛がおわりをつげれば、信仰心などケロリと忘れてしまうであろう小夜子なのだが。
「小夜子ー、帰ったぞー! 今夜はな、お寿司を買ってきた。あわびの良いものが入ったらしくてな、電話をくれたんだよ。なんでも、目に良いらしいじゃないか。……どうしたんだ! そうか、生まれそうなんだな? よし、病院だ。病院に行くぞ。産婆さん、あんたを疑うわけじゃないが、先生にお願いしてあるんだよ。千勢、タクシーを呼べ。急げ、いそげ! 俺は先生に電話するから。えっと、えっと、番号はっ、と。そうだ! 札入れの中に入れてあるんだった。待ってろよ、小夜子。すぐだ、すぐたからな。
産婆さん、あんたも同行してくれ。車の中でなにかあったら困るからな。あ、もしもし。御手洗です。妻が、小夜子が産気づきました。えっ? そうです、陣痛でうなっています。間隔ですか? そんなもの、知りませんって! とに角、これから連れていきますから。病院に走りますから先生もお願いしますよ。産婆? ええ、ここにいます。代わるんですか? 分かりました、お待ちください」
産婆に電話を代わると、すぐに小夜子の枕元にすわりこんだ。
「痛いか? いたいよな? 待ってろよ、病院に行くからな。さするのか? お腹をさするんだな? よしわかった。俺の力を、小夜子にやろうな。ちょっとお酒がはいっているけれどもな。なあに、男の子だ。酔っ払って生まれてくるのも、案外だぞ。そうだ、名前を決めたぞ。タケシだ、武士と書いてタケシと読むんだ。御手洗武士。どうだ? 良い名前だろうが。侍のように凛々しい男にそだてという願いをこめてだ」
「たけし? そうね、いいなまえね。どう? あなたみたいなびだ
んしでうまれてくるわよね」。とぎれとぎれに小夜子が答える。
「ああ、大丈夫だ。小夜子とおれの子だ。美男子にきまってるさ」
武蔵が、小夜子の意と同様にすぐに病院に行くという。そして武蔵の大きな手がお腹にあてられている。そこから武蔵の気が流れこんでくるような感覚にとらわれる。そしてそして、たしかに痛みが和らいでいく。
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