(三十)
小夜子と正三が各駅停車の鈍行列車から降り立ったとき、十一時をすこしまわっていた。プラットホームは大勢の乗降客であふれており、その人垣をかき分けて進まねばならなかった。正三を無視して歩く小夜子を、あわてて後を追いかける始末だった。
「着きましたねえ。ああ、いい天気だ。小夜子さんは、晴れ女なんですね。ぼくは、曇り男らしいんです。雨は降らないんですが、こんな風に晴れるということがないんです」
興奮気味にはなす正三に対して「そんなこと、考えたことありませんわ。そんなことより、行きましょう」とつれないことばを返す。うるさがられた正三は、意気消沈したまま小夜子のあとにしたがった。階段を上りきったとき、とつぜんに小夜子のあゆみが止まった。
「正三さん、気が変わりました。お帽子はつぎの機会にします。生バンド演奏をしている所に行きたいわ。探していただけます?」
「は、はい。ええっと、どうすれば……」
学業に専念していたことから、生バンドの情報をまったく持たぬ正三は、ただただその場に立ちつくすだけだった。そんな正三にたいして、小夜子がいら立つこころを隠すことなくぴしゃりと容赦ないことばを浴びせかけた。
「もう、使えない人ね! 駅員にでも聞けばいいでしょ!」
「は、はい。今すぐに聞いてきます」
かたわらから見れは、このふたりはお嬢さまと分不相応に身なりの良い下男だ。あごで使うお嬢さまにたいして絶対服従の下男、といった構図だ。しかし実態はちがう。正三は格式のある元庄屋である佐伯家の総領であり、小夜子は竹田家の分家で、小作人の娘にすぎない。村では決して許されないことだった。そのことはお互いに分かっていることであり、この東京という地でのみ許されることなのだ。いや、ふたりだけでの間のみ許される関係だ。
人けの少なくなったホーム上で、ほうきとちりとりを持った駅員が目にはいった。連絡路の階段下からあらわれた駅員を見つけた正三が
「あのお。連れの女性がですね、あっ、連れの女性は小夜子さんという名前なんですが…」と、声をかけた。
「あのね、わたしはこれから掃除をするの。お客さんの相手なんかしてられないの。分かる? だからね、ほかの者に聞いて。はいはい。そこ、掃きますよ。どいてください」
小夜子に振りまわされている正三を侮蔑の目で見ていた駅員は、にベもなく正三を追い払った。
ああ、もう! なんで駅員なんかに、軽くあしらわれるの! 官吏さまになられるというのに
小夜子の険のある表情に、正三はあわてて他の駅員をさがした。さいわいに階段をおりてくる老駅員を見つけて、声をかけた。
(三十一)
「忙しいところ、すみません」
なんども頭を下げつつ、駆けよった。「どうしました?」と、にこやかに応対する老駅員に、泣きそうな顔つきでたずねた。
「生バンド演奏を聞かせてくれる場所、ありませんか?」
「バンド演奏、ですか。さあて、どうなんでしょうか。電話帳には、載っていないかなあ。劇場のようなところから聞こえてきた気がしますが。ちょっとねえ…」と、首をかしげるだけで終わってしまった。
「電話機はねえ、改札をでたらありますから」と、いくつかのホームの先を指さしながら、あそこですと教えてくれた。うしろからは小夜子の足音がする。怒りのこもった烈しい靴音が耳にひびいてくる。通行人にもいぶかしがられている様子が伝わってくる。
改札口を出てすぐの右手に、受話器のついた細長い箱状の物がずらりとならぶ一角があった。そしてそこには冊子がぶら下がっている。目をこらすと、電話帳とある。「あった!」と声を上げて、小躍りせんばかりに駆けよった。電話帳をめくり劇場という項目を見つけて、さっそく電話をかけた。
「もしもし。そちらで、生バンド演奏を聞かせていただけますか?」
「こちらは、映画の上映館ですので。バンド演奏はやってません。キャバレーぐらいじゃ、ないですか。でも、夜ですよ、夜」
劇場と名のつくものに、片っ端から問い合わせてみたがだめだった。
困った、どうしょうか。夜ではだめだろうし
思案顔の正三のところに、しびれを切らせた小夜子が寄ってきた。
「ごめんなさい、小夜子さん。キャバレーとかいう所だけのようです。しかもそこは、夜にならないと営業しないようです」
弱りましたと、正三がすまなさそうにこたえた。
「そうなの、やっぱり」
「やっぱり、って。小夜子さん、キャバレーをご存知なんですか?」
思いもよらぬ小夜子の返答に目をまるくしてたずねた。
「いいわ。それじゃ、百貨店に行きましょ」
小夜子が目の敵にしている郵便局長の娘である後藤ふみ子が、鼻高々に語っていた百貨店なるものに行き先を変えた。帽子の買い物から生バンドの演奏、果ては百貨店。正三にはついていけないほどの小夜子の気まぐれに、あきれることを通りこして感心する正三だった。
「とにかくね、すごいの。とにかくね、きらびやかな世界というものがどんなものなのか、はじめて知ったのよ。ああ、ほんとにステキだったわあ」と、なにがどう素敵で、どうきらびやかだったのか、具体的なことはいっさい話そうとしないふみ子に腹をたてるが、どうにもならない。あなたたちに聞かせたらなくなってしまうわ、とでも言いたげに、自分だけのものよと言わんばかりだった。
「あら。そのひゃっかてんって、どこにあるのかしら? どんなお店なのかしら? ひょっとしたら、あたくしも行っているかも」
小夜子自身、思いもかけぬことばを発してしまった。口にしたとたんに後悔したのだが、吐いたつばはもう飲みこめない。
「県庁のある市よ。小夜子さんのご存じない街ですわ。数字の百に雑貨の貨で、百貨店。なんでもそろっている、大きな建物のお店ですわ」
見くだすふみ子に対し、ひと言も返せない自分が腹立たしい。聞こえなかったふりをして「鈴木さーん」と声を上げて立ち去った。いま思い出しても腹がたつ。とばっちりを受けた正三が哀れだ。
(三十二)
駅を出たとたん、年のころ十才ほどの見すぼらしい恰好をした男の子が、正三のシャツをつかんできた。
「なんだい、坊や。なにか、用かい?」
「おいら、みなしごなんだ。めぐんでおくれよ。いもうとにね、いもでもくわせてやりたいんだ。すこしでいいからさ、めぐんでおくれよ」
行き交う通行人からは好奇な視線が向けられている。小夜子はといえば、すこし先の場所で相変わらず仏頂面を見せている。気にはなるのだが、ねえねえと催促する少年の目のぎらつきが正三の胸につきささった。
「そうか、妹に食べさせてやりたいのか。分かった、ちょっと待ってな」
ポケットから財布を取りだす正三を、小夜子があわてて制した。
「止めなさい、正三さん。その子の為にならないわ。このあとね、いっつも他人からの施しを当てにするようになるわよ。努力しない子にね」
「なるほど。天は自ら助くるものを助く、ですね? 福沢諭吉だったか…。他力本願はだめだ、と言うことですね」
「チェッ! ケチなだけじゃないか。なさけは人のためならず、ってのしらねえの?」
財布をポケットに戻した正三をにらみつけながら、余計なことを! とばかりに、小夜子をもにらみつけた。
「へらずぐちの多い子ね。あそこの子みたいに、靴みがきでもやりなさい」
「いろいろじじょうがあるんだよ、そんなかんたんなことじゃないんだよ!」
「事情、ってなによ」
年端もいかぬ子ども相手にムキになっている小夜子を、可愛いく感じる正三だった。やっぱり、十七才なんだ≠ニ納得した。
「やくわりがあるんだよ。親方のしじどおりにやんないと、まずいことになるんだよ」
ふてくされた表情で、少年が口をとがらせた。つい漏らしたことばに小夜子がかみついた。
「ほら、ごらんなさい。やっぱり、親方がいるじゃないの!」
子ども相手に言い負かしたところで、仕方がないと思う正三だった。仕方ないなあともう一度ポケットに手を入れたとたんに、子どもの目にうっすらと涙が浮かんできた。
「だって、だって…」と、グスグスと半べそをかきはじめた。その涙を見た小夜子が「分かったわよ。ほら、泣くのやめなさい」と、お札を取り出した。
おどろいたのは、正三だ。きつく正三をたしなめた小夜子が、施しをしたのだ。しかも、お札をだ。正三は硬貨をにぎりしめていたのに。ちょっと、言い過ぎたわね。こんな子どもだもの、物乞いもしかたないかもね≠ニ、小夜子が思いを改めた。
子どもは小夜子の手からお札を引ったくると「あっかんべえ!」と、舌をだして脱兎のごとくに駆けだした。「まったく、もう!」と、頬をふくらませてはいたが、小夜子の目は笑っていた。
(三十三)
百貨店葉、その名のとおりありとあらゆる商品が所せましと並べられていた。「宝石箱をひっくり返したような朝」という一文が、小夜子の頭でグルグルと回っている。朝露にいろどられた田舎道を歩いたときに覚えた、あのめまいに襲われた瞬間が、いままさに眼前に広がっている。
そこに足を踏み入れたとたん、小夜子の目がキラキラと光りはじめた。まさしく別世界に足を踏み入れたここちの小夜子だった。小鼻をふくらませて、夢みる少女そのものに感じられたふみ子の思いが、いまの小夜子には手にとるようにわかった。
ここよ、ここ。あたしの世界はここなのよ。あんなくすんだ色の田舎では、あたしはだめなの。決めたわ、あたし、東京に出る!
茂作が知れば卒倒しそうな決意を、この百貨店で持った小夜子だった。
フロアの柱や壁に、ファッションショーのポスターが貼ってある。青い瞳を持った女性で、ブロンドの髪がキラキラと輝いて見える。カッと見開いた大きな眼に鼻筋がとおっている。外国女性特有の顔立ちだった。少しとがらせ気味にくちびるを突き出して、ウィンクをして見せているポスターもあった。
「きゃあ! 見て見て、正三さん」。十七才の小夜子が、叫んだ。「すっごおい! あの服の、あの胸の開き方。映画スターぐらいよね、あんなの着られるのは」
目をキラキラさせて、またさけんだ。
「そうですね。映画スター、ぐらいでしょう」
即座に正三が相づちを打つやいなや、とたんに小夜子のきげんが悪くなった。「ふん、あんな下品な服」と、さげすむような表情に変わった。
「そんなことありませんよ。小夜子さんなら、似合いますよ、きっと」
そんなことばを待っていた小夜子の気持ちに気づかぬ正三だった。
正三から見て、情緒不安定にみえる小夜子だった。きげんが良かったり悪くなったり、うっとりとした表情を見せたかと思えば、とつぜんに不きげんになる。どう対処すればいいのか、どう立ちまわればいいのか、とんと見当のつかない正三だ。女性とのデートが初体験の正三にあっては、小夜子は荷の重すぎる相手だ。
「そうね、このショーでも見ようかしら」と、冷たく言いはなって、さっさと階段へと向かった。
「小夜子さん、あれに乗ってみませんか?」
「あれって?」
正三の指さす先に、小部屋があった。中の女性が深々とお辞儀をしながら、お客を招き入れている。
「エレベーター、という乗り物です。歩かなくても、上の階に行けるんです」。得意げに説明する正三に、あれが、ふみ子が自慢していたエレベーター? ふーん、面白そうね≠ニ、興味をしめした。
(三十四)
「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ」。一人ひとりのお客に対して、深々とお辞儀をして迎えているエレベーターガールのその澄んだ声に、思わず「やっぱり声もちがうわね」と、感心する小夜子だった。ここで正三が「小夜子さんの声も、ステキですよ」といったことばかけがあれば小夜子のきげんも良くなるのだが、正三には望むべくもないことだった。
「本日のお越し、まことにありがとうございます。当百貨店では、一階にアクセサリー、ファッション雑貨等、二階では化粧品コーナーがございます。また三階には……」と、階ごとの売り場説明をはじめた。その凛とした立ち居振る舞いに、思わず小夜子は見とれてしまった。紺のスーツ姿で、襟元に赤いラインが入っている。ピッタリと体にフィットした制服が、小夜子には目新しいものだった。特に目を引いたのが、真っ白い手袋だった。ドアが開くたびにドアに手をかけて、お客の出入りをサポートしている。その優雅な仕草に、まるで天女のような動きに、また見惚れてしまった。
「お嬢さま。ご用命の階は、どちらでございますか?」
「えっ? ファッションショーに、行きたいんです」
とつぜんの声かけにあわてて目をそらしながらも、きっぱりと希望の階を告げた。となりに立つ正三はそんな小夜子の気丈さにぼくだったらこんなにハキハキとは答えられないな≠ニ羨望の思いを抱いた。そしてこんなぼくなんかでは、とてもじゃないが相手にしてもらえないな。しっかりしろ! 正三≠ニ、おのれを叱咤した。
「かしこまりました、五階となっております。お客さま。たいへん申し訳ないのですが、ショーの開演は午後の一時からとなっております。しばらくお待ちいただくことになってしまいます。三階でございます、ご利用ありがとうございました。当階は婦人靴、ハンドバッグ、さらには……」
帽子が買いたいと言っていたことを思い出した正三は、小夜子の耳元に「小夜子さん、どうします? 一時間ちょっと待つことになりますね」と、降りる客を避けながら小声で問いかけた。ぼくは小夜子さんの希望を優先しますよと、度量の大きさをしめしたつもりだった。ところが思いもかけず「かまわないわ、会場で待ちましょ」と言いだした。帽子が欲しいというのは口実で、また生演奏も然り、本当は百貨店だったのかと得心する正三だった。ならばはじめから百貨店に、といえば良いものをと思う正三だが、小夜子としてはふみ子が出かけたあとだというのが面白くない。やむなく、ということにしたいのだ。そんな小夜子の思いを推し量ることなどできない正三は「はあ、分かりました」と、強い小夜子のことばに逆らえず、力なく答える正三だった。
(三十五)
「仕方ないねえ、こればっかりは」
乗り合わせていた白髪の老紳士が、小夜子に声をかけた。柔和な顔つきはすべてを成し終えたという安堵感にあふれていて、すこし甲高い声ながらもゆっくりとした口調だった。
「心配することなんか、ちっともありませんよ。百貨店の中は、ビックリ箱ですからねえ。あちこち見てまわってごらんなさい、一時間なんてあっという間ですよ」と、連れの老婦人もやさしい笑顔で声をかけた。品の良い雰囲気が感じられる女性で、老紳士の片腕をしっかりとつかんでいる様は夫婦間の絆をただよわせていた。
「そうですよね。全館を見てまわったら、あっという間ですよね」
嬉しそうに、正三が答えた。しかし小夜子の表情は、かたいままだった。
「小夜子さん、このまま五階まで行きますか?」
「もちろんです。他の階は、ショーのあとにでもまわればいいでしょ。良い席がとれなくなるとイヤですから」
「なるほど、それもそうね。良い席はすぐに埋まりますからね」
老婦人が、小夜子の横顔を見てうなずいた。一点を見つめつづける小夜子に、意思のかたさをみる思いだった。
「四階でございます、紳士服の階でございます。山下さま、ご利用ありがとうございました」
より深々とお辞儀をして、老夫妻を送り出した。他の客たちもすべて降りて、乗客は小夜子たちふたりになった。
「ああ、肩こっちゃった。いまのおふたり、大のお得意さまなの。すごく気をつかうのよ。あら、ごめんなさい。こんなこと言っちゃいけないんだわ」
思いもかけぬ気さくな話し振りに、小夜子もつい本音をもらした。
「そうですか、それで威張ってたんだ。真ん中にデンって、陣取っちゃって。近寄りがたかったですね、ほんと。他の人も、変に気をつかってるように見えたし」
「校長先生だったの、高等女学校のね。あたしの姉の担任でね、けっこう厳しかったらしいわ。退職されてからは、優しいおじいちゃんって感じね。まあ、威張っている風に見えるのは、長年の教師生活のせいでしょうね」
「そうなんですか」とうなずく正三に対して、小夜子は「ふん」と鼻を鳴らした。小夜子の行動にたいしてなにかと指導する女教師に不満を持つ小夜子には、全教師が敵でしかなかった。
「ふふふ。どうします? 五階で、いいかしら? 一時間って、けっこう長いわよ」と親しげに告げられ、さらには、じつはあたしも学校は嫌いだったわ、と同調されるとますます親近感をおぼえる小夜子だった。全校生徒の模範だと賞賛されている正三にはまるで分からぬことだったが、姉妹のように仲良くはなすふたりが微笑ましく思えた。
「いいんです、五階で。なんだか疲れちゃって」
「人いきれしたのかもね。はい、着きましたよ。楽しんでね」
互いに手をふりあいながら、なごりを惜しんだ。
(三十六)
ショーは五階のフロアで行われる。エレベータを降りると真新しい板で仕切られた一角があった。フロアの半分ほどを使ってのファッションショー会場となっている。舞台設定は真っ直ぐに伸びるランウエイのステージを囲むように、観客席が用意されている。ファッションに対する欲求が戦後の復興とともに高まってきた証しで、折りたたみ椅子がすき間なくならべられていた。時間が押しせまってからの来場では、たしかに良い席は取れないなと、正三も納得した。
小夜子はガランとしたその場に立ち、これから始まるであろうショーに思いをはせた。小夜子の知らぬ世界が、眼前に現れるはずだ。小夜子にはショーというものがどういうものなのか、分からない、想像すらできない。本家の重蔵に聞かされた大相撲では土俵上で懸賞旗がグルグルと回るというが、ファッションショーではこのステージの上にただ単に並べられるのかもしれない。そう思った。いや、そうではなかった。小夜子の生活の場である村では見られないファッションに身をまとったモデルたちが、颯爽とこの直線状のステージの上を歩いてくるのだ。一階のポスターで見た、妖精のようなモデルが歩いてくるのだ。
どうなるの?≠ニ、期待感でいっぱいの胸は、早鐘のように波うった。
「あそこの席に座わりましょう」
正面の前席を指さすと、さっさと歩きだした。
「小夜子さん、まだ間があります。お腹が減ってきますよ。この階に食堂がありました。食べませんか」
「だったら正三さん、お弁当でも買ってきて。(ほんと、気が利かない人ねえ)」 眉間にしわを寄せて、冷たく言いはなった。またやらかしてしまった、と後悔する正三は「分かりました。どんなものがいいですか?」と、従うしかない。しかし小夜子は「お任せするわ」と、ひと言だけで済ませた。
どんなものがいいんだろう。女性の好むものって、どんなものだろう?
首を振りふり、正三が会場をあとにした。と同時に係員が小夜子を見とがめ、
「お客さま、まだ準備中です。そのお席はお止めください」と、退席するよう促してきた。
「準備中でもいいです。ここが一番見やすい席ですから。良い席に座るために早く来たんです」と、小夜子も譲らない。
「あのね、娘さん。三列目まではね、誰が座るか決まってるの。一般の客はね、もっとうしろに居てくれなくちゃ」と、小夜子を追い立てた。
「ポスターには、そんなこと書いてなかったわ」と、口をとがらせると「常識というものがないの、あんたには。第一あんたのような若い娘が着るような服じゃないんだから。さあさあ、大人になってからお出で」と、相手にしなかった。
「どうしました? 坂田さん。なにか問題でも?」
舞台の袖から、女性の声がした。あわてて
「いえ、問題はありません。ちょっとこの小娘に、説教をしてただけで」と、小夜子を椅子から立たせた。
「ちょっと、待って。彼が、まてと言ってます」
かたわらの外人と話をしながら、小夜子をその場にとめおくよう伝えた。
「また、あの女が!」と、舌打ちしながら、坂田は小夜子の腕をつかみつづけている。
「放してください、痛いです」
「あ、ああ。ちょっと、ここに居て」と、小夜子から離れてふたりの元に駆けよった。
(三十七)
外人からのことばに対して、坂田がなかなか納得せずにいるようだ。しだいに外人の声が荒くなり、坂田に詰めよる風に見えた。女性通訳と坂田との会話はステージの袖でのことで、小夜子には聞こえない。とつぜん坂田が小夜子を手まねきした。不安な思いで立ち上がった小夜子に、外人が手でその場に居るようにとでも言うように、手を下にさげた。
「そこで待ってて。座ってて」。女性通訳が声をかける。
なによ、なんなのよ。こっちに来いだの、座れだの
仏頂面をしている小夜子に、またしても神経をさかなでする声が聞こえた。
「スランラップ(stand up)!」
小夜子の耳には、罵声にしか聞こえなかった。
なによ、日本語で言ってよね。外人だからって、威張らないでよね
「スランラップ! オノデステキ(on the stage)!」
なによ、この外人。なに言ってるのよ。いい加減にしてよね。怒るわよ、いくら温厚なあたしでも
「へェイ(Hey)!」。外人が、片手を上げてグルグルと回す。その意味を「屁」と受け取った小夜子のいかりが頂点にたっした。
まっ、失礼な。どういうつもり、一体。おならだなんて!
まさに怒髪天をつく勢いで、スックと立ち上がった。
「Oh,Bravo!」。手をたたきながら、その巨体が小夜子に歩みよってくる。
な、なに。あたしは怒っているんですからね。そんな拍手なんて、なにを……
小夜子を軽々とかかえあげて、ステージ上に降ろした。客席の椅子に座ったデザイナーは、小夜子を見上げるなり、「Fantastic!」と、手をたたいた。
なあに、この外人は。あたしを褒めてるの?=@
女性通訳相手に、早口でなにかまくし立てている。興奮していることは、小夜子にもすぐに分かった。
「デザイナーのマッケンジーさんいわくに、あなたが気に入ったからショーに出てほしい、と言ってる」と、やっと坂田が説明に来た。どうやら、話がついたようだ。
「 ショーって、このファッションショーのことですか?」
「そう、まったくの異例なんだよ。じゃ、頼んだから」と、横柄に告げて立ちさった。
「ち、ちょっと待ってよ。あたし、やるとは言ってないでしょ」
「まあまあ、小夜子さん。いいじゃないですか、おやりなさいな。こんな経験は、めったにあるものじゃありませんし」と、正三が声をかけた。
「正三さん、どこに行ってたの! 大変だったんだから」
なじる小夜子に、
「ごめん、ごめん。お弁当をね、買ってきました。サンドイッチとかいうものをね、買ってきたんですよ」と、差し出した。
「肝心なときにいないんだから」と不満を口にしつつも、その奇妙な形をしたものに興味を覚えた。三角形に切られた食パンに野菜やら卵焼きがはさみ込まれたもので、はじめて見るものだ。ふみ子も食べていないものだろうと思うと、急にお腹がすいてきた。すぐにも椅子に座って食したいと思うのだが、「ごめんなさいね。世の男どもときたら、女は男の従属物だと思ってるのよね」と、にこやかに女性通訳が小夜子に声をかけてきた。
(三十八)
「あたし、前田ふみ。あなたのお名前は? 」
「は、はい。あたしは、竹田小夜子と言います」
「そう、さよこさん。いい名前ね、マッケンジーが喜びそうな名前よ」
「前田さんは通訳の方ですか?」
「本業はね、ちがうの。デザイナーの卵なの。いま、勉強中。で、食べるためにね、通訳してるの。デザイナー相手だと、すっごく勉強になるのよ。デザイナーって分かる? 服のね、素材とか形とか、いろいろと決めるの」
田舎娘には分からない職業でしょ、とばかりにフンと鼻を鳴らして答えた。
「そうなんですか、デザイナーを目指してらっしゃるんですか? スゴイですね」
目を輝かせる小夜子に、
「どう? やってみない? 簡単だとは言わないけど、あなたなら出来るわよ。美人だもの、映えるわよ」と、そのプライドをくすぐった。皮肉の意味で告げた美人ということばに、小夜子はピクリと反応した。村一番だとみなが騒ぎ、自身も自負している小夜子には、最高の褒めことばだった。
「ほんとに出来ます?」。やってみたい思いと都会人の前だという気恥ずかしさとで、気持ちが揺らぐ小夜子だった。傍らの正三はといえば、ただもう驚くばかりだった。
小夜子さんが、舞台に上がるんだ。きれいだろうなあ、ステキだろうなあ
誇らしく感じるとともに、遠くへと離れて行く小夜子に戸惑いも感じた。
いまのぼくは、彼女の下僕となんら変わらない。どうすればいいんだよ
そんな打ち沈んだ表情の正三に気づいた小夜子は、勝ち誇ったように言った。
「わたし、出ます」
ショーの始まりと同時に、アナウンスが流れた。
「紳士淑女の皆さま、お待たせをいたしました。これより、マッケンジー氏による最新モードの発表をさせていただきます。どうぞ、心ゆくまでご堪能ください」
大きな拍手が沸き起こり、カメラのフラッシュがそこかしこから焚かれた。小夜子はといえば、マッケンジーの指示により、ステージ正面に陣取っていた。正三は小夜子から離され、立ち見に回っていた。
「どうしてこんな子が、ここに居るのかしら?」
「どちらかの、ご令嬢では?」
「でもそれにしては、貧相なお洋服ですわよ」
一列目に座る淑女たちが、いぶかしげに小夜子を見ている。痛い視線を身に受けながら、はやく呼んで!≠ニ、居たたまれぬ思いの小夜子だった。
ショーがはじまると、まさに戦争状態にはいった。激しい怒鳴り声の中を、ベルトコンベア上を押し出されるがごとくに、モデルたちが送り出される。ステージに現れるとにこやかに笑みをふりまき、戻ると眉間にしわを寄せて服を取り替える。怒声と嘆息のなか、順調にショーは進んだ。
とつぜん会場の灯りが暗くなり、スポットライトが一人の少女を浮き上がらせた。
「さあてご来場の皆さま、本日の特別ゲストの登場です。ミィス、サヨコ嬢!」
マッケンジーの手が小夜子に差し出され、ゆっくりと小夜子がステージに現れた。しかし大きな落胆のため息が、そこかしこから洩れた。
「なあに、あれは。田舎娘じゃない?」
「どういうことなの、これは。あんなやぼったい子が、特別ゲスト?」
「では、ミスサヨコ嬢の変貌をご期待ください!」。ランウエイを歩くことなく、マッケンジーに導かれてステージ中央にただ立っていた小夜子が、袖にもどされた。意味の分からぬ小夜子だツタ。小夜子としては一張羅のつもりの薄みどりのワンピースだったが、ここではただやぼったいだけだった。
(三十九)
小夜子は、前田が付きっきりでの世話となった。まったくの素人である小夜子が、破格の待遇を受けている。付きっきりでの世話など、ありえないことだ。棘のある視線が、小夜子に注がれた。
「ひょっとしてあの子、マッケンジーのラバーじゃない?」
そんな声すら飛んだ。嫉妬心どころではなく、妬み・やっかみの範疇を超えた殺意すら感じる鋭い視線が注がれた。
「いくらなんでもひどいんじゃない」
「ふじちゃんはどうなるの」と、非難の声が小声でささやかれている。小柄な、小夜子と身長がほぼ同じ女性が隅で泣いている。モデルには厳しい体型が要求される。まずスレンダーでなければならない。すこしでも腰まわりに余分な脂肪がついてしまうと、誰からも相手にされない。そして一番の要求度の高いことが身長だ。一般人の平均値よりも上が要求される。
マッケンジーのファッションショーにおいて、特別に子供服を登場させることになった。思春期を迎えた少女向けというコンセプトを元に準備された。そしてその年代――十代後半の少女モデルとして身長の低いモデルが要求された。そして身長が低いためにモデルとしての仕事に恵まれないふじ枝という女性に声がかかった。そのふじ枝を見たマッケンジーが、「This girl lacks presence and appeal.(この娘には華が感じられない)」と不満を漏らすマッケンジーの前に、小夜子が現れた。娘むすめした雰囲気が、マッケンジーの琴線に触れた。田舎娘らしい野暮ったさがあるものの、柳眉と大きな目に鼻筋がとおり、唇がぷっくりとしている。
すこし弱々しい眉を、眉頭をタテ線で描き足した。真横に移動しながら眉頭を描くことでボリューム感をあたえた。
「さあ、いいわよ。目をあけてみて」
メークが済んだ小夜子が見た、己の顔に「ええっ! これが、あたし、ですか?」と、驚嘆の声を上げた。切れ長に引かれたアイラインが、幻想的な雰囲気をかもし出している。他のモデルたちにも遜色のない、少女らしいあどけなさの残るなかにすこしの妖艶さが漂っている。
まさにマッケンジーがモデルに要求する華が感じられる。あのくすんだ田舎娘の小夜子が、見事に変身を遂げた。さながら、さなぎから脱皮したアゲハ蝶だった。一瞬、空気が凍りついた。誰もが目を疑った。小夜子の起用を決めたマッケンジーひとりが、大きく頷いていた。
「Bravo!Fantastic!」
マッケンジーの声に、その場にいるすべてから拍手が起こった。そしてその拍手が会場に洩れ、観客全員がなにごとかとどよめいた。
「ふたたびの、サヨコ嬢の登場です。あらためてマッケンジー氏に導かれての、登場です」
アナウンスの声も、震え気味だった。 どんな場所・場面でも動じることがなかった小夜子が、緊張のあまり一歩が出せないでいた。マッケンジーに肩をたたかれて、ようやくステージに出た。口を真一文字に結び、伏目がちにゆっくりと歩いた。左手を胸の前に立てて、ゆっくりと歩を進めた。「OK、OK」と、マッケンジーが満足げに頷いている。会場のあちらこちらから感嘆の声が洩れはじめ、非難の声をあげた淑女からも賞賛の声がでた。
「マッケンジーって、やっぱり凄いわねえ。あんな田舎娘を、こんな美女に変えるんだから」
(四十)
ゆっくりよ、ゆっくり。急いじゃだめ、いいわね小夜子。手は、左手は、ちゃんと胸の前に置いてね。指の先までピンと伸ばすのよ、肝心なことだから。それから、歩き方に注意して。体が烈しく上下に動かないように。いいわ、いいわよ。上手くいってる。ほら、みんな見とれてるでしょ? あたしに、みんな見とれてるのよ。こんな大勢が、あたしにひれ伏してるのよ。見てよ、外人を。嬉しそうな顔して。そうよ、あたしは蝶になったの。アゲハ蝶に変身したの。もう田舎娘だなんて、バカにさせないわ。小娘だなんて、言わせないわ
紫のスカーフを、頭から首そして肩へと流す。インドの民族衣装サリーを纏っての、小夜子だった。真一文字に結んだ口が、ふっと緩んだ。
「菩薩さまだわ、弥勒菩薩さまだわ!」
エレベーターで会った老婦人から、ため息とともに洩れた。そのことばがきっかけとなり、一斉に拍手がわきおこった。正三も立見席で激しく手をたたき、賞賛した。
小夜子さん、ステキです。ほくは、ほんとに幸せ者です。貴女とご一緒してきたのですから
会場にいるすべての人に、いますぐ声高らかに宣言したい思いに駆られる正三だった。
「Good,Good!」
こぶしを握りしめ、マッケンジー力を込めた。東洋の神秘を演出したいというマッケンジーの思いは、みごとに観客を魅了した。
「Graet!」
前田の差しだす手を、満面に笑みをたたえてしっかりと握るマッケンジーだった。そのあと小夜子による少女向けの新作モードショーがはじまり、清楚さを強調するモードが披露された。しかし残念ながら、サリー姿の小夜子が強烈なイメージが観客のなかにのこり、違和感を感じる者が殆んどだった。マッケンジーの度肝をぬく作戦は当たったものの、あまりの強烈さが裏目に出てしまった。
「Mistake! Mistake!」と、頭を抱えるマッケンジーを見てモデルの使い方を誤ると、こうなるわけね。良い勉強になったわ≠ニ、ほくそえむ前田ふみだった。
*文中の英文は、microsoft社の Copilot の支援を受けました。
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