(三百四十六)
「いらっしゃいませ、御手洗さま。ようこそのお越しで」
うやうやしく礼をするボーイに、ニッコリと微笑んで「おひさしぶり。小夜子でいいわよ」と応える小夜子だった。鮮やかなネオンサインで、キャバレー:ムーランルージュとある大きな建物のなかに、小夜子がすいこまれていく。あわてて追いかける竹田に「いらっしゃいませ。どうぞ、ごゆっくり」と、ふかくお辞儀をする。
「あ、いえ、こちらこそ。お世」と、慌てて竹田が返事をかえすと、すぐさま竹田の卑屈さをかんじとった小夜子の、いらだつ声が飛んできた。
「竹田、早くいらっしゃい!」
「申し訳ありません。久しぶりの場所なもので、なにをどうしていいのか分かりません」
ペコペコと米つきバッタのように頭を下げつづける竹田に、周りから失笑がもれた。己が詰ることには良しとしても、他人に蔑視されることには我慢がならぬとばかりに、小夜子の怒りが頂点に達した。声の主をじろりと睨みつけると、
「はじめての人間がまごついて、なにが可笑しいのかしら!」と、つよい声を発した。そのあまりの剣幕に、座がシンと静まりかえった。
こんな小娘ごときに、といった表情を一瞬見せたものの、相手が富士商会の御手洗武蔵の連れ合いだと知るや、下を向いてだまってしまった。
「御手洗さま、申し訳ございません。うちの者がいきとどきませんで、失礼いたしました」
あわてて飛んできたマネージャーが、平謝りする。
「高木くん、もっと気を配らなくちゃだめだぞ」と声をひそめて、ボーイに注意をあたえた。
「さ、御手洗さま。こちらへどうぞ」と、中二階へと案内した。己の失態で小夜子にまで恥をかかせた竹田は、身をちぢこませて後ろにしたがった。ビッグバンドの奏でる甘い調べなど、とんと耳に入らぬ竹田だった。
生前に勝子が興奮気味に話していた曲だとは分からずにいた。
「ねえねえ、勝利。あなた、ムーンライトセレナーデという音楽、知ってる? ステキなのよ、ほんとうに。小夜子さんに聞かせていただいたのだけれど、うっとりするわ。小夜子さんね、お家でよく聞くんですって。イン・ザ・ムードとか茶色の小びんとか、色々レコードをお持ちだってよ。こんどね、キャバレーとかいうお店でね、生演奏を聞かせていただくの。楽しみだわ、ほんとうに。お幸せよね、ほんとうに。でもね時折、ふっとお淋しそうなお顔をされるの。どうしてかしらねえ。早くに亡くされたお母さまに関係していらっしゃるのかしら。なんでも、お母さまに抱いていただいたことがないのと、悲しそうなお顔でおっしゃってたけれども」
「姉さん。いつも言ってることだけど、外でべらべらと小夜子奥さまのことをしゃべらないでくれよ。お淋しいなんて、絶対にだめだよ。そんな小夜子奥さまじゃないんだからね」
いつになく強い口調で勝子をたしなめる竹田だが、そのことは竹田自身も感じていることだった。
社長がお忙しくされているから、我がままだろうとなんだ、きっと。お気の済むようにして差し上げねば……
それが竹田の思いだった。
(三百四十七)
「さよこおー! ?いらっしゃーい!」。野太い声が、小夜子にかけられた。
「梅子ねえさーん、梅子ねえさん」。いきなりに小夜子の目から、大つぶの涙があふれでた。当然に梅子も竹田も、当惑の色をみせる。しかしもっとも驚いたのは、当の小夜子自身だった。悲しい思いなど、まるでないのだ。
「ど、どうした? なにかあったのかい? そうか、また武蔵に悪いくせがでたのか。で、どこの店の女だ? まさか、うちの店じゃないだろ? それとも、出張先かい? 病気だからね、武蔵の女あそびは。よしよし。こんど店にきたらたっぷりととっちめてやるよ。
大丈夫、大丈夫だから。この梅子姉さんに任せときな」と、赤子をあやすように、小夜子の肩をだいてやる梅子だった。
「ちがうの、ちがうの、梅子姉さん。べつに悲しくなんかないの。なのにね、涙がね、なみだが出てくるのよ。おかしいでしょ、こんなの」
笑いながらなみだを拭く小夜子だけれども、あふれる涙は止まらない。
「大丈夫、大丈夫。おかしくなんかない。いいじゃないか、な。悲しくなくても、泣いたっていいじゃないか。この梅子さんにもあるんだから。仕事を終わって、アパートに帰って、お風呂から上がって、窓の外を見るんだよ。するとね、すーっとお日さまが昇ってくるんだ。するとね、どうしてだか、涙がこぼれるんだよ。きれいだね、って声を出したりしてね。だれが居るわけでもないのにさ」
泣きじゃくる小夜子の背をさすりながら、梅子がつづけた。
「おかしいだろ? それから、神さまにおれいを言うんだ。ああ、今日もいちにち無事に終えることができました、って。これから休みますが、このまま召されても構いせん。それでまた生を受けられるますなら、どうぞ健康体でお願いします、とね。やまいにかかっちまうと大変だからね、独り身としては」
「そうなの? 梅子姉さんでも神さまにお願いしたりするの? 小夜子はね、タケゾーがそばにいるから、いてくれるからね、大丈夫なの」
うふっと、小さく笑いながら、そして頬をすこし染めながら、ごめんなさいね、ひとりの梅子ねえさんには……とより小声でつぶやく。
「でもね、でも、小夜子ね、最近おかしいときがあるの。さっきもね、この竹田と一緒にステーキを食べようとしたんだけど、どうしても食べられなくて」
「小夜子がお肉を食べられないとは、そりゃたしかに変だ。どんな風だったんだい?」
小夜子の手を両の手でつつんでみると、すこしの熱を感じる梅子だった。
「それがね、おかしいの。ちっとも美味しく感じないの。それどころか胸がムカムカしてね、見るのも嫌になるの。おかしいでしょ、あたし。こんなこと、はじめてだもの」
とつぜんに、小夜子ケタケタと笑い出した。ついさっきまでの涙が、まるで嘘のようだ。梅子にある疑念が浮かんだが、うかつなことはいえないと、とりあえずそのことばをのみこんただ。まあ、ふしぎじゃないわな。男と女なんだし、もうかれこれ≠ニ、頭の中で指をおってみた。
(三百四十八)
「名前、なんて言うんだい? この青年は。うーん、真面目だね。初めてだろ? こんな店は。いや店どころか、女あそびの経験もないね? きっと。あれ? 待てよ、見覚えがあるぞ。梅子ねえさんもヤキがまわったかねえ。来てるね、きてるよ。一度だけかな? 専務が若いのを連れてきたんだけど、そのときにいたねえ。おいおい、そんなに小さくなることはないさ。そんな端っこに座らずに、ほらっ、でんと真ん中に座りな。あんたはお客さまだ。大きな顔をしてりゃいいのさ」
首をふりふり、見覚えがあるがねえとつぶやく。
「あ、分かったぞ。あんたは、竹田くんだろ? そうだよ、間違いない。社長がいつも言ってるよ。石部金吉みたいな青年がいるってね。発想がね、おもしろいって。ほかの奴にはないなにかがあるって、ほめてたよ。将来が楽しみだとも。良い参謀になるだろうってね」
「そ、そんな大それた者じゃありません」
体を縮こませて、固くなっている。水を一気に飲み干して、のどの渇きをいやした。
「小夜子が後継ぎを産んでくれたら、竹田くん、あんたをね、加藤専務のあと釜にっていってたよ。相談役としてね、期待しているみたいだよ。せいぜい、社長にしごかれな。いや専務にかな? こんやはさ、ふたりとも居ないんだ。思いっきり楽しんでおくれよ。あんたなら女に溺れるようなこともないだろうしね。さてと、誰を呼ぼうかねえ。あんたみたいな男には、そうだな、未通女が良いかねえ。物静かな女が良いだろうねえ。ちゃきちゃきが合うような気もするけれど、入れ込むような事態になっちやいち大事だ。ほんというと、いま、小夜子がいればねえ。即、くっつけちゃうけれども」
こんやの梅子は饒舌だ。嫁にだした娘の里帰りを喜ぶ母親になっていた。娘のグチを聞きつつも、夫の不貞をなげく娘をいたわりつつも、感情の起伏がはげしい娘だと知ってはいても、こんやの娘は尋常とは思えない。もうすこし様子をみることにした梅子は、竹田の心底をさぐることにした。
当の竹田は視線をおとしたまま、頭を何度もなんども横にふって梅子のことばの嵐がすぎ去るのをまった。
「正直のところ、この小夜子は、社長とは相性が悪いと思ったんだよ。なにせ田舎娘でさ、なーんにも知らないくせに、鼻っ柱が強くて。けどね、自分をみがこうとする、その根性は見上げたもんだった。社長も、あんがいそんな所に惚れたのかもね。ま、社長のことは置いといて、と。うーん、誰がいいかねえ……。そうだ、あの娘が良さそうだ。ボーイさん、実千代を呼んどくれ。木暮実千代だよ、いいね。それと、小夜子と気が合うひろみだ。実千代は他の客についてる? いいから、いいから。さっさと引っ張いといで。将来の上客なんだから」
(三百四十九)
ご満悦の表情で竹田の値ぶみをする梅子だが、いつもはキヤッキヤッとはしゃぐ小夜子の静かさが気になっていた。
社長がいないから、元気がないのか? 小夜子は、見た目はきつい女だけれど、あんがい淋しがりやさんだからね。みなにきつく当たったり横柄な態度をとるのも、その裏返しかねえ。あんがい、張子の虎なんだよ。この竹田という若者にきついのも、そのせいだよね。そういえば同じ竹田姓だけど、親戚筋かなにかかねえ。でもそうならそうで、社長がそう言うだろうし。偶然ということかい
「どうしたんだい、今夜は。えらく静かじゃないか」と、小夜子に声をかけた。
「梅子ねえさん、じつは、きもちちがわるいの……」
顔面蒼白状態で、必死の声をふり絞ってくる
「は、吐きそう、なの……」
うつむいていた竹田が、あわててハンカチを差し出した。
「小夜子奥さま、これに吐いてください」
瞬時の判断とその機敏な動きに、梅子も感心しきりだった。うーむ。こりゃ、うちの女給もかおまけだね。見習わせなきゃね。しかしどうやら、本人が気付いているかどうかは分からないけれど、小夜子にホの字だね。気づかなきゃいいけどね。そのまえに、なんとか所帯を持たせることだ。社長の尻をひっぱたこうかね
「あたらしいお絞りです、どうぞお使いください」
実千代がにこやかなほほえみをたたえてやってきた。ボーイからうけとったお絞りを「こちらをお使いください」と差し出すや、竹田が引ったくるように受け取って、すぐさま小夜子に手渡した。
「気持ちがわるいのか?」
「煙草やらお酒のにおいがね、今夜はどうも。どうしたのかしら、疲れてるのかしら」
弱々しい声の小夜子に、竹田はただオロオロとするだけだ。社長の留守中に、小夜子奥さまがご病気になんてことになったらどうしよう。申し訳が立たないぞ
喉まで出かかっている、もう帰りましょう、ということばがどうしても出てこない。小夜子に片意地をはられても困ると、言い出せないでいた。竹田の進言にたいして、素直に従う小夜子ではない。むしろ逆へと行く小夜子だ。
「梅子さん、ちょっと。ひょっとして」と、実千代が小声でささやく。
「やっぱり実千代もそう思うかい? あんたのお姉さん、おめでただったものね。うんうん、そうだよ、きっと」
やっと得心のいった梅子が、ニコニコ顔で横に告げた。
「小夜子、こんやは帰りな。で、しばらくの間、出入り禁止だ」
えっ! と不満げな表情を小夜子が見せ、そして竹田が安堵の表情を見せた。
「いいかい。明日にでも、医者に行きな。違う、ちがう。産院だよ、産婦人科だよ。十中八九、おめでただよ。どうだい、月のものが遅れてるだろ? まちがいない、おめでただよ」
「社、社長に連絡してきます。こんな所にいてはだめですから、すぐに帰りましょう」
あわてて立ち上がる竹田だが、当の小夜子は悠然としている。
「竹田! そんなに慌てることはないわ。明日調べていただいてからでいいの! もし違っていたら、どうするの。がっかりさせることになるでしょ。それに、竹田が報告すべきことでもないでしょ。あたしの口から、タケゾーには話します。余計なことはしないで」と、ピシャリと言い放った。そしてそんな小夜子を、梅子が慈愛に満ちた目で見つめた。
(三百五十)
三十路も半ばを過ぎた梅子が、小夜子にはひとりが淋しくはないと言いきった。たしかに淋しさは感じていない。「ててなし子!」と指をさされて、幼いころからひとり遊びをつづけてきた。孤独感とは無縁の梅子ではある。しかし将来のことを考えたとき、言いしれぬ不安を覚えている。
これといってはっきりとした不安ではない。ただ漠然とした不安感におそわれるのだ。不思議な感覚なのだが、たとえば帰りの交通事故、たとえば明日の食指での食中毒、そういったことではなく、遠い外国の地アフリカ大陸における子どもたちの飢餓問題に泣けるのだ。なにを弱気になってるんだ! 天下の梅子さんだぞ。女傑と言われる梅子さんだろうが=B言い知れぬ不安感におそわれるたびに、自らにそう言い聞かせている。しかし時としてあの男の求婚を受けていたら、あたしの人生はどう変わったろうね≠ニ、考えることもある。
男との生活を、思い浮かべることがないわけではない。しかし決まってその後にこんなうわばみ女を嫁にするなんて、可哀相じゃないか≠ニ、収まるところにおさまっていく。過去に身ごもったことがある。求婚をしてきた男の子どもではない。
常連客との子どもだった。生理不順のつづいていた頃のことで、まさかという思いが強かった。異変に気づいたのは、皮肉なことに男の方だった。「食べ物の好みが変わったんじゃないか?」。そう言われてから、ひょっとして? と飛びこんだ婦人科で、妊娠を告げられた。
「五ヶ月だね。気付かなかったのか、お前さん。他人のそれには敏感なくせに、自分のこととなるとからきしだな」と、馴染みの医者にからかわれる始末だ。
「つわりはなかったのか? そうか。静かにしずかに、いのちを育んできたんだな。で、どうするね? といっても、いまさら堕ろすわけにもいかんがね。お前さんに気づかれまいと、静かに成長をつづけてきたんだ。赤ん坊は、生まれたがっているぞ。神さまも、そんな赤ちゃんを応援しているらしい」
医者はそう言う。しかし梅子の耳にとどく赤子の声はちがう。
このままお母さんに知られることなく、静かに逝くつもりだよ。心配しないでいいよ。ぼくが産まれたら、お母さん困るものね。お父さんだって、歓迎しないだろうし。大丈夫、だいじょうぶだから。お母さんを、お父さんを困らせるようなことはしないから。きっと、きっと、ふたりには迷惑をかけないから≠ニ、なんとも健気なものだった。
あるいは、梅子の心底の願いだったかもしれない。まだ23歳の梅子にとって、女給としてやっと一人前になれた梅子にとって、赤子は厄介な存在でしかなかった。少なくとも23歳の梅子は、そう考えた。そして8ヶ月に入ったとたん、にわかに産気づいた。
「残念だよ、死産だよ」。医者の沈痛なことばが梅子の耳にとどいた時、そのときはじめて赤子を愛しいと思った。
「いや、先生! 助けてやって! 何とか生き返らせて! あたし、お店やめるから。真面目に働くから。一生懸命、赤ちゃんを育てるから。あたしの、あたしの赤ちゃんを助けて!」
流産の危機は、いくどとなく訪れた。しかしその都度、赤子は生き抜いてきた。梅子が気遣ったのではない。むしろ梅子は、流産やむなし! と考えた。それでも赤児は生き抜いた。赤子の生命力の強さには、医者も舌をまくばかりだった。
「赤ちゃんは生きたがっているんだ。しばらく店を休んで、養生したらどうだい。入院という手もあるぞ」と7ヶ月目に入ったとき、説得された。
(三百五十一)
「これだけお腹がふくらんじゃ、お客もびっくりだよ。先生の言うとおり、しばらく店を休むわ。というより、休めって言われてるしさ。でも、入院はやめとく。消毒液のにおいがねえ……」
不思議なもので店を休んで養生にはいったとたんに、赤子にたいする気持ちに変化が現れた。苦痛以外のなにものでもなかった赤子の体内での運動が、いまは愛おしくてならない。
「どうしたの、赤ちゃん? きょうは大人しいねえ。さあ、お母さんのお腹をけってごらんな。いまね、お母さんね、あなたのおむつを用意しているんだよ。店長がね、真新しい木綿の生地をね、こーんなにたくさん持ってきてくれたからね。だからね、たっぷりとおしっこしていいんだよ」
やさしくお腹をさすりながら
「お乳がたくさん出るようにって、産婆さんに教えてもらったようにおっぱいをもんでるからね。たーくさん飲んでよ、お乳を。お母さんね、お酒をずっと飲んでたからね、お酒くさいお乳だと困るからね、お水をたくさん飲んでお酒を追いだしてるから。心配ないよ、赤ちゃん。おいしいお乳にしてあげるからねえ」と語りかけた。
とつぜんに下腹部にはげしい痛みがはしり、なま暖かいものが内股に流れた。あわてて産婆を呼んだが、その出血を見たとたんに暗い顔を見せた。そしてすぐに、産院に行けと言う。
「どうなの、どうなの。おしまさん、大丈夫よね? まだ産み月じゃないものね。ちょっとした手違いだよね? だってあたし、あたし、じっとしてたんだよ。お医者さんの言いつけを守ってたんだから」
不安な思いが、しだいに絶望感をともないはじめる。産婆はひと言も口を開こうとしない。いつも饒舌な産婆が、だ。そして病院に向かう間中、ずっと梅子の手をにぎりしめてくれていた。
「先生、どうしてなの? 言いつけを守って、じっとしてたんだよ。ほんとに大事にしてたんだから。なのに、なのに、なんで、どうして……。ひどいよ、神さま。酷じゃないか、あんまりだよ。欲しくないと思ってたあたしを、あたしを。その気にさせといてさ、今さらなんだい! 気まぐれなのかい、神さまの。それとも、あたしに罰を与えたのかい? なんだよ、なんだよ、どんなひどいことをしたと言うのさ。ふん、そうだよね。神さまなんて信じちゃいないあたしがさ、神さまを恨むというのは筋違いかねえ。恨むなら自分かい? 不摂生のかぎりをつくしてきたあたしだ、赤ちゃんは、頑張ったんだよねえ。ごめんよ、ごめんよ。こんな母親で、ほんとにごめんよ」
打ちひしがれる梅子に、付き添ってきた産婆が優しくこえをかけた。
「今回は残念だったけど、またということもある。それに私生児で産まれた子供の行く末は、ひどいもんだよ。あんがい、これで良かったのかもしれないよ。今度は、きちんとしたお相手の子供を、ね。お父さんになってくれるお人を、お選びね。あんたの器量なら、きっと現れるだろうさ」
そんな産婆の気遣いも、梅子の耳にはとどかなかった。
あたしには、母親になる資格がないんだ。
こんなうわばみ女には、子どもなんてもったいないんだよ。無理なんだよ
「小夜子。あたしゃ、あんたの母親代わりだろ?」
「ええ、もちろんです。ほんとは梅子母さんって呼びたいんですけど、それじゃ梅子さんが嫌だろうって思って。それで梅子姉さんって呼んでるんです」
「いいよ、いいよ。梅子母さんでいいよ。それでだ、母親として小夜子に言っておくことがある。胎教って、知ってるかい? お腹の赤ちゃんというのはね、お母さんが考えることが分かるんだよ。お母さんが感じることを、赤ちゃんも同じように感じ取るんだよ。怒りの気持ちを持てば、赤ちゃんも怒りの気持ちを持っちゃうよ。お母さんが悲しめば、赤ちゃんもかなしむんだ。だからね、心おだやかにいなくちゃいけない」
小夜子のおなかをさすりながら、小夜子だけでなくおのれにも語っていた。
(三百五十二)
「武蔵は、ほんとに小夜子が好きなんだよ。それは分かるね? けども、武蔵の女あそびは、病気だ。どうしようもない。女あそびを止めちまったら、武蔵は死ぬかもしれない。それ位の大病だわ。どうだろ、小夜子。いろいろ含むところもあるだろうけれど、ぐっと飲みこんでおくれでないかい。女のふところの深さを見せておやりな。いや案外のこと、子供でもできたら、変わるかもだよ。あたしの知ってる男に、そういうのが居たよ。そうだ、ぴたりと女遊びを止めるかもね。子どもベッタリとなるかもよ。もちろん武蔵には、あたしから釘を刺しておくから」
梅子の思いが、どれほど小夜子に伝わったか。小夜子自身、武蔵の女遊びについては、諦めの思いがないではなかった。それが男の活力源だと公言してはばからない武蔵だ。
「女あそびを止めちまったら、武蔵は死ぬ」。梅子のことばは本当かもしれない。肉体は生きても、こころが死んでしまうかもしれない。そう思えてきた。しかしやはり許せるものではなかった。
翌朝、さっそく大学病院へと向かった。大勢の妊婦でごったかえす待ち合室で、その自信にみちあふれた顔つきに圧倒された。ここでは御手洗小夜子という名前は、まるで通用しない。ただの小娘でしかない。
「おや、おじょうさん。おめでたかい?」
人なつっこく声をかけてくる妊婦がいた。
「この子がねえ。よっぽどあたしのお腹の中がいごこちが良いらしくて、なかなか出てこないんだよ。あたしゃ、もう三十になるんだけどね、初産なのさ。やっと神さまがおさずけくださった赤ちゃんなんだよ。だから大事にだいじにしてきたんだけど、お医者さまは『大事にし過ぎたからだ』なんておっしゃるんだよ。でもねえ、そんなにいごこちが良いのなら、もうすこしって考えたりもするんだけど。そしたら、お医者さまにこっぴどく叱られて。『このままじゃ、大きくなり過ぎる』ってね」
大きなおなかをさすりながら「おお、よしよし。そんなにここが良いのかい」と、ひとりごちる。
「出産のときに、あたしはもちろんのこと赤ちゃんも苦しむって言われてね。あたしはいいんだよ、あたしはね。けども、赤ちゃんを苦しめるわけにはいかないわ。でね、かいだんののぼりおりが良いって聞いたから、毎日つづけてるんだよ。いまもね、そこの階段でのぼりおりをしてきたところさ」と、聞きもしないことをべらべらと話しかけてくる。
どうやら新参できたものすべてに話しかけているようで、そこかしこで「またはじまったよ」という声がとびかっている。しかしそんな声など、どこ吹く風とばかりに、日常のことを話しかけてきた。
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