(三百三十六)
日の本商会の意外な粘りに、武蔵の中にあせりが生まれはじめてきた。ひと月ではむりにしてもふた月もおまけ作戦をつづければ音を上げるだろうと高をくくった武蔵だった。しかし意に反して、富士商会と同様のおまけ作戦をとりはじめてきた。これは誤算だった。そこまでの資金力はなかろうと、踏んでいたのだ。念のためにと銀行からの借り入れをしていたことが、結果として功を奏した。やっと三ヶ月目で、決着がついたのだ。
しかしこの三ヶ月という期間が、新規取引にこじつけていた会社や個人商店から大ひんしゅくを買った。ひと月ならばと静観を決め込んでいたことが、ふた月目に入っても取引ができない。いやそれよりも、そのおまけ作戦の恩恵にあずかれないという不満が爆発した。
ふた月目にはいってようやく営業回りを再開したものの、「うちとの取引はしたくないんだね」と、イヤミを言われてしまう。もう武蔵が対処せざるをえないところまで来た。そしてセール終了とともに武蔵が全得意先まわりをすることとし、表面上は小夜子のお披露目ということにした。
久しぶりの武蔵とのお出かけにもかかわらず、きょうの小夜子は不きげんだった。どうにも気ずつなさが取れないでいた。いつもならば武蔵の腕にしがみつく小夜子が、ひとりでさっさと前をいく。
三歩下がって云々など、まるで気にもとめない小夜子だ。銀座を闊歩する多くの女性たちも、みな一様に視線をそそいだものだ。ひそひそと陰口をたたかれようとも、小夜子にとっては賛辞以外のなにものでもない。
「小夜子。どうしたんだ、小夜子。きょうはえらく不きげんじゃないか。会社で、なにか、あったのか? 専務にいや味でも言われたか? それとも、お腹でもいたいのか?」
からかい半分に声をかけた武蔵に、みけんにしわを寄せて小夜子が答えた。
「武蔵がゆっくり過ぎるのよ! 男でしょ、早足で歩きなさいよ!」
「おう、そいつは悪かった」。こいつはやぶ蛇だったと小夜子の歩に合わせる。武蔵のこころ遣いが温もりが、じんわりと小夜子を包みはじめる。小夜子の手をいつものように腕にとった武蔵が、小夜子の異変に気づいた。
「小夜子、少し熱があるんじゃないか? 医者を呼ぶか? ここのところ引っ張りまわし過ぎたからな。きょうはこのまま帰ろう」
小夜子自身も、たしかに熱っぽさを感じてはいる。しかし武蔵が言うほどにおお事ではない。えいっと気を入れればどこかに飛んでいきそうな、その程度の熱だ。このあと、武蔵とのお出かけがいつあるかも分からぬ小夜子には、すこしの疲れなど気にしていられない。
「武蔵は、あたしとのお出かけは嫌なの! それとも、お疲れなのかしら? 武蔵も、としをとったものね」
皮肉たっぷりに小夜子が言う。いつもの小夜子がもどったと感じる武蔵だが、そういえば……と気になることがないわけではない。このところの得意先回りに同行させてしまったことが、少し強行軍だったかと気になってきた。
(三百三十七)
「冗談言うな! 疲れなんかあるもんか! ひと晩寝れば、十分に回復してるさ。それに、ゆうべはたっぷりと、小夜子から力をもらったことだし。小夜子を抱くと、力がみなぎってくるんだ」
耳元でささやく武蔵に、顔を真っ赤にしてうつむきながら
「ばか! そんなこと。ひとに聞かれたら、どうするの」と反駁した。
「聞かれても構わんさ。大声で言ってやろうか? 恥ずかしがってどうする。新しい女は気にせんのじゃないか、そんなこと」
ぐっと小夜子を引きよせて、道路の真ん中に立ちどまった。けげんそうに、ふたりをかわして行き交う人人人。聞こえよがしに、「こんなところでいちゃつくんじゃねえよ」と捨てぜりふを残すものもいた。それでも武蔵は小夜子をしっかりと抱きしめて、まるで見せびらかすように小夜子のくちびるに何度もなんども己の口をかさねた。
「武蔵、どうしたの。みんな、びっくりしてるわよ」
「小夜子をだれかに取られんように、しっかりと捕まえているのさ。俺の大事なだいじな、小夜子をな」
「もう、武蔵ったら」
顔を赤らめつつも、口を尖らせる。嬉し恥ずかしの小夜子だった。
「ほんとにそう思うのなら、浮気をやめてよ! 出張先のあちこちで、どうせ浮気してるんでしょ?」
「おいおい、なにを言いだすんだよ。俺が浮気だ? 冗談だろう、俺にかぎって浮気なんて。小夜子。おまえ、世の妻帯者の三割ぐらいがしてるってこと、知らないだろう」
「なによ、その三割って。だったら、残り七割はしてないんでしょ? だったら、その七割に入ってよ。あたしのこと、一番大事なんでしょ?」と、納得しない。
「さあ、そこだ」と、武蔵が嵩にかかってくる。
「小夜子は、ぜいたくが好きだな。というより、小夜子にはぜいたくが良く似合う。貧乏くさい小夜子は、小夜子じゃない。そしてだ、毎日をニコニコ暮らすのも小夜子らしくない」
武蔵の言わんとすることが理解できない。誤魔化そうとしてる、そう思ってしまう小夜子だった。
「どういうことよ、それって。どうせあたしは、ぜいたく女よ。でも、どうしてニコニコ顔が似合わないの? いつも言ってくれてるじゃないの。あたしの笑顔がいちばんだって」
「もちろん、小夜子の笑顔はなにものにも代えがたい。百万ドルの笑顔だといってもいい。山本富士子だって、小夜子の笑顔には勝てんさ。けども、小夜子の不きげんな顔も、またいい。いや、その不きげんな顔があるからこそ、笑顔が生きる。分かるか?」
「なあに、それって。あたしのすべての表情がいいってことなの?」
「Yes , That‘s right! You winner!(そのとおり! あんたは、えらい!)」
両手をひろげて大声でさけぶ武蔵に、すれ違う通行人が皆がみな、おどろきの顔を見せる。そしてあわてて体をかわして行く。
「もう、武蔵ったら。恥ずかしいでしょ、そんな大声で。やめて、やめてったら」
武蔵に抱きかかえられて、身動きの出来ない小夜子。全身の力がぬけて宙に浮いている錯覚におそわれる。武蔵の愛情を一身に感じるときだ。
(三百三十八)
「世の妻帯者の三割が、十分な金を稼いでいるはずだ。そして家族にぜいたくをさせている。しかし俺のように、細君にたんまりの金をつかっている、つかわせている夫は一割にも満たんぞ。どうだ、残りの九割の中に入りたいのか?」
「そんなの、嫌!」
「だろう? 心配するな、俺は浮気なんぞしていない。もう昔みたいな、女遊びはしていない。そうだ、梅子に聞いてみろ」
映画館で観たチャップリンのように胸をそらせて言う。また、ごまかされた。でも、いいか。たしかに、香水の匂いをさせて帰ってくることはなくなったし。出張先でといっても、そんな時間もないでしょうし
疑念の気持ちは残るものの、これ以上追求したところでいいことはない。そう考えて矛を収めることにした。
「タケゾー!」
とつぜんに素っ頓狂な声を上げて、小夜子が立ち止まった。
「どうした? なにか、欲しいものを見つけたか? 約束だから、なんでも買ってやるぞ。小夜子のおかげで商売も順調なことだし」
「ここ、ここ、ここに入ってみたい。歌声喫茶、カチューシャですって。カチューシャって、ロシアよ。アーシアの国よ」
目をかがやかせて、武蔵の手を引っぱる。(昭和30年に、歌声喫茶「カチューシャ」と「灯」の二店が誕生した。店内のお客全員でうたうということが、連帯感を生まれさせてくれる。集団集職で上京してきた若ものたちにとって、さびしさを紛らわせる心のよりどころ的な存在になっていった)
「おいおい、勘弁してくれ。拷問だ、それは。ギリギリ、映画館までだ」と、真顔でいう。いつもの、弱ったぞ、ではない。
取り引き先のあちこちから引っぱりだこの小夜子は、夜の接待にもかりだされている。当初こそ、ビッグバンドの演奏が聞けると大喜びだった小夜子も、接待の何たるかを知るにつれて不きげんになっていった。しかし他の女子社員たちの目もあって、にこやかな対応をしなければならない。これまでのように、好き勝手はできない。朝の出勤時間も、次第しだいに早くなっていった。いまでは、武蔵と同時刻に出社する。
「無理するな、遅くてもかまわんぞ」と武蔵がいっても、
「いいの。みんなとわいわいおしゃべりするのが、楽しいから」と、小夜子の意思でしている。さすがに夜の接待の翌日は昼の出社としてはいるのだが、武蔵はふだんどおりに出社していく。
「ほんと、タフなのよね。それだけが、とりえかも?」
そんな小夜子だから、竹田のお守り役どきには精一杯の我がままを通す。武蔵からのお墨付きが出ているのをいいことに、五平の苦虫をつぶした顔をしりめにいそいそと出かけていく。
「竹田。俺が出張のときは、小夜子の面倒はお前がみてやってくれ。社用でないことにも、お前を使おうとするかもしれんが。いや、使うな。とにかく、小夜子を優先してくれ。専務には、俺からいっておく。どうにも、小夜子は専務とはうまが合わんようだからな。ま、よろしく頼むぞ」
(三百三十九)
「分かりました、小夜子奥さま優先でいきます」
当初こそ小夜子を独占していとうらやましがれたものだが、小夜子のわがままぶりをみるにつれ、社員たちのやきもちの視線はきえた。
「いいのよ、たまには。武蔵は出張でいないし、千勢には遅くなるからっていってあるから」
「ですが、小夜子奥さま。もう陽がかげっています。ご自宅に着くころには、それこそ……」
あわてて、小夜子を制止しようと必死になる竹田だが、そんなことをきく小夜子ではない。鼻であしらって、おわりだ。「いいのよ、竹田は帰っても」。それで終わりだ。むろん、そんなことで竹田が帰ってしまうことはないことは、小夜子にはよく分かっている。竹田にしても、社命とうことだけで従っているわけではない。小夜子には恩義がある。なんといっても、姉である勝子の恩人なのだ。
「なんのために生まれたの? 家族を苦しめるだけだなんて……」
「ただただ病気をせおってだけの、こんなつまらない人生なのね」
厭世主義にでもとらわれてしまったような愚痴を、毎日のようにもらしていた勝子に、華を与えてくれたのが小夜子なのだ。入院生活でベッドにしばられつづげる日々を送っている。毎日まいにちを、を窓の外から聞こえてくる子どもたちの歓声や華やいだ女子高生たちの会話に、そこに空想の己をおいて目を閉じる日々をすごしている。
雨の日。なんの喧噪もない、ただただ空虚ないちにちがある。筋のように空から落ちてくる雨に、おのれの身を重ねてしまう。
「なんの疑問ももたずに、空から落ちるだけなのね」
「屋根にあたればそのまま樋のなかに、また落ちこんでいくし」
だれに話しかけているわけではない。カネが傍らに座っていても、とめどなく話しつづけた。竹田がいるときは、「ひとりごとだから、返事はいらないから」と、いちいち「そうなんだ」と相づちを打つ竹田をうっとおしがった。
「地面にとどけばそれで終わりならいいのに、『ドロピチャだ』とみんなに疎まれて、さ」
「でも最期には、海にながれこむのよね。ほかのみんなといっしょに」
「あたしは、あたしは、だれといっしょになれるんだろう……」
最後には無常観にとらわれる勝子だった。
勝子だけでなく、自責の念にかられつづけていたカネだった。遊び感覚でかわした接吻を近所のおとなに見とがめられて、田舎を追いだされたふたりだった。ひと間の部屋に、生きていくためだけに同居をはじめたはずだった。
駆け落ちのふたりには、世間の風はつめたい。早々に仕事を見つけなければならないし、落ち着く居所も決めなけなければならない。手持ちの金員が底をつきかけたときに、「住み込み可。夫婦者も可」という張り紙を見つけることができた。
「身元引受人は……いないだろうねえ」。ふたりの姿を舐めまわすように、上から下まで見られた。縮こまりながら土下座せんばかりに腰をおるふたりに、「事情があるんだろうから」と、パチンコ店での仕事が見つかった。
(三百四十)
隣県でのはじめての、ふたりだけの生活だった。せまい通路を銀玉のはいった箱を持って動きまわる。「玉が出ねえぞ!」。客の声に弾かれたようにコマネズミになる。休憩らしい時間はない。客が途絶えたときが、やすめる。そして食事をかけこむ。
夕方から営業終了までの時間帯は、休む間もない。食事すらとれない。店が閉じられたあとには、銀玉みがきが待っている。就寝時間は、日付が変わってからになる。クタクタになった体は、それでもふたりを休ませようとはしない。体は疲れているが、アタの中に「チンジャラ、チンジャラ」という音が鳴りひびいている。休まなければ眠らなければ、明日の仕事がきつい。毎晩のように、ふたりして、浴びるように酒を飲む生活がはじまった。
なんで姉さんだけなんだ=Bカネのにたいして恨みに思うこともあった竹田だった。病弱な姉ゆえのことと分かってはいたが、なにかにつけて姉を優先するカネに不満がたまっていった。たまに届けられる隣家からのたったひとつのたまごが、姉の膳の上にのっている。
白いご飯のなかに、いや麦ごはんを主とした茶碗のなかに、こんもりとした黄色がある。どんなに竹田が欲してもまわってこないたまごがのっていた。下を向いてしょっぱい麦飯を口にしていた竹田の恨みごころが、その思いを抱いたことが、いまでも苦しめている。そんなふたりすらも救ってくれたのが、誰あろうこの小夜子なのだ。この方のためならなんでもできる、代わりに死ぬことだっていとわない=Bそんな思いでいる竹田だった。
小夜子にしても、武蔵のいない自宅にもどったところで、千勢をあいてに料理談義ぐらいがせきのやまなのだ。正直のところ、もう料理については興味が失せている。いや、おさんどんは千勢に、と決めてしまった。どころか家事全般をまかせる――というより、投げ出してしまった。なにをどうあがこうと、千勢には勝てぬと思いしらされた。
「勝ち負けじゃないぞ、気持ちだ、きもちだよ」。武蔵がいう。慰められた。そう思ってしまう小夜子で、ならばいっそそれには手を出さぬほうが、小夜子の精神状態にはいい。なまじ張り合おうとするから、また千勢を追い出したくなるのだ。武蔵にほめられるのは己だけでいい、いや、そうでなければならない、気が済まないのだ。
「お疲れじゃないですか? きょうはこのままお帰りになられた方が……」
「もう。竹田ったら、そればっかり。いいのよ、きょうは。そうだわ、竹田。お食事していきましょう。あたしのわがままに付き合わせてばかりだものね。お礼がわりの食事をしましょ。うーん、なにがいいかしら。タケゾーはお寿司専門みたいだから、お肉料理にしましょうね。お肉といえば、当然にビフテキよね。武蔵といつも行くお店があるのよ」
「でも、小夜子奥さま。ぼくはお腹もへっていませんし」
「なんなの! きょうにかぎってどうして逆らうの。タケゾーになにかいわれたの? そう、加藤専務ね。あの人、きらい。なにかと小言ばっかりいって」
すれ違う人びとが、ぺこぺこと頭を下げつづける竹田に蔑視の視線をむける。こびへつらうだけの竹田を感じ、そしてまた武蔵におもねるだけの竹田だと小夜子には見えてきた。
「いえ、とんでもないです。専務は、小夜子奥さまのお体のことをご心配されているだけです。普段がいろいろとお忙しくされているから、あまりあちこち歩きまわるなと」
「ほら、ごらんなさい。あたしが銀座やらにくるのが、嫌なのよ。どうしたって、お金を遣っちゃうからね。ほんと、けちん坊なんだから、加藤専務は。でもタケゾーは、遣っていいっていってくれるのよ」
(三百四十一)
結局は小夜子の意思にしたがわざるをえない竹田なのだが、きょうにかぎっては逆らってしまった。なぜかしら、陽の高いうちに送り届けねばならないと思えたのだ。なにかしらいつもの小夜子ではない気がしてしまうのだ。太陽の光にたいし「まぶしい」と過敏に反応してみたり、かるい腰痛をうったえてみたり、すこしのにおいに反応してみたりと、普段の小夜子からは考えられないことが多々感じられた。
「おかぜを召されたんじゃ?」。検温をすすめてみるが「病人あつかいしないで!」と叱られてしまった。
「太平洋戦争はね、体力勝負で負けよ」
「いえ、そんなことは。天子さまのおこころづかいで負けることにされましたが、さいごには大和魂で勝ったはずです。敗戦は、これいじょう民に犠牲をしいたくないからとの、天子さまのおぼしめしですから」
どうしてなのか、きょうは反論をしてしまう。武蔵には「言い返すなよ、だまって聞いていればいいんだ」と言われている。そして昨日まではそうしていた。だが、きょうに限っては、なにかしら胸騒ぎを感じるのだ。自宅に戻らないのであれば、せめてもどこかで休憩をと思ってしまう。
「竹田は、沖縄戦を知らないの? 勝負ありだったのに、大和魂なんて持ち出しちゃってさ。特攻機とか回天なんて、とんでもない兵器を開発して。だからアメリカも、とんでもないものを使ってくるのよ。原子爆弾やら水素爆弾やら。ていよく実験場にされちゃったのよ。男のくせにうじうじしちゃって。終戦の決断も、天子さまのご英断でしょ。それにね、アメリカ本土は無傷だったんでしょ?
どうせ特攻なんて無謀なことをするのなら、アメリカ本土をやっつけなきゃ。そうすれば、こっちの言い分が通ったはずよ。ほんと、日本の男たちって、だめね。格好ばっかりつけちゃって。負けるが勝ちなのよ。いろいろと条件を付けてさ、さっさと負ければ良かったのよ。負けるが勝ちよ、何年何十年かかろうと、最後に笑えば良いのよ」
立て板に水でことばがとぎれない。唖然とする竹田だった。婦女子が戦争のはなしをするなど、とうてい竹田には理解ができない。いや竹田だけにかぎらず、最大の理解者である武蔵にすら小夜子の思考がわからないときがある。小夜子について武蔵から聞かされてはいたが、当の本人からぽんぽんと飛び出してくる話は、竹田の想像の域をこえていた。
「小夜子は、突拍子もないことを考え付くぞ。とにかく目的のためには、手段をえらばん。男を屈服させるために、平塚らいてふやら与謝野晶子やらの書物を読破したんだからな。あの正三とか言う男が、その標的だったんだろう。気の弱いところが、小夜子の目に止まったんだろうな。御しやすいとな。本人にはそんな気はなかったのかもしれんが、そういう男を求めていたんだろうさ」
きょうの小夜子は、いつもの小夜子と少し違って感じてられる。なにかしら明日がもうないといった感じで、あれもこれもと欲張る観のある小夜子に思えた。
(三百四十二)
「小夜子奥さま。また次回のお出かけの折にでも、ということになさいませんか。社長も、きょうあたりお帰りかと」
「え? 帰ってくるの? 何時の汽車なの? 会社、それとも家に直帰かしら?」
竹田のことばをさえぎって、目をかがやかせる小夜子だ。
「申し訳ありません、お客さまとごいっしょだと聞いております」
「お客? いっしょ? どういうことなの?」
小夜子に矢継ぎ早に問い詰められて、しどろもどろに答える竹田だった。
「なんといいますか、接待のようなものでして」
「お客って、どうせ女でしょ? あたしを呼ばずに接待するということは。で、どういう素性の女なの?」
「温泉組合の理事さんです。とっくりやらさかずきやら陶器の取引きがありまして、その仲立ちのお礼をかねての」
「ふん。その理事が怪しいのよね。旅館でしょ、女将だわね。で、どこの温泉なの?」
「東北だと聞いておりますが」
「東北ですって? そんな所にまで女を作ったの? あきれた」
「いえ、ほんとうに取り引きがありまして。現にこのあいだも」
「いいの、いいのよ。武蔵が遊びだけで行くわけないもの。出張のついでの遊びなのか、遊ばんがための出張なのか、一体どっちでしょうねえ」
竹田のことばをさえぎっては、小夜子がたたみかけてくる。小夜子の勘――女の勘はするどい。もう竹田のごまかしはまったく効かない。
「小夜子奥さま、それはちょっと。社長は、ほんとうに仕事熱心です。誤解なさっています、小夜子奥さまは。よほどに遅くなられるとき以外は、かならず会社に戻られます。そして加藤専務に、留守中の事をことこまかにおたずねになっていらっしゃいますから」
「病気なのよね、もう。中毒症よ、もう。でもね、浮気するために働いてるのかもよ。ほら、あれよ。晩酌といっしょ。力いっぱい仕事してさ、汗をたっぷりと流してさ、お風呂にゆったりと浸って。それからいただく一杯のお酒。おいしいんですってね?」
「でも、小夜子奥さま。社長は、ほんとうに小夜子奥さまを大事に思ってみえます。ぼくが太鼓判をおします。あ、ぼくなんかのそれでは、屁のつっかい棒にもなりませんね」
ランプ亭というプレートが付いた、いちげんの客を拒否するがごとくに重々しい両開きのドアが、竹田の足を止めさせた。
「なにしてるの? はやく開けて」。たじろぐ竹田に小夜子が叱りつけるように言った。ドアの取っ手に手を入れたものの、鉄製のそれは、やはり竹田の侵入を拒否するかのように感じられた。おまえごときが入る場所ではないとでも言いたげに、少しの力ではびくともしない。
「もう、じれったいわね。こんな入り口で」と、きついことばが飛んできた。
「タケゾーはすぐにあけてくれたわよ」。竹田のこころに突きささる。
「申しわけありません、なれないものですから」。両手で取っ手をつかんで、やっと開けることができた。
(三百四十三)
「まあね。タケゾーも、浮気ぐせがなくなれば、ほんとに良い夫なんだけど。でも、タケゾーが浮気をやめたら、タケゾーじゃなくなる気もするしね。面白いのよ、タケゾーは。浮気したのかどうか、すぐに分かっちゃうの。笑っちゃうわ、ほんとに。自分からね、あたしは何も言わないのに、白状してるようなものなの。タケゾーには内緒よ。ククク、タケゾーったら、かならず言うの。『こんどの休みに、買い物に行かないか? 欲しいものはないか? 取り引きがな、うまく行ったんだ』なーんて。
ううーん、間違いないわ。だからね、こう考えることにしたの。武蔵の浮気は自分へのごほうびなんだ、って。大きな取り引きに成功したら、誰も褒めてくれないから、自分にごほうびを上げてるんだって。でも自分だけだと気がとがめるから、あたしにもごほうびをくれるんだって。おかしいでしょ? ほんとに」
小夜子が笑った。たしかに声を出して、笑った。しかしその笑顔からは、笑みは感じられない。ひきつった笑顔が、そこにあった。竹田には、少なくともそう見えた。
おさびしいんだ、小夜子奥さまは。だから社長の出張時には、こうして外出なさるんだ。お酒を飲んでの憂さばらしなどおできにならないから、大勢の人の輪のなかにはいって、ご自分を開放されているんだ
竹田のなかに、はじめて武蔵にたいする怒り――というほどではないが、あんなに大切に思っていられるのに……≠ニ、疑念の思いがわいた。そして自分を置きかえてみると、絶対に哀しい思いはさせないのにと断言した。
「あたしね、お金をどれだけ遣わせたかが、女の勲章だと思ってた。どれだけ着飾らさせてくれるかで、あたしに対する愛情の度合いを計ってきたような気がする。そういう意味では、タケゾーは十分よ。甲を付けてあげられるわね。でも、女は欲が深いものなの。それだけじゃ足りなくなっちゃった。こころのね、渇きがね……。そう、こころの渇きを潤すことも大事なのよ。勝子お姉さん、残念だったわ」
ため息まじりの小夜子のことばに嘘はない。それはかつての己を諫めることばであるとともに、これからの己にたいするいましめの気持ちでもあった。
「はあ……」
「いまのあなたには、分からないかもね」
「いえ、分かります」
「ふふふ、そう思ってるだけよ。竹田、彼女、いる?」
「と、とんでもない。そんな方は、いません」
唐突な小夜子のことばに、思わず語気をつよめて否定した。
「でしょ? だからよ。ビーフステーキが来たわ。さ、食べましょ」
(三百四十四)
ジュージューという音が、食欲をそそる。はじめて見るビーフステーキなるものに、竹田の視線がはずれない。
「これが、ビーフステーキなんですか? なんとも、醜悪な形ですね。色も、なんとも奇妙です。でも匂いがいいです。腹の虫が泣いてます」
「さ、召し上がれ。こうやってフォークでお肉を押さえて、ナイフで切るのよ。ほら、肉汁が凄いでしょ?」
「小夜子奥さま。赤いところがあります。これ、生焼けじゃないですか。けしからんな、こんなものを小夜子奥さまにおだしするなんて」
憤慨する竹田に、目を細めてこたえた。
「それがいいのよ、生の部分はわざと残してあるの」と言いつつも、きょうに限っては食欲がない。それ以上に、嘔吐感さえおぼえる。したたる血のせいかしら?≠ニ、武蔵の不在のせいだとは思いたくない小夜子だった。となりのテーブルで水をつぎ足している給仕に「お給仕さん。きょうはもう少し焼いていただける?」と告げた。
「かしこまりました」。皿を下げる様子に気付いた給仕長が、血相をかえて飛んできた。
「御手洗さまの奥さま、大変申し訳ございません。なにか粗相がございましたでしようか?」と、深々と頭を下げる。驚いたのは小夜子だ。なにごとかと、ほかの客たちの視線が、一斉に小夜子にそそがれた。
厨房から料理長もあらわれ、小夜子のひと言を不安げに待っている。
「ちがうのよ。なんだか今夜はね、ミディアムで食べたくなったの。あたしの、我がままなの。このお給仕さんは、なにも悪くないから」
「左様でございますか」。給仕長も、ほっと胸を撫で下ろしている。青ざめていた給仕の表情が、見るみる笑みを取りもどした。眉間にしわを寄せていた料理長の表情もゆるんだ。
「すぐに新しいお肉をご用意いたします」
「あら、これでいいじゃない。このお肉を焼いてちょうだいな」
「とんでもございません。二度焼きいたしますと、肉がかたくなってしまいます」
「でもあたくしのわがままだから……」という小夜子だったが、改めての調理となった。しかしミディアムに焼かれた肉も、小夜子が食することはなかった。
「竹田、食べてくれる?」と、竹田に差し出された。
「小夜子奥さま。どこか、具合でもお悪いのでは?」
小食ではあるが、なにも食べないということはない小夜子だ。たくさんの種類を並べて、少しずつ箸をつけるのが小夜子の常なのだ。
「大丈夫よ。このあと、キャバレーに行くわよ。ビッグバンドを楽しみたい気分だわ、今夜は」
「こんやは、お帰りになられてはいかがですか。またという日もありますし。すこしお顔の色がお悪いように見えます。社長に叱られます、これでは」
(三百四十五)
「大丈夫だって! 梅子姉さんに聞いてもらいたいことがあるの、今夜は。それで、すこし武蔵を叱ってもらいたいの。もう少し浮気を控えろってね。出張のたびに浮気をするんじゃ、ない! ってね。」
「ですから、今回の出張ではそのようなことは」
「今夜はなくても、昨夜にはあったの。それとも、明日かしらね? まあねえ、タケゾーに浮気をするな、というのも無理な話だしさ。そんなことをさせたら、タケゾーはタケゾーでなくなっちゃうのよねえ。元気のないタケゾーはきらい! でもねえ、妻としてはねえ、いつもいつも、ねえ」
なんど否定しても頑として受け付けない。決めつけている小夜子では、竹田がなにを言おうと矛を収めるはずもない。それは分かっているのだが、竹田にしてみれば、つねに小夜子第一としているタケゾーの浮気ぐせは、どうしても理解できない。
竹田の知る浮気というものは、たいていが夫人に難があり不満をいだいた夫がする女遊びだった。そして周囲のはなしから、やむをえないことと思ってしまう事柄ばかりだった。しかしこと小夜子に関しては、たしかにわがままなところはある。短気な性格であることも知っている。竹田自身が身をもって体験している。
しかしそれとてその因をただせば、竹田の気遣い不足なことが多い。それを正せば、すぐに機嫌を直すし、「ありがとう」のことばがかけられる。世間一般と比較すれば、妻としては失格と評されるかもしれない。
おさんどんはしない――しかしそれとて裕福なお屋敷では当たり前のことであり、千勢というお手伝いがいることでもある――し、端からみれば浪費ぐせのある女ということになる。そしていちばんの悪評は、「新しい女性」だと言い放つその傲慢さだ。しかしそれは、ある意味小夜子の女性としての魅力ととらえることもできるし、なにより武蔵がそのことに対してなんの不満もいだいていない。
どころか、それを後押ししているきらいもみえる。むろん、武蔵の本音はわからない。ご機嫌取りとしてのことかもしれない。そんなふうにも感じる竹田だが、やはり武蔵は、小夜子第一なのだと確信している。
「おかしいなあ、こんやは。お酒を飲まれたわけでもないのに、どうもお顔の色はすぐれないし、ふらつきもみえるし」
竹田のひとりごとに小夜子が珍しく反応した。普段ならば聞こえていないかのごとくに知らぬ顔を決める小夜子なのだ。己の興味のないことにはなにもこたえないし、新たなはなしにすぐに移ってしまう。
「そうね。すこし、酔ってるかもね。となりの席のウィスキーに酔ったのかもね。素敵なご夫婦だったじゃない? 一年にいちどの結婚記念日、しかも銀婚式だって。奮発しての、お食事だっておっしゃってたわ。うらやましいわね、ほんとに。竹田! あたし、タケゾーと銀婚式ができるかしらね? その前に、別れてるかもね」と、竹田にたいしてはじめて泣き言らしき物言いをする小夜子だった。
「さ、行くわよ。梅子姉さんのお店に、Let‘s Go!」
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