(三百二十七)

「百貨店にたてついた男」として、富士商会の名とともに御手洗武蔵の名が全国に知れわたった。賞賛の声もありはしたが、売名行為と受け取られた面が多々あった。出かけた先々でのコソコソ話が、武蔵の勘にさわることも多かった。
「俺の目を見て、言えねえのか!」と、怒鳴りつけたこともある。
「余所者に冷たいんだな!」と、吐き捨てたこともある。しかし思いもかけぬ吉事となったこともある。
「成り上がり者が!」と、なかば公然と軽蔑の眼差しを向けていた老舗の店主たちが、こぞって富士商会へと足をはこびはじめた。取り引き云々ではなく、富士商会の七人の女侍たちを観るためではあったが。といって手ぶらで帰るわけにもいかず、なにがしかの商品を手にして帰っていった。そしてその内の大半は以後も取り引きがつづいた。
 富士商会の七人の女侍たち、という風評はこんなことだった。女城主である小夜子を先頭に、女侍たちがキラキラ輝きはじめた。「映画スターかと思えるほどの美人が居るって話だ」とくすぶっていた噂が、ある事をきっかけに、一気にひろまった。
 どしゃ降りとなったある日の午後だ。
「ごめんよう、雨やどりをさせてもらうよ」と、四十代半ばの背丈が五尺ほどの小男が、びしょ濡れ状態でころがりこんできた。そしてその男、こともあろうに、お客用のソファにどっかりと腰をおろした。ソファは水に濡れ、床もまた水浸しになっていく。雨やどりと言うならば、少しは遠慮して軒先に立つぐらいが当たり前のことだ。
 取り引き先ならばまだ分からぬでもないが、その男、誰も見たことがない。しかも悠然とタバコを取り出し、灰皿を要求してきた。
「姉ちゃん。モクを出したんだ、灰皿を用意するのが当たり前だろうが。気がきかねえ店だぜ、まったく」
「あのお……。失礼ですが、どちらさまでしょうか?」
 恐るおそる尋ねる。取り引き先の人間なのか、あるいはこれから取り引きをと考えている業者なのか。困惑の中、真意をさぐった。
しかし男は、悪びれる風もなく声を荒げた。
「はじめに言ったろうが! 雨やどりだよ、雨やどり!」
 深く吸い込んだ煙を、店中に向かって吐き出した。明らかになんらかの意図を持ってのことと、みなが考えた。
「なあに、あの言い草は。失礼な男ね」
「雨やどりなら、軒先と相場が決まってるでしょ」
「そうよ。なんで、店の中に入るの?」
「見てよ、ソファ。それに、床も。水浸しじゃない?」
 奥で事務員たちが囁きあう。声をひそめての小声であるのに、とつぜん男が立ち上がって怒鳴りつけた。
「なんだ、なんだ! この店じゃ、雨やどりのひとつもさせないのか! 困ってる人間に、この仕打ちかよ!」

(三百二十八)

 きょうは〆後の、月はじめだ。どっと注文が殺到して、あいにく男たちはみな、出払っている。普段はいるはずの五平やら竹田ですら、配達へとかりだされていた。ひとり居るにはいるが、齢六十を過ぎた老人だ。しかも激しくふり出した雨のため、裏の倉庫内での作業に精を出している。余ほどの大声でも、この雨音では聞こえるはずもない。
「どうしたの?」。二階から小夜子が声をかける。手すりから体半分を乗り出して、階下の様子をのぞきこむ。「おう! あんたが、女主人かい?」。待ってましたとばかりに、男がどなる。
「あんたんとこは、困ってる人間にたいして、まるで情というものがないんだねえ! 世間さまのひょうばんどおりだぜ」
 なかば禿げ上がった頭が、ぴかりと光る。凄みのある目つきで、階上の小夜子を睨みつけた。いまにもその二階へ上がらんかとするような動きに、京子が飛び出した。
「松枝! 警察に電話して! 捜査二課の、神田の旦那にすぐ来て欲しいってね」
 男の行く手を阻むがごとくに、大きく手を広げている。
「お姫さまに、なんの用だい。いま、警察が来るからね。どんな魂胆があるのか知らないけれど、お姫さまには指一本触れさせないよ!」
「そうよ、そうよ!帰んなさいよ!」
「足元の明るい内に、帰んな!」
 つい先日に観た映画の決めセリフを言った者もいた。
「いや、おれは、べつに。ただ雨やどりを、させて……」
 思いも寄らぬ京子の反撃に、男がたじろぎはじめた。女ばかりの日があるんだよ、と耳打ちされてのことだった。ひと言大声を出せばそれで終わると考えていた男にとって、大柄な京子は計算違いだった。
「警察ですか? ええっと、二、二課の田山さんをお願いします」
 ひときわ大きな声だ。と同時に、男が外へ駆けだした。とたんに「うわあぁ!」と、大きな歓声が上がった。その声に潰されるように、男の前に立ちはだかった京子がへなへなとその場にへたり込んだ。
「大丈夫? 京子さん。立派だったわ、ほんとに」
 階段を駆けおりた小夜子が、声をかける。他のみなも、口々に褒めそやした。
「すごい! 男顔負けの、大活躍よ」
「ほんと。京子さんが立たなかったら、あたしが行ってたけどね」
「この人なんか、ハサミをにぎりしめてたのよ」
「京子さんが行ってくれたからよ」
 そのひと言に、みなが大きくと頷いた。第一の功労は、京子に違いなかった。
「京子マサ、頑張ったわね。体が大きいくせに気の小さい京子が、よくぞ立ち上がったわ。立派よ、りっぱ!」
 古参の徳子が、最後の締めをした。
「だけど、社長の予言? 当たったじゃない。まさかホントになるとはね。男連がいなかったのは、想定外だったけどね」
「だめだめ。うちの男どもは、てんで意気地がないんだから」
「うちだけじゃないわよ、どこもよ」
 張り詰めていた空気が一気にやわらぎ、軟弱な男がふえたと、男談義がはじまった。
「なんかね。リーゼントとかいう、ポマードを塗りたくってにわとりのトサカみたいな髪型がはやってるじゃない?」
「かっこ付けよ、不良のね。あいつら群れてないと怖いのよ。弟なんて、あたしにはからっきしなくせに、仲間がいるといばりだすの」
「そうよね、社長と加藤専務ぐらいじゃない、頼りになるのは」
「それはそうと、神田さんって誰なの? まさかほんとに、警察に知り合いが居るの?」
「居るわけないですよ。あんなの、デマカセです。なんて言いました、あたし? 神田って言ったんですか?」
「あの男が気付かなかったから良かったけど、電話口に出してといったのは、田山さんだったよね? 危なかったわね」
「そんなことないですよ、神田さんだろうと田山さんだろうと、警察に知り合いが居るってことが大事なんです!」
 一番の新入りが頬を膨らませて、抗議した。
 
(三百二十九)

「そうそう、結果オーライよ。最悪でも警察に繋がってれば、なんとかなるでしょうし」
「ええっ! かけてませんよ、あたし。受話器を持ってただけで」
 ところがそれからすぐに、交番勤務の警官が駆けつけた。
「どうしました、大丈夫ですか?」。通りがかった通行人が連絡した。評判の美人をおがめるぞとばかりに、どしゃ降りの雨もなんのそのと駆けつけてきたというわけだ。そしてこの顛末を、この警官が面白おかしく吹聴してまわった。
 町内の旦那衆が、物見遊山でやってくる。商売に関わることでもないのだが、無碍な対応をするわけにもいかない。たちまち、応接室が町内会の会合の場と化してしまった。
「ほお、あんたかい? 暴漢をやっつけたというのは」
「大立ち回りだったそうだね。投げ飛ばしたんだとか?」
 入れ替わり立ち替わり、声をかけていく。
「男たちは、ビビって奥に引っ込んだそうじゃないか!」
「まったく、なげかわしいことだよ。特攻で死んだ英霊に、恥ずかしいこった」
 そしてその旦那衆の交友範囲は広い。その中に富士商会をこころよく思っていなかった老舗連も、多々いた。そして七人の女侍たちの快挙が話題となって、さらには小夜子の美貌見たさの富士商会詣でがはじまった。
 月も半ばになって、荷の動きも落ち着いてきたことから
「どうだ、みんな。今夜、ご馳走をしてやりたいんだがな」と、女侍たちに武蔵から声がかかった。
「みんなのおかげで、新規の客がどっと増えた。しかも、老舗の店ばかりだ。『成り上がりが!』とケチをつけてた所ばかりだ。これで富士商会の株も上がるってもんだ。なあ、みんな」
「社長! ご馳走も嬉しいんですけど、お給料が上がる方が、もっと嬉しいです」
 立役者の京子が、みなの代弁者となった。
「そうね、そうよね。男子社員は、査定基準がはっきりしているけど、あたしたち女子社員は、目に見える貢献度がないものね」
「賛成、大賛成! お給料、上げてくださーい!」
 男子社員たちはおずおずと話をする。しかし女子社員たちはストレートだ。しかも今回の新規客は、女子社員たちだけの功績だ。理屈がとおっている。
「うーん、そうか。そうだな、確かに。事務の仕事を、すこし軽く考えていたキライがあるな。よし分かった。専務とも相談して、なにがしかのことはしよう。それじや、ご馳走はなしだな」
「ええ! だめですよ、社長。それとこれとは話が別です。明日のお昼、仕出しお弁当を出してください。松屋というお店の天丼を食べたいです、あたし」
 こうなると遠慮会釈なしだ。店屋物でも高価な丼の名前が飛びかう。
「さんせえー! あたしも、天丼食べたーい、です。」
「あたしは、カツ丼とかいうのを」
「分かった、分かった。それじゃ明日の昼、出前を取れ。各自好きなものを食べたらいいさ」
「はーい、ありがとうございまーす」
「もうひとつ、でーす。お姫さまもご一緒、いいですよね? お昼まえのご出勤をお願いしてください」
「そうそう。ご一緒して『新しい女』のこと、お聞きしたいわ」
 注文がふえてくる。七人の女侍というフレーズが気に入ったらしく、六人では締まりがないもんね、という声もあがった。
「なんだ? お前たちも『新しい女』になりたいのか? やめとけ、やめとけ。世間の風当たりがきついぞ。お前たちに、耐えられるか? まあいいさ。聞きたきゃ聞けばいい。しかしここだけの話、男からすると困ったもんさ。『女房の尻に敷かれた情けない男』と陰口を叩かれるからな。ま、お手柔らかに頼むぞ」

(三百三十)

 それ以来、積極的に動きまわる小夜子だった。
武蔵のエスコートよろしく、仕入れ関係の取り引き先を中心に丹念に訪れた。はじめのうちこそ気恥ずかしさにうつむきかげんな小夜子だったが、三社目あたりになると堂々としたものだった。しっかりと正面を見つめて、相手のあいさつを待つ余裕さえ見せた。
 武蔵が相手に頭を下げても、相手が「おすわりください」と手を差し出すまでは、傲慢とでもいうべき態度をとりつづけた。「華族のご出身なのか?」などという話が飛びかうほどだった。それについて、武蔵が肯定も否定もしないものだから、信憑性が高まるばかりだった。
 仕入れ関係の訪問に偏る小夜子の動向に、営業から不平不満が出はじめた。
「販売先には、社長、連れていってくれないのか?」
「やいのやいのって、せっつかれてるんだよな」
「連れてくるまで、取り引き停止だ。冗談かどうか分かんないような口ぶりだし。言って欲しくないんだな」
「竹田さん、お願いしてくださいよ」
 顔を合わせるたびにせがまれる。「他力本願でどうするんだ」。しかし彼らの気持ちが分からぬでもなかった。たしかに小夜子が訪問したあとの仕入れはスムーズな対応が待っている。いままでなら渋られた納期交渉も、価格交渉にいたっても、たしかに対応がちがってきた。
「お姫さまによろしくお伝えください。いつでも大歓迎ですから」と、暗に「立ち寄ってくれ」と言わんばかりのことばが終わりに付いた。
 月いちの社長訓示が、はじまった。
「商売をするに当たって、得意先は大事だ。しかし、より大切にしなくちゃいかんのは、仕入先との関係だ。良いものが回ってくるように、日ごろから良好な関係を保たなくちゃな」
 武蔵の持論が、改めて社員全員に披露された。
「いいか! 肝に銘じておけよ。会社で一番偉いのは、誰だ? もちろん、俺だ。社長たる、俺だ! しかし、その社長に頭を下げさせる奴がいる。そう! 誰あろう、お姫さまだ。このお方には、俺もかなわん。ひとたび、泣かれてみろ。それはもう、この世の終わりかと思えるほどだぞ。大声じゃないんだ、しくしくでもない。じっと、恨めしげに見られるんだ。で、負けてしまう。笑顔欲しさにな」
 ひとしきり笑いを取ったあと、顔をぐっと引き締めて言う。
「冗談はこのくらいにしてだ。会社の花形は、営業だ。こいつらが注文を取ってこないと、会社は成り立たん。しかしだ、仕入れも大切なんだ。品物が潤沢に入ってこなければ、売るに売れない。それにだ、納めた商品の中に粗悪品でも入ってろ、大変なことになる。だから、加藤専務が必死の思いで頑張っているんだ。日の本商会を思い出せ。粗悪品が混じっていたというだけで、あっという間だ。ことほどさように、恐いんだ」
 社員の間にざわめきが起こった。
「あれはひどかった、ほんとに」。「新聞で、叩かれたよな。『安かろう、悪かろう』って」。「あっという間だったよ、じっさい」。「あれって、社長の画策だって噂があるだろ。違うよな?」

(三百三十一)

「小夜子をかつぎ出すのは、相手の心証を良くするためだ。男というのは、とにかく美人に弱い。しかも小夜子は、弁が立つ。そこらの男なんか、簡単に言いくるめられる。白いものを黒いとは言いくるめられんが、灰色だったら言いくるめちまう。俺も舌を巻くほどだ。ま、それはそれとしてだ。もうひとつ、大事なことがある。
 配達に専念している者たちだ。力仕事だけの男だと考えているかもしれんが、とんでもない間違いだ。服部たち営業は、増岡たち配達専門の人間にもっと感謝の念を持て。いいか、このことに気付いているのがひとりいる。誰か、分かるか? そう、竹田だ。理屈ではなく、直感的にだ」
 一斉に、竹田に視線が集まった。しかし当の竹田は、ただ戸惑うだけだ。武蔵が言うように、意識をしていないのだ。配達の人間が笑顔で配達ができるようにと、気遣っているだけなのだ。
「第二の営業なんだよ、配達人は。増岡、お前たちは、とても大事な役目を帯びている。倉庫番に、高齢の倉田さんを置いているのはなぜだと思う? 体力的には、若い者には勝てん。荷の出し入れも、正直おぼつかん。そういった意味で、みなに不満があるかもしれん。しかし良く考えてみろ。配達の指示書を受け取ったら、どうしてる? 倉田さんに見せてるだろうが。そして棚の番号を書き込んでもらってるな? そしてそこに行けば、かならずお前たちの品物が置いてある」
 一旦はなしを止めて、ぐるりと見まわした。武蔵のことばを一言一句聞き逃すまいと、視線があつまる。
「もう分かるな? 各自が、それぞれに探すとしたらどうだ? あんなに簡単に出せるか? 間違いのない品物だと安心できるか? 配達の重要さは、その正確さだ。届けに行って、間違えましたで済むか? 二度手間だけじゃない、相手も待たなくちゃいかん。時間はどうだ? あんなに簡単にそろえられるか? 約束の時間に遅れたら、苦情の電話が鳴り響くぞ。怒鳴られるだろうな、増岡たちも。嫌なもんだ、怒られるのは。ニコニコと接することなんか、できやしない」
 全員がなるほどと頷いている。おのれの存在意義を分かってくれるという思いが、武蔵のことばが、倉田の胸にジンと染みこみ暖かくなってくる。
「愚痴のこぼしあいに、一杯やりました。で、夕べ、飲み過ぎました。二日酔いです、今朝は。それで投げやりな態度やら表情を見せたら、相手はどう思う? 品物をぞんざいに扱われたら、相手はどう思う? 第二の営業だというのは、そういうことだ。相手に好感を持ってもらえるように、配達人も努力しているということだ。そして竹田が毎日のように増岡たちと談笑していることが、どうなのかということだ」
 互いに顔を見合わせながら、増岡をはじめとする配達人たちが、再度頷きあう。
「そうだよ、出掛けには『気をつけて』だし、帰ると『ごくろうさん』だし」
「それに、差し入れもしてくれるじゃないか」
「寒い日には、火鉢も用意してくれたし」
 
(三百三十二)

 互いに顔を見合わせながら、増岡をはじめとする配達人たちが、再度頷きあう。
「そうだよ、出掛けには『気をつけて』だし、帰ると『ごくろうさん』だし」
「それに、差し入れもしてくれるじゃないか」
「寒い日には、火鉢も用意してくれたし」
 口ぐちに竹田への感謝のことばがつづいた。とつぜんに、服部の声が食堂にひびいた。
「増岡! いつもありがとうな。俺たちが気持ちよくお客の店に入っていけるのは、おまえたちの頑張りのおかげだよな」
 そして期せずして、営業そして事務職から拍手がなりひびいた。
「最後にだ、事務の女性陣。きみたちが、もっとも重要なんだ。電話の応対をかんがえてみろ。不愛想な応対をされたとしたら……。おお、考えただけでも寒気がする。出張時にな、たまにあるぞ。宿をとるときは、俺はいつも予約なしの飛びこみだ、いつもな。『生憎ですが……』と、玄関先でひざをついて女将直じきに言われてみろ、今度は泊めてもらいますよと思ってしまう。
 逆にだ、立ったままの仲居に『生憎です』と言われてみろ。二度と来るか! となる。またな、電話で問い合わせたときにだ、ブスッとした声で『空いてますよ』と言われてだ、『はい、ありがとう』なんて言わんぞ。誰が泊まるか! となる。な、上客をひとり逃してしまう。いくら美人でも、愛想の悪い女はごめんだ。
 ま、馴染みにでもなれば別だがな。こいつ拗ねやがって、なんて可愛く見えんでもないがな。なあ、服部。お前は身におぼえがありそうだな。待てまて、お姫さまはいないよな。こら、女性陣。いまのは冗談だからな。くれぐれも言うなよ。姫さまには。
 いかんいかん、また脱線した。つまりだ、事務の女性陣の応対が、会社のすべてということだ。幸いにして、うちには七人の女侍がいる。大評判だ、感謝しているぞ。事ほどさようにだ、会社は全員で構成されている。俺ひとりぐらい、あたしひとりぐらいなんて考えるな! 俺ひとりだけでも、あたしひとりだけでもと考えてほしい。
良い言葉がある。そいつを最後に訓示を終わる。
知恵のある者は、知恵を出せ。
知恵のない者は、汗を出せ。
汗を出せない者は、立ち去れ。
以上だ」
 まだまだ粗悪品が混じりこんでしまうことがあるいま、メーカー側の恣意的な混入を嫌う武蔵だ。なんとしても、それは阻止しなくてはならぬ。価格決定権を死守したいメーカーサイドにとって、富士商会のように力のついてきた卸問屋は、ある意味脅威になってくる。
 
(三百三十三)

 小売側とのあつれきにおいて富士商会に味方したメーカーではあったが、これ以上の富士商会の勢力増大はのぞまない。そんな中で、担当者やその上司との個人的な友好関係をたもとうとするのが、武蔵の戦略だった。
 そしてその中で、重要な役割を果たすのが小夜子だった。七人の女侍たちの女主人として世間の認知を得たいま、その小夜子に会いたいという思いは男たちの共通のものだった。そこで、小夜子同伴のあいさつ回りをする。しかも夜の接待ともなると、小躍りの男たちばかりだ。
「社長。お酌なんぞ、してもらえますか? 社内で、総スカンを喰らうかもしれませんがな」と、上機嫌だ。接待嫌いという噂の課長だったが、当初はしぶっていたものの小夜子同伴と告げたとたんのことばだった。
「課長。あんまり期待せんでくださいよ。とにかく、あの鼻っ柱の強さですから。自分は『新しい女だ』と吹聴してまわる女ですから、なかなかに御しがたいですわ。その代わりと言ってはなんですが、お気に入りの女がいましたら、教えてください」
「えっ? そんな、わたしは、愛妻家で通っておりますから。大体が、夜の接待なんぞ断る性質でして。明日はたまたま、家内が里帰りするんです。いや、べつに変な意味で言ったのではなくてですな。酔って帰っても、心配する者がいないということで……」
 愛妻家、いや恐妻家として評判の男だ。武蔵にとっては格好の相手だ。ただ、接待から逃げまわられては手の打ちようがない。武蔵の池に入らせなくては、いかに釣り上手の武蔵であってもいかんともしがたい。
「まあまあ、良いじゃないですか。単なる息抜きですから。課長も、色々とご苦労が多いことでしょう? 部長あたりに、言われてるんじゃないですか? 『富士商会を、調子付かせるな』なんて。分かってますって、分かってます。課長がね、いろいろと骨を折ってくださっていることは。だから、感謝の気持ちです。ね、あたしなんか、大きい声じゃ言えませんが」
 しどろもどろになっている課長の肩を抱いて、小声で話す。
「接待なんて気はないんですよ、正直のところは。戦友といち夜を共にしたいんですわ。いやいや、その気はありませんよ。あたしだって女ひとすじですよ、あたしだってね。途中で女としけこみましょうや。どこかの旅館でですな、課長の人生観をお聞きしたいのですよ。そしてね、そのあとで、ちょっと自分に対するご褒美を、ね」
「はあはあ、自分にたいする褒美ですか? なるほど、なるほど」
「というところで、課長。明日の夜あたり、いかがです? なにか、予定でもありますか?」
「明日、ですか? うん、大丈夫です」。手帳をパラパラとめくりながら、頷いた。
あんたの方からサインが出たんだぜ。奥さん、里帰りするんだろうが。まったく手間暇かけさせる男だ

(三百三十四)

 小夜子にとって久々のキャバレーは、懐かしいものだった。知己の女給たちもそのまま残っていた。とくに梅子との再会が、小夜子にとってなによりだった。
「小夜子ちゃん、久しぶりね。何年になるかしら?」
「姉さんたち。そんなに経ってませんよ、まだ」
 かつては憎々しげに思っていた女給たちが、なつかしげに小夜子を取りかこんだ。
「どう、元気してる? というのは、ぐもんかしらね」
「ぐもんも、ぐもんよ。飛ぶ鳥を落とす勢いの富士商会の社長夫人なんだからさ」
「お陰さまで。姉さんたちこそ、お元気そうでなによりです」
 記憶から消し去りたい黒歴史ではあるものの、その一方で懐かしさが消えない場所でもある。憎たらしいという感情を抱いた女給もいたけれども、今となっては、武蔵がしょっちゅうに口にする戦友ともいえる女給たちもいる。といより、全員にたいしてそう思える小夜子だった。
「元気はいいんだけどさ。そろそろ、とうが立ってきたからね。
早いところ誰か見つけて、家庭に入らなくちゃね。あんたもよ、鼻で笑ってなんかいるけどさ」
「あらあら、おあいにくさま。あたしはね、そうね、一年のうちにはお店を持てそうなの」
 キャバレーからの卒業とは、一般企業と同じく寿退店であり、そしてもうひとつが店を持つことだった。半数がパトロンを持ってのことであり、そして自前でのことだった。しかしここのところの不景気で、辞めるに辞められないといった女給が増えていた。「とうが立ってきた」というのは、切実な自虐のことばだった。
「えっ! ちょっと、うそでしょ? 誰、だれ、パトロンは?」
「失礼ねえ。自前と、銀行からの借り入れよ」
「それこそ、嘘でしょ? 銀行があたしたちなんか、相手にしてくれるはずもないでしょ。ちょっと、待って。まさかあなた……」
「ふふ、そうよ。あの信用金庫の堅物さんよ。でもね、体はゆるしてないわよ。貯金、貯金よ。一念発起で、貯めたのよ。でね、この調子で行けば、一年以内には目標額に達しそうなの」
 ひとつのボックスには、大体三、四人が客を座らせる。そして以前ならば、受給はふたりが限度だった。しかしいまは、女給の方がお客よりも多い状態がままある。なので、客の数よりも多いときがある。小夜子のボックスがまさにその状態になっている。三人の客にたいして、常時五人が座っている。
「やるわねえ。ねえ。あたしもさ、これから貯金するからさ、仲間に入れてよ。あなたのお店で、使ってよ。ここもいつまでも居られるわけでもないしさ」
 女給たちの話に花が咲く。小夜子が相手では気を遣う必要がない。思いっきり内輪の話ができるのだ。小夜子にしても気をはる必要がない。ここが始まりであり、ここで終わりを迎えたのだ。はっきりとした目標があったわけではない。田舎でくすぶることに反発心があってのことだった。官僚になるべくこの地に出向く正平という男を知り、ほのかな恋ごころが芽生えた。
「あなたを妻にむかえたい」。それが真剣な思いであることは、すぐに小夜子にも分かった。両親の反対を押し切ってでも「あなたを妻にむかえたい」と、何度もなんども口にした。信じたわけではない。父親の意向にさからってまで?=Bそんな思いが消えることはなかった。しかし、「家を捨てでも」と、正三は口にした。そのことばにうそは感じられなかった。
 信じてみよう、そんな思いが生まれはじめたとき、アナスターシアというモデルが現れた。小夜子の人生を変えてくれる、みじめだった過去を消し去り、華やかな未来を与えてくれる、アナスターシアというモデルと出会った。そして突然の死をむかえ、絶望のふちにいた小夜子に、武蔵という男が現れた。その始まりがこのキャバレーであり、少女としての小夜子の終わりもまたこのキャバレーだったのだ。
「こらこら。お客さんを放っぽらかして、なんだい! 同窓会じゃないんだよ、この場は。いくさ場なんだよ、この席は。ほら、あんたたちはこの席じゃないだろうに。ほら、ひばり、富士子。あんたらも、課長さんのお相手をして。さとみひとりに任せて、なんだい!」
 テキパキと梅子が、女給たちを差配する。久しぶりに見る小夜子には、キラキラと輝いて見えた。梅子姉さんは、名指揮者ね。大勢の女給さんたちを、いちどきに差配しいるのよね=B梅子の一挙手一投足を、じっと小夜子が見つめた。せわしなく体を動かして、店全体に目を光らせる梅子だった。そしてそのくせ、いまいる席での会話もキチンと受け答えをしている。
 
(三百三十五)

そうよ、そうよ、きっとよ! 梅子さんが、きっと新しい女なのよ。男に頼ることなく、男に媚びることなく、しっかりとやるべきことをやってらっしゃるもの。あたしみたいな、ポッと田舎から出てきた小娘にも、キチンと気遣いしていただけたし。見習わなくちゃ、あたしも。お姫さまなんてたてまつられて、いい気になってる場合じゃないわよ
「小夜子、小夜子。どうした、ボーっとして。気分でもわるいのか? 久しぶりのキャバレーは、体に良くないか? 空気がわるいからな」
 心配げに武蔵が小夜子をのぞき込んでくる。たしかに過去を思い返して、小夜子のこころは現在から離れていた。
「気分がわるいですって! とんでもないわ。いま、あたし、猛烈に感動しているんだから」
「そうか、感動しているか。それじゃ感動している中、悪いんだがな。課長さんに、ビールを注いでくれないか。小夜子が注ぐビールは格別だ、なんて口を滑らせてしまったんでな」
 武蔵に耳元でささやかれ、くすぐったさをこらえ切れない小夜子だ。吹き出しながら、「いやあよ、そんなの。あたし、お酌なんてしたことはないでしょ。武蔵だって、いつも手酌じゃないの」と、つっぱねる。
「すまん、すまん。つい見栄を張っちまってな。たのむよ、小夜子。大事な取り引き先の課長なんだよ。ご機嫌をな、取っておきたいんだよ。その代わり、小夜子のたのみを聞いてやるから」
 手を合わせて拝みかねない風の武蔵に、「どうしてもして欲しいの? しないと、会社に良くないの?」と、いたずらっぽく尋ねてみる。
「ああ、どうしてもだ」
 これ以上武蔵を困らせるわけにもいかないと、精一杯の笑顔を作りながら
「上手じゃないので、ごめんなさい」と、女給のさとみとふざけあっている課長のコップにビールを注いだ。
「おお、こりゃ感激だ。女優のような奥さんにお酌をして頂けるとは。ハハハ、男冥利につきますなあ」と、破顔一笑になった。
「もう、いけすかんタコ!」と、隣のさとみが課長の太ももをつねった。
「痛っ!」。「あっ!」。さとみの故意か、それとも不慣れな小夜子のぎこちない酌ゆえか、コップから溢れたビールが課長のズボンを襲った。
「だめ! あたし、悪くないわよ。課長が急に動いたからよ。やっぱり、慣れないことはするものじゃないわ。タケゾーにもしてあげてないことだもの」
 謝罪のまえに、自己弁護をはかる小夜子。苦笑しつつ、武蔵があやまった。
「課長、申し訳ない。小夜子の言うとおりです、なれないことはやらせるものじゃないですわ」
「ごめんなさいね、課長。あたしがいたずらをしたばっかりに。小夜子さんも、ごめんね」
 こぼれたビールを拭きとりながらも、さとみの目は笑っている。
「さとみ、中まで濡れたみたいだよ。面倒見てやんな」
 武蔵に耳打ちされた梅子が、声をかけた。
「はーい。じゃ、課長おいで」と、道行きよろしく手を取った。
「ごめんよ、社長。さとみが不都合をやらかしたのかい?」
 事情が分からぬまま、武蔵の頼みでさとみを立たせた梅子。
「いや、小夜子さ。ビールをこぼしちまったのさ」
 さも、小夜子の失敗だと言わんばかりの武蔵のことばに
「わざとじゃないもん! 向こうが動いたから、こぼれちゃったんだもん」と、頬をふくらませた。
「良いって、良いってことよ。怪我の功名だよ。ま、案外さとみの策略かもな。あいつも、中々やるじゃないか。これで、常連をつかんだわけだ。そして俺も、目的を果たしたってわけだ」
「なんだい、そりゃ。小夜子に接待させるのは、やっぱり無理なんじゃないのかい? 第一、人妻なんだよ。しかも、その旦那が目の前にいるんだ。ただ、見てるだけなんてさ」
「いいんだよ、それで。男ってのは、どうしようもないものなんだよ。ただ愛でるだけの桜よりも、食せる桃の方が好きだってことさ」と、梅子にうそぶく武蔵だった。