((三百十七)
小麦色にやけた小夜子に、富士商会の面々が一様におどろいた。
「小夜子さま、大変身ですね」
「すごく健康的で、いちだんと美人に見えますです、はい」
「小夜子さまなら、ミスユニバースに、あ、だめか。ミセスなんだ、もう」
だれもが口々に褒めそやす。その一人ひとりに「ありがとう、お世辞でもうれしいわ」と小夜子が応え、武蔵はえびす顔を見せている。
「みんな聞いてくれ。小夜子を、相談役とすることに決めた。かんたんに言えばだ、接待役だな。交渉ごとはしないけれども、その場に同席させる。どんどん取引先を、会社に引っぱってこい」
「やったあ!」。「うわあ、すてきい!」。「よおし、これでもう! だぜ」
ばんざいをする者、こぶしを突きあげる者、拍手をする者。そして、泣きだす者さえでた。
「おいおい、どうした。泣くことはないだろうが」
「だって、だって……。これでもう、悪口を言われずにすむかと思うと。嬉しくてうれしくて、なみだが、かってに出ちゃうんです」
「そうか、そうか。女子社員には、苦労をかけるな。いやがらせの電話がときどき入っているらしいが、もう大丈夫だぞ。そんな電話はな、みーんな小夜子にまわせ。ガツン! としかってくれるさ」
とつぜんに話をふられた小夜子、事態がのみこめずにキョトンとしている。
「そんなこと、できません! 大丈夫です、もう。今度かかってきたら、言いかえしてやりますから。くやしかったら会社においでなさい、って。お姫さまに逢いにおいでって、やさしくいってやります」
「そんなこといって、ほんとに来たらどうするんだよ」
「えっ、えっ、どうしよう、どうしましょう」
掛け合い漫才がはじまり、どっと笑いがおきた。
「こらこら。そんなときは、男どもが撃退しろ。女性を守ってやれない男では、こんりんざい、嫁さんをもらえないぞ!」
武蔵が突っこむと、笑いがさらに大きくなった。
「それなんだけどさ、うちの男どもはみんな、きゃしゃだもんね。
守ってもらえそうにないわ。やっぱりあたしたち女が、一致団結して撃退しましょう。でも、小夜子さまはだめ。お姫さまは、奥の院にいてもらわなくちゃ」
「ううん、あたしもやるわよ」と、小夜子が前に進みでた。
「お姫さまを矢面に立たせるなんて、あたしたち女の沽券にかかわるわ。あたしが、でんと入り口に仁王立ちして阻止してみせるから」。大女、おおんなとからかわれている京子が、仁王立ちをして見せた。
「そうそう、うしろにはあたしたちがいるから。安心して、きっと骨はひろってあげるから」
気勢のあがる総勢六人の女子社員。小夜子を含めて、七人の女侍が誕生した。
「こら、男ども! 情けないぞ! 女性にあんなことを言わせてもいいのか? おまえら、一生、女の尻にしかれることになるぞ!
しっかりしろ、まったく。よーし。男たちで、トキの声をあげるぞ」
五平の音頭とりで、「えいえい、おー!」と、鬨の声がひびいた。
なにごとかと、通行人がのぞき込むほどに、富士商会が燃えあがった。
(三百十八)
よくじつのこと。久しぶりの武蔵の訓示だ。全社員が、直立不動でたっている。
「きょうは、みんなを褒めようと思う。みんなだ、全員だ。俺以外の全員をだ。そしてみんなして、社長であるこの俺を、御手洗武蔵をしかってくれ」
何ごとかとざわつく面々に、
「みんなの頑張りのおかげで、富士商会の業績はのびている。ひと頃ほどではないにしろ、同業他社よりはるかにいい業績だ。しかし気になることが出てきた」と、切りだした。
「本来なら、社長である俺が、もっと早く気づくべきだった。かるく考えすぎた。富士商会は、仕入れ値をおさえることには長けている。そのことに胡坐をかきすぎたかもしれん。一部とはいえ、集金時に値引き要求をする店がある。むろん、そんなものを認めるわけにはいかん。取引をやめさせた。しかし、よくよく調べてみると、かたよった地域に限定されていることに気づいた。それで専務に調べさせてみると、日の本商会なんてふざけた名前の会社があがってきた。富士商会に対抗しての、日の本商会だろう。しかもだ、おんな社長だ」
怒り心頭で、拳をふりあげる武蔵だ。ひとりひとりにしっかりと目をむけて、ことばをつづけた。
「いいか、みんな。女なんかに負けられるか? 家庭のなかで負けるのはかまわん。まして、寝屋で負けるのはしかたない。そうだろう? しかし、しかしだ! こと、商売に関しては、負けるわけにいかん。この地区は、いま服部が担当している。話を聞くと、いろいろの店で競合しているらしい。勝ったり負けたりらしい。値段競争には持ちこませるなと、叱責してしまっていた。一喝してしまったが、悪いことをした。そうじゃなかった。服部、すまなかった。チャラチャラしている普段のお前から、つい手抜きをしていると思ってしまった。竹田からもその旨を聞いてはいたが、聞く耳を持たなかった俺がわるい」
深々と頭を下げて社員にあやまった。
「よって、むこう三ヶ月間、社長の給料を一割減とする。半減と格好をつけたいところだが、金を使い過ぎてしまってな。そして服部には、これまでの叱られ賃として、三ヶ月のあいだ給料の二割をふやしてやる。それで勘弁してくれ」
武蔵の謝罪にもかかわらず、社員たち自身が叱責されているようにうけとめて、ほとんどの者が下をむいている。
「服部のことだ。その金で、キャバレー通いがまた増えるだろうな、うらやましいことだ。ほどほどにしておけよ、な」
笑いをとるべく話を柔らかくしたが、笑いがもれることはなかった。
「そこでだ、対策として、日の本商会の得意先をすべて洗いだして、徹底攻勢をかける。富士商会のなわばりを荒らしたらどうなるか、天下にしめしてやる。以後、富士商会には二度と手をださせなくしてやる。半端なことはしない」
かたい決意を示すがごとくに、ぐっと拳をにぎりしめて力説した。
「服部、半値で仕切れ。いや待て、値引きはいかんな。元の値に戻すのがむずかしくなる。うん、そうだ。おまけを付けてやれ。同数の商品をおまけすると言え。実質半値だ。いいか、半値で仕切れと言われても、絶対だめだ。あとあとの商売がやりにくくなる。いまの売掛分についてもな、同数の商品をおまけするとな。ただしだ、条件をつけろ。一品目でも、わずか一個でも、他社の商品を見つけたら、即、品物を引き上げるとな。で、取引停止だと」
ざわつく声を、強い口調で抑えつけた。
(三百十九)
「いいか、徹底しろよ。一品目ぐらいとか、一個だけならとか、ぜったい見逃すな。それから、富士商会で取り扱っていない商品だからなんてふざけたことは言わせるな。同じ物をかならず納入すると言ってやれ。赤字になってもかまわん。ほかの店から買ってでも、納入しろ。それから仕入先を探せばいいんだ。いいか、ぜったいに恩情なんか見せるな」
するどい眼光で全員をにらみつけて、
「徹底的にやるんだ。ほかの者も、みょうな動きをする店があったら、すぐに専務に報告しろ。すぐ対応してやる。間髪入れずだ、これが大事だぞ。ええい、まどろっこしい! 事前の報告はいらん。事後報告でいい。即断即決だ。営業のお前たちの判断にまかせる。間違いだったとしても、かまわん」と、語気するどく告げた。
「し、社長。それはちょっと、どうかと。やはり確認を取ってからでないと」と、五平が色をなして押しとどめる。しかし、武蔵はがんとしてゆずらない。あわてて、別室へ武蔵を引っ張りこんで協議をはじめた。取りのこされた社員たちの間に、動揺がはしった。
「どういうことだ? 社長のあの剣幕、ただごとじゃないぜ」
「服部くん。どうなの、ほんとのところは。そんなに目くじらを立てるほどのことなの?」
「いや。それが大げさなような気もするんだ。どっちかというと、良い取引先じゃないんだ。なにかというといちゃもんをつけてくるし。とにかく面倒な店ばかりだから。金額的にもたいしたことじゃないし……」
服部を取りかこんで、みなが真剣に話をきいている。いまのところ服部だけなのだ、当事者なのは。
「服部くん。それは、甘いんじゃないか? 堤防だって、蟻の一穴から崩れるなんて言うしさ。言ってたじゃないか、嫌な予感がしたって」と竹田が、かみついた。
「おいおい、竹田。お前、まさか。俺が言ったことを、そのまま伝えたのか? あれはちょっと大げさに言ったんだぞ。俺のそうしたくせは、知ってるだろうが。うわあ、こりゃ、専務にしかられるぞ。まいったな、もう。竹田、うらむぞ」
「いや。竹田の心配、あんがい当たってるかもよ。じつは、おれも少し気になってることがあるんだ。実害は出ていないけれども。日の本商会という名前さ、きいた気がするんだ。木村商店でなんだけど、あそこの大将は、うちの社長に恩義があるから教えてくれたんだ。けど、これから値引きはうけそうな気がする。奥さんと、こそこそ話してるんだ。で、おれがちかづくと話をやめちゃうんだ」と、山田が声をあげた。
「気のまわしすぎじゃないのか? おれの地区と山田の地区とでは、相当にはなれているぞ。ほかの奴は、どうなんだ? なんか変なことに、気づかないか?」
山田をけん制しつつも、不安げな顔でみなに問いたたしてみる。するとあちこちから
「そういえば、見慣れない車をみかけたような。ぼくが着くと、荷物下ろしを止めちゃうこともあったし」
「ああ、ぼくも経験あります。なんかそそくさと帰っちゃうんです。ぼく、わりと業者さんとはなかよしで、情報交換なんかするんですけど。ひとり、ぜんぜんはなしをしない人が。みんな知らない人間だって言うんです」と、声が上がった。
「車に社名はあったか?」
「さあ……。気がつきません。なかった、と思うんですけど。きみのところは?」
「うん。おれも、なかったと思うんだけど」
「ばか! 思います、じゃだめなんだよ。もっと、しっかり見ろ!」
服部のイライラがつのり、八つ当たり気味にどなってしまった。
(三百二十)
「服部くん、やめろよ。気がつかなくて当たりまえさ。いろんな会社が出入りしてるんだ。無茶をいうなよ」
あわてて竹田が間にはいり、とりなした。
「みんな、待たせたな。社長の方針をせつめいするぞ」
上気した顔で、五平もどった。
「おまけ作戦は、実行する。ただしだ、社長の前言はとりけす。勝手な判断でやることは、まかりならん。まちがいいなく日の本商会だと確認がとれてからの、実行だ。そのさい、かならず口止めをすること。お宅だけに対してだけだから、とな。よそには、決して口外してほしくないと、かならず付け加えること。以上だ」
「専務。そのおまけ作戦は、取引先全部に広げるんですか?」
おずおずと、服部が声をあげた。いっせいに、五平に全社員の視線があつまった。かたずを飲んで、五平の答えを待った。
「バカ言うな! 日の本商会相手だけだ。どういうことかというとだ」と、具体的な方法がかたられた。日の本商会の取扱商品をきょう中にしらべあげて、その商品だけを対象とする。あすの朝に一覧表をくばる、ということだった。調査については、社長が直々にやるから心配するな、とつけ加えられた。
「それで期限は、とりあえず社長の終了宣言がでるまでだ。といっても、二、三ヶ月のことだろうさ。相手がばんざいするよ、売上ゼロになっちまうんだから。それに、ほかもいろいろと手を打つことだし」
顔の前で手をふりながら、五平がいう。自信たっぷりなその口ぶりに、安堵感がただよった。しかしひとり竹田だけが納得せずに、なおも聞いた。
「どんな手ですか?」。場を去りかけた社員たちが、ふたたび視線を五平にむけた。
「なんだ、竹田。気になることでもあるのか?」
質問に答えることなく、語気をすこし強めた。
「はい。たぶんみんなもそうだと思いますが、そんなむちゃな攻勢をかけて、富士商会自体は大丈夫なのでしょうか? 専務、覚えてみえますよね。あの、給料の遅配にはじまって、その、一部の社員がやめていった……、あのときのようにもまた、なるんじゃないかと……」
真っ直ぐに五平の目をとらえる竹田からは、真剣さがひしひしとつたわってくる。ほかの者たちの視線が、竹田に向けられた。そして「そうだよな」とうなずきながら、竹田にむけられた視線が五平にもどった。
「そうだな、もっともな質問だ。じつはな、おれもその点が気になってな。で、社長に確認をした。社長のこたえは、じつに明快だった。『損して得とれ!』だとさ。このことに成功すれば、いや当然に成功するけれども、その暁にはだ、」
「専務! そうじゃなくてですね、富士商会がもちこたえられる保証があるのかと、それを聞いてるんです」
五平のことばをさえぎって、竹田がかみついた。
「竹田! お前、社長が信じられんのか? どうだ、どうなんだ? いちいち数字をあげなきゃ、社長のことばが信じられんか?」
眼光するどく、五平の目力が竹田を射ぬく。へびににらまれたかえるのごとくに、射すくめられた竹田。力なく「すみませんでした」と頭を下げた。五平と竹田との間にただよっていた緊迫感から開放され、ほっ、と、安堵のため息がそこかしこからもれた。
「で、だ。そのあとは、富士商会の天下となるわけだ。逆らう業者は、いっさい居なくなるというわけだ。というのも、これを機会に、全業者の親睦会をつくりたいとおっしゃってる。そしてだ、小売業者はもちろんだが、百貨店あいてにたたかいを挑むそうだ。いまのようにバラバラの状態では、百貨店やら大手の小売業者やらに好きなようにやられてしまう」
(三百二十一)
大きく息を吸い込んで、真剣な顔つきをみせている全員に
「考えてもみろ。百貨店などは、在庫をもたずに商売をしている。場所を提供しているだけだろうが。それで売上の何割かを、上納金としてまきあげている。まるでテキ屋の元締めといっしょだ。しかも、上代価格は百貨店さまのご意向しだいだ。それに対抗するには、納入業者間でむえきな競争をしていちゃだめだというわけだ。いいか、これは社外秘だぞ。家族にも話すな。事がなる前にもれたら、きっとつぶされてしまう。この話だけでなく、それこそ富士商会もだ。いいな、きつくいっておくぞ」
その夜、五平と竹田・服部・山田の面々が、そろって社長室に集まった。直立不動の姿勢をとる三人組に、
「そんなに固くなるな。ほら、すわれ」と、武蔵が苦笑いをする。
「じつはな、日の本商会ってのは、まえに夜逃げした店の娘が起ちあげた店だった。ほら、四人姉妹と末っ子の男をかかえた親父が、泣きついてきたじゃないか。覚えてないか?」
みなが首をかしげる中、竹田がすっとんきょうな声を上げた。
「あっ! あの、頭の禿げあがった、小太りの……。たしか、瀬田商店とか……」
「瀬田商店かあ。そういえば、子どもをひき連れて。そうそう、土下座したんですよね」と、山田が思い出す。そしてみなが、そうだったと頷きあった。
「それだよ、それだ。そのときの、娘さ。長女が、社長だ」
「でも、社長。まだ二年ぐらい前じゃないですか? よくそれで」
「資金か? そんなもの、なんとでもなるさ。ま、女だからな」
意味ありげににやつく武蔵にたいし、「女だからなって。社長、まさか……と、絶句する五平だった。
「その、まさかさ。まあ、スネに傷もつ身の俺だ。敵なんてそこら中にいるからな。四人ばかりをパトロンにして、金を集めたらしい」
「そこまでしますか、女の身で」。女の執念のおそろしさを知る五平からしてが、その覚悟のほどにはおどろくほかなかった。
「仇討ちなんかじゃないぞ。表面的にはそう見えるだろうが、実際のところはちがうと思う。妹たちをも巻き込んだんだから。まあ、商売をしたかったんだろうよ。で、資金集めの口実に、俺を使ったんだろう。で、あわよくば富士商会も同じ目に合わせてやろうってことだろうよ」
五平の推理とはちがうことを口にし、「あの長女は、父親を軽蔑してたからなあ。商売のやり方について、相当にかみついてたよ。仕入れ先を大事にしない店は、早晩立ちゆかなくなる、そんな信念をもってたよ」
「しかし社長、いつ調べたんですか?」
「調べたわけじゃないさ。情報が転がり込んできたんだのさ。山田の親父の所に寄った時に、聞かされたのさ。得意満面といった顔付きだったよ。なにせ、俺の知らない情報だったからな」
「山田商店さんですか。あそこは、創業以来の取引ですね」
服部が懐かしそうに言う。即座に、山田が言う。
「立て看板を持ってた時に、いの一番に声をかけてくれたんだぜ。『兄ちゃん。なにを売ってくれるんだ?』って、な」
「そうだ、そうだ。で、社長に言われたとおり、黙って歩いたんだよな。そしたら、ぶつぶつ言いながらもついて来てくれたんだ」
「そう、そうなんだよ。でもって、何人か引っ張ってくれて」
腕組みをしながら天井を見上げて、昔を懐かしむ表情をみせた。
「店に着いてからが、面白かった。もう、腰を抜かさんばかりだったじゃないか」
「ところがさ、その日は持ち合わせがなくってさ」
「そうそう。明日の朝一番に来るから、これとこれとあれを残しておけって、うるさくてさ」
「他の客が手を出したら、怒ることおこること」
「明日も入ってくるから心配ないって、なんど言っても納得しなくてさ。社長が『商売の邪魔だ! 金のない奴なんか客じゃねえ!』って切った啖呵に『よおし! それじゃ、明日八時に来るからな。その時物がなかったら、承知しねえぞ!』って」
「そうしたら、社長が切り返して。『へっ。もしなかったら、この俺の命でもなんでもやるよ!』」
「おおさ。こっちはもう、ハラハラだよ」
(三百二十二)
互いの肩をつつきあいながら、三人の思い出話はつきない。
「翌日が大変だったじゃないか。まだ店を開けてないのに、大声を出してさ。ヒビってたよな、山田。小便、洩らしたんじゃなかったか?」
「バ、バカ言うなよ。服部くんじゃないか、『竹田。お前、店開けろよ。』って、後ずさりしたの。そしたら、竹田君、けろっとしてさ。『ああ、いいよ』って店を開けたよな」
「ほんと、肝のすわってる奴だよ」
「でも服部君のおかげで、無事に取引済んだじゃないか。
『用意してあります、用意してあります。そうだ、こっちの商品はどうです?』なんて、言っちゃって」
「そうだよ。専務が持ち込んでくれるまで引き伸ばしてくれたもんね。大したもんだよ、ほんとに。あきらかに疑ってたよ、山田のおっさん」
「いやあ、もう。あの時は、ほんとに必死よ。なにをしゃべったのか、まるで覚えてない。ただただ、機関銃みたいにしゃべりまくったことだけは覚えてるけども」
「身振り手振りで、話してたよ。竹田君は知らん顔で掃除をはじめたからさ、ぼくもすぐに外に飛び出したけど」
「お前らは、ほんと薄情者だよ」
「服部君なら大丈夫だと思ってたから。それに、山田の親父さんにしても、顔はいかついけれど優しい人だったしさ」
「どこがだよ。あの風体のどこから、そんな風に思えるんだよ」
「子どもに優しかったじゃないか」
「子どもに?」
「どこにいるんだよ、店のなかにいるわけないだろうが!」
「ハハ、店じゃないよ。ほら、案内するときだよ。四ツ辻で、子どもとぶつかったろうが。そのときに、頭をなでていたじゃないか。『気を付けなきゃだめだぞ』って、ニコニコ顔で」
竹田の言うことだから間違いはないだろうけども、とみなが思いつつも
「知らねえよ、そんなこと。覚えてるか? 山田は」と、山田の首に手を回しながら、服部が言う。
「あのときは、とにかくお客を店まで引っぱりこむことに必死だったから。けど、竹田くんがそう言うんだから。やめてよ、ヘッドロックは」。山田が口をとがらせた。
「ま、竹田はクールガイだもんナ。山田はガタイが大きいから、タフガイだ。そして俺は、格好いいからマイトガイだ」
鼻を鳴らしながら、胸をそらす服部だ。
「ほんと、服部くんはうまいことを言う。ぼくのタフガイはほめすぎとしても、竹田くんのクールガイはピッタリだ。けどさ、自分のことを、格好いいとかマイトガイとか、そこまで言うかい?」
「なんだ? だったら、山田。お前が言ってくれたか? お前にそんなセンスがあるとは思えねえぜ」
「ちがいないや、確かに。でも、あしたには思いついたと思うよ」
「こら! お前ら、分かったのか? 社長の指示が」
「はい、もちろんです!」
三人のそろった声は、部屋の窓をふるわせるほどに力強かった。
「よし、それじゃ解散だ。他の者には、お前らからうまく話してくれ。なんの心配もないから、指示どおりにやれとな。頼んだぞ」
「はい、もちろんです!」
(三百二十三)
翌日からの富士商会の動きはすばやかった。早朝に食堂に全員を
あつめて、湯気の立つそばを食べながらの訓示となった。そこに「社長!」と、慌てふためいた様子で五平が飛びこんできた。武蔵に耳打ちをする。
「ふーん、思ったよりやるじゃないか。六割強か、取引先の。早晩、ぜんぶに回られるな。予想以上の範囲だな。危なかったな、これは。全取引先に知れわたるのも、時間の問題か。口止めの効果はなしだな」
五平からの報告を聞いた武蔵が、口を開いた。
「はじめに、訂正だ。全取引先について行う。選別していることがバレたら、それこそ収集がつかなくなる。そして期限は、向こう二ヶ月間としろ。それで、様子見だ。相手のうごきを見て、あとは考える。いいか、どんなささいなことでもいいから、ちくいち報告しろ。疑問符のつく情報でもかまわん。その真偽は、俺がしらべるから。営業たちは、とにかく情報を集めろ。しばらくは、新規開拓はなしだ。どんなに大口でもだめだ。うわさを聞きつけて声をかけてくるはずだ。そのときは『現取引先さまだけの特典ですので』と、丁重にことわれ」
一人ひとりの目をとらえて、ゆっくりとそしてぐるりと見まわす。訓示のさいに、武蔵がかならずおこなう所作だ。見ているわけではない、しかし武蔵が個々人に話しかけている、そう思わせるための所作だった。
「その代わり、過去においていち度でも、どんなに小額でも、取引があった店なら良しだ。どんなに小さな個人商店でもかまわんぞ。『喜んでお届けします』と言え。それからもうひとつ。これがいちばん大事なことだが。これらの取引については、ニコニコ現金払いだ。現金引換えだ。手形類は、いっさい認めない。この条件をのまない取引先は、このさい切ってしまうぞ。おまけ不要だから手形で、という取引先も切ってしまう」
あちこちで動揺が走った。「切るって、取引停止ってこと?」。ザワザワと声が飛びかう。しかしお構いなしに、武蔵の話がつづく。
「踏み絵にするぞ。経営状態の悪いところとは、このさいおさらばだ。お荷物会社を、日の本商会に押しつけてやろうじゃないか。いいか、温情は持つな! 富士商会だって、血を流すんだ。そこのところを忘れるな。もうひとつ、この二ヶ月間の数字は個々の成績にはしない。売上減は当たり前だからな。逆に減ってくれた方が、損失が少なくて済む。ま、頑張って売らないようにしてくれ。以上だ」
(三百二十四)
武蔵の訓事後、いっせいに営業が飛びだした。事務職たちも、すぐに電話攻勢にでた。営業それぞれが今日にはまわりきれない取引先に対して、おまけ作戦をにおわせた。
「こちら、富士商会でございます。じつは、耳よりの情報がございまして。順次営業がおうかがいしまして、ご説明をさせていただいております。きょうにもご入用でない商品でございましたら、ご発注の方はお待ちいただけますでしょうか。ご不信はごもっともでございますが、お客さまにたいする感謝の気持ちをこめたことでございます」
五平と竹田のふたりは別室に入り、仕入先にたいする値引き交渉の段取りにはいった。血をながす覚悟をしたとはいえ、傷はちいさいに越したことはない。即金支払いとの条件で、二ヶ月間のみの限定値引きを持ちかけることにした。資金繰りを危ぶむ五平に対し「銀行から引き出してくる。四の五の言うようなら、奥の手だ。支店長の金玉をにぎっているからな、俺は」と、意に介さない。
そして武蔵が意図したごとくに、経営状態のかんばしくない店だけが日の本商会に集まった。
「そうかい、瀬田さんの娘さんとはな。よし、俺も男だ。応援しようじゃないか!」と、判で押したような同情の声をかけていた。大量の商品を買いこんでみせる店やら、別の店を紹介してやる者もでた。しかしそれらの共通として、支払日にほとんどが馬脚をあらわした。一部の支払いでごまかす店、期日の延期を申しでる店。そしてそのまま雲がくれした店も出た。
それでも日の本商会は、武蔵の思惑をこえてがんばった。せいぜいがふた月だろうと目論んでいたものが、三ヶ月目に音をあげた。もともとが無理な価格設定だった。さらには、納入商品のなかに粗悪品が混じりこんでいたことが発覚して、あっという間に信用をなくしてしまった。富士商会が画策したという話がちらりと出はしたが、すぐに立ち消えてしまった。
「やった、やった!」と、戦勝気分にわいた。その裏で、日の本商会は悲惨のかぎりを尽くしていた。資金調達にムリをかさねて、裏筋の金融にも手をだしてしまっていた。妹三人が、店をたたむと同時に苦界に身を落とした。そのなかで長女の社長本人だけが、行方不明となった。どこかの山中で首をつったという話や、北海道にわたった、いや沖縄に飛んだという噂話が飛びかったが、その実際は分からずじまいに終わった。そしてこのことが、武蔵の将来に大きく関わってくることになった。
(三百二十五)
しばらくして、百貨店に対抗するための組合作りに奔走しはじめた武蔵だったが、その反応はにぶいものだった。「その趣旨や良し」と賛同はするのだが、設立の段になると二の足をふみはじめた。富士商会の独壇場になるのではないか、との危惧が消えさらないでいた。
富士商会が日の本商会との商い戦に勝利して以来、だれももの言えぬ状態になってしまっていた。
「富士商会のやつ、調子にのりやがって」
「みんな、殿さまの家来になっちまったよ」
「百貨店にも腹がたつが、富士商会の意のままにってのも業腹なことだし」と、愚痴のこぼし合いがつづいた。
主だった業者が、組合設立の件でお会いしたい、と料亭に呼び出された。根回しだろうとは思ったものの、正面切って反発するわけにもいかない。なにせ富士商会からの情報は重宝だ。そしてまた取りあつかう品が格段に多い。また在庫管理がしっかりとなされているところから、欠品ということがまずない。これは竹田の功績であり、武蔵が信頼を寄せる最大の因だった。五平に任せていたおりにはうっかりが多く、武蔵の悩みのたねだった。
「御手洗さん、少しゆるめなさい。このままじゃ、あんたひとり、浮いてしまうよ。同業者間で、あんた、殿さまって称されているのを知ってなさるかい。信長さまともね、言われてますよ」
「なに言ってるんです、わたしにそんな気はありませんよ。山勘さん。きょうお伺いしましたのは、他でもありません。組合の代表のことなんです。どうにも誤解がおおくて、困りはてているんです。組合長にはね、山勘さん。あなたになって頂きたいんですよ。わたしはまだ若輩だし、正直のところ敵もおおい。とてもじゃないが、わたしではまとめきれません。そんなことぐらい、いくらなんでも承知していますよ。その点山勘さんは老舗だし、人望も厚い。あなたしかいませんって」
腰をふかく折って懇願する体を見せる武蔵だった。警戒心をもって接する相手にたいし、会社経営のむずかしさを口にし、「あなただけには愚痴をこぼせますよ」とくすぐる。
自分が組合長?=Bまんざらでもない山勘だが、傀儡にされるのでは? という危惧もある。その反面、この若造をおさえつけられるのは自分しかいないという自負もある。
「そりゃねえ、あんたよりは年はくってるよ。創業も、なんてったって明治時代にまでさかのぼる。うちは老舗中の老舗ですよ。けどねえ、この話はあんたが立ち上げたんだしねえ。ほかのみんながね、なんと思うだろうかね。いまお話を頂いてもね、たんなる神輿に見られてしまわないかねえ。はじめからあたしも参画してりゃあね、話に乗りやすくはあるけどねえ」
暗に、傀儡はイヤだよと告げる。そして、組合設立の発起人としての立場を強く打ちだせと迫りもした。
ちっ、この狸親父が。まあ、はじめのうちは立ててやるよ。
しかしま、二、三年後には、俺の思いどおりにさせてもらうぜ
(三百二十六)
「もちろんのことです。あたしの独断で動けるものじゃありません。第一、組合設立は山勘さんから出たことじゃありませんか。忘れですか、あの夜のこと。あたしが愚痴ってしまったことを。
ほら、あの百貨店の部長に、接待の場、そう、ここですよ。どんな悪態をつかれたか、女将だって知ってますから。で、ですね。副組合長には、田口商事さんと内海商店さんにお願しようかと考えているんです。もちろん、山勘さんのご承諾を得られたらのはなしですが。わたし、わたしですか? わたしは一兵卒で結構ですよ。とにかく、あの部長に一泡ふかせたいだけですから」
「いいのかい、それで?」。半信半疑の表情を見せつつも、武蔵を睨みつける眼光はするどかった。若造には、荷が重かろうさ=Bそんな思いが、ありありと顔にあらわれていた。
しかしながらこの計画も、結局は頓挫してしまった。組合ができはしたものの、たんなる親睦団体的存在にすり替わってしまった。百貨店側とタッグを組んだ小売業者側の脅しに、かんたんに腰砕けになってしまった。交渉相手を武蔵とせずに山勘とした小売業者側の、作戦勝ちだった。さらには、表面にはでずに裏で山勘ら幹部を恫喝した百貨店側の狡猾さに、老舗だとあぐらをかく山勘では相手にならなかった。
早々と白旗を上げた山勘にたいし一部の業者が徹底抗戦をうったえたが、その業者たちも飴とムチ作戦に陥落してしまった。ひとり孤軍奮闘した武蔵だったが、死屍累々の屍をこえて行きつづけるのは無理だった。
とどめは、百貨店側からの仕入先への恫喝だった。業を煮やした百貨店側が、製造メーカーとの直接交渉にはいった。それは逆に、単なるいち卸業者に過ぎぬ富士商会ではあるけれども、無視できぬほどの力を持つに至っている証明ともなった。
結局のところ、メーカーの仲介では武蔵もおれざるをえない。しかし反旗をひるがえした富士商会にたいしてなんらかの制裁を求める百貨店側だったが、その横暴さに忸怩たる思いがあったメーカー側の思惑もあり、逆に富士商会へのバックマージンの利率アップという優遇が決められた。それを聞き知ったほかの業者たちが、武蔵を責め立てた。「このことを狙ってのことか!」と、いき巻く業者もいた。
「そんな姑息なことをする男だと思うのか!」。武蔵の一喝で、そんな非難も尻すぼみとなった。しかしこの事もまた、武蔵への怨嗟のひとつにはなった。もちろん、小売業者側にも恨みはのこった。

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