(三百十) 新婚旅行を遅らせることになった不満をつのらせる小夜子をなだめるためにと、「小夜子、お前への愛の証しだ」と、「小夜子命」の文字を二の腕に刺青した。藍色で彫られたそれは、武蔵の白い肌にくっきりと、そして鮮やかに浮かび上がっている。 「いたかったでしょ、いたかったでしょ」と大粒の涙をこぼしながら、頬ずりした小夜子だった。そしていよいよ、ひと月おくれの新婚旅行となった。小夜子にとっては、はじめての旅行だ。東北・北海道への旅行を勧める五平に、 「それじゃ、仕事がはいってしまう。小夜子が可哀相じゃないか」と、取り合わなかった。生まれ故郷に足を≠ニ思ってみなかったわけではない。五平の意がそこにあると分かってもいたが、苦しかったころの想い出だけがのこる地に行ったところで……≠ニ考えた。 「新婚旅行は、九州だ。佐賀県に唐津市というところがある。ギラギラとした太陽なんだ。ここみたいにうっすらと、じゃないんだぞ。それはそれは美しい浜辺があってな、海がなあ、青いんだぞ。水が近くで見るとトーメイなんだが浜辺から見ると向こうの方は真っ青なんだ。どうだ? 行くか? ずっと沖を見ても、まるで陸地が見えん。水が青いんだ。でな、ずっと先を見ると、キラキラと光ってる。まるで、銀の食器を並べているようだ」 「ほんと? ほんとに、お水が青いの? キラキラ光ってるの?」。目を輝かせながら、小夜子が次々と疑問を投げかけた。 「海って、ずっとお水ばかりなの? 陸地がないの? お魚がいっぱい泳いでて、お舟より大きなお魚がいるってほんとなの? それから……」 「自分でたしかめろ。海辺の旅館に泊まるから、すぐ目のまえが砂浜になってる。庭の生垣を出ると、もうそこは砂浜だ」 「ねえねえ。星空はどう? ここはすこししか見えないじゃないの。あっちはどう? いっぱいある?」 「ああ、そうとも。満天が星空だだそうだ。田舎とおんなじだぞ」 星空がいっぱい見える? 右も左も、そして真上もなのね。そしたら、アーシアにも勝子さんにも会えるのね 少女漫画に描かれるように目をキラキラさせて、思わず手を合わせた。指を折ってからませて、「待っててね、まっててね」と祈った。 「そうなの、そうなの。いつ、いつ? 明日行くの?」。武蔵の腕を激しく揺さぶる。 「そうだな、いつにするかな……」と曖昧にことばをにごした。 「だめ、だめ! 明日、行くの! じゃなきゃ、行かない!」 小夜子が頬をぷくうと膨らませると、武蔵の指がその頬を軽く押した。ぶふっと萎む小夜子の唇に、武蔵が軽く接吻する。小夜子と武蔵の、ひとつの儀式になっている。 「よしわかった、寝台列車で行く。東京から九州の博多に行って、そこから乗り換えて唐津市だ。二日はかかるが、大丈夫か? どこかで一泊してそれからまた列車に乗るか? けっこうキツイからな」 武蔵も博多までは経験があるが、寝台付きとはいえ、薄っぺらいせんべい布団にも似たものだ。背中のあちこちが痛み、その日は営業まわりはやめた。そのことを話したが、小夜子はとにかく早く海を見たいという気持ちが強い。大丈夫、だいじょうぶと譲らない。一気に博多まで行って、そのまま唐津市まで行くときかなかった。 「わかった。けど、いくらなんでも明日はむずかしいぞ。列車の切符に旅館の手配と、いろいろとあるからな。とりあえず、いつでも出発できるように荷物の用意だ、頼むぞ」 そして五日後に旅程が決まった。寝台列車[さつま号]で出発し、大阪に翌朝着、そして博多には翌々日の朝着。それから唐津本線にのりかえて、午前中唐津市着のよていとなる。 (三百十一) ?真っ青な空に、ひとつふたつと雲がうかんでいる。太陽は正天に あり、ギラギラと輝いている。暦の上ではそろそろ秋に入ろうかというのに、この地ではまだ夏の日差しがある。白いノースリーブの上にピンク色の薄手のカーディガンを羽織っていたが、じんわりと汗をかきはじめた。こんなにも気温がちがうの? と驚きをかくせない小夜子は、とうとうカーディガンを脱いでしまった。「日焼けするぞ」という武蔵に、暑いんだもん、と意に介さない。 白い筋のように水平線があり、視線の先に貨物船がすすんでいる。砂浜でレースのフリルがついた白い水着姿に、ピンクの縁に黒いレンズのサングラスをかけた小夜子が、「おおおおーーい!」と、大声をはりあげた。 そしていま、はじめての海で戯れている。思いえがいた大海原を眼前にして、大きく息を吐きだした。その先で、しずみゆく夕陽が、青いはずの海を赤くしている。 ああ、これが幸せというものなのね=B暖かさののこる砂地に寝そべり、武蔵の指で遊んでいる。 「いいこと、物では得られない幸せがあるのよ。お金では買えない幸せがね」 梅子のことばが思い出される。「お金に執着しちゃだめよ」。式を挙げる前に、幾度となく告げられた。 でもね、梅子姉さん。お金があればこその、この旅行だわ。それに、時間はお金がないと作れないのよ。タケゾーの稼ぎがあればこその、今なの=Bそんな思いから逃れられぬ小夜子だった。 六泊七日の旅程を組むために、このふつかほどほぼ徹夜状態がつづいた武蔵だった。到着日からの海は辛いと武蔵がこぼした。しかし小夜子は許さない。 「なによ、なによ。そんなじじくさいこと、言わないの! ほら、海よ。海がそこにあるのよ! いいわ、あたしひとりで行く。タケゾーは、寝てなさい」 海に出る、武蔵は寝てなさい、どちらも本音だった。疲れ果てていることは、武蔵の顔から生気がうしなわれていることから、よく分かる。小夜子もまた、疲れを感じてはいる。長時間の列車旅は、小夜子にもきつかった。はじめての寝台列車は、小夜子に浅いねむりしか与えてはくれなかった。 宿に着いたら、ひと眠りしなくちゃ しかしそんな思いも、キラキラと光る青い海を見ては、いても立ってもいられなくなった小夜子だった。 大型の日傘を砂地に差しこんで、その下で武蔵は深眠している。小夜子はひざ小僧を抱いて、はるかな海に目をやった。武蔵が口にしたように、銀の食器が大きな青いテーブルクロスのかけられたテーブルに並べられているように感じた。そしてそれらの食器の上には、漁船だろうか数隻がおだややかにある。 「はああ……」 哀しいはずがない小夜子の目から、とつぜんに涙がとびだした。ひと筋、またひと筋と流れていく。 なに、なに、どうして涙なんかでるの? 悲しいはずなんかないのに。こんなに幸せなのに、どうして涙が……” どうしても止まらない。溢れつづける涙、なみだ。武蔵が眠りこけていることが、小夜子には救いだった。 (三百十二) 日傘から飛びだすと、あたしの幸せを、みんなにも分けてあげる≠ニばかりに、胸の前で合わせた両の手を、大きく空にむかって開放した。数人のグループが、あちこちに点在していて、おどろきの目が小夜子にそそがれるが、まるで動じない。 「なにをあげたんだ? 神さま、よろこんで受け取ってくれたか?」 「やっと起きた、タケゾーが」 いつもの膨れっ面を小夜子が見せた。そしていつものように指で押して、武蔵がしぼませる。ぶふっと音をたててしぼまった唇を、小夜子がつきだした。はやく、早く、とせがんでくる。その意図は、武蔵だけが知る。以前にGHQ将校のハウスで、大画面のスクリーン上でくりひろげられた他愛ないあそび感覚の接吻を、小夜子がせがむ。しかしさすがに武蔵も、この海辺ではためらわれた。しかしお構いなしにあごを突き出す小夜子に、苦笑いしつつ武蔵が応じた。 「な、なんて、はしたないことを」 老人のつれあいが言う。 「いいじゃない、おばあちゃん。むかしと違うんだから」と、海から上がってきた娘がたしなめた。小麦色というよりも茶色がかった肌に海水がキラキラとかがやき、にっこりと笑った白い歯が印象的だ。 「ありがとう、地元の方なの? あたしたちはね、新婚旅行なの」 負けじと、小夜子も満面に笑みをたたえて、ことばをかえした。 「新婚さんですか? うわあ、おめでとうございます。どうしてここを選ばれたんですか? どちらからお見えになったんですか? いつまでみえるんですか?」と、矢継ぎばやに質問してくる。 「ありがとう。タケゾーがね、ここを選んでくれたの。きらきら輝いてる海をね、どうしても見せてやりたいって。住まいはね、東京なのよ」 「そんな遠いところからですか? いいなあ、すてきなだんなさまで」 まぶしげに見る視線の娘に、「ふふ。でしょ? 日本一、いえ世界一の旦那さまよ」と、誇らしげに自慢の武蔵を見せびらかす小夜子だった。 「なんて女だ。自慢をするなんて、聞いたことがない」 「まったくです、まったくです。男もおとこです、女の言いなりになって。人前ですることじゃない」 聞こえよがしにささやきあう、男ふたりだった。隣にすわる女が、あわててわき腹をつついてる。 「やめなさいって、おじいさん。ほら、あれっていれずみじゃないですか? 二の腕のところに……」 「そ、そんなことは……」 汗がシャツから藍色の文字を浮きださせ、麦わら帽子とサングラスとに相まって、暴力団の風体をかもしだしていた。 (三百十三) 小夜子と娘の声に目を覚ました武蔵の耳に、男たちの声がとどいた。 「ハハハ、これですか?」 サングラスを外しシャツをまくりあげて 「妻の名前です。流行っているんです、愛のあかしというわけですよ」と、武蔵が声をかえした。小夜子に恥をかかせたくないという思いと、屈託のない娘によけいな警戒心をいだかせたくないと考えた武蔵だった。 「あ、そりゃどうも。お前、すこしだまってろ」 明らかに老人は、警戒している。男もまた、視線があわぬようにと武蔵から目をそらした。 「そうよ、そうよ。ステキじゃない、愛のあかしだなんて。なにも分からないのに、そういうことを言っちゃいけないわよ」 娘はなにやかやと小夜子と話しこんでいる。 「ねえ。お名前、なんて言うの? あたし、小夜子」 「キャハハ、名前もしらずにおはなしてたなんて。あたしは、れいです。なんでも、零式戦闘機からつけたらしいんです。女の子ですよ、これでも。失礼しちゃうわ、ほんとに。だから、腹いせにね、男まさりになってやったんです。ね、ね、このうで見て。ほら、力こぶが凄いでしょ? 近所では、ガキ大将なの。でも、小夜子さんを見てたら、なんだか恥ずかしくなってきちゃった」 「いくつなの?」 「えっと、十三。中学一年生。小夜子さんは?」 「ふふ…いくつに見える?」 「うーんとね。十代じゃないだろうし、二十、と、だめ、わかんないよ」 目をクルクルとまわしながら、落ち着かないようすであたりを見まわしている。 「どうしたの? だれか、さがしてるの?」 「うん。お友だちがね、来てるはずなんだけどね。おじいちゃんがいるとね、かくれちゃうんです。おこられるもんだから、いっつも木のかげにかくれてるの。あっ、見っけた。ほら、あそこに木が何本かあるでしょ? そのはじっこの、あの木のかげにかくれてる。あたしを見つけて、ほら、しっぽをふってるでしょ?」と、ふたりが宿泊している旅館のわきの樹木をゆびさした。かなりの距離があり、小夜子も目をほそめてみるのだが、なかなかにだれもみえない。 「タケゾー、タケゾー。あそこの木のかげに、だれかいる?」 れいの家人に聞こえぬようにと、耳打ちをする。 「うん? どれどれ。ああ、あの木か? うーん、遠くてわからんなあ」 「降参だわ、れいちゃん。お友だちなのよね、ちっちゃい子なの? おとしは?」 れいは、くくっと声をあげながら笑っている。そして指さした手のひらを、まるでおいでおいでと呼ぶように上下に動かした。 「まさか、しっぽをふるってことは、犬かな?」 「正解、大せいかい! 大っきな、柴犬なの。でも、のら犬なの。あたしは飼いたいんだけど、おじいちゃんがだめだって。どうして? って聞いたら、弟が怖がるからだって。弟がいけないのよ。石なんか投げるもんだから、犬が吠えたの。体が大きいでしょ? 声もね、大きいの。それで、弟のやつ、泣きだしちゃって。情けないったらありゃしない。もう九さいなのよ。十一月には、十さいになるのに」 (三百十四) 「こら! また、野良犬か! いかんと言ったろうが。ほら、もう帰るぞ。新婚さんのお邪魔をしちゃいかん。さ、来なさい。隼人が待ってるから」 「ええ! あたし、お姉さんたちともっといたい。あのね、弟はね、隼と人でね、はやとと言うの。分かるでしょ? 戦闘機の隼よ。いやになっちゃう、ほんとに」 「わたし、こういうものです。よろしかったら、きょう一日お嬢さんをお借りできませんか? 着いたばかりでしてね、正直、妻の相手はきついんです。寝台列車で来たものですから」 と名刺をわたしながら、その老人にたのみこんだ。 「そうさせてください、この通りです」と、小夜子もまた手をあわせてみせる。れいは、老人の返事もきかずに 「いいでしょ、おじいちゃん。ね、ね、決まりね」と、小夜子の手をとって駆けだした。 「こら、れい。まだ良いとは…。まったく、言うことを聞かんやつだ。えっと、みたらいさん、ですか? ほお、会社経営を。雑貨品といいますと、主にどんなものを?」 しげしげと名刺を見ながら、先ほどまでの警戒心がうそのような態度で接してきた。 「なんでもです。GHQ関連からスタートしましてね、いまは種々雑多ですよ。このあいだは東北にいきまして、南部鉄製の商品をあつかうことにしました。こちらでは、どんな特産品がありますかな? まだ九州産はあつかっていませんが」 じつのところは、福岡県の産品を手がけている。微々たる量ではあるが、八女すだれ――竹皮の表裏や節をそろえて色合いや模様を美しく表現している、八女地域の天然竹を使用した室内装飾用――を取り扱ってみた。武蔵の自宅で縁側に吊り下げてみたのだが、夏の風情としてお気に入りのものだ。 「そうですか、そうですか。まあ九州とは言いましても、それぞれの県に特産がありましてね。わしの居住地である長崎は、有数の観光地でありますがな。この佐賀にはねえ……。特産もあるにはありますが。そうですなあ」 勿体ぶった言い方をするのは、老人のくせだった。商売人だと知るやいなや、平民かとばかりに嵩にかかった態度を示した。 「全国的に有名といえば、陶器なんかもそのひとつですな。この地ですが、佐賀にですな、伊万里焼と有田焼というものがありますな」 老人が、伊万里焼そして有田焼ということばを発したことをきっかけに、焼きものにくわしい父親が、とつぜんに割りこんできた。おのれの自慢ばなしのごとくに、有田焼の起源やらを東陶と話しはじめた。 「明治以降なんです、有田焼という名称がうまれたのは。江戸時代には、三川内焼、波佐見焼、鍋島焼などとともに、伊万里焼とも呼ばれていました。秀吉公の朝鮮出兵にさかのぼるんですよ。鍋島藩の藩祖である鍋島直茂が、朝鮮の陶工たちを日本に連れ帰ったんですなあ。失礼しました、わたし田岡ともうします」 商売になるかと話にききいる武蔵だが、田岡は同好の士だと勘ちがいをしてますます話に熱がはいってきた。また始まったとばかりに、ほかの家人たちは帰り支度をする。 「あまり遅くならないうちに帰りなさいよ」と祖母が言い、そして、老人が「甘やかしすぎだ、れいを」と、苦言を残した。 「大丈夫ですよ、お義父さん」と立ち上がって、田岡が最敬礼をみせた。軍人上がりの祖父は、うん、とうなずきながら立ち去った。 (三百十五) 「むこ養子でしてね、わたし。跡取りをつくったんだし、ある意味お役御免ですわ。娘のれいが生まれたときは、散々でした。まるで種馬あつかいです、ひどいものです。でね、やっと隼人が生まれてくれたんで、大事にしてもらえるかと思いきや。どうしてどうして。『実家に帰りたくないか?』などと言われる始末ですよ」 たばこを取り出して武蔵にすすめながら、 「これもなんです。家の中では、吸わせてもらえんのです。義父が吸いませんのでね、外ですよ。まあね、義父が死んだらねえ。これみよがしに、そこら中で吸ってやろうと思っているのですが。だめですなあ、義母が許してはくれんでしょう」と、ぐちをこぼしはじめた。 「で、義母がいなくなっても、こんどは妻がねえ。かかあ天下です、うちは。というより、この地では大半がそうなんですが。九州男児などといきがってはいますが、外ではそうなんですが、家に入るととたんに。まあしかし、その方が円満です。おたくはいかがです?」 そろそろ武蔵も限界を迎えはじめた。家庭でのグチをこぼすことが、どれほどに男を貶めるか、武蔵は憤懣やるかたないとばかりに、にがり顔を見せながら 「それはまあ、ご想像におまかせしますよ。どこに行きましたかね、ふたりは」と、小夜子とれいのふたりが気になるそぶりをみせた。 「おおかた、あの野良犬をかまっているんでしょう。ほんとはねえ、飼ってもいいと思うんですが」と、田岡はあくまでグチ話をつづけてきた。 「隼人のやつが、とんと意気地のないむすこでして。そのことも、わたしに対する……」 しかし武蔵は「ああ、いました、いました。そうですなあ、犬と走ってますよ」と、話の腰をおった。 いつまでもくだらん話になんて付き合っておられん=B口にはださないが思いっきり蔑視の視線をむけた。さすがに愚痴が過ぎたと気づいた田岡も、 「初対面の方にするはなしではなかった。つい同好の士だと気を許してしまいした。失礼しました」と、頭を下げた。 「おおい、そろそろかえるぞお」 遊びたりないわと、不満げな顔をみせるかと思った小夜子が「はあい!」とあかるく返事をしてきた。どうやら砂浜を走ることに疲れたらしく、宿にもどりたがっている。いくら負けず嫌いの小夜子でも、海で毎日をすごすれいの体力に勝てるはずもない。盆地育ちの小夜子の毎日といえば、本を読むかコーラスに興じるか、そこらあたりが関の山だ。しかも女王然とふるまってきた小夜子にはかしずく者がおおく、武蔵もまたそれを許し、なおかつ楽しんでいる。 当初こそあしながおじさんとみていた小夜子だったが、いまでは本人は気づかぬ思いだが、好きすぎて憎しみすらときおり感じるほどになっていた。 あたしが我が儘なのはタケゾーのせい、あたしが傲慢なのはタケゾーのせい、あたしが皮肉屋さんなのはタケゾーのせい ことほどさように、すべてが武蔵で埋め尽くされている。一日二日の出張で武蔵が留守をすると、とたんにイライラが高じてまわりに当たりちらす。そして武蔵の顔をみたとたんに、こんどは武蔵にあたる。そうしてやっときもちが落ち着いてくるのだ。 「もう帰っちゃうの」。不満げに、れいが野良犬のあたまをなでながら口をとがらせた。 「新婚だからね」。そう答えると、「あした、ここで待ってるから」というれいに無言のまま、武蔵のもとに駆けよった。 「どんな話をしたんだ。そうだ、いっそのこと、うちでも犬を飼うか? 柴犬か、それともシェパードもいいか? 外国の犬なんだが」 武蔵のことばになんの反応も見せずに、無言のまま武蔵の腕にしがみついてきた。小夜子の気まぐれには慣れている武蔵だが、このときだけは違和感を感じた。 「どうした、疲れたのか? こんやはステーキにするか、それとも新鮮な魚介でも食べるか?」 「ああそういえば、呼子のイカが有名だな」 「食事が終わったら海岸を散歩するか?」 いろいろと問いかけても、「うんうん」と、空返事をくりかえしてくる。なにか悩みごとがあるのかと気になるのだが、武蔵には思い当たることがない。熱でもあるのかと額に手を当ててみるが、特段にあつく感じることもない。顔色も肌のつやも、毎月のように美容院でうける美顔術で、それこそ映画スターにも負けない。合点のいかぬまま、波消しブロックであがる波しぶきを横目にみながら旅館に着いた。 (三百十六) 「疲れたのか?」 夕食どきも元気がない。「美味しい、おいしい」と舌鼓をうつのが常の小夜子が、すこし口に入れただけで箸をおいてしまった。 「ねえ、タケゾー」と、やっと口を開いた。イカの刺身で地酒をたのしむ武蔵も、すぐに箸をおいた。 「れいちやんのことなんだけど…」と、あとがつづかない。 「あの娘のことか? どうした、その娘が」 暗いかおは小夜子には似合わない。そんな表情を見せられると、武蔵のこころも重くなる。座卓をはさんでの会話ではだめだとばかりに、小夜子のとなりに移った。座骨座り――あぐらをかくと腰に負担がかかりやすいと、お尻の下にだけ座布団を敷く――で背筋をのばして座った。そしていつものように、小夜子を横むきに座らせる。 「あのね……」。いつもの小夜子とはあきらかに違う。なかなかことばがつづかない。すこしの沈黙のあと、ようやく話しはじめた。れいもまた、かつての小夜子のように息苦しさを感じているのだという。祖父の教育観がれいを苦しめているという。 良妻賢母となるべきであると、毎夜のように言われる。れいとしては教員となるべく新制高校を考えているが、祖父はこれ以上の学業は不必要という考えだった。「どうしてもというなら、実科高等女学校で家事・裁縫を学べば良い」。とりつく島がないと悩んでいるというのだ。幾度となく実科高等女学校はないと説明しても、ならば行かなくていいとにべもない答えがかえってくるのだと嘆いた。 「あしたね、相談にのることにしたの。だからタケゾーは、旅館で休んでていいから」 せっかくの新婚旅行なのに、と言う。そのくせれいのことが、昔のおのれのように思えてならないと、言う。武蔵に出会う前の自分に感じられて、胸がかきむしられる思いが消えないと、言う。「だからなんとかしてあげたいの」と、言った。 アナスターシアじゃないのか、俺か。やっとあの女に勝てたということか≠ニ感じた武蔵だった。そしてこりゃ、無理難題を言われるかもな≠ニいう危惧感も感じた。 翌朝、れいが小夜子を迎えに来た。砂浜に行ったのだが、小夜子が約束を守ってくれるかどうか不安に感じて、押しかけてきた。たしかにはっきりと約束をしたわけではない。そんなひとりよがりさが、小夜子自身にもあることを自身がよくわかっている。 「おはよう、れいちゃん。観光案内してね、きょう一日」 朝から重い話はしたくないと思う小夜子だった。というよりも、考えがまとまらないのだ。 あたしの真似をさせるわけにいかないわ。ラッキーだったのよね、あたしは。それに、いざとなればアーシアを頼れば良かったんだし。でも、れいちゃんにはそんなラッキーは望めないだろうし。昨日のおじいさんを見てると、そうとうに頑固そうだし 「もちろんです、任せてください。でも良いんですか、だんなさまは。なんでしたら、ご一緒に……」 れいの思いとしては、武蔵にも聞いてもらいたかった。正直のところ、小夜子だけでは祖父を説き伏せることはできないだろうと思えていた。会社を経営しているという武蔵への期待値がいのだ。ひょっとして武蔵ならば奇跡を起こせるのではないか、そう思えるのだ。 「いいのよ、タケゾーは。疲れているみたいだから、きょうは休憩させるの」 れいの思いにはまるで気づいていない小夜子だった。といっても、結局は武蔵に任せることになるだろうとは思っていた。今日はとにかく、れいから話を聞くだけになるだろうと思っていた。相手が茂作ならば打つ手も考えられるが、まったくの他人なのだ、説得できるなどとは思っていない。 「小夜子おねえさん。あっ、おねえさんって呼ばせてもらっていいですか?」 まっすぐに小夜子を見ながら、れいが言った。虚を突かれた小夜子だった。妹といえば、正三の妹である幸恵が思いだされる。 「あたしも村を出ます」。小夜子に決意を告げたものの、その後はなんの連絡もない。小夜子に頼ることなく、正三という兄の世話になるということなのか。しかし…と、小夜子には疑問符を感じてならない。正三が父親の意に反してでも、ことをすすめられるのだろうか。そこまでの覚悟をもてるのだろうか。いやそもそも、幸恵の希望を良しとできるのか。ムリよね、あの正三さんでは=B 「きのうお話ししたこと、忘れてください」 強い光をはなつ目をむけながら、れいが小夜子に告げた。 「わたし、小夜子おねえさんにはなれません」 |