(三百二)

「誇りよ、自尊心よ。そうね、自分を信じる思いでもあるわね。よくいるでしょ、『あたしなんかどうせ……』って愚痴をこぼす女が。自分で自分を卑下してどうするの! そう言いたいわ。『貧乏人だから、片親だから、学校を出ていないから……』。色々言い訳をするけれど、そんなの自分を信じていないからよ。『おかめみたいなあたしなんか』ですって? 冗談じゃないわ! 女を顔で評価する男って、最低よ。それを受け入れる女もまた最低よ! 男に媚びてどうするの。しっかりしなさい! って、いいたいわ」
 舌鋒するどく語る小夜子に、勝子もたじろいでしまう。勝子自身に当てはまることなのだ。「やまいちだから、どうせ……」と、考えている勝子なのだから。今日のこれほどに激しい小夜子を、勝子は知らない。毅然とした立ち居ふるまいをする小夜子ではあるが、いまの小夜子は激しすぎる。ただただ、たじろぐだけだ。
「怒ってるの? 小夜子さん。だったら謝るわ、あたし。ごめんなさいね、馴れなれしくし過ぎたみたいね。分もわきまえないで、ほんとにごめんなさい」
 肩をすぼめて小さくなる勝子に、あわてて小夜子が言った。
「ちがうの、勝子さんに怒ってるんじゃないの。勝子さんをジロジロ見てるあの女たちに、腹が立ってるのよ。新しいものにたいしていつも反発するあの女たちに。そのくせ有名人がみとめると、手のひらをかえすように賞賛して。きのうまで敵対していたのに、きょうは大拍手みたいな。あたしもね、はじめのころは同じだったの。ジロジロ見られて、眉をひそめられて。でも、あたしは負けなかった。キッと睨みつけてやったわ。『文句あるの!』って、心のなかで叫んだりして」
「小夜子さんらしいわ。でも、そういわれれば、あたしもそうだったかも。小夜子さんとこうして親しくしてもらえなかったら、たぶん小夜子さんのこと、良くは思わなかったと思うの。ごめんなさいね、こんなこと言って。ひがみなのよ、ひがみ。わかってるのよ、ほんとはね。でも、小夜子さんが言ったみたいにね、『あたしなんか、どうせ』の口なの。努力もしないで、やっかみで文句をいうのよ。
 居るでしょ、文武にすぐれた人って。その人が男性ならね、憧れになるのよ。もちろん女性でも、憧れる人はいるわ。その人は特別ね。神さまみたいなもの。ただ、心のどこかで反発する気持ちもあると思うの。『あたしだって、金持ちの家に生まれていれば……』なんて思っちゃうのよ」
 勝子の本音だった。いまの境遇に不満をいだいてるおのれを、小夜子にはかくしたくない。小夜子に嫌われるのではないかと思えることでも、小夜子に軽蔑されるかもしれないと思えることでも、ことばにし行動にうつしたいと考えてみたりもした。
 しかしその思いを強くすればするほど身がすくんでしまう。凛としたすがたの小夜子を思い浮かべて、『新しい女、新しいおんな、あたらしいおんなになるの』と呪文のようにとなえてみる。だめだった。小夜子を思い浮かべてしまうと、とたんに萎えてしまう。結局は、小夜子からのがれられない勝子だった。

(三百三)

「いかがでございますか、小夜子さま。勝子さま。お気にめされたお洋服はございましたでしょうか?」と、森田が声をかけてきた。
「そうねぇ。このお洋服をいただくわ。あと、なにか胸元のアクセサリーもほしいわね。それとこのお帽子も。それから、合わせてお靴も欲しいわ。森田さん、見立ててくださる?」
「ありがとうございます。それでは勝子さま、こちらの椅子に腰かけてお待ちください。いくつか、お持ちいたしますので。少々お時間をいただきます」
 森田が、深ゝとお辞儀をして辞した。
「大丈夫? 小夜子さん。あたしなんかのために、こんなに高価なものを。社長さまに叱られない?」
「大丈夫、だいじょうぶだって。武蔵は、大丈夫」
ちょっと奮発しすぎたかしら? 『すっからかんだ!』なんてタケゾー言ってたわね。『全財産を使い切ったぞ!』って。でも大丈夫よね、タケゾーだもん。何とかしてくれるわよね。わたしに恥をかかせるようなことはしないわよね≠ニ、さすがの小夜子も考えた。しかしすぐに、おのれに都合よく話をつく作りあげた。
「ねえ、小夜子さん。もうあたし、十分。おうちに帰りたいわ」
「あら、疲れたの? お熱でも出たかしら」と、おでこに手を当ててみる。
うーん。熱があるといえばあるし、ないといえばないし……
熱気にあてられてのことかもしれないし……
 判断のつきかねる状態ではあった。
「すこしでもおかしいと感じたら、素人判断せずにもどってください」。医師からは言われている。だけど…≠ニ思ってしまった。
店内があたたかいんだし、勝子さんも興奮してるだろうし
 けっきょくは小夜子の思いが勝ってしまった。
「疲れてはいないけど、でも……。なんだか、ちょっと。気持ちが疲れたというか、人いきれがすごくて……」
 お昼どきになっていた、予定ではこれから昼食だ。しかし散財させてしまった小夜子に、これ以上の負担をかけるにはいかないと、気兼ねしはじめた勝子だ。
「気持ちの疲れなんて、吹っとぶわよ。それじゃ、富士商会に行きましょ。みんなにね、勝子さんをお披露目するの。それからね、お食事に行きましょ。もちろん竹田も一緒よ。それから、吉田と高木もね。五人で食事しましょう」
「ええっ! 小夜子さん、それはイヤよ。お食事だったら、ふたりだけにしましょうよ。それに、会社に行くだなんて。あたし、恥ずかしいわ。こまるわ、あたし」
 透き通るような白い顔に、ほんのりと赤みがさした。
「いいから、いいから」と、勝子を引っぱる小夜子だ。勝子の腕をかかえるようにして、小鼻にしわをよせて、小悪魔のようにふくみわらいを浮かべた。病院での勝子に、医師にたいする尊敬のまなざしや畏怖の念を見てとった小夜子に、勝子さん。あなたには悪いけど、あの医師はだめよ。あなたには分不相応。つりあいがとれないわ≠ニいう思いがうずまいた。勝子に言いよられて満更でもなさそうなそぶりをとる医師にたいしても、大病院の医師ともあろうものが……≠ニ、嫌悪感をもった。
もっと上質な女性をえらびなさい=B嫉妬心ではないのだが、勝子にはいまの位置にいてくれなければ困る、といった思いが小夜子のなかにかくれている。
「こまるわ、こまるわ、あたし。お仕事のじゃまになるでしょうに、きっと。社長さまに知られたら、きっと勝利がしかられるわ。いえ、勝利だけでなくて、小夜子さんもしかられるわ。そんなの、あたし、どうしたらいいの。勝利には『ごめんね』ですむけれど、小夜子さんにはどうすればいいの? だめよ、だめ。おうちに帰りましょ、ね?」
 竹田に「ふたりが姉さんを『お嫁さんにほしい』って、すごいんだから」とからかわれている――勝子にはそうとしか思えない。やまい持ちの女を嫁にもらおうなどと考える男がいるとは、どうしても思えない。それよりなにより、おのれの余生が、時間がどれほど残っているのか。短いものだと感じる勝子だった。

(三百四)

「おかえりなさいませ、小夜子さまあ!」
 タクシーが止まると同時に、どっと迎えにでてくる。そして「うわあ、この方が勝子さんですか? おきれいだわ」と、歓声があがった。
「竹田さんのお姉さん、なんですね? はじめまして」
「竹田さんが自慢するだけのことはありますね」
 みなが、口々にほめそやす。
「おお、これはこれは。いずれがアヤメかカキツバタですな。実におふたりともお美しい」と、押っ取りかだなで出てきた五平もまたほめことばを口にした。そのうしろに、頭をかきながら照れくさそうにしている竹田がいる。そしてそのまたうしろから、竹田の影にかくれるようにしている吉田がちらりちらりと盗み見をしている。
「おーい、ぬけがけは許さんぞ!」と大声を張りあげて、高木が出てきた。そのことばに、顔を真っ赤にしたまま、その場に勝子が立ちすくんだ。
ほんとだったの? 勝利の言ってたこと、ほんとなのね。こんなあたしをもらってくださる殿方、ほんとにいるのかも
 あたしなんか……と、なかば自暴自棄な思いにとらわれていた勝子の中に、むくむくと生に対する執着心が強まってきた。
「小夜子さん。あたし、あたし、ちょっと、その……。なんだか、胸が、ちょっと……」。
 激しい動悸にみまわれて体から力がぬけはじめ、立っていることさえままならなくなってきた。恥ずかしさからくる胸の動悸だと軽く考えていた勝子だが、息苦しさが伴いはじめて、そこでやっと尋常ではないことに気づいた。
「大丈夫? 勝子さん、しっかりして」
 へなへなとその場にへたりこんでしまった勝子に、小夜子もまた容態の悪化に気がついた。体を支えながら、「勝子さん、勝子さん」と何度も声をかけた。
「濡れタオルを持ってきて、竹田! だれか、病院に連絡して! 急ぐのよ、急ぐのよ!」
 早晩この事態がくるとは思っていた。しかしこんなにも早く、しかも今日の晴れやかな日にくるとは思いもしなかった。
どうして、どうして! 神さま、ひどいじゃないの。こんな楽しくすごしている日に、こんな仕打ちをするなんて。まちがってるの、わたしが? やっぱり、おとなしく静かにしているべきだったの?
「くれぐれもお願いします。とつぜんに襲いくるかもしれません。なにかのきっかけで、興奮状態におちいったときが一番あぶない。もう肺だけでなく、心の臓もかなり弱っていますから。静かな日々を送っていれば大丈夫でしょうが、喜怒哀楽のすべてにおいて、興奮状態が良くありません。御手洗さん、常在戦場のつもりでいてください。ほかの誰もがあわてふためいたとしても、貴女だけは冷静でいてください」
 医師のことばが、ぐるぐるとうずまく。ふたりのそばに、いや小夜子のまわりに、二重三重に人垣ができている。
「どいて、どいて!」。竹田の悲痛な声とともに、濡れタオルが手渡された。床に寝かせたまま、とりあえずそれを額にのせた。
胸に耳を当ててみると、弱々しいながらも、心臓は動いている。呼吸も荒いながらも、しっかりとしている。

(三百五)

 医師から告げられたことば、常在戦場ということばが、小夜子に覚悟のこころを持たせていた。
「竹田! 先生に連絡は取れたの? で、なんとおっしゃって? いいわ、電話を代わりなさい」
 要領をえない竹田の返答にいらだつ小夜子が、竹田から電話をひったくった。
「先生ですか? これからすぐに伺います。はい、意識はもどりました。一時的になくしましたが、声をかけたらもどりました。ええ、熱は少しあります。のどの渇きを訴えていますが、お水をいいですか?」
 小夜子が手で指示をする。勝子のまわりでおろおろとする竹田にたいし、
「竹田! お母さんを病院まで連れてきなさい。勝子さんにはわたしが付き添うから。四の五の言わずに、早く行きなさい」と、小夜子の叱責がとんだ。
「分かりました、すぐに連れてきます。専務、車をお借りしていいですか」
 小夜子のうしろで、その指図ぶりをうなずきながら見ている五平の声がとんだ。「はやく行け!」
 会食の予定があった教授の懸命の措置で、なんとか危機は乗り切った。まだ陽が高かったことが幸いした。また、今日という日も幸いした。あすには学会出席のために出張の予定がはいっていた。教授の面目もたった。関係者一同が、口々に、「強運の持ち主だ」とささやきあった。そしてその一同に、富士商会から鮨がふるまわれた。
 息せき切って、カネが病院に駆けつけた。しかし意外にも、その表情は落ち着いたものだった。覚悟を決めているのではない。いよいよという時をむかえる前に、勝子に娘としての喜びの一部だけでも感じさせられたことで、安堵感をおぼえていた。娘時代を病院のベッドの中で終える運命だった勝子に、わずかな日々とはいえこころ弾むひとときを味あわせることができたのだ。これで良かったのよ、とおのれに言いきかせるカネだった。

「勝子、勝子。どうだった? 楽しかったかい? すてきなおようふくらしいね。とても勝子に似合うって、小夜子さまにお聞きしたよ。さあつぎは、お食事だね。勝利もごいっしょさせてもらえるって、よろこんでるよ」
 病状のことなど、ひと言も話さない。とにかく、明日への希望だけを話しかけつづけた。勝利もまたそんなカネの横で、うんうんと大きくうなずいた。
「きょうね、勝利の会社に行ったの。ほんと、良かった。みなさんがね、すごく歓待してくれてね。うれしかった、あたし。ほんと、勝利の言うとおりだったわ。あたしね、母さん。みなさんに好かれてるの、びっくりした。でね、みなさんがね、あたしのこと美人だって。
 専務さんなんてさ『いずれがアヤメかカキツバタか』だって。小夜子さんよ、小夜子さんとよ。びっくりよ、もう。奥からね、高木くんがね、大きな声でね、ククク、ほんとに勝利の言うとおりだったわ。あたし、がんばるから。しっかりお薬のんで、きっと病気に勝ってみせるわ。ええ、負けてたまるもんですか。元気になって、退院して、小夜子さんとお食事して、それから、それから……」
「小夜子さまのおかげだよ、勝利。このご恩は、一生わすれちゃいけない。いいね、人間としてのさいていげんのことだよ」
 毎夜のごとくに、お念仏を唱えるがごとくに竹田は聞かされた。昨夜もまた「あしただね、勝子が娘になれるのは。いままで女としての勝子はいなかったからねえ。精一杯楽しんでくれるといいねえ。ほんとに、小夜子奥さまは観音さまだよ」と、いまにして思えば、この最期のときが明日だと感じているかのようだった。
「分かってるよ、母さん。ぜったい、忘れはしないよ」。そして竹田が毎夜となえるお念仏だった。

(三百六)

 とつぜん、勝子の声が小さくなった。あわてて看護婦を呼びに行きかける勝利に、勝子が小声ながらもはっきりと言った。
「ごめん、ごめん。恥ずかしくなっちゃって。あたし、恋をすることに決めたわ。お嫁さんになれなくてもいい。分かってる、わかってる。あたしの体だもの、お嫁には行けないってことぐらいは。だまって、聞いて。殿方とね、いっしょに映画をみるの。そしてお食事をして、それから少しお酒をいただいて。いいじゃない、少しぐらいなら。ひと口だけでも、飲んでみたいわ。ええええ、どうせすぐに真っ赤になっちゃうわよ。ほんのり桜色も、どう、色っぽいんじゃない? ね、そう思わない? えっ? 吉田くんと高木くんのどっちだって? ふふ、だめ。ふたりとも、お金持ちじゃないから」
 キラキラと瞳を輝かせて、空を見つめる勝子だ。その目には、竹田もカネもそして小夜子もはいっていない。しかし勝子の脳裏には、しっかりと思いえがく男性がいた。痩せほそったあばらがすこし浮きでている白い裸体をみせた、ただひとりの異性がいた。
「姉さん。吉田くんと高木くん、すごく残念がってたよ。今日にもね、求婚するんだなんて言うんだぜ、高木くん。いくらなんでもそりゃ早すぎるんじゃないかって、服部くんが言ったけどね。そしたらね、高木くん、『あんな美人を男がほっとくもんか。あとのまつりなんてことになったらどうするんだ!』って、かみついてたよ」
 左右の手をカネとともににぎりあいながら、目を閉じた勝子に語りかけた。うんうんとうなずく様に、手をにぎる力をつよめる竹田だった。
「そうね、そうよね。また、お出かけしましょうね。美味しいもの、食べましょうね。あ、あたしじゃないのね。未来の旦那さまとごいっしょなのね。はいはい、分かりました。武蔵にたのんでおくわ、すてきな殿方をご紹介してあげてって。吉田や高木には可哀相だけど」と、カネのうしろから小夜子が声をかけた。
「そいつは困ったぞ。ふたりには、なんて言えばいい? もう明日にでも、病院に押しかけてくるかもだぜ。ぼく、ふたりに恨まれちゃうよ。いや、ふたりに袋叩きにあうかも。そのときは、姉さんのとなりにベッドを用意してもらおうかな?」
「いやあよ、そんなの。弟がいるようじゃ、殿方たちに寄ってきてもらえないでしょ」
 白い部屋に、明るい笑い声がひびきつづけた。
 ゆったりとした日々が、無味乾燥な病室でおくられた。もう、退院したいとゴネる勝子はいなかった。終始おだかな表情で、かねをこまらせることもなかった。看護婦が「検温です」 と入室すると、
「ありがとうございます、お世話をかけます」と、感謝のことばたけが口をでた。
 あれほどに、「外出させて」「退院はいつ?」と、困らせつづけた勝子はどこにもいない。医師の診察にも、「女の先生はいないの?」と、病院着を脱ぐことを拒んだ勝子はどこに行ったのか。ときとして、布団を頭までかぶってまくらを濡らした勝子は、はたしてきょうのこのいまの勝子だったのか。まるで別人になっていた。

(三百七)

 それからわずか五日後のこと、小夜子との約束をはたさぬままに、勝子がこの世を去った。無念な思いをいだいたままの死であったはずだが、あの日のたった一日だけの外出が、無味乾燥な勝子のそれまでの一生に華を咲かせた。衰弱していくおのれの体を、愛おしく感じた勝子だった。
 きょうの空は快晴に近い。うすい雲らしきものが浮かんでいるだけだ。いまひと筋のひこうき雲があらわれた。左から右へとながれていくそれを見上げながら、勝子の口からゆっくりとことばが発せられた。
「ありがとう、小夜子さん。うれしかったわ、ほんとに。あの日いち日のことは、あたしにとって最良のいち日だったわ。ほんとよ、小夜子さん。死期が早まったのでしょう、お医者さまは反対されていたものね。でも、あたし、後悔していないから。ううん、逆ね。あの日がなかったら、それこそ死んでも死にきれないおもいだったわ。哀しまないで、小夜子さん。感謝してます、本当に」
 弱々しい声ではあるが、ひと言ひとことを大切に話す勝子だった。おのれの思いを、キチンと伝えたいという願いの声だった。
「それから、お母さん。おかあさんには、ごめんなさいとしか言いようがないわね。親不孝な娘で、ごめんなさい。でもお母さん。あたしはお母さんの娘として生まれてきて良かったと、心底思っています。勝利という立派な弟をあたえてくれたことも、ほんとにありがたいと思っています。
 こんな病弱な姉をもった勝利がふびんだとは思うけれど、これからは、天国に召されたあたしが、勝利をしっかりと見守ります。それで勘弁してちょうだいと、そう伝えてね。大丈夫、だいじょうぶよ。あたしはちっとも不幸だなんて思ってないから。ごめんなさい、おしゃべりが過ぎたみたい。すこし眠らせてね。大丈夫、また起きるから。でね、お母さん。こんど起きたらね、我がままを言っていい? 一度だけ、いちどだけでいいから、ビーフステーキとか」
 とつぜん勝子の声がとぎれた。勝子のひとみの力が、しだいに弱っていく。あわてて小夜子が、病室をとびだして医師を呼びに行った。機敏にうごく小夜子が、カネにはありがたい。ひとりで看病しているならば、ただただ、おろおろとしてキョロキョロと辺りを見回すことしかできまい。声を上げようにも、いまのわたしにはその力もないわ、そう決めつけるカネだ。
子どもたちにはつらい思いばかりをさせてきた。やまいにおかされていると知ったときにわたしがしたことといえば、民間医りょうをためしたり祈祷師をよびこんだりと、苦しめることばかりだった。
 キチンとした病院で診てもらうこともできたのに、せっかく勝利がしっかりとお金をかせいできたというのに、あたしときたら……。親の力のおよばぬことのいいわけに……。ごめんよ、勝子。おまえをころしたのは、このわたしなんだね。わたしがおまえを、おまえを、……
 ベッドの脇に泣き崩れてしまうカネだった。

(三百八)

「お母さん、居るの? ああ良かった。急にくらくなって、誰もいなくなっちゃって。でね、ビーフステーキとかいうお肉を食べてみたいの。それでね、先生にお願いしてほしいの。ほんのすこしの時間でいいから、また外出させてくださいって。小夜子さんにもお願いしてくれる? さいごの我がままを聞いてくださいって。大丈夫よ、小夜子さんはおやさしいから。お母さん、いる? お願いね。あたしのこころ残りは、それだけなの。お母さん、おかあさん。お願いね、おねがいね。ごめんなさい、眠くなってきちゃった。すこしねむるわ、すこしねむ…」
「勝子、勝子、勝子!」
「勝子さん、勝子さん、先生が来てくれたから。元気にしてもらえるから。ほら、目を開けて!」
「しっかりしなさい、勝子! お前はしんのつよい娘だろ? こんなことに負けちゃいけないよ! 勝子! 勝子!」
 カネの呼びかけが病室にひびく。はげしく勝子の体をゆすって呼びかける。医師に哀願のまなざしを向ける。たすけてください、とことばにならぬ目をむける。しかし、医師がしずかに首を横にふった。
「ご臨終です。竹田勝子さんは、永眠されました」。一礼をして離れる医師にたいして、小夜子が「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。
「勝子、勝子。やっぱりお母さんは、あんたに長生きしてほしかったよ。病院のベッドの中だとしても、やっぱり生きててほしかったよ。あんたにはこくなことかもしれないけれど、やっぱり、やっぱり、やっぱり……」
 はげしく泣きくずれる母親の背をかるくとんとんとたたきながら
「ごめんなさい。やっぱり、死期をはやめてしまったのね。勝子さん、ほんとのところはどうだったの? もっと生きていたかった? 外出なんかせずに、ここでじっとしていた方が良かったの? もっと生きていたかったの?」と沈痛な面持ちで、小夜子が問いかけた。そのことばは、母親にむけたものでもあり、そしてまたおのれに問いかけるものでもあった。
「ねえさん……」
 医師と入れ替わるようにはいってきた竹田だった。虫の知らせらというのか、なにやらムズムズする思いにとらわれて、いったんは会社に出勤したもののすぐに早退してきた。そして小夜子の「もっと生きていたかったの?」のことばに、勝子の思いを代弁するかのようにつぶやいた。
「ねえさん、幸せだったよね。最後のさいごに、好きな男性を見つけたもんね。知ってるよ、ぼく。レントゲンの先生が好きだったんだろ? だって、レントゲン室にはいっていくと、ねえさんのほっぺたに赤みがさして、耳たぶまで赤くしてたもんね。その先生が上半身裸で、汗を拭いていたときに、中にはいっちゃったんだよね。
小夜子奥さま、ほんとにありがとうございました。姉にかわってお礼を申し上げます。これから、ぼく、小夜子奥さまのためならなんでもします。奥さまが(死ねとおっしゃれば、いつでも差し出しますから)……」

(三百九)

「タケゾー、タケゾー。どうして、どうしてなの? あたしがお姉さんとよぶ人は、どうしてみんな、死んじゃうの? あたし、ひょっとして死神なの? あたしが慕う人は、どうしてみんな死んじゃうの? タケゾー、タケゾーは大丈夫よね? あたしを残して死んじゃうなんて、そんなことしないよね? いやよ、いやよ、そんなの。あたし、もう、耐えられない!」
 激しく泣きじゃくる小夜子をしっかりと抱きしめながら
「小夜子がふたりのことを、お母さんもふくめて、しっかりと覚えていれば、きっとみんな満足するんじゃないか。大丈夫、だいじょうぶだぞ。俺は大丈夫だ。小夜子を淋しがらせることはない。小夜子を幸せにするために、俺はこの世に生まれてきたんだから。前世からの約束ごとなんだよ。心配するな」と、そっと耳元でささやいた。
我ながら名文句じゃないか。恋する男は詩人になるというけれど、ほんとうかもな
 己のことばに酔う武蔵だったが、小夜子もまたそのことばに酔った。
「そうよね、そうよね。タケゾーはあたしを幸せにするために生まれたのよね。そうだわ、きっと。前世からの約束ごとなのよ。きっと、前世では結ばれなかったふたりなのよ。哀しい恋のものがたりだったんだわ。神さまの憐憫の情でもって、あたしにタケゾーを引きあわせたのよね」
 武蔵の胸のなかで、母親にあやされる幼子のように、やすらぐ小夜子だった。小夜子の黒びかりする自慢の髪をゆびでなでながら、武蔵もまた気持ちがやわらいでくる。どんなにささくれ立ったこころも、その髪にふれることで凪いでいく。
「ああ、そうだとも。『御手洗武蔵は、一生涯、我が妻小夜子を大事にすることを誓います』って、神さまの前で誓ったろうが。この世の誰よりも、俺が小夜子をだいじに思っているんだぞ。このことだけは、なにがあっても忘れるな!」
「うん、うん、うん」。
 力強い武蔵のことばに、語気つよく発せられたことばに、小夜子の思いがたかまっていく。
「タケゾー、たけぞう」となんども声をかけ、そのたびに力強く「女神さま、観音さま」と応じる武蔵の胸にからだもこころもあずける小夜子だった。
小夜子という女は、身近な人間の精気を吸い取って成長するのかもしれん。アナスターシアに勝子、いやまさかの、遡れば母親もまたそうだったかもしれん。邪鬼だったか、人間の生気をうばいとるのは。小夜子の天邪鬼さは、こんなところからきてるのか? 俺にしても、小夜子にならば、と思ってもしまうからな。もつとも、まだまだその時期じゃないがな。なんにしても、小夜子が相手なんだ、みんな納得してのことだろう。成仏してくれよ
「小夜子。旅行だ、新婚旅行に行こう!」
 抜け殻のような日々を送る小夜子に生気を取り戻させるためにもと、急きょ新婚旅行を武蔵が計画した。そしてその甲斐あって、見違えるように元気になった小夜子だ。
そうよ、そうなのよ。あたしが幸せになれば、それで亡くなったふたりもまた、幸せな気分を味わえるのよ。だって一心同体なんだもの。あたしとアーシアと、そして勝子さんは。もちろん、お母さんもね