(二百九十四)

 そして翌日のこと。
「先生! どうなんですか、本当のところは。勝子さん、回復に向かっているんですか? 退院できる目途は、本当にあるんですか?」と、医師につめよる小夜子がいた。身内ではない小夜子に、勝子の病状を話せるわけがないことは分かっている。
「御手洗さん、家族以外の方に話すわけにはいかんのです。家族にでも聞きなさい」
 木で鼻をくくった態度を見せる医師だったが、それでも小夜子はつめよる。武蔵から多額の礼金がわたされていることを知る小夜子だ、むげな態度をとられることはないと考えていた。
「誰です? 竹田は知っていますか? 聞いても、開放に向かっていますというだけですよ。わたしには、信じられません。わたしの母の最期とおなじに感じるんです。体調はいいのに、微熱がつづいて。回復にむかっているように思えたあと、とつぜんに逝きました。なにか、そのときと同じに思えて」
「お母さんに話してありますから。息子さんには話してくれるなと、懇願されましてね。それじゃぼくは忙しいので。きみ、御手洗さんのお帰りだ」と、横を向いてしまった。
「申し訳ありません、患者さんがお待ちですので」と、看護婦が戸口に手をかけた。
 しかしそれでも諦めない小夜子だ。いまが診察時間外で、待合室に人がいないことを確認している小夜子だ。
「先生、むりを承知なんです。それじゃ、こうしますわ。わたし、ひとりごとをいいます。違っているときだけ、首を横にふってください」
 有無をいわせぬ強い口調で、小夜子がにじり寄った。医師にとっては迷惑な話ではあるが、上の方に武蔵から多額の金員が渡っている。そして医師自身も、いくばくかのおこぼれに預かっている。「最大限の便宜を図るように」との厳命もある。渋々ながらも、小夜子の提案にのることになった。
「竹田の話では、快方に向かっているとか」。医師が首をふる。「悪いんですね、相当に」。反応を見せない。眉間にしわを寄せている。
「一年、ですか?」と、思い切って余命にふみこんだ。ギョッとした表情を見せつつも、目を落として首をふる。「6ヶ月?」。また、首を振る。
「ま、まさか……三、ヶ月?」
「うーむ……」。視線をあげて、医師は空一点を見つめる。
「そ、そんな……」。思わず絶句する小夜子。
「ど、どうしようもない、のですか?」。深く大きなため息を吐いて、医師がうなずいた。
「もういいでしょう。あとは、お母さんに話を聞いてください」
 立ち上がりかける医師に、その袖口をつかんで小夜子が懇願する。
「先生! 体力の残っている今のうちに、好きなことをさせてください。お母さんとも相談しますが、退院ねがいがでたら許可してくださいな」
「そ、そんな。容態をわかっていらっしゃらないから、そんなことが言えるんだ。冗談じゃない! 医師として、そんなことはできない。いつ倒れるかもしれないんですよ、それでは。それに第一、死期をはやめることになってしまうことになる。医師としてね、そんなことは認められない。話になりません!」
 顔を真っ赤にして拒絶する医師。指先がわなわなと震えている。

(二百九十五)

「先生。このまま、ベッドにしばり付けられたまま最期をむかえる患者の身にもなってください。白い天井を見つめたままで、なんの楽しみもなく過ごすなんて。あんまりです、残酷です」
 なおも食い下がる小夜子だが、医師は呆れかえった顔をみせている。だめだめ、と首をふるだけだ。
「あなたねえ、病人に早く死ね! とでも言うの? 信じられませんな、まったく。楽しみがない? そんなものは家族で楽しませてやりなさいよ。医師がどうのという範疇を越えている。そうか。家族じゃないから、そんな無責任なことが言えるんだ。他人だから、そんな風に考えるんだ。どこの世界に、病人を早死にさせようとする者がいますか! 信じられん、まったく。お引き取りください!」
 憤懣やるかたないといった表情を見せて、そっぽをむいてしまった。話にならん、とつぶやきながら、机の上のカルテに目をおとした。目をおとしたといっても読んでいるわけではない。ただ漫然とながめるだけだ。
 看護婦が、「お帰りください。先生もおいそがしいので」と、小夜子に声をかけるが、しかしそれでも食い下がった。
「先生!」と、キッと睨みつけながら、つづけた。
「若くして母は、死にました。でも旅立つすこし前に、一時的によくなったんです。床から出ることができたんです。その時にはじめて、母の化粧姿をみました。とてもきれいでした。今でも、はっきりと思い浮かべることができます。そして食事を作ってくれました。一汁一菜の粗末なものでしたが、わたしにとっては宝です。あの時だけ、母になってくれたのです。
 我が子のために、たった一度でも、母としての責務をはたせたこと、さぞかしうれしかったと思います。後生です、先生。勝子さんに、生きてきて良かったと思える思い出を、どうぞ与えてください。女としての喜びを感じさせてあげてください。このままじゃ、勝子さん。なんのために生まれてきたのか、なんにも残りません」

 涙顔で訴える小夜子に、
「お母さんからの、話をお持ちください」と、困惑顔で医師が答えた。小夜子のしつこさに辟易している観がみてとれる医師だ。
冗談じゃない、そんなことは許されん。母親なら、こんな無茶は言わないだろうさ
 こころ内で舌打ちしながら、とにかく話を切り上げにかかった。
「ありがとう、先生。一生、恩にきます。お母さんから話をしていただきます。お母さんだって、きっとわたしと同じ気持ちだと思います」
 嬉々として立ち去る小夜子、母親を説得するべく病室に向かった。病にかかった患者にとって、医師は神のような存在だ。医師のことばは絶対であり、疑義をはさむことなどありえない。有りうるべからざることだった。病をなおしてくれと懇願する家族はいても、いち日でも長い存命をねがう家族はいても、安らかな最期をとねがう家族はいても、死期を早めることになってもやむを得ぬ、生きた証しを持たせたいとねがう家族などいない時代だった。

(二百九十六)

 その翌々日。あいにくの曇り空の下、晴れ晴れとした表情をみせる勝子と、誇らしげに目をかがやかせる小夜子。そしてそんなふたりを眩しげにみあげる、しかし不安げな目をなげかけるカネがいた。
「小夜子奥さま。ほんとによろしいのですか? 社長さまのごりょうかいをえていないというのに、お買いものをさせていただくなんて」
「大丈夫ですって。武蔵にはあとで話しますから。あたしのやることに文句をいう武蔵じゃありませんから」
「さあ、行きましょ。早く百貨店に行きましょ」
 小夜子の手を引く勝子、お祭りに出かける幼子のようにはしゃいでいる。にぎられた勝子の手は、相変わらずに微熱が感じられる。先日とほぼ同じだという気もするが、勝子の体調は変わらずいい。はしゃぎまわるその様からは、とてもやまい病をかかえているとは思えないほどだ。しかしその気の高ぶりが、小夜子には気かがりだ。はしゃげばはしゃぐほどに、そのあとに来るであろうドカ熱が恐ろしくもある。
いまよ、現在を楽しませてあげなくちゃ
たのしい思い出をつくってあげなくちゃ
美味しいものを食べて、そして飲むのよ
案外に、病気がなおっちゃうかも
 まるで根拠のないことなのに、
奇跡を呼び起こせるかもしれない
そうよ、そうなのよ。病は気から、というもの≠ニ、そんな思いがわいてきた。

「いいですか。すこしでも具合が悪くなったら、すぐに戻ってください。けっして、無理はしないように。退院は許可できませんが、一時外出ということにしましょう」
「先生。具合が悪くなるなんてこと、ありませんよ。こんなすてきな一日なのよ、なるはずがないわ。神さまは、そんな意地悪じゃありませんて」。
 勝子が明るく言い放っては、医師も苦笑いをするだけだ。
「そうよ、そうよ。そんな意地悪な神さまだったら、わたしたちがひじ鉄砲しましょ。そうだわ、勝子さん。神さまにお礼の投げキッスをしなくちゃ。そうすれば意地悪されないわよ」
 恥ずかしがる勝子を窓辺にひっぱり、二人そろって空に向かって「チュッ!」と、手を振った。
これにはカネもあきれかえり「すみません、まだ子どもでして」と、あっけにとられている医師に頭をさげた。
「いやいや。あんがい効果があるかもしれませんよ。この美女ふたりの、キスですからねえ」
 思いもかけぬ医師のことばに、カネがおどろいた。かたわらの看護婦も、思わずクスリと笑いをもらした。

(二百九十七)

 医師を長らく見てきた看護婦も、石部金吉のごとくに勤勉実直さを体現してきた医師の、あり得ないことばに信じられないといった表情をみせた。
「いや、こりゃどうも。ぼくには似合わぬことばでしたね。いや、失敬、しっけい」
 当の本人にしても、どうしてこんなことばを口にしたのか、いやそもそもこんなことばが浮かんだのか判然としない。若い女性患者を受け持ったのは勝子がはじめてであり、上司である内科部長に、担当を変えてほしいと先日に申し入れをしたほどだった。どうにも勝子相手ではドギマギとしてしまい、聴診器を胸にあてるおりには横を向いてしまう。透きとおるほどに白い勝子の肌がまぶしく、いっそのこと色メガネをかけての診察をと考える自分が滑稽に感じられる医師でもあった。
「女の柔肌にふれたこともないんだろう」
「年増ばかりを相手にしてちゃ男がみがけんぞ」
「そろそろ君も身をかためなくちゃな」。
 先輩医師たちにからかわれながらも、「やるときにはやりますよ、ぼくだって男ですから」と虚勢をはりつつも、情けなさを感じないわけでもなかった。 
 とつぜんに、小夜子が声をかけた。
「せんせ。先生にも、投げキッスを上げる。ほんとに、ありがとう。勝子さん。あなたは、先生のほっぺにキスしてあげて」
「え、ええ。そ、そんなこと……」
 ほほを赤らめる勝子を、小夜子が医師のかたわらに押しやった。
「ほら、チュッてしてあげて。先生は恩人なんだから」
「でも……」と、さすがにちゅうちょする勝子なのだが、おずおずと医師に顔を近づけはじめた。
「い、いいですよ、そんなこと。その気持ちだけで、十分だ」
 思わぬ勝子の動きに、医師が後ずさりをする。そして両手を前に出して、「御手洗さん、冗談がすぎますよ」と、両手をふった。夢から覚めたように、おのれの動きを止める勝子に対し
「だめ! 感謝の気持ちをキチンと伝えなきゃ。勝子さん、新しい女になりたいんでしょ? 幸せな人生を送りたいんでしょ? だったら自分の気持ちを素直に表現しなくちゃ」と、容赦なく小夜子がはやした。
 顔を真っ赤にした、勝子と医師がいた。そして小夜子と看護婦が祝福の拍手をしている。「お似合いのふたりよね、そう思うでしょ」。小夜子のことばに、ますます顔を赤くする勝子だ。異性としてなどまるで意識していなかったが、いま小夜子にはやされて、実直さのにじみでている糊がしっかりときいた真っ白い白衣が勝子の気持ちを持ちあげてくる。
 そんな上気した勝子を見たカネには、小夜子の心情をどう理解していいのかまるで分からない。恋心とはまるで無縁だったこれまでの勝子に初恋として記されてほしいという思いと、一方では余計なことをという気持ちがあった。感謝と恨みのふたつの相反する感情が、小夜子にたいしてわいてきた。

(二百九十八)

 十時の開店と同時に、どっと流れこむ人ごみの中に、ふたりがいた。
「すごいのね、小夜子さん。いつもこんな感じなの?」。
 かるい息切れを感じつつも、たかまる高揚感をおさえきれない勝子だった。小夜子にとっても、はじめての経験だ。ふだんはお昼をすませてからであり、森田の出迎えがあった。しかし今日は、勝子の希望で開店と同時にした。
「うわあ、素敵! おとぎの国に来たみたい。ねえねえ、小夜子さん。どこ、どこから見てまわるの?」。
 目を爛々とかがかせて店内を見まわす勝子は、まるで少女のようなはしゃぎ方だ。
「そうねえ、お洋服からにしましょうか。勝子さんにぴったりのお洋服を、まず探しましょう。それから胸元のアクセサリーにバッグでしょ、お靴でしょ。それに、お帽子もね」
「そんなにたくさん? 勝利に悪いわ、そんなぜいたくをして。勝利はあたしの病院代があるから、自分のものはなにも買ってないし」。
 顔をくもらせる勝子だが、小夜子はまるで意に介さない。
「いいのよ、竹田は。男はね、女性を幸せにする義務があるのよ。そして女性から、その幸せのおすそわけをしてもらうの。女性がうれしいと、男もうれしいものなのよ。でも今日は、わたしからのプレゼント、贈りものよ」
「だめよ、そんなこと。小夜子さんにはほんとに良くしてもらったんだから。これ以上甘えることはできないわ」
「だめ、そんなことを言っては。遠慮なんてことばは、女性には無用のことばなの」
 婦人服売り場に立った勝子は、しばしことばを失った。むりもない。きのうまでは天井もまわりの壁も灰色がかった白にかこまれていた。寝返りをうつたびにギシギシと鳴るベッドにしばりつけられ、
「勝利に感謝しなくちゃね」と呪文のごとくにつぶやく母親が話し相手だ。見渡すまわりには、自分とおなじくベッドに横たわる青白い顔の女性だけがいる。ときおり訪れる見舞客にしても、声を落としてぼそぼそと話している。その辛気くささがたまらない。
 シンと寝しずまった夜半にギシギシと音をたてて寝返りをうち、その音に目をさました勝子は同室のだれかを起こしたのではないかと気になり“すみません、すみません”とこころの中であやまりつづける日々をおくっていた。
 しかしいまはちがう。新しい女だと自認する小夜子のお供で、むねを反らせて店内を闊歩していく。小夜子が先陣に立ち、どいてどいてと大きく手をふり、「そこのけそこのけ」とばかりに前を空けさせる。小娘ふたりがなにごと? と目をつり上げるマダムたちも、小夜子の勢いにおされてスペースを空けてしまう。
 己が張り子の虎だとは分かっていた。
けれどもきのうまでの卑屈な毎日から、きょうは解放されたのだ。白と黒というモノトーンの世界の住人が、極色彩のカラフルな世界に一瞬にして飛び込んだのだ。せまい路地を竹馬にのってよろよろと歩いていたものが、いきなり遊園地のメリーゴーランドに乗ったのだ。
 頭がクラクラしてくるのを感じても、体中の水分が沸騰しているような感覚におそわれても、このままこの場にたおれこんだとしても、勝子はこの世界から離れられない。地面に爪をくいこませてでもとどまろうとするに違いなかった。

(二百九十九)

ふふ、驚いてことばもないようね。当たり前よね、それは。わたしだって、はじめてここに足を踏み入れたときは、ほんとに胸がおしつぶされそうになったもの。まるで別天地ですものね。わかるわよ、勝子さん
「あの、あの、小夜子さん。あたし、あたし、どうすればいいの? なんだか、熱が出てきたみたい。足元が、なんだかぐらついて。立ってられないわ」
 へなへなとその場に、勝子がへたりこんだ。しかし、目だけは強い光を放ちつづけている。そこかしこにあるマネキン人形に注がれている。大きなフリルが胸元についた白のブラウスに、黄色が柔らかい色合いのスカート。それを着ている自分を思い浮かべる勝子は、そのとなりに、にこやかに送り出してくれた医師を思い浮かべていた。
「いかがなさいました? あら、小夜子奥さま。気づきませんで、たいへん失礼いたしました。ご連絡いただければ、お迎えにあがりましたのに。それにしても本日は、お早いですね」
 勝子に駆けよった森田が、手で勝子にふれながらも顔は小夜子に向いている。出会った当初の慇懃さは消え、いまではフレンドリーに接してくる森田だった。ふだんならばそれがうれしい小夜子なのだが、きょうという今は連れがいるのよ、感じとりなさいよ。TPOということばを知らないの!≠ニ不満に感じた。
「ええ、ちょっとね。きょうは、この方、勝子さんをご案内してきたの。わたしのお姉さんみたいな方なの。森田さん、よろしくね」と、冷たく言い放った。
「まあ、まあ、左様でございますか。あたくし、森田と申します。で、大丈夫でございますか? 勝子さま」
 さまなどと呼ばれたことのない勝子には、どう応じればいいのかわからない。ただただ戸惑うだけだ。小夜子を見上げてみるが、小夜子の視線は勝子ではなく、最新モードを追っている。今日は勝子の買い物だったと、おのれを言い聞かせた。
そうだったわ。ここは一般人のコーナーじゃない。わたしのテリトリーじゃないわ。クチュールの売り場は、いつも森田さんに案内してもらうから、わからないわ
「え、ええ。大したことでは……、ちょっと目まいが……」
「左様でございますか。何でしたら、しばらくの間、あちらの椅子でお休みください」
「いえ、もう大丈夫です」。小夜子の笑いをかみころす表情に気づいた勝子、うらめしげに軽くにらんだ。
「勝子さん、もう大丈夫よね。ありがとう、森田さん。もういいわ、ひと通り見てまわるから。あとで、色々とお願いするわ」と、森田を引き下がらせた。だからといって、ここで小夜子から離れるわけにはいかない。
 きょうも、ここ婦人服コーナーはごった返している。小夜子の気に障るようなことが起これば、井にまたどやされてしまう。あの日のことは、森田にとっては屈辱以外のなにものでもない。このフロアーでは十年の余を数える、ベテラン販売員だ。しかも主任という役職についている。
 なにかあれば、すべて森田の責任となってしまう。おのれの不始末から生じたトラブルならば、森田も甘んじてひきうける覚悟はある。しかし、多の販売員の不始末まで背負わされてはたまったものではない。

(三百)

「上得意さまなのね、小夜子さんは」
 まぶしげに見上げる勝子に、勝ち誇ったように応える小夜子だ。
「まあね。色々と、お買い物をしてるから。婚礼の品も、ここで一式そろえたし。それに、これからも色々とね」
「ああ、羨ましいわ。あたしも、そんな生活をしてみたいわ。あたしも、社長さんみたいな素敵な殿方にみそめられたいわ」
「大丈夫よ、大丈夫。ここで勝子さん、変身するの。最新モードで武装して、世の殿方を悩殺してしまうのよ。勝子さんは美人なんだから、よりどりみどりよ」
「ほんとお? なんだか、小夜子さんにそう言われるとそんな気になってくるわ。でも、あたしに似合うかしら? そんな最新モード」
馬子にも衣装ってことば、知らないの? それなりに、女性は変身できるものよ
 小夜子のなかに、べつだん侮蔑の気持ちがあるわけではない。勝子が好きな小夜子だ。しかしそれでも、おのれより一段下に見てしまう小夜子だ。
あなたたちより数倍も努力してきたのよ、わたしは。のほほんと生きてきたあなたたちが、このわたしに勝てるわけがないでしょ!=Bどうしても、この思いが消えない小夜子だった。この性癖が、小夜子の小夜子たるゆえんになっている。母の愛に薄かった小夜子は、その境遇でもって周囲からはれものに触るがごとくに接しられた。真綿でくるまわれた生暖かい愛情をそそがれた小夜子だった。甘やかしということばでは、とうてい言い表せられない。愛されることに慣れてしまい、愛することを知らずに育ってしまった。

 雲のうえを歩く勝子がいた。
「まあ! ステキよ、勝子さん」。「お似合いですわ、勝子さま」
 小夜子や森田の褒めことばがかけられつづける。勝子の上気した顔が、しだいに自信にみちあふれてくる。勝子の思いもよらぬ変身ぶりに、小夜子もおどろいた。鏡のなかのおのれに見惚れている勝子だった。「これで、モガの仲間入りね」。小夜子のひと声に我にかえった。
「ほんとにあたしなの? ねえねえ、小夜子さん。あなたじゃないわよね」
「なにをいってるの。正真正銘、勝子さんじゃない。ほら、このお帽子をかぶってみて。うん! もう立派な貴婦人よ」
「いやだ。これ、あたしじゃないわ。小夜子さん、なんだか変なの。鏡のなかのあたしが、あたしをバカにしているの。『あんたなんかの着る服じゃないわよ!』って。あたし、だめ。耐えられない」
「しっかりして! 誰もそんなことは思ってないわよ。大丈夫、すごく似合ってる。ほら、見てごらんなさい。みんな、勝子さんを見てるわよ。羨ましがってるじゃない」
 後ろにいる森田をふりかえって、「ねえ、そう思わない?」と、賛同を求めた。「はい、おっしゃるとおりです」と、無難におさめた。それ以上の賛辞はさけた。小夜子の機嫌を損なうかもしれないと、恐れたのだ。小夜子の天邪鬼ぶりには、なんどもふりまわされている。

(三百一)

 同性の目はきつい。すすけた娘が魔法にかかったように、輝くばかりの女性に変身したことに、激しい敵意をみせている。自尊心の強い女たちの視線が、はげしく勝子に突き刺さっている。
「小夜子さん。痛いのよ、視線が。みなさんの視線が、あたしに『場違いだ!』って言ってるの」
「大丈夫、勝子さん。殿方を見なさい。皆さんあなたに見とれてるわよ。ほら、直視はしないけれども、チラリチラリと勝子さんを見ているじゃない。女王様然としなさいって。ほかの女たちの嫉妬の視線なんか無視して、はねかえしなさい。大丈夫、自信をもって」
 ついこのあいだの小夜子が、いまの勝子だった。とつじょ現れた他所者に対し、排除のしせいをとる女性たち。男たちが諸手をあげて歓迎の姿勢をみせると、それはなお激しくなった。しかし小夜子が女王さま然と振舞いつづけたことで、しだいにその矛はおさめられた。もちろん、そんな小夜子にかしずく井や森田の存在があってのことだったが。
女の価値はね、男にどれだけ貢がせられるかよ!
 胸をはって店内を闊歩する小夜子に、まだ二十歳そこそこの小娘であるにもかかわらず、もうだれも鼻を鳴らす者はいない。
「でもあたしは…。小夜子さんはりっぱな奥さまだけど、あたしはやまい持ちの貧乏人だから…」
「なに言ってるの! 自分で自分をおとしめてどうするの。もっと毅然とした態度をとって。男なんて、女が卑下した態度をとると、とたんに横着になるものよ。毅然としていると、それなりの態度で接してくるものなの。そりゃね、外見だけを立派にするだけじゃだめよ。自分というものを、しっかりと磨き上げることが大事なの。勝子さん。しっかりと、自分を磨きあげるのよ」
 泣き顔を見せる勝子に、小夜子がきっぱりと言い切った。それは過去の小夜子にたいする叱咤でもあつた。一歩でもひけば、敵はかさにかかってくる。苦しくともそこを踏みとどまってこその、位置なのだ。いったん奪われた尊厳は、なにをしても取り戻すことはできない。取り戻せたとしても、それには何十年という歳月を要することになる、そう思う小夜子だった。
「でも、自分を磨きあげるって、なにをすればいいの? どうするの?」
 なおも、勝子はひるんでいる。小夜子の傘の下で、ちぢこまっている。
「そうね、それが難しいのよね。先生がたのお話を聞いても、明確に答えてくださることはないわね。わたしはね、まず、本を読んだわ。いろんな作家せんせいの小説やら詩を読んだわ。それから、文化人といわれる人たちのお話を聞いたわね。そうして、知識をどんどん吸収して。女のくせに生意気だ! って、嫌味をいわれたこともいっぱいあったけど。そうして、アーシアに会ったのよ。彼女は、運命の人だったわ。アーシアに会ったことで、あたしの人生が一変したもの。アーシアのおかげで、自分というものにプライドを持てるようになったの。勝子さんにとって、あたしがその運命の人になれたら嬉しいのだけれど」
 アナスターシアが、「そうそう、その調子よ!」と、小夜子にエールをおくってくれているように感じる小夜子だった。そして今度は、自分が勝子を一段の高みへといざなう番だとかんがえた。
「運命の人? そうよ、小夜子さんは大事な人だわ。あたしの目を覚まさせてくれた、運命の人よ。でも、プライドって何?」