(二百八十五)
「いいの、いいのよ、勝子さん。竹田だって、そんな風には思ってないはずだから。そうでしょ、竹田? 見世物にするつもりじゃないんでしょ?」
「もちろんです、もちろんです。そんな……」
小夜子から差し伸べられた救いの手に飛びつく竹田だった。しかし勝子の怒りは収まらない。竹田のことばをさえぎって、叱り付ける。
「思っていようと思っていまいと、結果はそういうことになるのよ。勝利、あんた分かってるの! 好奇の目で見られるのよ! 会社のみんなに言っておきなさい。姉の勝子が怒っていたって。いいわね、承知しないわよ、そんなこと」
中々に怒りの収まらぬ勝子で、その後もぶづぶつとひとり憤慨しつづけた。
「まあまあ、勝子。そのへんにしておきなさい。勝利も、もうすこし考えることね。考えがたりなかったわね、たしかに。勝子の言うことの方が、まともだよ。さあさあ、いただきましょう。小夜子さまのお口に合いますかどうですか。ほんとのいなか料理でございますからねえ。料理人さんのような上品な味はできませんらね。でも、このに物は自信作でございますよ。なにせ一昼夜の間、ことことと火にかけておりましたからね。たくさんおめしあがりくださいな」
大皿から小皿に里芋が取り分けられた。しっかりと味が染み込んでいるのは、その色具合からも分かった。
「おいしそうね。それじゃいただきまーす」
大きく口を開けて小ぶりの里芋を食したとたん、大粒の涙をボロボロと流しはじめた。
「あれあれ、どうしました? 小夜子さまには辛かったですかね? 砂糖がたりませんでしたかね? お高いものだから、ケチりすぎましたかね? 申し訳ないことでした」と、カネが皿を下げにかかった。が、小夜子の手が、それを止めた。
「違うの、そうじゃないの。お味で泣いたわけじゃないの。いえやっぱり、お味で泣いたの。でも、辛いからじゃないの。美味しいから泣いてしまったんです」
小夜子の意味不明のことばに、一同が顔を見合わせた。
「びっくりさせてしまったわね。あたしね、母の手料理を食べた記憶がないの。どころか、お乳すら飲ませてもらえなかったわ。母の病のせいなの。勝子さんにはお話したけれども、労咳をわずらってしまい、ずっとひとり部屋だったの。あたし、母のそばに寄ることさえ許されなかったの。
いつも障子越しでしか、廊下からでしかことばを交わすことができなかったの。でね、お食事は祖父が用意してくれたりお隣からのおすそ分けしていただいたり。そうそう、たまにご本家から届けられたこともあったわね。といっても、お正月やらお盆やらの行事のある時だけだったけれども。ああそうそう、おひな祭りにお団子をいただいたのよ。美味しかったわ、あれは。母に届けたんだけど、食べてくれなかった」
「そ、そんな! そんな風には、ちっとも見えませんでした。いつもにこやかにしてらして、お嬢さま然としてらして」
(二百八十六)
「勝利! お前、どこを見てるのよ。それで商売人だなんて、よくいばってられるわね」
カネからの愛情をたっぷりと受け止めて育った竹田には、とういてい理解のできぬ小夜子の話だった。叱りつけた勝子にしても、心底から理解したものではない。ただ小夜子のことばを、そのままに受け止めたにすぎない。
まだ幼かったころに、弟がカネに溺愛されることに腹を立て、つまらぬことで弟をおとしめたことがある。貧乏暮らしをいやがっている、とかねに告げ口をした。それもごていねいに、勝子が直接聞いたのではなく、親戚から聞かされたと。むろん、竹田にそんな思いはまるでなかった。しかしカネにそのことで叱られても、口答えすることはなかった。ねえちゃんがつげ口したんだ。だからしかたないや≠ニ、勝子をかばってしまう竹田だった。そうするとますます腹が立つ勝子だった。
「年があけたら学校にはいるのよ。なのにまだ、おねしょなんて!」 もちろんおねしょをしたわけではない。勝子がすこしの水を垂らしたりしたのだ。そして母親のいないところで頬をつねったりもした。
「ついてこないで。あたしはあんたの子守じゃないんだから!」
ちょこまかと勝子にまとわりつくのは、同年代の子どもが周りにいないせいもあったが、勝子が姉であることがなによりの宝物と感じるせいでもあった。
「そうですか、そうですか。そんなおかわいそうなきょうぐうでらしたとは。それじゃ、たくさんおめしあがりください。なんでしたらおつつみしましょうかね。明日またおめしあがりいただけるように」
もらい泣きをしてしまったカネ、丼に移しかえはじた。
「ちょっと、お母さん! そんなことやめなさいよ。お手伝いさんがおいでになるんだから。失礼よ、そんなの」
あわてて勝子が押しとどめた。こんな田舎料理を持ち帰ってもらうなんて、千勢さんに笑われるわよとばかりに、口をとがらせた。
「いいのよ、勝子さん。千勢は、そんなこと気にしないから。かえって喜ぶわ。美味しいものには目がない娘だから。作り方を教えてほしいって言いだすわ、きっと。お母さん、いただいていくわ」
「社長さんは、ほんとに幸せ者ですね。こんな気立ての良い娘さんをむかえられて。勝利、お前も小夜子さまのような娘さんを見つけなさいよ」
「分かってるって、母さん。すみません、小夜子奥さま。こんなにかしましい食事では、食べられた気がしないのじゃないですか?」
「気にしないの、すごく楽しいから。こんなにわいわいとお食事するなんて、はじてよ。こんど千勢を連れて来ますから、教えてくださいね。そうだ、あたしも教えてもらおうっと」
「勝子! あんたも少しはみならいなさい。ちっとも手伝いしないで。あたしの料理の味は、ほんらいあんたが受けつがなくちゃ。分かってるの、ほんとに」
「あたしは良いのよ。どうせ料理を食べてくれる相手はいないんだから。それに、長生きなんかできないし。若くして死ぬのよ、はっ幸の美女なのよ」
(二百八十七)
「なに言うんだ、姉さん。治るよ、きっと。いや、なおってきてるじゃないか。この分だと、退院だって。そしたらお見合いでもなんでもして、お嫁に行かなくちゃ」
「そうだよ、勝子。なんといっても、女の幸せは結婚だからね。だんなさまにおつくしをして、さいごを看とるときに『お前、ありがとう』と言われてごらんな。そりゃもう、そりゃもう……」
感きわまって、割烹着のすそで顔をおおってしまった。
「母さん、分かったから。死んだ父さんに言われたんだよね。ありがとうって、言われたんだよね。笑い顔ひとつ見せなかった父さんが、言ってくれたんだよね。それが嬉しかったんだよね」
「お母さんの時代はそれで良いわよ。でも、あたしはちがうの。ねえ、小夜子さんもそうよね。ちがうのよね」
小夜子に同意をもとめる勝子だが、じつのところはなにがカネの時代とちがうのか分からないでいる。とにかくカネのように、夫に尽くすだけの人生はいやだと思っている。
「ちがうことなんかあるもんですか! 女はね、だんなさまのお世話をして、子どもをさずかったらキチンと育てあげて、そしてりっぱな人間として世間さまに送りだすものさ。それが妻としてのつとめなんだよ」
背筋をピンと伸ばして、小夜子に正対して、さらにつづけた。
「小夜子奥さま、あなたもですよ。それが女としての、妻としてのつとめでございますよ。生きざまでございますよ。新しい女だとかなんとか持ちあげられて良い気になってますと、ある日とつぜん悪意にみちた連中に、ストンと奈落のそこにつきおとされますよ。どうぞ、お気を付けてくださいな」
「母さん、なんてこと言うんだ。小夜子奥さまに失礼じゃないか! 謝ってくれよ、謝ってくれよ。申しわけありません、申しわけありません。姉さん。姉さんからも言ってくれよ」
「そうよ、そうよ。あたしのことにかこつけて、小夜子さんを非難するなんて。ったくどうかしてるわ! 小夜子さんのおかげなのよ、あたしが元気になれたのは。それを、それを、よくも!」
「いいのよ、いいのよ。お母さんの仰ることにも一理あるんだから。今までも厭なひとはいたし、これからだってもっといてやな人が現れるでしょうし。お母さんのお小言、肝に銘じておくわ」
「ほら、ごらんなさい。小夜子さまは分かってくださる。それなのに、お前たちときたら。勝子もだけど、勝利もそうですよ。まあね、服部さんたちみたいに女あそびにうつつをぬかすことはないから、その点は安心だけれど。でも、女には気を付けなさい。きりょうにばっかり気をとられちゃだめですよ。やっぱり小夜子奥さまのように、こころねのおやさしい方じゃなくちゃ。まあね、小夜子奥さまのようにきりょう良しで気持ちの良い方というのは、なかなかにお目にかかれるものじゃないけれどね」
小夜子に笑顔を見せて、そしてじろりと竹田を睨み付けるカネだった。
「でもね、勝利。お前だって、いっぱしの男だ。富士商会というりっぱな会社におせわになって、お給料だってよそさまにはひけはとらないんだ。いやとらないどころじゃないよ。かぶんにちょうだいしてるんだし。それにお前だって、なかなかの男前だし。きっと良縁にめぐまれますよ。そうだわ、小夜子さま。社長さまにお願いしていただけませんか? 勝利のよめの相手を」
(二百八十八)
「な、なにを言い出すんだよ。とんでもないことだよ、母さん」 あわてて竹田が、口をはさんだ。気色ばんで、つめよった。
「いいかい、勝利。あの娘さんはだめだよ。小夜子奥さまには申しわけないけれども、あのちせってむすめはいやしい。生まれがどうのと言っているじゃないよ。それを言ったら、我が家だって大したことはないんだから」
キッと竹田を睨み付けるカネで、その意思は固いものだった。
「そりゃね。料理もまあまあだろうし、気しょうもおとなしそうだ。でもね、顔に品がない。なにかしら、いやしさが感じられるんだよ。勝利には合わない。あたしだってね、ただ宗教にくるってたわけじゃない。それなりの勉強もしたんだ。人相見なんか、自分で言うのもなんだけどね、大したものだと思ってるよ」
「それにしちゃ、悪い奴だと分からなかったじゃないか。金をまき上げるだけの、悪い宗教だったんだ。しまいには、得たいの知れないしゅげん者なんてのも現れたし。加藤専務の力がなかったら、今ごろはどうなっていたことか!」
ボソボソとした小声が、しだいにその声に熱を帯びはじめて、最後には怒鳴りつけてしまった。
「勝利! 以前のことは言わない約束でしょ。母さんもよ。千勢さんのことを、そこまでひどく言うことはないでしょうに。小夜子さんの前よ、恥ずかしいったらありゃしないわ」
「いや、あのね。母さんの言いたいことはね、人間には陰と陽があるんだってことなの。男と女があるようにね。小夜子さまは、てんけいてきな陽ですよ。社長さまはね、ごうほうに見えても、じつは陰なんだよ。だからうまく行くんだよ。正三さまとおっしゃいましたね? 官吏さまは。その方はどうも陰は陰でも、ほかの陽のえいきょうを強く受けてなさる。
いえいえご両親ではありません。ご両親は陰陽にかんけいなく、たくさんのえいきょうをあたえなさる。それは当たり前のこと。それにはなれてらっしゃるんだから。そうではなくて、近くに強いえいきょう力を持ったお方がいらっしゃるはず。その方のえいきょうで、小夜子さまから遠ざかられたのです。ご本人はね、とても小夜子さまに近づかれたいのですよ。ですけれども、もう一方の陽にすいよせられています」
「母さん、やめてくれ。小夜子奥さまのことは言うなよ。もういい加減に宗教から離れてくれよ。忘れてしまったのかい、ひどい目にあったことを」
「勝利。そのことについては、さんざんにあたしをなじったじゃないか。あたしもあやまったろうに。親に、なんども土下座をさせたじゃないか。まだたりないのかい。なんだったら、小夜子奥さまの前でまた土下座しようか?」
ちゃぶ台からはなれると、いまにも土下座をせんばかりの態勢をとった。両手を膝の前でそろえたところで、小夜子が声を上げた。
「お母さんは悪くない。竹田が悪い! お母さんに謝りなさい。いいこと。お母さんのお話は、宗教の話じゃないの。あたしが不幸にならないようにって、ためになるお話をして下さってるんでしょ!」と、竹田を叱り付けた。
(二百八十九)
「いえ、あの、それは、でもそれは」と、しどろもどろになってしまった。
まさか小夜子に叱られるとは思ってもいなかった竹田だった。勝子にしてもそうだ。竹田の口が過ぎていると思いつつも、帰るたびに聞かされる説教話には辟易していた。言い返したいとは思うものの、元をたどれば勝子の病の平癒祈願からはじまったことだ。どうにもカネには、逆らえなかった。
カネにしても、複雑な思いでいた。味方をしてくれる小夜子に感謝をせねばと思いつつも、我が子を頭ごなしに叱りつける小夜子に複雑な思いも抱いている。女ごときに! 小娘ごときに!≠ニいう思いもわいてくる。
「小夜子奥さま、小夜子奥さま。もうけっこうでございます。勝利もわるぎがあってのことではございません。大恩ある小夜子奥さまを鑑定しましたから、おこったのでございます。ささ、おはしを進めてください。お食事にお呼びしたのに、とんだことになってしまいました」
もうこの話は終わりだとばかりに満面に笑みを浮かべて、はしを動かすようにすすめた。
「母さん。小夜子奥さまは、もう社長の奥さまになられたんだ。昔のことなんかほじくり返しちゃだめなんだ」。
小夜子に叱られたことが強くこたえている竹田で、どうしてもおのれの真意をつたえたいとばかりに、カネの意向を無視してしまう竹田だった。
「いいのよ、竹田」。小夜子にしても、このまま終わってしまうことには釈然としない思いがある。聞かされただけで終わってしまっては、小夜子の面目がたたないと思っている。
「良いお話だったじゃない。それで得心がいったわ。あれほどに固いお約束を交わしたはずの正三さんの心変わりが。やっぱりご本人の意思ではなく、まわりの説得だったのね。それに抗じきれなかったのね、正三さん。そこまでの人だったのよ。本当にむすばれる運命だったのなら、そんな呪縛もふりほどいてあたしを迎えにきてくれたでしょうよ」
突如カネの手をにぎり
「お母さん、ありがとう。これですっきりしました。モヤモヤが少しあったけれど、もうすっかり取れました。もうこれで、正三さんを思い出すこともないでしょう」と、晴ればれとした表情を見せた。
「ええ、ええ」と、カネは満足げにうなずいた。小夜子の穏やかな顔に、とりあえず安堵する竹田がいて、かやの外に置いてけぼりの観があった勝子だが、輝くばかりの小夜子をまぶしく感じた。
「決めた。あたし、小夜子さんを見習うわ。小夜子さんのように、強く生きるわ。小夜子さんのように、新しい女で生きるわ。一度きりの人生ですもの、後悔したくないわ」
すっくと立ち上がると、「竹田勝子の、宣言です!」と、運動会における選手宣誓をまねて声を張り上げた。
「でもね。お母さんには悪いけれど、ひとつだけ納得のいかないことがあるの」
あら、なんざんしょ? とばかりに、カネが小夜子を凝視した。
「千勢のことなんです。あの娘は、いいこなんですよ。家事全般はいざしらず、この間なんか、あたしの体調にまで気を配ってくれたりして。平熱が大事だって、教えてくれたり。それに、産婆さんとまではいかなくとも、要所はしっかりとつかんでいるんです。今までの苦労が、キチンと実になっているんです。
千勢ももうすこし考え方がしっかりとしていれば、きっと立派な新しい女性になれると思うんですよ。もっとも、お母さんの理想とする女性じゃないかもしれませんけど。竹田の嫁云々ではなくて、しっかりとした家に嫁がせてやりたいと、タケゾーも言ってますし」と、千勢の擁護にまわった。
(二百九十)
その日の夕方、勝子が駄々をこねた。もちろん今までにもありはしたが、今日は一段とはげしい。
「もう元気になっているんだから、このまま退院してもいいじゃないの! 病院暮らしは、もういや! だってこんなに体調が良いのよ。気分爽快よ、ほんとに。ねっ、小夜子さん。あなたもそう思うでしょ? あたし、元気よね?」
「姉さん、無茶を言っちゃだめだよ。先生のお許しをもらわなくちゃ。とりあえず今日は戻ろうよ。明日にでも、先生に話せば良いじゃないか」
「勝子。わがままを言っちゃいけません。もう少しでしょうに、もう少ししんぼうすれば、ほんとにたいいんできるんだから」
三人のやりとりがつづく。小夜子はただだまって聞いていた。口をはさみたい、勝子の味方をしたい、そんな気持ちをぐっとこらえて聞いていた。小夜子の母親である澄江もただ寝ているだけの状態ではあったが、その部屋に立ち入ることは禁じられてはいたが、それでもうれしかった。廊下から障子越しに声を聞けるだけだったがうれしかった。
その日のできごとをこと細かに話せることがうれしかった。そしてそして、たったひと言だけだったが、「おかえり、さよこ」がうれしかった。それを、勝子に教えたかった。「それが幸せなのよ」と、つたえたかった。
「いやよ、もう。かれこれ、ひと月よ。熱も殆ど出ないし、出ても微熱じゃないの。それも、夕方でしょ? 動きすぎたときに出るだけなんだから」
「だからね、そのび熱が出なくなったらって、お医者さまもおっしゃってたじゃないの。そしたら退院だって、おっしゃってるでしょ?」
「じゃあさ、こうしましよ。十日、いえ一週間おうちに居させて。もちろん具合が悪くなったら、すぐに病院にもどるし。お薬だって、キチンと飲むわ。ね、ね、そうさせて。お母さん、あした、先生にそう言ってきてよ。あたし、おうちで待ってるから」
きょうのこの日に病院に戻ればこの家に帰ることはないのではないか、そんな思いが、予感が、勝子には感じられてならない。いまはたしかに体調はいいのだが、これが明日も明後日もつづくとは思えない。どころか、こんやにも熱がぶり返すかも、と思えてしまう。小夜子が感じた微熱を、じつのところは勝子も感じている。しかしその微熱はほんのすこしの熱であり、勝子の気持ちを高ぶらせるための活力源のようなものなのだ。
「体が温まったから、これから全速力でいきますよ」。アスリートたちの力強いことばのように、勝子もまた、新しい女にむかって進みたいのだ。
しかしそれは勝子の言い分であって、カネと竹田の思い、そして医師の診断ではない。そして小夜子の理屈ともちがうものだった。小夜子にしてみれば、今しかないと思える。このまま病との闘いに破れて、女としての喜び――小夜子の思う女の幸せであるおしゃれや美味しい料理、楽しい娯楽のひとつも経験することなく――を知らずして一生を終えることなど考えられない、あり得ないことだった。いくどか口に出かかったことばを、グッとのみこんだ。
(二百九十一)
「でもね、勝子。うちにいても、なにもできないよ。おとなしく寝てなきゃだめなのよ。そんなの、いやでしょ? だから、もうすこししんぼうしてちょうだいな」
「どうしてよ、どうして寝てなきゃいけないの? こんなに元気になってるのに。おかしいわよ、ぜったい。それとも、治ってきてないの? 悪くなってるって言うの? お母さん、お母さん。先生に言われたの? 『勝子さんはもうだめです。治りません。あとは死ぬだけです』って」
「な、なんてことを言うの、この子は。えんぎでもないこと、言うもんじゃないよ!」
「そうだよ、姉さん。そういうことを言っちゃだめだよ。やまいは気からって言うんだから」
「なによ、その言い草は。勝利! ほんとのことを言いなさい。お姉さん、長くないのね? やっぱり死ぬのね?」
金切り声が大きくひびいた。勝子の切実な思いが、はげしく竹田をなじった。大きくふくらみはじめていた疑念の思いが、竹田に向けられた。カネに対してはどうしてもいえないことばが、弟の竹田には言える。そして竹田ならば、弟だからうそは言えない、いや言ったとしても勝子には感じとれるのだ。
「そうでしょ、そうなんでしょ。勝利! お医者さまからなんて言われたの! 正直に言いなさい。ほらごらん。なにも言わないのは、ううん、言えないんでしょ!」
竹田に勝子が、はげしく詰め寄った。
「ばか! いい加減にしなさい」
カネの手が飛んだ。涙をどっとあふれさせながら、平手打ちが飛んだ。
「親よりさきに死ぬのは、さいだいの親不幸だよ。いたいかい、いたいだろう。それはね、生きているからいたいんだ。でもね、ぶたれたあんたより、ぶったかあさんの方が、なん倍もなん十ばいもいたいんだよ。手がいたいんじゃないよ。こころが、こころがね、いたいんだよ。かわいいわが子に手を上げるつらさが、いたさが、あんたに分かるかい!」
そのことばは、勝子の胸にズシリときた。深くふかくつきささった。慈愛にみちた母親のことばが、勝子をあたたかくつつんだ。
「でも、でも…。勝利のかせぎの大半が、あたしの病院代に消えてるし。毎日の食べものだって、汁物とすこしの煮付けに、それからおしんこだけだし。たまにでるお魚にしても、いわしの干もの一匹じゃない。それにそれに、勝利は結婚もできないじゃないの。あたしは、あたしなんか、竹田家のやっかい者なのよ」
畳にワッと突っ伏すと、勝子の肩がおおきく波うった。
「なんてこというんだ、姉さん。ぼくは姉さんがいてくれるから、変ないい方だけど、姉さんが病気だから、こんなにがんばれるんだ。なまけ者のぼくがこんなにがんばれるのは、姉さんのおかげなのに。姉さんが一日でもはやく元気になってくれれれば、ぼくはそれで満足だよ。だから、そんな哀しいことはいわないでくれよ」
竹田も、あふれでる涙を拳でぬぐいながら、訴えた。
「そうだよ、勝子。元気になって、あんたもしっかりとはたらいてくれなくちゃ。そして勝利に、よめをむかえようね。あたしもそろそろ、おさんどんからかいほうされたいし。そうだよ、勝子! あんたも、およめ行いなくちゃ。」
居住まいを正して、母親が明るく声をあげた。
「女の幸せはね、なんといっても家庭をもつことだからね。やさしいだんなさまにとついで、たくさんの子だからにめぐまれなくっちゃ。笑いがいっぱいあふれる家庭をね、つくることだよ」
(二百九十二)
「お母さんったら。でも、あたしなんかだめよ。こんな病持ちの女を貰ってくださる殿方なんか、いらっしゃるわけないわ」
自嘲気味に、吐き捨てるように勝子がいった。畳のへりを指でなぞりながら、少し口をとがらせながら勝子がいった。
「いるよ、姉さん。すくなくとも、ふたり、いるんだよ」と、快活に笑いながら竹田がいった。
「だれ? だれなの、そのおふたりって」
「分かんない?」。勝子の目をのぞきこみながら、竹田が笑った。
「ま、まさか……。あんたの、会、社、のひと?」
「分かった? 吉田くんと高木くんだよ。あのふたり、姉さんのことを美人だってほめてた。二番目に美しい女性だって。一番は、残念ながら、小夜子奥さまだってさ。小夜子奥さまは嫁がれちゃったから、ぜったいに姉さんをお嫁さんにしたいってさ」
「からかうんじゃないの! あのふたりがそういうのは、あんたにごまをすってるんでしょ。だいいち、わたし、会ってない…」
勝子の声をさえぎって、竹田がいう。
「違うって! ほんとに、ほん、とに、そう思っているんだって。ふたりで協定をむすんでるんだぜ。おたがい、抜けがけはしない! って。ふたりそろって、姉さんの前で告白するって。ほんとにそう言ったんだ。姉さんは忘れてるみたいだけど、この家を建てたとき、ほら、お祝いにかけつけてくれただろ? 服部くんと山田くんが言ってたじゃないか。『勝子さんって、お母さん似だな、竹田に似なくてよかったよ』。『ほんと、ほんと。色白のきれいなお姉さんじゃないか』。覚えてない?」
そういえば、二十人以上が一斉に来て家のなかに入れきらずに、庭先で立ちんぼうをさせてしまった覚えがある。あのときは体調がすこぶるよく、カネの割烹着を借りて料理をあちこちに運んだ記憶がある。はしゃぐ服部・山田にたいして、ふたりの男の子――まさしく男子学生といった雰囲気を醸しだしていた――が、隅っこでちぢこまっていた。「たくさん食べていってね」と声がけすると、顔を真っ赤にしておずおずと手を出してきたふたりだったと、おぼろげに思いだした。しかし顔は浮かばない。いがぐり頭の男の子だった、としか。
「バカね。そんなこと、間に受けちゃって。冗談に決まってるでしょうに。こんな痩せっぽちのガリガリ女を、好きになるわけないでしょ! かつがれたのよ、あんた。バカね、ほんとに」
ほほを赤らめながら、なんどもなんども否定する勝子だ。しかしそれでも竹田は、口を尖らせていう。
「病気が治ったら、元にもどるって。栄養のあるものをたくさん食べれば、きっと元のふくよかな姉さんにもどるって。もっとも、太った姉さんを見たら、ふたりともあとずさりしちゃうかもね」
「なんてこと言うのよ、勝利は。お母さん。笑ってないで、なんとか言ってよ。小夜子さん、あなたもよ」
「さあさ、もうそのへんにしなさい。勝子、したくなさい。ちょっと失礼して、体をふきましょ。銭湯にはまだ入れないからね」
台所から、勝子の嬌声が洩れてくる。
「背中だけでいいから」。「そこは自分でやれるって」。「いいから。あたしにまかせなさいって」。「もうすこしやさしくして! 小夜子さんは気持ちよかったのに」。「なに言ってんの。きれいにしなきゃだめでしょ!」。「あしたは、先生のしんさつをうけるんだから」。
(二百九十三)
ふたりの会話に、竹田が顔を真っ赤にして、うつむいてしまった。ふだんから聞いていることなのだが、そのときには竹田もちゃちゃを入れて大笑いするのだが、いまは小夜子がいる。小夜子はだれかれなしに話すことはないだろうと思う。話すとしても武蔵だけだろうと思う。しかしその武蔵が五平に話し、五平は徳子に話すだろう。そうするとまたたく間に会社中に知られてしまうに決まっている。しかしそれがいやなのではない。
そんな会話を聞いたとしても、別段おどろくことではないだろう。ほほえましい家族の会話として、みな納得するものだ。じつのところはあまりにあけすけな、家族だけのおしゃべりを聞かれることが、相手が小夜子だけに恥ずかしくてたまらないのだ。
しかし小夜子には、それがうらやましく感じられる。母親とのそんな会話など、まったくなかった小夜子だ。育ててくれた茂作あいてでは、のぞむべからぬことだった。いまはたしかに武蔵がはなしを聞いてくれる。つかれた顔で帰宅しても、小夜子をあぐらかきした上に座らせて、「うん、うん」とうなずいてくれる。
日付けが変わろうとする夜更けになっても、あぐらかきした上に座らせて、「そうか、そうか」と頭をなでてくれる。目の中に入れても痛くない幼子にたいするように、ときにはほおずりをしてくれる。しかしそれでも、このふたり、母親と勝子のじゃれ合いではないのだ。
親子のあいだにしか存在しない、深いふかいこころの奥底からの信頼観が得られていないと感じてしまうのだ。いや、ことばにしてしまえば失われてしまうものなのだ。川のなかに手を入れてふれられるものではなく、空を切るたよりなさを感じるだけ、しかしたしかにそこにあるもの――それがほしいのだ。
「あらまあ、あたしったら。小夜子奥さまをほったらかしにして。もうしわけありません、小夜子奥さま」
ガラス戸から顔をすこし出すと、竹田がすかさず「ハハハ。小夜子奥さまのことを娘だって思ってるだろう。だから目に入らないんだよ」と、茶化した。
「これ! 勝利。そんな失礼なことを、言うんじゃないの。あたしらと奥さまとでは、まるで住む世界がちがうんだからね」
「お母さん、それは悲しいわ。あたしは貧乏百姓の娘なんだから。たまたま武蔵の妻になったというだけでしょ。そんな、住む世界が違うなんて悲しいこと、言わないで」
そうよね。生まれはひどいけれど、あたしは努力したのよ。他の子たちがチャラチャラと遊びほうけているときに、あたしは一生懸命がんばったのよ。だから今のあたしがあるのよ≠ニ、一段見くだす小夜子も、たしかにいた。
しかしそう思いつつも、勝子にたいし姉への思慕の念をいだいているのもたしかだった。アナスターシアにいだいた思慕の念に近いものを感じてはいた。天と地ほどの差のある勝子に、なぜにこれほどの親近感を感じるのか、今の小夜子にはわからなかった。
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