(二百六十四)

 前夜まで降りつづいていた雨も上がり、ぬかるんでいた道もほぼ乾いた。そこかしこにある小さな水たまりに車輪が入ると、水しぶきが上がる。突き抜けるような青空が、一気にゆがんでしまった。
「キャッ!」。「うわっ!」。そんな奇声が上がるたびに、「すみません」と小声で呟き、車中で頭を下げる竹田だ。が、当の相手には聞こえるはずも、竹田が頭をさげる様も見えるはずもない。
「仕方ないじゃない、道が悪いんだから。そんなことでいちいち頭を下げることなんか、ないでしょ!」
心根の優やさい竹田らしいわね≠ニ心内では思いつつも、口から出ることはじは辛辣だった。
「はい、申し訳ありません」と、小夜子にも頭を下げる竹田だ。
「米つきバッタじゃあるまいし、男がそんなに頭を下げないで! もっと毅然としなさい!」と、またなじる小夜子だ。
「申し訳ありません、性分なものですから」
「竹田、あなたね……、いいわ、もう。あたしがなにか言うと、決まって『申し訳ありません』だものね。でも、やめて。あたしが、いつも怒っているみたいで、不愉快になるのよ。きょうはお姉さんにお会いできる嬉しい日なんだから。いいわね」
「申し訳、いえ、はい、分かりました。とにかく姉も大喜びでして。話したとたんに、『今なの?』って、雨が降っているのに傘もささずに飛びだしてしまう始末で。母もまた、前々日から料理の下ごしらえに念が入りまして。手間ヒマをかけるほどに料理は美味しくなるから、なんて言いまして、はい」

「とにかくね、お母さんやお姉さんの前では、決してあやまらないでちょうだい。もっともおふたかたの前では、竹田と口を聞くこともないでしょうけどね。竹田、あなたに言いたいことがあるの。あなたの話って、なんていうか、キリというものがないの。何々して、なになにしてってね、文が終わらないのよ。だからね、聞いている方は気が休まらないの。分かる? まだなにか大事なことばがでてくるのか? って、身がまえながら聞いてなくちゃいけないから」
「申し訳、あ、いえ、その……。小夜子奥さまの前だと、どうにも、その、うまくお話ができないというか、その……、なんででしょうか」
 しどろもどろになってしまう竹田だが、武蔵の伴侶というだけでは片付けられない感情を抱いてることに、本人自身が気付いていなかった。
「ああ、でも楽しみだわ。お母さんのお料理も食べてみたいけれど、何といってもお元気になられたお姉さんよ。早くお会いしたいわ。正直、あのまま逝かれてしまうのかって心配だったけれど、持ち直されたのねえ。ほんとに良かったわ」
「はい、小夜子奥さまのおかげでして。もうことばもありませんが、家中みな、ほんとに感謝のことばをならべておりまして。でも小夜子奥さま、お疲れじゃありませんか? お帰りになられたその日に、あんなどんちゃん騒ぎになってしまいまして。その翌日にまた、こうしてお越しいただこうとしまして。ほんとに、申し……あ、言いません。もう言いません。もう、口を開きません」
 キッと睨み付ける小夜子をバックミラーに見た竹田。あわてて口を閉じた。


(二百六十五)

「遠いのね」
「もうすぐですから、はい。病院に近いものですから、どうしても引越すわけにいかなくて、母が通うにはどうしても近い所でないと」
 申し訳なさそうに、竹田の声が小さくなっていく。
「なに言ってるの、そんなの当たり前でしょうに」。
 ぴしゃりと、小夜子の強い声が飛ぶ。
「あ、あれ、姉です。あねが外で手をふってます」
 やっと現れた援軍を誇示するように、竹田の晴ればれとした声が車中にひびいた。
「そんな大きな声を出さなくても。お姉さん? あら、ほんとだわ。お姉さーん! おねえさーん! 勝子さーん!」
 車の窓から身を乗りだすようにして、小夜子も手をふぬった。
「小夜子奥さま、危ないですから。あまり乗り出さないでください。怪我をされては、社長に叱られますし」

「小夜子さん、小夜子さん。あたしね、あたしね、こんなに元気になっちゃった。ほらね、ほらね、こうやってピョンピョンができるようになっちゃった。どうしよう、どうしよう。ね、ね、どうしたらいい?」と小夜子の肩をしっかりとつかんで、何度もなんども飛びはねた。
「いいわよ、いいわよ。一緒にピョンピョンしましょ。お姉さんと一緒にこんなことができるなんて、ほんと夢みたい」
「おかげよ、小夜子さんのおかげ。ありがとう、ありがとう。いくら感謝しても感謝しきれないわ。小夜子さんが励ましてくれたから、あたし、あたし、ここまでこれ……」
 両の目から溢れでる大粒の涙が、勝子の声をおしながしてしまった。
「ちがうわ、ちがうわ。みんな、お姉さんのがんばりよ。あたしは、ほんの少しお手伝いしただから。母への孝行ができなかったあたしだけど、おかげで真似ごとをさせてもらえたんだもの。あたしこそ、感謝させてほしいわ」
「さ、もうこの辺にしましょ。無理をして、ぶり返したらいやだから。ね、こんど気候が良くなったら、デパート巡りしましょうよ。ね、お約束よ」

 差し出された小夜子の小指に、勝子の小指がからまる。
「指きりげんまん、ウソ吐いたら針千本飲ーます」
 思いっきりの笑顔を見せる小夜子だが、勝子の指からどか熱を感じた。
だめだわ、まだ。こんなに熱があるのに外泊許可を出すなんて、どうかしてるわよ、医者も。確認してみなくちゃ、これは。たしか、お母さんのときだって。良くなったって聞いたのよ。床上げも許されて、近付くことは許されなかったけど、顔色も良かったし。でも、でも、そのすぐ後に。いえ! 大丈夫よ。お母さんとちがって、きちんと治療しているんだから、大丈夫よ。お母さんとはちがうんだから。武蔵が、大丈夫だって言ってくれたんだから
 小夜子の母とは比べるべくもないのだと思いいつも、一抹の不安が過ぎってしまう。

「勝子、勝利! 小夜子さまを、ほら、ご案内して。そんな玄関でなにしてるの、失礼でしょ」
 中から、声がする。二階建ての家で、土かべが所々はげかかっていたりしている。玄関のガラス戸もガタガタと音を立てなければ開かない。
「古い家でして」。申し訳なさそうに竹田が言う。「掃除は毎日してくれているのですけど」と、付け足した。
「なに言ってるの!」。奥から母親であるタキの声が飛んできた。
「お金が取りもどせたんですよ、専務さんのご尽力で」と、五平に対する感謝のことばが口をついたところで、あわてて「母さん! 社長の指示だと言ったろうが。社長のおかげだって」と、荒い声をかぶせた。
「いいのよ、竹田。分かってるから。こういったことは、専務のお家芸でしょうから。お母さんにそんな言い方をだめでしょう!」と、語気鋭く言った。

(二百六十六)

 場の雰囲気を変えるべく、勝子が「はーい!」と明るく返事をして、小夜子の手を握ったまま上がらせた。
「ここ、少しささくれてるから、気をつけてね」と、上がり口を指さした。
「勝利、こんどのお休みには直してよ。あんたは、何度も言わないとやらないから」
「わかったよ、いそいでやるから」。「それから、物干し台のがたつきのひと、忘れてないでしょうね」とつづき、「茶の間の桟にたながほしいんだけど」と、際限なく注文がでてくる。
「そんなに? 一度にはできないから、少し待ってくれよ。人使いが荒いのは、社長以上だよ」
「あんたは、ほんと、要領がわるいんだから」
 互いを責め合うことばが、ポンポンと飛び出してくる。しかし、そんなふたりの会話がうらやましく思える小夜子だった。
「でも、思い切ったわね。まさか、勝利が、一国一城の主になるなんてねえ」
 小夜子の手をしっかりと握りながら、「ここが勝利の部屋なの。そしてここがお茶の間で、奥がお台所なの。あたしのお部屋もあるのよ、二階に、ね。あとで行きましょ」と、説明しながら廊下を進んだ。
「ね、ね、見て、見て。ちっちゃいけれど、お庭もあるの。いまはまだなにもないけど、お花をね、植えるつもりなの。そうねえ、春には菜の花と、やっぱり桜よね。夏は、ひまわりでしょ。それに、朝顔よね。秋はね、とうぜんに秋桜。それと、菊の花よね。大っきいのじゃなくて、小菊が好きなの。ただね、冬が……。でも、いいの。お庭の土も、少しは休ませないと。一年中お花が咲いてるのもすてきだけど、疲れちゃうでしょうしね。もちろん、そのときどきで、植える場所は変えるつもりなんだけど。ねえ、その方がいいんでしょ?」

 まるで、夢見る少女だった。目がキラキラしてるわと、まぶしく思える小夜子だった。ほほにも赤みがさして、さながら少女漫画に登場してくるお嬢さま然としていた。片ときも離れたくないと、握った手をはなそうともしない勝子だが、小夜子には自分と会ったことでムリをしているのではないかと不安になってくる。
さっきより熱くなってる気がするわ。こんなことなら来るんじゃなかった。病院に確認してからの方がよかった=Bそんな思いが小夜子にわいてくる。
「お茶、持ってくるわね」と、いそいそと勝子がはなれた隙に
「竹田。ほんとのところは、どうなの? ほんとに快方に向かってらっしゃるの?」と、声をひそめて問いただした。
「は? はい、もちろんですけど。どうしてですか?」
 怪訝そうな顔つきで小夜子の真意をはかりかねるといった風に、竹田が逆に問い返した。
「なら、いいけど。確認しただけよ。お元気すぎるから、ちょっとね。驚いちゃってね」
おかしいわ、おかしい。あんなどか身なのに。なんとも思わないの? それとも、竹田には知らされていないとか。有りうるわね、母親だけに告げてるとか
 どうしても腑に落ちない小夜子だが、その時ふと千勢のことばが思い出された。
「小夜子奥さまご自身の体温、ご存知ですか? 平熱とか言うらしいのですけれど。大事なことですから、これって。先のお屋敷で、ちょっとした騒ぎがありまして。あたしも気にするようになったんですけど」
「なあに、どんなこと?」
「はい。ご主人さまが出社される直前に、奥さまがお倒れになられまして。前夜のお熱は七度ちょっとで、微熱だと思われていたのですけど。であわててお医者に診ていただかれたのですけど、肺炎一歩手前だとのご診断がでました」
「でも、そんな微熱なのに?」
「はい、それがくせものでございました。実はその奥さま。平熱がなんとまあ35度でございました。ですので、37度を越えますと、ほんとうは大変な高熱だったのでございます。ですから、平熱がたいせつなのだといわれました」

(二百六十七)

「そうなの、そんなことが。怖いわねえ、ほんとに。千勢は、どうなの? 調べたの?」
「あたしですか? あたしは、6度5分の標準でございました。でも小夜子奥さまは、きっと低いのじゃないかと思いますよ。そうだ、はかっておきませんか? お風呂上りではいけないので、しばらく間を置いてからでも。それから、明日の朝におはかりになってください。そうすれば、よりせいかくな平熱がでますから」
 そんな経緯から、小夜子もまたほぼ35度という低い平熱と分かった。
あたしが低いから、そう感じるのかしら? ううん、違うわよ。あの感じは、絶対に熱があるはず。微熱かもしれないけれど、見過ごして良いものじゃないわ。興奮しての体温上昇ならいいけれど。悪い兆候でなければいいけれど
 そう思って勝子を見ると、たしかに顔が赤みがかっている。元々青白い顔の勝子に、ほんのり赤みがさしている。健常なら喜ばしいことでも、勝子には悪い兆候に見えてならない。

「ねえ、勝子さん。疲れたでしょう? 横になって。足をさすってあげる、ううん、さすらせて。ね、いいでしょう?」と、なかば強引に勝子を横にしてしまった。
「いいわよ、そんなの。べつ別に疲れてなんかいないし。でも、そう? そんなに言ってくださるのなら、ちょっとお願いしようかしら。でも、ほんとにちょっとでよろしいから」
 しつこく言う小夜子に違和感を感じつつも、体を横たえると思いもかけず疲れを感じた。
おかしいわ、なんともなかったのに。なんだか体がだるいわ。そうか、小夜子さんに会えてはしゃぎ過ぎたせいね。ああ、でも気持ち良い。ほんと、小夜子さんって上手だわ。お母さんもしてくれたけれど、小夜子さんが一番ね。なんだかこのまま眠ってしまいそうだわ
やっぱり熱いわ、さっきより熱くなってる

「でもお元気になられて良かったわ。こうして自宅へ戻れるなんて、素敵! でも、ムリはだめよ。病院では静かにしてらっしゃる? 体調が良いからって、動き回っちゃだめよ」
 にこやかに微笑みながらさする小夜子だが、しだいに疑念が確信に変わっていく。
お母さんと一緒だ。いや、いやよ! 勝子さん、死んじゃいや! せっかく仲良くなれたのに、またあたしをひとりぽっちにしないで。アーシア、アーシア、お願い。勝子さんを助けて。お母さん、お母さんも助けて。ふたりとも、あたしをひとりぽっちにしてしまったんだから、今度はひとりにしないで。大丈夫、大丈夫よ。武蔵に言って、もっと高いお薬をつかってもらうから。日本でいちばん偉いお医者さまに診ていただくから
「どうしたの? 小夜子さん」
 勝子の足になま暖かいものが落ちてきた。それが小夜子の涙であることは、熱に浮かされはじめた勝子にもすぐに分かった。
「えっ? あ、ああ、嬉し涙よ。うれしくて、泣けてきちゃった」
「まあまあ、そんなことを。勝子、なんですよ! 起きなさい、ほんとにもう。申しわけありません、小夜子奥さま」
「だって……。すごく気持ち良いんですもの。お母さんみたいに、お義理でさするのとは違って、小夜子さんのは、心がこもってるもの。ほんと、ごくらくごくらく」 頭をあげるのもおっくうに感じて、うつぶせのままで答えた。
「小夜子奥さま、もう結構でございますよ。どうぞこちらでお手を洗ってくださいな。勝利、おぜんの用意をして。ほらっ、勝子! いいかげんにしなさい!」
「はあい! お腹もへったことだし。勝利、まずちゃぶ台でしように。あんたはほんとに段取りが悪いんだから。そんなことで、キチンと会社では仕事できてるの? なんか、心配になってくるわ。母さん、台拭きは? 母さんも人に言いつけるときには、用意ぐらいしておいてよね。勝利、お茶碗を出しなさい。お客さま用もね。それから小夜子さんは、あたしの隣よ。いいわね」

(二百六十八)

 起き上がるやいなや、仕切り始めた。竹田は、黙々と勝子の指示にしたがった。
勝子さんの前では、竹田も形なしね。会社じゃ敬われているのに。ま、竹田の機敏さは、勝子さんのおかげね。でも、覇気が感じられん! って言う武蔵だけど、なるほどよね
「さあさあ、お口に合いますかどうですか。田舎料理でございますが、どうぞ召し上がってください。味はしっかりと染み込んでいるはずでございますけれど、味付けはお宅おたくで違いますからねえ」
 大きな丼の中に、こげ茶色の芋やら人参やら白ねぎやらが、ごちゃごちゃと入っている。申しわけ程度にイカの足が所々に顔を出しているのは、ご愛嬌か。
「小夜子さんは、料理屋さんでの食事が多いんでしょ? あたしも死ぬまでに一度ぐらいは、食べてみたいわ。勝利。あんたは、食べてるわよね。社長さんに連れて行ってもらってるんでしょ? この間、すっごく良い匂いをさせて帰ってきたわよね。ああ、あたしもこんな体じゃなかったら富士商会に入社して、おいしいものをバンバンご馳走してもらうのにな」

「なにを言ってるんだよ。姉さんなんかに勤まるはずがないよ。気まぐれで我がままいっぱいの姉さんなんかに、富士商会の仕事ができるわけがない」
 口をとがらせて、竹田が言いかえした。
「あら、竹田。そんなに富士商会の仕事って、きついの?」
 ほくほくと湯気の上がる芋の煮っころがしを器用に持ち上げて、小夜子が聞いた。
「そりゃもう。きついなんてものじゃないですよ。とに角、あの社長ですからね。朝から晩まで怒鳴りまくられて、あ、いや! 申しわけありません。そういう意味じゃなくてですね、その……」
「そういう意味じゃなかったら、どういう意味なの?」
「いえ、それは。怒鳴られるのは、自分たちが、その……」
 しどろもどろになる竹田を、意地わるく笑いながら小夜子が問い詰める。勝子は、ワクワクといった表情で見据えている。母親だけが、困惑顔だ。
「社長は、会社一の働き者ですから。もう年中無休で、しかも一日中仕事のことばかり考えてらして。お酒を飲まれているときでも、です。とつぜんに、女給に『壱萬円やろう。その金でなにを買う? 貯金はだめだぞ!』って。それで、ほんとにお札を渡されるんです。ただし、ありきたりの買い物しか思いつかないときは、没収です。みなが、『えっ!』と思うような、それでいて『なるほど!』と納得できる買い物じゃないとだめなんです。いままでに実際にもらえた女給はいないんじゃないですか?」

「なあに、それって。ほんとはあげるつもりなんかなかったんじゃないの」
 小夜子の笑顔を眩しそうに見ながら、
「へへ。実はですね、加藤専務にお聞きしたのですが。ひとりだけ、いただけた人がいるとか。でも、女給さんじゃないんです。違いますよ、ちがいます。女子社員でもないです。会社だと、さすがに壱萬円は出ませんけれども、報奨制度というのがあるんですが。製品の売り上げが上がったとか、配達先で喜ばれたとか、事務関係だと経費節約につながったとか。いろいろなんです。ただ社長が決めるんで、えこひいきだなんて文句もときどき出ますけど。まあ、女の子が多いもんですから、分からないわけでもないんですが」
 一気にしゃべったところで、お茶でのどをうるおすと、「勝利は?」と勝子が口をはさんだ。 
「ぼく? ないよ、そんなの一度もないよ。そうだ! 吉田がもらいました。朝はやく品物を届けに行ったんですが、お客さんの指示があったのに、その人が寝坊しちゃって。それで、会社の前で待っている間に、道路の掃き掃除をしたらしいんです。それを町内会長さんが見られて、お礼を言われたらしいんです、お得意さんが。
それが社長の耳に入って、です」と、答えた。

(二百六十九)

「会社のことはいいわ。壱万円って、すごいじゃないの。だれ、だれなの? 女性なんでしょ、当然。ちょっと待って、あたしが当ててみせるから。うーん。えーっとね、うん。この人よ、この人しかいないわ。ひとりだけなんでしょ? えっ? と思って、なるほど! なのよね。ふふ、分かった。わかったわよ」
 確信ありげにうんうんとうなづきながら、勝子がちゃぶ台を囲むひとりひとりをゆっくりと指さしていく。
「この人、ぜったいに!」。その指差した先に、小夜子がいた。顔中に満面の笑みを浮かべながら、まるで自分のことを吹聴するがごとくに 
「姉さん、すごい! 当たりだよ、ご名答! みんながね、えっ! という顔をして、あとでなるほどって思ったんだって。いまのご時世で、女性がね、将来の自分を思い描いたというのが、社長が気に入られた理由なんだって。そのときに、小夜子奥さまを伴侶にと思われたらしいんです」と、小夜子を褒めたたえる竹田だった。
 顔の前で激しく手をふりながら、「ええっ! あたし? 壱万円なんて、もらったことはないわよ。あっ、ちょっと待って。そういえば、壱萬円云々って、女給さんたちにいってたわね。でも誰ももらえなくて。そうだ、そのあとで、『小夜子は?』って聞かれて……。あたしは、英会話の学校に通ってる話をしたの。だから辞書をたくさん買うかも? ってこたえたかしら……。でも、壱万円なんて、そんなお金はもらってないわよ」と否定した。
「勝利。あんた、良い社長の下で働いてるわ。ほんと、うらやましいわ。やっぱり、あたしも、富士商会に入りたい。でも無理ね、こんな体じゃ」と打ちひしがれる勝子だったが、
「なに言ってるんだい、勝子。しっかりと体を治して、体力を付けて、そしてお世話になればいいじゃないか。でも、恐そうな社長さんだね」と、声をかける母親を見て、小夜子の目頭が熱くなった。

「仕事に関しては、たしかに厳しいけどさ。でも、みんな、大好きなんだ。人情味にあふれてる社長で、どこまでもついて行くぞ! って感じなんだ。じつは、社長が結婚されると聞いたときには、不満の声が上がったんだよ。社長に見合う女性は、そんじょそこらにはいない! って。それこそ、人気スターじゃなければ釣り合わないって。でも、小夜子奥さまを見たとたんに、みんな大喜びしました。小夜子奥さまなら許せるって。みんな、そう思ったんです」
 母親の不安げな顔に、満面の笑みを見せながら竹田が宣した。
「あらあら、急にどうしたの。あたしを持ち上げても、なにも良いことはないわよ。なにも出ないわよ」
「そんなことないのよ、小夜子さん。勝利は、ほんとに小夜子さんが好きみたいで。初お目見えの夜なんか、そりゃもう口から泡を飛ばす勢いで、熱弁をふるったんだから。あんなことって、はじめてなんだから。あたしにね、まったくといっていい程、口をはさませなかったんだから」
「姉さん、やめてくれよ。あのときは興奮してたんだ。みんなで大騒ぎして、その余韻が冷めなかったんだから」
「それだけじゃないでしょ? その後だって、小夜子さんが会社にお見えになった日なんか、病院で自慢してたじゃないの。もっとも、あたしもそうだけどね」

(二百七十)

 顔を真っ赤にしてうつむく竹田が、その純さが、小夜子にはまぶしく映っている。
「ありがとう。みんながあたしを歓迎してくれたことは、すごく嬉しかった。みなさんに、喜んでいたと伝えてね。あたしも、たぶん会社のお手伝いをすることになると思うけれど、そのときはよろしくって伝えておいて。ちょっと不安もあるけれど、精一杯がんばるから」
 ことばとは裏腹に、目をらんらんと輝かせる小夜子だった。どんな仕事に従事するのかは武蔵の口から出たことはない。しかし英会話学校での成果をいかんなく発揮できる部署であることはちがいないはずだ、と確信している。通いはじめの頃の小夜子とちがい、いまでは堂々と教師とも渡り合っている。もう大丈夫! と、胸をはる小夜子だ。
「大丈夫ですよ、小夜子奥さま。社外的なことに従事していただくことになると思います」
「竹田は、知ってるの?」
「ぼくだけじゃありません、みんな知っていますよ」

 己の知らぬことを、竹田が知っている。五平ならばいざ知らず、雇われ人である竹田が知っている。いや社員全員が知っている。プライドを傷付けられた思いが、小夜子の胸にチクリと突き刺さった。
「武蔵ったら! 当人のあたしにはなにも言わないのに」
「ち、違います、小夜子奥さま」
 目をキッとつり上げて、明らかに不満げな表情を見せる小夜子に、あわてて、竹田が事の説明を始めた。
「社長はなにもおっしゃいません。よわったな、どうご説明したらいいか……。社員たちの気持ちなんです。なんというか、その……。そう! そうなんです、天下布武の旗印なんです。戦国の武将には、旗印がありますですね。たとえば、上杉謙信は『毘』の文字、武田信玄は『風林火山』といった具合の。太閤秀吉は、金のひょうたんとかですね。『うちの会社はこうだ!』という旗印を、みな欲しがっているんです。口のわるい業者間で、ハゲタカ富士商会と言われているんです。それが、みな、くやしいんです」
「ハゲタカ? ハゲタカって、あの、死んだ動物の……」。眉間にしわを寄せて、聞き返した。たまりかねて、勝子が口をはさんだ。
「勝利! いいかげんにしなさいよ! そんなの、やっかみでしょ! そんなことを、小夜子さんの耳に入れるなんて、どうかしてるわ」
「いいえ。聞かせて、竹田。強引な商売をしていることは知ってるわ。あちこちの会社を倒産にまで追いこんだとも聞いてるし」
「それは誤解です、小夜子奥さま。それじゃ、社長があまりに気の毒です」

 ぐっと拳に力を入れて、竹田が力説した。
「たしかに、ある会社から荷を引きあげました。それがきっかけで、倒産に至ったことは事実です。でも、それだって、相手を思ってのことなんです。富士商会からすれば、そのまま放っておいて、取引を絞り込んでいけば良いんです。でもそれじゃ、少しの間だけなんです。結局は夜逃げするしかありません。ひどいことになってしまいます。従業員がかわいそうです。なにがしかの金を残しての倒産の方が、従業員にも少しだけでも金をわたすことができます。それにうちが引き上げた商品だって、売れ残りの商品ですから。すぐにはさばけなかったし。大変だったんです、ほんとに」

「勝利、いいかげんにしなさいって!」
「勝子さん、最後まで聞きましょ。商売がきれいごとでは成り立たないことぐらい、あたしにも分かります。ねんねじゃないんだから。でも、ハゲタカというのは、どうして?」
 わなわなと唇をふるわせている勝子を制して、小夜子が竹田を促す。じっとうつむいたままの竹田だった。にぎりしめた拳に、ぽとりぽとりと雫がかかった。
「勝利。あんた、泣いてるの?」
「みんな、くやしい思いをしてるんだ。姉さんには分からないよ、この気持ち。なにもかもが、うちの会社、富士商会のせいにされちゃうんだから。一度だけの取引で、現金引換えという約束での取引なのに」

(二百七十一)

 ひとつひとつのことばに、竹田の無念さがこもっている。三代つづく、老舗の一つに数えられている金物店ではあった。初代、二代目と順調に業績を伸ばす店ではあった。三代目にしても腰が低く働き者だと評判のたつ好人物ではあった。が、その好人物ゆえの、店の傾きだった。従業員たちに対して、厚遇をつづけたことが命とりになってしまった。取引先から
「そこまで店の者を甘やかすのは、どうなんだろうね」と苦言を呈されることもままあった。結局は、たちの悪い業者にだまされて、金をつかまされた従業員の裏切りもかさなり、一気に資金繰りが悪化してしまった。
 そんな中ほとんどの業者が逃げにかかっている店に対して、売れ筋の製品を富士商会がまわした。
「これで挽回できるだろうが、慎重にやんなさいよ」
 武蔵のかけたことばに、「恩に着ます」と、深々と頭をさげた。ところがその製品まで、だまし取られてしまった。甘っちょろい三代目、とばかりに悪徳業者たちの餌食になってしまった。
「それでしばらくして倒産して。それがなんで、富士商会のせいなんだよ! 社長の温情なんだぜ、その取引は。一回こっきりのことだって、相手も承知していたんだ。社長の判断は正しいんだ。夜逃げしたからって、それが富士商会がつぶしたってことになってしまって。ぼく、くやしいんだ。集金に行く先々で、嫌味を言われて」
「ひどいわ、そんなの」

 憤懣やるかたないといった表情を小夜子が見せる。と、我が意を得たりとばかりに竹田の舌鋒がするどくなった。
「資本主義のなんたるかを、まるで理解していないやからの愚痴ですよ。許せないです、ほんとに。みんなおこっています、ほんとに。我々の努力がどれほどのものか、まるで知らないくせに。『富士商会の通ったあとには、ぺんぺん草が生えてる』なんて、こんなひどいことを言う者もいるんです。ですから、小夜子奥さまに、会社の前面に立っていただきたいんです。シンボルになっていただきたいって、みんなで社長に直談判したんです。取引先を、小夜子奥さまに会わせていただきたいって。にこやかに微笑んでいらっしゃる小夜子奥さまを、見せていただきたいと」
「ちょっと、勝利! それじゃ、なあに? 小夜子さんに、見世物になれって言うの!」
 勝子が怒り出した。その剣幕たるや、怒髪天をつく勢いだった。
「そんなの、あなた達の努力不足でしょうが。 どうして小夜子さんがあなた達の不始末の尻拭いをしなくちゃいけないのよ! 許せないわよ、そんなの」
「いや、姉さん。そんなことは……」
「そんなもこんなもあるもんですか! 小夜子さんを何だと思ってるのよ、あなた達は。社長も社長よ。そんなことを言わせるなんて。あーあ、幻滅したわ。もっと男らしい方かと思ってたのに」