(二百五十八)

 怪しかったくもり空からぽつりぽつりと雨粒が落ちはじめたのは、小夜子が駅の改札をでたころだった。花嫁衣装やら衣類の大荷物は武蔵が持ちかえってくれたものの、小夜子の母親澄江の思い出の品で、また膨らんでしまった。粗末なものではあったが、澄江の衣類を見ている内に、どうしても持ち帰りたくなってしまった。中でもどうしてもと思ったのは、安物の手鏡だった。
 他人から見ればガラクタであるが、小夜子と澄江の会話時にはどうしても欠かせないものだった。面と向かって話すことを禁じられた小夜子、床に伏せったままの澄江、手鏡を胸の上にかざしての会話だった。雪見障子をはさんでのことだったが、頭を動かすことすらきつくなった澄江に、本家の初江からのせめてもの情けだった。痩せほそった腕で差し上げられた手鏡。すぐにぶるぶると震えて、澄江のかおが歪んでしまう。まるで波紋が広がる水鏡だ。そしてすぐに、ぱたりと落ちてしまうのが常だった。
 小物入れひとつで帰るはずだった小夜子。およそ似つかわしくない大型のリュックサックが、加わった。汽車に乗るまでは、荷物棚に乗せるまでは、馴染みであり先日の披露宴にでてくれた駅員の手助けがあった。大荷物になりはしたが、小夜子のこころに満足感が広がっていた。しかし汽車を降りる段になって、後悔の念におそわれた。
こんどにすれば良かったかしら。武蔵に持たせれば良かったのよ。来れないって言うでしょうけど、ムリにでも来させればいいんだし。でも今さらどうしようもないし
 途方にくれた小夜子、立ちすくんでしまった小夜子。見知らぬ人ばかりで、声をかけることができない。否、これまでの小夜子では、だれかしらが進んで助けてくれていた。ごった返している車内なのに、だれも手伝いを申し出てくる者はいない。みなせわしげに下車していく。
 そしていま乗客全員が降りきっても、ひとりボー然と座っている。車内見回りに来た車掌に見つけられるまで、放心状態でいた。棚から下ろされたリュック、結局のところ車掌が改札まで運ぶはめとなった。お礼をという小夜子にたいし、「公務員ですから、そのようなものは一切もらえません」と、立ち去った。
「もしもし、富士商会ですか? あたし、小夜……」
「うわあ! みんな、お姫さまからお電話よ! 早く、はやく!」
 小夜子の声をさえぎって、電話の向こうで大騒ぎしている。嬉しさを感じはするが、当惑の気持ちの方が勝ってしまう。
「もしもし、もしもし。あのね、あなた。聞いてくださる?」
「はい、お電話変わりました。徳子でございます、小夜子奥さま。お帰りなさい」
「徳子さんですか? ああ良かった。タケゾー、いますか? いま駅に着いたので、迎えにきて欲しいのですけど」
「申しわけありません、社長は出張中でございます。あ、ご心配なく。お帰りになられたら、社員の竹田をまわすようにおおせつかっております。すぐにお迎えに走らせますので、すこしお待ちくださいませ」
「そうですか、出張ですか……」
 迎えをだすということに安心感を覚えた小夜子だが、すぐに出張にでてしまったという武蔵が恨めしくも思えた。

(二百五十九)

なによ。新婚なのに、タケゾーったら。本来だったら、新婚旅行中のはずよ。それを出張だなんて。そんなこと、ひとことも言ってなかったわ。そうと分かっていれば、タケゾーと一緒に帰ったわよ。なにか、具合の悪いことでもあったのかしら。うん、もう。どうして新婦がひとりでお家に帰らなきゃいけないのよ! 帰ってきたらとっちめてやらなきゃ。でも、仕方ないかも……。散財させちゃったもの。あんなに村中を呼んでお祝いしてくれたのよね。ほんとにスッカラカンになるまで使ってくれたものね
 改札口まえのコンコースの中央にある柱に寄りかかりながら、けさの出来ごとに思いをはせはじめた。
正三さんとお式を挙げたとしても、村中のお祝いがあるにせよ、これ程にはならないわよ。なにせ子どもたちが、あたしが帰る前日にお家の前まで来てくれて手をふってくれたんだから。うふふ。映画スターって、こんな感じなのかしら? アーシアと一緒だと、いつもこんな風に歓迎され……。ごめんね、アーシア。あなたのことを忘れたわけじゃないのよ。毎晩、アーシアを思ってお祈りしてるのよ。忘れたわけじゃないんだから
 いま思いだされるアナスターシアは、とびっきりの笑顔をみせてくれている。このあいだまでの、苦しげな表情はもうない。すべてから解放されたという安堵感にあふれている気がする。もしも噂されているように、ロマノフ王朝の末裔だとしたならば、父親のニコライ二世やアレクサンドラ皇后、そして皇女・皇太子ら家族と団らんの時をすごしているだろう、と思えている。アナスターシアの笑顔は、そのまま小夜子のこころをあらわしている。小夜子自身が幸せにあふれるこころ持ちでいられるからこその、笑顔だった。
「おくさまー! 小夜子おくさまー!」
 張りのある声がコンコース内にひびいた。夢想中の小夜子を、現実に呼びもどした。
「お待たせして申しわけありません。ご実家の駅から連絡いただければ、お待たせすることもなかったのですが。大丈夫ですか、お疲れではありませんか? お荷物、これですね。はい、社長に言いつかっております。お戻りになるまで、いつでもぼくをお使いください」
 うれしそうに話す竹田に、はじめて会ったおりの暗く打ちひしがれた竹田とは別人に思える小夜子だ。
「こりゃ重いや。小夜子おくさま、どうやって運んで来られ……。そうか、どなたかが運んでくださったのですね。小夜子おくさまに頼まれれば、だれだって喜んでお手伝いするはずです。いや、お頼まれになる前に、申し出るでしょう」
 キビキビとした動きで、足元に置かれている荷物を持ちあげる竹田。肩に担いでさっさと歩いていく。
「ええ。車掌さんがね、運んでくださったの。他にもお声を掛けてくださったんだけど、車掌さんが来てくださったの」
「ああ、そうですか。気にしてくれてたんですね、車掌が」
「ええ、まあ。そうみたい……」
 つい、でまかせを口にしてしまった。見栄がでてしまった。
いいのよ。乗車時やら乗り換えのときには、車掌がはこんでくれたのは事実なんだから。でも降りる段になってまさか誰も気づいてくれなかったなんて、言えるわけがないじゃない。お姫さまなんだもの、あたしは”

(二百六十)

「その節は、ありがとうございました。おかげさまで姉の体調も良く、週末には自宅へ帰ることができるようになりました。小夜子奥さまのおかげと、みんな感謝しています。母なんか、手を合わせるんです。で、ぼくらにもそうしろって。菩薩さまのようなお方だから、一生感謝の念をわすれるなと。お題目のように、毎晩聞かされてます。それでですね、小夜子奥さま。小汚いところですが、いちど姉が帰宅したおりにでもお立ち寄りくださいませんか。大したおもてなしもできませんが、ぜひにもお食事を差し上げたいと申しております」
 小夜子の歩みに歩を合わせながら快活に話す竹田だが、社内での無口さがまるで別人のようだ。そして小夜子の荷物を大事そうに両手でかかえて、まるで我が子のように慈しんでいる。
「いいのよ、そんなに気をつかってくれなくても。でも良かったわ、お元気になられて。母もね、ながく床についていたの。あのときは幼すぎて、看病のひとつもできなかったわ。こころ残りだったのよね、それが。だからね、母への親孝行のつもりだったの」
「看護婦すら敬遠しがちの下の世話までしていただき、感謝のことばもありません。男のぼくでは、姉がいやがりますし」
「そんなの当たり前よ。でもたったいちどのことよ。看護婦さんが手の離せない状況だったし、お母さまは所用でいらっしゃらないし。お苦しそうだったしね、仕方ないじゃない。それに、あの後からあたしにとっても、お姉さんになってくださったんだから。どうしてもね、遠慮がちだったのよね。まあね、赤の他人だしね。タケゾーのこともあったでしょうしね。気を許して甘えなさいっていう方がムリよね」
「驚きました、ほんとに。めったに笑わなかった姉が、小夜子奥さまと一緒に、あんなに大きな口をあけて笑っているなんて。あごが外れるぞなんて冗談で言ったら、とつぜんその真似をするんですから。あやうく引っかかるところでした。」
「そうね、お姉さんにも会いたくなったわ。お邪魔しようかしら、すぐにでも。どうせタケゾーがいないんじゃ、お家にいても仕方ないし。こんど戻られたときにでも、迎えに来てちょうだい。そうだ! あたしがお姉さんを迎えに行ってあげる。ふふ、びっくりさせちゃおうっと。いいでしょ、竹田」
「もちろんです。是非、そうしてやってください。喜びすぎて、ひっくり返るかもしれませんよ。それでもって入院が長引いたりして。ハハハ、こりゃいい。あ、すみません」
 にらみつける小夜子に気づいて、あわてて深々と頭を下げた。
「竹田って、そんな冗談の言える人だったの?」
「いえ、その。そんな、ことは、どうしてか、その……」
「あたしの前では、ずっとそんな竹田でいるのよ。会社でみせてる、あんなむっつりはだめよ」
「はい。業務命令として、しっかりと承りました」
「よろしい。社長夫人としての、はじめての業務命令です」
 荷物を置いて最敬礼する竹田にたいし、小夜子もまた敬礼でかえした。そこに、どっと改札から出てきた人波に、小夜子が飲みこまれかけた。とっさに竹田が小夜子の手をとりかばった。
「大丈夫ですか? 気が付かずに、申し訳ありませんでした」
「ええ、大丈夫よ」
「出口のそばに車を止めてあります」
 人ごみにもまれながら、なんとか車にたどり着いた。

(二百六十一)

「小夜子奥さま。出がけに、みんなに言われたんですが。ぜひにも会社においで願えって。このままご自宅に向かわれたら、ぼく、袋叩きにあいそうです。会社に立ち寄っていただくわけにはいきませんか」
「ええ! そんなの、恥ずかしいわ。タケゾー、いないんでしょ? いやあよ、あたし」
 とつぜんの友だち口調に変わった。いつもの見下し口調が小夜子から消えた。竹田もびっくりだが、当の小夜子も当惑した。正三とタケゾー以外の異性に手を握られたことなど、記憶にないことだった。
 黒時代であるキャバレー内でもなかったことだ。たばこ売りがとつぜんに辞めてしまったことから、すぐに募集をかけたもののなかなか応募者が現れずにいた。いちいち女給を通してのたばこの購入に客が怒りだした。
 そんなときに小夜子が「張り紙をみました」と飛びこんできた。未成年者だとはすぐに感じとったものの、「はたちです」と言い張る小夜子だった。そこで次の募集者が現れるまでということで雇われた経緯がある。
 客のあいだに暗黙のルールとして、たばこ売りと女給とは一線を画すということがある。そんななか武蔵だけはそれが許されてしまった。梅子がそれを許してしまったからだった。梅子にしても五平とおなじく、ふたりのあいだになにかしらの運命的なものを感じていた。
 もっとも客のあいだにも、武蔵にたいしては物申せぬというふんいきがある。武蔵のボックスは、とにかくいつも騒がしい。だいたいが五平とふたりで来るのだが、常に三、四人の女給が席につく。入れ替わりたちか替わりに、皆がみな嬉々としてうつっていく。というより、武蔵たちがはいってくると、そわそわとし始める。
どうしたのかしら、あたし。どうしてこんなにドキドキするの? こんなこと、正三さんにもなかったことだわ。突然だったからなのね≠ニ、おのれを納得させた。
「お疲れでしょうけれども、どうか助けると思われ……。小夜子奥さま、どうされました? すこし顔が赤いようですけど。お疲れですか? まさかお風邪を召されてはいませんよね」
「違うの、ちがうのよ。そう、人いきれしちゃったの。そうなの、どっと人が出たでしょ? だからなの」
「ああ、そうですか。なら、宜しいのですけど。どうしましょうか、やはりご自宅に直行されますか」
「大丈夫よ、風に当たれば。そう、すこし風に当たれば落ちつくわ。いいわ、会社に行ってちょうだい」
 無言のまま、窓からの流れこむ風にあたる小夜子。しだいに気持ちのざわめきが落ち着いていくのを感じた。
あとで体調を崩されたらどうしょう。やっぱり、ご自宅にこのままお帰りいただこうか。みんな待ってるだろうけど、仕方ないよな。おからだ第一なんだから
「あのお、やっぱり、ご自宅へ……」と、恐るおそるバックミラーをのぞき込んだ。
「良いって、言ってるでしょ! それより、しっかりと前を見て運転しなさい!」
 ぴしゃりと、強い口調がでた。なぜかしら、へりくだった口調の竹田にいらつく小夜子だった。
「竹田のお姉さんって、いくつだったかしら?」
「ぼくが今年、三になりますので、姉は二十五です。ですので小夜子奥さまより三歳上です」
 余計なことを言ってしまったと悔やむ竹田だったが、案に相違して小夜子からは「そう」と、ひと言が出ただけだった。まるで竹田の返事を聞いていないかのごとくだった。といよりも聞いていなかった。そもそも竹田になにを問いかけたのかすらも、口にしたとたんに雲散してしまった。

(二百六十二)

 小夜子が自宅にたどり着いたのは、どっぷりと日が落ちて落ちてからのことだった。
灯りの点いていない暗いお家に一人なのよね。こんなことならもう少し実家に居ればよかったわ。
それにしても武蔵ったら、どうして出張に行くのよ。新妻を放ったらかしにするなんて、ほんとに信じられないわ
「着きました、小夜子奥さま」
 竹田の声に促されるように車から降りた小夜子の目に、信じられない光景があった。
「えっ! 灯りが点いてる。ひょっとして武蔵、帰ってきてるの?」
「いえ。社長はまだ二日はお戻りになりません」
 申し訳なさそうに告げる竹田に対し、「だって、灯りが……。どろぼう? 竹田、警察を呼んで!」
 叫ぶ小夜子にたいし、竹田はまったく慌てるところをみせずに涼しい顔でいる。
「ああ、灯りですか。どろぼうじゃありません、すぐに分かります」と、にこやかに答える竹田だ。
「そりゃ、分かるでしょうよ。中に入れば、誰かが居るのか、それとも灯りだけが点いてるのか。分かって当たり前でしょ!」
 憮然とした面持ちで言いかえす小夜子だったが、それでもなお、竹田の笑みは消えない。いらだつ小夜子をよそに、車を止めた竹田は平然とした顔で、ドアを開けた。
「ただいまお帰りですよ!」。大声をあげると、小夜子を先導して玄関を開けた。
「お帰りなさいませ、小夜子さま。いえ、奥さま。お久しぶりでございます、千勢でございます。このたびはおめでとうございます。やっとごけっしんなされたんですね、千勢もうれしゅうございます」
 懐かしい声がする。おどろく小夜子のまえに、玄関口で手をついて迎える千勢がいた。
「まあ、千勢。あなただったの? 戻ってくれたのね、嬉しいわ。あたしね、あなたがいなくなってからね、ほんとに後悔したのよ。もっと真剣に教わればよかったって。あなたが、あんまり簡単にお料理なんか作るものだから。あたしにだって簡単に、なんて思っちゃって」
「はい、もうしわけございませんでした。あたしも悲しかったです。なにかわるいことをしたのかと、しばらくはボーゼンとしていました。旦那さまからは、なにもおっしゃっていただけませんし。もう悲しくてかなしくて、なんにちも泣いてしまいました」
 悲しいということばを使うわりには、屈託なく笑う千勢だった。
「ほんとに、千勢には悪いことをしたわね。あたしの我ままから、あなたをそんなに悲しませてたなんて。武蔵にね、あたしだっておさんどんぐらいできるのよって、見せたくなったの。それだけだったのよ。あ、竹田。ありがとうね、もういいわ。ご苦労さま」

(二百六十三)

 にこやかな表情のまま突っ立っている竹田に、ぶっきら棒に告げる小夜子。竹田のことは、もうまるで眼中になかった。
「明日は、いちにち会社で待機しています。ご用がおありでしたら、ご連絡ください。すぐに飛んでまいります。千勢さん、奥さまのことお願いするよ」
「かえり道、じこをおこさないよう、気をつけてくださいね」
「大丈夫だって、いつだって慎重運転だから。相手がぶつかってきても、きっとよけるから」
 ふたりを、家族間のようなほんわかとした空気が包んでいる。兄妹といった風にも見えるが、新婚夫婦がかもしだす柔らかいにおいも感じる。しかしひとりっ子の小夜子には、なおかつ母との接触がほとんどなかった小夜子には、祖父である茂作とのふたりだけの生活しか経験がない。今にしても、武蔵とのふたりだけだ。
「She's already my little sister(もうあたしの妹よ)」と言ってくれた、あのアーシアにしても、もうこの世にはいない。にこやかに会話を交わすふたりに対しいらだちを覚えた小夜子が、声を荒げた。
「もう帰りなさい、竹田!」
「おつかれになられたでしょう? お風呂のごよういができておりますが、いかがです? そのあいだに、お夕食のしたくをしておきます」
「そうね、そうするわ。お夕食、軽めにしてね。会社で、すこし頂いてきたから」
「そうですか、分かりました。それじゃあ、おうどんにでもいたしましょうか? 玉子をのっけた月見うどんなどはいかがです?」
「あら、美味しそうね。それじゃあ、それをいただくわ」
 竹田をとげのあることばで追い出してしまったが、それが千勢に対する嫉妬心からきたものだとは気づかない。千勢は使用人であり、竹田もまた使用人としか見られない――はずだった。しかし竹田の姉である勝子に会ってからは、単なる使用人とは思えなくなっていた。
 小夜子にとって勝子は、唯一こころの許せる同性になっていた。そしてその弟が、竹田なのだ。勝子が親愛の情を持っている存在なのだ。それはとりもなおさず、小夜子にとっても親愛の情を寄せるべき、いや寄せることが許される相手なのだ。武蔵とはまた違った存在の異性なのだ。
 ひとりっ子で育った小夜子には、兄弟の情というものがわからない、というより湧いてこない。もっといえば、家族間の情すらもっていない。茂作はおっかなびっくりで、小夜子に接してきた。病に伏せった澄江にかわって、となり近所からのもらい乳で育った小夜子だ。離乳食にしても、おなじくとなり近所の世話になった。
 とくに、となりのタキには世話になった。小夜子がゆいいつ頭の上がらぬ存在だった。だったというのは、小夜子が女子校に上がる前年に床についてしまった。ミツと同じく働き過ぎだった。貧乏暮らしからというのではなく、生来の働き者であるがゆえの、無理がたたってのことだった。幸いにすこしの養生で回復したものの、以前のような働き者とはいかなかった。

 (二百六十四)

 木の香がただよう湯船につかり、木のふちに両手を置いてゆったりとした気分にひたる小夜子だった。心底からこころが開放されていく思いがする。
お風呂って、どうしてこんなにゆったりとした気分になるのかしら。だれかが言ってたけど、母親の胎内にいる感覚なのかしら。日本人の温泉好きは、そんなところから来てるのかしらね。そうだわ。新婚旅行は、海辺の温泉旅館がいいわね。お昼は海であそんで、夜はゆっくりと温泉にはいって。うふふ……
「小夜子奥さま、おゆかげんはいかがですか?」
 笑いをかみ殺している小夜子に、外から千勢が声をかけた。
「ありがとう、ちょうどいい具合よ。千勢は、お風呂焚きも上手ね。あたしなんか、熱すぎたり温かったりの失敗ばかりよ。いつだったか、水風呂に武蔵を入れちゃった。沸かし終えたって、勘違いしちゃってさ」
「けいけんでございますよ、何ごとも。あたしにしても、はじめの内はしっぱいばかりでしたから。でもさすがに、お水ぶろというのはありませんでしたけど」
「そうなの? 千勢の失敗談、聞きたいわ。おうどん、用意してくれるかしら。すこしお腹が減ってきたわ。上がるから、準備してちょうだい」
 上気した顔で、台所の椅子に座りながら
「ねえ。千勢は、長いのよね。武蔵の世話をはじめてから、どの位になるの? うん、美味しい! かつおのお出汁がちょうどいいみたい。削りたてのかつお節ね? でも、どうやるの? あたしもやってみたけど、加減がむずかしいのよね」と、聞いてきた。千勢は、ただただ笑みを返すだけだ。
「小夜子さまは、ほんとにおいしそうに食べていただけます。作りがいが、ほんとにあります。これはコツがございます。おいおいとということで」
「あたしね、お上品に食べることができないのよ。どうしても吸い込むのよね、ズ、ズーって。武蔵は、麺はそれでいいって言ってくれるけど。ただ、汁物は立てちゃだめだぞって、言われたけど」
 千勢だけには本音がでる小夜子だった。そんな小夜子にたいして、千勢はいつも感謝の念をわすれない。
そうだわ。わたしなんておやくごめんで、いちどはヒマをだされたのに。こうしてまた呼びもどしてもらえるなんて。小夜子奥さまって、だれにでもいつもきびしい言い方をされるけど、つよいことばでおしかりになるけど、ほんとはおやさしい方のなのよね、ほんとは

(二百六十五)

「あたしは、だめなんです。うまくすいこむことができないんです。いぜん、旦那さまにしかられました。『そんなちびちび食べたら、ちっとも美味しくないだろうが。どうにも辛気臭くていかん、少し練習しろ!』って。それからは、ごいっしょさせていただけません」
「そうなの、武蔵らしいわね。他人の食べ方まで気にするなんて。放っといて欲しいわよね」
 哀しそうな顔を見せる千勢に、小夜子の優しいことばがとどいた。とつぜん千勢の目に、大粒の涙があふれ出した。小さな嗚咽が、あふれ出す涙に押されるように、はっきりとした声となって小夜子に届いた。
「どうしたの? 千勢。悲しくなることがあったの? それともあたしが悲しませたの?」
「とんでもございません、小夜子さま。うれしいんです、千勢は。こんなおやさしいことばなんて、千勢、いままで……」
 テーブルに突っ伏して、わあわあと泣き叫びはじめた。物ごころついてからの己のたどってきた道を思いだして、抑えにおさえてきた感情が勢いづいた。
お前なんか産むつもりはなかったんだよ。ちいさなお前だったから、産み月近くになるまでとんと気づかなくて
さんばのお常さんが、お前を助けてくれたんだからね。足むけて寝るんじゃないよ
姉はきりょう良しだから、たまのこしにのれたけれども。おか目顔のお前では、お手伝いさんとしてごほうこうするのがせきの山だ
今までただめしをくわせてきたんだ。これからはその分をかえしてもらわなくちゃな
見なさい、となりのお園ちゃん。しっかりとかせいでさ、親こうこうなむすめだよ、ほんとに
 毎夜のごとくに、両親にこごとを言われつづけた千勢だった。七歳のころから、焚き木ひろいやかまどの灰集めにかりだされた。農繁期にはいると、本家の方から子守りを頼めんかと押しつけられた。どうあやしていいかもわからぬ千勢に対し、おんぶひもで背中に背負い体を左右に動かせばいいからと言われるしまつだった。
 おしめ交換の知識もない千勢では、しょっちゅう赤子を泣かせることになってしまい、通っていた尋常小学校の教室から追い出されてしまった。幸いにも用務員が赤子の世話をしていたことがあったことから、諸々の知識をえることができた。
 秋もふかまりはじめての焚き木ひろいでは、冬眠まえの熊などに遭遇するおそれがあるため、腰に鈴をつけての作業となる。しばらくすると、千勢がひろってくる上質な焚き木が評判となって、あちこちから声がかかりはじめた。
 そして千勢に同情して、「こっちはいつもの代金で、こっちはあんたのおこづかいだ。おかあさんにはないしょにしな」と、心付けをわたしてくれる家もでてきた。そして十歳を数えたときには、家族の炊事をこなしはじめた。それらすべてのことが、お手伝いさんとしての千勢をつくりあげた。

(二百六十六)

「もうしわけありません。ちょっとむかしのことを思いだしてしまいまして。そうだ! きょうは小夜子さまのおかえりだときいて、じつはこれを」と、ぶっといふかし芋を卓にのせた。
「だんなさまのまえでは食べにくいのですけど、小夜子さまお好きでしょ? 千勢はだ〜い好きでございまして。だんなさまのごしゅっちょうのおりなんかに、ごはんがわりにいただいていたんです」
 目をキラキラと輝かせながら口いっぱいに頬ばる千勢を見て、小夜子もまた昔を思いだした。
おやつ代わりのふかし芋ね。良い思いでじゃないけど、久しぶりね
 ひと口頬張って、「なにこれ、甘いわ! どうして? ふかし芋って、こんなに甘いものだったの? あたしが食べていた物と、まるで違うわよ」と、感嘆の声をあげた。
 キョトンとする千勢を前にして、驚くほどのはやさで一本をたいらげた。
「千勢。あなたって、お料理の天才ね。すごいわ、ほんとに」
 手を叩いて褒めそやす小夜子に、千勢はどう答えていいのか分からずにいた。
「小夜子さま、ごじょうだんがすぎますよ」
「で、で? どうだったの、はじめての時は。何年になるの、ここに来て」
「はい、十五のときに入らせていただきました。せんむさまのごしょうかいなんです、じつは。いちばん上のあねがおせわになっていまして。父おやが、れんらくを入れたようなのです」
「そうなの、千勢もなの……」
 千勢が五平のせわで武蔵のもとに来たとわかり、千勢にたいしなにか戦友といった観をおぼえる小夜子だった。
「はじめのうちは、小夜子さまとおなじでございました。じっかではなんなくやれていたことが、どうにもちぐはぐになってしまいます。やっぱり、きんちょうしていたのだとおもいます」
「そう。やっぱり千勢でも、緊張したの? はじめは。あたしもね、くくく、包丁を持ったときなんか。武蔵がね、あたしを呼んだの。武蔵はね、大丈夫か? って声をかけたらしいんだけど、あたしったら、血相変えて包丁を持ったまま。くく……分かる? 武蔵にね」
「ひょっとして、そのままだんなさまのところにですか?」
「そうなの、行っちゃった。びっくりするわよね、そりゃ。あたしね、真っ青な顔してたんですって。でね、武蔵もあわてちゃって。心中でもするつもりかって、ね」
 思いだし笑いをする小夜子の目はキラキラとかがやいている。千勢にはそれがうれしくてたまらない。はじめて会ったころの小夜子は、とにかくピリピリとした空気をまとっていて千勢を拒絶する雰囲気をただよわせていた。
 嫌われているとさえ感じた千勢だったが、しばらくの時間をともにする内に、千勢ひとりにたいする感情ではなく、まわりにいるすべてに警戒心をもっているように感じた。そしてそれは千勢がいだいた感情とおなじものだと気づいたとき、小夜子にたいする思いが変わった。ほんとうの意味での家族としての情がうまれた。

(二百六十七)

「だんなさま、おどろかれたでしょう。でも、わかる気がします。ほうちょうをもって、いざ! というときに声をかけられたのでは」
「『なに考えてるんだ、お前は!』って、怒られちゃった。千勢は、怒鳴られたことはある?」
 間髪いれずに、千勢が答えた。
「とんでもございません。おこられることなど、いちども。おおきなこえなんて、いちどもありませんです。だまってあたしのまえにさしだされて、『食べてごらん』と、ひとことです。からかったりあますぎたり、とありました。でも、『お前の一生懸命さは知っている。次は、もう少しおいしくしてくれ』と。『手際の悪さでお待たせしちゃだめだ、なんて考えるな。なんでもそうだが、手間暇をかけてこそ、実がなるというものだ』とも言われました」
「そう、千勢には優しいのね」
「いえいえ、千勢はどんくさいので」
「武蔵は、千勢が可愛くてしかたないのね」
「こんな、おか目のあたしがですか? キャハハハ、そんな」
 底なしに明るい千勢が、ときとして荒みがちだった武蔵のこころを和ませていた。そしていまは、小夜子の奔放さが武蔵には嬉しい。
「ほんとにおやさしいだんなさまです。会社ではこわい社長だとおききしましたけれど、けっしてそんなことはありません。きっといっしょうけんめいにおやりにならないから、つよくおしかりなんだと思います。小夜子おくさまもそうお思いでしょう?」
 嬉々として話していた千勢だったが、しだいに目がうるみ始めて、とうとう最後には涙声になってしまった。
「もうしわけありません、あたしったら。どうしたんでしょ、かなしくなんかないのに。ちがうんですよ、うれしいんです。またよんでいただけるなんて、思ってもいませんでした。だんなさまにおききしました。お前のことをきらったんじゃないぞって。あたしてっきり小夜子おくさまにきらわれたんだって思って。かなしくてかなしくて。しばらくのあいだ、じっかにもどっていたんです」
 小夜子の差し出すハンカチで、笑みを浮かべながら涙を拭いた。
「でも、あそんでばかりもいられないので、あたらしいおやしきでおせわになっていたんです。そのおやしきでもかわいがってはもらえたのですが、やっぱり旦那さまと小夜子おくさまがわすれられずに……。そんなときにじっかからてがみがとどいたんです。旦那さまからおこえがかかったけれどどうする? と」
「いつなの、それって。あたし、ぜんぜん聞いてないわ」
小夜子を思っての武蔵なのだが、ひと言の相談もなかったことが腹立たしくも感じる小夜子だった。
家事のことは、あたしに決めさせてくれなきゃ。あ、そうか。ビックリさせるためね。けど、武蔵らしいわね。あたしのこととなると、素早いんだから≠ニ、満更でもない。

(二百六十八)

「ええっと……」と、指を折りながら考えこむが、なかなか答えが返ってこない。
「小夜子には内緒だぞ」。武蔵に念を入れられている。
 千勢が小夜子に連絡をすることなど万にひとつもないと分かってはいるが、念を押してしまった。小夜子がしびれを切らして、「もういいわ。そんなに日にちは経ってないでしょ?」と、少し詰問調になった。
「もうしわけありません、千勢はあたまがわるいので」と詫びてはいるのだが、にこにこと目も笑っている。
「旦那さまにおあいして、小夜子おくさまが、『帰ってこないかしら』とおっしゃってるとおききしました。もうそれは、天にものぼる思いでした。すぐにでもと思ったのですけど、びっくりさせたいから式の日まで待てといわれまして。わかっていますです、旦那さまのごはいりょなんだということは。あたしのかわりを見つけるためのお時間をいただけたということは。ありがとうございます、小夜子おくさま。いっしょうけんめいにつとめさせていただきますので、よろしくおねがいします」
 何度もなんども、床に頭をこすりつける千勢だった。
「千勢、やめてよ。千勢とあたしは、女主人と使用人じゃないでしょ。千勢は、あたしの先生じゃないの。お料理も教えて欲しいし、お掃除やお洗濯なんかも、コツを知りたいの」
 小夜子のことばに、千勢が顔を曇らせた。早晩去ることになってしまうのではないかと、思えてしまう。小夜子に教えきってしまったら、小夜子がてぎわよく全てをこなすようになってしまったら、また暇をとらされるのではないか、そんな不安がよぎった。
「違うの、ちがうのよ。ただやってみたいの、千勢と一緒に。それでね、できるけどやらない、にしたいの」
 キョトンとする千勢、どうにも小夜子の考えが分からない千勢だ。
「あのね、何て言ったらいいかしらね。できないからやれないは、嫌なの。分かる? どちらにしてもね、あたしも武蔵の仕事を手伝うことになると思うのよ。ううん、やりたいの。家事だけの女にはなりたくないのよ。新しい女はね、家事も仕事もできる女なの。でもね、仕事に比重をおくから、家事をやれないわけよ。勘ちがいしないでね。千勢のことを馬鹿にするわけじゃないのよ。家事に専念する女性がいて、仕事に頑張る女性がいて、ということなの。ま、とにかく頑張りましょう」
 首を傾げる千勢には、これ以上の説明がかえって混乱させることになると考えた。千勢の手をとって、目で訴える小夜子だ。そして手を上下にふっているうちに、なにか戦友のような思いにかられはじめた。愛する同胞を守るべく立ちあがった戦士のごとき思いであった。そんな小夜子の熱い目に、千勢は思わず目を伏せた。
「小夜子おくさま。きょうは会社にたちよられたのですよね。いかがでしたか、会社では」
 小夜子の熱い思いにたえきれなくなり、おずおずと話を変えた。

(二百六十九)

「それがね、もう大変だったの。歓迎会だなんて言い出してね。仕事そっちのけで、準備したらしいの。武蔵の許可なんか下りてるわけないわよ。加藤専務の苦虫を噛みつぶした顔、見せてあげたかったわ。ちょっと複雑な顔ね。叱るべきか否かってね。さしずめ、あれね。to be ot not to be, that is the question!≠謔ヒ」
 とつぜんに飛びだした英語が理解できず、首をかしげる千勢だった。
「ごめんね、分かんないね。日本で言えば、お殿さまである父親を殺されちゃった若さまの『仇をとるか止めるか』って、悩むときのセリフなの」
「あら、そんなのおかしいです! おとのさまのかたきうちでなやむのって、なんて親ふこうなんでしょ。そんなの考えるまでもなくかたきうちするべきです。そうでしょう、小夜子おくさま」
 憤懣やるかたないといった表情で、切り捨てる千勢だった。真顔の千勢に、思わず小夜子は吹きだしてしまった。
この単純さが、千勢なのよね≠ニ、笑みが自然に出た小夜子だった。
「そうね、千勢の言うとおりね。でもね、若さまには何の力もないし後ろ盾もないの。相手は家老で……」
「そんなの、かんけいありません! すぐにがだめなら、じっときかいをまつべきです。それをうじうじとなやむなんて。だめです、そんなの。旦那さまも、きっとそうおっしゃいますわ」と、武蔵を引き合いに出しながら、鼻をふくらませて、得意げに言った。
「そうね、ほんとにそうね。千勢の言うとおりね。武蔵もそう言うわよ。ううん、武蔵なら、言うだけじゃなくてやるでしょうね」
 そのときの小夜子の脳裏には、父親になじられ母親に泣きつかれて、立ち往生している正三の姿があった。ハムレットと正三が重なって浮かんだ。そしてそのかたわらで薄ら笑いを浮かべている武蔵がいる。
お坊ちゃんよ、何をしてるんだ。なにをためらう必要があるんだ? いいさ、小夜子は俺が守ってやるよ。お前さんはそこで立ち往生してな
 言うが早いか、疾風のごとくに小夜子の前にひざまずく武蔵。そして背に隠してあった一輪のバラを、小夜子に差し出している。
そうね。成り上がりだなんだって言われる武蔵だけど、しっかりとがんばってきたのよね。努力のひとつもしないで文句ばっかりいう人がいるけど、そんなのおかしいわ。英会話のお勉強だってそうなのよ。教え方がわるいとかって怒る人もいたわね。けどそういう人って、グチやらのおおい人だったわね。
 お月謝が高いっていうのは、わたしも同感だったけど。でも、それだって武蔵に言わせると、需要と供給のバランスで決まるということなのよね。他にも学校ができれば、生徒の奪い合いで競争することになってお月謝が安くなったりするのよね。ただそれも、品質とかいうものがあって、ただ単に同業者がいるから安くなるものでもないらしいし。
 良いものは高い、サービスの良いものは高い、あとなんだったっけ? そう。メンテナンスがしっかりしている機械は高い、そんなことも言ってたわね。それから口のうまい奴には気をつけろとも言ってた。『小夜子は騙されやすいからな』って馬鹿にしたりして。『そうね。タケゾーには気をつけるわ』って言ってやったら慌ててたけど

(二百七十)

「そんなことより、そのかんげい会のおはなしを聞かせてください。どんなふうでしたか?」と、身を乗りだしてせがむ千勢だ。
「もうねえ、どんちゃん騒ぎ。実家での宴もそうだったけど、みんな勝手に盛りあがるのよ。主役のはずのあたしなんか、はじめの内こそ、それこそこそばゆいくらい褒めてくれるんだけど。お酒がまわりはじめたら、もうだめ。主役のあたしそっちのけよ。ダンス音楽なんか流して、男同士と女性同士にわかれてダンス大会よ。びっくりしたのは、加藤専務よ。あの人、泣き上戸なの? ぼろぼろ涙を流してね、あたしにしきりに『ありがとうございます』って、お礼ばっかり。びっくりしちゃった、ほんとに」
 身振りてぶりでの小夜子の説明に、その場のことが千勢には目の前での出来事のように感じられた。そしてそれほどまでに愛されている小夜子が誇らしくあり、その方のおせわができるわたしって、ほんと、幸せものだわ≠ニ思えた。 
「うれしかったんですよ、きっと。加藤せんむ、お酒によわれると、まいどのように言われるんです。『俺は女を不幸にしてきた、喰いものにしてきた。だから俺は幸せになれない、なっちゃいかんのだ。
なれなくても仕方ないんだ。でも、いやだからこそ、社長にだけは幸せになってもらいたいんだ。分かるか、千勢? もちろん、千勢よ。お前も幸せになるんだぞ』って。お見えになるたびにですよ、耳にタコができちゃいますって。あたし、加藤せんむのおこえがかりで、だんなさまのおせわをすることになったんです」
 意外なことを聞かされた小夜子だった。思いもよらぬ五平の一面を知らされて、武蔵が五平を頼りにする理由を知った気がした。しかしそれでもなお、五平にたいする嫌悪感は消えはしなかった。
「そうなの? 千勢もだったの。あたしにしても、加藤専務なのよね。嫌だいやだって言ってるのに、強引に」
 口をとがらせながらの小夜子に、どうして五平を嫌うのかが理解できない千勢だった。親身になって女たちのグチやら苦労話を聞いてくれる五平に、不満のことばを並べたてる小夜子が、正直のところはわがまま娘としかみえなかった。
おじょうさまそだちの小夜子さまだもの=B小夜子の育ちを知らぬ千勢には、現在の小夜子だけが小夜子だった。
「おっしゃってました、加藤せんむ。すごく良いむすめがいるからって、旦那なさまをひっしにくどいてらっしゃいました。はじめはのりきじゃなかった旦那さまも、だんだんその気になられて。あそびなれてる店だからきらくにいきましょうとも、おっしゃってました。たばこを売ってるむすめですから、たばこのひとはこでも買ってやればいいんですからって」
 興味津々の思いでいる小夜子だが、千勢にはそう受け止められたくない。
“聞きたくもないけれど、千勢がかってに話すから聞いてあげるわ。聞き流すのよ、べつにきき耳を立てるわけじゃないから”と、平静を装う小夜子だった。

(二百七十一)

「でもよくじつの旦那さま、ほんとにうれしそうでした。『観音さまに会ってきたぞ!』って、そりゃもう大はしゃぎでした。ほんとに、あんなにうれしそうなだんなさまを見たのは、はじめてです。千勢、すこしやきもちをやいちゃいました」
 目をクルクルと回しながら、我がことのように喜ぶ千勢だった。思わず抱きしめたくなる衝動にかられる小夜子だった。
そっか。このきもち、これなのね。アーシアがわたしに持ってくれた、思いって=Bもう以前のようにアナスターシアを追い求める小夜子ではなかった。おのれを置いてけぼりにしたことを、恨みごころに感じることもなくなっていた。ただただなつかしく思いだす小夜子だった。
「そう、そうなの。そんなに喜んでた? でもね、あたしね、はじめのころって、つっけんどんだったのよね。ぞんざいな口の利き方をしてたかもしれないわ。とにかく加藤専務がつれてきた男性でしょ? いい感情は持てなかったのよね」
「そんなあ、小夜子おくさま。あんなにりっぱな旦那さまはいらっしゃいませんよ」
 口をとがらせて千勢が抗議する。苦笑いをしながら千勢を制する小夜子だ。
「そうね、今はそう思うわ。たっくさんのお金を遣わせてもね、なんのお返しもなし! それで女給さんたちに睨まれてねえ。でも、武蔵が一喝してくれたの。『俺の小夜子をいじめる奴は許さん!』って。嬉しかったわ、ほんとは。でもそれでも、迷惑そうな顔を見せてたの。それでも武蔵は、お食事はしょっちゅうだったし、お洋服やらそれにハンドバックまで買ってくれてね。さすがに、お店の梅子お姉さんに叱られちゃった。そのときでも、生意気にあたしったら口答えなんかしちゃって」
「ああ、あの梅子お姉さんですか? 二、三度、よいつぶれた旦那さまを送ってこられたことがありました。でも、いつも玄関先でお帰りになられて。キチンとした方なんですね。旦那さまも、『あいつは、女傑だ!』。『場が与えられたら、いっぱしの経営者だぞ』。ほめてらっしゃいました。『男だったら、俺の片腕にしたいほどだ』とも」
「やっぱり? そうよね、素敵な女性ですものね。なんかこう、日本のお母さんって感じがしない? でんと肝が座ってて、多少のことには動じないって。ああいう女性がね、新しい女に目覚めたら、きっとすごいことになると思うんだけどなあ。『あたしゃ、そんな難しいことは分かんないよ』って笑い飛ばされちゃったけど」
 千勢には、小夜子の言う新しい女がどんな女性像を指しているのか、皆目見当がつかない。ただ口酸っぱく言いつづける小夜子を見ていると、こういう女性のことなんだと納得してしまう。自由奔放に思いのままに行動し、それを周囲に認めさせてしまう。それが、小夜子の言う新しい女なのだと思ってしまう。もっとも、小夜子にしても新しい女というものを完全に理解しているとは限らない。平塚らいてふ発刊の文芸誌〔青鞜〕を一読し、それですべてを理解したと思い込んでいた。
「そうそう、一度だけね、ほっぺにチュッ! ってね、してあげたの。そのときの武蔵の嬉しそうな顔ったらなかったわ。でも、焦らしてるつもりはなかったのよ。そのころのあたしには決まった人がいて、そのことは武蔵も知っていたし。だから、足長おじさん位に考えてたの。それに、アーシアと一緒に世界を旅するとも決めてたし」

(二百七十二)

 俯いて、か細い声で、話すべきかどうかを迷いつつといった風に、首をかしげつつ千勢が話しはじめた。
「あの、小夜子おくさま? そのおはなしを旦那さまからお聞きしたとき、しょうじきいいましてへんだなあ? と思いました。『千勢はどう思う。嫁入り前の娘として、正直に答えてくれ。俺は嫌われていると思うか?』って、聞かれました。でそのときに、なんてこうまんちきな女なんだろう! この旦那さまに不平ふまんをもつなんて、ぜったいにおかしいと思ったんです。もうしわけありません、しつれいなことを言いまして」
 頭を畳にこすりつけて、「どうぞおしかりにならないでください」とばかりに、体を縮めた。
「いいのよ、千勢。で、他には?」
 小夜子の口から出た優しいことばと、やさしく微笑む表情に、武蔵が「観音さまだ」と嬉しそうに言ったおりの顔を思い出して納得する千勢だった。
「はい。ほかの男性とおやくそくをしてらしたんですよね。それで、モデルさんともおやくそくをされていて。ふしぎな気がしてました。すこし、キじるしでもはいってるのかしら? なんて、そんなしつれいなこともかんがえたりしました」
「そう、そうなの。英語をはなす通訳さんにね、言われたのよ。『優しい男性だったら、そのくらいの我がままは聞いてくれるわよ』なんてね。いま思えば、アーシアのご機嫌とりのための方便だったのよね。普通ならば、そんなこと、信じないわよ。あのときは、あたしも舞いあがってたから。まだ子どもだったのね、あたしも。世間知らずの小娘よ。でもそれが可能なことのように思えてたのよ。この世はあたしを中心にまわってる! なんて」
 目を大きく見開いて「でも、旦那さまとごいっしょになられて良かったです」と、しっかりとした口調で、大きく頷いた。
「そうね、そうだと良いわね」
「ぜったいです、ぜったい良かったです」
 目をかがやかせ、鼻をふくらませて千勢が強調する。そんな千勢を見ていると、小夜子もまたこれで良かったのよ≠ニ安堵のこころが湧いてきた。
「それで奥さま。かんげい会のほうは、どうなったのですか? どんなでした?」
 なにやら聞きだしたいことがあるのに、なかなか切りだせないというもどかしさが、千勢の顔に表れている。
「なあに? なにか、気になるの? なに、なに? なんなの?」
「い、いえ。そんなことありません。そんな気になる人だなんて。そんな人、いませんから」
 語るに落ちてしまった千勢だった。そのことばが、小夜子の好奇心を刺激した。
「あらあら。だれ? だれが気になる人なの? 言いなさいよ、仲を取り持ってあげるわよ」
「そ、そんな人はいませんってば。ただそのだれが、その、そう! 小夜子奥さまのおかえりをいちばんよろこんだのは、だれかなあって。それが、しりたいだけですから」と耳たぶまで真っ赤にさせる千勢だった。

(二百七十三)

「千勢は、会社に顔をだしたことがあるの? たとえば、武蔵の忘れものを届けたりとか」
「とんでもありません! 旦那さまがわすれものなんて。だいいち、おしごとをごじたくにおもちかえりになられることは、いっさいありません。ですから、いちどもありません」
 大きくかぶりを振って千勢が否定する。どうしても知られたくないという思いが強い千勢だ。
「でも、誰かきた事はあるでしょ? たとえば、徳子さんとか」
「それもありません。女子しゃいんは、げんきんなんです。ぜったいたちいりきんしです。ごかいをまねくおそれがあるからと。なにせ旦那さまの女性かんけい……。とにかく、いちどもございません」
 失言をしたとあわてる千勢だった。そのあわてぶりからして、なにかを隠していると思える。だがしかし女子社員云々は、どうやら本当だろうと、頷く小夜子だ。
「でも、千勢がいないときなんかは?」
 わざと意地悪い質問をぶつけてみた。
「小夜子奥さまがいらっしゃるまでは、千勢がすみこんでおりましたから。けっしてそのようなことはありませんでした」
「そう、そうなの。公私のけじめはきちんと付けてるのね。武蔵らしいわね、確かに。でも、男子社員は良いんでしょ?」と、本筋に入った。このことを聞き出すがための、徳子の名前であった。
「はい。でも、竹田さんだけです。あとは、加藤せんむさんはたびたびお見えになりますが。ほかには、どなたもです」
 千勢の口から竹田という名前が出たおりにぽっと頬が赤らんだことを、小夜子は見逃さなかった。
竹田かあ…。けど、どうかしらねえ、竹田は
 千勢の想い人が竹田と知り、なぜか不愉快な気持ちを抱いてしまった。とくだん、気になる存在などではない。小夜子のなかでは、いち社員でしかない。ただ、これが服部なり山田なりの、他の社員の名前がでたとき、いまのように不愉快な思いがわきあがってくるのか。案外のところ「応援してあげる!」と言ったかもしれないと、そう思える小夜子だった。
「専務のことは言わないで! あたし、あの人嫌い! 武蔵が頼りにしてるみたいだから、仕方なく顔をあわせるけれど。ほんとは顔も見たくないの。だから今後いっさい、あたしの前では口にしないで!」
 小夜子のあまりの剣幕に、青ざめた表情で頭をこすりつけた。あえて竹田のことは口にしなかった。気づかないふりをした。千勢は、五平のことが遡上にのぼったためだと、「いっさい口にいたしません、もうしわけございません」と平謝りをした。
「良いのよ、千勢。きつく言い過ぎたわ、あなたが悪いわけじゃないのにね。加藤専務はね、どうしても、生理的に受け付けないのよ。あなたにとっては善い人らしいし、恩人みたいなのよね。まあね、あたしにしてもねえ。武蔵に引き合わせてくれたのは、あの人なのよね。感謝しなければいけないのかもね、ほんとは。でもさ、武蔵に会わなかったらさ、武蔵の援助がなかったらさ、アーシアの元に行ってたかもしれないし。そうしたらアーシアも死ぬことがなかったかもしれないし」

(二百七十四)

 アナスターシアのにこやかに微笑んでくれる顔が浮かぶと同時に、大粒の涙がどっと溢れ出た。アナスターシアを思い浮かべても、このところ涙までは流さなかった小夜子だった。ところが、いま、アーシアの死と武蔵との出会いを関連づけてしまった。
関係ないわ、かんけいない。あのとき一緒に行かなかったのは、ごく自然なことよ。約束をしなかったことも、お互い、すこしの時間が必要だったのよ。そうよ、わたしにしても、もどって話さなきゃならなかったんだから≠ニ否定するのだが、武蔵と会わなければ…と考える小夜子だった。
「だいじょうぶでございますか、おいしゃさまをおよびしましょうか? ながたびでおつかれでしょう」
 おろおろと小夜子に問いかけた。気丈な小夜子しか知らぬ千勢にしてみれば、いまの小夜子は尋常ではなかった。医者を呼ぶ以外のことは思いつかない。なにも出来ることはないと感じていた。わかってはいたが、何かをしなければと焦る千勢だった。
「ごめんなさい。びっくりしたでしょ? もう大丈夫よ。アーシアのことを思い出すと、ときどき泣いてしまうの。でももう大丈夫だから。専務のことね。善しにつけ悪しきにつけ、専務と出会ったのが、あたしの人生の分岐点ね。だけどとにかく、嫌いなの」
「わかりました、小夜子奥さま。もう口にいたしません。どうぞごあんしんください。それより、みなさんはいかがだったのですか?」 と言いつつも、千勢の中では竹田のことを聞きたいのだ。会社での竹田のことを知りたいのだ。
「そうねえ、竹田はねえ。竹田は、暗いわね」
 ぞんざいな口ぶりで、口にするのもはばかられるとばかりに、一刀両断に切り捨てた。なぜか、千勢に竹田のことを話したくない小夜子だった。

「それより、服部よ。もうだれ彼かまわず声をかけまくってたわ。
何かといっちゃ体にさわって、大騒ぎするの。女子社員が逃げ回っていたわよ。でも人気者ね、案外。服部の背中を叩いていたもの、みんな。叩きながら、会社中を走り回ってたわ」
「はあ、はあ」と気乗りしない様子で聞きいる千勢であり、竹田の話が聞けなければまるで興味のない千勢だ。しかし小夜子はなおも話しつづけた。
「それにくっついてはしゃぐのが、山田ね。山田もひとりだと静かなんだけど、服部に便乗するみたい。でも、山田にはお目当てがいるみたいよ。その子の顔色を窺いつつというのが、手に取るように分かったわ。名前が分からないけど、まあ美人ね。ちょっとつんとした感じで、スレンダーガールね。スレンダーは、痩せてるってことよ。そうね、モデルさんタイプかな? そう言えば、竹田もちらりちらりと盗み見してたような……」
 とたんに千勢の体がピク付いた。顔もすこし引きつっている。「そ、そうなんですか。美人の社員さんなんですね。竹田さん、やせてるひとがお好きなんですね」
 無理にだす高い声は、明らかにふだんの千勢の声ではなかった。

(二百七十五)

「三羽がらすって言われてるらしいけれど、竹田はもの静かね。でも、みんなの信頼は厚いみたい。おちゃらけがない分、落ち着いているものね。武蔵の信頼が厚いのは、三人の中では竹田みたい。あたしの世話係を命じられたのは、「一番ひましてるからですよ」なんて、他のふたりは言ってたけれど、違うわね。それはふたりも感じてるみたいだけど。専務の次ぐらいじゃないの、信頼度は。金銭の出し入れを、徳子さんとふたりでやらせてるのからしても分かるわ」
「そういえば、いちど聞いたことがあります。加藤せんむとおふたりでお話しして、すみません。口にしてしまいました」
「専務ってことにして。加藤という名前は、他にもいやなお家があるから」
「はい。おふたりでお酒をのまれながら、旦那さまがおっしゃってました。『俺に息子ができたとして、あとを継がせたとしてだ。息子のご意見番は竹田だな。あいつだったら安心だ、任せられる。俺に五平が居るように、息子には竹田だ。五平、しっかり育ててくれ』と」
「ふーん。そんなことを言ってたの。竹田をねえ。でもタケゾーったら、そんなことを専務と話してるの? いやねえ、もう。他には、どんなことを話してるの? 女の話なんかも、してるの? 良いのよ、結婚前のことなんだから。タケゾーの女ぐせの悪さは、千勢、あなたより知ってるかもよ。だって、出会いがキャバレーなんですもの。はじめは、あたしもその他大勢のなかの女だったんだから」
 自嘲気味に話す小夜子にたいして、「とんでもありません!」と、口をとがらせて千勢が言う。
「小夜子奥さま、とんでもないです! 小夜子奥さまは、はじめからとくべつでしたよ。なにせあの専務さんが口すっぱく言われてましたから。『タケさん。あの娘は特別ですって。あの娘だけは、大事に扱ってくださいな。今はまだ原石ですが、とにかく壊れやすいヒスイの玉ですからね。そこらの女と同じように扱っちゃ、絶対にバチがあたりますって。頼みますよ、ほんと』。それで、旦那さまがおっしゃるには、『分かってるよ、五平。はじめは半信半疑だったが、たしかに小夜子は良い女になるよ。楽しみにしてるんだよ、俺は』」
「ふーん」。満更でもない風に聞き流す小夜子だが、気を許すと頬がゆるんでしまう。千勢もまた、顔が崩れっぱなしだ。赤らんだ顔をしている。竹田が褒められることに、嬉しさを覚える千勢だ。いつだったか、冗談混じりに武蔵が言った。
「千勢。竹田の嫁さんになるか?」
 そのひと言が、いまも千勢の胸のなかに残っている。ズキン! と胸の痛みが残っている。武蔵にしてみればただの冗談で、酒の上でのざれ言にすぎない。それが証拠に、いまではすっかり忘れてしまっている。千勢のそんな思いなぞ、とんと気付いていない。竹田の話になると途端に、千勢の目がかがやき身を乗りだしてくる。