(二百五十六)

 小夜子が戻る十日ほど前のことだ。会社に戻った武蔵を待ち受けていたのは、社員たちからの非難の声だった。ニヤつきながら、リーダー格の服部が言う。
「社長! どうしておひとりなんですか? 小夜子姫はご一緒じゃないんですか? 早くもどられるよう、電報を打ってくださいよ」
「分かった、わかった。お前ら、小夜子が俺の恋女房だってことを……。やめた、やめた。小夜子は、富士商会のお姫さまだ。それでいいや。で、家に帰れば俺の恋女房ってわけだ」
 式後の武蔵は、前にも増して商売に精をだした。持てる財をつかい果たしたということもあるが、それよりも事業欲がムクムクとわきだしていた。ひとり小夜子を残して会社に立ちもどった武蔵は、
「新婚旅行に出かけられるんじゃ?」と言う五平に、
「そんなものは、いつでも行けるさ。猛烈に働きたいんだよ、いまは。すかんぴんになっちまったことだしな」と、笑った。
 昨年早々のことだ。
「社長。東北の名産品あたりを、バイしてみませんか? 細いながらも伝はありますが」と、進言する五平に対して「いや、まだいい」と、腰を上げなかった。
「面白いと思うんですがね。そろそろ嗜好品を取り扱ってもいいんじゃないか、なんて考えたりしているんですが」と、なおも食い下がる五平に「まあ、その内にな」と、にべもない。なぜ東北物を扱わないのか、いや東北地方の話そのものを嫌がるのか、武蔵の心底が分からない五平だ。
 直感的に武蔵の判断で事のぜひを決めることもありはした。商売の流れとして、即断即決を迫られることは珍しいことではない。しかしその後、五平に「どう思う」と声をかけていた。が東北物については、それがない。是ほどまでにかたくなな武蔵はついぞ知らない。

 その武蔵が、「五平、三日以内に東北の名産品をリストアップしてくれ」と、告げた。
「待ってました!」と、すぐさま武蔵の前に資料を出した。
「なんだ、おい。手回しがいいな。そう言えば、去年だったか、やいのやいの言ってたな」
「今かいまかと、待ってました。良いのがあるんです、南部鉄器なんて最高です。鉄瓶やら鍋もですが、風鈴が良いんですわ。リーンってね、高い音がひびくんです。和むんですわ、気持ちが。ダダダ、ドドド、カーン、コーンってね。復興も佳境に入ってますからね。どっと復員兵も帰ってきましたし、散々にやられた工場なんかも再建できました。殺伐とした時勢も落ち着きはじめましたし、そろそろだろうと思ってるんですが。社長の目にはどう映りますか? 仕事から帰って一杯やってる時にですね、リーンなんて、おつなものだと思うんですが」
「家にぶら下げてるのか? で、耳を澄ませてるってわけか? まさか目をつぶってるんじゃないだろうな。ニヤニヤってか……。そんな五平なんて、あんまり見たくねえな」
「いやいや、社長。これがまた、いちど試して……。要らねえや、社長には。小夜子さんて言う観音さまがおりなさる。失礼しました。しかしですね、社長。独り身もいますからね、けっこう」
「そう言うことだ。五平、お前も所帯を持てよ。しかし、五平の言うことにも一理ありそうだな。どこか当てがあるのか? まわってみるか、いっちょう」
 資料に目を落としながら、怪訝な表情を見せた。

「おい。北海道はどうした? 青森までしかないぞ。まさか青函連絡船だからやめたなんていうんじゃないだろうに。陸つづきじゃねえからなんていうなよ。どうせなら、全国総ナメと行こうや」
「分かりました、すぐにも調べます。ところで社長、なんで東北はだめだったんで? 手が回らなかったと言えばそうなんですが、らしくないと思ってたんですが」
「いや、どうということはないんだ。まあ、ただなんとなくでは、納得できんだろうな」
「らしくないです、まったく社長らしくない。まさか方角がわるいなんて言いませんよね」
「田舎には良い思い出がなくってな。あやうく間引きされかかったんだよ。母親の乳の出がわるくて、虚弱体質に育っちまってな。ひょろひょろだったよ。いま風に言えば、聞くもなみだ語るもなみださ。お涙ちょうだいものよ」
「そりゃあ、ご苦労なさったんですねえ」
「こらっ! 殊勝なことをいいやがって。本心からそう思っているのか? だとしたら、五平。お前とも、本日ただいま、きょう限りだぞ」
「へへへ、すみませんです」
「まったく……。おまえだって似たようなものだろうが。だいいち、日本全国そこかしこで聞ける話だろうに。『おれはなんて不運なんだ』なんて考える奴は、だめだ。世間さまを恨むやつに、ロクなやつはいない」
「まったくその通りで。お情けにすがって生きる奴は、死んだ方がましですよ」
「そこまで言ってやるなよ。どうしようもない事情ってのもあるんだ、世の中には。そういうお方には、静かにしててもらうさ」

(二百五十七)

「ところで、今夜はどうしますか? 繰り出しますか、久しぶりに。電話が入ってましたよ、梅子姐さんから。新婚旅行の土産を待ってるから、帰ったらお出でと」
「いや、しばらくは欠勤だ。すかんぴんなんだぜ、いまのおれは。大人しくしてるさ、お家で。小夜子がいない、寂しいお家でな」
「らしくもない、らしくもない。それじゃあたしがお相手して、一杯やりますか? 女っ気なしの酒盛りでもしますか?」
「いいなあ、そいつも。開店当時を思い出しながらやるか?」
「それより、まびき話を聞きたいですよ」
「ああ? おれのエレジーものを、酒の肴にしようってのか?」
「おふくろがな、泣いてたのんでくれた。しまいには、台所で、包丁を首に当てての懇願だったらしい。そのおかげで命びろいよ。けども乳が出ないってのは、赤子にしてみりゃ死活問題だ。おまんまなんだから、赤子の唯一のな。で仕方なく、もらい乳だ。ところが間がわるく、ご近所にだれもいないときてる。で止むなく、米のとぎ汁ということだ。とぎ汁が乳代わりだったんだぜ」
「それはなんぎなことだ。おふくろさん、さぞ辛かったでしょう」
「だろうな。鳥越八幡宮って知ってるか? 山形の新庄市なんだが。武運長久のご利益があるらしい。お袋がな、お百度参りしたらしい。兵隊になるんじゃないぞ、なんとか育ちますようにってだ」

「しかしいまじゃ、この頑丈さだ。どういうことで?」
「盗みに走っちまったよ。とにかく腹ぺこだ、手当たりしだいだったよ。近所じゃ顔を知られててまずいってんで、となり町に遠征さ。んでもって、走った。店先から盗んでは、一目散に走った。とっつかまったら、こっぴどく叩かれるからな。足の遅いやつはいっつもだ。あんまり可哀相なんで、そいつに少し分けてやったよ」
「社長の親分肌は、その頃からですか。しかも、あのご時世なのにだ。子どもの食い物まで取り上げた親がいた、なんて話がめずらしくもなかったのに」
「いやいや、ガキのやることだ、お目こぼしだったんじゃねえのか。すぐに追いかけるのをあきらめちまうのは」
「そりゃ、あれですって。店を空っぽになんか出来ませんて。それこそ、根こそぎ盗まれちまいますよ。子どもだけじゃなく、大人だって腹を空かせてたんですから」

 その夜、縁側にすわり込んで半欠けの月をながめながらの、ふたりだけの酒盛りがつづいた。普段は家中に灯りを点けている――少しでも暗がりがあることを嫌がる小夜子のためにだった――が、今夜は広い家ではなく、掘っ立て小屋に居していたころを懐かしんで、居間のひと部屋だけに灯りを点けていた。それも豆電球だけだ。
「そとみには誰もいない留守宅に見えているでしょうな」と五平が笑う。
「泥棒でも入ってくるかもな」と武蔵が返す。
「そしたら、タケさん、そちらにお任せしますんで」
「いや。親分さんにお願いしようじゃないか。それともGHQか?」と、ふった。
 互いの顔を見やりながら高笑いをする。真っ暗な家からのその声は、不気味にとなり近所には聞こえた。ガラガラと窓やら玄関が開けられる音がして、ひとり庭先の生け垣からのぞき込む者もいた。そして縁側で酒盛りをするふたりを見つけ、「おどかさないでくださいよ」と声をかけてきた。
「終戦直後を思いだしましてね。どうです、いっぱい?」
「いやいや。おっかないのがいますんで」

「久しぶりのことだな、五平。こうやってふたりでカストリを飲んだよな」
「うーん、なん年になりますかね。十、年は経たないか。店を立ち上げた、あの夜以来じゃないですか。たしか、いつもの二十五度じゃなくて、いきなり四十度なんて代物に手を出して。喉はひりつくし、胃はひっくり返るし。それから頭がガンガン鳴って、死ぬかと思いましたよ。まったくタケさんの冒険心にゃ、付いていけません。あ、タケさんなんて呼んじまった」
「いいよ、いいじゃないか、タケさんで。会社ではまずいが、外に出たら、タケさんでいいよ。おれたちの間にゃ、上下なんてねえんだから。おれもな、ちょっと反省してるんだ。会社では、五平じゃなくて専務とよばなくちゃならんとな」
「へへ。こそばゆいですよ、専務なんて。やめてくださいって。といっても、はいて捨てるほどいますがね、日本中に」
「なに、言ってる。そこらの専務とは大ちがいだ。なんてったって、富士商会株式会社の専務さんだ。大企業とは言わんが、優良企業だぞ、うちは」

(二百五十八)

 そして翌日、思い立ったが吉日とばかりに、武蔵の姿は岩手県の水沢の地にあった。おりからの激しい雨に、駅舎で立ち往生してしまった。なんだ、なんだ、幸先がわるいぞこれは=B舌打ちする武蔵に、
「どうされました、旦那さん。どなたかとお待ち合わせですか?」と、女が声をかけてきた。三十代後半とおぼしき女で、着物姿のえりから、久しくかいでいない色香がかもしだされている。萌葱色の着物に赤褐色の帯がアクセントになっている。
「いえ、ちょっとね。この雨にね」
「それは、お困りですね。お仕事ででも、いらっしゃいましたのですか?」
 やけに馴れなれしく話しかける女だと怪訝に思いつつも、凛としたその風情にすこしばかり浮気ごころを動かされる武蔵だ。小夜子と離れてまだ十日だと言うのに、女っ気がなくなった武蔵のこころにざわめくものが出てきた。
「はい、仕事です。こちらでの名産品をね、東京で売ってみようかと考えましてね。当てがあるわけでもないのですが、取りあえず飛び出してきたわけです」
 いちいち用向きまで話す必要などないのだが、女に興味をおぼえた。わざわざに東京でなどと付け加えたところは、女に対する見栄が芽ばえている。さらには、あてもなくなどと誘い水まで用意して。
さあ、どうだい? 食いついて来いよ。こっちのみーずはあーまいよ、ってな

「左様ですの、それはそれは。では、今夜のお宿、まだお決めになられてないのですね。よろしかったら、ご案内いたしますが。まずはひと休みなされて、それからごゆっくりとお探しになられましては如何です? 申しおくれました。わたくし、この水沢にあります高野屋旅館の女将で、ぬいと申します」
 よどみなく話すぬい。旅館の女将と聞いて、得心する武蔵だ。
女将自らの客引きとは……。すたれかけの旅館か? それとも俺に興味を持っての、お誘いか? なんにしても、取りあえず案内させるか。気に入らなきゃ、やめればいいだけのことだ
「旅館の女将さんですか? そりゃ助かる。はじめての地なんで、宿はさっぱりです。食堂かどこかで紹介してもらおうと考えてはいたのですが。いやいや、助かります。しかしなんですね、得体の知れぬこんな男に声をかけられるとは、女将も豪気ですなあ」と、探りを入れてみた。
「なにをおっしゃいますか、得体の知れぬ男だなどとは。その身なりを拝見させていただければ、しっかりとした会社の方。ひょっとしまして、間違っておりましたらごめんなさい。社長さまだとお見受けいたしますが?」
 これには武蔵も驚いた、世辞での社長呼ばわりではない。確信を持ってのことばのようだ。
この女、案外かもしれんな。これは面白い。深入りしてみるかな、ひとつ
「いやいや、これは驚いた。たしかに小さな会社ではありますが、社長職をつとめています。わたしも多々出張で宿をとりますが、ずばり当てられたことはありませんよ。高野屋さんですか。うん? ひょっとして、蘭学者の高野長英のご子孫だったりしますかね? ハハハ」

「あらあら、ありがとうございます。ご高名な高野長英先生のお血筋だなんて、光栄の至りですわ。それにしましても社長さまのお洋服、この辺りではついぞ見ませんお仕立物ですもの。だれでも、分かりますわ。あたくしは、このとおりの雑な女ですから。思ったとおりのことを、すぐに口にしてしまうのですよ。でも気持ちの良いお方で、幸いです。お客さまにお声をかけるなど、あたくしもはじめてでございます。あまりに立ち居お姿がよろしかったものですから、つい。思いも寄らぬことでございますわ。旅館業など素人同然のあたくしですので、なかなかに」と、軽く受け流された。
 熱海の女将光子とはちがった雰囲気をかもし出している、女将のぬい。武蔵の虫が、ざわざわと騒ぎ立てている。しかし新婚十日目の武蔵だ。いかな武蔵でも、しばらくは大人しくしていようと思う。思いはするのだが、むくむくと戸籍上は新婚だが、実体は長いからなあ。小夜子が転がり込んでから、なん年になるんだ?≠ニ、一、二、と指をおりはじめた。
「着きましたわ、旦那さま。あらあら? なにを数えていらっしゃるのです?」と、女将が声をかけた。
「え? いや、なんでもない。女将のね、年勘定をちょっとね」

(二百五十九)

 駅からの道々、およそ二十分ほどをふたり並んでの道行きとなった。これといって見る景色はなかった。駅からまっすぐに伸びる本通りにしても、土産物屋ひとつあるわけでもなし、食堂もまたない。普通に人家が並んでいる。これでは宿を探すどころではなく、立ち往生の可能性もあったわけだ。行き交う人もまばらで、すれ違うたびに会釈をしてくる。その都度、女将がかるく会釈をかえしていく。
「顔が広いんですな、さすがは女将だ」
「小さな町ですから、ここは。みな、知り合いばかりです」
 右手に見える連なった山々を、「あちらが北上高地でして、反対の山々が奥羽山脈でございます」と、着物の袖をすこしたくし上げて指さした。白い肌がほんのりと桜色に色づいている。ほっそりとした手の指が、どこかで見た花のように思えた。手の甲から四方に向かっててんでばらばらに飛び出している――曼珠沙華の花びらに見えた。
 土塀に沿って歩き角を曲がったところで、門柱二本に切妻の屋根をかけた棟門があらわれた。
「着きました、どうぞお入りください」
「お帰りなさい、女将さん」
 竹ほうきで石畳をはいている若者が声をかけてきた。武蔵の目には雑なはき方に見えた――中央あたりを力任せにはき、ただ単に両端にかき分けているように見えた。戸口をまたぐと、同じように両端にごみが寄せられているように見えた。その反面、上がり口は磨き込まれていた。
ここまではいただけないが、中はいいじゃないか。キチンと掃除も行き届いているし、壁の一輪挿しも見事なものだ

「お帰りなさい、女将さん。ああ、お客さまですか?」。玄関口を掃除中の老人が、手をとめて女将を見る。
「治平さん、ただいま。旦那さまがね、この雨に駅舎で立ち往生なさっておいでだったの。でも、恵みの雨でした。こうしてお客さまになっていただけたのだから」
 奥から手ぬぐいを持って、若い仲居がドタドタと走ってきた。
「これこれ、おたまちゃん。そんな走ってはいけませんよ。申し訳ありません、躾がなっておりませんで」
「うん、なになに。若いんだ、仕方ないですよ」
 口ではそう言いつつも、心内では宿選びに失敗したかと舌打ちした。どうする? 引き返すか? ここで上がってしまえば、戻れないぞ=B逡巡のきもちが湧きはしたが、ぬいのえりあしの色香が思い出された。
 若い仲居が、ぼーっと立ちすくんでしまった。この地ではなかなかに出会うことのない美男子の武蔵だ。ぬいの目にも、それは同じだ。しかも上客だ。仕事関連とあれば、連泊になるに違いない。しかもまた日を置かずしてくるはず、はじめての地といったことばが嘘とは思えない。なんとしても常連客にしたいと考えている。色気で釣るつもりはないけれども、表情が柔らかくなるのは当たり前だ。つい、艶めかしい目つきで、武蔵を見てしまう。
 武蔵は武蔵で、据え膳食わぬは、男の恥だ。女の方から言い寄ってくれば、そいつは別だな。女に恥をかかせるわけにはいかんぞ≠ネどと、勝手なことを思いめぐらせている。

 部屋はたしかに古くはあるが、歴史といったものを感じさせてくれる。これが、風情というものか。床の間の生け花も、心を和ませてくれる。あたしってきれいでしょ! と威張る風でもなく、溶け込んでいるように見えた。
「女将さんは忙しいだろうかな? 手が空いていれば、来てもらいたいんだが」と、告げた。
「女将さんですね? すぐにも来させますので、少々お待ちください。他になにかご用がありましたら、お声をおかけください」と、表情をくずすことなく部屋をでた。
おっとしまった、俺としたことが。心付けを忘れてた。だから仏頂面か。ま、いいさ。しかし好きだぜ、俺は。正直で良いや。女は賢くなくても良いのさ、色香もいらねえ。男が女に求めるものは、なんといっても安らぎだ。ほっとできる時間を作ってくれる女がいい。外に女を囲うのは、一にも二にも、その為だわさ。女房には求められねえアホさ加減を、男は求めるんだから。といって、そんな女を女房にはできない。対外的にまずい。妻を娶らば才たけて、見目麗しく情けあれ、だ≠ニ、ひとりにやつく武蔵だ。

(二百六十)

 仲居が部屋をでると同時ぐらいに「御手洗さま、失礼いたします。女将のぬいでございます」
 カラカラと格子戸の開く音がして、襖がすっと開いた。外で待ち構えていたのか、それとも仲居のもてなし度をみていたのか、すぐに女将がはいってきた。
「やあやあ、すみませんです。お忙しいだろうに、女将を呼んだりして」。大仰な手振りで、女将の手をとる武蔵だ。
ほお、これはこれは。華奢に見えたが、どうしてどうして。細い指ではあるけれども、結構力があるぞ。握り返してくるこの感じ、中々のものだ
「とんでもございません。なにか粗相をしていないかと心配になりまして。あらためまして、本日は当高野屋旅館にお出でいただきまして、誠にありがとうぞんじます。誠心誠意、つとめさせていただきます」
「なになに、美人の女将のお誘いだ。断ったりしたら、罰があたると言うものです。じつは女将を呼び立てしたのは、ほかでもない。当地の特産品についてね、ひとつご教示願おうかと思って。道々でお話したとおり、東北の特産品をあつかうことに決めたのです。そこまでは良かったけれども、とんとブツが思い浮かばない。それにもまして、一体全体どこに行けば良いのかと思案中です。とりあえずは役所にでも駆けこもうかと考えてはいるのですが、軽く見られるのも性分からして許せないですし。下調べもせずに来てしまったことが、すこし悔やまれているんですよ。今回は勇み足だったかと、後悔の念が湧いてき始めているんです。助けてもらえませんか、是非に」
なあに、目星は付けてあるんだよ。でもまあ、女将と話がしたくてね。それで呼んだけれども、さてとどうするか? 仕事のことは早めに切り上げて、艶っぽい話でもしようや

「あらあら、あたくしのような素人に教えを請われるなんて。社長さま、案外無鉄砲でございますね。それとも、おからかいになられてます? そのお顔からして、大体の目鼻をお付けになられているのでは? でもまあ、承知致しました。鉄器類を扱わられるおつもりでしょうから、見知りおきの工房をご紹介させていただきます。それに、こけしなどはいかがでしょう? キナキナこけしが当県産でございますが、お隣の県ではございますが、宮城の鳴子こけしなどもお宜しいかと思います。失礼いたしました。キナキナと申しますのは、頭の部分がくらくらと動く人形でございます。
 東北では赤子のおしゃぶりとして、出産祝いなどに大変重宝されておりますよ。農民たちが一年の疲れを取るためにと温泉に出かけた折の、子どもたちへのお土産物として作られております。懇意にしております工人がおりますので、是非そちらにもお立ち寄りください」

やっぱり見透かしていたか。ましかし、工房やら工人と懇意にしていてくれるのはありがたい。こけしの職人を工人と呼ぶのは知らなかった。女将の人脈は、相当のもののようだ。それとも案外、発展家なのか? 顔立ちからは想像もできないけれども
 きつね顔のほそ面で、浮世絵に多い顔立ちだ。ビードロをふく女に似ているんじゃないか。喜多川歌麿だったかな。おれの好みとしては、丸顔の大っきな目なんだが。でもないか。守備範囲は広いからな、女に関しては≠ニ、いろいろと頭のなかで詮索していた。
「失礼ながら、女将。あなたは素人さんに見える。仕事柄いろいろの宿を知っているが」
 武蔵のことばを遮って、ぬいが笑みを見せながら語りだした。
「社長さまには包みかくさず申し上げますが、あたくし旅館経営などまったくの素人でございまして。先代の女将が急死したものですから、やむなく跡を継いだのでございます。いち時は閉館とも考えたのでございますが、亡くなりました主人の遺言もございますし。いえいえ、主人は病死でございます」

(二百六十一)

「お花、お好きなのですか?」。じっと花に見入っていた武蔵に、ぬいが声をかける。
「いや、それほどでも。美しい花がでしゃばることなく、ただそこにあるといった感じなのでね。見惚れてしまったんです。どちらかというと」
「どちらかというと、なんでございましょう? 分かりました、花より団子でございますね?」
 武蔵のことばを遮って、ぬいが言う。相変わらず、にこやかにぬいが言う。これは女将としては失点ものだ。客のことばを遮るのは御法度だ。客が話し終えるまで待って、その真意をしっかりとつかみ取って、それからのことにしなければならない。客に不快感を与えるのは、下の下となる。
 武蔵もひとつ見落としている。この地が有名観光地ならばいざしらず、名湯と称される温泉を有しているならばいざしらず、観光客であふれる他の観光地からの流れ客が多いこの地だ。客との間に壁を作ってはならない。仲居たちのどこかそそっかしく思える動きも、どこにでもある家庭でのことと思わせたいのだ。堅苦しさを感じさせない、まるで親戚もしくは実家に戻ったかのような錯覚を起こさせたいと考える女将だった。
 近所のおじさんおばさん、そしてその子どもたちと接しているかのように振る舞っているのだ。親しい間柄となるべく、またあのおばさんに会いたい、そう思わせるべくの会話なのだ。しかし武蔵とは、ちがった意味での掛け合いが楽しくてならないぬいだった。

「はずれです、女将。そりゃ料理も気になるが、ぼくが一番に気にするのは、なんといっても女将です。顔ですからな、旅館の。女将が気持ちの良い女かどうか、それを一番に見ます。そう、旅館の華ですよ」
「あらまあ、怖いことを。で、あたくしはいかがでしょう? 及第点はいただけますでしょうか?」
 上目づかいで問いかけるぬい。意識してか、無意識なのか。武蔵のこころをざわつかせる。
「ほぼ満点に近いですな。女将としては少々疑問符が付きますが、女として満点です。気持ち良くさせてくれる。大事なことです、これは。女将としては満点でも、人間がギスギスしていては大減点です」
 武蔵にお茶を勧めながら、自身も口を濡らした。
「そうですね、女将としてはまだまだでございますね。言い訳がましくはございますが。宅は胸を病んでいたのでございますが、戦時中に他界いたしました。戦地におもむくこともなく、肩身のせまい思いをしながらのことでございました。そしてまた、宅を追いかけるように先代の女将が他界いたしまして。女将業の修行途中でございます。さぞや無念のことと思います。ですが、残された方はたまりませんですわ」
 ころころと笑いながら話すぬい。暗さなど、微塵もみせない。
「あたくしの父は銀行員なのですよ。いまは退職して、悠々自適の生活をおくらせていただいておりますけれども。支店長時代に、この旅館に融資をしたことがありまして。で、そのご縁で嫁いできたようなわけでございます。まったくの世間知らずの女なのでございます。ですが、気持ちだけはありますの」と、意気軒昂だ。

「そうですか、女将ひとりでの切り盛りですか。まあ、こういった客商売では、女将の力が大です。男なんて、髪結いの亭主同様に、刺身のつまみたいなものですよ。へんに表に出しゃばってくるのは、だめです。あくまで裏方に徹しなければ。縁の下の力持ちの役割に甘んじなきゃ。あ、こりゃ失礼。故人におなりだったんだ。失礼、しつれい。一般論として話したつもりなんです。他意はありませんから」
 女将が後家だと知った武蔵、饒舌さに拍車がかかる。
「ところで女将。この旅館の売りはなんですか? こいつは大事なんです、案外に。閑静だとか、庭が美しいとかです。老舗旅館というのは、売りにはならない。そう! 料理が美味いとか、珍品が食べられるとかなんかも良いですな。湯はどうです?」

(二百六十二)

 疑問符をつけた武蔵の言いぐさに、毅然としてぬいが答えた。
「もちろんでございますとも、立派な露天風呂がございます。さついわい今夜は、社長さまの貸切状態でございますよ」
 胸を張って小鼻を膨らませて、意気込むぬいだ。
「あらまあ、あたくしとしたことが。幸いだなんて、とんでもないことばをつかってしまいました。あたくし共にとっては、よろしくないことですのに」と、ひとりはしゃぎ回るぬいには、武蔵も呆気にとられてしまう。笑みを絶やさぬぬいに、武蔵も脱帽だ。したたかな商売人なのか、はたまた楽天家なのか、武蔵にも判然としない。
仕事の話じゃなく、艶っぽい話をするつもりが。俺が熱くなってどうするんだ。どうにも、この女将を応援したくなってくるから不思議だ
「失礼だが、少々改修が必要なようだ。造りは良いのだから、すこし手を入れるだけでずっと良くなる。庭なんか、じつに見事じゃないですか。キチンと手入れがなされている。山水画風のたたずまいは、中々のものだ。詳しくはないけれども、ぼくは好きです、この庭が。そして気持ちがこもった接客をつづけていけば、大丈夫! 大繁盛まちがいなしですよ」

 窓から庭を見ながら、満足気に頷く武蔵だ。お恥ずかしゅうございますと応じるぬいに、なにが恥ずかしいのか? と、小首をかしげる武蔵に
「主人が石集めが好きでして。ただゴロゴロと転がっているだけでしたのですが、たまたま碁会所で知り合った庭師さんと、主人が意気投合いたしました。そのご縁で手入れをお願いすることになりました。社長さまにも、お気に入っていただけたようでなによりでございます」

「ところで女将。露天風呂は、ぼくの貸切りみたいなものですね?」
「左様でございます、ごゆっくりお入りください」
「女将と一緒できたら、一生の思い出になると思うんだけれども。どうにも男と言う者は仕方がない。きれいな花を見ると、つい手にとってみたくなる」
 女将の顔をうかがいつつ、探りを入れてみた。
「まあまあ、嬉しくなることを仰られて。あたくしも社長さまと、湯船で差しつ差さされつとまいりたいもので。お酒はお強いのでしょ? あたくし下戸なくせに、大好きでございまして。酔いましたら、介抱してしていただけますでしょうか?」と、色香たっぷりにぬいが言う。
「もちろんです、女将。とことん介抱させてもらいます。しかし女将、そんなことを言いつつも、案外底なしのうわばみじゃないのかな? 東北人が下戸だと言われても、とてものことに信じられないことだからね。まあいい、それは今夜わかることだし」
「あらあら、社長さま。今日の今夜というわけにはまいりませんわ。こんやはあいにくと先約がございまして。旅館組合の寄り合いがございます。それにあたくしも一応は、女の端くれでございます。物事には順序と言うものがございますわ。それに、こころの準備もいたしませんと。ということで、次回のお泊り時にでも。その折をこころ待ちにしております」
 やんわりと断るさまは、実に堂にいったものだ。

(二百六十三)

「いや参った、うまく逃げられてしまった。次回の宿泊時には、他の客がいるからとかなんとか、そう言って逃げるわけだ。そして次々回の泊りを期待させるわけだ。女将、この手でなん人の常連客をつかんでいるんだい」
「あらあら、なにを仰います。こんなあたくしにお声を掛けてくださったのは、社長さまだけですわ。相当にお遊び慣れてらっしゃるのですね。社長さまこそ、いく人の女将を口説き落とされたのでございますか? でも後家の炎は、激しく燃えますわよ。奥さまのご機嫌を損ねるようなことになっては申し訳ないことですわ。本気が混じりはじめたのか、などと期待させる。そんな手練も武蔵にはおもしろく感じられる。
「うん、新婚さんだ。まだ式を挙げてから、一週間と経っていない。新婚旅行をあとまわしにしての出張です。それとも、女将に出逢わさせるための神様のいたずらか? そりゃ、冗談だけどね」と、悪びれる風もなくこたえる武蔵だ。
「ほんとに憎らしいお方だこと。ドンファンと言うことばは、きっと社長さまのために遠いフランスから入ってきたのですわ」
 武蔵の二の腕を軽くつねるぬい。武蔵はここぞとばかりに、大仰に痛がってぬいの指をからめとった。
「うん、きれいな指だ。女将の指は、こうでなくちゃいかん」と、手の甲をさすり始めた。

「けれどね、女将。新婚だからって、他の女性に気をとられちゃいかんという法はない。床の間で見る美しい花があったとしても、外で見る美しい草花を愛でてはならぬという法はない。浮気は、男の力の根源だよ。神代のむかしから己の子孫を残す行為は、連綿とつづいているんだから」
「あらあら、社長さま」
 つい熱弁になってしまう。今夜同好ではなく、この女将とは情交を交わすことはないかもしれないと思いはじめた。会話が楽しい女だな、と思った。
「女将は、あらあら、が好きだねえ」
「あらあら、申し訳ありません。使わないようにと意識しておりましたのに、また出てしまいました。親しみを覚えます殿方には、ついつい。お耳ざわりでございましたら、ご勘弁くださいまし」
「いや、勘弁できんね。やっぱり、夜の露天風呂を一緒してほしいよ。考えてみれば、ひとりで満天の星というのは……。ちと、淋しすぎると思うのだけれど。どうやら今夜のぼくは、日本一淋しい男になりそうだ。じつに悲しいことだ、じつに。いっそこの指を、がぶりといこうか。そうすれば女将に嫌われて、ぼくも観念できるかも」と、口元までぬいの手を持ち上げた。
「あのお、女将さん。ちょっとよろしいでしょうか」
 仲居のか細い声がする。ふたりの痴話話がとぎれることなくつづくために、中々声をかけることができずにいた。
「楽しくお話しているのに、なんの用なの? 急ぐ話なのかい?」と眉間にしわを寄せて、きつい口調で答えた。
女将さん、そんな。十分もしたら呼びにきてちょうだいっておっしゃったのに≠ニ、女将の指示のはずなのに、なんで叱られるのと不満な思いをいだいた。
「女将、そりゃいかん。早く行っておやりなさい。おふじさんだったね、悪かった。女将を長居させてしまったようだ」
「相すみませんことで。それではなにかご用がありましたら、なんなりとお声をお掛けください。失礼いたします」
 名残り惜しげな表情を見せる、ぬい。それが本心かどうか、武蔵にも判別できない。
こんやもひとりか。いや、待てまて。五平のまねでもするか。このおふじという女でも……
「おふじさんだっけ? 悪かったね、さっき渡すつもりが」と、いつもの派手な模様の千代紙につつんだ心付けを、おふじの手を両手でつつんで手渡した。
「あ、ありがとうございます。あの……」。ほほを赤らめながら、「あの、よろしければ、十時すぎでしたら。あたし、あがりますので、お背中でも……」と、武蔵の糸にからめとられてしまった。

 翌日から武蔵の動きがあわただしくなった。熱海の失敗からえた教訓として、個々の店なり工房等をまわるのではなく、その地の商工会をまずは訪ねることにした。東京商工会からの紹介状を当地の商工会にしめし、協力を得るようにした。名産品の売り込みを手伝うという商法には、複数の百貨店からの申し入れがありすでに一部の品は配送されている聞かされた。後れをとったと思いつつも、個人商店への売り込みやらを強調した。
「紀ノ国屋さんというお店をご存じですか? 東京に限らず、わたしどもは以西にも販売網を持っておりますし」と、なんとか食指を動かすきっかけを作ろうとした。
「南部せんべいがうまいとお聞きしていますが、全国展開はされておられますか? 関東一円には勝てませんが、中京地区、関西地区、九州地区なんかにいかがです? 美濃焼、信楽焼、そして有田焼等も扱っておりますので、現状よりもお安く提供できるかもしれません」
 商工会からの紹介となれば、むげな断られ方をされることもない。ある意味お墨付きのようなものなのだから、信用度も格段にアップする。熱海での商売が全国各地で通用することがわかったのは、富士商会にとって大きな飛躍の産物だった。